白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~ 作:ポオツマス亭
ルシエラが部下たちの待つ隊列へと戻っていった、まさにその直後のことだった。
山を渡る風の湿度が、肌を刺すような冷たさを伴って急激に変化した。
耳奥を打つ風切り音が低く湿った重音へと変わり、上空を覆う雲が気味の悪い黒紫色へと急速に増殖していく。
ヴァルターベルクの山岳地帯特有の、突発的な局地的大雨の予兆だった。
(……風が変わった)
クルツの思考は、即座に「軍事顧問」としての冷徹な回路へと切り替わった。
先頭を行く顧問団の猟兵大尉へ伝令を走らせる猶予すら惜しかった。
山地における悪天候の襲来は、数分の判断の遅れがそのまま一個小隊の全滅を意味する。
天候の急変には臨機応変、即断即決で対応しなければならない。
クルツは太い喉を震わせ、山肌全体に響き渡るような力強い怒号を張り上げた。
「全員足を止めろ! 風が変わったぞ! 天候が急変する、直ちに雨具を着用しろ!」
瞬時に近くの伝令兵を引き寄せると、鋭い眼光で命じる。
「先頭の大尉殿へ伝令! 局地的大雨が来る、ただちに安全な撤退ルートへの移行を要請する! 準備ができた隊から順次出発させろ、
伝令兵が岩場を駆け抜けていくのとほぼ同時に、天の底が抜けたかのような激しい豪雨が山肌を叩きつけた。
視界が一瞬で真っ白に染まるほどの濁流の雨。
乾燥していた岩肌と湿った腐植土は、叩きつける雨滴によってあっという間に泥濘へと変貌した。
足を踏み込むたびにズルリと不気味な感触を残して土壌が崩れ落ち、靴底のグリップを容赦なく奪っていく。
訓練ルートの終盤に位置するこの下山路は、片側が切り立った岩壁、もう片側が視界の霞む深い谷底へと落ち込む断崖絶壁だった。
一歩でも足場を見誤れば、数十メートル下の岩盤へと叩きつけられる死の難所である。
「慌てるな! 一人ずつ、ゆっくり行け……! ここは難所だ! 前の奴の足場を信用するな、己の足で確実な支点を探せ!」
クルツの叫びが嵐の音を切り裂く。
昨夜、ルシエラによって痛めつけられた顔面や背骨、そして頭部の傷口が、雨水を含んで激痛の悲鳴を上げていた。
だが、クルツはその全身の痛みを圧し折るように筋力を爆発させ、濡れた岩肌に手足を力強く押し当てた。
自ら最前線で手本を示しながら、滑りやすい岩の突起や、泥に埋もれた確実な足場を指示していく。
「そこだ! その割れ目に爪先をねじ込め! 膝のクッションを使え! 体重を谷側に傾けるな!」
泥まみれになりながらも、クルツの動作には一切の迷いがなかった。
自らの無骨で病的な白い肉体など、ここではただの頑丈な「支柱」に過ぎない。
部隊を安全に通過させるため、彼は猛烈な雨の中で仁王立ちとなり、滑り落ちそうになる兵士の背嚢を太い腕一本で掴み上げては、確実な足場へと押し戻した。
ダークエルフの女性兵士たちは、普段なら蔑みの視線を向けるオークの顧問が、泥と血に塗れながら命がけで自分たちの足元を支える姿に息を呑み、必死の思いで難所を踏破していった。
大部分の隊列がどうにか難所を降り切り、残すところ最後の一個班となった、その時だった。
ゴォン、と山全体を揺らすような気味の悪い重低音が轟いた。
突如として峡谷の隙間から吹き荒れたのは、豪雨を伴う強烈な「突風」だった。
「ひっ……!?」
最後尾付近を歩いていた山岳猟兵の女性兵士が、風圧と崩れた足場に煽られ、体勢を激しく崩した。
濁流とともに斜面が大きく崩落する。
「危ない……!」
すぐ後ろにいたルシエラ少尉が瞬時に手を伸ばし、滑りかけた部下の襟元を掴み引き戻した。
だが、その反動と崩落の余波が、ルシエラ自身の足元を直撃する。
ズルッ!
「くっ……!?」
崩れ去る土砂とともに、ルシエラの華奢な体が崖下へと放り出されかけた。
栗色の髪が雨と風に狂わしく舞い、彼女の透き通るような赤色の瞳に、一瞬だけ「死」の予感が走る。
次の瞬間、死の淵へと落ちていくルシエラの細い手首を、鉄の万力のような力強い手が力任せに掴み上げた。
「──掴んでいろ!」
濁流のような雨の中で叫んだのは、クルツだった。
クルツは崖のわずかな岩の角に左手を叩きつけ、指の爪が剥がれるほどの力で支点を確保すると、半身を断崖から乗り出すようにして右手一本でルシエラの体を……いや、彼女の命を繋ぎ止めていた。
「中尉、殿……!?」
風雨が激しく吹き荒れる中、宙吊りになったルシエラは息を呑んだ。
見上げる先には、濡れ鼠となり、頭部の包帯から滲み出た鮮血が雨水とともに顔面を赤く染めているオットー・クルツの凄絶な面容があった。
アルビノの病的なまでに白い皮膚の上に、頭部からの赤、そして山肌の黒い泥が入り混じる。
その顔は、およそこの世の美しさとはかけ離れた、醜悪で恐ろしい鬼神のようだった。
だが、その目は──激痛に耐え、己の肉体が千切れ飛ぶことも厭わずに自分を見つめるその瞳は、狂おしいほどに澄み切っていた。
「上へ……引き上げる! 足を崖の割れ目にかけろ、少尉!」
「くっ……! はあぁぁっ!」
クルツの腕力に引き上げられ、ルシエラは足元のわずかな突起を蹴って、どうにか岩場の上へと這い上がった。
二人して泥まみれになりながら岩肌に倒れ込む。
豪雨はなおも容赦なく叩きつけ、周囲は激しい嵐の音に包まれていた。
救われた兵士たちが「少尉!」「中尉殿!」と叫び声を上げる中、ルシエラは荒い息を吐きながら、自分を庇うように泥の上に膝をついているクルツを見上げた。
クルツの右手の指からは血が流れ、左手の爪は割れて岩肌に黒い血痕を残していた。
「……正気ですか、あなた様は」
ルシエラは肩を激しく上下させ、雨水に濡れた唇を震わせた。
「私を……私たちのような、あなたを蔑み、殴りつけた者を救うために……なぜ、そこまでして己の命を投げ出すのですか……! 死ぬ気だったのですか!?」
そこにあったのは、単なる感謝ではない。
理解不能な怪物に対する、怒りと混乱の混ざり合った叫びだった。
クルツは血と雨水に濡れた顔をゆっくりと上げ、荒い息の合間に、不格好な唇の端を歪めて見せた。
「ハハ……何を言う……少尉……」
クルツの喉から、掠れた嘲笑が漏れ出す。
「命を投げ出す……? 違うな……。私はただ……指導教官としての職務を果たしただけだ……」
泥に塗れた手を不器用に動かし、クルツは己の胸元……冷たい雨に打たれる軍服の階級章を指し示した。
「言ったはずだ……私には何もない……誇りも、美しさも、愛される資格もない……。だが、この中尉という階級と、顧問としての責任だけは……私という醜悪なオークに唯一残された『鎖』なのだ……」
雨水が彼の傷口を洗い流し、鮮血が再び頬を伝う。
クルツは目を細め、目の前に座り込むルシエラの、嵐の中でも衰えない気高き美しさを見つめた。
「お前たちが……どれほど私を不潔と蔑もうと……その美しく気高い脚が、泥に塗れて折れることなど……あってはならない……。お前たちは……輝いていなければならないのだ……」
それは、狂気だった。
己をどこまでも低く貶め、卑下しながらも、目の前の美しき存在を守るためなら己の肉体が砕け散ることすら快楽として受け入れる、救いようのない歪んだ高潔さ。
ルシエラは絶句した。
昨夜、己の部屋で自分に殴られながら「愛してるよ」とうわ言を漏らした男。
自分を虐げ、罵倒することを望み、自虐の泥沼で溺れていた男。
だが、その惨めな自虐の裏側にあったのは、単なるマゾヒズムなどではない。
「美しき者への過剰なまでの偶像化」と「それになれない己の存在への完膚なきまでの絶望」が生み出した、狂おしいほどの自己犠牲だったのだ。
(この男は……自分という存在を、はじめから殺している……)
ルシエラの胸の奥で、激しい衝撃と、苛立ちにも似た熱い感情が渦巻いた。
不快だ。
あまりにも不快で、そして……あまりにも胸を刺す。
自分たちダークエルフをどこまでも高貴な存在として見上げ、その足元で泥を啜りながら、命がけで自分たちを支えてみせるこのオーク。
「……どこまでも、どこまでも……滑稽で救い難い狂人ですね、あなたは」
ルシエラは震える手で雨水を拭うと、泥の中から立ち上がり、クルツの前へと歩み寄った。
そして、冷たい、しかし昨夜の殺意とは明らかに異なる「重み」を宿した瞳で、クルツを見下ろした。
「勝手に死なれては困るのです、クルツ中尉。あなたには……私が白エルフを打ち倒し、誇りを取り戻すその日まで……その醜い体で、私の足元を支え続けてもらわねばならないのですから」
「……フフ……そうだな……それが……俺の居場所だ……」
クルツは自嘲するように目を閉じ、泥の上に深く身体を横たえた。
嵐がようやく去り始め、峡谷の間にわずかな陽光が差し込み始めた頃、部隊はどうにか全小隊の撤退を完了させていた。
誰一人として脱落者を出すことなく、過酷な局地的大雨を乗り切ったのだ。
撤退完了の報告を受けた顧問団長の中佐は、泥と血に塗れながら帰還したクルツの肩を強く叩き、「見事な危機管理だ、中尉」と心からの称讃を贈った。
同僚のオークたちも、今や彼を嘲笑う者など一人もいなかった。
全員が、山岳地帯におけるクルツの冷徹で完璧な指揮能力に、脱帽していたのだ。
だが、クルツ本人はその称讃の輪から静かに離れ、後方の木陰で一人、荒い息を整えていた。
手首の皮膚は裂け、全身の筋肉は激しい疲労で痙攣している。
(……何をやっているのだ、私は)
一人になると、途端にいつもの呪いが脳内を支配し始める。
部下を救った? 軍事顧問としての責務を果たした?
ハハ、笑わせるな。
自分はただ、あの美しいダークエルフの女の手首を掴み、その冷たい視線を間近で浴びたかっただけではないのか。
己の醜さを再確認し、彼女たちの高潔さを際立たせるための引き立て役として、泥を被っただけに過ぎないのではないか。
「……嫌気がさす……自分という存在に……」
胸の奥から湧き上がる不快な自己嫌悪。
ポケットから取り出した安酒の小瓶を口に含もうとした、その時だった。
「……何をしているのですか」
静かな声とともに、影がクルツを覆った。
振り返ると、泥を拭い、隙なくアンファングリア旅団の軍服を整えたルシエラが立っていた。
その手には、自らの水筒と、清潔な布が握られている。
「少尉……何か用か」
「用、ですか。私の
彼女は冷ややかに言い放つと、クルツの前に膝をつくことすら拒むように見下ろしたまま、無造作に水筒の水をクルツの手元へぶちまけた。
「……何の真似だ」
「私に貸しを作った気でいるのなら、不快極まりないと言っているのです」
ルシエラは眉ひとつ動かさず、湿らせた布をクルツの傷ついた手へ容赦なく叩きつけるように押し当てた。
「痛っ……!」
「黙りなさい。私の目の前で、不潔な
口調のみならず、その手つきにも一切の慈悲はなかった。
手首の泥を削ぎ落とし、薬を塗り、包帯を締め上げる動作は、怪我人を気遣うものではなく、兵器のメンテナンスを行う所有者のそれだった。
クルツは激痛に顔を歪めながらも、自分の不細工で太い手を包み込む、ルシエラの細くしなやかな指先を見つめていた。
「……なぜだ」
ぽつりと、クルツの口から言葉が漏れた。
「なぜ……私のような者に、そこまで固執する」
ルシエラは包帯を固く結び終えると、蔑むようにゆっくりと立ち上がった。
透き通るような赤い瞳が、見下ろす位置からクルツの病的なまでに白い顔を冷徹に見据える。
「固執? 勘違いも大概になさい、クルツ中尉」
彼女の薄い唇から、氷のように冷たい言葉が落ちる。
「私はただ、自分の踏み台を整備しているに過ぎません。傷んで壊れた踏み台など、踏みつける価値すら惜しい。あなたが私の足元で惨めに生き永らえるのは、私があなたをその程度の道具として所有しているからです」
それは、聖女の救済などでは断じてない。
どこまでも高く、どこまでも尊大に、己の矜持のためだけに他者を見下し、支配しようとする「高慢」の傲慢な宣言だった。
「……そうか」
クルツは歪んだ狂おしい笑みを浮かべ、傷ついた手を伸ばしてルシエラの軍靴のつま先へ、すがるように指先を触れさせた。
だが、ルシエラはその手を即座に、容赦なく蹴り払った。
「気安く触るなと言ったはずです、
「ハハ……そうだな……申し訳ありません、少尉……」
蹴られた腕を抱え、泥の上に転がりながらも、クルツの瞳は絶頂の陶酔に揺れていた。
自分を救いなどしない。どこまでも冷酷に、完璧な高慢さをもって自分を踏みつけ、道具として支配し続ける女王。
過酷な山地の風が、二人の間を吹き抜けていく。
救いようのない自虐と、高慢なる絶対的支配。
二人の魂は、過酷な戦場と歪んだ欲望の狭間で、より深く、二度と引き返せない深淵へと絡み合っていくのだった。
──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)
⇒第5話に続く。