白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~ 作:ポオツマス亭
星暦八七六年【6】 第2章《製パン中尉ソレイナ・カルドイラ①》
重い頭痛とともに、クルツは冷たい石畳の上で目を覚ました。
口内に広がる安酒の吐き気を催す苦味と、喉の奥を焼き焦がすような猛烈な渇き。
抱きしめていたはずのルシエラの体温も、血と汗が混ざり合う熱狂も、山地での過酷な嵐の記憶も──すべては泡沫の夢であったかのように、指の隙間から滑り落ちて消え去っていた。
狂おしいほどの愛と自虐の記憶が、激しい眩暈とともに急速に遠ざかっていく。
残されたのは、胸の中央に穿たれた巨大な空洞と、己という存在への泥のような吐き気だけだった。
(……私は、何をしていた……?)
重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは将校クラブの裏路地を照らす、街灯の青白い光だった。
強い酩酊感が脳髄を揺さぶり、世界がぐにゃりと歪む。
手元には、倒れた弾みで割れた安酒の小瓶。軍帽は横に転がり、不格好なオークの巨躯が無様に石畳の上に打ち捨てられていた。
何も思い出せない。
あの女の名前も、共に過ごした熱狂の夜の記憶も、すべては不可視の理によって無へと奪い去られていた。
だが──胸の奥だけが、焼けつくように痛む。
己の魂の半分を根こそぎ引き千切られたかのような、理由の分からぬ絶望的な欠落感。
手に残る冷たい指先の感触と、激しい愛の残滓だけが、消えぬ呪いのようにクルツの胸を突き刺していた。
誰を抱いていた?
誰の脚にすがり、誰の名を呼んで愛を誓った?
思い出せない。
ただ、自分が世界で一番大切な「何か」を喪失し、途方もない絶望の淵に置き去りにされたということだけが、オットーの胸を焼き焦がしていた。
「……俺は……誰を失ったのだ……」
クルツは血走った目を激しく見開き、うわ言のように呟いた。
膝を震わせ、泥と吐き気に塗れた身体を強引に引き起こそうとする。
不格好な骨格がギチギチと悲鳴を上げ、安酒の混ざった胃液が喉元まで逆流してきた。
立ち上がらなければならない。探さなければならない。
だが――誰を?
失われた「何か」を取り戻すために、この惨めな命を薪にして燃やし尽くさなければならない。
その時、街灯の青白い光の陰から伸びる長い影が、薄汚いクルツの巨躯を静かに包み込んだ。
凛とした軍靴の音とは異なる、どこか静けさと深遠さを纏った柔らかな足音。
振り返ったクルツの視界の端に映ったのは、ルシエラのような刺すような激性とは対極の、静謐な佇まいを見せる黒い髪の女将校だった。
黒髪のダークエルフ──ソレイナ・カルドイラ中尉。
後方支援部隊である製パン中隊の副隊長を務める彼女は、過酷な山地訓練や最前線の血硝に塗れた将校たちとは、まるで異なる空気感を漂わせていた。
漆黒の髪は夜の闇を溶かし込んだように滑らかで、その瞳は深い溜池の底のように光を吸い込み、揺らぐことがない。
「……可哀想な、白い
彼女の語り口には、ルシエラのような刃の冴えも、叩きつけるような激烈な殺意も存在しなかった。
「どうしたんだ、悪酔いしたのか……中尉」
その言葉には、蔑みも拒絶もない、深く静かで掠れた響きがあった。
ただそこに転がる潰れた虫を眺めるような、あるいは冷えた石畳の感触を確かめるような、果てしなく無関心に近い慈悲の響き。
「ちっ……澄ました顔しやがって……高慢ちきな牝が……」
クルツは吐き気を押し殺し、喉の奥で掠れた悪態をついた。
だが、彼女の憐れむような視線が突き刺さった瞬間、クルツの胸の奥で、理由の分からぬ甘美な自虐の熱が再燃する。
脳髄を突き刺す激しい欠落感と、この静かな存在への不快感。
ソレイナは至極自然な動作で、長い袖口から覗くしなやかな指先を伸ばし、クルツの肩へ優しく手を貸そうとした。
「大丈夫か?」
それは軍人としての救助でもなく、高慢な支配者としての所有の示威でもない。
ただ、倒れそうな物体にそっと手を添えるような、無機質で生ぬるい好意。
だが、その無防備な「優しさ」こそが、狂気と絶望の渦中にいたクルツの神経を激しく逆なでした。
「うるせぇ……っ!」
クルツは太い腕を振り回し、彼女の手を強引に振り払った。
己の醜悪な肉体に、これ以上生ぬるい慈悲などを向けられることが許せなかった。
俺を踏みつけろ、俺を罵れ、俺を血の海に叩き落とせ──そう叫ぶ魂の飢餓が、目の前の穏やかな存在を拒絶させたのだ。
しかし、足元はおぼつかなかった。
振り払った反動で大きく体勢を崩したクルツの巨躯は、ヴァルターベルクの硬い石畳に向かって無様に倒れ込んだ。
──ガツンッ!
重い破壊音が夜の路地裏に響いた。
突き出た石畳の角に、クルツの額が容赦なく叩きつけられる。
視界が真っ白な火花で埋め尽くされ、激しい鈍痛が脳髄を直撃した。
アルビノの白い皮膚が裂け、傷口から温かい血がドロリと溢れ出す。
赤黒い液体が目の上を伝い、視界の半分を血塗れで染め上げていく。
「ぐ……あ……っ」
石畳に顔を押し付けたまま、クルツは荒い息を吐き捨てた。
垂れ落ちる血が、路地裏の石畳と交ざり合っていく。
痛い。
苦しい。
頭が割れそうだ。
だが、その肉体の痛みの何千倍も、胸の奥に開いた「欠落」の穴が痛んだ。
額から流れる血を指で拭おうともせず、クルツは石畳の上に突伏したまま、ハハと乾いた笑いを漏らした。
「……ハ……ハハ……そうだ……これでいい……。血を流し、泥を啜り……惨めに倒れているのが……俺というオークの……あるべき姿だ……」
自虐の陶酔。
しかし、その陶酔の底には、どうしても埋まらない底なしの虚無があった。
奪われた存在の空白は、ただ血を流すだけでは埋まらない。
ソレイナ・カルドイラ中尉は、額から血を流して伏せるクルツを、追及するでもなく、驚くでもなく、ただ静かに見下ろしていた。
彼女の黒い軍服からは、戦場の硝煙でも、高級な香水でもなく──香ばしく甘い、どこか人を骨抜きにするような『焼きたてのパン』の匂いが漂っていた。
「血が出ているな、軍事顧問団の……たしか、クルツ中尉だったろ」
ソレイナは膝を折ることもなく、ゆっくりと腰を落とすと、自分のポケットから無造作に白い手ぬぐいを取り出した。
「……放置すれば、傷口から泥が入って化膿する……拭きなさい」
彼女は血に塗れたクルツの頭元に、その布をポツリと落とした。
クルツは薄開きの目で、その白い布を見つめた。
「……放っておけ……」
掠れた声で、クルツは吐き捨てた。
「俺のような……不格好で醜悪な牡など……路地裏の溝の中で腐り落ちればいいのだ。なぜ……俺に関わる……。管理部門の製パン中隊副隊長が……このような場所で何をしている……」
「仕事の終わりだよ」
ソレイナは深く、深く息を吐き出した。
その吐息には、世界全体の重荷を全て投げ捨ててしまったかのような、底知れぬ「倦怠」が宿っていた。
「明朝の糧食用のパン生地を捏ね終え、発酵を待つ間の散歩だ。そこに、大きな白い豚が倒れていた。ただ、それだけのことだ」
「……豚、か。そうだ……俺は豚だ。泥を喰らい、惨めに踏みつけられるためだけに存在する……」
「なら、その豚はなぜ、そんなに苦しそうな顔をしている?」
ソレイナの声が、静かにクルツの鼓膜を撫でた。
それは拷問のような鋭利さを持たない。
しかし、ぬるま湯の中に徐々に浸かっていくような、抗いがたい力でクルツの思考を麻痺させていく。
「誰かを探しているのか? 何かを奪われたのか?……そんなに叫んで、そんなに血を流して……疲れないか、クルツ中尉」
「つ……かれ……?」
「ああ。疲れるだろう」
ソレイナはそっと、己の黒い軍帽を脱いだ。
滑らかな黒髪が夜風に揺れ、彼女の透き通るような、しかし光を宿さない赤い瞳が月明かりに照らし出される。
「戦うことも、他者を求めることも、己の醜さを呪うことすら……全ては過剰な『労働』だ。なぜそこまで自分を追い詰める? なぜ、そこまで痛みに固執する?」
「くっ……何を……言っている……! 俺は……俺は軍人だ! 顧問として……誇りを……!」
「誇り?」
ソレイナの薄い唇が、微かに歪んだ。
それは嘲笑ではない。
ただ「そんな無意味なもの」と呆れ果てるような、怠惰な吐息。
「誇りなどという重いものを抱えているから、お前はそんなところで血を流して倒れているんだ……もういいだろう。何もかも、投げ出してしまえばいい」
「な……に……?」
クルツの思考が停止した。
ルシエラは、クルツの自虐を「惨めな道具」として徹底的に踏みにじることで、彼に絶頂の屈辱を与えた。
だが、このソレイナという女は違う。
彼女は、クルツの自虐すらも「無駄な努力」として無力化しようとしていた。
絶望することすら、己を呪うことすら、戦うことすら──「面倒だからやめろ」と、甘く重い毒のぬるま湯で包み込もうとしているのだ。
争う情熱を奪い、絶望の刃を甘やかな真綿で包み込んで鈍らせ、すべてを「停滞」の深淵へと引きずり込む無慈悲な弛緩。
「立ち上がりたくないなら、そこに寝ていればいい」
ソレイナは静かに石畳の上に腰を下ろした。
高級な軍服が路地裏の泥で汚れることすら、彼女にとっては「払うのが面倒な手間」程度の価値しかなかった。
彼女は膝の上にクルツの血まみれの頭部を、無造作に引き寄せた。
「なっ……何をする……! 離せ! 汚れるぞ……!」
クルツは狼狽し、巨躯をよじって逃れようとした。
アルビノの白い肌に付着した血と汚れが、彼女の美しい黒いズボンを汚していく。
だが、ソレイナの手は、驚くほど柔らかく、そして逆らいがたい重みを持ってクルツの頭部を固定した。
膝の感触。
生ぬるく、甘い小麦の香りが、クルツの鼻腔を力強く満たしていく。
「動くな。血が目に入るだろう」
彼女は落とした白布を拾わず、別の手ぬぐいをポケットから取り出して、クルツの額の傷口に優しく押し当てた。
手当ての精度で言えば、衛生兵のような完璧さなどない。
ただ、血を止めるためだけに布を押し当てる、いい加減で、粗雑な動作。
だが──その粗雑さの中に、異様なほどの「安らぎ」が存在していた。
「あ……が……っ」
「じっとしていなさい。……お前は体が大きくて、動かされると迷惑だ」
ソレイナは怠惰な声でそう吐き捨てながら、白布越しにクルツの傷口を軽く圧迫した。
痛みはある。
しかし、その痛みは激動の情念の痛撃とは違い、体温の中に溶けていくような、ぼやけた感覚へと変わっていく。
クルツは膝の上で、血走った目を見開いたまま固まっていた。
(なんだ……この女は……)
拒絶されない。
踏みつけられもしない。
ただ、泥に塗れた自分という存在が、そこに「ある」ことだけを容認され、生ぬるい停滞の海へと沈められていく。
「……俺は……失ったのだ……」
クルツの口から、悲痛な呻きが漏れた。
「大切な……俺を求める……気高き者を……。胸が痛い……死ぬほどに……痛いのだ……! 俺はどうすればいい……! この消えぬ渇きを……どうすればいい……!」
「忘れればいい」
ソレイナの手が、クルツのアルビノの白い髪を、ゆっくりとなでつけた。
指先が頭皮を滑るたび、クルツの体から余計な力が抜け落ちていく。
「探すのも、苦しむのも、思い出すのも……すべて面倒なことだ。お前が誰を失ったのか、私は知らない。だが……もう失ってしまったものを追って血を流すのは、あまりにも無駄だと思わないか?」
「無駄……だと……? あれは……あれは俺の……命の全てだったかもしれないのだぞ……!」
「命の全て?」
ソレイナはくすりと、掠れた声で笑った。
「なら、いまここにあるお前の肉体はなんだ? 息をして、血を流し、私の膝の上で震えているこの不格好な肉体は……何なんだ?」
「それは……」
「お前は生きている。そして、疲れているんだ」
彼女の指先が、クルツの瞼を優しく押し下げた。
「眠りなさい、クルツ中尉。製パン作業場の窯の熱は温かい。明日の朝になれば、香ばしいパンが焼きあがる。……お前がどれほど絶望していようと、世界は明日も同じように朝を迎え、パンは焼けるんだ」
「く……あ……」
視界が強制的に閉じられる。
暗闇の中で、鼻腔を突く甘いパンの香りと、彼女の膝の生ぬるい体温だけが残る。
(ダメだ……沈んでは……いけない……)
クルツの胸の中で、軍人としての矜持と、己を痛めつけたいという自虐の情熱が最後の抵抗を試みた。
俺はオーク族の中尉だ。軍事顧問団の指導教官だ。
山地で部隊を指揮し、厳しく己を律し、泥の中で苦しみ抜いてこそ、俺という醜悪な存在に価値が生まれるのだ。
こんな……こんなぬるま湯のような日常に甘えてしまえば、俺は本当に……ただの豚になってしまう……!
「……抗わなくていい」
ソレイナの声が、耳元で囁かれた。
彼女の顔が近づき、その薄い唇から漏れ出る息がクルツの頬を撫でる。
「お前が豚であろうと、優秀なオーク族の将校であろうと、どちらでもいい。……私はお前に何も期待しない。お前が勝手に傷つき、勝手に狂うのを見るのも……少し、疲れる」
「ソレイナ……中尉……」
「ただ、私と一緒に……ぬるい闇の中に沈んでいればいい。……何も考えず、何も求めず……ただ、パンが焼きあがるのを待つように……」
その言葉は、甘美な毒だった。
激しい支配が燃え盛る炎なら、ソレイナの「怠惰」は底なしの泥沼だった。
一度足を踏み入れれば、抗えば抗うほど体力が奪われ、身体は重くなり、やがて呼吸することすら面倒になって沈んでいく。
胸の奥の巨大な欠落感が、麻痺していく。
失われた記憶──その切実な痛みが、ソレイナの包み込むような「無力化」の前に、少しずつ、少しずつ泥の中に溶けていく。
(ああ……)
クルツの口から、弱々しい息が漏れた。
(苦しまなくて……いいのか……?)
(自分を……呪わなくても……いいのか……?)
(ただ……この温もりに身を任せて……腐っていけば……いいのか……?)
それは、屈服だった。
自己嫌悪という強い感情すら投げ出し、己の存在そのものを「無」へと明け渡していく、究極の脱力。
クルツの手が、力を失って胸の上にダラリと垂れ落ちた。
割れた指先の爪から、血が静かに溢れ、胸を濡らす。
「……そうだ。それでいい」
ソレイナは満足したように小さく頷くと、膝の上のクルツの頭を抱え直した。
彼女の黒髪が垂れ下がり、クルツのアルビノの白い顔を暗闇で覆い隠す。
包まれる感触は、まるで母に抱かれた時のような、あるいは子宮へ送り返されたかのような絶対の安らぎだった。
「お前は私の……怠惰な豚になりなさい。動かず、叫ばず、ただそこに転がっている……重く、温かい、肉の塊として」
「……あ……あぁ……」
クルツの喉から、歓喜とも絶望ともつかない、掠れた吐息が漏れた。
狂気すらも麻痺させる、絶対的な停滞。
刻まれた魂の傷痕が、ソレイナの甘く重い怠惰の毒によって、白く濁った麻痺の幕で覆われていく。
記憶は戻らない。
自分が誰を愛し、誰に踏みつけられたのか、二度と思い出すことはできない。
だが──胸の穴は、別の何かによって無理やり塞がれていく。
「……おい、起きられるか?」
しばらくして、ソレイナが静かに呟いた。
「製パン中隊の作業場へ行くぞ……冷えてきたからな、お前が風邪を引くと、手当の手間が増える」
「……あ……あぁ……」
クルツは力が入らない身体を、不格好に揺らした。
ソレイナは溜息をつきながら立ち上がると、クルツの太い腕を自分の肩に回させ、重い身体を引きずり起こした。
黒髪の細い女管理将校と、血と泥に塗れたアルビノの巨躯のオーク。
二人の影が、街灯の青白い光の下で不格好に重なり合い、揺れる。
クルツはソレイナに体重の大半を預けたまま、汚れた軍靴を引きずるように足を動かした。
頭部の傷からは、なおも血が垂れていたが、もはやその痛みすら遠い世界の出来事のように思えた。
(沈んでいく……)
今度の沈淵は、激しい情熱の底ではない。
何もかもを諦め、ただ生ぬるい泥の中で微睡む、永遠の停滞という名の地獄。
クルツは目を閉じ、ソレイナから漂う甘いパンの匂いと、彼女の体温の中に、己の魂をそっと沈めていった。
「……行こう、クルツ中尉」
「……ああ……カルドイラ中尉……」
路地裏の暗闇を歩きながら、クルツの薄れゆく意識の中に、あの呪いのような言葉が再び響き渡る。
──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)
──Upon my lap.(我が膝の上で)
ヴァルターベルクの夜はどこまでも深く、静かに二人を呑み込んでいった。
⇒第7話へ続く