異世界転生で女神様から魔法チートを貰えるって聞いたのにッ!! 作:鶏心太郎
空にはまだ明るさが残っているのに、街灯がともり始める。
昔から、この時間が少し苦手だった。
昼でも夜でもない。何をするにも中途半端で、それなのに世界だけは、エンディングロールが流れ出す一歩手前のような顔をしている。
肩に食い込む
買った日に十二ページ読んだきりで、今日も開いていない。
悪い一日ではなかった。
朝から夕方まで
何も問題がなかった日ほど、何も残らなかったように感じる。
薄い
商店街前の
その前を通るたび、目が勝手に
何年か前には髪の毛ほどだったのに、今では指の先が入りそうなほど開いている。
塀の向こうの家は、俺がこの町へ来た頃から空き家だった。
柱は
このまま行政が
俺は昔から、こんなことばかり気にしていた。
年に一度、会社で危険予知の講習を受けさせられる。
現場の写真やイメージ図から、危険な
俺はいつも点数がよかった。写真の中の作業員が、それで助かるわけでもないのに。
塀の亀裂に気づいたところで、何かするわけでもない。
俺の仕事ではないし、報告する先もない。
それでも、直すならどうするか、段取りを考えることだけはやめられなかった。
いかん、今日の仕事は終わったのだから、別のことを考えよう。
最後に遠出をしたのは、たしか数か月前。
新しくできた
白の
また仕事に関連することを考えてしまった。
こうなったら建築と関係ない趣味に集中しよう。
週末にはTRPGの予定がある。
ファンタジー物の和製システムで、今の流行りではないが、学生のころから遊んでいる思い入れのある作品だ。
久しぶりに友人がシナリオを書いたので、テストプレイに参加してほしいとのことだった。
彼には、汗臭そうなガチムチ中年男性をNPCとして必ずと言っていいほど登場させ、ヒロイン的な扱いをするという
画面越しに数時間笑い、終わればそれぞれの生活へ戻る。
家に帰れば飯を食い、サブスクで新作のドラマやアニメを眺め、また別の誰かが作った世界に触れて眠る。
誰かの作った世界を、ほんの数時間だけ借りるのは楽しい。
楽しいのだが、どうにも自分の人生を生きている気がしない。
いつもうっすらと
そんな感覚が、頭の片隅から消えなかった。
明日も同じだ。明後日も、おそらく同じだろう。
そのようなことを考えながら歩いていると、いつもの妄想が始まった。
◇◇◇
もし、億万長者になったら。
もし、不老不死になったら。
もし、メジャーリーガーの息子になったら。
もし、学生の頃からやり直せたら。
もし、宇宙開発の研究者になる夢を、途中で
――もし、剣と魔法の異世界に転生したら。
この妄想だけは、他よりも鮮明に思い浮かぶ。何年も繰り返してきたから当たり前だ。
俺は魔法で流れを一時的にそらし、土を
妄想の中の俺は、思うがままに生きていた。
誰かに指示されたから動くのではない。
自分で課題を見つけ、自分でやり方を考え、自分の手で何かを成し遂げている。
条件さえ違えば、と毎回思ってしまう。
才能さえあれば。
機会さえあれば。
女神様が、特別な力でもくれれば。
俺だって、今のようにくすぶらずに済んだかもしれない。
そんな、
そのとき、妄想の中の空が白く光った。
妄想にしては明るすぎるな。
そう思ったときには遅かった。
◇◇◇
視界が真っ白になり、次の瞬間、世界がゆっくりと回った。
空。
電線。
家の屋根。
道路。
視界の端に、道路
薄く曇った丸い鏡に、トラックが映っている。
その前で、「く」の字に折れた男が
自分の身体を見ているはずなのに、鏡の中の男は奇妙なほど小さかった。
他人の事故映像を眺めているようで、現実味がない。
トラックの色は分からない。運転手の姿も見えない。ナンバープレートも読めなかった。
ただ、白い光だけが背景を埋め尽くしている。
ああ、と思った。
これは、たぶん、そういうことなのだろう。
最後に浮かんだのが、恐怖でも後悔でもなく、その程度の感想だったというあたりが、俺の人生をよく表している気がした。
◇◇◇
目を覚ますと、白い空間にいた。
どこまでも白い。床と壁の境目も、影も、遠近感もない。
近くを見ても遠くを見ても、同じ白さが同じ距離にある。
自分の身体さえ見えなかった。
手を上げたつもりでも、上げたはずの手は視界に入らない。
立っているのか、横になっているのかも分からない。
その空間の真ん中に、一つだけ、明らかに場違いなものが置かれていた。
俺が子供の頃に使っていた学習机だ。
ところどころに、消しカスが溶けてこびりついた灰色の汚れ。手前には、コンパスの針で開けた小さな穴が三つある。
退屈で仕方がなくて開けた穴だ。あとで母に見つかり、ひどく怒られた。
そのことは覚えているのに、母の顔はもうよく思い出せない。
二十年以上前に処分したはずの机が、そこにあった。
机の上には、自由帳が一冊置かれている。
表紙には、ひらがなと覚えたての漢字が混じった下手な字で、名前が書いてあった。
俺の字だ。
中身も覚えている。授業中に描いた、どこにもない町の地図。
川があり、橋があり、井戸があり、道の幅まで決めてあった。
城や竜は一度も描かなかった。描いたのはいつも村や都市の地図だった。
――白い部屋スタート。
――夢オチありきの、いわゆる脱出ものによくある形式。
――なるほど、ありふれたTRPGシナリオか。
「いえいえ、違いますよ」
頭の内側から声が聞こえた。
反射的に振り返ろうとして、振り返るための身体がないことを思い出す。
――誰だ?
「あなた方の言葉で表現するならば、女神でしょうか」
穏やかな女の声だった。右でも左でも、前でもない。
音として届くのではなく、文章がそのまま思考の中へ入り込んでくる。
――ここは、どこですか?
――俺は……死んだのですか?
「はい、そうです」
「あなたは、
――まあ、人並みには。
「そのようなものだと思ってください。要は、量産型転生もののシナリオライティングの
――急にメタなことを言いますね。
「まあ、そう言わずに」
女神は軽く笑った。
妙に人間くさい笑い方だった。
神という言葉から連想する
気さくな隣人と立ち話をしているような気安さがある。
死んで、白い部屋へ来て、女神が現れ、転生を告げられる。
俺が何百回も頭の中で並べた順番、そのままだ。
「おめでとうございます。あなたが生前、妄想し続けた異世界転生ですよ」
女神は、これから俺が行く世界について説明を始めた。
剣と魔法があり、中世に近い暮らしをしていること。
人間以外にも、知恵ある種族がいること。
いくつもの国があり、女神と、その下に神々がいること。
人間の使う魔法は、
空には月が二つあること。
俺が生まれる国と家族、新しい身体、そして与えられる特別な力について。
それで終わりだった。
物語の導入としてなら少し長い。
だが、人生ひとつ分の説明としては、あまりにも短くないだろうか。
一度とらえた読者を逃がさないためとはいえ、これではイントロダクションとして不十分で不親切ではないか。
仕方がないので、物理的に存在するかも怪しい、文字どおり無い頭をフル回転させ、情報を仮定することにした。
魔法の
月が二つあることも、異世界ならそんなものかと流した。
――国がいくつもあるって、どういう区切りなのですか?
――言葉は通じるんですか?
――文字は?
「そのあたりは、行ってから覚えたほうが早いですよ」
――宗教は? あなたが
――
「大丈夫です。あなたは信心深い方に見えます」
あまりにも投げやりではないか。「いい感じに仕上げといて」という発注が一番困るのだが。
少し考えて、まあ、そういうものかと
異世界転生ものの導入など、だいたいこんなものだ。
細かい事情は、現地で少しずつ知ればいい。
最初から全部説明される物語など、読者
設定資料集を読んでいるのでもあるまいし。
「あなたは、十歳ほどの少年として生まれ直します」
地方都市に住む
父親と数人の使用人がいて、暮らしに困ることはない。
命を狙われるような家柄でもないという。
「母親は、あなたをお産みになったときに亡くなっています」
――そうですか……
女神は、それ以上何も言わなかった。
さっき、俺は自分の母の顔を思い出せなかった。
新しい人生にも、思い出せる母の顔はないらしい。
――それで、俺は何をすればいいのでしょう。
――魔王でも倒せばよいのですか?
「いいえ。特に何も」
「世界を救えとも、誰かを倒せとも申しません」
「あなたの世界の知識や文化を広めていただいても構いません」
「あなたがよいと思うことを行ってください」
妙な話だ。力を与える側には、普通、何かしらの目的がある。
魔王を倒せ。教えを広めろ。世界を救え。
天から力を与えられた者には、たいてい使命が課される。
『大いなる力には、大いなる責任が伴う』というやつだっただろうか。
だが、そのときの俺には、使命がないことがただ嬉しかった。
「あなたに与えるのは、想像した現象を、そのまま魔法として実現する力です」
「あちらの魔法使いには
魔法のある異世界。
想像したとおりに使える力。
十歳の子供。
石材を商う家の息子。
母とは死別。
父と使用人のいる家。
使命はなく、前世の知識も持ち込み自由。
図面ばかり描いて生きてきた男の行き先が石を扱う家というのは、俺にとってあまりにも都合がよかった。
都合がよすぎるものには裏がある。
それくらいは分かる歳だ。だった、と言うべきか。
しかし、裏を読むには判断材料が足りない。
この短い時間で聞かされた説明だけでは、何をどう疑えばいいのかさえ分からない。
おまけに、これ以上は質問させないという圧のようなものを、さっきから感じる。
情報は出し切ったのでさっさと次の場所へ移動してほしい――そういうときのゲームマスターと同じ
検証できない現象について
……たぶん、そういう意味だったはずだ。
――分かりました。
「物分かりのよい人は好きですよ」
「ですが、次の人生では、もっと
胸に刺さった。
生前、何度も自分に言い聞かせ、そのたび実行できなかった言葉だった。
「では、早速――」
――待ってください。
「はい?」
聞きたいことは山ほどあった。
そのどこから手をつけるかで、今後の人生が大きく変わる気がした。
なにか重要なイベントフラグを引き出せていない気がする。
長年のTRPGプレイヤーとしての
――もう一度、あなたに会うにはどうしたらいい?
女神は、少し間を置いて答える。
「
思ったより簡単だ。
祭りなら日付が決まっているだろう。着いてから誰かに聞けばいい。
そう安心しかけたところで、先ほどの説明が一つ引っかかる。
――待った。
――月は二つあるって……
答えはなかった。
白い光が強くなる。
「では、お行きなさい。よりよい人生を送り、自分自身を――ひいては世界を、よりよくするのです」
――待って。まだ質問が
風もないのに、自由帳のページがめくれる。
真っ白だったはずの最後のページに、文字が浮かび上がる。
見たことのない図形だ。
線の引き方も、並び方も、俺の知っているどの言語とも違う。
それなのに、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
『起動を開始します』
◇◇◇
顔を硬いものにぶつけて、目が覚めた。
床だった。
先ほど口づけた床に手をつき、腕に力を入れる。
起き上がろうとして伸ばした手は、どう見ても子供のものだ。
扉が勢いよく開き、誰かが駆け込んできた。
中年の女性だ。何かを叫んでいる。
聞いたことのない言葉。しいて言えば、イタリア語やスペイン語に近い発音だろうか。
今まで日本語しかできなかったはずの俺にも、意味は分かった。
――坊ちゃま。
――ああ、お目覚めになった。
――誰か、
――お医者様を呼んで。
女性は手にしていた
洗顔用らしく、なみなみと張られた水が大きく揺れ、俺の顔に少し
明るい髪。十歳ほどに見える幼い顔。
目の形も、鼻筋も、口元も、これまで見慣れた自分の顔とは何ひとつ似ていない。
知らない異国の少年の顔だ。
それでも、見た瞬間に理解してしまう。
水面の少年が、俺と同じように目を見開く。
これが、俺の顔なんだ。