第一部の終着点です。八十二個の遺物を手放さなかったロウが、初めて自分の手で一つを差し出します。
扉の隙間は、人一人が横向きに通れるほどだった。
白い木々の間を、青白い光が漂っている。
風はない。
枝から垂れた指だけが、ゆっくり曲がっていた。
ロウが一歩近づく。
歯の扉が閉じ始めた。
「待ってください!」
ティセが手を伸ばす。
最後の隙間がかみ合い、庭は見えなくなった。
歯が互いをすり合わせる。
ぎち、ぎち、と人が奥歯をかむような音がした。
「今のは、ロウさんが近づいたから?」
プクが聞いた。
ロウは二歩下がった。
扉は開かない。
代わりに、中央の歯が何本か抜け落ちた。
空いた穴の奥から、細い舌が出る。
濡れた先端が左右へ動き、空気の匂いを探った。
「入れてほしいものがある」
メノが言う。
「あるいは、入れたくないものが」
ティセはロウの荷を見た。
「強い遺物に反応した可能性があります。《墜腕》を外せますか」
「外せる」
ロウは金色の腕輪を右腕から抜いた。
ガッドへ預け、一人で扉へ近づく。
舌が伸び、ロウの胸元をなぞった。
歯は動かない。
「まだ何かあります」
ティセが言う。
「《大食らいの鞘》」
ロウは腰の短槍を、鞘ごと外した。
《大食らいの鞘》は、収めた武器の長さを縮める一級遺物である。長槍さえ短い筒として携行できるが、使い方を誤れば持ち主の腕まで飲み込む。
それもガッドへ渡す。
再び近づく。
舌はロウの外套の内側へ入り、背に回った。
今度は、不快そうに縮んだ。
「《薄明の殻》だ」
ロウが背負い袋の底から、薄い半透明の板を出す。
身体へ受ける力を一度だけ半分にする、特級に近い一級遺物。使えば殻は砕け、二度と戻らない。
「それまで置いていくんですか」
プクが心配そうに言う。
「試すだけだ」
三つ目を預ける。
ロウが近づくと、舌は右脚へ巻きついた。
靴の内側に縫い込まれた細い黒杭を探り当てる。
「《還り杭》も」
ティセが息を吐く。
「つまり、上位の遺物をすべて拒んでいる」
ロウは黒杭を抜かなかった。
「これは入口で使う」
「使う前に、入口が開きません」
「なら別の方法を探す」
ロウが離れると、舌も穴へ戻った。
プクが代わりに扉へ近づく。
腰には音響棒と携帯灯、探窟組合の貸与品しかない。
舌は少年の頬、胸、荷を順に触れた。
歯の一部が開く。
プクが顔を明るくした。
「僕なら入れます!」
音響棒が舌へ触れる。
扉はすぐ閉じた。
「貸与品にも価値があると判断した?」
ティセが考える。
プクは音響棒を床へ置いた。
携帯灯も、予備の金具も外す。
何も持たずに近づく。
舌は全身を調べた。
今度は歯が動かない。
「何もない人間も駄目」
メノが言った。
「高いものを拒むだけじゃない。何かを持ってこいと言っている」
ガッドは床へ布を広げた。
「片端から試すしかないな」
ロウの八十二個の遺物が、一つずつ並べられた。
赤い小瓶。
欠けた匙。
錆びた鈴。
右しか指さない針。
片方だけ濡れる靴。
力をほとんど持たない羽と銭。
一度聞いた音を遅れて返す貝。
使い道を見つけられず、オースでは廃棄を待つだけだった品々。
それらを一つずつ舌へ触れさせる。
《一滴さま》には、歯が一本開いた。
《ひとり鈴》には二本。
《右向き針》には三本。
だが、人が通れるほどではない。
《痺れ匙》を差し出すと、扉は半分近く開いた。
「新しく拾ったものほど、大きく反応していませんか」
ティセが言った。
「八十二個目の痺れ匙が一番。ひとり鈴は七十三個目。一滴さまは六十六個目」
「数だけじゃない」
ロウは匙を戻した。
「こいつは、誰にも使われてなかった。鈴も瓶も、鑑定して捨てられた」
「価値が低いほど開く?」
ガッドが床の品々を見る。
「この入口は、本当にガラクタを選ぶのか」
ティセが歯の扉へ触れようとした。
舌が指先へ巻きつく。
彼女の爪の間へ入り、血の匂いを確かめる。
そして、初めて声を出した。
「ね、を」
幾つもの口が同時に動くような声だった。
「何と言った?」
ガッドが近づく。
舌は繰り返した。
「ねを。きめた、ものを」
「値を決めたもの?」
ティセが聞き返す。
歯が震えた。
「たかい、いらない」
「値なしを求めている」
メノが壁の向こうへ目を向けた。
「しかも、誰かが価値を調べて捨てたものを」
ロウは並べた遺物を見下ろした。
「全部、値はついてる」
「四級未満も?」
「値なし、という値だ」
ティセは意味を理解した。
この扉が求めているのは、安い遺物ではない。
まだ誰にも測られていないもの。
価値があるとも、ないとも決められていないものだった。
「未鑑定の遺物を持っていますか」
「ない」
「本当に?」
「拾えば鑑定へ回す。戻れなければ自分で調べる」
ティセは八十二個を順に見た。
一つだけ、鑑定帳に記憶のないものがある。
いつもロウの首元に隠れていた、小さな金属片。
「それは?」
彼の胸を指す。
ロウの左手が、反射的に襟を押さえた。
「遺物じゃない」
「見せてください」
「ただの留め具だ」
「今、右の奥歯をかみました」
ロウはティセを見た。
「監視役ですから」
しばらくして、彼は首のひもを外した。
先についていたのは、親指の爪ほどの丸いボタンだった。
黒ずんだ銀色。
表面には穴が一つだけ開いている。
模様も、光もない。
「何をする遺物です」
「何もしない」
「調べたんですか」
「二十年」
ロウは掌のボタンを見る。
「温めた。冷やした。水へ沈めた。血もつけた。ほかの遺物へ近づけた。何も起きなかった」
「なぜ鑑定へ出さなかったんです」
「拾ったとき、探窟家じゃなかった」
ロウがそれを見つけたのは、四歳のころだった。
オースの岸へ流れ着いた、小さな木箱の中。
母親は病で動けず、父親が誰かも知らなかった。家には売れるものがなく、食事は一日一度あるかどうかだった。
少年は金属のボタンを市場へ持っていった。
買い取り人は石へこすり、火へかざし、鼻で笑った。
金でも銀でもない。
遺物らしい反応もない。
値段はつかなかった。
「捨てろと言われた」
ロウが言う。
「捨てなかったんですね」
「俺が初めて拾った。誰にも取られなかったものだ」
ティセは、床に並ぶ八十二個を見た。
ようやく分かった。
ロウは役に立つから集めているのではない。
役に立たないと言われたものを、自分と同じ場所へ置いておけなかった。
弱い遺物を組み合わせる戦い方も、最初からあった才能ではない。
捨てないために、使い道を作ったのだ。
「それも、一個に数えているんですか」
「最初の一個だ」
「では、袋に八十二個。これを入れれば八十三個ですね」
「いや」
ロウは首を振った。
「これは数えない」
「なぜ?」
「俺のだからだ」
ティセは何も言えなくなった。
扉の舌が、ボタンへ向かって伸びてくる。
ロウは左手を閉じた。
舌が掌の手前で止まる。
「別の入口を探しましょう」
ティセが言った。
「力場はここへ集まっています。出口があるなら、同じ流れを追えます」
「時間がかかる」
「かければいい」
「食料が足りない」
「雨裂きの肉があります」
「二日分だ」
「兄も、これを渡せとは言っていません」
ロウが彼女を見る。
「これはあなたのものでしょう」
「だから、俺が決める」
ティセの表情がゆがんだ。
ロウは閉じた手を、舌の前へ差し出した。
「待って」
「ケルムが向こうにいる」
「それでも――」
「俺たちが帰る道も、向こうにしかない」
「《還り杭》があるでしょう」
「杭は道を作らない。戻る場所を覚えるだけだ」
ロウは指を開いた。
黒ずんだボタンが現れる。
舌がそっと触れた。
これまでの遺物を調べたときとは違い、すぐには巻き取らない。
表面を何度もなぞる。
穴へ先端を通す。
やがて、幼い子供の声で告げた。
「かち、なし」
ロウの指が震えた。
初めてだった。
母裂羽へ落ちながら向かっても、四層の呪いで血を吐いても、動かなかった指だった。
舌がボタンを引く。
ロウは一度だけ抵抗した。
ひもが張る。
古い結び目が切れた。
ボタンは舌とともに、歯の奥へ消えた。
ごくん、と扉が飲み込む音がした。
歯が左右へ分かれる。
今度は、人が並んで通れるほど大きく開いた。
ロウの空になった手が下がる。
「ごめんなさい」
ティセが言った。
「なぜ、お前が謝る」
「価値なしと記録することを、ただの分類だと思っていました」
「分類だ」
「それでも、その言葉で捨てられるものがあります」
ロウは床の遺物を拾い始めた。
「拾う奴もいる」
「あなたが全部を拾えるわけではありません」
「分かってる」
声はいつもと同じだった。
だが、ボタンをつないでいた切れたひもだけは、外套の内側へ戻した。
捨てなかった。
ティセは黙って《一滴さま》を包み、袋へ収めた。
ガッドとプクも遺物を一つずつ拾う。
メノは《ぬる火》が入っていた空の布まで畳んだ。
四人が手伝うと、八十二個はすぐに元の場所へ戻った。
最後に、ガッドから三つの上位遺物を受け取る。
扉はもう閉じなかった。
「支点を残す」
ロウは右脚に隠していた黒い杭を抜いた。
長さは手のひらほど。表面に一本の白い線が走っている。
特級遺物《還り杭》。
一度打ち込めば、持ち主がどれほど離れても、その場所へ続く方角を指し続ける。持ち主が瀕死になったときだけ、杭へ向かう最短の道を一度開く。
ただし、距離を消すわけではない。
開くのは道だけだ。
そこを登れば、アビスの呪いは受ける。
「帰還を保証する遺物ではありません」
ティセが確認する。
「保証するものはない」
ロウは歯の扉の手前へ杭を置いた。
左手だけで石槌を振る。
一打。
白い線が光った。
二打。
杭の半分が根へ入る。
三打目で、根の奥から悲鳴が上がった。
人間とも原生生物ともつかない、無数の声だった。
扉の歯が震える。
それでも杭は抜けない。
「これで、入口は消えない」
ロウが立ち上がった。
五人は装備を確かめた。
ガッドが全員をつなぐ縄を結ぶ。
メノが薬の残量を数える。
プクが音響棒を握る。
ティセは認識票を胸元へ戻した。
ロウが先頭に立つ。
「入るぞ」
歯の間を通り、《値無しの庭》へ足を踏み入れた。
空気は外より温かかった。
土は白く、踏むと人の皮膚のようにわずかにへこんだ。
木々の枝に実った指が、五人へ向きを変える。
庭の奥には、小さな家があった。
煙突から湯気が上がり、窓に橙色の灯りがともっている。
扉の前に、誰かが立っていた。
遠すぎて顔は見えない。
その人物が腕を上げた。
ティセの胸元で、認識票が同じ動きに合わせて揺れた。
「兄さん」
彼女が一歩進む。
背後で、歯の扉が閉じ始めた。
「待って!」
プクが振り返る。
五人目が通り終えた瞬間、扉は完全にかみ合った。
外の気配が消える。
同時に、《還り杭》の光も見えなくなった。
扉の向こう側。
誰もいなくなった通路で、白い根が動いた。
岩壁から、人間の指が一本ずつ生える。
十本。
百本。
数え切れない指が還り杭へ群がった。
爪を黒い金属の下へ差し込み、ゆっくりと引き抜き始める。
杭の白い線が明滅した。
庭の中で、ロウだけが振り返る。
閉じた歯の隙間から、幼い声が聞こえた。
「かえるところは、もういらない」
第11話をお読みいただき、ありがとうございます。
ここまでが第一部《庭への道》です。五人はついに《値無しの庭》へ到達しましたが、入口に残した《還り杭》はすでに何者かに狙われています。
ロウが手放した最初の遺物、庭の奥に立つケルムらしき人物、そして“帰る場所は要らない”という声。第二部では、庭が見せる幸福と、その代価へ踏み込みます。