毎日コンビニの新商品を食べ続けていただけの俺、なぜか食品開発会社のエースになる 作:赤坂龍之介
「……また落ちた」
スマホの画面に表示された不採用通知を見て、俺――佐伯直人、二十六歳は、静かにスマホを伏せた。
これで今年、何社目だろう。もう数える気にもならない。
別に、働きたくないわけじゃない。むしろ働きたい。金が欲しい。社会的信用も欲しい。できれば彼女も欲しい。
ただ、「コミュニケーション能力を重視しています」「主体性を持って行動できる方を求めています」「チームワークを大切にできる方」こういう文言を見るたびに、(俺、全部ダメじゃん)となる。
人と喋るのが苦手。特に初対面の相手とは、何を話せばいいのか分からない。面接でも、質問されたことには答えられる。ただ、その先が続かない。
「学生時代に力を入れたことは?」
「……特にありません」
「では、あなたの長所を教えてください」
「……真面目です」
「具体的には?」
「……遅刻しません」
――終わり。
グループディスカッションなんて、もっと酷い。「俺もそれについて――」と言おうとした頃には、話題が三周くらいしている。
そして何より。俺には、これといった特技がなかった。
運動は苦手。勉強も普通。料理は、家庭料理をほとんどしたことがない。絵も描けない。ゲームならそこそこ得意だが、当然ながら就職活動では何の役にも立たない。
だから今日も、家に帰る。
「……腹減った」
時刻は午後七時。冷蔵庫を開ける。何もない。
正確には、賞味期限が二日前に切れた卵が二個ある。
無理。
コンビニに行こう。
財布を掴んで外へ出る。そして、いつものように近所のコンビニへ向かった。
俺には、一つだけ十年以上続けている習慣がある。
コンビニの新商品を食べることだ。
正確に言えば――コンビニをほぼ毎日利用し、新商品が発売されれば、できるだけその日のうちに買って食べる。それが俺の習慣だった。
始まりは高校一年生。十六歳の春。たまたま買った新作のおにぎりが、妙にうまかった。
「前のおにぎりと何が違うんだ?」
その疑問がきっかけだった。
それから新商品が出るたびに食べるようになった。
弁当。パン。おにぎり。スイーツ。飲料。アイス。カップ麺。何でも食べた。
新商品が出る。買う。食べる。前の商品と比べる。感想を書く。また新商品が出る。買う。食べる。比べる。書く。
それを繰り返した。
気づけば十年以上。十六歳だった俺は、二十六歳になっていた。
スマホには、十年以上の記録が残っている。
『2016年4月12日 新作チーズバーガー』
『バンズは前回より甘い。肉は厚くなったが、ソースとの相性が悪い』
『2016年6月3日 新作プリン』
『卵感は強い。カラメルが弱い。惜しい』
『2017年11月19日 新作カレー』
『香辛料はいい。ただし米との比率がおかしい』
他人が見たらどう思うだろう。たぶんキモい。
俺もそう思う。
でも、楽しかった。
だから続いた。
俺にはもう一つ、十年以上続けていることがある。
匿名の食品レビューサイトへの投稿だ。
最初は高校生の暇つぶしだった。
『普通にうまい』
『これは微妙』
『また買いたい』
その程度だった。
だが、何百種類も食べていると、だんだん気になることが増えていった。
同じチョコ味でも、メーカーによって香りが違う。同じおにぎりでも、米の硬さと具材の水分量で印象が変わる。パンの甘さが強ければ、具材の塩気が弱く感じる。ソースが濃ければ、麺の水分量が気になる。
最初は感覚だけだった。
それが何年も食べ続けるうちに、「前の商品と何が違う?」「なぜ一口目は美味しいのに、最後まで食べると飽きる?」「この味の組み合わせは、どうして後味が重い?」そんなことを考えるようになった。
俺は食品関係者でもなければ、料理人でもない。味覚に関する資格だって持っていない。舌が特別優れているとも思っていない。
ただ。
食べて。比べて。記録して。また食べる。
それを十年以上繰り返してきただけだ。
だからレビューも少しずつ変わった。
『ソースの香りは前作より良い。ただし麺の水分量が多く、後半に味がぼやける』
『具材を増やすより、米の塩味を少し落とした方が具材の風味が立つと思う』
『価格を考えれば十分。ただ、パッケージから期待する濃厚さには届いていない』
俺自身は、それを特技だと思ったことはなかった。
ただ好きでやっているだけ。
それだけだった。
*
「お、新作」
コンビニの棚に、見慣れないパッケージが並んでいた。
新作の焼きそばパン。
俺は迷わず手に取った。
帰宅。開封。まず匂いを確認する。
ソース。紅しょうが。パン。
一口。
「……」
二口。
「……ん?」
もう一口。
俺は眉を寄せた。
「これ……」
焼きそば自体は悪くない。ソースの濃さもいい。麺の水分量も悪くない。
ただ。
「紅しょうが、強いな」
俺はスマホを取り出した。個人用のメモを開く。
『焼きそばパン新作』
『ソース○』
『麺の水分量○』
『パン△』
『紅しょうが×』
さらに考える。
パンの甘み。ソースの塩味。紅しょうがの酸味。
それぞれ単体では悪くない。ただ、三つを合わせたときに、紅しょうがの酸味だけが妙に前へ出る。
『パンの甘みも少し強い。紅しょうがを減らすなら、パンの甘みも抑えた方がいい』
メモを終える。
次に匿名レビューサイトを開いた。こちらには、個人メモほど細かいことは書かない。一般の読者にも分かるように整理する。
『ソースの濃さは良好。焼きそばの水分量も適切。ただしパン自体の甘みがやや強く、紅しょうがの酸味とぶつかっている。紅しょうがを減らすのであれば、パンの甘みも抑えた方が全体のまとまりは良くなると思う』
投稿。
「よし」
いつものことだった。
……その数分後。
スマホが震えた。
「……?」
知らない番号。
嫌な予感しかしない。
無視しようと思った。
しかし、三回目の着信で俺は諦めて電話に出た。
「はい……」
『佐伯直人さんでしょうか?』
「……はい」
『突然のお電話、申し訳ありません。私、株式会社グランテーブルの商品開発部の黒川美咲と申します』
「……はあ」
知らない会社だった。そもそも、就活で応募した覚えもない。
『実は、佐伯さんにお願いしたいことがありまして』
「……なんでしょう」
『一度、弊社の選考を受けていただけませんか?』
「……」
「すみません。俺、御社に応募とかしてないと思うんですけど……」
『はい。存じています』
「……え?」
『佐伯さんは、弊社の求人に応募されていません』
「じゃあ、なんで……」
『順番に説明します』
黒川さんは、落ち着いた声で話し始めた。
『四年ほど前、私が所属する商品開発部で、ある商品の消費者レビューを探していました』
「はい」
『そのとき、佐伯さんの投稿を見つけたんです』
「四年前……」
『はい。最初は、よくある個人レビューだと思いました』
「でしょうね」
『ところが、他のレビューと少し違った』
「……」
『発売されたばかりの商品なのに、以前の商品との違いを具体的に指摘していたんです』
「……」
『そこで、過去の投稿もいくつか遡ってみました』
「十年分を?」
『最初から十年分を一気に調べたわけではありません。気になった投稿を確認していくうちに、以前にも似たような分析をしていることが分かったんです』
「なるほど……」
『それで少しずつ遡っていった結果、かなり長期間にわたってレビューを続けていることが分かりました』
「……」
『私はその記録を、社内の一部の開発担当者に共有しました』
「黒川さんが?」
『はい』
「じゃあ、最初に見つけたのも黒川さんなんですか?」
『そうです』
「……」
『ただ、その時点では採用なんて考えていませんでした』
「ですよね」
『当時の佐伯さんは大学生でしたし、私たちも「面白い消費者のレビューを見つけた」くらいの認識でした』
「……」
『その後、佐伯さんのレビューを参考にする開発担当者が少しずつ増えていきました』
「俺のレビューが……?」
『もちろん、正式な市場調査データではありません』
「ですよね」
『売上データやアンケート、競合分析、社内試験などとは別の、一消費者の継続的な感想としてです』
「……」
『同じシリーズを何年も追っている』
『リニューアル前と後を比べている』
『似た商品を食べ比べている』
『食感、香り、後味、価格まで記録している』
『こういう長期的な個人記録は、参考資料として面白かった』
「……」
『だから、時々開発担当者が見るようになったんです』
俺は妙な気分になった。自分の暇つぶしが、知らないところで食品会社の人間に読まれていた。
『ですが、四年前からずっと採用候補として追いかけていたわけではありません』
「じゃあ、どうして今?」
『最近です』
「最近?」
『商品開発部で新人を採用することになったんです』
『そこで候補者を考えていたとき、私は佐伯さんのレビューを思い出しました』
「……」
『改めて過去の投稿を確認してみたんです』
「四年間分?」
『現在までです』
「……」
『そうしたら、驚きました』
「何に?」
『十年前と、ほとんど変わらないんです』
「……え?」
『新商品が出れば食べる。以前の商品と比較する。感じたことを書く』
「……」
『ただし、内容だけは年々細かくなっている』
「……まあ」
『十年前は「美味しい」「微妙」程度だったのが、今では食感、香り、後味、バランスにまで触れている』
「……」
『何より、十年以上続いている』
「……」
『だから、今回なら声をかけてもいいんじゃないかと思いました』
「……なるほど」
『もちろん、社内でも検討しました』
「俺を?」
『はい』
『商品開発部として求める人材と、佐伯さんの能力が合うか』
『食品開発の知識がなくても教育できるか』
『会社員としてチームで働けるか』
『その辺りも含めて検討しました』
「……」
『そして、選考を受けていただきたいという結論になりました』
「でも、どうやって俺だって分かったんですか?」
『そこも説明します』
黒川さんは続けた。
『レビューサイトでは匿名でしたが、投稿に使われていた写真、公開プロフィール、投稿時間など、公開されている情報をいくつか照合しました』
「……」
『最終的には、佐伯さんが公開していた別のSNSアカウントとレビュー内容が一致したことで、本人だと判断しました』
「……そこまで調べたんですか」
『非公開情報を不正に取得したわけではありません』
「それなら……まあ」
『むしろ、それが分からなかったら採用の話なんてできませんから』
「それはそうですね」
『そして、今の佐伯さんを見ていると』
「はい」
『一つ、はっきり言えることがあります』
「何ですか?」
『佐伯さんは、料理人ではありません』
「はい」
『食品開発者でもありません』
「はい」
『でも、消費者としての観察力は非常に高い』
「……」
『食べて感じた違和感を見つける』
『過去の商品と比較する』
『「美味しい」「まずい」で終わらず、どこが引っかかるのか言葉にする』
『これは、十年以上の積み重ねがなければ簡単にはできません』
「……俺に、そんな能力ありますかね」
『あります』
即答だった。
『ただし、能力には限界もあります』
「……限界?」
『味の違和感を見つけることと、その原因を特定することは別です』
「……」
『さらに、原因が分かったとしても、それを工場でどう再現し、どの程度調整し、いくらで販売するかとなれば、食品開発の専門知識が必要になります』
「……」
『そこは、これから勉強していただきたい』
俺は少し黙った。
それは妙に納得できた。
俺は確かに、「なんか変だ」ということには気づける。でも、「その原因は乳化状態が――」と言われたら、たぶん何も分からない。
俺は食品開発者じゃない。
ただの消費者だ。
『ですから、最初からエースになってもらおうとは思っていません』
「……え?」
『まずは新人として入社していただく』
「新人……」
『食品化学も、製造工程も、商品企画も、一から学んでいただきます』
「……」
『そして、分からないことは周囲に聞いてください』
「コミュニケーション……」
『はい』
「……苦手なんですよ」
『知っています』
「知ってるんですか」
『レビューサイトでは饒舌なのに、面接では極端に口数が少なくなることもありますよね』
「…………」
そこまで分析されていたのか。
『ただ』
黒川さんは少し笑った。
『食べ物の話になると、かなり喋れる』
「……」
『そこは、むしろ面白いと思っています』
「……」
『商品開発は一人ではできません』
「……はい」
『だからこそ、これから会社で人と働くことも覚えてください』
「……分かりました」
『では、一度選考を受けていただけますか?』
「……給料、出ます?」
『採用後はもちろん』
「正社員?」
『はい』
「人事評価とかあります?」
『あります』
「失敗したら怒られます?」
『まあ、怒ります』
「……」
俺は少し考えた。
そして。
「行きます」
人生で初めて。
自分から、仕事を選んだ。
*
翌日。
俺は株式会社グランテーブルの本社ビルにいた。
「……でか」
場違いだ。明らかに場違い。
グランテーブルは、全国のコンビニやスーパーなどに商品を供給している中堅の食品メーカーだ。本社には数百人規模の社員が働いていて、商品開発部も数十人の開発担当者を抱えているらしい。
自社ブランドの商品もある。一方で、大手コンビニチェーンやスーパーから依頼を受け、弁当、パン、惣菜、スイーツなどを共同開発することも多い。
つまり。
俺が十年以上、コンビニで食べてきた商品の中には、この会社が関わっていたものも少なくない。
そう考えると、余計に緊張した。
受付を済ませ、案内された会議室へ入る。
「失礼します……」
「来た!」
「本当に普通の人だ!」
「ちょっと、声!」
「すみません!」
「…………」
帰りたい。
いきなり帰りたい。
会議室には十人ほどの男女がいた。
商品開発部の社員らしい。
そして正面には、昨日電話をくれた女性。
「改めまして。商品開発部主任、黒川美咲です」
「主任……」
「はい」
「……そんな人だったんですか」
「電話では言っていませんでしたね」
「言ってくださいよ……」
黒川主任は少し笑った。
「今日は私が、今回の採用選考を担当します」
「よろしくお願いします」
「それと」
「はい?」
「今回の中途採用の実務面談については、私が商品開発部側の責任者です」
「なるほど」
「人事の最終手続きは別途、人事部が担当します」
「あ、それなら安心しました」
「何がです?」
「主任一人の判断で俺を採用するのかと思いました」
「そんなことはしません」
「ですよね」
また笑いが起きた。
それだけで、俺の緊張が少し和らいだ。
「最初に説明しておきます」
黒川主任が資料を開く。
「今回の選考は、佐伯さんにいきなり商品開発を任せるためのものではありません」
「ですよね」
「採用後は新人研修を受けてもらいます」
「はい」
「食品化学、原材料、製造工程、衛生管理、原価計算」
「……」
「商品企画、マーケティング」
「……」
「それから、社内でのコミュニケーションについても学んでもらいます」
「それ、研修で学ぶものなんですか?」
「佐伯さんには必要でしょう」
「……ですよね」
また笑いが起きた。
「調理技術も必要になります」
「……料理できないんですけど」
「正確には、家庭料理の経験がほとんどない、ですね」
「それも調べたんですか?」
「昨日お話しした通り、選考前に確認できる情報は確認しています」
「怖い会社だ……」
「最初から料理人並みの技術を求めてはいません」
「よかった」
「ただし、商品開発部ですから、最終的には簡単な試作くらいはできるようになってもらいます」
「……努力します」
「それから」
黒川主任が俺を見る。
「分からないことを、分からないと言ってください」
「……?」
「佐伯さんには、違和感を見つけてもらいたい」
「はい」
「でも、原因まで分からないなら、無理に答えなくていい」
「……」
「味についての感想と、食品科学としての原因分析は別物です」
俺は少し安心した。
「俺は味について感じたことを伝える」
「はい」
「原因の調査や具体的な製造方法は、皆さんが考える」
「最初は、そういう形になるでしょう」
「……それなら、できそうです」
黒川主任が頷いた。
「では、最終試食に入りましょう」
「最終?」
「書類選考と面談、過去のレビュー確認はすでに済んでいます」
「なるほど……」
「今日確認したいのは、佐伯さんが実際の商品を前にしたとき、レビューと同じように違和感を見つけられるかです」
「分かりました」
黒川主任が机の上に試作品を置いた。
「こちらは、来月発売予定の惣菜パンです」
「はい」
「まず、食べてください」
「いただきます」
俺はパンを手に取った。
匂い。見た目。表面の質感。中の具材。
そして、一口。
「…………」
二口。
「…………」
三口。
周囲の視線が痛い。
俺は黙ってパンを咀嚼した。
そして。
「……これ」
「はい」
「一口目は美味しいです」
数人が顔を上げた。
「でも、二口目から急に重くなります」
「……」
「具材の味が濃いというより、パンの甘さと具材の油分が同時に残る」
一人がメモを取った。
「あと、香りが弱い」
「香り?」
「食べた瞬間は具材の香りがする。でも噛んでいる途中で消える。だから味だけが残る」
「なるほど」
「後半になるほど重く感じると思います」
「改善するなら?」
「……」
俺はパンを見る。
「パンの甘さを少し落とす」
「はい」
「具材の油分も少しだけ減らす」
「はい」
「香りを立てる」
「具体的には?」
「……そこまでは分かりません」
「なぜ?」
「俺、食品開発者じゃないんで」
会議室が静かになる。
俺は慌てて付け加える。
「どうやって実現するかは分かりません。ただ、味そのものが悪いというより、食べ進めたときのバランスが悪いと思います」
黒川主任が頷いた。
「それで十分です」
「……」
「次」
別の商品。
一口。
「甘すぎます」
次。
「塩味が強いというより、香りが弱いから塩味だけが目立ってます」
次。
「これ、冷めた状態だと評価が変わりますよね?」
「なぜ?」
「温かい状態だと脂の香りが先に来るけど、冷めると脂っぽさだけ残ると思います」
また次。
「これ、食感が途中で飽きます」
「理由は?」
「最初から最後まで柔らかいから」
「……」
「一口目はいい。でも三口目くらいから変化がない。何か一つ違う食感があった方がいいと思います」
俺はそこで口を閉じた。
気づけば、十人以上いる前で普通に喋っていた。
さっきまでなら考えられない。
でも、食べ物の話なら。
口が勝手に動く。
そして。
俺は自分がやっていることを考えた。
俺は正解を当てているわけじゃない。
レシピなんて知らない。
原材料も全部は分からない。
油の種類も分からない。
製造工程も知らない。
俺にできるのは、
「食べた結果、どう感じたか」
を伝えることだけだ。
その原因を完全に特定することはできない。
まして、工場でどう直すかなんて分からない。
でも。
「ここが変だ」
「ここが気になる」
「食べ進めると、ここで飽きる」
それなら分かる。
十年以上。
新商品を食べ続けてきた。
同じシリーズを追いかけた。
リニューアル前と後を比べた。
似た商品を食べ比べた。
そして、毎回記録した。
その積み重ねだけが、俺の武器だった。
*
試食が終わった。
「……以上です」
黒川主任が資料を閉じる。
俺は背筋を伸ばした。
「佐伯さん」
「はい」
「どうでした?」
「……正直に言っていいですか?」
「もちろん」
「全然分かりません」
黒川主任が少し笑う。
「でしょうね」
「え?」
「まだ何も分からないのが普通です」
「……」
「だから、今日の試食だけで完成された開発者を求めてはいません」
「はい」
「ただ、確認できました」
「何を?」
「佐伯さんは、本当にレビューと同じように商品を見ている」
「……」
「違和感を見つける」
「はい」
「比較する」
「はい」
「そして、感じたことを言葉にする」
黒川主任は資料に目を落とした。
「それは、商品開発部にとって十分価値があります」
俺は黙った。
そして。
「商品開発部として、採用を推薦します」
「……え?」
「正式な内定ではありません。人事部の手続きを経て、最終的な雇用条件が確定します」
「あ、はい」
「ただ、商品開発部側の選考としては合格です」
「……」
一気に現実味がなくなった。
昨日まで無職だった俺が。
食品メーカーの商品開発部に?
「……本当に?」
「はい」
「俺ですよ?」
「佐伯さんです」
「料理もできませんよ?」
「これから覚えてください」
「食品の知識もありません」
「これから学んでください」
「人付き合いも苦手です」
「そこも鍛えてください」
「…………」
容赦がない。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
「佐伯さん」
黒川主任の声が少し柔らかくなる。
「あなたは、今まで自分のやってきたことを大したことだと思っていなかったでしょう」
「……はい」
「でも、十年以上続けたという事実は、それだけで簡単に真似できるものではありません」
「……」
「ただし」
黒川主任は人差し指を立てた。
「ここからが本当のスタートです」
「……」
「あなたは、まだ消費者です」
「はい」
「今日から、食品を作る側の人間になる」
「……」
「消費者として感じる力を、商品開発の知識と結びつけてください」
「……分かりました」
「そして、人と働くことも覚えてください」
「はい」
「商品開発は一人ではできませんから」
俺は採用関係の書類を見た。
昨日まで。
俺は就職できなかった。
今日。
俺は食品会社に採用を推薦された。
しかも。
俺が十年以上やってきた、「新商品を食べる」という趣味が。
仕事になる。
……人生、何が起こるか分からない。
ただ。
このときの俺は、まだ知らなかった。
俺にはまだ、商品を作る力なんてない。味の違和感を見つけられる。それだけだ。
だが。
食品化学を学び。原材料を知り。製造工程を知り。原価を知り。マーケティングを知り。そして何より。
人と一緒に仕事をすることを覚えたとき。
俺の中にあるものが、初めて「商品を作る力」に変わっていくことを。
*
「佐伯さん」
「はい?」
「入社後は新人研修からです」
黒川主任が資料を差し出す。
『商品開発部・新人研修スケジュール』
食品化学。原材料。衛生管理。製造工程。原価計算。商品企画。マーケティング。
そして――
『社内コミュニケーション・プレゼンテーション』
「…………」
そこだけ妙に怖い。
「コミュニケーション研修もあるんですね」
「あります」
「俺、逃げられます?」
「無理です」
「ですよね」
黒川主任が笑う。
「商品開発は一人ではできませんから」
「……頑張ります」
資料をめくる。
知らないことだらけだ。
昨日までの俺なら、こんなのを見た瞬間に閉じていた。
でも。
今は少しだけ違う。
知らないなら。
覚えればいい。
できないなら。
練習すればいい。
……たぶん。
「食品化学って何から覚えるんだ……?」
俺は頭を抱えた。
「まずは基礎用語からです」
「主任……いつの間に後ろに?」
「ずっといました」
「怖い」
「逃がしませんよ」
「…………」
黒川美咲。
四年前に、俺のレビューを最初に見つけた人。
そのレビューを開発部の一部に共有した人。
そして今。
今回の採用プロジェクトで商品開発部側の責任者を務める人。
俺を発掘した張本人であり。
入社後には、俺の教育にも関わることになる。
この人との出会いが。
俺の人生を大きく変えることになる。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
コンビニの商品を食べ続けていただけだった俺が。
何度も失敗し。
何度も恥をかき。
何度も「分からない」と言いながら。
一つずつ知識を身につけて。
一つずつ人との繋がりを覚えて。
やがて、
「佐伯に任せれば大丈夫」
そんな言葉を会社の中で聞くようになることを。
そして。
食品開発会社のエースと呼ばれる未来が待っていることを。
――すべては。
一つの焼きそばパンから始まった。