異世界転生で女神様から魔法チートを貰えるって聞いたのにッ!!   作:鶏心太郎

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第十話「渇き年」

 橋の工事が始まってから、帳場(ちょうば)に届く書付(かきつけ)が目に見えて増えた。

 

 石材の出荷、荷車の手配、人足(にんそく)の賃金、縄や木材の買い付け。

 父とハインは朝から現場と屋敷を行き来し、昼まで戻らない日も珍しくない。

 

 そのぶん、俺にも仕事が回ってくるようになった。

 数を写し、届いた書付(かきつけ)を日付ごとに分け、穴を開けて紐で()じる。

 

 手習(てなら)い自体は続いているのだが、最近は習っているのか、単に手伝わされているのか、その境目が怪しくなってきた。

 

 毎朝決まって届く書面の書き写しも、その一つだ。

 

 川岸に立てた水位標(すいいひょう)の数字と、前日に降った雨の量。

 それらを年ごとの帳面へ転記していく、簡単なお仕事である。

 

 前世の仕事で表計算ソフトに慣れ切っていた俺にとって、この手の作業はなかなかにつらい。

 以前ならショートカットキーとドラッグで済んだことを、今では羽ペンへインクをつけ、和紙に似た繊維の(あら)い紙へ、一つずつ書き写さなければならない。

 

 活版印刷(かっぱんいんさつ)そのものは、すでにこの国にも広まっているらしい。

 二十年ほど前に隣国で発明されて以来、急速に普及したそうだ。

 

 とはいえ、印刷機を持っているのは、それを生業(なりわい)にする商家(しょうか)くらいのもの。

 数枚あれば事足りる書面まで、わざわざ外へ頼むわけにもいかないらしく、こうしたものはいまだに手書きが当たり前だった。

 面倒ではあるが、重要な記録であることには変わりない。

 

 ――知識は力なり。

 

 前世でそう言っていたのは、誰だったか。

 なぜか口の中に燻製肉(くんせいにく)の風味が蘇ったところで、ハインから次の書付(かきつけ)が差し出された。

 

 これは少しくらい、仕事を任されるようになったと受け取っていいのだろうか。

 そう思って父やハインの顔を(うかが)ってみても、商人らしいポーカーフェイスを張り付けた二人の表情から、そのあたりを読み取ることはできずにいる。

 

 今日も昨日も、似たような数字が並んでいる。

 半ば惰性で筆を動かしていると、通りかかったハインが足を止めた。

 

若旦那(わかだんな)様。そこの記載が違っております」

 

 指されたところを見ると、一段上の数字をそのまま写していた。

 

「お気をつけください。その数字で、明日の積み荷が変わります」

「積み荷?」

(ひらた)ですよ。水が浅ければ、それだけ積む石を減らさねばなりません」

 

 (ひらた)は、川運に使う平底船だ。

 ラウテルの周辺には大小の川が多く、街道だけでなく水路にも荷が流れている。

 

「減らしたぶんは、次の便ですか」

「ええ。船の数が増えれば、そのぶん運び賃も増えます」

 

 書き直した数字へ目を戻す。

 改めて見比べると、今年の数字はどれも妙に小さい。

 

「今年は、去年よりずっと低くないですか」

「低いですな。今年は(かわ)き年ですから」

(かわ)き年?」

「水の少ない年を、そう呼びます」

 

 統合歴(とうごうれき)一四七四年。

 この世界で初めて迎える夏は、どうやら水の少ない年に当たったらしい。

 

 そこでハインが、ふとこちらを見た。

 

「しかし、よく去年の水位(すいい)をご存じですね。去年の帳面なら、もう地下へしまってあるはずですが」

「熱のせいです」

「なるほど。熱のせいですか」

 

 ハインは口元をわずかに緩めた。

 それ以上は追及せず、ちょうど別の机から声がかかると、何事もなかったようにそちらへ歩いていく。

 

 危なかった。

 

 ……いや、待て。

 最後のあの笑い方は何だったのだろう。

 

 もしかすると最近の俺は、「熱」に頼りすぎているのかもしれない。

 

 ◇◇◇

 

 その晩も、リーゼと資料室へ入った。

 

 冬のころは、扉を開けるたびに何か面白いものが出てくるような気がしていた。

 実際に並んでいるのは、請求書や証文(しょうもん)、誰かが誰かへ送りつけた苦情ばかりだ。

 

 春に見つけた橋の記録も、その一つだった。

 

 統合歴(とうごうれき)一四四二年に架けられた石橋。

 完成から五年後に橋脚(きょうきゃく)が傾き、その修繕(しゅうぜん)にかかる(つい)えを巡って、依頼主と施工(せこう)側が揉めている。

 

 あれから暇を見つけては、似た記録を探していた。

 

 橋、修繕(しゅうぜん)、傾き、ひび、崩れ。

 読める字を拾い、古い書体に当たればリーゼへ渡す。

 

 同じような記録は、さらに二件見つかった。

 

 一件は統合歴(とうごうれき)一四一一年。

 もう一件は一三八〇年。

 

 どちらも別の街に架けられた石橋で、完成から数年後に橋脚(きょうきゃく)が傾いている。

 

「水位の帳面を見たい」

「何年のものです?」

「一四四二年。一四一一年。それと一三八〇年」

 

 リーゼは頷き、奥の棚へ向かった。

 

 水位の記録だけで、棚二つをほとんど埋めている。

 一年につき一冊。いちばん古いものは、四百年近く前のものだった。

 石の仕入れも、人足(にんそく)の賃金も、工事の記録も、似たような年月ぶん残されている。

 

 この家が、そこまで古いわけではない。

 これらの多くは、ヴァルデン家ではなく石座(いしざ)の帳面だ。顔役の屋敷に置くのが古くからの決まりで、(だい)が替われば、そのまま次の顔役の家へ移ることになっているのだ。

 

 しばらくして、リーゼが三冊の帳面を抱えて戻ってきた。

 

「まず一四四二年から頼む」

「何をお探しで?」

「欄外だ。何か書いてないか」

 

 リーゼは指先の光を近づけ、(ページ)をめくった。

 

「……(かわ)き年、とあります」

「次は?」

 

 一四一一年。

 

「こちらもです」

 

 一三八〇年。

 リーゼは少し長く(ページ)を追ったあと、同じところで指を止めた。

 

「こちらにもございます」

 

 三件ともだった。

 俺は橋を架けた年を書き留めた紙を引き寄せる。

 

 一四四二年。

 一四一一年。

 一三八〇年。

 

「三十一年ずつか」

「何がです?」

「橋を架けた年だ。どれも(かわ)き年で、その間が三十一年ある」

 

 偶然かもしれない。

 だが、ここには四百年ぶんの記録がある。

 

「一三五〇年より少し前を見たい」

「どの年でしょう」

「まだ分からない。(かわ)き年を探してくれ」

 

 そこからは橋の記録を探すのをやめ、水位帳だけを開いた。

 

 一三四八年。(かわ)き年。

 一三一七年。(かわ)き年。

 一二八五年にも、同じ記述がある。

 

 さらに(さかのぼ)る。

 

 二十九年。

 三十二年。

 三十年。

 三十一年。

 

 ぴたりとは揃わない。

 だが、二十年で来ることはなく、四十年も空かない。

 俺は見つけた年を、順番に紙へ書き写していった。

 四百年ぶんを確かめ終えるころには、紙の上に十を超える年が並んでいた。

 

 だいたい三十年に一度。

 その間隔だけは、見間違えようがなかった。

 

「今年の帳面は?」

「今年のものなら、まだこちらへは下りてきませんよ」

 

 言われてから気づいた。

 今年の帳面なら、毎日俺が書いている(・・・・・・・)ではないか。

 

 ◇◇◇

 

 次の日、朝食を終えたところで、父に呼び止められた。

 

「テオ、今日はハインと現場へ行け。作業の様子をよく見ておけ」

「……は、はい。何を見れば――」

 

 珍しく父のほうから声をかけてきたせいで、返事が少し遅れた。

 

 理由を()き終える前に、父はもう背を向けていた。

 そのまますたすたと別館の仕事場へ歩いていってしまう。

 

 呼び止めようかとも思ったが、こちらを振り返る気配すらない。

 やはり、どうも避けられている気がする。

 

 そういえば、読者諸君には父のことを、まったくと言っていいほど描写していなかった。

 ここで謝罪しておこう。

 

 彼の名前はオットー・ヴァルデン。

 ヴァルデン家の現当主にして、北方の地方都市ラウテルで石材職人と石材取引を束ねる組合――石座(いしざ)の顔役である。

 要は、前世で言うグループ企業の会長みたいな立場の、結構すごい人なのだ。

 

 そして、俺、テオドール・ヴァルデンの父でもある。

 今後は父ではなくオットーと表記することにしよう。そのほうが読者諸君にも分かりやすいだろうし。

 

 その印象も、前世で見た会長そのものだった。

 声は大きい。話は分かりやすい。計算に強い。そして何より、人たらしだ。

 頑固一徹な職人でも、彼と一晩酒場で飲めば、次の日には昔からの親友みたいな顔で肩を組んでいる。

 

 なのに、俺に対してはどうもドライというか、反応が薄いというか。

 この間など、中庭を歩いていたら、俺とすれ違うのを避けるように、わざわざ屋敷の裏手へ回って別館の仕事場へ入っていった。

 

 もしかすると、嫌われているのかもしれない。

 俺の母、レナーテ・ヴァルデンは、お産が重く、俺を産んだその日のうちに亡くなったという。

 オットーにとって俺は、最愛の妻を奪った(かたき)も同然なのかもしれない。

 

 商家(しょうか)の当主なら、家同士のつながりを増やすために再婚していても不思議ではない。

 それでもオットーは、いまだにやもめ(・・・)のままだ。

 なにより、夕暮れどきに屋敷の踊り場を通ると、毎日のように、あの家族三人を描いた肖像画の前に立っている。

 

 レナーテへの愛情が本物だったことだけは、俺にも分かった。

 だからこそ、その妻と引き換えに生まれた息子をどう思っているのか、いまだに分からないのだ。

 

 ◇◇◇

 

 昼前、ハインと屋敷を出た。

 リーゼも一緒だ。彼女がドナーの手綱(たづな)を引き、俺はいつものように(くら)の上へ載せられている。

 

 城門を抜けると、石造りの街並みは途切れ、景色が一気に開けた。

 

 都市と都市を結ぶ街道は、城壁内の石畳とは違い、土を叩いて固めただけのものだ。

 雨が少ないせいか、春には泥だった(わだち)が、そのまま白く乾いて固まっている。

 

 道の両側には細長く区切られた畑が続き、大麦や燕麦(えんばく)らしい穂が風に揺れ、その合間には刈り取られた草地や、牛や羊を放した土地が挟まっている。

 遠くでは何頭もの牛が木の(すき)を引き、人がその後ろをゆっくり歩いていた。

 

 もっとも、牧歌的なのは見た目だけだ。

 ドナーの(ひづめ)が乾いた地面を叩く低い音に混じって、土と草、それから家畜の糞尿(ふんにょう)の匂いが容赦なく鼻へ届く。異世界に来て、北海道の十勝を思い出すことになるとは思わなかった。

 

 今年は(かわ)き年だとは聞いていた。畑の緑も、春に見たものよりどこか色が薄い。

 街道(わき)の草はところどころ黄色く焼け、土は踏めば細かな砂埃(すなぼこり)を上げる。

 

「今年は、ちゃんと実るのでしょうか」

 

 リーゼが街道(わき)の畑を眺めながら言った。

 ハインもつられるように、そちらへ目を向ける。

 

「この程度でしたら、食べるものに困ることはないでしょう。小麦は減るでしょうが、大麦はよく育っております」

「……大麦ですか」

「お嫌いですか?」

「食べるぶんには、別に」

 

 リーゼは少しだけ顔をしかめた。

 

「ただ、大麦が多い年は、エールを作る量も増えるでしょう」

「まあ、そうなりますな」

「父が酒臭くなって帰ってくるので、あまり好きではないんですよね」

 

 ハインは苦笑しながら、

 

「ヨナスにも、たまには羽目を外したい夜くらいあるでしょう」

 

 と、フォローするのが精いっぱいだった。

 石座(いしざ)の稼ぎ頭である棟梁(とうりょう)が、まさかこんなところで評価を下げているとは。

 人付き合いには慣れているはずのハインも、年頃の娘が下す父親評には、さすがに口を挟みづらいらしい。

 

 そんな景色の中をしばらく進み、やがて川沿いへ出た。

 川を見た瞬間、少しだけ面食らった。

 ――意外と、でかい。

 

 図面は見ていた。

 川幅も橋の長さも、おおよその数字は頭に入っている。

 それでも、勝手に農業用水を少し大きくした程度の川を想像していたらしい。

 

 実際には、向こう岸までざっと五十メートル。

 前世で言えば、日本橋を一本、そのまま架けられるくらいの幅がある。

 

 大河と呼ぶほどではない。

 だが、十歳の身体で岸辺に立ってみると、紙の上で見ていた五十メートルより、ずっと広く感じた。

 

 ここに、石造りの橋を架けるのだ。

 

 ◇◇◇

 

 流れる水は少ない。そのぶん、川床(かわどこ)が広くむき出しになっている。

 

 川の中央を、膝丈ほどの深さしかない水が流れている。

 両岸には白く乾いた石と砂が広がり、荷車までが川へ下りていた。乾いた川床(かわどこ)では、何十人もの人間が働いている。

 

 二基の橋脚(きょうきゃく)は、すでに四メートル近い高さまで積み上がっている。

 その周囲には太い木材が組まれ、アーチを支える支保工(しほこう)も、少しずつ形を作り始めていた。

 

 水に近いほうの脚の周りには、土を()って(くい)を打っただけの囲いがある。

 高さは、俺の腰にも届かない。

 あれで足りるのか、と一瞬思ってから、足りるのだと気づいた。囲うべき水が、そもそも無いのだ。

 

 石を運ぶ者。

 縄を扱う者。

 木材を削る者。

 水を運ぶ者。

 

 あちこちから声が飛び、そのたびに人と荷が動いていく。

 リーゼの父であり、石座(いしざ)棟梁(とうりょう)でもあるヨナス・ケルナーは、片方の橋脚(きょうきゃく)の根元にいた。

 据えたばかりらしい石の前へしゃがみ込み、(てのひら)をその面へ当てる。

 

「右へ、指半分」

 

 男が二人、石に掛けた縄を引いた。

 ぎしぎしと縄の(きし)む音は聞こえるが、俺には石が動いたのかどうかさえ分からない。

 

「よし、止めろ」

 

 直す前も、直したあとも、俺には同じにしか見えなかった。

 

 前世にもこういう職人はいた。定規や水平器を当てるより先に、触った感覚だけでわずかなずれを言い当てるような人間だ。

 ただ、俺が知っていたのは、もっと年季の入ったおじいちゃん職人ばかりだった。

 

 ヨナスの詳しい年齢は知らない。見たところ、四十代の前半くらいだろう。

 

 それでいて、この精度だ。さすが石座(いしざ)棟梁(とうりょう)というべきか。

 こういう人間を、天才と呼ぶのかもしれない。

 

 そんなことを考えていると、ヨナスがこちらに気づいた。

 

若旦那(わかだんな)! よく来られましたな」

「見せていただきます」

「どうぞ。ただ、その縄より内へは入らんでください」

 

 ヨナスが、地面に張られた縄を指した。

 

「分かりました」

 

 リーゼが俺の横へ来ると、ヨナスは娘の顔を一度だけ見る。

 

「お前も下がってろ」

「はい」

 

 娘の様子を、この人は俺に()いてきたことがある。

 元気にしているか。仕事は上手くやれているか。

 そのときは、自慢と心配が入り混じったような顔をしていた。

 

 けれど今は、口元を引き締め、すっかり棟梁(とうりょう)の顔をしている。

 娘の前では、こういう父親なのだろう。

 

 リーゼはそれきり何も言わず、俺と一緒に縄の外へ下がった。

 慣れているらしく、特に気にした様子もない。

 ヨナスはもうこちらを見ていない。縄の内側で、石工に何か指を差して見せている。

 

 俺は縄の外から、もう一度橋脚(きょうきゃく)を見上げた。

 

 石の面は揃っている。縦の線にも目立った曲がりはない。積み方も春に見た図面どおりだ。

 少なくとも、俺の目で分かるような(あら)は見当たらない。

 

 視線を、そのまま下ろしていく。

 石の列が終わり、地面が始まる。

 

「ハインさん」

「はい」

 

 少し離れたところで帳面を確認していたハインが、顔を上げた。

 

「あの橋脚(きょうきゃく)の足は、そのまま置いたのですか」

「まさか。掘って、底を出して、(なら)してから据えます。あれもそうしました」

「どこまで掘るんです?」

「場所によります。固いところが出るまで、としか」

「では、水際は」

「水際、といいますと」

「今は、あそこまでしか水がありません」

「ええ。ですから、今のうちに組んでおります」

「水が増えたときは、どのあたりまで来ます?」

 

 ハインは帳面を閉じないまま、少しだけ表情を改め、一拍考えてから答える。

 

「さて。川のことは、川に()いてくれと言うほかありません」

 

 それ以上は()かなかった。

 ハインも理由を尋ねず、帳面へ視線を戻す。

 ちょうど荷を運んできた男に声をかけられ、そのまま仕事の話へ戻っていった。

 

 俺は川へ目を向ける。

 

 白く乾いた川床(かわどこ)の真ん中を、細い水だけが流れている。

 照り返しが、下から顔を(あぶ)ってくる。

 そのすぐ(わき)では、人が立ったまま石を積んでいた。

 

 水が少ない。

 川へ降りやすい。

 底も掘りやすい。

 

 橋を架けるには、ずいぶん都合のいい年(・・・・・・)だ。

 

 ◇◇◇

 

 帰りは、本流の川原を回ることになった。

 

 来た道は荷車が何度も往復したせいで、(わだち)が深く残っている。

 乾いて固まった(わだち)(ひづめ)を傷めるのだと、リーゼが言った。

 

 川沿いをしばらく進んだところで、大きな穴が見えた。

 幅は荷車が二台並べるくらい。深さは、人の背丈ほどある。

 

「なんだ、あれ」

「去年、砂を取った跡ですよ」

「砂?」

収穫祭(しゅうかくさい)です」

 

 そこで思い出した。

 ばん馬に(そり)を引かせていた、あの坂だ。

 

 毎年、競技のために砂を盛り、祭りが終われば片づけると聞いていた。

 その砂をどこから持ってくるのかは、一度も考えたことがなかった。

 

「あそこから取ったのか」

「全部ではありませんけれど。近いですから」

 

 ドナーから降り、穴の縁まで歩いていく。

 

「坊ちゃま」

「見るだけだ」

 

 斜面の緩いところを選び、底へ下りた。

 崩れやすい壁の下へ人を入れるな、というのは前世で最初のほうに習ったことだ。

 まあ、見るだけなら大丈夫だろう。

 こういう考え方を不安全行動(ふあんぜんこうどう)というのも、たしか同じ頃に習った気がする。

 

 靴の下で、砂がさらさらと崩れた。掘り取られた断面が、そのまま壁になっている。

 一番上に薄い土。その下に砂。さらに下には、拳ほどの丸い石が横へ連なり、その下がまた砂。

 

 どの境目も、まっすぐではない。

 緩く波打ち、厚みも場所によって違っている。

 

 人が積んだのなら、こうはならない。

 壁へ指を押し込むと、砂がぱらぱらとこぼれ落ちた。

 丸い石を一つ抜き、手のひらで転がしてみる。

 

 角はすっかり取れ、表面も滑らかだった。

 水に運ばれ、何度も転がされてきた石だ。

 

 斜面をよじ登るようにして穴から顔を出し、周囲を見渡した。

 穴の向こうには川がある。だが今は、細い水が川床(かわどこ)の真ん中を流れているだけだ。

 ここから川までは、二十歩か、三十歩か。

 

 もう一度、壁を眺める。

 土。砂。丸い石。また砂。

 

 さっき見た橋が頭に浮かんだ。

 

 今は二本の橋脚(きょうきゃく)(わき)を、細い水が流れているだけだ。

 だが雨が続けば、水はあの広い川床(かわどこ)いっぱいまで戻ってくる。

 そこに、今までなかった太い橋脚(きょうきゃく)が二本立っている。

 

 水は橋脚(きょうきゃく)を避けて流れる。

 流れが狭められれば、その周囲では水の勢いが増す。

 速くなった水は橋脚(きょうきゃく)の根元へ回り込み、砂や石を少しずつさらっていく。

 やがて基礎の周囲だけが深く(えぐ)られ、その下を支えていた地盤まで失われる。

 

 前世では、洗掘(せんくつ)と呼ばれていた現象だ。

 現代でも、護岸(ごがん)根固(ねがた)めで対策したうえで、定期的な点検を必要とする厄介な問題だった。

 まして、技術水準が中世ヨーロッパ後期ほどのこの世界では完全に防ぐことは難しいだろう。

 

 それでも、ヨナスほどの職人が、この程度のことを知らないのだろうか。

 

 知らないはずがない。

 図面には、上流側へ水切(みずき)りが立ててあった。氷も流木も、橋脚(きょうきゃく)を避けて通るように組んである。

 水が石を傷めることくらい、あの人は俺より知っている。

 

 ただ、あの図面が測った川は、今日見たあの川だ。

 人が立ったまま石を積める、あの細い流れ。

 

 橋を架けている川も、今年は人が歩けるほど水が少ない。

 壊れた三つの橋も、すべて(かわ)き年に作られていた。

 

 順番が、逆なのかもしれない。

 (かわ)き年だから壊れたのではない。(かわ)き年は、川へ橋を架けるのに都合がよすぎるのだ。

 

 水が引いていれば、川へ下りやすい。底も掘りやすい。囲いも低くて足りる。

 安く上がって、早く仕上がる。

 だから(かわ)き年には、川の仕事が集まる。橋も、(せき)も、渡し場も。

 

 壊れた橋が三件とも(かわ)き年なのは、(かわ)き年に壊れやすいからではない。

 (かわ)き年に架けた橋が、そもそも多いのだ。

 

 そして、その年に架けた橋は、その年の川を見て架けられる。

 完成するころには水が戻る。そのあと雨が続いて、足元が削られる。

 

 次の(かわ)き年が来るのは、およそ三十年後だ。

 

 三十年。

 今の棟梁(とうりょう)が引退し、若手が棟梁(とうりょう)になるには十分な時間だ。

 橋が傾いても、それを架けた人間が現場に残っているとは限らない。

 水が引くころには、削られた足元にまた砂が流れ込んで、何事もなかったような顔をしているかもしれない。

 

 川に削られた。地盤が悪かった。基礎が沈んだ。

 そうやって一件ずつ、別の事故として片づけられていたとしたら。

 

「……いや」

 

 考えすぎだ。

 ここは本流で、橋があるのは支流だ。

 三件が同じ理由で傾いたという証拠も、まだ何ひとつない。

 

「坊ちゃま。穴に入りたいお気持ちにでもなったのですか?」

 

 穴の縁から、リーゼが(のぞ)き込んでいる。

 

「調べていただけだ」

「では、あとでお召し物のほうも調べておきますわ」

 

 砂を払って、斜面を上がる。

 顔を出したところで、川床(かわどこ)の照り返しが目を刺した。

 

 春に見た図面の、あの白いところと同じ色だった。

 

 ◇◇◇

 

 その晩、机に紙を広げた。

 インク壺は出さなかった。書いては消すことになるのが分かっていたからだ。

 台所から炭を一本もらい、小刀で先を削って尖らせる。

 前世の鉛筆には遠く及ばないが、消せるという一点だけは同じだった。

 

 最初に、

 

『橋の工事を止めてください』

 

 と書いた。

 読み返して、線を引く。いきなり止めろと言っても、理由が足りない。

 パンの欠片で文字を擦り消し、今度は自分が分かっていることだけを書き出していった。

 

 完成から数年で橋脚(きょうきゃく)が傾いた橋の記録を、三件見つけたこと。

 その三件が、どれも(かわ)き年に架けられていたこと。

 水位の帳面を(さかのぼ)ると、(かわ)き年はおよそ三十年ごとに繰り返していること。

 そして今年も、その年に当たること。

 

 本流の砂採り場では、水際から二十歩も離れた壁の中から、水に磨かれた丸い石が出てきたこと。

 かつて水は、そこまで来ていたということ。

 

 川の幅は、春に測ったと聞いた。

 今、川はいちばん細い。

 水が戻ったとき、川がどこまで広がるのか。それを測った紙はあるのか。

 あるなら、その幅で橋脚(きょうきゃく)の周りをもう一度見てほしい。

 

 そこまで書いてから、もう一枚紙を出した。

 

 三件の橋が架けられた年と、破損が記録された年。

 その横に、それぞれの年の水位帳から拾った数字を書き並べる。

 さらに帳面を(さかのぼ)って見つけた(かわ)き年を、古いものから順に書き写した。

 文章だけより、こっちのほうが分かりやすい。

 

 手紙とメモを重ねて読み返す。

 

 内容より先に、字が気になった。

 一年前よりはずいぶんましになったが、まだ丸い。

 炭で書いた線は、指で触れただけで薄く伸びる。

 大人の書付(かきつけ)へ混ぜれば、一枚だけ明らかに浮くだろう。

 これでは、最後まで読む前に子供の手紙だと分かる。

 

 翌朝、リーゼに二枚まとめて渡した。

 

「これを写してくれ」

「……二枚もございますけれど」

「両方だ」

「また何か始めるおつもりで?」

 

 そう言いながら受け取る。

 

 最初はいつもの調子で読んでいたが、三件目の橋へ差しかかったあたりで目の動きが遅くなった。

 続けて、年と数字ばかりのメモへ目を通す。

 春、という字のところで、紙が一度止まった。

 

「……坊ちゃま」

「なんだ」

「こちらは、どなたへ?」

「父上」

旦那(だんな)様へ」

 

 リーゼはもう一度、二枚の紙へ目を落とした。

 

「お名前は?」

「書かない」

「なぜです?」

「俺の名前があったら、信用されないだろ」

 

 十一歳の息子が石座(いしざ)の仕事へ口を出している。

 それだけで、中身を読む前に色眼鏡が付く。

 

 リーゼはしばらく紙を持ったままだった。

 

「……そんなことは……」

「何が?」

「なんでもありません」

 

 机へ座り、新しい紙を二枚取る。

 インク壺の蓋を開け、羽ペンの先を落とした。

 

 手紙のほうは、俺の文章をそのまま写すのではなく、ときどき言葉を変えていた。

 もう一枚には、俺が拾った年と数字を、見やすいように並べ直していく。

 

 書き終えると、リーゼは紙の一番下へ、短く何かを書き足した。

 書付(かきつけ)にはそういう作法があるのだろう。

 俺は数字のほうをもう一度確かめた。間違いはない。

 

「できました」

 

 差し出された二枚は、同じ内容なのに俺のものよりずっと書付(かきつけ)らしかった。

 悔しいが、任せて正解だった。

 

「これは一緒にしておいてくれ」

「承知しました」

 

 リーゼは手紙の後ろへメモを重ねる。

 重ねてから、少しのあいだ、手を離さなかった。

 

「どうやって渡す?」

帳場(ちょうば)に、旦那(だんな)様へお見せする書付(かきつけ)を置く箱があります」

「そこへ入れられるか?」

「できます」

 

 即答だった。

 

「俺が入れるのは?」

「おやめください。坊ちゃまは紙の揃え方が下手ですので」

「そんなところで分かるのか」

「分かります」

 

 妙に自信ありげに言う。

 

 帳場(ちょうば)には、オットーの判断を仰ぐ書付(かきつけ)をまとめておく浅い木箱がある。

 値を決めるもの、支払いの許しを求めるもの、オットーでなければ返事のできないもの。

 帳場(ちょうば)の者がそこへ入れておくと、オットーが何枚かまとめて書斎へ持っていく。

 

 リーゼなら、そこへ二枚ほど紛れ込ませるくらい難しくないらしい。

 

 ◇◇◇

 

 翌朝、俺は自分の机で帳面を開きながら、その箱を気にしていた。

 しばらくしてオットーが帳場(ちょうば)へ入ってくる。

 ハインと言葉を二、三交わし、いつものように木箱から書付(かきつけ)を何枚か取った。

 

 そのまま書斎へ向かう。

 歩きながら一枚目に目を通し、後ろへ回す。二枚目も同じだった。

 

 三枚目をめくったところで、オットーの歩調が落ちた。

 最後まで読み、後ろに重ねてあったメモを抜き出す。

 

 そこで、足が止まった。

 

 俺は反射的に帳面へ目を落とした。

 少し待ってから、顔を上げる。

 オットーはまだ同じ場所に立っていた。

 

 目が、上から下へゆっくり動いている。

 途中で一度、手紙へ戻る。それからまた、数字の並んだ紙へ。

 もう一度、数字へ。

 

 値の合わない帳面を見つけたときと、同じ顔だった。

 

 俺のほうを見ることはなかった。

 何も言わず、二枚をほかの書付(かきつけ)と重ねる。

 

 そのまま書斎へ入り、扉を閉めた。

 

 ◇◇◇

 

 それから四日、オットーからは何も言われなかった。

 

 橋の工事も続いている。

 朝になれば石を積んだ荷車が屋敷を出て、夕方には現場から書付(かきつけ)が届く。

 俺の机にも、いつも通り水位の数字が回ってきた。

 

 毎日、誰かが川を見に行き、数字を書いて、届けてくる。

 手紙を読んだことは間違いない。あのメモも見ていた。

 それでも、何も変わらなかった。

 

 やはり、あの程度の根拠では足りなかったのか。

 それとも、俺の考えが見当違いだったのか。

 

 もう一度、資料室を探したほうがいいかもしれない。

 橋そのものの記録がなくても、修繕(しゅうぜん)や石材の出荷を辿れば何か……

 

若旦那(わかだんな)様」

 

 顔を上げると、ハインが机の前に立っていた。

 

「はい」

旦那(だんな)様がお呼びです」

「父上が?」

「書斎へ来るように、と」

 

 手にしていた羽ペンを置く。

 

「……今ですか」

「今です」

 

 ハインの顔からは、何も読み取れなかった。

 

 椅子を降り、帳場(ちょうば)の奥を見る。

 閉じた書斎の扉を見た瞬間、前世で人事部から「ちょっと話がありまして」と呼ばれたときのことを思い出した。

 大抵、ろくな話ではなかった。

 

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