毎日コンビニの新商品を食べ続けていただけの俺、なぜか食品開発会社のエースになる 作:赤坂龍之介
翌朝。
商品開発部へ出社すると、田村さんの隣に見慣れない女性が立っていた。
「佐伯さん、おはようございます」
「おはようございます」
「紹介します。品質管理部の佐藤さんです」
「初めまして、佐藤です。今回の惣菜パンについて、保存中の品質変化や規格の確認を担当します」
「よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
保存性。
昨日、田村さんから聞いた言葉だ。
作った直後の味だけでは駄目。工場で製造され、物流を経て、店舗に並び、消費者が買って食べる。その間も、商品が狙った品質を維持できる必要がある。
言葉では分かる。
でも。
「……具体的には、何を見るんですか?」
俺が聞くと、佐藤さんが資料を見せてくれた。
『保存期間中の食感変化』
『香りの変化』
『具材とパンの状態』
『外観』
『規格適合』
「まずは品質面を確認します。安全性に関わる評価については、別途定められた手順で確認しますが、今回の開発試験では、商品が設定した保存期間の中で狙った品質を維持できるかを見ます」
「なるほど」
「田村さんから聞いています。佐伯さんは官能評価が得意なんですよね?」
「得意というか……昔から新商品を食べていただけです」
「その『食べていただけ』が、今回かなり重要です」
「……」
まただ。
昔からただの趣味だと思っていたことが、会社では仕事になる。
「では、試験を始めましょう」
*
試験室には、同じ条件で製造された試作品が並べられていた。
「今回は、保存開始時と、設定した時間が経過した試料を比較します」
佐藤さんが説明する。
「保存条件は?」
「実際の流通・販売環境を想定して設定します。今回は温度と時間を管理して、同じ条件で比較できるようにしています」
「分かりました」
俺は資料を見る。
試食のタイミング。
評価項目。
保存条件。
きちんと決められている。
いつもの俺なら、家に持ち帰って好きな時間に食べていただろう。
でも。
会社では違う。
条件を揃えなければ、何が原因で変化したのか分からない。
「まず、保存開始時の状態を見ます」
田村さんがパンを切る。
「外観、問題なし」
佐藤さんが記録する。
「香りも問題ないです」
俺が続ける。
「パンの食感も狙い通りです」
「具材の味は?」
「濃厚さはあります。でも、後味は重くないです」
記録。
次の試料。
一定時間保存されたもの。
一口。
「……」
俺は少し眉を寄せた。
「どうですか?」
田村さんが聞く。
「パンが少し硬いです」
「どのあたりが?」
「表面だけじゃなくて、噛み始めたときに全体が少し締まっている感じがします」
佐藤さんが記録する。
「味は?」
「……味自体は、そこまで変わってないです」
「香りは?」
「少し弱くなった気がします」
田村さんが試食する。
「確かに」
さらに別の試料。
一口。
「……やっぱり」
「何かありますか?」
「さっきより、硬さが気になります」
「具材は?」
「具材は大きく変わってない。でも、パンが硬くなるせいで、全体的に少し重く感じます」
佐藤さんが顔を上げた。
「『重く感じる』というのは、味そのものが変わったというより?」
「はい。口の中に残る感じが違います」
「なるほど」
田村さんが頷いた。
「重要なポイントですね」
*
試験を一度止める。
ホワイトボードに結果が整理されていく。
『保存開始時』
パン――良好
香り――良好
具材――良好
総合評価――良好
『一定時間保存後』
パン――硬化傾向
香り――やや低下
具材――大きな変化なし
総合評価――やや低下
「……」
俺は表を見る。
「これ、俺が最初に感じたことと似てます」
田村さんが俺を見る。
「最初の惣菜パンですね」
「はい。冷めたときに、パンが硬くなって、全体が重く感じた」
「ただし」
佐藤さんが続ける。
「今回の結果だけでは、原因を特定したとは言えません」
「はい」
「パンそのものの変化なのか、保存条件の影響なのか、具材との水分移行なのか。それとも複数の要因なのか」
「……」
俺はホワイトボードを見る。
「また、原因不明ですね」
思わず笑う。
「そうです」
佐藤さんも笑った。
「でも」
田村さんが言った。
「今回は、前と違います」
「?」
「原因を調べるためのデータが取れました」
俺は黙った。
確かに。
最初は、
「なんとなく硬い」
だった。
今は、
「一定時間保存すると硬化傾向がある」
という結果がある。
「……なるほど」
俺は少しだけ興奮した。
「違和感が、データになってる」
「そういうことです」
*
午後。
田村さんがホワイトボードに試験計画を書いた。
「まず、原因を切り分けます」
「はい」
「パン単体の保存状態を見ます」
「はい」
「次に、具材単体を見ます」
「はい」
「その後、パンと具材を組み合わせた状態を確認する」
「……」
「さらに、保存温度と保存時間を変えて差を見ます」
俺は聞いている。
「つまり、一度に全部変えない?」
「その通りです」
「また仮説と検証ですね」
「はい」
俺は少し笑った。
いつもの流れだ。
でも。
今回は少し違う。
味の問題だけではない。
時間が関係している。
食品そのものが保存中に変化している。
「パン単体なら、どうなるんですか?」
「それを調べます」
田村さんが答える。
「具材を外して、パン単体で保存します」
「なるほど」
「そこで硬化が同じように起きるなら、パン側の影響が大きい可能性がある」
「そうならなかったら?」
「具材との組み合わせや保存条件を疑います」
俺は頷いた。
「分かりやすい」
「最初は、そうやって一つずつ切り分けるんです」
*
数日後。
パン単体。
具材単体。
パン+具材。
それぞれを、同じ保存条件のもとで比較した。
「……」
俺はパン単体を食べる。
「少し硬くなっています」
「具材単体は?」
「大きな変化はないです」
「では、パン+具材」
一口。
「……こっちの方が硬さを強く感じます」
田村さんが記録する。
「パン単体よりも?」
「はい」
「香りは?」
「少し弱いです」
佐藤さんが資料を確認する。
「保存中の水分状態について、追加で確認しましょう」
「水分?」
「パンと具材の間で、水分が移動している可能性があります」
「……」
俺はパンを見る。
「パンの水分が減って、具材側に移る可能性がある?」
「その可能性もあります。ただ、実際にどうなっているかは測定してみないと分かりません」
「なるほど……」
田村さんが説明する。
「食品は、作った瞬間に変化が止まるわけではありません。保存中も水分や油脂、香り成分などが移動したり、反応したりします」
「……」
俺はパンを見た。
見た目は、ほとんど変わらない。
でも。
中では変化が続いている。
「食品って……見えないところでずっと変化してるんですね」
「そういうことです」
田村さんが笑った。
*
初めての科学的な壁
翌日。
田村さんが資料を持ってきた。
「佐伯さん」
「はい」
「これ、分かりますか?」
資料には、見慣れない数字とグラフが並んでいた。
「……」
俺は固まった。
「全然分かりません」
「正直ですね」
「これ、何ですか?」
「水分活性という指標を含めた測定結果です」
「水分活性……」
「食品の中にある水のうち、微生物の増殖や化学反応などに利用されやすい水が、どの程度存在する状態なのかを見るための指標の一つです」
「……」
俺は資料を見る。
数字。
グラフ。
変化。
今まで。
俺は、
「硬い」
「柔らかい」
「重い」
「軽い」
と感じていた。
それが。
数字になっている。
測定できる。
科学として扱われている。
「……俺の感覚だけじゃ、ここから先は無理ですね」
田村さんが頷いた。
「そう思ったなら、良いことです」
「良い?」
「はい。自分の知識の限界が分かると、何を勉強すればいいのか見えてきます」
「……」
俺は資料を見る。
『水分活性』
知らない言葉。
でも。
これが分かれば、食品中の水分の状態と品質変化の関係を、もう少し理解できるかもしれない。
「……勉強します」
「そう言うと思いました」
「教えてください」
「もちろん。ただし、かなり基礎からです」
「お願いします」
*
コンビニの商品を見直す
その夜。
俺はいつものコンビニへ向かった。
惣菜パンの棚。
いつものように新商品を見る。
でも。
今日は少し違う。
賞味期限。
保存方法。
包装。
パンの種類。
具材。
表示されている保存条件。
そんなところまで気になってしまう。
「……」
一つの商品を手に取る。
表示を見る。
「この商品も、保存条件が決まってる」
当たり前のことなのに。
今までは、気にも留めなかった。
商品は棚にある。
買う。
食べる。
それだけ。
でも、その間に。
工場。
物流。
店舗。
温度。
時間。
包装。
いろんな条件が存在している。
「……」
俺はスマホを取り出す。
メモを書く。
『食品は、食べる瞬間だけ作られているわけじゃない』
その下に。
『保存中も変化している』
さらに。
『その変化を、狙った範囲に抑えるのも商品開発』
「……」
保存性。
まだ何も分からない。
でも。
少しだけ。
この仕事の奥にあるものが見えた気がした。
*
新たな問題
翌日。
「佐伯さん」
「はい」
佐藤さんが資料を持ってきた。
「昨日までの試験で、少し興味深い結果が出ました」
「何か分かったんですか?」
「まだ原因を特定したわけではありません。ただ、パン単体より、具材と組み合わせたときの食感変化が大きくなっています」
「やっぱり」
「さらに、保存条件によって変化の大きさも違います」
「保存条件……」
「はい。温度と時間の組み合わせで、硬さの変化に差が出ています」
佐藤さんが資料を見せてくれる。
いくつかの条件で保存した試料の比較。
「同じ商品でも、条件が違うと変化の大きさが違います」
「……」
「ここから、パンと具材の水分移行について、田村さんともう少し詳しく確認します」
「分かりました」
俺は資料を受け取った。
昨日より。
少しだけ数字が読める。
意味が分かる。
もちろん、まだ全然足りない。
でも。
「……面白い」
思わず呟いた。
「佐伯さん」
「はい?」
「何がです?」
「俺、今までずっと食べてきたじゃないですか」
「はい」
「同じ商品でも、時間が経つと感じ方が変わることは知ってました」
「はい」
「でも、その裏で本当にいろんな変化が起きてたんですね」
佐藤さんが頷く。
「そういうことです」
俺は資料を見る。
数字。
グラフ。
見慣れない言葉。
今の俺には、まだ難しい。
でも。
いつか。
自分が感じた、
「なんか違う」
を。
「なぜ違うのか」
まで説明できるようになりたい。
初めて。
そう思った。
*
その日の午後。
「佐伯さん」
「はい?」
田村さんが声をかけてきた。
「明日、パンの配合を一部変えて、保存試験用の試作品を作ります」
「はい」
「水分保持の条件を一つ変えてみます」
「……」
「ただし、味や食感が変わる可能性があります」
「またトレードオフですか」
「その通りです」
「……」
俺は笑った。
今なら少し分かる。
一つを良くすれば。
別の何かが変わる。
だから。
試す。
確認する。
また調整する。
その繰り返しだ。
「じゃあ、食べます」
「お願いします」
俺は資料を持つ。
そして、新しい試験へ向かった。
俺はまだ。
食品開発の素人だ。
食品化学も。
保存性も。
品質管理も。
まだ勉強中。
それでも。
十年間。
ただ食べていただけだった俺の舌が。
少しずつ。
科学とつながり始めていた。
――そして次の日。
保存性を改善するために行った試作で。
俺は初めて。
「美味しいけど、商品としては使えない」
という、これまでとは少し違う失敗を経験することになる。