異世界転生で女神様から魔法チートを貰えるって聞いたのにッ!! 作:鶏心太郎
床に座り込んだまま、部屋に人が増えていく気配を聞いていた。
先ほどまで大きく揺れていた水面はすっかり静まり、見知らぬ少年がこちらを見上げている。
明るい色の髪。十歳ほどの幼い顔。目も、鼻も、口元も、前の俺とは何ひとつ似ていない。
それでも、水面の少年はこちらが瞬きをすれば瞬きをし、口を開けば同じように口を開く。
やはり、俺の顔らしい。
こういうときに限って、前世の知識が余計な口を挟んでくる。
動物が鏡の中の像を「自分」だと理解できるかを調べるやつだ。動物を薬で眠らせている間に、こっそり
合格したとされるのは、たしか
実験については
重要なのは一点だけだ。
鳥は、鏡の中の自分を自分だと理解できた。
俺は、水面に映った自分を自分だと思えない。
異世界に転生して早々、カササギ以下……せめて猿くらいは超えていたかった。
まあいい。カササギに勝てないなら、せめてイルカくらい賢そうな顔でもしておこう。
水面の少年が賢そうに見えるよう、真剣な表情を作ってみる。
うん。何ひとつ分かっていないアホ
◇◇◇
誰かが俺の
驚くほど簡単に身体が浮いた。
体重が軽いのか、抱えた人の力が強いのか。
おそらく両方だろう。
――お運びして。ゆっくり。
――お医者様はまだですの?
――誰か、
言葉の境目が分からない。
音はひとかたまりになって耳へ入り、意味は少し遅れて頭へ届く。
映像から一拍遅れて字幕が表示される映画のようで、妙に気持ちが悪い。
肌に触れる側だけは柔らかく、表側には植物らしき模様が
十歳の子供。
地方都市の
家業は石材屋。
父親と、数人の使用人。
女神から聞いた説明と、今のところ食い違いはない。
窓の外では、日が傾きかけていた。
こちらの世界でも、夜は来るらしい。
◇◇◇
医者は、想像していたより普通の男だ。
白い
清潔な布の前掛けを着け、使い込まれた
手首へ指を当てられ、
診察の手順は、俺の知っているものとほとんど変わらない。
人間が人間を診るのなら、世界が違っても似たような形になるのだろう。
少し安心した。
医者は診察を続けながら、うんうんとうなずき、落ち着かない様子の中年の女性へ、なだめるように声をかけている。
――四日で目を覚ましたのは運がよかった。
――熱は……昨夜のうちに下がりましたか。
――
四日。
この身体は、四日間も眠り続けていたらしい。
その四日のうち、どこで俺は俺になったのだろう。
昨日か。熱を出した瞬間か。眠っているあいだに、少しずつ入れ替わったのか。
あるいは、もっと前から始まっていた可能性だってある。
考えたところで、確かめる方法はない。
――命がつながっただけで、もうけものだと思ったほうがいい。
――あの熱では、大の大人でも帰ってこられないことが多い。
――もしかすると、目や耳に
中年の女性が、医者の肩越しに俺の顔を
「テオドール様、聞こえますか。お分かりになりますか」
その瞬間、さっきまでひとつながりの音にしか聞こえなかったものが、きちんと言葉として切り分けられた。
熱が下がるというのは、こういうことなのだろうか。
だが、それよりも気になったのは、呼ばれた名前だ。
テオドールサマ。
どこまでが名前で、どこからが
テオドールサマ。
テオドール・サマ。
テオ・ドールサマ。
言葉の意味は分かるのに、音は頭の中を居心地悪そうに
名前というものは、もともと意味のない音でできている。前の名前だって、その由来を意識したことなどほとんどなかった。
それでも、自分の名前を他人の口から教わるのは、ひどく妙な気分だった。
「……はい」
声が出た。高い。
「よかった。ああ、よかった」
中年の女性は口元を押さえ、今にも泣きそうな顔をしていた。
この人が誰なのか、俺は分からない。
まあ、当の俺は自分自身が誰なのかも、まだよく分からないのだが。
◇◇◇
年配の男性が俺の前で軽く頭を下げ、報告する。
「
それから体感で三十分ほどたって、
この世界の時間の単位が、前の世界と同じ長さなのかは分からない。
だが、病み上がりの状態で時間の単位について説明を求めるほど、俺も空気が読めないわけではない。
部屋へ入ってきたのは、背の高い男だった。
肩幅が広く、手は大きい。太い指の関節には、古い傷がいくつも残っている。
商人というより、職人の手だ。
石材を売る家と聞いていたので、
男は
察するに、この人が俺の父親なのだろう。
「熱は下がったか」
「……はい」
「そうか」
会話が終わった。
父と子の感動的な再会にしては、ずいぶん短い。
男の視線が、俺の顔と天井のあいだを一度だけ往復する。
「……テオ」
ああ、そこで区切るのか。
「よく寝ろ」
男はそれだけ言って、部屋を出ていった。
扉が閉まると、その向こうですぐに男の声が続く。
「マーゴ、悪かったな。四晩だろう。お前も休め。これは命令だ」
「まあ、
「言うさ。医者にも礼を。酒はどっちがいい、麦か
よく
◇◇◇
マーゴというのが、あの中年の女性の名前らしい。
彼女は俺のために
何も言わず、俺が食べる様子を見ている。
正直、食べにくいが仕方がない。心配なのも分かる。
転生して最初の食事。
物語なら、その世界の食文化を印象づける大切な場面だ。
見た目は普通だ。何かの
食感は……
まだ熱の影響を引きずっているのか、味はあまり感じられない。
医者が残していったものだろう。
言語チートで読めるかもしれないと
のたくった線の集まりにしか見えない。
どこからどこまでが一文字なのかすら分からない。
白い部屋の自由帳では、見たこともない文字が読めたはずだが。
あれは、この世界の文字とは別なのだろうか。
そういえば、女神に文字について質問したときも、「行ってから覚えたほうが早い」と言われた。
確かに、嘘はついていない。ついてはいないのだが。
説明不足というか、「言わなきゃ嘘にはならない」という、上等な
腹の底でふつふつと怒りを煮立たせながら、
どうも、あの女神は信用ならない。「暗黒のファラオ」だの「
白い部屋では姿を見せなかったが、案外、「背の高い
……脱線した。
何のことかさっぱり分からなかった、きれいな心を持つ読者
コズミックホラーが、うつろな目で君たちの参入を待っていることだろう。
そんな具合に、自称女神への不満を脳内で散々ぶちまけながらも、
気づけば、皿はすっかり空になっていた。
その頃には思考も一周して、落ち着きを取り戻していた。
考えても分からないことは、後回しにするしかない。
そう
それが、十年ほど社会人をやって身につけた、俺の数少ない技術の一つだった。
◇◇◇
窓は小さな
ガラスは
この世界では、透明な板ガラスを安定して作る技術がまだないのだろう。
少なくとも、一般家庭の窓に使えるほど安価なものではないらしい。
それでも、外に何があるのかは分かる。
石だ。中庭に、大量の石材が積まれている。
切り出したままの角ばったもの。表面だけを荒く整えたもの。
角を落とし、滑らかに仕上げたもの。
形も大きさも違う石が、用途ごとに分けられている。
荷車が二台。少し離れた場所には、三脚と
魔法がある世界であっても、全部を魔法で運ぶわけではないのだろうか。
あるいは、ガラスと同じように、誰もが使えるほど
防犯のためだけに、ここまで高くする必要があるだろうか。
開け放たれた門の向こうには、灰色の街並みが続いている。
さらに遠くへ目を凝らすと、なだらかな丘と草原が見える。
ふと、窓枠に止まったカササギ程度の大きさの鳥が、聞いたこともない美しく澄んだ声で鳴いた。
「中世に近い暮らし」と、女神は言っていた。
その言葉どおりの景色が、窓の外にある。
長年思い描き、
剣と魔法の世界だ。