「まあ、まずは食え」
リオレウスにそう優しく促され、私は目の前に置かれた肉へと視線を落とした。大きい。それだけではない。遠目で見ても丸々と肥えていたのは分かっていたが、近くで見ると明らかに極上の脂が乗っている事が分かる。今まで私が荒野で必死に口にしてきた、泥臭くて硬い干からびたものとは、あまりにも違っていた。
私は緊張に身を固くしながら、恐る恐るその肉に鼻を近づける――美味しそうだ。その芳醇な匂いを嗅いだ瞬間、私の腹の奥がまたしても我慢できずに大きく鳴った。
今度こそ、今度こそ周囲の全員から無様だと笑われるのではないか。そう思った。ギュッと目を瞑り、恥ずかしさに身を縮める。
けれど――誰も笑わなかった。
リオレウスも、隣にいるハンターも。周囲にいる沢山のモンスターたちも、誰も私を嘲笑うことなく、ただ当たり前のようにそれぞれの食事をのんびりと続けている。私はゆっくりと目を開け、肉へ口を近づけた。
そして――がぶっ、と大きく噛み付いた。
「……!」
柔らかい。噛んだ瞬間、温かくて濃厚な肉汁が、口いっぱいにこれでもかと広がった。
美味しい……美味しい、美味しい……!
私は我慢できなくなり、夢中になって肉を噛み続けた。もう一口。さらにもう一口。顎を動かすのがどうしても止まられない。こんなに美味しい肉を食べたのは、いつ以来だろう。
いや――そもそも、こんなふうに心の底から満たされて食事をしたことが、私のこれまでの旅路で、今までに一度だってあっただろうか。
周囲を過剰に警戒する必要がない。背後から獰猛な何かが突然襲ってこないか、耳をそばだてて気にする必要がない。これを食べ終えた後、次の獲物がちゃんと見つかるかどうかを心配する必要もない。
ただ目の前にある食べ物を、美味しく食べればいい。
それだけ。たった、それだけのことなのに――ポロリ、と。私の頬を、何かが温かく伝った。ぽたり。また一滴、肉の上へと透明な雫が落ちる。
「……?」
私は不思議そうに、前脚を上げて自分の頬へと触れた。濡れている。どうして?悲しいわけではない。
むしろ、その真逆だ。凄く嬉しい。心から安心している。
……安心?
その言葉の意味を脳が理解した、まさにその瞬間だった。自分が今まで、どれほど極限まで精神を張り詰めさせて生きていたのかに、ようやく気づかされた。
あの天災で群れが消えてから、たった一人になってから、私はずっと、ずっと気を張り続けていた。眠る時でさえ、完全に目を閉じることができなかった。少しの物音で飛び起きられるように。
食事をする時も、常に周囲を死に物狂いで警戒していた。少しでも草木が揺れれば、すぐに顔を上げた。生きるために。この過酷な世界で、独りで生き残るために。そうするしかなかった。
それ以外の生き方を、私は知らなかった。
なのに今は――何の脅威も、何の心配も、何も考えずに、ただ目の前の肉を美味しく食べている。気づけば、一度溢れた涙が、ボロボロと止まらなくなっていた。恥ずかしい。偉大なる王の前で、こんなふうに泣きじゃくるなんて。私は慌てて、無様な顔を隠すようにガバッと地面へ顔を伏せた。
その時、静かな足音がこちらへ近づいてきた。
「……!」
私はビクッと身体を強張らせた。しまった。泣いているところを見られた。もしかすると、王に対して酷く無礼な態度だったのかもしれない。
王の前で涙を流すなど、弱者の甘えだと突き放されても――私は慌てて、言い訳をしようと顔を上げようとした。しかし、リオレウスは何も言わなかった。
ただ静かに、私のすぐ隣まで歩いてくる。私は最悪の拒絶を覚悟して身構えた。何をされる? 叱られる? それとも、やっぱり呆れられてここから追い出される…?
けれど――ふわり。
私の視界を大きく、そして鮮やかな翼が優しく遮った。そして、その翼の先が、私の頭へとそっと触れた。
「……え?」
優しく。本当に、優しく。まるで、泣きじゃくる小さな子供をあやすかのように、王の翼が私の頭を何度もゆっくりと撫でている。私は完全に困惑した。
一国の王が……この都を統べる圧倒的な空の王者が、こんな薄汚れた私の頭を、優しく撫でてくれている。そんな、野生の世界では有り得ないほどの温かい慈悲をかけられるなど、今までの人生で考えたこともなかった。
私はどうすればいいのか分からず、ただただ、その翼の温もりに包まれたまま、心地よい困惑の中で固まっていることしかできなかった。
しばらくして、リオレウスはそっと私の頭から翼を離した。そして、目の前に置かれた肉へと、自身の大きな顔を近づける。
「ここな」
彼は大顎を器用に動かし、肉の一部を小さく千切ってみせた。
「この部位が一番脂が乗っていて美味いぞ」
そして――それを私の目の前へと、優しく差し出したのだ。
「……?」
私は、その差し出された肉とリオレウスの顔を、交互に何度も見つめ返す。
「……私が、食べていいのですか?」
「そうだ」
「……でも、私はまだ何一つ、あなたに価値を示せていません」
「そんなものは後でいい。好きなだけ食べるといいさ」
彼はそう言った。そして、少しだけ周囲を楽しげに飯を食う混血の子供たちや、のんびりと寛ぐ雌たちの姿を見渡す。
「ここには、お前を脅かすような敵はいない」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。リオレウスは、私の碧青の目を、まっすぐに見つめ返す。
「もし、万が一そんな不届き者が居たとしても――」
その黄金の瞳に、先ほどまで家族に見せていた柔らかさとは違う、絶対的な捕食者としての鋭い光が宿った。
「そいつは、この俺が残らず焼き尽くす」
静かな声だった。けれど、その言葉には絶対的な、王としての力があった。
「だから、安心しろ」
「…………」
その瞬間……ぷつん…と、私の中で、何かが完全に切れた。群れを失ってからずっと、張り詰めさせていた警戒心。ただ一頭で生き残るために、必死に繋ぎ止めていた、ボロボロの糸が――今、この偉大な王の言葉によって、温かく切れてしまった。
「……っ!」
私は、差し出されたその肉へと、猛然と飛びついた。がぶっ!
「……ハグッ…!」
美味しい。本当に、美味しい……!私は恥ずかしさも、はしたなさも、すべてを忘れて夢中で肉を噛み千切った。もう一口。また一口。溢れ出た肉汁が口元を汚していくが、そんなことなど、今の私には一切気にしていられなかった。
「……んっ……う、む……!」
食べる。ただひたすらに、貪るように食べる。あの日すべてを失ってから、私がずっと飢え続けていた寂しい時間を取り戻すかのように。
「おいおい……。ずいぶん物凄い食いっぷりだな」
少し離れた場所で、それを見ていたハンターが少し驚いたような声を上げる。だが、リオレウスは私の食事を止めなかった。むしろ――
「焦らなくていい。ゆっくり食え。まだいくらでもあるからな」
そう言って、また新しい肉の塊をこちらへ優しく寄せてくれる。『まだある』という、その言葉が、今の私には何よりも嬉しかった。
美味いものを、たくさん食べてもいい。夜、怯えることなく、両目を閉じて眠ってもいい。この温かい場所に、ただ居てもいい。
そして――これほどまでに強くて優しい王に、守ってもらってもいいのだ。
暫く食べ続けたが…まだある。いや、まだまだある。食べても食べても、次の肉が目の前へ差し出される。誰も、私の食事を奪おうとはしない。食べることを止める理由が、どこにもない……そんな満ち足りた経験は、一体いつ以来だっただろう。貪るように肉を喰らう、その傍らでのことだった。
ジュウゥゥゥ……
「……?」
聞き慣れない、奇妙な音が耳に届いた。そっと顔を向ける。そこには、先ほどから少し離れた場所にいた、あの人間ハンターの姿があった。彼は手慣れた様子で小さな火を起こし、その上で肉の塊をじっくりと焼いていた。
私は肉を咀嚼する口を止め、思わずその様子を凝視した。肉を、そのまま生の状態で食べない。わざわざ火で炙って焼いている。荒野に生きる私にとっては、何とも奇妙で、理解不能な不思議な行為だった。
わざわざ時間をかけて、あんなことをして何になるのだろう。野生なら、仕留めた獲物は鮮度が落ちる前にすぐ、その場で貪り食えばいい。なのに人間は、あえて火を通すという手間で時間を無駄にしている――一体、何をしているのだ?
そう疑問に思っているうちに、じわじわと香ばしい匂いが鼻腔へと入り込んできた。
「…………!」
生肉とは、匂いの濃密さがまるで違う。パチパチと音を立てて焼けた肉から漂ってくるその匂いは、暴力的なまでに私の食欲を刺激してきた。気がつけば……
――ジィ~~~~……
私の瞳はハンターが育てるその肉へと完全に釘付けになっていた。ハンターが、その突き刺さるような熱視線に気づく。しばしの無言の後、彼は苦笑いしながら頭を掻いた。
「……そんなに見られると、さすがに食いづらいんだが」
「……!」
私は我に返り、恥ずかしさのあまり慌ててぷいっと顔を逸らした。だが――
「ほらよ」
ハンターは、ちょうど良く焼き上がったばかりの肉を一切れ、ナイフの先で器用に切り分けて私へと差し出してきた。
「やるよ。美味いぞ」
私はその場で完全に固まった。人間が……自分のような大型モンスターに対して、敵意もなく、食べ物を差し出している。私の記憶にある、そしてかつて群れの仲間たちから耳にタコができるほど聞かされてきた人間は、全く違った。
人間は、モンスターを容赦なく狩る存在。相容れない絶対の敵。恐ろしい侵略者。自分たちの家族を平気で傷つける存在。だから人間を見たら、生きるために戦うか、さもなくば逃げる。それが当たり前だった。
なのに――目の前にいるこの人間は、明らかに違う。武器を構えていない。自分を狙ってもいない。それどころか、貴重な食べ物を分けてくれた。
私はゴクリと喉を鳴らし、恐る恐るその温かい肉へと顔を近づける。そして、小さく一口、噛み締めた。
「…………!」
美味しい……!あまりの衝撃に、思わず目を限界まで見開いた。生の肉とは違い、火が通ったことで脂の甘みが爆発的に引き立っている。噛むと口の中でホロリと解けるような、信じられない食感。人間の男は、私のそのマヌケな驚き顔を見て、小さく笑った。
「だろ?」
私は答えない。あまりの美味さに、言葉なんて返せなかった。ただ、もう一口。そして、がっつくようにもう一口。気がつけば私は、生肉の時と同じように、夢中になってその『焼いた肉』をハフハフと口に運んでいた。その様子を、少し離れた場所からリオレウスが静かに見守っていた。
「……人間の料理も、悪くないだろう?」
王が喉を鳴らしてそう問いかけてくる。
「……!」
私は驚いてレウスを見る。そして、また肉を焼いているハンターを見る。ハンターとモンスター。本来なら出会った瞬間に血で血を洗う殺し合いを始めるはずの二つの存在が、今、同じ場所で穏やかに食事をしている。
敵、互いを殺す存在ではなく、ただ並んで一緒に飯を食っている――こんな世界があったのか。私は、今日ここで初めて知った。
ここにいる者たちは、姿形や、それこそ種族がどれだけ違っていても、互いに分け合っている。そして、あの噂の恐ろしいはずの王は、それを当たり前のように、優しい瞳で受け入れている。
ここでは、人間であることも、モンスターであることも、それだけでは敵になる理由にはならない。私は咀嚼を続けながら、静かにハンターの後ろ姿を見つめた。
◆
腹が満たされた。たった、それだけのことなのに、目に見える世界が少し違って見えた。本当に久しぶりに、腹の奥深くまで温かい食べ物が入っている。これまでずっと私の身体を内側から蝕んでいた、あの忌々しい空腹が綺麗に消え去り、冷え切っていた四肢の先にも、じわじわと僅かな力が戻ってきた。
これなら……しっかりと話せる。
私は、自分が遥ばる荒野からここへ来た、本当の理由を伝えなければならない。この街の王に。どうか、孤独な自分もここに置いてほしい。どうか、自分もこの温かい街で、皆と一緒に生きさせてほしい、と。そう強く心に思い、私はゆっくりと力強く立ち上がった。そして、少し離れた場所にいるリオレウスへ向かって、一歩ずつ歩き出す。
「……あの」
「ん?」
レウスがのそりと振り返った。その瞬間、私は思わず足を止める。やはり、まともに目が合うと少しだけ緊張する。これほど圧倒的な力を持ち、数多の凶暴な雌たちを従える雄と、正面から向き合ったことなど今までの人生で一度もないのだ。
それでも、言わなければならない。私のこれからの命がかかっているのだから。私は意を決して、喉を開いて口を開いた。
「私は、あなたに――」
「待て」
「……?」
レウスが私の言葉を遮り、じっとこちらの姿を見つめる。そして、少し困ったようにその大きな頭を傾げた。
「お前、その格好のままで、俺に何か真面目な進言をするつもりか?」
「……格好?」
私は首を傾げ、自分の身体を見下ろした。そこで――初めて、客観的に自分の状態がどう見えているのかに気がついた。
全身の甲殻にこびりついた、荒野のドロドロの泥。天災の時に負った、無数の生傷。その傷口から流れて固まった乾いた血。連日の冷たい雨に濡れて、ボサボサに固まった体毛。さらには、道中の藪を突き進んだせいで、ところどころに絡みついたままの汚い草。
自分でも思わず目を背けたくなるような、薄汚れて凄惨な姿だった。レウスは呆れる風でもなく、淡々と続ける。
「仮にも一国の王に謁見し、大真面目なお願いをするっていうなら……流石にそんな薄汚れた姿のままで進言するわけにはいかないだろう?」
「……!」
私はあまりの正論に言葉を失った。怒られたわけではない。むしろ、身だしなみとして当然のことを優しく指摘されたような、そんな平坦な声音だった。その隣で肉を焼いていた人間のハンターも、深く頷いてこちらを見る。
「まぁな。雌……いや、レディが男の前にそんな小汚い姿で晒されているのも、見栄えとしてあまり良くないからな。男側の配慮としてもさ」
「…………」
私はさらに激しく困惑した。そうではない。私が言いたいのは、そういう外見の格好の話ではない。私は今、この命がけの切羽詰まった状態で、ここに置いてほしいと、決死の覚悟で――
「旦那様」
「ん?」
突然、横から声が上がった。泡狐竜のタマミツネだ。彼女はいつの間にか私のすぐ隣まで寄ってきており、優しく、値踏みするような目で私をじっと見つめている。
「彼女、すっごく汚れちゃってるし、私が洗ってきていい?」
「……ああ、もちろんだ。綺麗にしてやってくれ。その方が彼女もサッパリするだろ」
「はーい、任せて♪」
「え?」
次の瞬間だった。
「ほらほら、こっちこっち」
タマミツネが、私の身体をガシッと力強く掴んだ。
「……え? ちょ、ちょっと?」
「お風呂行きましょう? すっごく気持ちいい温泉があるのよ」
「いや、私は、王にお話が……!」
「大丈夫、大丈夫。お水は怖くないからね?」
「そうではなく! 私は真面目な話を……!」
「子供たちも、新しいお姉ちゃんが来るのを待ってるわよ〜」
「……え?」
抗議の声をあげる間も無く、気がつけば、私はタマミツネの見た目からは想像もつかないような怪力によって、半ば引きずられるようにしてその場から強制的に連れて行かれていた。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
遠ざかっていく、リオレウスの背中。私は必死に首を振り返る。言わなければ、今こそ言わなければ、また独りぼっちになってしまう――ここに住まわせてください。私はそう言うために、ここまで来たのだ。なのに。視線の先に見えるレウスは、去っていく私に向かってごく普通に、のんびりと大きな翼を振っていた。
「ゆっくり温まってこいよ〜」
「…………」
私は、もう何も言えなかった。野生の緊迫感をすべて無視したあまりのマイペースさに完全に脳の処理が追いつかず、私はそのまま、街の奥にある巨大な水場へとズルズルと連行されていくのだった。
「…おい、レウス」
「なんだ?」
「何が『仮にも一国の王に謁見し、大真面目なお願いをするっていうなら……流石にそんな薄汚れた姿のままで進言するわけにはいかないだろう?』だ。本当はただ単に汚れた女の子が可哀想だから綺麗にしてあげたいだけだろ?」
「まあ…そうだ」
「……そういう所だぞお前…」
◆
「わぁー!」
「ミツネママ、お客さん?」
「ジンオウガだ!」
「大きい!」
連行された先――その広大な水場では、タマミツネの子供たちが楽しそうにバシャバシャと水を跳ね上げて遊んでいた。私の姿を見つけると、チビたちは一斉に目を輝かせてこちらへ駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん、ジンオウガ?」
「……ああ、そうだ」
「ねぇねぇ、雷光虫いる?」
「……!」
その言葉を掛けられた瞬間、私は条件反射的にキュッと身体を強張らせ、身構えた。水場と雷光虫。最悪、電撃が暴発して周囲を巻き込むかもしれない。
「わっ、水場ではあまり近づかない方がいいぞ!」
一匹の子供が慌てて叫ぶ。
「ジンオウガが水に入ったら、みんな一緒に感電するんじゃないの!?」
「え、そうなの?」
「だって、お姉ちゃん雷使うんだろ?」
子供たちの騒ぎ声を他所に、私は思わず黙り込んだ。確かに、彼らの言う通りだ。普通なら――そうだ。無数の雷光虫を身体に纏わりつかせている状態で、こんな水場に入るのは、周囲にとっても自分にとってもあまりにも危険すぎる。
だが…私はふと、自分の身体を見下ろした。そして、ある『決定的な違和感』に、今更になって気がついた。
何かが、おかしい。
いつもなら、この白い体毛の奥をせわしなく這い回っているはずの虫たちの気配。怒りや興奮に合わせてパチパチと明滅する、微かな電気の光。そして、耳の奥にずっと残り続けていた、あの独特の羽音……それが――どこを探しても、ない。
「……雷光虫……?」
私は震える前脚で、自分の体毛を深く掻き分けた。いない。どこにも、一匹も。あの天災で群れが崩壊してから、今日までずっと気づかなかった。いや、気づく精神的な余裕すらなかったのだ。
生きることだけに必死だった。明日食べるものを探し、冷たい雨を凌ぐ場所を探し、自分を襲ってくる他の凶暴な大型モンスターから命からがら逃げ延びて。そんなことばかりを脳裏に詰め込んで歩いていたから。
私はゆっくりと水場へ近づいた。そして、波の立っていない静かな水面をじっと覗き込む。
そこに映っていたのは――見知らぬ雌の姿だった。
泥だらけの顔、天災の爪痕が残る、生々しい傷だらけの身体。何度も激しい雨と泥に濡れて、無惨にガチガチに固まってしまった白い体毛。かつては美しかったはずの甲殻も、何層もの薄汚い汚れに覆われて輝きを失っている。体毛には重い泥が絡みつき、みすぼらしく下へと垂れ下がっている。
そして何より――そこには、いつも自分と共に電撃を放っていた、相棒たる雷光虫たちの姿が、影も形もなかった。胸の奥が、ずしりと重く、暗く沈んでいく。
かつて、誇り高き群れがあった頃。大好きな仲間たちと共に、雄大な大地を風のように駆け回っていた頃。まだ何も失っていおらず、幸せだったあの頃。あの時の私は、こんなに醜い姿ではなかった。もっと身体は軽かった。もっと毛並みだって、お母さんに整えられて綺麗だった。雷光虫たちも、当たり前のように私の身体の周りを、綺麗な光を放ちながら飛び回っていたのだ。今の自分とは、あまりにも、あまりにも違いすぎる。
「……私……」
ぽつりと、情けない声が口から漏れた。
「こんな……こんな姿に、なっていたのか……」
水面の中の、生気を失った自分が、こちらをじっと見返している。その姿から、どうしても目を逸らすことができなかった。大切なものをすべて失ったことが、悔しい。悲しい。でも、それ以上に――ここまで落ちぶれてしまった自分が、たまらなく惨めだった。
「…………」
視界が、今度は悲しみの涙で滲みそうになった、その時…私の身体にふわっと、突然、温かくて真っ白な泡が乗せられた。
「……え?」
振り返ると、そこにはタマミツネが。その口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「まずは、綺麗にしましょう? 頑張ってここまで歩いてきたんだもの」
「…………」
タマミツネに続いて、チビたちが一斉に私の周りに集まってきた。
「ここ、すっごく汚れてるよ!」
「こっちも泥がいっぱいだ!」
「もっと泡つけよう! もこもこにしてやるー!」
「こらこら、待て待て! 一気にやったらお姉ちゃんが嫌がるだろ!」
「えー!」
「ふふ、ゆっくりでいいのよ」
ミツネが身体を器用に動かし、私の固まった体毛を極上の泡で優しく洗っていく。こびりついていた荒野の泥が、泡に包まれて少しずつ、少しずつ床へと落ちていく。
ガチガチに固まっていた白い毛が、温かい湯と泡によって一本ずつ解きほぐされ、本来の柔らかい形を取り戻していく。くすんでいた碧青の甲殻が、本来の美しい輝きを放ちながら、少しずつその姿を現していく。
「…………」
私は何も言わなかった。ただ、されるがままになっていた。やがて、私はもう一度、目の前の水面を覗き込んだ。さっきまでの、あの直視したくなかった泥だらけの無様な姿とは、まるで見違えるような自分がそこにいた。
まだ、天災の傷跡は深く残っている。蓄積した身体の疲れも、すぐには消えてはくれない。そして、失ってしまった大切な雷光虫たちも、すぐには戻ってこない。
それでも――少しだけ、ほんの少しだけ。すべてを失う前の、あの誇り高かった頃の自分に、少しだけ戻れたような気がした。
「……わぁ、綺麗になったね、お姉ちゃん!」
すぐ隣で、泡まみれになった子供の無邪気な声が響く。
「…………」
私は水面に映る自分の姿を見つめる。そして、ほんの僅かに、目を細めた――綺麗。その、温かい言葉を。一体、いつ以来聞いていなかっただろう。私はまだ、この街の王であるリオレウスに「ここに置いてください」と、その一言すらまともに言えていない。
それなのに……。お腹いっぱいになるまで、極上の食事を与えられた。薄汚れた身体を、こんなに温かいお湯と泡で洗ってもらった。誰も私を異分子として追い払おうとしなかった。そして今、出会ったばかりの他人が、私の身体を心から気遣って、優しく触れてくれている。
「…………竜の都」
私は、小さくその名を呟いた。その奇妙で、滅茶苦茶で、優しい都の名前が、固まっていた私の胸の奥深くに、温かいお湯のように、ゆっくりと染み込んでいった。
作者は他モンスも同時に構想を練りながら執筆をしているのですが…あるモンスターをヒロインにしている物は…指が震えて進まねえ…。
そのモンスターが誰なのか好きにご想像ください…。作者は辛くなったので寝ます…。
執事と正妃を地獄に落とすならどれが良い?
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