毎日コンビニの新商品を食べ続けていただけの俺、なぜか食品開発会社のエースになる 作:赤坂龍之介
あの選考から一週間。
人事部との最終手続きを終え、俺は正式に株式会社グランテーブルの社員になった。そして今日が、入社初日。
「……本当に社員になったんだな、俺」
会社の入口で、俺は首から下げたばかりの社員証を眺めていた。
『商品開発部 佐伯直人』
昨日まで無職だった俺の名前が、そこに書かれている。
不採用通知を何通も受け取った。面接ではまともに喋れなかった。自分には、これといった武器なんてないと思っていた。
それなのに。
「商品開発部……」
俺は社員証を握り直した。
数日前、黒川主任から言われた。
俺は料理人じゃない。食品開発者でもない。味の違和感を見つけることはできても、その原因を科学的に説明したり、実際の商品として成立させたりする知識はない。
だから。
ここから勉強する。
「……まあ、なんとかなるだろ」
そのときの俺は、本気でそう思っていた。
――この判断が甘かったと知るまで、そう時間はかからなかった。
*
「おはようございます」
「おはようございます」
「……お、おはようございます」
商品開発部のフロア。
俺は扉の前で一度、深呼吸した。
「よし」
扉を開ける。
「おはようござ――」
「佐伯さん、おはようございます」
「うわっ!」
目の前に黒川主任がいた。
「……」
「……」
「主任」
「はい」
「いつからいました?」
「今来たところです」
「絶対嘘ですよね?」
「なぜです?」
「俺が来るの待ってませんでした?」
「待っていません」
「…………」
怖い。
「冗談です」
「冗談に聞こえませんでした」
黒川主任が小さく笑った。
「それより、社員証を忘れなくてよかったですね」
「そりゃ社員証ですから」
「昨日まで無職だった人間とは思えませんね」
「俺のこと無職って呼ぶのやめてもらえません?」
「事実でしょう」
「そうですけど」
少しだけ笑ったあと、黒川主任が周囲を見渡す。
「改めて、今日からよろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
頭を下げた、その直後。
「お、例の新人?」
「この人が?」
「本当にレビューの人?」
周囲から声が飛んできた。
「…………」
嫌な予感。
「佐伯さん」
「はい」
「こちらが商品開発部の皆さんです」
俺の前に、何人かの社員が集まってきた。
「初めまして」
「よろしく」
「レビュー、読んでます」
「え?」
「この前の焼きそばパンのやつ」
「…………」
「紅しょうが、確かに強かったです」
「…………」
「佐伯さんのレビュー、面白いですよね」
「…………」
俺は固まった。
「主任」
「はい」
「俺のレビューって……そんなに知られてるんですか?」
「商品開発部の一部では、そこそこ」
「……」
帰りたい。
昨日まで匿名だったのに。
俺の十年以上の食生活が、職場で知られている。
「佐伯さん」
少し離れたところから男性の声がした。
四十代くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の男性が近づいてくる。
「初めまして。商品開発部の主任研究員、田村です」
「よろしくお願いします」
「主に食品科学と配合設計を担当しています」
「はい」
「分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
「ありがとうございます」
田村さんは俺を見て、少し笑った。
「ただし、一つお願いがあります」
「なんでしょう?」
「分からないことを、分かったふりしないでください」
「…………」
「佐伯さんは味について感じ取る力がある。でも、それと食品科学の知識は別です」
「……はい」
「そこは、これから一つずつ覚えましょう」
「分かりました」
その言葉が、妙にありがたかった。
最初から「天才扱い」されるより、俺が何も知らないことを、ちゃんと分かってもらっている方が安心する。
*
最初の研修
「では、食品化学の基礎からです」
「…………」
俺は机に座っていた。
目の前には分厚い教科書。
『食品化学・基礎』
ページを開く。
「…………」
何を書いてあるのか、最初はほとんど分からない。
「水分活性……?」
「はい」
田村さんが答える。
「食品中の水分が、どの程度自由に働ける状態にあるかを見るための指標です」
「水分量とは違うんですか?」
「違います」
「…………」
開始五分。
俺はすでに不安になっていた。
「水分量と、水分活性は別……」
メモする。
とりあえず書く。
「次に乳化です」
「乳化……」
「簡単に言えば、本来混ざりにくい油と水などを、細かく分散させた状態にすることです」
「マヨネーズみたいな?」
「そうですね」
「なるほど……」
意味はなんとなく分かった。
でも。
「これ、人に説明しろって言われたら無理ですね」
「今はそれで十分です」
「え?」
「まず言葉を知る。次に意味を理解する。そのあとで、実際の商品と結びつける」
「……」
「一週間や二週間で全部身につくものではありません」
「よかった……」
「何がです?」
「俺だけ遅れてるのかと思いました」
「むしろ新人で全部理解していたら、こちらが驚きます」
少し安心した。
俺は教科書に戻る。
pH。糖度。粘度。保存性。
知らない単語ばかり。
でも、昨日まで食べていただけだったものの裏側が、少しずつ見えてくる。
「……面白いな」
思わず呟く。
「興味が出てきました?」
「はい」
「それなら大丈夫です」
「本当に?」
「分からないことを面白いと思えるなら、覚えられますから」
田村さんがそう言った。
俺はその言葉を信じることにした。
*
研修二週目
入社して一週間。いや、正確には二週目に入った。
基礎研修はまだ続いている。
食品衛生。原材料表示。アレルギー表示。賞味期限。消費期限。保存温度。製造工程。原価。物流。マーケティング。
どれも重要なのは分かる。
でも。
「……多すぎないか?」
資料の山を見て、俺は呟いた。
「当然です」
黒川主任が答える。
「商品は、味が良ければ完成ではありません」
「はい」
「安全に作る」
「はい」
「決められた価格で販売する」
「はい」
「大量生産する」
「はい」
「店舗まで運ぶ」
「はい」
「そして、消費者に買ってもらう」
「……」
「全部必要です」
「大変ですね」
「大変です」
俺は資料を見下ろした。
今まで俺は、コンビニの棚に商品が並んでいる。
「新作だ」
と思って買う。
食べる。
「うまい」
「微妙」
と書く。
それだけだった。
その一個の商品を作るために、こんなにも多くの工程がある。
「……俺、何も知らなかったんだな」
「それに気づいたなら、いいことです」
「主任」
「食品開発は、知らないことを減らしていく仕事でもあります」
「……」
俺はもう一度、資料を開いた。
「よし」
ペンを握る。
「覚えるか」
*
初めての試作室
研修の後半。
俺は初めて、商品開発部の試作室に入った。
「……おお」
思わず声が出た。
計量器。ミキサー。加熱機器。冷却設備。調理器具。そして、棚いっぱいの原材料。
「これ、全部使うんですか?」
「いずれは」
黒川主任が答える。
「今日は基礎的な作業を体験してもらいます」
「俺に?」
「はい」
「料理、ほとんどしたことないですよ?」
「知っています」
「包丁も?」
「今日は使いません」
「よかった……」
「そのうち使います」
「…………」
俺は遠い目をした。
「まず、計量から」
「はい」
指定された原材料を計量器に載せる。
「25グラム……」
「少し多いです」
「え?」
「25.2です」
「そんな細かいんですか?」
「試作ですから」
「…………」
一から教えてもらいながら、慎重に量り直す。混ぜる。加熱する。冷ます。
最後に試食する。
「では」
田村さんが言った。
「食べてみてください」
「いただきます」
少量を口に入れる。
「……」
「どうです?」
「甘いです」
「他には?」
「……後味が少し重い」
「どう直します?」
「え?」
俺は固まった。
「何をどう変えればいいと思いますか?」
「…………」
分からない。
俺はもう一度、味を見る。
「砂糖を減らす……?」
「可能性の一つですね」
「……」
「ほかには?」
俺は考える。
香り。食感。酸味。甘み。
「……香りが弱い気がします」
「なぜ?」
「甘さだけが残る感じがするから……ですかね?」
「なるほど」
田村さんは頷いた。
「それも一つの見方です」
「……」
でも、具体的にどう直すかは分からない。
「……すみません。ここから先は分かりません」
「謝らなくていいです」
「でも」
「今はそれでいい」
田村さんは笑った。
「佐伯さんは今、初めて『作る側』に立っています」
「はい」
「食べて違和感を見つけることと、その原因を突き止めて改善することは別です」
「……」
「だから勉強する」
「……はい」
俺は試作品を見た。
今まで、俺は食べる側だった。
初めて、作る側に立った。
そして分かった。
「味を見る」のと「味を作る」のは、まったく違う。
それが、俺の最初の壁だった。
*
三週目――初めての実務
入社して三週間目。
まだ研修は続いている。
でも、黒川主任から呼ばれた。
「佐伯さん」
「はい」
「そろそろ、実務にも触れてもらいます」
「実務……?」
「現在、コンビニチェーン向けに開発している商品があります」
「はい」
「まだ企画段階です」
「……」
「その開発チームの打ち合わせに、研修の一環として同席してください」
「俺が?」
「はい」
「何をすればいいんですか?」
「まずは聞いてください」
「……それだけ?」
「まずは、それだけです」
「喋らなくていいんですか?」
「必要なら喋ってください」
「……」
俺は少し安心した。
どうやら、正式な開発担当として参加するわけではないらしい。
「それと」
「はい?」
「何か感じたら、遠慮なく言ってください」
「……でも俺、新人ですよ?」
「新人だから言ってはいけない、という決まりはありません」
「……」
「ただし、佐伯さん個人の感想と、市場全体の評価は別です」
「分かっています」
「本当に?」
「……努力します」
黒川主任が笑う。
「それで十分です」
「つまり」
「はい」
「俺が『自分はこう感じた』と言うのはいい」
「はい」
「でも、『消費者はこう感じるはず』と決めつけるのは駄目」
「その通りです」
「……なるほど」
「佐伯さんの感覚は、仮説として価値があります」
「仮説……」
「実際に消費者がどう感じるかは、調査や試食で確かめる」
「分かりました」
これは大事なことだ。
俺は一人の消費者。
だから、自分が何を感じたかは分かる。
でも、それを世の中全体の答えにしてはいけない。
その区別を覚えたことも、この仕事で必要な勉強の一つだった。
*
初めての開発会議
会議室。
俺は一番端の席に座っていた。
目の前には資料。
『コンビニ向け新商品企画案』
商品名。価格。ターゲット。販売時期。想定売上。原価。製造方法。
知らない言葉も多い。
でも、昨日までよりは、少しだけ意味が分かる。
「今回の商品は、秋冬向けの温かい惣菜パンを想定しています」
企画担当者が説明する。
「ターゲットは20代から40代の会社員」
「価格帯は税込み300円前後」
「具材には――」
俺は資料を追った。
なるほど。
こうやって商品が企画されていくのか。
味だけじゃない。
価格。ターゲット。販売時期。
全部を考えている。
「試作品Aはこちらです」
商品が運ばれてきた。
俺は姿勢を正した。
「では、皆さん試食をお願いします」
一口。
「…………」
美味しい。
普通に美味しい。
具材も悪くない。
パンも悪くない。
ソースもいい。
でも。
何か引っかかる。
俺はもう一口。さらに、パンと具材を分けて食べる。最後に全部まとめて食べる。
「…………」
視線が資料に戻る。
商品コンセプト。
『仕事終わりに食べたくなる、濃厚で満足感のある惣菜パン』
「……」
俺は迷った。
これを言っていいのか。
新人だ。研修の一環だ。
でも。
「……あの」
口から言葉が出た。
会議室の視線が集まる。
「はい?」
俺は商品を見る。
「これ、あくまで僕個人の感想なんですけど」
「はい」
「コンセプトと、食べ終わったときの印象が少し違う気がします」
「どういう意味ですか?」
「濃厚ではあります」
俺は言葉を探す。
「最初の一口は、むしろこのくらい濃い方が美味しいと思います」
「はい」
「でも、最後まで食べると、満足感より先に『重い』って感じるんです」
「……」
企画担当者が資料を見る。
「でも、ターゲットには濃厚さを求めています」
「はい」
「なら、濃厚さを落とすのはコンセプトと矛盾しませんか?」
「……」
俺は考えた。
「落とさなくてもいいと思います」
「?」
「最初の濃厚さは残す」
「はい」
「でも、最後に残る重さだけ、もう少し軽くできたらいい」
「……」
「ただ」
俺は一度言葉を切った。
「具体的に、どう直すかは分かりません」
会議室が少し静かになる。
「まだ僕には、そこまでの知識がないので」
正直に言った。
無理に分かったふりはしない。
「なるほど」
企画担当者が商品を見る。
「じゃあ、一度検討してみましょう」
田村さんも頷いた。
「技術的に可能か、試作してみます」
「お願いします」
黒川主任は黙っていた。
ただ。
少しだけ笑っていた。
*
会議が終わった。
「……疲れた」
俺は椅子に沈み込む。
「佐伯さん」
「はい」
黒川主任が隣に来る。
「初めての会議、お疲れ様でした」
「死ぬかと思いました」
「大げさですね」
「十人くらいに見られたんですよ?」
「十人くらいです」
「それが怖いんです」
「でも、ちゃんと発言できましたね」
「……」
俺は試作品を見る。
「正しかったんですかね、俺の意見」
「分かりません」
「え?」
「今の段階では、正しいかどうかなんて分かりません」
「……」
「だから、試してみるんです」
「……なるほど」
「商品開発は、答えを知っている人間が集まって答えを書く仕事ではありません」
「はい」
「仮説を立てて、試して、失敗して、また試す」
「……」
「その繰り返しです」
俺は少しだけ笑った。
「じゃあ、俺にもできそうですね」
「何がです?」
「失敗なら、俺も得意なので」
「就職活動で?」
「はい」
「それは自慢しないでください」
「ですよね」
黒川主任が笑った。
*
その日の帰り道
会社を出る。
時刻は午後七時過ぎ。
俺は駅へ向かう途中で、いつものコンビニに入った。
「……」
棚を見る。
新商品。新作おにぎり。新作パン。新作スイーツ。
いつもの光景。
俺は一つ手に取った。
レジへ向かう。
家に帰る。
袋を開ける。
一口。
「……」
スマホを取り出す。
いつものようにメモを書く。
『新作○○』
そこで、手が止まった。
今日。
会社で初めて商品開発会議に参加した。
そして今。
俺は同じようにコンビニの商品を食べている。
でも。
昨日までとは、少しだけ見え方が違う。
「……これ、どうやって作ってるんだろ」
今までなら、美味しい。まずい。それだけだった。
でも今は。
パンの甘さ。具材の水分。油。香り。食感。価格。保存性。製造。物流。
いろんなものが頭に浮かぶ。
「……仕事病かな」
俺は苦笑した。
そして、もう一度食べる。
今度は少し時間を置いて。
冷めてから、もう一口。
「……」
俺は眉を寄せた。
温かいときには気にならなかった。
でも冷めてくると。
「……食感が変わる」
パンが少し硬くなった。
具材の水分も、さっきより強く感じる。
そして。
「……あれ」
今度は脂っぽさだけじゃない。
具材の味が、少しぼやけている。
「温度で、こんなに印象変わるんだ」
俺はスマホを取り出す。
『温かい状態では問題なし。冷めるとパンの食感が硬くなり、具材の味も少しぼやける』
さらに考える。
でも。
ここから先は分からない。
パンの水分なのか。具材との相性なのか。油なのか。温度による香りの変化なのか。
今の俺には判断できない。
だから。
『原因は不明。要調査』
そう書いた。
保存。
スマホを伏せる。
「……明日、田村さんに聞いてみるか」
昨日まで。
俺はただ新商品を食べていただけだった。
今日からは違う。
食べる。
感じる。
仮説を立てる。
調べる。
知る。
そして。
いつか、自分で作る。
まだ何もできない。
食品化学も分からない。
料理もできない。
製造工程も知らない。
人前で話すのだって苦手だ。
それでも。
「……悪くないな」
俺はコンビニを出た。
こうして、俺の社会人生活は始まった。
そして翌朝。
俺は昨日のメモを田村さんに見せることになる。
「温度による食感変化……か」
田村さんは、その一行を見て少し黙った。
そして。
「佐伯さん」
「はい」
「これ、一緒に原因を調べてみませんか?」
「……俺と?」
「はい」
その瞬間。
俺は初めて。
ただ感想を言うだけではなく、「なぜそう感じるのか」を調べる側へ足を踏み入れることになった。
このときの俺は、まだ知らなかった。
食品開発では。
小さな違和感一つが。
思わぬ問題の発見につながることを。
そして。
その原因を追いかけることが。
俺の「食べるだけだった毎日」を。
少しずつ「作る毎日」へ変えていくことになるとは――。