ナンバリング・ガール 作:管理局事案編纂室
朝の光が海面に反射している。
27番は人気のない防波堤の影で左腕の応急処置を終えた。
消毒液の匂い。ガーゼを当て、包帯を巻く。
顔を上げた。広がる海はまだ昨日の色を引きずっている。夜明けの残滓。だがすでに空は青い。
昨夜、東の空から目が離せなかった理由は、まだ特定できていない。
右手が枷に触れる。冷たい。視線を戻す。
指先で軽く圧迫し、出血が止まっていることを確認した。動かすたびに鈍い痛みを発するが魔力の流れに異常はない。
指を順に曲げ、握り、開く。腕を曲げ、肩を回す。
(可動域に若干の制限あり。任務継続に支障なし)
処置完了。
「その腕……」
前方。少し離れた防波堤の影から声。ユーノが包帯に覆われた腕を見ていた。夜の間に一度離れ、また戻ってきたらしい。
「応急処置は完了しました」
「そうじゃなくて……痛くないの?」
「痛覚信号はあります。ですが、任務遂行に不要な情報です」
「……っ」
彼は一度口を開き、結局何も言わずに閉じた。前足が地面を掻く。何かを飲み込む動作。
距離を取るでもなく、近づくでもない。その中間で足踏みしている。その行動の意図が読めなかった。
「……君は、誰かに治してもらったことある?」
27番は答えなかった。
答えようとしたわけではない。ただ、喉の奥で何かが引っかかった。言語化する前に、それは消えた。
一瞬浮かんだ白い天井。すぐに思い出さないように記憶に蓋をした。
(……質問の意図不明。会話の優先度、低。探索継続)
デバイスを握り、地形図を展開する。次の探索地点を確認し歩き出す。
背後から小さな足音が追ってくる。振り返らない。足音の主は、フェレットの姿で、27番の歩調に合わせて付いてくる。時折前足が石を踏み外して転びそうになるが、そのたびに体勢を立て直して追いかける。
「次はどこへ行くの?」
「反応を探します」
「僕も手伝えると思う」
「そうですか」
それだけを返した。返事の内容に意味はない。だが、ユーノが隣を歩く速度を少し上げたことに気づいた。任務に不要な情報として処理した。
地図上に点を打つ。消す。三つ目の点と別の点を繋ぐ。交差する場所を抽出。
(候補七。有力二。倉庫街は魔力撹拌で精度低下。旧市街は死角が多いが流れ安定。後者を選択)
旧市街へ向かう。
歩きながら、ユーノが横に並ぶ。彼は負傷した腕の方には回り込まなかった。無意識の配慮か、あるいは単に歩きやすい側を選んだだけか。どちらでもいいことだった。
しばらく進んだところで、潮の匂いに混ざって微かな魔力の残滓を感じた。ジュエルシードのものではない。
足を止め、感知を研ぎ澄ます。……消えた。
判断を保留し、歩き出す。
ユーノが不思議そうに顔を上げたが、何も言わなかった。
旧市街は寂れていた。石畳。目地に草。窓に板。人の気配はない。好条件。
路地の幅。遮蔽物。撤退経路。計算しながら進む。
デバイスを握る手にわずかな振動。魔力反応。微弱で不安定。だが、ある。
歩調を緩める。ユーノの耳が立つ。
「反応、あるの?」
「微弱です。ですが、条件を満たしています」
反応の強度だけでは判断しない。強度が弱くとも、他の条件が重なれば、候補地としての優先度は上がる。逆もまた然り。
石畳を外れ、路地に入る。奥に古い二階建て。漆喰はひび割れ、窓の半分は割れている。玄関の扉は歪んでいた。
デバイスが再び振動する。先ほどより強い。だが、まだ微弱の域を出ない。
建物に近づく。足音を殺す。ユーノも続く。彼の足音は消せないが、気にしない。戦闘の予兆はない。今のところ、脅威は検出されていない。
扉の隙間から中を覗く。暗い。埃と黴の匂い。それに混ざって、微かな魔力。
扉を押し開けた。軋む音が路地に響く。古い木と錆びた鉄と、雨漏りの染みた天井。人が住まなくなって久しい家の匂いだ。中に入る。床板がきしむ。天井から埃が落ちてくる。
彼の鼻がひくつくのを視界の端でとらえた。
「これ、ジュエルシード……?」
声は、問いかけというより確認のようだった。彼も感じ取っている。この反応が、昨日のものとは違うことを。
「はい。ですが、様子が違います」
建物の奥へ進んだ。一階の奥、かつては一家の中心だったと思われる部屋。その中央に、青い光。
ジュエルシード。だが、その周囲に黒い染みのようなものが広がっている。魔力の染み。建物の構造に浸透し、壁や床に薄く広がっている。それはまるで、建物が内側から腐敗していくようだった。
染みはまだ小さい。しかし、このまま浸食が進めば、建物そのものが取り込まれる可能性がある。
「これ、ちょっとまずいんじゃないの?」
声が上ずった。耳が伏せられ、尻尾が揺れる。
状況を分析した。何かを取り込みかけている。完全に融合する前の段階。だが、放置すれば融合が進行する。融合が完了すれば、昨日の戦闘と同様の事態になる。あるいはもっと厄介な形に。
(……戦闘になる前に、止める)
デバイスを構えた。魔力を収束させる。昨日のような砲撃は使う必要はない。融合する前に、切り離せばいい。
「下がってください」
ユーノが後退する。魔力を調整、変質させる。攻撃ではなく、干渉。黒い染みを引き剥がしにかかる。
「……切り離し」
瞬間、ジュエルシードが脈動した。青い光が明滅し、黒い染みが急速に広がる。壁を伝い床を這い、天井へと浸食が加速する。建物そのものが変質し始めた。
(逆効果。干渉魔力が活性化を促した)
失敗だった。だが、まだ致命的ではない。
即座に魔力供給を停止。デバイスを構えたまま、動かなかった。
(侵食速度上昇。早急な対応が必要)
息を呑む音。染みは建物全体に広がり、壁の一部が黒い脈動を始めている。床の一部が隆起し、内側から何かが押し上げるように歪む。建物そのものが生き物のように蠢き始めた。
デバイスを握る指に力がこもる。古びた杖は応えない。このデバイスに自動判断機能はない。判断は全て27番に委ねられている。
(魔力を使用すれば活性化を早める。だが、使用しなければ融合は完了する)
建物全体が脈動する。床の隆起が足元にまで達した。天井の一部が崩落する。咄嗟に庇う位置へ移動し、障壁を展開した。浸食がさらに加速する。
「えっ!?あ、ありがとう……」
言葉は、もう聞こえていなかった。不要な情報は無意識のうちに処理された。
(なぜ庇った?)
身体の予期せぬ動作に、思考が遅れて追いつく。答えは出ない。
(情報源の保護。それだけだ)
結論を先に置き、思考を打ち切る。
(時間がない。戦闘への発展は許容できない。最終的な任務達成に影響する)
二律背反。解は一つ。
(魔力を使わずに済む方法は、ない)
視覚を遮断し、魔力感知に集中する。建物内部の魔力の流れを読む。無数の魔力の糸。それが建物の構造物に絡みつき、侵食している。
糸は無数にある。だが、全ての糸が交わる点がある。幹。これを断てば、枝は枯れるはずだ。
目を開ける。デバイスを構え直す。魔力を極限まで収束させる。攻撃ではない。切断。狙うのは一点。
「射撃」
放たれた魔力は弾丸となって、接続点の主幹に命中した。小さな閃光。接続点が穿たれた瞬間、建物全体にまで広がっていた黒い染みが急速に薄れていく。
侵食が止まる。壁の歪みが戻り、床の隆起が収まり、木材の軋みが静まる。黒い染みは退色し、やがて霧散した。
ジュエルシードが床に落ちる。澄んだ音を立てて。
「回収完了。残り十九」
拾い上げた。指先で転がす。二つ目。
(魔力に反応し急速に覚醒。覚醒前の回収は極力魔力使用を避ける)
一つ、嫌な推論に行き当たった。
(……複数の対象が近傍にある場合、一つの覚醒が別個体の覚醒の呼び水になる可能性あり)
その可能性を、今は深くは考えなかった。ただ起こりえる事象として記憶した。
指先の宝石は、不気味なほどにほの温かい。
「……すごい。あんなに正確に狙えるんだ」
感嘆の言葉。だが、その声音には知らない何かが混ざっている。昨夜の戦闘を思い出しているのかもしれない。
振り返らない。振り返る理由がない。だが、その「何か」の正体を特定できないことが、わずかな処理遅延を生んだ。
「建物内部の魔力流を読めば、切断点は明白です」
「明白って……そんなこと……」
彼は何か言いかけて、やめた。27番は気にしない。
(……次へ行かなければ)
達成感はない。ただ、任務が進んだ。
周囲を見回した。染みが消えた今、建物に異常は見当たらない。
建物を出る。海の方角から風が潮の香りを運んでくる。
「次の探索地点へ移動します」
次の候補地は海沿いの倉庫街。魔力の流れは不安定だが、反応の分布を再計算すれば絞り込める。
その時、遠くに微かな魔力を感知した。おそらくは探知のために発信されたもの。旧市街に入る前に感じたのと同じ質。今度はより明確だった。
足を止める。疑念は確信に変わった。
ユーノが隣で首を傾げた。先程の魔力に気づいていないらしい。
(別の魔導師。外部存在。能動的。仮想敵と想定。脅威度不明。優先度保留)
告げるべきか。彼は味方ではない。中立。しかし、有益な情報を持っているかもしれない。
「あなた以外に、ジュエルシードを探している人はいますか?」
彼は首を傾げた。
「僕が知っている限りでは……いや、でも」
「でも?」
「……僕以外にも、誰かが集めている可能性はある。僕は一人で探してたから、確認はできてないけど」
「そうですか」
その言葉を、可能性として受け取らなかった。事実として処理した。
先ほどの魔力反応。あれの目的が27番の任務と同一なら、遭遇は時間の問題だった。
(要確認。ただし任務を優先)
次に遭遇した場合確認する。それだけを判断し、探索を再開する。
風が髪を撫でる。首元の枷が、いつもと同じ冷たさで皮膚に触れていた。
海が見える。倉庫街の方角。次の任務。次のジュエルシード。その先にあるもの。
石畳の目地に咲いた小さな花が視界に入った。踏まれない場所を選んで咲いた、小さな白い花。
(不要な情報)
顔を上げる。前だけを見据え、一歩踏み出した。