その意味を確かめるため、五人は大断層を抜けます。深界四層で待つのは、美しい巨大植物と、全身を引き裂くほど重くなったアビスの呪いです。
震えていた遺物は、一分ほどで静かになった。
八十二個すべてを地面へ並べても、熱を持ったものや形を変えたものはない。
ただ、《後鳴り貝》だけが遅れて音を返した。
耳を当てると、女の声がした。
「おかえり」
ロウは貝を布で包み、袋へ戻した。
「今の声、記録します」
ティセが鑑定帳へ書き込む。
「止めないんですか」
「好きにしろ」
「昨日は、価値がつくから書くなと言いました」
「これは役に立たない」
「手がかりです」
「帰れと言ってるだけだ」
「帰る場所を、あれが知っています」
ロウは袋の口を締めた。
「俺は知らない」
その一言で、ティセは問いを止めた。
休息を終えた五人は、指が示す通路をさらに下った。
壁の指は増え続けた。
最初は片側だけだったものが、やがて左右へ生え、天井からも垂れた。五人が通ると、指先が外套や荷へ触れようとする。
ロウが短槍の柄で払うたび、壁へ引っ込んだ。
襲ってはこない。
歓迎されているように見えることが、襲撃より気味が悪かった。
通路の終わりで、光が見えた。
大断層の出口である。
最後の崖を降りると、景色が一変した。
薄暗い空間に、巨大な植物が並んでいた。
茎は塔のように太く、その先に杯の形をした葉が開いている。大きなものは家を丸ごと入れられるほどあり、縁から水が滝となって落ちていた。
杯の内側では、赤い液体が光を反射している。
深界四層《巨人の盃》。
地上から七千メートル前後。植物の水と湿気に満ち、濃い霧が遠くを隠す場所だ。
ここで上へ動けば、全身に激しい痛みが走り、穴という穴から血が流れる。
崖一つ登ることが、死につながる。
「雨が来る」
メノが言った。
盃の葉が低く震えている。
上方で赤い水があふれ、巨大な葉を伝い始めた。
「あれは水ですか」
プクが見上げる。
「ほとんどは」
ティセが液体を小瓶へ取った。
「赤い色は植物の色素。弱い麻痺毒が混じっています。目と傷口を覆って」
五人は外套の留め具を締めた。
直後、雨が落ちてきた。
赤い飛沫が葉を叩き、岩を染める。
視界は数歩先まで狭まった。
雨粒が灯りを散らし、影を幾重にも作る。
一行は巨人の盃の根元を進んだ。
ガッドが前方へ縄を張り、プクは足元を音響棒で探る。メノは雨の毒が皮膚へ入っていないか、一人ずつ確かめた。
ロウは左手で短槍を持っている。
右腕は胸元へ固定されたままだ。
「利き手は右ですよね」
ティセが聞いた。
「どっちも使う」
「強がりではなく?」
「右しか使えないなら、右を折った時点で死んでる」
「折らない選択肢を覚えてください」
雨音の中で、かすかな鈴が鳴った。
りん。
プクが振り返る。
「誰か、鈴を持ってます?」
ロウは腰から小さな鈴を外した。
青錆の浮いた、音の弱い鈴だった。
「《ひとり鈴》だ」
「近くに生き物がいないときだけ鳴る遺物」
ティセが答える。
「十歩以内に二人以上いると鳴らない。持ち主自身も数えるため、一人きりになった合図にしか使えない」
「今、全員いますよ」
プクが五人を数えた。
「だからおかしい」
ロウは鈴をプクへ投げた。
「俺たちから二十歩離れろ」
「この雨の中で?」
「縄はつける」
ガッドが補助索をプクの腰へ結ぶ。
少年は不満そうな顔で、赤い雨の中を歩いた。
十歩。
鈴は鳴らない。
十五歩。
鳴らない。
二十歩。
五人の間は完全に離れた。それでも、鈴は沈黙している。
「僕の近くに、何かいます」
プクの声が震えた。
「戻れ」
ロウが言った。
ガッドが縄を引く。
動かない。
プクの足元で、雨の流れが宙へ浮いた。
透明な何かの輪郭を、赤い水が伝っている。
六本の脚。
平たい胴。
プクの背後へ、人間より大きな頭が持ち上がった。
「走れ!」
透明な顎が閉じる。
プクは前へ倒れた。
ガッドに引かれ、牙が外套の端だけを裂く。
原生生物が赤い雨を振り払った。
一瞬だけ輪郭が消える。
「《雨裂き》です!」
ティセが毒瓶を抜く。
「四層の待ち伏せ種。皮膚が周囲の光を曲げます。熱にも毒にも強い!」
「弱い場所は」
「腹部中央の呼吸孔。でも、正面からは見えません」
雨裂きが横へ走った。
赤い水が不自然に弾ける。
ロウは鈴を拾い、短槍の先へ結んだ。
「皆、十歩下がれ」
「一人で戦う気ですか」
「一人じゃないと、鈴が使えない」
ガッドが三人を引かせる。
ティセだけが残った。
「監視役です」
「十歩」
「片腕で、四層の捕食者と戦う人を放置できません」
「近いと位置が分からない」
雨裂きが迫る。
ロウはティセの腰を左腕で抱え、後方へ投げた。
「ちょっ――」
ガッドが受け止める。
十歩。
鈴が鳴った。
りん。
次の瞬間、音が止まる。
ロウの右側に、何かが入った。
彼は見ずに槍を振る。
刃が硬い皮膚を滑った。
雨裂きの脚が胸へ当たり、ロウの身体が飛ぶ。
地面を転がる。
鈴が鳴る。
りん。
止まった。
今度は背後。
ロウは前へ倒れ、頭上を顎が通る。
槍の石突きを腹へ突き上げた。
柔らかいものへ入る。
雨裂きの輪郭が現れた。
半透明の腹部中央で、花のような孔が開閉している。
ロウは槍を手放した。
原生生物が逃げようとする。
左手で脚をつかみ、身体ごと引き寄せた。
固定された右腕を、呼吸孔へ押し当てる。
「使わないって……!」
ティセの声が飛ぶ。
墜腕は光っていない。
ロウは遺物を起動しなかった。
添え木の角を、呼吸孔へ深くねじ込んだ。
雨裂きが暴れる。
右腕へ激痛が走る。
痛み糸が一割だけ奪い、ロウを動かした。
左拳を、添え木の端へ叩き込む。
呼吸孔が潰れた。
雨裂きは二歩進み、地面へ崩れた。
鈴が鳴る。
今度は止まらなかった。
「終わった」
ロウが言う。
ティセが走り寄り、右腕を見る。
「包帯を開けます」
「先へ行く」
「開けます」
「雨が止んでからだ」
「折れた腕を武器にした人の判断は信用しません!」
ロウは口を閉じた。
雨裂きの死骸を調べると、腹部の肉は食用になった。
ただし、透明な皮膚には強い毒がある。ティセとメノが二重の手袋で皮を剥ぎ、汚染されていない肉だけを包んだ。
失った食料の二日分を補える量だった。
「食べられる虫を見つけました」
プクが言った。
「虫じゃない」
ガッドが返す。
「食べられるなら、もう何でもいいです」
赤い雨は弱まらなかった。
五人は巨大な盃の下へ避難した。
根が複雑に絡み、階段状の足場を作っている。上へ進まないよう、ひとつひとつの段差を測りながら下った。
プクが音響棒を鳴らす。
「右の根の向こう、空洞があります。雨宿りできそうです」
その方向へ、幅の広い葉が橋のように伸びていた。
ロウが先に渡る。
ガッド、メノ、プクが続く。
最後にティセが足を乗せた。
葉の中央で、足元が膨らんだ。
「動かないで!」
ティセが叫ぶ。
葉ではなかった。
巨人の盃から伸びた、若い蕾の蓋だった。
内側にたまった気体が、一気に噴き出した。
蓋が跳ね上がる。
ティセの身体が、足場ごと上へ押し上げられた。
二メートル。
三メートル。
たったそれだけの上昇で、四層の呪いが襲った。
ティセの全身へ、見えない刃が入った。
「あ――」
声にならない。
頭蓋の内側が圧迫され、目の奥が熱くなる。
鼻から血が流れた。
耳からも。
皮膚の下で血管が一斉に膨らみ、関節へ針を打ち込まれたような痛みが走る。
身体が動かない。
傾いた蓋の上を滑る。
その先には、赤い水で満たされた盃が開いていた。
落ちれば、麻痺毒を吸い込む。
「縄!」
ガッドが投げる。
ティセの指は閉じなかった。
ロウが走った。
「来るな……」
ティセは血を吐きながら言った。
ロウは蕾の根元を蹴った。
同じ高さまで跳び上がる。
呪いが彼の身体も貫いた。
視界が赤く染まる。
折れた腕の痛みが何倍にも膨れ上がった。
鼻と口から血があふれる。
それでも左腕を伸ばした。
ティセの手首をつかむ。
二人の身体が盃の縁から外れた。
落下する。
下へ動くかぎり、呪いは追ってこない。
だが受けた損傷は消えない。
ロウは空中でティセを抱え込み、自分の背を下へ向けた。
ガッドの縄が腰へ巻きつく。
落下が止まった。
メノとプクが引き、二人を低い足場へ降ろす。
「ティセ!」
メノが駆け寄った。
瞳孔を確かめ、口の血をぬぐい、胸へ耳を当てる。
「呼吸はある。脈が速い。光を当てるぞ」
ティセの身体がけいれんした。
メノは気道を確保し、止血薬を鼻へ詰める。耳の出血は無理に止めず、頭を横へ向けた。
「ロウ、お前も座れ」
「先にティセを」
「お前の血も止まってない!」
ガッドがロウの肩を押さえ、座らせた。
痛み糸を外す。
遅れていた痛みが、まとめて右腕へ戻った。
ロウの顔から色が消える。
それでも、ティセから目を離さなかった。
「……ロウ」
かすかな声がした。
ティセの瞼が開く。
「いる」
「なぜ、来たんです」
「届いたから」
「あなたまで上がったら……二人とも、死ぬかもしれなかった」
「一人は確実に死んだ」
「そういう、計算を……」
ティセが震える手を持ち上げた。
ロウの左手をつかむ。
「嫌いです」
「知ってる」
「まだ、怒っています」
「それも知ってる」
「なら……勝手に離さないでください」
指へ力が入った。
ロウは握り返した。
「分かった」
治療を終えるまで、ティセは手を離さなかった。
雨がやんだのは、一時間後だった。
赤い水滴が葉先から落ち、五人の周囲に小さな染みを作る。
全員が動けるようになるまで、さらに二時間を要した。
ティセの出血は止まったが、頭痛と関節痛が残った。ロウの右腕は骨片がずれており、完全に固定し直された。
「次に使えば、切断も考える」
メノが告げた。
「分かった」
「本当に?」
「次は左を使う」
メノは無言でロウの後頭部をはたいた。
プクが笑いかけ、頭痛を思い出して顔をしかめた。
雨宿りに使うはずだった空洞は、根の奥に残っていた。
入口は狭く、自然にできた亀裂に見える。
だが、空気の流れがおかしかった。
風が穴から出るのではなく、周囲の霧ごと横へ吸い込まれている。
「力場も動いてます」
ティセが目を細めた。
アビスの力場は肉眼では見えない。だが、霧や細かな塵の流れから、おおよその向きは読める。
ここでは、上から下へ重なるはずの力場が、根の奥へ引かれていた。
ロウは一本の櫛を取り出した。
歯の半分が欠け、柄に小さな目玉模様がある。
「《逆撫で櫛》」
「力場の流れに逆らう方向へ、歯が倒れる」
ティセが答える。
「探窟家用の測定器より精度が低く、髪をとかすと頭皮を傷つけるため、価値なし」
「最後の説明は必要か」
「鑑定記録には必要です」
ロウが櫛を掌へ載せる。
欠けた歯が一斉に立ち、根の奥とは反対側へ倒れた。
「力場が、穴へ流れ込んでる」
ガッドが縄を確かめた。
「入るか?」
「認識票の音と同じ方向だ」
ロウが答える。
五人は狭い亀裂を進んだ。
中へ入るほど、外の匂いと音が消えていく。
壁は岩ではなく、白い根で覆われていた。
根の表面には、歯に似た硬い突起が並んでいる。
通路の最奥で、それらが一枚の扉を作っていた。
上から下まで、人間の歯が隙間なく生えている。
乳歯も、永久歯もある。
虫歯で黒くなったもの。
金属をかぶせたもの。
まだ根元へ血のついたもの。
五人が近づくと、歯が一本ずつ動いた。
互いをすり合わせ、硬い音を鳴らす。
ケルムの認識票が十三回、打音を返した。
歯の扉が中央から開く。
その向こうには、白い木々が並んでいた。
枝から、人の指が果実のように垂れている。
メノの夢に現れた庭だった。
第10話をお読みいただき、ありがとうございます。
《ひとり鈴》は、鳴らないことによって透明な捕食者の接近を知らせました。ティセを助けるため同じ高さへ上がったロウも、四層の上昇負荷を受けています。
次回は第11話「入口はガラクタを選ぶ」。ついに現れた《値無しの庭》の入口は、価値ある遺物を拒み、ロウが最初に拾った名もない遺物を求めます。