白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~   作:ポオツマス亭

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星暦八七六年【5】  第1章《猟兵少尉ルシエラ・グラート⑤》

本日のすべての課業が終了し、ヴァルターベルクの衛戍地に濃密な夜の闇が降り立ち始める頃、クルツ中尉は重い足取りで薄暗い官舎の廊下を歩いていた。

 

昼間の局地的な豪雨と土砂崩れ、そして命懸けの救助劇。

 

全身を酷使した代償は大きく、右手の爪は割れ、頭部の傷口は衣服に染みた雨水と泥によって重く痺れるような熱を帯びていた。

 

だが、肉体の疲弊など、彼の胸の奥で渦巻く歪んだ不快感に比べればさしたる問題ではなかった。

 

(なぜ、私はまだ息をしているのだ……)

 

自室へと続く静まり返った木造廊下に、不格好で重い軍靴の音が虚しく響く。

 

あの時に落ちて、ルシエラと一緒に死ねばよかったのだ。

 

あの過酷な山地で、濁流に飲み込まれて骨を砕き、命を落としていれば、自分という無様で不格好な存在はこの世界から綺麗に消え去っていたはずだった。

 

だが、自分は生き残った。

 

軍事顧問としての冷徹で完璧な指導を行い、部隊を救い、同僚のオークたちから賞賛を受け、そして何よりも──あの気高く冷酷なダークエルフの女の手首を掴み、その命を繋ぎ止めてしまった。

 

自分の官舎の部屋の前で、クルツは立ち止まった。

 

ポケットから取り出した鍵を冷たい指先で握り直し、鍵穴に差し込む。

 

カチャリ、と重い金属音が静寂に落ちる。

 

「……遅かったですね、クルツ中尉」

 

背後から、静かな声がした。

 

透き通った川のせせらぎのように、鋭く、そして美しく響く声音。

 

クルツの手が止まり、ゆっくりと振り返る。

 

暗い廊下の影から浮かび上がったのは、アンファングリア旅団の軍服を隙なく着こなしたルシエラ・グラート猟兵少尉だった。

 

栗色の髪は丁寧に整えられ、月光を浴びたその端正な顔立ちは、嵐の中でも崩れなかった圧倒的な気品と高慢さを漂わせている。

 

「少尉……こんな夜更けに、なんの用だ」

 

「用、ですか……先ほども言ったはずですよ。私の踏み台の具合を点検しに来たのです」

 

ルシエラは冷ややかに鼻を鳴らすと、クルツが扉を開けるより早く、その細い指先でドアを押し開けた。

 

咎める間もなく、彼女は迷いなくクルツの私室へと足を踏み入れ、殺風景な部屋の真ん中でくるりと振り返る。

 

「入りなさい。鍵をかけなさい」

 

「……命令か?」

 

「所有者としての指示です」

 

クルツは不格好な口元を歪め、浅い溜息とともに部屋へ入り、言われた通り内側から鍵を掛け直した。

 

月明かりだけが窓から差し込む狭い室内。

 

安酒の匂いと、日中の雨に濡れた軍服の湿気、そして血の匂いが充満している。

 

ルシエラは無表情のままクルツに近づくと、その細い手を伸ばし、クルツの黒い軍服の胸元を強く掴んだ。

 

「痛っ……」

 

「黙りなさい」

 

彼女の手は躊躇なく軍服のボタンを一つずつ外し、濡れた布地を肌から引き剥がしていく。

 

露わになったのは、アルビノ独特の、病的で白磁のようなオークの肌だった。

 

その白い胸や肩には、昨夜ルシエラ自身が叩きつけた打撲の黒ずんだ痣と、昼の山地で岩肌に擦りつけられた痛々しい裂傷が散らばっている。

 

ルシエラはその不気味なほどに白い肌を、氷のように冷たい指先でなぞった。

 

指が傷口に触れるたび、クルツの巨躯が小さく跳ね、喉から漏れ出そうになる喘ぎを必死に噛み殺す。

 

「……気持ちの悪い肌ですね。まるで病死した豚の肉だ」

 

「フフ……そうだろう……。不気味で、下劣で、見ているだけで吐き気がする肌だ。……だからこそ、私という存在が嫌いなのだ」

 

「ええ、本当に不快です。ですが──」

 

ルシエラは指先に力を込め、傷口を押し潰すように圧迫した。

 

激痛がクルツの脳髄を刺し、彼の視界が歓喜で明滅する。

 

「この不快で不気味な白磁の肌も、この傷も、すべて私がつけ、私が手当てし、私が生かしているものです。……あなたのこの見苦しい肉体は、すべて私の支配下にある」

 

「……支配、だと?」

 

「そうです。あなたがどれほど自分を呪おうと、どれほど自虐の海に溺れようと、それを許すか否かを決めるのは私です。あなたが死ぬことも、足掻くことも、私の所有物としてのみ許可される」

 

その言葉には、傷ついた者を慈しむ聖女のような哀れみや救済など微塵も存在しなかった。

 

白エルフやダークエルフの女たちが根底に宿している『高慢』そのもの。

 

他者を見下し、踏みにじり、己の絶対的な尊厳と誇りを証明するためだけに、目の前の醜いオークを完膚なきまでに所有し、支配しようとする女王の絶対的な宣誓。

 

クルツの胸の奥で、カチリと何かが完璧に噛み合った。

 

自虐と屈辱。

 

己の無能さと醜悪さへの深い絶望。

 

だが、その絶望の底で、彼は目の前の女──ルシエラ・グラートという高慢なる美学の結晶に、完全に心を奪われていた。

 

[newpage]

 

「ハハ……あはははっ……!」

 

クルツの口から、乾いた狂気の笑いが溢れ出した。

 

「素晴らしい……! それだ、少尉……! お前はその高慢さのまま、俺を踏みつけろ……! 俺を救おうなどと思うな! 俺を慈しもうなどと思うな! ただ俺を道具として、踏み台として、お前の足元で汚し続けろ……!」

 

クルツは膝を折り、床の上に倒れ込むようにして、ルシエラの軍靴の足元へと額を擦り付けた。

 

アルビノの白い皮膚が、暗がりの中で怪しく光る。

 

「お前は美しい……気高く、冷酷で、容赦がない……! それに引き換え俺は……俺という牡は、なんて惨めで、愚かで、薄汚れているんだ……!」

 

「そうです。あなたは醜く、無様で、惨めなオークです。だからこそ──私の足元以外に、あなたの居場所など存在しないのですよ」

 

ルシエラは冷徹な眼差しで見下ろしながら、その脚を上げ、クルツの胸元を軍靴の底で力強く踏みつけた。

 

グッ、と肋骨が重い音を立てて軋み、肺の中の空気が強制的に押し出される。

 

だが、その重圧と屈辱こそが、クルツの神経の末端を焼き焦がすほどの甘美な快楽へと変わっていく。

 

クルツは血と泥に塗れた手を伸ばし、己を踏みつけるルシエラの細い足首を、包帯の巻かれた指先で力任せに掴んだ。

 

昨夜のような『エルフリーデ』という過去の幻影の呼び間違いではない。

 

目の前にいる、自分を冷酷に見下す『ルシエラ・グラート』という一人の女の骨組みを、体温を、確かにその手で感じ取っていた。

 

「ルシエラ……」

 

クルツの掠れた声が、室内の静寂を激しく震わせた。

 

「お前が俺をどれほど踏みつけようと……私はお前の踏み台であり続ける……。お前が白エルフを打ち倒し、その誇りを引き裂くその日まで……俺のこの醜い肉体を、お前の盾とし、踏み台としよう……」

 

「……当然の義務です」

 

「だがな、少尉……」

 

クルツは血走った目を激しく見開き、自虐と歓喜の混ざり合った狂おしい瞳でルシエラを見上げた。

 

彼女の気高き姿は、壊れた彼の神経を極限まで昂らせていく。

 

「私を所有するというのなら……この狂気も、この汚れた魂も、すべてお前が背負え……!」

 

「何……?」

 

「お前以外の誰にも、俺を踏みつけさせはしない……! お前以外の美しさに、俺は決して伏しはしない……!」

 

絶叫にも似た叫びとともに、クルツは踏みつけられた状態のまま力任せに体を起こし、ルシエラの細い腰をその太い腕で強引に抱き寄せた。

 

「なっ……不潔な豚頭(オーク)が……! 放しなさい……!」

 

ルシエラの端正な表情に、初めて激しい狼狽と動揺が走る。

 

彼女は気高く拳を振り上げ、クルツの頬や傷口を激しく叩きつけた。

 

ドガッ、ガツンと肉と骨を叩く重い衝撃音が薄暗い室内に鳴り響く。

 

しかし、どれほど叩かれても、どれほど顔面から血を流しても、クルツの太い腕が緩むことはなかった。

 

むしろ、容赦なく叩きつけられる暴力の痛みが、彼の抱擁をより強固で、より狂おしいものへと昇華させていく。

 

「離さん……! 離すものか……! お前が俺を道具として所有するなら、俺はお前という至高の女王に、この命の全てを捧げて狂い死んでやる……!」

 

「狂人……! あなたは、どこまで……!」

 

ルシエラは息を呑み、振り上げていた拳をピタリと止めた。

 

見上げるオークの顔面は血と汗でぐちゃぐちゃに濡れ、白磁の肌は真っ赤に染まっていた。

 

だが、その瞳に宿っていたのは、一切の偽りも計算もない、狂気と陶酔が入り混じった純粋極まる『渇望』だった。

 

自分という高慢な女に踏みつけられることを望み、己の醜さを晒しながら、自分という存在を誰よりも高く讃え、狂おしく求め続けるオークの牡。

 

その剥き出しの強烈な狂気に触れた瞬間、ルシエラの胸の奥で、氷のように凍てついていた誇りと高慢さが、激しい情念の熱を帯びて融解し始めた。

 

(この男は……本当に、私の足元で死ぬ気なのだ……)

 

不快で、薄汚く、滑稽で……そして、あまりにも愛おしい。

 

ルシエラは冷酷な仮面を維持しようとしながらも、自らの細い指先をクルツの濡れた髪に滑り込ませた。

 

強引に頭部を引き寄せ、血と汗の匂いが混ざり合う至近距離で、彼女の透き通るような赤色の瞳がクルツの瞳を深く射抜く。

 

「……良いでしょう、クルツ中尉」

 

ルシエラの薄い唇が、残酷で、そして歪んだ陶酔に満ちた微笑みを刻んだ。

 

「あなたが私以外の何者にも踏みにじられぬよう、私がその魂を永遠に縛り付けてあげます……私の愛しい、醜い踏み台」

 

その瞬間、クルツの脳髄の中で何かが完璧に弾け飛んだ。

 

種族の格差も、過去の傷も、己の肉体への呪いも、すべてが虚空へと消え去っていく。

 

自分を完膚なきまでに蔑み、所有し、そして狂おしいほどの情念で縛り付けようとする高慢な女王。

 

その冷たい体温と、高貴な匂いが、全身の神経を最も強く、甘美に痺れさせていく。

 

「あぁ……愛してるよ……ルシエラ……!」

 

それは、偽りのない、決定的な魂の叫びだった。

 

かつて自分を捨てた『エルフリーデ』でもなく、幻影でもない。

 

今、自分を足元で抱き締め、高慢に支配しようとする『ルシエラ・グラート』という女へ捧げる、極限の愛の成就。

 

二人の唇が重なり合い、血と酒の味が交錯する──。

 

神経が最高に昂り、二人の心が歪んだ愛と支配の中で完璧に結ばれた、まさにその決定的な瞬間だった。

 

──キィン、と。

 

耳腔を切り裂くような、不快極まる高音の不協和音が世界を断ち切った。

 

「……え?」

 

クルツの視界が、突如として激しく波打ち、歪み始めた。

 

腕の中で力強く抱き締めていたルシエラの柔らかな体温が、触れていた髪のしなやかな感触が、急速に硝子のように透明になり、サラサラと音を立てて砂となって崩れ落ちていく。

 

「ルシエラ……!?」

 

叫ぼうとしたクルツの喉から、掠れた空気しか出ない。

 

部屋の木壁が、床が、格子窓から差し込んでいた月明かりが、水面に大きな石を落とした時の波紋のようにぐにゃりと歪み、漆黒の渦となって引き裂かれていく。

 

世界そのものが、二人を拒絶していた。

 

オークとダークエルフ。

 

蔑む者と這いずる者。

 

その決して交わってはならない(ことわり)を超えて二人が結ばれた瞬間、物語の整合性を司る『不可視の神』の無慈悲な手が容赦なく介入したのだ。

 

二人が手に入れた完璧な愛も、最高潮の陶酔も、この世界観においては『許されざる禁忌』に過ぎない。

 

(待て……行くな……ルシエラ! 私は……私は今……! ルシエラ! 消えないでくれ! お願いだ!)

 

狂おしいほどの愛おしさと、満たされた圧倒的な幸福感。

 

その絶頂の瞬間に叩きつけられたのは、至高の救済ではなく、すべてを無へと巻き戻す絶望の修正力だった。

 

崩壊する現実の狭間で、それまで高慢そのものだったルシエラの赤い瞳が、歪む世界の中で最後に切なく歪むのが見えた。

 

彼女もまた、己の尊厳を捨ててまで自分を求めたこのオークの狂気に呑み込まれ、二度と抜け出せぬ愛の深淵へと堕ちていたのだ。

 

「待ちなさい……! 私の……私からあいつを奪うな……っ!」

 

彼女は高貴な誇りも冷酷さもすべて投げ打ち、なりふり構わず涙を散らせながら、崩れゆく視界の中でクルツへと必死に手を伸ばす。

 

「オットー……! 私を置いていくな……! いやだっ、こわい、オットーっ……! 手をっ!」

 

かつて自分を『ただの踏み台』と切り捨てたはずの高慢な女王が、なりふり構わず涙を散らせ、伸ばした指先を必死に彷徨わせる。

 

支配と所有の果てにたどり着いた至高の絆が、理不尽な世界の介入によって引き裂かれていく。

 

その指先が彼の手に触れる直前、彼女の姿は彼の目の前で、非情にもガラスのように粉々に砕け散った。

 

(あ……あ、あ……ッ!)

 

伸ばした手は虚空を裂き、喉の奥を焼く絶望は、言葉にすらならなかった。

 

そして、クルツの意識は、深淵よりも深い暗黒へと急速に墜落していった──。

 

[newpage]

 

──ズキン、と。

 

重い頭痛とともに、クルツは冷たい石畳の上で目を覚ました。

 

口内に広がる安酒の吐き気を催す苦味。

 

抱きしめていたはずのルシエラの体温も、血の匂いも、山での過酷な記憶も──まるで泡沫の夢だったかのように指の隙間から零れ落ちていく。

 

狂おしいほどの愛と自虐の記憶が、激しい眩暈とともに急速に遠ざかっていく。

 

残されたのは、激しい喪失感と、己という存在への泥のような吐き気だけだった。

 

(……私は、何をしていた……?)

 

重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、薄暗い将校クラブの裏路地だった。

 

視界がぐにゃりと歪み、強い酩酊感が頭を揺さぶる。

 

手元には、倒れた弾みで割れた安酒の小瓶。

 

軍帽は横に転がり、不格好なオークの肉体が、無様に石畳の上に打ち捨てられていた。

 

何も思い出せない。あの女の名前も、共に過ごした熱狂の夜の記憶も、すべては虚無の彼方へと奪い去られていた。

 

だが──胸の奥だけが、焼けつくように痛む。

 

自分の魂の半分を根こそぎ引き千切られたかのような、理由の分からぬあまりにも絶望的な欠落感。

 

手に残る冷たい指先の感触と、激しい愛の残滓だけが、消えぬ呪いのようにクルツの胸を突き刺していた。

 

街灯の青白い光の陰から、通りをゆくダークエルフの女性たちの足音が近づいてくる。

 

だが──そこに立つ靴音は、あの高慢で冷酷なルシエラ・グラートのものではなかった。

 

凛とした軍靴の音とは異なる、どこか静けさと深遠さを纏った柔らかな足音。

 

街灯の青白い光の陰から伸びる影が、薄汚いクルツの巨躯を優しく包み込む。

 

視界の端に映ったのは、ルシエラとは異なる、静謐な佇まいを見せる黒い髪をした一人の女将校だった。

 

「……ちっ、澄ました顔しやがって……高慢ちきな牝が……」

 

クルツは吐き気を押し殺し、喉の奥で掠れた悪態をつく。

 

彼女は路傍に転がるクルツの無様な姿に一瞬だけ冷たい視線を走らせると、静かに足を止めた。

 

「……可哀想な、白い豚頭(オーク)

 

その言葉は、ルシエラの叩きつけるような情熱的な殺意とは違う、蔑みでも拒絶でもない、深く静かな掠れた声。

 

彼女の憐れむような視線が突き刺さった瞬間、クルツの胸の奥で、理由の分からぬ甘美な自虐の熱が再燃する。

 

記憶は奪われていた。

 

「……私は……誰を失ったのだ……」

 

落ちていく。

 

何度でも、何度でも。

 

理由の分からぬ激しい愛おしさと、二度と取り戻せない欠落感。

 

その解けない永遠の絶望を抱えたまま、クルツは再び、彼をあざ笑うかのような別の愛へと叩き落とされていく──。

 

──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)

 

──Again.(再び)

 

 

⇒第6話へ続く。

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