白煉のオーク ~Sink, Slumber, and be forever Steeped !~   作:ポオツマス亭

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星暦八七六年【8】 第2章《製パン中尉ソレイナ・カルドイラ③》

背中に回されたソレイナの冷めきった手が、重い抱擁となってクルツの巨躯を抱き留めていた。

 

耳元で囁かれた甘く残酷な怠惰の宣誓に、クルツの喉から掠れた笑いが漏れ出る。

 

彼女は自分の言葉を拒絶せず、その過去の呪いすらも、すべて自分の無力化の海の中へ呑み込んでいくのだ。

 

「……フフ……あはは……」

 

クルツの喉から、掠れた笑いが漏れた。

 

交わされる視線。重なり合う体温の予感。

 

二人の距離は、唇が触れ合う寸前のところまで近づいていた。

 

「……また、パンを焼いてくれ……中尉」

 

「……ああ。お前がここにいる限り……いくらでも焼いてやるよ」

 

二人の唇が重なり合い、ぬるく甘い毒が二人の魂を完全に塗りつぶそうとした、まさにその決定的な瞬間だった。

 

──キィィィィン、と。

 

耳腔の奥を直接ナイフで削り取るような、不快極まる超高音の不協和音が世界を真っ二つに断ち切った。

 

「……っ!?」

 

クルツの視界が、突如として水面に投げ込まれた巨大な石の波紋のように、激しく歪み、波打ち始めた。

 

腕の中で力強く抱き締めていたソレイナの華奢な体温が、触れていた滑らかな黒髪の感触が、急速に色を失い、透き通ったガラスのように透明になっていく。

 

作業場の広大な天井も、黒ずんだレンガの石窯も、内部で怪しく揺らめいていた赤熱の火光も、何もかもがぐにゃりと歪んで落ちていった。

 

世界そのものが、二人を拒絶していた。

 

絶望に喘ぐオークと、怠惰の底に沈むダークエルフ。

 

その決して交わってはならない(ことわり)を超えて二人が結ばれた瞬間、物語の整合性を司る『不可視の神』の無慈悲な手が、容赦なく介入したのだ。

 

二人が辿り着いた狂おしい静かな愛の成就も、胸を刺す永遠の停滞への到達も、この世界観においては断じて許されざる『異物』に過ぎなかった。

 

(待て……やめろ……! 渡さん……! 俺から……俺からこの深淵を奪うな……!)

 

クルツの壊れた脳髄の中で、渾身の絶叫がこだました。

 

太い腕にさらに力を込め、消えゆくソレイナの体を強引に胸元へ引き戻そうとする。

 

アルビノの白い皮膚が引き裂かれ、前夜の傷口から鮮血が吹き出したが、そんな激痛など気にも留めなかった。

 

だが、どれほど腕に力を込めようと、抱きしめている感触は手応えを失い、ただの冷たい空気へと変わっていく。

 

「……ああ」

 

クルツの胸元で、ソレイナの掠れた声が響いた。

 

だが、そこに焦りや絶望、あるいは引き裂かれる悲劇への涙など、一切存在しなかった。

 

かつてクルツの手の中で、高慢な誇りを打ち砕かれ、なりふり構わず涙を散らせて手を伸ばしたあのルシエラ少尉の時とは、あまりにも対照的だった。

 

ソレイナは、世界が崩壊し、己が存在が理の彼方へ消去されようとしているその瞬間すら──ただただ、億劫そうに目を細めていたのだ。

 

「なんだか……体が崩れていくね……」

 

ソレイナの体は、腰のあたりからサラサラと音を立てて、光る白い砂となって崩れ始めていた。

 

彼女は透き通っていく己の手先をぼんやりと見つめ、はぁ、と世界全体の重荷を投げ出すような、どこまでも怠惰な溜息を吐き出した。

 

「消される理由を考えるのも……抗うために叫ぶのも……全部、面倒くさいね……」

 

「ソレイナ……! 抗え! 叫べ! 俺の手を掴め……! お前は俺を……俺をただの豚にして、膝の上で腐らせるのではなかったのか……!?」

 

クルツは血走った目から涙を流しながら、崩れゆく彼女の顔を必死に覗き込んだ。

 

だが、ソレイナの透き通るような赤い瞳には、世界の終わりに対する恐怖も、クルツへの執着の残り火すら浮かんでいなかった。

 

「そんなに力むなよ、クルツ……疲れるだろう……」

 

ただ、彼女はどこまでも平坦で、どこまでも無気力だった。

 

「……私のやる気は……すべて、あのシルヴァン川を渡った時に使い果たしたんだ……」

 

消えゆく彼女の体に触れた指先から、言葉にならなかった記憶の残滓がクルツの脳髄へと流れ込んでくる。

 

せせら笑う白エルフ(アールブ)たちによって、目の前で焼き殺された妹の悲鳴と助けを求める声、それら全てを呑み込み、黒く焼き尽くした炎。

 

追撃の刃から逃げ延びた先で、極限の恐怖に震える彼女の体を温め、かろうじて正気を繋ぎ止めたのは──給食廠の石窯で揺らめく赤熱の火だけだった。

 

妹を奪った残酷な炎の前に留まり、ただその温もりに縋り続けるための免罪符。

 

それが「パンを焼く」という彼女の狂気だったのだ。

 

復讐を考えることも、絶望に叫ぶこともすべて放棄し、彼女はただ寝ずに石窯の火の前に逃げ込み、感情を殺してパンを焼き続けることで、自らの心を怠惰の地獄へと沈めたのだった。

 

(──あぁ、そうだったのか……! お前が焼いていたのはパンなどではない……己の死んだ魂と、焼き尽くされた妹の絶望そのものだったのだ……!)

 

単なる無気力などではない、地獄の炎を抱え続けるソレイナの底知れぬ狂気の深淵に触れ、クルツの胸は破滅的な歓喜と激痛で張り裂けそうになった。

 

「ソレイナ……お前……っ!」

 

彼女の薄い唇が、消えゆく砂の境界線の中で、ぼやけた笑みを刻んだ。

 

「消えることすら……面倒くさいのに……お前がそんなに叫ぶから……もっと面倒に……なる……」

 

手を手繰り寄せようとするクルツの指先を、彼女の手は擦り抜け、そのまま無造作に解けていく。

 

「……やっと……眠れるな……じゃあね、私の……面倒な……豚さん……」

 

それが、ソレイナ・カルドイラという女の、最期の言葉だった。

 

抗う情熱すら惜しみ、絶望の涙を流すことすら億劫がり、彼女はただぬるい泥の中に溶けていくように、あっけなく、無機質に、そして圧倒的な脱力感とともに虚無へと消え去った。

 

「ソレイナっ……!」

 

抱きしめていた腕の中に残ったのは、冷たい空気と、かすかに残る焼き立てのパンの匂いだけだった。

 

次の瞬間、空間そのものがメリメリと音を立てて砕け散った。

 

石窯も、木樽も、黄金色の朝の光も、すべてが漆黒の渦へと巻き込まれていく。

 

世界の修正力という無慈悲な渦が、クルツの肉体と魂を捉え、深遠なる暗黒の底へと力任せに叩き落とした。

 

(あ……あぁ……っ! まただ……また、俺から……すべてが……!)

 

墜落していく暗闇の中で、クルツの脳髄は容赦なく掻き回された。

 

給食廠の甘い酵母の匂い、石窯の温かな輻射熱、麻袋の感触、エプロン姿のダークエルフの女たちの会話、そして──ソレイナ・カルドイラという黒髪の女の記憶。

 

それらが、目に見えぬ力によって、まるで濡れた雑巾で黒板を拭い去るように、急速に塗りつぶされていく。

 

「忘れるものか……! 忘れてたまるか……! 俺のソレイナを……俺の執着を……俺の地獄を……返せ……ッ!」

 

魂を死に物狂いで蠢かせ、消えゆく記憶の糸にしがみつこうとする。

 

だが、理の介入は完璧だった。

 

どんなに抗おうと、ソレイナの顔が、声が、名前が、指の隙間からサラサラと零れ落ちていく。

 

残されたのは──ただ一つ。

 

どれほど世界が書き換えられようと、どれほど記憶を泥で塗りつぶされようと、決して消去することのできない、彼の魂の底に打たれた絶対的な「楔」。

 

『エルフリーデ』

 

その呪いのような名だけが、狂おしい灼熱となってクルツの胸の中央に残り続けた。

 

そして、クルツの意識は、完全なる虚無の暗黒へと沈没していった──。

 

[newpage]

 

──ズキンッ、と。

 

頭蓋骨を直接内側から割られるような激しい鈍痛とともに、クルツは跳ね起きようとした。

 

だが、全身の筋肉は固まり、重い石でも括り付けられたかのように動かない。

 

口内に広がるのは、安酒の吐き気を催す腐敗臭と、喉を焼き焦がす猛烈な渇き。

 

「が……っ、ほっ……ゲホッ……!」

 

激しく咳き込みながら、クルツは泥と吐き気の中に顔を埋めた。

 

抱きしめていたはずの柔らかい体温も、甘いパンの匂いも、ぬるい停滞の感触も──すべては泡沫の夢であったかのように、綺麗さっぱり消え去っていた。

 

残されたのは、激しい眩暈と、己という存在への泥のような拒絶感だけだった。

 

(……俺は……何を……していた……?)

 

重い瞼をどうにか持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、将校クラブの裏路地を冷ややかに照らす、青白い街灯の光だった。

 

壁にへばりつく苔の匂いと、腐ったドブの悪臭が鼻腔を突く。

 

手元には、転がって割れた安酒の小瓶。

 

軍帽は泥水の中に落ち、不格好で病的なまでに白いオークの巨躯が、無様に石畳の上に打ち捨てられていた。

 

思い出せない。

 

自分はどこにいた? 誰といた?

 

誰の膝の上に頭を乗せ、誰の言葉に耳を傾けていた?

 

脳の記憶領域は完璧に洗浄され、何の残滓も留めていなかった。

 

だが──胸の中央だけが、まるで真っ赤に熾きた鉄串を刺し込まれたかのように、焼きつく痛みを上げていた。

 

己の魂の最も大切な部分を、根こそぎ刃物で抉り取られたかのような、絶望的な「欠落感」。

 

「あ……あぁ……っ……!」

 

クルツは血走った目を見開き、泥のついた太い手で己の胸元を強く掻きむしった。

 

軍服のボタンがちぎれ飛び、アルビノの白い肌に太い爪が食い込む。

 

爪の先から血が滲み出ても、その痛みが胸の穴の激痛を和らげることはなかった。

 

誰かを失った。

 

自分を絶望の底へ叩き落とし、自分という無様な存在を完璧に支配してくれた「至高の何か」を、自分はまたしても失ってしまったのだ。

 

「……誰だ……俺は……誰を失ったのだ……! 返してくれ……! 俺の……俺の愛を……俺の地獄を返してくれ……っ!」

 

膝を震わせ、石畳に両手をつきながら、クルツは泥を吐くように叫んだ。

 

うわ言のように繰り返される悲痛な叫びは、濡れた路地裏の壁に虚しく反響し、夜の静寂の中に消えていく。

 

何も思い出せない。

 

顔も、声も、名前すらも。

 

ただ、失われた絶望の大きさだけが、消えぬ呪いとなってクルツの全身を苛み続ける。

 

立ち上がらなければならない。探さなければならない。

 

だが、どこへ? 誰を?

 

自分という醜悪で不快なオークに生きる価値などない。

 

だが、あの失われた「何か」の足元で泥を舐め、その美しさを讃えるためだけに、自分は生きなければならないのだ。

 

「ハ……ハハハ……」

 

クルツの不格好な唇から、乾いた狂気の笑いが溢れ出した。

 

血と涙と泥でドロドロに汚れた顔を上げ、街灯の青白い光を仰ぎ見る。

 

「そうだ……これでいい……。何かを失い、絶望し、胸を血で染めながら……這いずり回るのが……俺という豚のあるべき姿だ……」

 

自虐の陶酔。

 

だが、その陶酔の底には、何度塗りつぶされても消えることのない、永遠の渇きが渦巻いていた。

 

その時だった。

 

路地裏の奥、漆黒の闇が凝固したような曲がり角から、カツン……カツン……と、静かな靴音が近づいてきた。

 

それは、ルシエラの刺すような軍靴の音でもなく、ソレイナの足音の殺された柔らかい歩調とも違う。

 

どこか重厚で、冷徹で、圧倒的な威圧感を伴った、硬質なヒールの音。

 

「……何だ……?」

 

クルツは吐き気を押し殺し、血走った目で闇の奥を見据えた。

 

街灯の青白い光の陰から伸びてきた影が、路地裏に横たわるクルツの無様な巨躯を、ゆっくりと、そして踏みにじるように覆い尽くしていく。

 

そこに現れたのは──これまでのどの女とも異なる、苛烈な気を纏ったダークエルフの姿だった。

 

闇を切り裂くような鋭利な眼差しと、隙のないアンファングリア旅団騎兵科の軍服。

 

彼女は泥の中に転がるクルツの血まみれの姿に冷たい視線を一瞥だけ走らせると、心底不快そうに鼻を鳴らした。

 

「……惨めだな、白豚頭(オーク)が」

 

その声は、モリム鋼で作られた山刀の刃で直接耳を削ぎ落とすかのように、冷たく、そして鋭く路地裏に響き渡った。

 

蔑み。

 

侮蔑。

 

拒絶。

 

その声が耳に届いた瞬間──クルツの胸の奥で、失われたはずの狂気の回路が、再び猛烈な火花を散らして跳ね上がった。

 

(……あぁ)

 

胸の穴が、新たな猛毒によって満たされていく。

 

記憶は消えた。

 

愛した者たちの名前も、その温もりも、すべては不可視の(ことわり)によって奪い去られた。

 

だが──胸の抉れた穴は、失うたびに大きく、深く、そして鋭利に研ぎ澄まされていた。

 

かつてのような、ただ暴力と甘やかしに流されるだけの豚ではない。

 

今の自分は、この胸の激痛と欠落を埋めるためなら、どんな惨劇にも自ら首を差し出す「地獄の飢人(きじん)」だ。

 

自分を嘲笑い、踏みにじる新たな深淵が、目の前に立っている。

 

クルツは掠れた声を漏らし、不格好な顔を醜く歪めながら──あろうことか、歓喜に震える手で、自らその新たな支配者の足元へと這い進んだ。

 

理由の分からぬ激しい愛おしさと、二度と取り戻せない欠落感。

 

その解けない永遠の絶望を抱えたまま、クルツはより深い狂気の底へと、進んで自らを叩き落としていく──。

 

──SINK, SLUMBER, AND BE FOREVER STEEPED.(沈め、眠れ、そして永遠に満たされよ)

 

──Again, and again.(何度でも、何度でも)

 

 

⇒第9話へ続く。

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