書き溜めを少しだけしているので無くなるまで毎日投稿予定
例えば、自分が生まれ落ちた場所が地球ではなかったとして。
例えば、自分に使命がなかったとして。
例えば、自分はその世界で幸せになれていただろうか、と考える。
……そんな未来もあったかもしれない、と思う。
そんな世界も幸せだったのかもしれない、と思う。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分にとって何より辛いのはきっと――この道なのだろう。
ポケットの中で、短い振動があった。
取り出して画面をタップすると、見飽きた定型文の羅列。
これまでで何件目になるか、数えるのも億劫だ。指先だけでメールを弾きゴミ箱へ放り込む。
「世界滅びねぇかな~」
乾いた唇から零れた音は、暴力的なまでの蝉時雨にあっけなく塗り潰された。
視界が白むほどの猛暑。アスファルトから立ち昇る陽炎の向こうを自転車に乗った学生の群れが通り過ぎていく。ブレーキの軋む音、弾けるような笑い声、通り過ぎざま制汗スプレーの甘い匂いが鼻を掠めた。
彼らは光の中にいて、俺だけが影の中にいる。そんな錯覚さえ覚える。
スマホを握りしめると、熱を帯びた筐体が掌に不快な汗を滲ませた。 乱暴にズボンへ突っ込み、再び足を動かす。
向かう先はバイト先だ。シフトの時間にはまだ早いが、ここに突っ立って自分を腐らせていくよりはマシだろう。
建物の影を選び、視線を上げずに歩き出し――
「――アルト?」
一瞬、呼吸が止まった。
背後からかけられた声。聞き間違えるはずがない。
目を閉じ、一度深く息を吸い込む。熱を帯びた空気が肺を焼き、ゆっくりと振り返った。
「ほんと久しぶりだなおい! 元気だったか!」
楽し気に話しかけてくる青年は、小学生の頃から共に居続けた幼馴染だった。数年前に引っ越した為、もう二度と会うことは無いと思っていたが……。
日に焼けた肌と、白い歯。昔と変わらない屈託のない笑顔がそこにあった。
「……おう、久しぶり」
「お前、連絡つかねぇからどうしてるかと思って……ってか、少し痩せたか?」
あいつがテンション高く肩を叩こうと手を伸ばしてくる。だが、俺の視線はその隣へと吸い寄せられていた。
デートの途中なのだろう。お洒落なワンピースを着た女性が、あいつの腕に身を寄せている。彼女は不思議そうな顔で、俺とあいつを交互に見比べた。
「ねぇ、この人誰なの?」
「あぁ、すまん。こいつは地元の友達でな」
友達。
その言葉が、鋭い棘のように胸の奥に刺さった。
洒落た服、隣の恋人、余裕のある笑顔。
同じ歳のはずなのに、立っている場所がまるで違う。眩しすぎて、直視できなかった。
「お前、連絡しても全然でないしさぁ。死んだんじゃないかって心配したんだぜ?」
「……最近、忙しかったからな」
「なんだよそれ、水臭いなぁ。ってかアルト、少し痩せたんじゃないか? 目の下にもクマできてるし、ちゃんと食ってるのかよ?」
あいつが顔を覗き込んでくる。純粋な心配の眼差しが、今の俺にはひどく残酷に思えた。
「……今からバイトだから」
伸ばしかけた彼の手を拒絶するように、言葉を被せ気味に言い放った。
気まずそうな顔をした彼女の横を、逃げるように通り過ぎる。
「お、おいアルト? 待てよ!」
呼び止める声を無視して、歩く。
胸の奥で、何かがぐちゃりと潰れる音がした。
――なんで、こうなったんだろう。
振り返れば、また馬鹿話をして、笑い合えるかもしれない。
そう頭では分かっていても、鉛のように重い足は止まらなかった。
視線が自然と落ちる。
昔は空を見るのが好きだった。だと言うのに今は、靴先ばかりを追っている。
顔を上げると、誰かに値踏みされている気がする。責められているようで、いつからかそれが怖くなった。
さっき別れた時、あいつはどんな顔をしていたんだろう。怒っていたのか、困っていたのか。
歩いてきた道を、ほんの少しだけ振り返る。
今なら、まだ間に合うかもしれない。バイトには遅れるけど、また友人として——。
……ないな。一方的に背を向けて、今さらどの面下げて会うんだよ。
そう思考を切り捨てようとして――ふと、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には、母さんからのメッセージとは別に一件のメッセージ。さっきの幼馴染からだった。
『誕生日にバイトなんか入れんなよ。あとで祝わせろ』
『それと痩せすぎだバカ。飯おごるから連絡くれ』
そのメッセージは、昔と変わらず優しく、温かかった。
「……はは、なんだよそれ」
今引き返して、「久しぶり」って笑って、アイツの彼女に頭を下げて。そうすればきっと、また馬鹿みたいに笑い合える。
俺が勝手に作った影の中から、一歩踏み出すだけだ。
今日は誕生日だ。今日ぐらい、変わろうとしたっていいだろう。
「よし」
胸の奥で、長い間止まっていた歯車が、動き出した気がした。
俺は踵を返し、アイツの元へ駆け出そうとして。
――周りから悲鳴が聞こえた。
さっきまでスマホを見てた奴も、赤信号で停まった車の運転手も、自販機の前の学生も、みんな一斉に空を見ていた。
つられるように、俺も空を見上げた。
遠くの空には、天を衝くほどの巨躯。全身を覆うのは古びた黄金色の甲冑のような鱗だ。その背中から生えた巨大な翼は、見るもの全てを圧倒する。
黄金色の鱗、蛇のような胴、翼を持つ空想上の怪物――【龍】。
「な……えっ……」
【ォォオオオオオオ!】
咆哮が大気を揺らした。空を覆う黄金の翼が羽ばたくだけで、突風がビルを引き千切り、トラックが空中で飴細工のように捻じ曲がる。俺たちが生きている『常識』が、ただの羽ばたき1つで蹂躙されていく。
それ以外にも豆粒のように宙を舞う無数の影――それが人じゃないか、と周りの人が騒ぐまでは理解できなかった。
――龍はこちらを向いてしまう。遠くにいる、だというのにそれだけで呼吸が出来なくなるほどの恐怖に包まれ、一歩も動けなくなってしまった。
そして、龍は作業の様に淡々と、翼を羽ばたかせた。
「ッ! 逃げ――!」
ようやく声を張り上げるが時既に遅く、翼の風圧で吹き飛んできた瓦礫が降り注ぎ、あまりの衝撃に意識を失った。
◇
熱い。痛い。
目を開けると、視界の半分が赤く染まっていた。
額から流れる血を拭い、身体にのしかかるコンクリート片を無理やり押しのける。
「ぐ、ぅ……ッ!」
激痛に悲鳴を上げながら、なんとか上体を起こし周囲を見渡す。
世界が一変していた。
ビルはへし折れ、道路は陥没し、至る所で黒煙が上がっている。
当然だが周りは瓦礫ばかりであった。あれほどの破片が当たらず瓦礫に埋もれ、切り傷程度で済んだのは奇跡だ。
「何が起こったんだ?」
確か、空に化け物が居て……そもそも、俺は夢でも見ているんじゃないか? あんな龍が現実に存在するはずがない、空を飛び、街を吹き飛ばす怪物なんて存在していい筈が無い……!
頭痛に耐えながらスマホのひび割れた画面を見ると、時計は幼馴染からのメッセージを受け取ってからわずか十数分しか進んでいなかった。
身体を起こそうと地面に手をついた時、瓦礫ではない……何か柔らかいものに触れてしまう。
俺は触れたものに視線を向け――結婚指輪らしき物が嵌められていた、誰かの手が瓦礫の山の中から飛び出していた。
「あ、あぁ」
何故気づかなかったのか、頭を打って先ほど迄の光景を忘れてしまっていたのか。先ほどまで自分と同じく空を見上げた【多くの人々】が居たじゃないか。それなのに見渡す限り瓦礫の山しか映らず、音は消え去り声どころか呼吸すら聞こえない。
嫌な考えばかり浮かび上がり、震える手で近くの瓦礫を力いっぱい持ち上げ――後悔する。
「うっ」
反射的に口元を抑える、見るべきではなかった。
心臓が痛いほど早く鼓動する。もしかしたらもう自分以外皆死んでるんじゃないか……そんな気がするほど恐怖が脳を支配していた。
そんな考えを振り払うように走り出す。
「誰か、誰か居ませんか!!」
龍に見つかる恐怖など、とうに頭から消し飛んでいた。喉が裂けるほどの声で叫ぶ。しかし、虚しいこだまが空に吸い込まれていくだけで、誰の返事もなかった。
怖い、なんで誰も返事をしないんだよ……逃げるようにこの場から走り去り母のいる実家へ向かう。
道の真ん中に、ランドセルが落ちていた。
焦げて肩紐だけが千切れ、中身はどこにも見当たらなかった。
『自分だけが助かったのではないか?』
頭の奥が、じり、と鳴った。
考えるな、と何度も言い聞かせ足を止めず走り続ける。
走って、走って……瓦礫の山が連なる公園に辿り着く。
そこは、先ほど幼馴染とすれ違い別れた場所に近かった。喉を鳴らし、中へ入る。
黒煙とひしゃげた遊具の隙間から、掠れた声が聞こえた。
「誰か、いるのか」
瓦礫の山に駆け寄る。
隙間から覗き込んだ瞬間、血の気が引いた。
そこに――さっき別れたばかりの友人がいた。
だが、見えたのは上半身だけだ。腰から下は、ビルの外壁だったであろう巨大なコンクリート塊の下敷きになっている。
「あ、アル、ト……無事、か」
「無事なわけあるかよ! 今、今助けるから!」
俺は瓦礫の縁に指をかけた。
びくともしない。数百キロはあろう岩塊が、人の手で動くはずもなかった。
それでも、爪が割れて血が滲むのも構わず、力任せに引き上げようと足掻く。
「動けよ! 動けってんだよクソッ!!」
「……やめろ、アルト」
「うるせぇ! お前、飯おごるって言ったろ! 俺まだ返事してねぇぞ!」
涙で視界が滲む。指先から血が滴り、コンクリートを赤く濡らす。
「アルト、頼む」
不意に、血まみれの手で俺の腕を掴んだ。
その力は、瀕死とは思えないほどに強かった。
「他の人を……助けて、やってくれ」
「は……? 何言って――」
「俺はもう、助からない。だから、お前が……」
ふざけるな。何が他の人だ! そんな……そんな泣きそうな顔で言われても説得力なんてないだろ……。
俺の腕を掴む指先はすっかり冷え切っている。呼吸をするたびに胸の奥で空気が漏れるような、ひどく嫌な音が鳴っていた。
「ふざけんな! 俺にそんなことできるわけないだろ!」
「……でき、るさ。お前、は……昔から……ッ」
あいつは激痛を押し殺すように顔を歪め、それでも、無理やり口角を引き上げて笑おうとした。
だが、その不器用な笑顔が完成するより早く、口からゴボリと大量の赤黒い血が溢れ出し、言葉は泥をすするような音に掻き消された。
「アルト……生き、ろ」
頭上で、不気味な軋み音が響いた。
バランスを崩した上部の鉄骨が、限界を迎えて滑り落ちる。
不意に俺の腕が強く押し返された。それが親友の最後の力だったと気づいた時には、俺は数歩分、後ろにたたらを踏んでいた。
轟音。
崩落した巨大な瓦礫が、親友の姿を完全に飲み込んだ。
「あ――」
土煙が晴れた後には、べっとりと広がる赤い血溜まりだけが残っていた。
「う、ぉ」
胃の中がひっくり返り、その場に吐いた。
助けられなかった。
何も、できなかった。
瓦礫の山と、赤い血溜まりだけが残っていた。
どうしてこうなってしまったのか。少し前までいつも通りの日常で、平和な世界だった。
世界滅びろ? 願った、確かに願ったけどただの口ずさんだだけの冗談じゃないか、本気で願うわけないだろ。何処の誰が本気で世界滅びろって願うんだよ。
頭痛が走り、視界がグラグラと不安定になる。
――なんだこれ、なんなんだよこれ。
頭がおかしくなりそうだ、母さんの顔が見たい。
俺は現実から目を逸らし、希望に縋り付き最後の気力を振り絞って実家に向けて走り出す。
走った。靴が脱げても、何度も転んでも、足の裏が傷だらけになっても、走り続けた。
通学路にあったはずのコンビニは跡形もなく消え去り、クレーターのようになっている。いつも挨拶してくれたタバコ屋の婆ちゃんの家は、原型を留めないコンクリートの墓標に変わっていた。
違う! きっと実家は無事なはずだ!
俺は何度も自分に言い聞かせた。角を曲がれば、見慣れた茶色い屋根の家があるはずだ。夕飯のカレーの匂いがして、母さんが笑って出迎えてくれるはずなんだ。
肺が引き裂けそうなほど息を吸い込み、最後の角を曲がった。
走って、走り続けて――時間だけが止まったみたいに、耳鳴りすら消えた。
家があった場所には、瓦礫だけが残っていた。
血の匂いが、はっきり分かる。
ポケットからスマホが地面に落ちる。
スマホの通知が、まだ消えていなかった。
『今日はアルトの誕生日——』
それ以上、見る必要はなかった。
遂に、心が折れた。
ストン、と。糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
たった数十分程度……たったそれだけの時間で、俺の生きた二十年の全てが、跡形もなく消え去ったのだ。
龍が、崩れたビルの瓦礫の上にゆっくりと姿を現した。
金の鱗が夕陽を反射し、まるで世界の終わりそのものみたいに輝いている。
巨体が動くたび、大地が低く唸る。
崩れたビルの残骸が、音もなく転がり落ちていく。
龍の視線が、こちらを捉えた。
その巨大な顔が、ゆっくりと、確実に俺へ向いた。
――目が合った。
その瞬間、世界から一切の「音」が消え去った。
燃え盛る炎が爆ぜる音も、遠くで崩落し続けるビルの轟音も、自分の浅い呼吸すらも聞こえない。ただ、鼓膜の奥で自身の心臓がひどくゆっくりと、重く脈打つ音だけが響いている。
引き延ばされた時間の中で、圧倒的な『死』が俺を見下ろしていた。
黄金の巨躯が、酷薄なほどゆっくりと動く。巨大な顎がわずかに開く。
喉の奥に、
逃げなきゃいけない。
なのに、指一本、瞬き1つすら動かせない。
蛇に睨まれた蛙などという生易しいものではない。絶対的な強者を前にして、俺の細胞が『ここで死ぬのだ』と絶望し、完全に活動を放棄していた。
永遠にも思える静寂の中、赤黒い熱が、極限まで膨れ上がる。
けれど、視線だけはその黄金の化け物から逸らさなかった。
恐怖はあった。絶望もあった。
だがそれ以上に、どす黒い感情が腹の底から湧き上がってくる。
――返せ、返せよ。
俺の日常を、決意した未来を、友を、家族を。
全部、お前が奪ったんだ。
俺は歯が砕けるほど食いしばり、最期の瞬間に、声にならない呪詛を吐いた。
――絶対に、許さない。
赤い光が、熱も痛みも感じる間もなく、視界を塗り潰していく。
その闇の中で、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。