白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~   作:ポオツマス亭

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星暦八七六年【7】 第2章《製パン中尉ソレイナ・カルドイラ②》

雨上がりの湿った路地裏を抜けると、ヴァルターベルクの街の激しい騒めきは、嘘のように遠ざかっていった。

 

軍事顧問団が詰める本部棟や、殺伐としたアンファングリア旅団の騎兵連隊や山岳猟兵連隊の兵舎とは明らかに異質な空間──管理部の敷地奥深く、薄暗い樹木に囲まれた一画に、その巨大な給食廠は静かに佇んでいた。

 

重厚な木製の引き戸を開けると、一気に押し寄せてきたのは、濃密な熱気と甘酸ましい酵母の薫香だった。

 

天井の高く取られた広大な作業場の中央には、黒ずんだレンガが積み上げられた巨大な石窯が幾つも鎮座し、その内部から溢れ出る淡い赤熱が、夜気の中にゆらゆらと揺らめいている。

 

時折、中で爆ぜる薪のパチパチという乾いた音が、静けさに小さな波紋を広げていた。

 

「ね、何あれ。オーク族?」

 

「え、怪我してるんじゃないの? 頭から血が出てるよ」

 

「ちょっと副中隊長、そんなの路上から拾ってきちゃだめですよ。衛生上どうなんですか」

 

「そーそー。拾ってくるなら、せめて食べられるハムとかにしてくれないと」

 

作業場の中で作業を進めていた製パン中隊に所属するエプロン姿のダークエルフの女たちが、チラチラとこちらを見ながら、クスクスと気のない雑談を交わしていた。

 

彼女たちからは、前線部隊の騎兵連隊や山岳猟兵が纏うような刺々しい殺気や、冷酷な軍人としての威圧感は一切感じられない。

 

白い粉を腕や軍服に塗し、髪を布で包んだ彼女たちの雰囲気は、どこか浮世離れしたゆるやかさに満ちていた。

 

そこには戦場の緊張も、死線をくぐる者の熱気もない。

 

ただひたすらにパンが捏ねられ、発酵させられ、窯へと送られ、膨らみ、運ばれていくためだけに存在する、どこまでも静脈的な日常の工場であった。

 

「……黙って手を動かしな。発酵の時間がズレる」

 

ソレイナが面倒そうに短く声をかけると、女たちは「はーい」「副中隊長がまた変なもの拾ってきた」などと口々に言いながら、すぐに自分たちの木桶や鉄板へと意識を戻していった。

 

「ここで横になりなさい……窯の横は温かい。汚れた上衣もなんとかしよう、脱ぎなさい」

 

ソレイナは作業場の最奥、乾燥した麦わらと予備の麻袋が山積みにされた資材スペースへとクルツを誘導した。

 

「……あ……ああ……」

 

クルツの巨躯から、溜め込まれていた疲労と痛みが一気に吐き出されるように抜けていった。

 

重い足腰がガクガクと震え、膝から崩れ落ちるようにして、彼は麻袋の小山の上へと無様に倒れ込んだ。

 

──ジワリ、と。

 

巨大な石窯から放射される輻射熱が、雨と冷気で冷え切り、激痛に痺れていたクルツの皮膚と筋肉を、じわじわと奥深くまで温めていく。

 

頭部の傷口からは、なおも暗赤色の血が滲み出て、アルビノの白い肌を汚していた。

 

ソレイナはその傍らにかがみ込むと、お世辞にも手際が良いとは言えない雑な動作で、予備の白い包帯をクルツの頭部に幾重にも巻きつけていった。

 

結び目を力任せに固く締めあげると、彼女は自分の肩から脱ぎ捨てた予備の黒い厚手の外套を、クルツの巨躯の上から無造作に被せた。

 

「……熱いか?」

 

「……いや……温かい……」

 

クルツは掠れた声で、短く答えた。

 

「ならいい。……私は生地の様子を見てくる、静かにしていろ」

 

ソレイナはそう言い残すと、振り返ることもなく、大きな木製桶が何個も整然と並ぶ中央の作業台へと足を進めていった。

 

彼女は白い粉で覆われたしなやかな両手を木桶に突っ込み、ゆっくりと、しかし確実に発酵を進めた小麦の生地を押し込み、捏ね直し、一定の大きさに切り分けては型へと収めていく。

 

その指先の動作には、一切の迷いも無駄もなかった。

 

だが同時に、職人としての並々ならぬ熱意や、一粒のパンに魂を込めるような情熱といったものも、そこには一切存在しなかった。

 

ただ決められた手順を、決められた時間に、機械のように淡々とこなしていくだけの、完璧な「作業」。

 

クルツは麻袋の上に横たわり、被せられた外套の重みと体温を感じながら、その背中をぼんやりと見つめていた。

 

石窯から漏れ出す橙色の火光が、彼女の滑らかな黒髪と、粉に塗れた白い肌を微かに照らし出している。

 

昨夜、己の胸を焼き尽くすような激動の愛と恐怖をもたらしたはずの、あの炎のような鋭烈で破滅的な美しさ──その女が誰であったのかすら思い出せないまま──だが、その幻影とは完全に真逆のものがここにあった。

 

ソレイナの背中にあるのは、どこまでも平坦で、何の変化も起きず、ただ緩やかに時が流れて磨耗していくだけの──「穏やかな腐敗」のような美徳であった。

 

ふと、クルツの麻痺しかけた脳裏に、遙か過去の記憶が明滅した。

 

記憶の底の底、自分がまだ「不吉な白い子」として忌み嫌われる前の、小さく貧しかった故郷の泥家屋。

 

暗い台所の中で太い手を動かし、名もなき野草と麦粉を練り合わせ、湯気の立つ大鍋をかき混ぜていた、オーク族の母の背中。

 

自分を愛することも、拒絶することもなく、ただ当たり前のようにそこに存在し、料理を作り続けていた母の姿が、目の前で静かにパンを捏ね続けるソレイナの黒いシルエットに、ゆらゆらと重なり合っていく。

 

石窯が放つ膨大な熱気と、甘酸っぱい酵母の匂い、そして薪が弾ける規則的な音に全身を包まれながら、クルツの意識は底のない深遠へと落ちていった。

 

今度の沈淵は、身を焦がす激しい情熱や屈辱の底ではない。

 

己の醜さも、失われた愛の激痛も、軍人としての苛烈な矜持すらもすべて諦め、ただぬるい泥の中で微睡み続ける──永遠の停滞という名の地獄。

 

クルツはゆっくりと目を閉じた。

 

ソレイナの指先から漂っていた甘い小麦の匂いと、作業場全体を支配するぬるく心地よい闇の中に、彼は己の傷ついた魂を、そっと、逃げ込むように沈めていった。

 

言葉も、思考も、失われた面影への執着も、すべてが白く濁った熱気の中に溶けて消えていく。

 

そして──夜が明けた。

 

「……ん……っ」

 

香ばしく、香ばしく、胸の奥を激しく突き刺すような、圧倒的に幸福な「匂い」につられて、クルツは重い瞼を持ち上げた。

 

作業場の高窓からは、ヴァルターベルクの朝の青白い光が差し込み、舞い散る白い小麦の粒子をキラキラと黄金色に輝かせていた。

 

巨大な石窯の鉄扉が開け放たれ、そこからはこんがりと黄金色に焼き上がった無数のパンが、熱々の湯気を立ち上らせながら次々と木箱へと運ばれているところだった。

 

オーク特有の頑丈な肉体のおかげか、昨夜まであれほど激しく血を撒き散らしていた傷口は完全に塞がり、出血は綺麗に止まっていた。

 

「おうや、お腹が減ったのかい。豚さん」

 

頭上から、少し低く、掠れた声が降ってきた。

 

見上げると、作業服の腕を捲り上げたソレイナが、焼き上がったばかりのパンが詰まった木箱を抱え、こちらを見下ろしていた。

 

彼女の黒髪には白い粉がついており、朝日を背に浴びたその立ち姿は、昨夜の路地裏での怪しげな陰影を削ぎ落としたように、どこか素朴で清々しくすらあった。

 

「……いい匂いがしたもんでな」

 

クルツは被せられていた彼女の外套をゆっくりと押し上げ、大きな体を起こしながら、掠れた声で答えた。

 

「あんた、昨日よりもいい顔になったよ」

 

ソレイナはそう言うと、木箱の中から特に大きく、ふっくらと焼き上がった熱々のパンを大きくちぎり、持ってきてくれた。

 

「食べなよ、元気出しな」

 

彼女はそう言って、焼きたてのパンをクルツの血汚れの残る太い手元へと差し出した。

 

そして、逆光の中で──ソレイナは、昨夜の無機質だった表情からは想像もつかないほど、朝日を受けて眩しく、温かな笑顔をクルツに向けたのだった。

 

それには、冷酷な蔑みも、過剰な支配欲も、不快な拒絶も一切含まれていなかった。

 

ただ目の前にいるお腹を空かせた大きな生体に対する、当たり前で、無条件の親愛。

 

「あっ……」

 

クルツの胸の奥で、カチリと重い音がした。

 

昨日まで自分を苛んでいた、魂を引き千切られるような激しい欠落感と、己の醜悪さに対するドロドロとした自己嫌悪が、その眩しい笑顔と焼きたてのパンの熱量によって、ふっと軽くなっていくのを感じた。

 

理由は分からなかった。

 

自分が誰を失い、なぜこれまで血を流して絶望していたのか、記憶の断片は相変わらず闇の中に隠されたままだ。

 

だが、この温かい石窯の横で、この手の中にある香ばしいパンを噛み締め、この黒髪の女の笑顔を見つめていること──それだけで、自分の惨めな存在が許されているような気がした。

 

理由の分からない、しかし圧倒的な安堵が、クルツの全身を優しく満たしていった。

 

「……美味いな、中尉」

 

クルツはちぎられたパンを口に運び、溢れる小麦の旨味と熱を喉へと流し込んだ。

 

一口、また一口と噛み締めるたび、腹の底からじんわりと温かな活力が広がっていく。

 

自分を痛めつける必要も、誰かの軍靴の爪先を舐める必要も、高潔な誰かのために命を投げ捨てる必要もない。

 

ただここに座り、出されたパンを食い、温かな火にあたっていればいいのだ。

 

「そうだろう。焼き立てだからね」

 

ソレイナは満足そうに目を細めると、クルツのすぐ隣、麻袋の小山にそのまま腰を下ろした。

 

軍服が粉で汚れることも、オークの巨体と肩が触れ合うことも、一切気にする素振りがない。

 

彼女は膝を抱え、呆然と石窯の火を見つめながら、ぽつりと漏らした。

 

「兵士たちは毎日戦って、傷ついて、誰かを殺して、勝った負けたと騒いでいる。軍事顧問のお前も、そうやって眉間にシワを寄せて、世界を救うみたいな顔をして走っている。……だけどね、どれほど偉大な戦術も、どれほど気高き誇りも、胃袋が空っぽになれば一日で灰になるんだよ」

 

ソレイナの掠れた声が、薪の爆ぜる音に混じって静かに響く。

 

「だから、私はパンを焼く。誰かを感動させるためじゃない。ただ、兵士たちが倒れない程度の燃料を作るためだ。明日も、明後日も、戦争が終わっても、世界が滅びても……パンが焼けて、それを誰かが食べる。それ以上のことなんて、この世には最初から存在しないんだよ」

 

その言葉は、あまりにも平穏で、あまりにも無価値だった。

 

情熱も、愛も、怨嗟も、矜持すらも、すべてを「腹を満たすための燃料」へと還元してしまう絶対的な平準化。

 

ソレイナ・カルドイラという女が体現するのは、単なる不真面目さや怠慢のことではない。

 

あらゆる人間の高貴な営み、劇的な感情、狂おしい欲望のすべてを「無意味な無駄骨」として削ぎ落とし、ただ生き物としてただ存続するだけの「無」へと還す、底なしの沼なのだ。

 

クルツは手の中のパンを見つめたまま、じっと動かなくなった。

 

頭の奥で、カチ、カチと不快な歯車が回り始める。

 

(安らぎ……なのか、これは?)

 

確かに胸の穴は塞がった。

 

傷は癒え、血は止まり、腹は満たされた。

 

己の醜さに悶え苦しむ激痛も、このぬるま湯のような安らぎの中に溶けて消えかけている。

 

だが──

 

クルツの歪み切った肉体と魂が、内側から激しい違和感の悲鳴を上げ始めた。

 

違う。

 

俺が求めていたのは、このような平穏な許しなのか?

 

俺という不気味で、白く、醜悪なオークが生きる意味とは、ただパンを食い、ぬくぬくと温まり、ブタのように肥えて死んでいくことなのか?

 

「……ソレイナ中尉」

 

クルツは掠れた声で問いかけた。

 

「お前は……何も欲しくないのか? 誇りも、名誉も、至高の美も……誰かをひれ伏させ、支配する快楽すらも……何一つ、欲しくないのか?」

 

ソレイナは顔だけをクルツに向け、光の宿らない赤い瞳で、不思議そうに彼を見つめた。

 

「欲しいわけがないだろう。そんなものを手に入れたって、管理するのに手間がかかるだけだ。維持するのも、守るのも、奪い合うのも……全部、面倒くさい。お前はどうして、そうやってすぐ何かを欲しがるんだ?」

 

彼女はそっと手を伸ばし、クルツの太く泥のついた指先を、己のしなやかな手で優しく包み込んだ。

 

「何も欲しがらなければ、失うものもない。誰も愛さなければ、胸が千切れることもない。……ただ、私と一緒にここにいなさい。私という泥の中に沈んで、すべての欲望を捨ててしまえばいいんだ」

 

その瞬間──

 

クルツの脳髄を、痺れるような雷撃が突き抜けた。

 

(──あぁ)

 

視界が真っ赤に染まる。

 

脳の奥底で、狂気の回路が完璧な火花を散らした。

 

そうか。

 

理解した。

 

執着とは何なのかを。

 

かつて自分は、高潔で、鋭利で、己を踏みにじる至高の美(傲慢)に身を焦がした。

 

その足を舐め、その踏み台となり、壊れることで己の存在価値を証明しようとした。

 

それが執着だと思っていた。

 

だが、違ったのだ。

 

本当の執着とは──己のすべてを奪い去り、命の意味すら無化し、永遠の無へと引きずり込もうとする「絶対的な深淵」に対する、抗いがたい狂信のことだ!

 

目の前にいるこの女──ソレイナ・カルドイラ。

 

彼女は、自分に愛を求めない。

 

自分に苦痛すら与えない。

 

ただ、生きていることのすべてを無駄だと笑い、自分というオークの狂気も、自虐も、魂の叫びすらも、すべてを甘やかな真綿で押し潰して「ただの肉の塊」へと変えようとしている。

 

この「怠惰」という名の無価値化。

 

これこそが、これまでのどんな暴力や拒絶よりも恐ろしく、絶望的で──そして、狂おしいほどに美しい。

 

「……ハ……ハハハ……」

 

クルツの喉から、掠れた嘲笑が漏れ出した。

 

ソレイナの瞳が、微かに揺れる。

 

「クルツ……?」

 

「素晴らしい……最高だ、ソレイナ……!」

 

クルツは手の中のパンを握りつぶすと、血と泥に塗れた太い手で、ソレイナの手首を力任せに掴み上げた。

 

彼の白磁の肌の下から、異形の力強い筋力が躍動する。

 

アルビノの異形なオークの巨躯が、歓喜の震えとともに起き上がる。

 

「お前は俺を救おうとしているのではない……お前は俺から、戦う理由も、苦しむ権利も、俺という存在の最後の輝きすらも……すべてを奪って、死んだ豚に変えようとしているのだな……!」

 

「……何を言っているんだ、お前は」

 

ソレイナの顔から、先ほどまでの穏やかな笑みが消えた。

 

初めて、彼女の無機質な仮面の裏に、小さな戸惑いが走る。

 

その至近距離に迫った無防備な顔。白い粉のついた頬。透き通るような赤い瞳。

 

クルツの胸の奥で、決壊した情念が溢れ出そうとしていた。

 

このまま、この細い首を太い腕で抱き寄せ、その薄い唇を強引に奪ってしまいたい。

 

彼女の静かな傲慢を破り捨て、その瞳に驚愕と熱狂の色を塗り返してしまいたい。

 

だが──クルツは寸前のところで、その暴走しそうな腕を固く踏みとどまらせた。

 

今、この温かな朝の光の中で、強引に奪うのは違う。

 

彼女が自分を包み込むように、自分もまた、この狂おしい執着を「沈黙」の中に隠し、徐々に彼女を侵食していかなければならない。

 

クルツは不格好な唇を微かに歪め、壊れたように低く呟いた。

 

「……愛しているよ……エルフリーデ……」

 

その名は、どれほど記憶を剥ぎ取られようと決して消えることのない、彼の魂に深く刻まれた絶対的な原点にして決定的な呪縛。

 

他のすべてを忘却しようとも、この名だけは絶対に忘れない。

 

ソレイナの無関心に熱い楔を打ち込み、自分を強く意識させるための狂気の決定打として、彼は決して忘れないその名の呪いを叩きつけたのだ。

 

目の前の女を、己の狂気の深淵へと引きずり込むための、最初の一滴の毒。

 

ソレイナはその言葉を聞いても驚く風はなく、ただ困ったように眉を八の字に下げて、くすりと笑った。

 

「……どうでもいい名前だね。……だが、いいよ」

 

ただ甘く、すべてを飲み込む沼のように、クルツの歪んだ愛を受け止めた。

 

彼女はしなやかな指先を伸ばすと、クルツの頬に残っていたパンのクズを、優しく指先で拭い取った。

 

「誰の名前を呼ぼうと……お前が私の横で、大人しくパンを食べているなら……なんだっていい」

 

彼女の言葉は、どこまでもぬるく、甘く、そして抗いがたい抱擁だった。

 

クルツの言葉を拒絶せず、その過去の呪いすらも、すべて自分の無力化の海の中へ呑み込んでいく。

 

「……フフ……あはは……」

 

クルツの喉から、掠れた笑いが漏れた。

 

交わされる視線。

 

重なり合う体温の予感。

 

だが、それは愛には程遠い。

 

「俺を殺せ! 俺の魂を殺せ! ソレイナ・カルドイラ!」

 

クルツは狂ったような瞳で、至近距離からソレイナの赤き瞳を射抜いた。

 

「お前のその圧倒的な無関心! すべてを等しく無価値に変えるその虚無! それこそが、俺という醜悪な存在を叩き落とすにふさわしい、最深の地獄だ……!」

 

かつて抱いた愛の形は忘れた。

 

昨夜の女の名も、共に越えた修羅場の記憶も、すべては不可視の理によって消し去られた。

 

だが──だからこそ、目の前に現れた「深淵」に、クルツの狂気は新たな、そしてより深く歪んだ姿で牙を剥いた。

 

執着とは、相手に愛されることではない。

 

相手の属性──高慢であれ、怠惰であれ──その圧倒的な「悪徳の美」に己の魂を奪われ、その足元で永久に腐れ落ちることを切望する、自己破壊の衝動なのだ!

 

「お前が俺に何も求めないというのなら……俺はこの絶望的な無関心を愛し、お前という地獄に執着してやる!」

 

クルツはソレイナの華奢な肩を両手で抱き寄せ、その黒髪の中に顔を埋めた。

 

香ばしいパンの匂いと、彼女の体温が、クルツの全身を麻痺させていく。

 

「お前が俺を泥の中に沈めようとするなら、俺はお前を巻き込んで、二度と浮き上がれない底まで沈んでやる……! お前という虚無の女王の膝元で、俺は一生、ブタとして貪り、腐り果ててやる……!」

 

それは、救済を拒絶し、永遠の停滞を「至高の悦楽」として選び取った男の、新たなる狂信の宣誓だった。

 

ソレイナは抱き締められたまま、抵抗することも、突き放すこともしなかった。

 

ただ、あまりにも重く、あまりにも激しく自分にすがりついてくるこのオークの狂気に、呆れたような、しかしどこか甘やかな溜息を一つ吐き出した。

 

「……本当に、面倒な男だね、お前は」

 

彼女は冷めきった手で、クルツの背中にそっと手を回した。

 

突き放すエネルギーすら惜しむように、彼女は自らその狂気を受け入れ、己の懐へとクルツの巨躯を深く引き入れた。

 

「いいよ。そこまでして無になりたいなら、私の膝の上で腐っていきなさい。でも……どこにも行かせない。何もさせない。ただ、私の焼いたパンを食べて、永遠に眠っていればいい」

 

ソレイナの薄い唇が、クルツの耳元で囁く。

 

それは、あらゆる希望と努力を殺す、最も甘美で、最も残酷な抱擁。

 

クルツは彼女の胸の中で、狂おしい歓喜に身を震わせながら、自らの意思で、二度と抜け出せない泥沼へと全身を沈めていった。

 

記憶を失おうと、世界に拒絶されようと関係ない。

 

ここに、新たな地獄がある。

 

ここに、自分を永遠に満たす、至高の腐敗があるのだから──。

 

──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)

 

──Upon my lap.(我が膝の上で)

 

朝日が射し込む給食廠の片隅で、香ばしいパンの煙に包まれながら、二つの影は二度と解けぬ漆黒の停滞の中に、静かに溶け合っていった。

 

 

⇒第8話へ続く。

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