白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~ 作:ポオツマス亭
互いの因縁をぶつけ合う暴行の末、オットーが呟いた『エルフリーデ』という名が、ルシエラの中に激しい感情の渦を巻き起こす。
夜の冷たい気が肌を刺す衛戍地、草むらと石畳の境目。
頭部からの出血を白布で押さえたまま、クルツは砂利混じりの土に額を深く擦り付け、熱を帯びた荒い息を吐き出した。
(そうだ……自分が何を言っているのかなど、俺にも分からん……。だが、お前たちのその冷たい視線だけが、俺を繋ぎ止めてくれる……)
自分を見放さず、冷たい言葉と蔑みの視線を投げかけ続けてくれるダークエルフの女、ルシエラ・グラート猟兵少尉。
それが、この救いようのない男にとって、唯一の甘美な救済だった。
夜の静寂の中、狂気と劣情に溺れるオークの軍事顧問──オットー・クルツ中尉と、彼を足元で踏みにじるダークエルフの冷厳な影が、湿った土の上に静かに重なり合っていた。
「お前に何が分かる、ダークエルフの少尉……!」
地面に額を押し付けたまま、クルツは引きつった笑いを引っ込め、噛み締めるように低く呟いた。
「お前に何が分かるというんだ……!」
誇り高く、気高く、戦場を駆け抜けてきたお前のような連中に、この底辺で腐り切っている俺の何が分かるというのだ。
戦う術も、誇るべき外見も、栄達する才能も持たず、ただ息をしているだけで恥にまみれるこの絶望が。
山岳猟兵連隊の凛とした軍服をまとったルシエラは、その言葉を遮ることもなく、ただ冷ややかな瞳でクルツを見下ろしていた。
微動だにしないその姿は、圧倒的な強者としての余裕と、目の前の男に対する完全な冷淡さを表している。
「『お前に何が分かる』ですか」
彼女の薄い唇がかすかに動き、氷の破片のような声が夜の闇に落ちた。
「ええ、そうかもしれませんね。あなたのような、自らの無能を言い訳にし、這いずることでしか存在を確認できない下劣な生き様の者など、私の理解の範疇の外にある……ですがね、教官殿」
ルシエラはゆっくりと身をかがめると、その冷たい手でクルツの髪を乱暴に掴み、無理やり顔を持ち上げた。
視線が交錯する。
月明かりの下、彼女の端正な顔立ちは凍てつくように美しく、その双眸には底知れぬ冷酷な光が宿っていた。
「あなたがどれほど惨めで、どれほど醜悪な存在であるか。その事実だけは、この目に痛いほど焼き付いていますよ」
頭皮を引き剥がされるような痛覚と、それ以上に脳髄を焼き焦がす圧倒的な蔑視。
クルツの全身の神経が限界を超えて跳ね上がり、喉の奥から甘美な喘ぎのような息が漏れた。
そうだ……これだ。
この容赦ない否定と、冷徹なまでの見下しこそが、空っぽの俺を繋ぎ止める唯一の鎖なのだ。
頭皮を引っ張られる痛みのなか、クルツは歪んだ笑みを張り付けたまま、目の前にそびえるダークエルフの女を見据えた。
酔いと狂気で焦点の定まらない目で、見上げる彼女の軍服──胸元に輝くアンファングリア旅団の狼徽章と、少尉を示す肩章へと視線を這わせる。
エルフィンド本国で軍事教育を受け、今はアンファングリア旅団で精強な山岳猟兵を率いるルシエラ少尉。
かたや酒にまみれて土に這いずり回るだけの、役立たずな『上官』である自分。
この軍隊という階級制度の皮肉な歪みが、クルツの自虐的な心をさらに激しく煽り立てた。
「種族としては格上の少尉様にお願いだ……階級章こそ俺が1つ上だが、お前たちから見れば俺なんて虫けら同然だろ……!」
「自覚がおありなら結構です」
「どうした、お前のその階級章にかけて、この役立たずの『上官』を苛烈に打ち据えてくれよ……! それとも、こんな見窄らしい男に触れるのも汚らわしいか?」
「……不潔極まりないですね」
ルシエラの手が離され、クルツの頭が砂利の上に落ちた。
クルツは「ん、なろ……っ」と情けない唸り声を漏らし、無様に這い上がろうと足掻いた。
だが、胃の腑を焼いた安物の蒸留酒が全身の神経を麻痺させている。
酷く酔い痴れた肉体は全く自分の思い通りに動かず、立ち上がろうとしては足をもつれさせ、再び硬い地面へと投げ出された。
「くそっ……!」
「ふん……中尉の階級章を身に纏いながら、そのざまは何ですか。まともに立つこともできない穀潰しですね」
「くくっ、あは……そうだ、俺は立てないよ……。お前の足元で、こうして這いずるしか能がないんだからよ……」
滑稽に転がったまま、クルツは気色悪い笑みを浮かべ、再び地面にぐにゃりと体を預けた。
そして不敵とも狂気ともつかない眼差しで、ルシエラを見上げる。
「だが、お前らを指導するためにわざわざ派遣されたんだ。敬意ってもんがあるだろ、え、少尉」
その挑発を聞いた瞬間、ルシエラの美しい眉がピクリと険しく吊り上がった。
「……敬意、ですか」
彼女は冷ややかに鼻を鳴らし、クルツの肩を軍靴の底で強く踏みつけた。
グッ、と圧し潰される重みが、クルツの神経を痺れさせる。
「よくもそんな口が叩けたものですね。私たちを指導する軍事顧問? 冗談も休み休み言いなさい。教本を棒読みするしか能がなく、自分の足で立つこともできない醜いオークが、どの面下げてそんな口を叩くのですか」
「そうだ……俺は教官だ……お前たちのような誇り高いエルフを教える立場のはずなのに、このざまだよ……だからこそ……敬意の代わりに、お前のその冷たい足で、もっと深く踏みつけてくれよ……!」
「どこまでも救い難い狂人ですね」
「俺たちオーク族を軽蔑してるんだろ、やれよ、ダークエルフ! お前らはいつも俺らを見下していたんだろ! 俺の祖父も、その兄弟もロザリンド会戦で死んだ! お前らに殺されたんだよ!」
夜の静寂を切り裂くようなクルツの叫び。
ロザリンド会戦──かつてオルクセンとエルフィンドが激突し、無数の血が流れた歴史的決戦。
祖父たちの世代が誇りを懸けて戦い、そして散っていった戦場。
ルシエラの瞳がわずかに揺らぎ、次の瞬間、彼女の足にかけられる全体重の負荷が増した。
肋骨が軋む重圧。
「あなたの先祖が、あの戦場で死んだと? エルフの手によって屠られたと、そう言いたいわけですか」
「そうだ……! 誇り高いエルフの戦士たちに殺されたんだ! だから俺を憎め、見下せ! 兄貴分たちの代わりに、この役立たずの俺を踏み殺してくれよ!」
「……亡くなったご先祖も、草葉の陰で呆れているでしょうね。子孫がこのような下劣な感傷と劣等感の道具に己の死を使っているなど」
「そうだ……俺は狂ってるさ……! だからもっと罵れ、俺を虫けらのように扱ってくれ……!」
クルツは沙汰を待つ罪人のように息を荒げた。
さらにあざけるように声を張り上げる。
「なんだ、オーク一頭なぶれない、腰抜けエルフが……。かつて俺たちの祖先を殺し尽くした誇りはどこへ行った? そんなんで、本当に白エルフに勝てるのかよ」
白エルフ──母国を追われた彼女たちアンファングリア旅団にとって、最も触れてはならない逆鱗。
ルシエラはクルツの肩を踏みつけていた足を外し、頬のすぐ横の砂利を激しく踏み荒らした。
鋭い衝撃音が弾け、飛び散った砂礫がクルツの肌をかすめて微かな血が滲む。
「……口の利き方に気をつけなさいよ、オークの分際で」
ルシエラの声から、鋭い刃のような殺意が滲み出ていた。
「白エルフに勝てるか、ですって? 私たちを誰だと思っているのですか! ロザリンドの苦難を生き抜き、極寒のシルヴァン川を越えて、この地で再び剣を抜くために集まった高貴なる戦士たちを──あなたのような、酒に溺れて這いずるだけのクズと一緒にしないでください」
「はっ……図星かよ……! いくら威勢のいいことを言ったって、お前らはエルフィンドから逃げてきた敗者だろ! 俺と同じ、負け犬の群れじゃねえか! だから俺みたいな無能なオークを前にして、鬱憤を晴らすしかねえんだろ……!」
殺されるかもしれない。
その恐怖と期待が混ざり合った極限の緊張感が、クルツの神経を最高潮に昂らせた。
「殺せるものなら殺してみろよ、
しかし、ルシエラはふっと動きを止め、凍りついたような冷笑を浮かべた。
「……殺す? そんな慈悲をあなたに与えるとでも?」
彼女は軍靴をクルツの肩から外し、見下したまま言った。
「あなたは、私たちが白エルフを打ち破るその日まで、このヴァルターベルクの片隅で、私たちの踏み台として這いずり回りなさい。それが唯一の存在価値です」
「ああ……そうだな……俺は踏み台だ……!」
クルツは転がったまま、服のポケットからまだ半分ほど残っていた蒸留酒の瓶を掴み取ると、歯でキャップを引き抜き、喉へ向かってぐいと煽った。
「なあ……お前も呑むか?」
呂律の回らない声で酒瓶を突き出す。
ルシエラは無表情のまま、軍靴のつま先でその瓶を容赦なく蹴り飛ばした。
ガシャリ!
ガラスが激しく砕け散り、安酒の匂いが夜気に広がる。
「あはは……割ってくれたな。まあいいさ……」
「酒を飲む資格すらありませんね。ですが安心しなさい。明日からは、その酔いを一気に覚まして差し上げます」
ルシエラは再び一歩踏み出し、今度はクルツの胸元を勢いよく踏みつけた。
「生きてきたことを後悔するほど、みっちりと『特別教練』を叩き込んであげましょう」
その足首を、クルツの節くれだった手が掴んだ。
硬いゲートルと軍靴の感触。その奥にある彼女の細い足首の骨組み。
「もっと強く踏めよ……」
「……死にたいのですか」
「もっとだ、もっと深く心臓まで踏み抜いてくれ……! なんだ、その眼差し……いいな……」
月明かりの下、彼女の瞳にはこの世の全てを軽蔑し切ったような冷酷さが宿っていた。
「……狂人め。そこまで踏みつけられたいと言うのなら、骨の髄まで味わわせて差し上げますよ」
「どうせなら……俺の部屋でやってくれ。寝るのも楽だ」
あえぐようなクルツの言葉に、ルシエラの眉が不快げに動いた。
「随分と都合の良い提案ですね……いいでしょう。そこまでして己の巣穴へ誘いたいというのなら、望み通りにして差し上げます」
ルシエラはクルツの襟元を掴み上げ、強引に立たせた。
足腰の立たないクルツを引きずるようにして、彼女は宿舎の建物へと歩き出す。
引きずられ、冷たい廊下の空気を吸ううちに少し酔いがさめたクルツの濁った頭の片隅に、ふとまともな疑問が浮かんだ。
(ん? なんだ……冗談のつもりだったのに、本当に付いてきやがったのか? 嫌悪に満ちた顔で俺の自室に入ろうとする女エルフ)
嫌いならば放置すればいい。
どうでもいいなら夜道に捨てておけばいいはずだ。
「おい……俺を嫌ってんだろ」
ルシエラは足を止め、振り返った。
「何を当たり前のことを言っているのです。吐き気がするほどの嫌悪感ですよ。ですが、放置すればあなたは明日も同じように酔いにまみれ、私たちの訓練を台無しにする。だからこそ、私の目の届く場所で、一晩かけて徹底的に叩き直してやるのです」
(……どういう状況だ? 普通、嫌ってるやつの部屋なんか行くか? なにをやってんだ、俺は……?)
理性が一瞬警鐘を鳴らす。
クルツはガリッと足を踏ん張り、襟元を引き剥がそうとした。
「ええい、だいじょうぶだ! 酔いもさめた、明日もなんとかなる! お前は帰れよ!」
だが、ルシエラは逃がさなかった。
稲妻のような速さで再び襟元を掴み上げる。
「今さら逃げられるとでもお思いですか?」
「おい、かんべんしろ……! 部屋に教官と女エルフじゃあ、あとで問題になる……!」
「問題、ですか。今さら世間体を気にするほどの高潔さが残っているとでも? むしろ噂が広まれば、あなたがどれほど救い難い無能か証明されて好都合ではありませんか」
「くっ……!」
廊下の突き当たり、クルツの私室の前にたどり着くと、ルシエラは躊躇なくドアノブを回した。
そのまま強引に扉が押し開けられ、クルツは暗い私室の中へと放り込まれた。
「なにするつもりだ……」
壁に背をつけたクルツが問うと、ルシエラは冷たい微笑を浮かべ、腰のベルトを引き締めた。
「教官としての『自覚』を叩き込むのです」
間髪を入れず、パン! と乾いた高い音が狭い室内に響き渡った。
平手の衝撃でクルツの顔が大きく横へ揺れ、頬にヒリヒリとした熱い痛みが走る。
「ぐ、あぁっ……!」
「声が大きいですね。外に聞こえたら『問題』になりますよ? ほら、大人しくしなさい」
「満足か……! 酔った牡を平手で叩いて、女としての優越感に浸ってんのか、クソエルフが!」
「……今、何と言いましたか?」
ルシエラの表情から、初めて明確な怒りが溢れ出た。
彼女の手がクルツの首筋を絞めあげ、反対の拳がクルツの腹部へと叩き込まれる。
ドガッ!
「ぐはっ……!」
空気が肺から吐き出され、クルツは膝を折りかけた。
しかし、その顔には狂おしい歓喜が浮かんでいた。
「ふ、ふははは……効くな、イイ拳だ……。祖父たちを殺したのは、お前たちの身内に違いない……!」
「不快な口で二度とその死者を語るな!」
ルシエラはクルツの胸倉を掴み上げ、激しく壁へと叩きつけた。
背骨が悲鳴を上げる。
「殴る相手が違うだろうよ! お前らが矛を向ける相手は白エルフだろうに! それとも、かつてロザリンドで戦った俺たちオークの血が、まだ恐ろしいのか……!」
「黙りなさい……!」
ルシエラの冷徹な瞳が、軍紀も理性を焼き尽くすほどの憎悪に染まる。下劣なオークの中尉に階級を超えて拳を振るう暴挙──その罪すら失念するほどの激怒。
クルツは窒息しそうな苦しみの中で、叫び続けた。
「俺がここにきてこうなったのがわかるか……! お前らが美しすぎるからだ! お前らを見るたびに俺は自分が嫌になるんだ……! 殺せよ! 美しいお前らに殺されるなら、本望だ……!」
自虐と劣情、そして敗北感のすべてをぶちまけるクルツ。
ルシエラの美しい栗色の髪が揺れ、その顔に吐き気を催すような嫌悪が広がった。
「私たちの美しさが、あなたの堕落の言い訳ですか……どこまで下劣な……!」
その時だった。
クルツの濁った脳髄の奥で、酒の熱と痛みが妙な回路を繋ぎ合わせた。
目の前で自分を殺さんばかりに冷酷な目を向ける美しいエルフの姿が、過去の幻影と重なり合う。
クルツは胸を押さえつけられながら、うっとりと目を潤ませ、決定的な一言を吐き捨てた。
「あぁ……愛してるよ、エルフリーデ……!」
ルシエラの動きが完全に止まった。
冷徹な顔立ちが、怒りを超えた激怒と侮蔑で激しく震える。
「……何を……?」
「お前も……あの女も一緒だ……俺を置いていくんだ……だから、ここで殺してくれよ、エルフリーデ……!」
(エルフリーデ……? オークの分際で、私を別の女の影と重ねているというのか……!)
「ふざけるな……! 目の前の私を見ず、そんな女の名を呼んで身わりに定めるつもりか……!」
ルシエラの拳が振り上げられた。
そこにあったのは、もはや軍紀の指導でも折檻でもない。
一人の女としての、そして誇り高き戦士としてのプライドを汚されたことに対する、剥き出しの破壊衝動だった。
ドガッ! ガツン!
「死ね……! あなたのような狂人、私がここで肉塊に変えてあげます……!」
顔面を打ち抜かれ、頭部が背後の壁に激しく衝突する。
視界が真っ白に染まり、強烈な耳鳴りが脳内を支配した。
「ふ、っふ……は、はは……なんだ……死ぬ間際に、愛する女の名前を言って……何が悪い……」
情けない喘鳴を漏らしながらも、クルツの口元にはどこまでも歪んだ、甘美な笑みが張り付いていた。
殴りつける拳の感触。
しかし、どれほど痛めつけても、この男の瞳から絶望も屈辱も消えない。
それどころか、血と痛みを食らって恍惚と輝きを増していく。
(何なのです、この男は……。私を、白エルフへの憎悪すら忘れるほどの激怒に叩き落としておいて、なぜこれほど満たされた顔をしている……?)
叩きのめされた顔面から血を流しながら、うっとりと自分を見上げるオークの瞳。
そこにあるのは、単なる変質者の狂気ではない。
一切の偽りがない、剥き出しの純粋な「渇望」だった。
怒りと同時に、ルシエラの胸の奥で冷たい戦慄と、名付けようのない感情が芽生えていた。
放置してこの汚らわしい部屋を去ることもできたはずだ。
だが、自分をこれほどまでに乱した男を、このまま夜の中に置き去りにすることなどできなかった。
「どこまでも……不快な牡が……」
荒い息を吐きながら拳を下ろしたルシエラは、気を失いかけたクルツの顔から溢れる血を、不機嫌そうに手拭いで乱暴に拭い去った。
殴りつけた己の拳に残る熱と、彼がうわ言で漏らした『エルフリーデ』という名に潜む、あまりにも深すぎる傷の残滓。
それがなぜか、彼女の胸の奥を鋭く刺して離さなかった。
明日の訓練のための監視──そう己に苦しい言い訳をしながら、彼女は部屋の椅子を引き寄せて腰掛け、冷ややかな、けれどどこか捨てきれない瞳で倒れたオークを見張り続けていた。
──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)
圧倒的な暴力と蔑み、そして冷酷な美しさの渦中で、クルツは救いようのない恍惚に身を浸しながら、ゆっくりと漆黒の闇の底へと落ちていった。
⇒第3話に続く