異世界転生で女神様から魔法チートを貰えるって聞いたのにッ!! 作:鶏心太郎
朝食から、下で食べることになった。
迎えに来たリーゼは廊下を先に歩きながら、扉を一つずつ指していった。
昨日より足取りは軽い。壁に手をつかなくても歩けた。
「こちらが
「きちんと覚え直してくださいね。ご案内するのは今日までですから」
姉のような言い方だった。実際には他人の家の娘だが、今の俺にはありがたかった。
突き当たりの少し手前にも、扉が一つあった。
「そこは?」
「……」
「開けたら駄目な部屋か」
「開けてはいけないお部屋ではありません」
では、何なのだろう。
「ただ、誰も開けません」
誰の部屋とも、何のための部屋とも言わなかった。
禁じられてはいないのに、誰も開けない。
どういう区分だ。
「お食事が冷めますよ」
リーゼはもう歩き出していた。俺は閉じた扉を一度だけ振り返り、そのあとを追った。
◇◇◇
階段は広かった。石の手すりに木の段を組み、途中の
その踊り場の壁に、一枚の絵が掛かっていた。
足が止まる。
描かれているのは三人だった。立っている男は、今よりずっと若い。
それでも、父だと分かった。肩幅と、節の太い手と、何より顔つきが同じだ。
ただ、絵の中の父は笑っていた。あの人が笑うところを、俺はまだ見たことがない。
隣では、椅子に腰掛けた女が赤ん坊を抱いている。
明るい色の髪は、
誰なのかは、考えるまでもない。
母親は、俺を産んだときに亡くなっている。白い部屋で、女神はそう言った。
だとすれば、この絵の光景は一度もなかったはずだ。
「坊ちゃま?」
下からリーゼの声がした。
「……今行く」
◇◇◇
台所は一階の奥にあった。
石の
湯気の向こうで、マーゴが振り向いた。
「まあ、テオドール様。今朝はご自分で……」
昨日と同じ大声を上げかけ、途中で飲み込んだ。驚くぶんは、昨日のうちに使い切ったらしい。
代わりに手にした
朝食は、台所の隅に置かれた小さな卓で取った。
麦の
「レナーテ様にも、お見せしたかったですねえ……」
口にした途端、彼女は黙り込み、鍋へ戻った。
レナーテ。
おそらく、踊り場の絵にいた女の人――俺の母親だ。
彼女について
けれど俺は、それらを
◇◇◇
冷たい空気とともに、足音が近づいてくる。
現れたのは、あの晩、父が間もなく戻ると知らせに来た
白いものの混じった髪をきっちり後ろへ
指先が薄く黒ずんでいる。おそらく長年のインク染みだろう。
男は卓の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「
テオ。テオドール様。坊ちゃま。
同じ子供を呼ぶのに、この家には四通りの呼び方があるようだ。
「……もう平気だ、です」
「それは何よりです」
「では、本日より始めましょう」
「始める? 何を、ですか?」
「お家のことを一通り。
父からは何も聞いていない。俺の知らないところで、俺の予定が決まっていた。
まあ、子供とはそういうものなのだろう。
「ハインさん」
マーゴが掃除から戻ってきた。さっきまでとは声色が違う。
「テオドール様は、昨日ようやく下まで歩けるようになったばかりなのですよ。そんな病み上がりの体で
「座っていただくだけです。石を担がせるわけではありません」
「あなたはいつもそう。人を
「思っていませんよ。思っていたら、寝ずに番をしていた誰かさんの様子を見に、二階まで上がったりはしません」
「……あれは
「
その後もしばらく応酬が続いた。
はじめは俺の授業の話だったはずが、いつの間にか十年前の荷積みや、誰かの祝いの席について言い争っている。
「始まりましたね」
「……何がだ」
「ああなると長いんです。昔から、くっついたり離れたりしていますから」
「くっついたり?」
「今は離れている時期ですわ」
まったく分からなかった。中身がおっさんの俺に分からないことを、十五の娘が分かっている。
言い争いは、マーゴがいくつか条件を出して終わった。
「昼に一度休ませること。座らせたきりにしないこと。……あと、
「承知しました」
ハインは、どれもあっさり
台所を出るとき、マーゴは洗濯物の
◇◇◇
台所の戸口で、リーゼに厚手の
ハインが向かったのは、屋敷の奥にある中庭だった。
「
中庭には、窓から眺めたときよりも多くの石が並んでいた。
切り揃えられた灰色の
同じ種類のものが幾つも重ねられ、縄を掛けられたまま、荷車へ積まれるのを待っている。
石の門の前では、三脚から下げた
別の一角では、
客が何かを指す。職人が首を振る。
その隣では、別の男が荷車何台ぶんになるのかを数えていた。
普段使う石も、まとめて売る石も、ここで見せて、そのまま運び出すらしい。
石材の山の
白、灰、
ハインは中庭を横切りながら、
男は軽い調子で挨拶し、その横から別の客が値段を
立ち止まりもしないのに、二つの商談が同時に進んでいく。
「では、参りましょう」
本館より一回り低く、飾り気もない。中庭側に小さな戸があり、反対側の表口は、そのまま通りへ開いている。
ハインが戸を開ける。
扉一枚を挟んだだけで、石を動かす掛け声が遠くなった。
ただし、ここに積まれているのは石ではなく、帳面と
表口から入ってきた男が
別の机では、荷の数と金額を読み上げる声がする。
中庭で決まった商いが、ここで紙と数字へ移されるらしい。
その隅に、小さな机が一つだけ空けてあった。
「どうぞ」
どうやら、ここが教室らしい。
◇◇◇
ハインは一つ説明するたび、こちらの顔を見て、伝わったことを確かめてから授業を進めてくれる。
この国はドゥナハトという。王はいるが、街の実務はそれぞれの組合が担っている。
ここはラウテルという街で、
石に関わる者の集まりを
父は、
今は
農民や町の者は、秋の
午前中だけで、そこまで進んだ。
授業は三度中断した。
そのたびハインは「失礼」と立ち、仕事を片づけて戻ると、俺が最後に聞いた言葉から何事もなかったように話を再開した。
説明しながら、書き損じた紙の裏に、ときどき何かを書きつけている。
国の名前。家の名前。祭りの名前。
たぶん、そう書いてある。書くところを見ていれば、それくらいは推測できた。
ただし、書かれた線は一本も読めない。
そのことは、まだ黙っておいた。いずれ向こうから、言わなければならない場面を用意してくれるだろう。
「農民や町の者は秋、うちのような
「そうです」
「なぜ、
「
「それで、秋に帳を締める」
「いいえ。祭りの最終日に、領主様への税を除く大口の支払いと
「冬の間に在庫と
秋に商いの勘定を片づけ、冬に数え、春に締めて払う。
昔から、ではなかった。思ったより、きちんとした理由があった。
昼には、マーゴが予告どおり、中庭を渡って
俺は
午後は、家の話になった。
「この家を大きくなさったのは、大
「大
「先代の当主。
「……はあ」
「もとは、石だけの家ではありませんでした」
「何を売っていたんですか?」
「
金貸しか。
「石と金貸しです。とりわけ大きな貸し先が、一つありました」
「大きな貸し先」
「やまびこのようなお返事ですが、覚えていらっしゃるなら結構」
ハインは声を潜めることもなく、
「領主様のお家です」
かつて長い戦があり、そのあと領主家には大きな
金を貸したのは街の商人たちで、その中でもヴァルデン家が一番の貸し手だったという。
「……返してもらえたのですか?」
「二十年余り前に、きれいに。先代と今の領主様は、勘定の確かな方たちでした」
番頭は、領主を褒めるときまで
「ただ、途中には
「取りっぱぐれたのですか?」
「いいえ。別のもので支払われました」
「別のもの?」
「名字です」
ハインは、卓の帳面を指先で軽く叩いた。
「ヴァルデンという名前。こちらは、その折に領主様のお家からいただいたものです」
名字で借金を払う。
「名字って、そんなに値打ちのあるものなのですか?」
「値打ちは、つけようですな」
「差し上げる側は、
うまい取引だと思った。どちらにとってうまいのかは、考えかけてやめた。
「その大
ハインが、わずかに間を置いた。そんなことを
「テオドール様です」
「……」
「
「……熱のせいです」
「なるほど。熱のせいでしょうな」
ハインは深追いしなかった。
テオドール。
俺の名前は、会ったこともない、死んだ男から渡されたものだった。
名前は意味のない音でできていると、前に思った。
この名前には、はっきり由来がある。
由来が分かっても、やはり俺のものだという感触は来なかった。
「お祖父様は、どんな方でしたか?」
ハインは少しだけ背筋を伸ばした。
「
女神が言っていた、十の位のことだろう。
ここで
だが、なぜそんなことを
「そのぶん
ハインは、襲撃の話まで納品の話と同じ調子で並べていく。
「わたしも仕事の仕方は大
こんなきっちりとした大の男が、いまだに夢で怒られている。
考えただけで寒気がしてきた。もちろん、病み上がりだからではない。
「大
「どこにです?」
「
ハインは
突き当たりに、扉が一つ見える。
「見られますか」
「あの部屋には、
また、開かない扉だった。二階に一つ。一階に一つ。
表のほうから大きな声が近づいてきたのは、そのときだった。
「おう、心配するな。荷は祭りの前に着ける。着かなかったら俺がソリを
笑い声が起こる。父だった。
客らしい男の肩を叩き、表通りまで送りながら、まだ何か言って笑わせている。
戻ってくると、
声が大きい。よく
途中、父の目が一度だけこちらを
そのまま奥へ進み、執務室の扉を開ける。
扉をくぐった瞬間、父の顔から笑いが落ち、静かに扉が閉まる。
ハインは何も言わなかった。俺も
◇◇◇
空が
「今日はここまでにしましょう。夕食の前に、今日のところをおさらいします」
「おさらい」
「それまで、お部屋で休んでいてください」
中庭を渡って本館へ戻り、階段を上がると、踊り場に父がいた。
絵の前に立ち、こちらへ背を向けて動かない。
俺は段の途中で足を止めた。声をかける気にはなれなかった。
かけてはいけない気がした、というほうが近い。
どれくらいそうしていたのか。少し姿勢を直した時に木の段が小さく軋んだ。
音に気付いた父が振り向く。
「……テオか」
「はい」
「もう、付き添いはいいのか」
「はい」
「そうか……ハインの言うことを、よく聞け」
「はい」
父は一階へ下り、中庭の向こうへ消えていった。
俺は残りの段を上がった。絵の前では立ち止まらなかった。
今はまだ、そうしてはいけない気がした。
◇◇◇
夕食の前に、中庭を渡って、もう一度別館の
表口も窓も
机の上には灯りが一つ。その輪の中に、昼間ハインが使っていた紙が置かれていた。
「では、
ハインが紙をこちらへ向ける。
「今日お話ししたことを、ここに書き付けてあります。読み上げてみてください」
来た。
紙には線が並んでいる。じっと見ても、何も起きない。
線は線のままだ。どこからどこまでが一文字なのかも分からなかった。
書いた順番は覚えている。上から適当に答えれば、いくつかは当たるかもしれない。
やめた。そういう小細工は、ばれたときが一番面倒だ。
紙から顔を上げる。
「……読めない」
「はい」
「一文字も、読めない」
口にすると、思ったより気弱な声が出た。
ハインはすぐには返事をしなかった。
灯りに照らされた俺の顔と、今日の授業を控えた紙を、何度か見比べた。
「では、口頭で確かめましょう。……国の名前は」
「ドゥナハト」
「領主様の家名は」
「フォン・ラウテル家。街の名前と同じ」
「石に関わる者の集まりを」
「
「年が明けるのは」
「春」
「農民や町の者が税を納めるのは」
「秋。
「うちが、領主様への税以外の勘定を片づけるのは」
「
「帳を締め、税を納めるのは」
「春の年明け」
ハインは答えのたびに小さく
「……まあ」
俺ではなく、灯りの少し上を見ながら言う。
「以前から、さほど勉強はお得意ではありませんでしたから……」
「……」
「その……しばらくすれば、思い出すのでは……」
遠い目というものを、生で初めて見た気がした。