白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~   作:ポオツマス亭

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星暦八七六年【3】  第1章《猟兵少尉ルシエラ・グラート③》

重い瞼を持ち上げた瞬間、割れるような頭痛と顔面の激痛が脳髄を直撃した。

 

昨夜、ルシエラにさんざんに殴りつけられた痕だ。

 

頬は腫れ上がり、背骨の節々には壁に叩きつけられた衝撃の残滓が重く刺さっていた。

 

「ぐ、う……っ」

 

かすれた呻き声を漏らしながら、クルツは私室の冷たい床の上でゆっくりと身を起こした。

 

室内には、すでにあの可憐で冷酷なダークエルフの姿はなかった。

 

朝の青白い光が窓から差し込み、殺風景な部屋を寂しげに照らしている。

 

昨夜の惨劇と狂気が嘘だったかのように、静寂だけが広がっていた。

 

(あの女……逃げ出したか)

 

自嘲気味に息を吐き捨て、顔を洗おうと立ち上がった時、クルツは己の身体に違和感を覚えた。

 

額から頬にかけて、昨夜負った痛々しい傷口に、丁寧な手当てが施されていたのだ。

 

傷ついた頭部と切れ上がった唇、平手で裂けた皮膚の上には、痛みを和らげる傷薬が丁寧に塗られ、その上から一切の狂いなく真っ白な包帯が巻かれている。

 

軍隊の衛生兵も顔負けの、隙のない完璧な処置だった。

 

「……なんなんだ」

 

クルツは自分の額に触れ、ぽつりと呟いた。

 

あれほど自分を不快がり、殺意すら抱いて叩きのめしていった女が、なぜ自分が眠りについたあと、このような気遣いをして去っていったのか。

 

昨夜の「エルフリーデ」という呼び間違いに対する激怒。

 

殴りつける拳の熱さ。

 

そして、この冷徹な手当の痕跡。

 

わけが分からなかった。

 

胸の奥に嫌な不快感と、それ以上に解き明かせない妙な疼きが残る。

 

気分の晴れぬまま、クルツは頑丈な体で重い軍服に袖を通し、将校帽を深く被り直して出勤した。

 

ヴァルターベルクの朝の冷気は冷たく、彼の重い足取りをあざ笑うかのように肌を刺した。

 

「指導教官室」の重厚な木製扉を開けると、室内にはすでに早朝から山積みの書類と格闘している同僚のオーク族将校たちの熱気が満ちていた。

 

煙草の煙と安い珈琲の匂い。

 

その中に、顔面を包帯で覆ったクルツが入ってきたものだから、室内の視線が一斉に集まった。

 

「おいおい、どうした、酒場でケンカでもしたか?」

 

デスクの奥から顔を上げたのは、軍事顧問団長を務める大柄なオークの中佐だった。

 

眉間に刻まれた傷跡を滑らかに動かし、呆れたような視線を送ってくる。

 

「はあ、酔い過ぎましたが、大丈夫です」

 

クルツは軍帽の庇を指で押し下げ、腫れた口元を隠すように不器用に答えた。

 

すると、隣のデスクにいた教官が書類から目を離し、腹を抱えて不敵に笑った。

 

「若さ故なら構わんが、その『白煉(はくれん)』のお前の顔が少しは血色がよくなったかと思ったが、逆に青くなったな!」

 

その冗談に、殺風景だった指導教官室が一瞬でワッと湧き立った。

 

同僚の教官たちが「おいおい、どこの酒場の女にフラれたんだ」「顧問団の面汚しになるなよ」と口々に冷やかし、室内は野太い笑い声に包まれる。

 

普段なら、こうした同族からの軽口すら自虐の肥やしにして深く沈み込むところだったが、今朝のクルツの頭の中は、あの手当ての感触で一杯だった。

 

「──静かにしろ、貴様ら」

 

教官室の奥から、低く重みのある声が響いた。顧問団副団長を務める猟兵大尉だった。

 

彼は笑い転げる教官たちをひと睨みで黙らせると、書類の束を整えながらクルツへと歩み寄ってきた。

 

「中尉、午前の行進訓練に参加できそうか? 俺の補助を頼むぞ」

 

「はっ……問題ありません」

 

クルツは姿勢を正した。

 

猟兵大尉はクルツの包帯に巻かれた顔をじっと見つめ、ため息交じりにその肩をポンと叩いた。

 

「おい、酒はほどほどにしておけよ。お前は、その卓越した山地戦術を買われてこの軍事顧問団に選ばれているんだからな。私生活で自滅されては困る」

 

「……了解しました」

 

その言葉に、クルツの胸の奥で軍人としての小さな矜持が疼いた。

 

そうだ。

 

自分はただの不細工で哀れなオークではない。

 

少なくとも戦術教本を開き、山地での部隊運用を指揮させれば、国軍の中でも一目を置かれる存在なのだ。

 

どれほど自分が嫌いでも、どれほど己の存在が不快であろうとも、職務だけは完璧にこなさなければならない。

 

ヴァルターベルク後方に聳え立つ山岳地帯。

 

急勾配の岩肌と、露を吸った滑りやすい濡れ落ち葉が広がる、過酷な訓練場。

 

午前の訓練は、重装備を背負った状態での「急襲・縦隊行進訓練」だった。

 

岩盤のように硬い地層と、踏み外せば数十メートル下へ滑落する断崖絶壁。

 

判断を一つ誤れば、簡単に骨が折れ、あるいは命を落とす危険な行進だ。

 

クルツは副指導者として、行進隊列の「殿(しんがり)」に位置取っていた。

 

行進の最後尾から全体を見渡し、脱落者が出ないか、隊列の歩調が狂っていないかを鋭い眼差しで監視する。

 

「歩幅を一定に保て! 岩場では重心を低く落とせ! 滑落すれば己だけでなく後続の命を奪うと知れ!」

 

先頭を行く猟兵大尉の怒号が響き渡る。

 

クルツは背嚢を背負い、包帯の巻かれた頭の痛みを押し殺しながら、確実に足場を踏みしめて進んだ。

 

酒気は完全に抜け切っていた。

 

頑健な体のおかげで外傷も治ってきた。

 

彼の脳内にあるのは、ヴァルターベルクの複雑な地形データと、山岳気象の動向、そして兵士たちの体幹のブレを瞬時に見抜く冷徹な戦術眼だけだ。

 

酩酊して草場に倒れていた男と同一人物とは思えないほど、その足取りには確かな重心があり、後ろ姿には軍事顧問としての絶対的な威厳が宿っていた。

 

その時だった。

 

隊列の中盤、岩場を軽やかに踏破していく一隊の中に、栗色の髪をたなびかせる将校の姿が──クルツの視界に飛び込んできた。

 

ルシエラ・グラート猟兵少尉。

 

アンファングリア旅団傘下、山岳猟兵連隊第一猟兵中隊第一小隊を率いる彼女は、過酷な登攀ルートにおいても一切の乱れを見せず、研ぎ澄まされた刃のように美しい跳躍で岩肌を越えていた。

 

(……ルシエラ少尉)

 

クルツの足が、わずかに踏み込みを深くした。

 

昨夜、己の部屋で荒々しく自分を打ちのめし、そして夜明け前に不器用な優しさすら感じさせる完璧な手当てを残していった女。

 

彼女もまた、周囲の部下たちに指示を出しながら、ふと行進の最後尾──殿に立つオットー・クルツの姿へと視線を走らせた。

 

二人の視線が、過酷な山地の風の中で静かに交錯する。

 

行進の距離を隔てながらも、ルシエラの透き通るような赤い瞳が、驚きに一瞬大きく見開かれるのが見えた。

 

そこにいたのは、地べたを這いずり回り、酒臭い息を撒き散らして己の靴底に縋り付いていた「情けないオーク」ではなかった。

 

峻険な山道を寸分の狂いもなく踏破し、鋭い眼光で部隊全体を完璧に統括する、極めて有能で冷徹な「軍事顧問」の姿だったからだ。

 

ルシエラの眉が、微かに揺れた。

 

昨夜、自分が殴り倒したその傷口に塗った軟膏と包帯。

 

それが朝の光の中で、彼の白い皮膚と黒い軍服の間で異様な存在感を放っている。

 

クルツは彼女の視線を避けることなく、軍人としての冷酷な眼差しで見返した。

 

(お前がどれほど俺を蔑もうと……俺はこの職務において、お前たちに隙を見せるつもりはない)

 

言葉は交わさない。

 

だが、急勾配の岩場を登り詰める過酷な行軍の中で、互いの息遣いと足音が重なり合っていく。

 

ルシエラはフンと冷ややかに鼻を鳴らすと、素早く前方に視線を戻し、より一層鋭い踏み込みで部下たちを牽引し始めた。

 

その背中には、昨夜のような単なる「嫌悪」や「見下し」だけではない、一人の優秀な指導官に対する張り詰めた対抗心と、妙に惹きつけられたような緊張感が漂っていた。

 

行進が山頂の開けた岩場に達し、一時休憩が宣言された時のことだった。

 

兵士たちが息を整え、水筒の水を口にする中、クルツは少し離れた崖の端に立ち、風の向きと雲の流れを観察していた。

 

そこへ、カツンと硬い軍靴の音が近づいてきた。

 

振り返ると、ルシエラが水筒を手に、凛とした、しかしどこか昨夜とは違う眼差しで立っていた。

 

「……随分と、しゃんと歩けるではないですか、クルツ中尉殿」

 

彼女の声には、昨夜のような激越な殺意はなかった。

 

代わりに、冷ややかだがどこか探るような、静かな響きが含まれている。

 

「職務だからな、ルシエラ少尉」

 

クルツは包帯越しに痛む顎を動かし、低く答えた。

 

私事(プライベート)ならどこで潰れていようが構わんが、私は国軍の中尉だ。訓練場で無様な真似は見せん」

 

「……へぇ、昨夜、私の足元で『自分には何もない』と泣き言を並べ立てていた方と同一人物とは思えませんね」

 

ルシエラはそう吐き捨てながらも、自分のポケットから小さな薬瓶を取り出すと、無造作にクルツの胸元へ押し付けた。

 

「……何だ、これは」

 

「我々ダークエルフに伝わる特製の消炎膏です。……あなたのその見苦しい包帯姿が訓練の邪魔になります。昼休憩の間に塗り直しなさい」

 

そう言うと、彼女はクルツの返事も待たずに、くるりと背を向けて歩き出そうとした。

 

クルツは手の中の小さな薬瓶を見つめ、不器用に口を開いた。

 

「……少尉」

 

ルシエラが足を止める。

 

振り返りはしないが、栗色の髪が風に揺れていた。

 

「朝の手当て……礼を言う」

 

静寂が二人を包んだ。

 

ルシエラは一瞬、肩を微かに揺らした。

 

そして、顔だけを少しだけこちらに向け、凍てつくように美しい横顔で、かすかに唇の端を上げた。

 

「……勘違いしないでください、中尉殿。私は、指導官であるあなたが怪我で動けなくなり、私たちの訓練日程に支障が出るのが不快だっただけです。……それ以上でも、それ以下でもありません」

 

「……そうか」

 

「ですが……」

 

ルシエラは完全に振り返り、透き通るような赤色の瞳で、しっかりとクルツの目を見据えた。

 

「酒に逃げず、そうやって軍人として立っている時のあなたなら……少しは、私たちの顧問として『指導』を受ける価値もあるというものです」

 

その言葉には、かつて路地裏で投げつけられた「不潔な豚頭(オーク)」という完全な拒絶の響きはなかった。

 

過酷な山地で、互いの実力と存在を認め合った者だけが交わす、厳しくも確かな「繋がり」の芽生え。

 

クルツの胸の奥で、甘美な自虐とはまた異なる、熱く静かな感情が広がっていった。

 

(ああ……そうか)

 

彼女は、自分をただの踏み台として見捨てたわけではない。

 

自分が己の醜さに悶絶し、苦しみながらも軍人として立とうとするその姿を、あの冷たい瞳で見続けようとしているのだ。

 

ルシエラが部下たちの元へ戻っていく後ろ姿を見送りながら、クルツは薬瓶を強く握りしめた。

 

太陽が山肌を照らし、冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。

 

絶望的な自己嫌悪と、届かぬ美への渇望。

 

そして、その狭間で確かに引き寄せ合ってしまう二人。

 

クルツは深く息を吐き出し、己の内に渦巻く歪んだ歓喜と、これから始まるであろう過酷で狂おしい日々に思いを馳せた。

 

──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)

 

その暗鬱で美しき地獄の底で、クルツは初めて、自分がこの冷酷なダークエルフの女とともに、二度と引き返せない深淵へと沈み込んでいく確かな予感を抱いていた。

 

 

⇒第4話に続く

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