第12話はしっかり書きたかったので長めです。庭の異様な生態と、そこで遺物を拾うことの意味をじっくり描きます。ロウたちが最初に出会うのは、高価な宝よりも恐ろしい「持ち主を求める遺物」です。
「かえるところは、もういらない」
幼い声が、閉じた歯の向こうから聞こえた。
ロウは振り返ったまま動かなかった。
白い根が絡み合った壁には、扉の継ぎ目さえ残っていない。
先ほどまで人間の歯が並んでいた場所も、今は太い木の幹にしか見えなかった。
「今の、聞こえましたよね」
プクが音響棒を構える。
「子供の声です。扉の外から……いや、中から?」
「声の向きが取れない」
ガッドは壁をたたき、耳を当てた。
「空洞の音もしない。開けられそうな場所もない」
「《還り杭》は?」
ティセがロウを見る。
「まだあるんですか」
「分からない」
「持ち主なら、感じ取れるのでは」
「あれは俺に何かを伝える遺物じゃない。瀕死になったとき、杭へ向かう道を一度開く。それまでは、打った場所で待つだけだ」
「待っていなかったら?」
ロウは答えなかった。
扉の外では、無数の指が杭を引き抜こうとしていた。
それを知る者は、庭の中にはいない。
ただ、白い幹の奥から、金属を爪でこするような音が一度だけした。
ロウは左手を壁へ当てた。
右腕は添え木で胸元へ固定されている。指先の腫れは引かず、包帯の下で骨が鈍く痛んでいた。
「壊しますか」
ティセが尋ねた。
「《墜腕》なら、この壁を破れるかもしれません」
「今の右腕で使えば、壁より先に腕が壊れる」
メノが即座に言った。
「腕だけで済めば運がいい。折れた骨が血管を裂けば、ここで死ぬ」
「使わない」
ロウは壁から手を離した。
「先に、別の出口を探す」
「その前に――」
ティセが庭の奥を見た。
白い木々の向こうに、小さな家がある。
人影はまだ扉の前に立っていた。
遠く、霧にぼやけて顔は見えない。
それでも、ティセには分かった。
肩の高さ。
少し左へ傾けて立つ癖。
長い外套を片側だけ後ろへ払う仕草。
三年前にいなくなった兄と同じだった。
「兄さん!」
ティセが走り出す。
腰の縄が張った。
身体が後ろへ引かれる。
ガッドが全員をつないだ主索を握っていた。
「放してください!」
「足元を見ろ」
「あそこに兄がいるんです!」
「だから足元を見ろ!」
ガッドの声が庭へ響いた。
ティセの靴先から、白い土が離れた。
薄い皮膚のような地面が、呼吸するように上下している。
彼女が踏み出そうとした場所には、細い切れ目があった。
切れ目が左右へ開く。
土の下から、透明な歯が二列に並んで現れた。
口だった。
ティセの足が乗るのを待っていた。
歯がかみ合い、空気を切った。
ガッドが縄を引かなければ、足首から先がなくなっていた。
「……すみません」
ティセが一歩下がった。
地面の口は再び閉じ、白い土へ戻った。
「謝る相手が違う」
ガッドは縄を緩めた。
「帰ったら、兄貴を殴れ。俺たち全員を危ない場所まで呼びやがったってな」
「まだ、兄だと決まったわけではない」
ロウが言った。
「あなたには、そう見えないんですか」
ティセが振り向く。
「遠すぎる」
「立ち方も、外套も同じです」
「同じに見せるものは、ここへ来るまでにもいた」
コエカリはケルムの声でティセを呼んだ。
力場の歪んだ洞窟では、血まみれのケルムが追ってきた。
庭が彼女の記憶を知らないとは言えない。
「認識票も反応しました」
「あの人影に反応した証拠はない。家か、庭か、この場所全体かもしれない」
「では、確かめに行きます」
「行く。走らずに」
ロウはティセの前へ立った。
「見つけるまで、死ぬな」
「誰のせいで、ここまで来たと思っているんです」
「俺のせいでいい。だから足を見ろ」
ティセは言い返そうとした。
その間に、家の前の人影が腕を下ろした。
扉を開き、橙色の灯りの中へ入る。
「兄さん、待って!」
声は届かなかった。
家の扉が閉じる。
煙突から上がる白い湯気だけが残った。
庭は静かだった。
虫の羽音も、葉の擦れる音もない。
五人の呼吸と装備の金具が触れる音だけが、近くに落ちて消えた。
「反響がおかしいです」
プクが音響棒を鳴らした。
澄んだ金属音が広がる。
いつもなら壁や地面へ当たり、幾つもの音となって返ってくる。
ここでは、何も戻らなかった。
「広すぎるんじゃないのか」
メノが周囲を見る。
「それなら、地面からの反響はあります。今、棒の先が土へ触れているのに、その音まで消えました」
「庭が食べてる」
ロウが白い地面を見下ろす。
「音を?」
「音だけならいい」
プクは音響棒を胸元へ引き寄せた。
五人は入口だった幹を起点に、周囲を調べ始めた。
まず、上下を確認した。
天井は見えない。
白い霧の向こうに青黒い空があるように見えるが、星も光源もない。それでも庭全体は、夜明け前ほどの明るさを保っていた。
《一滴さま》の水滴は、足元を真下として示している。
少なくとも、入った直後に上下が反転したわけではない。
力場の流れは読めなかった。
四層では霧や塵に沿って見えていた流れが、庭へ入った途端に消えている。
「ここで上へ動いたら、四層の上昇負荷を受けますか」
プクが聞いた。
「試すなよ」
ガッドが先に言う。
「聞いただけです」
「分かりません」
ティセが答えた。
「庭が四層の一部なら、全身の痛みと出血が起きます。力場から隔離された空間なら、別の症状かもしれない。何も起こらない可能性もありますが――」
「一番いい可能性を当てにしない」
ロウが言った。
「高低差を避ける。登る必要があれば、先に小動物で確かめる」
「小動物、いますかね」
プクが周囲を見回す。
生き物の姿はない。
代わりに、木の枝から数え切れないものが垂れていた。
遠くでは果実に見えた。
近づくと、どれ一つとして果実ではなかった。
最初の木には、探窟家の笛が実っていた。
赤笛。
蒼笛。
月笛。
黒笛。
紐の切れたもの、歯形のついたもの、持ち主の名が刻まれたもの。色も形も異なる笛が、肉色の細い茎につながれている。
風がないのに、笛は左右へ揺れていた。
音は出ない。
次の木には、装備が実っている。
割れた兜。
泥の詰まった水筒。
片方だけの手袋。
血で黒くなった背負い袋。
どれも枝から直接生えていた。
金具の隙間へ白い根が入り込み、革と肉の境目が分からなくなっている。
ガッドが古い縄の束へ灯りを向けた。
「組合の編み方だ」
「持ち帰れますか」
プクが聞く。
「触るな。腐ってなくても使えん」
「なぜです」
「縄の中に血管が通ってる」
縄は一定の間隔で膨らみ、脈を打っていた。
枝の根元から送られた赤いものが、繊維の中をゆっくり移動している。
その先には、金属製の留め具があった。
留め具が小さく開閉する。
歯のようだった。
「これを見てください」
ティセが三本目の木の前で呼んだ。
枝に、透明な球体が実っている。
内部で白い光が回り続けていた。
競売場で三百万の値がついた二級遺物《朝継ぎ》と、同じ形だった。
「地上へ運ばれたはずです」
ティセは球体を正面から観察する。
「私が落札記録を作りました。今ごろは西方の都市国家にあるはずです」
「同じものが二つあったんじゃないですか」
「溝の欠け方まで同じです。輸送前に私がつけた追加観察の印もある」
球体の端に、小さな三角印があった。
庭にあるはずのない傷だった。
「偽物か」
メノが言う。
「形だけなら」
ティセは鑑定用の薄板を近づけた。
触れない距離から、熱と光を測る。
「発する光の周期も同じです」
「本物だと思うか」
ロウが尋ねる。
「分かりません。少なくとも、私の記憶だけを読んで作った形ではない。印の深さまで正確すぎます」
「庭が地上を見ている?」
プクの声が小さくなる。
「それとも、地上にある方が偽物か」
誰も答えなかった。
《朝継ぎ》の光が止まった。
透明な球体の中で、黒い点が開く。
人間の瞳だった。
それはティセを見た。
球体の表面へ細い亀裂が走り、内側から赤い液体がにじむ。
ロウがティセの肩を引いた。
次の瞬間、球体が枝から落ちた。
白い地面へ当たる。
割れなかった。
地面が柔らかく開き、球体を飲み込んだ。
瞳だけが最後まで外を向いていた。
土が閉じる。
何も残らない。
「ここにあるものを、遺物だと決めない方がいい」
ロウが言った。
「遺物の形をした生き物かもしれない。生き物の形をした遺物かもしれない」
「その二つを、どう見分けるんです」
プクが尋ねる。
「役に立つかで見るな」
「では?」
「何を食うかで見る」
その言葉を確かめるように、地面の下で硬いものが砕ける音がした。
五人は木々の間を進んだ。
ロウが先頭に立ち、左手の短槍で地面を突く。
口が隠れていれば歯が閉じ、細い穴があれば液体が噴き出した。
ガッドは安全だった場所へ杭を打ち、主索を通す。
プクは反響の代わりに、棒へ伝わる振動を記録した。
メノは全員の体温と呼吸を一定間隔で確かめる。
ティセは家から目を離さないまま、周囲の植物を鑑定帳へ描いた。
庭には道らしいものがあった。
白い木々が左右へ分かれ、家へ向かう幅広い空間を作っている。
歩きやすく見える中央ほど、地面の口が多かった。
端には骨が並んでいた。
人の腕や脚の骨が半分まで土へ刺さり、柵のように続いている。
頭蓋骨もあった。
眼窩から白い枝が伸び、その先に小さな方位磁針が実っている。
針は五人の方角を追い続けた。
「人骨です」
メノが一本の大腿骨を調べた。
「形だけではない。骨端の成長具合から、二十歳前後。表面に治った骨折の跡がある」
「死体から生えたのか」
ガッドが聞く。
「逆かもしれない。この木が、人間の骨を作った」
メノは骨の下へ視線を落とした。
土との境目に皮膚がある。
白い地面から人間の皮膚が盛り上がり、その中で骨が育っていた。
「どちらにせよ、標本に持ち帰る気は起きないな」
「持ち帰る場所が残っていれば、ですが」
ティセが後方を見る。
入口だった白い幹は、もう見つけられなかった。
それほど遠くへ来たわけではない。
ガッドが残した縄は背後へ続いている。
しかし縄の先は、木々の間の霧へ入り、そのまま消えていた。
「引いてみる」
ガッドが主索を握った。
ゆっくり力をかける。
最初は、入口の杭へ固定された重みがあった。
次に、縄の向こうから引き返された。
「誰か持ってる」
ガッドが腰を落とす。
強く引く。
向こう側も同じ力で引いた。
ガッドが一歩下がる。
相手も一歩ぶん縄を奪う。
「切れ!」
ロウが短槍を振った。
刃が主索を断つ。
切れた先が、生きた蛇のように霧へ引き込まれた。
ガッドの手元には十歩ほどしか残らなかった。
「俺の縄を食いやがった」
低い声に、本気の怒りが混じる。
「追いますか」
「追って取り返せるならな」
ガッドは切断面を調べた。
繊維の隙間に、白い根が一本入り込んでいる。
切ったあとも根は成長し、残った縄の内側へ伸びようとしていた。
彼は汚染された部分をさらに一歩ぶん切り落とした。
「ここじゃ、置いた物から目を離すな。杭も縄も、勝手に庭の物になる」
「人間も」
プクが言った。
ガッドは否定しなかった。
家までの道の半分ほどで、浅い水辺が現れた。
幅は二十歩ほど。
白い地面のくぼみに、無色透明の液体がたまっている。
深さは足首までしかない。
向こう岸には、同じ白い道が続いていた。
「橋はありません」
ティセが左右を見る。
水辺は霧の中まで伸び、迂回できる端が見えない。
「水なら、歩いて渡れそうですが」
プクがしゃがみかけた。
「触るな」
ロウが背負い袋から金属片を一つ出した。
遺物ではない、食器の壊れた留め具だった。
液体へ投げる。
表面へ触れた瞬間、白い泡が立った。
金属片が黒く変色する。
十秒もたたず、端から崩れ始めた。
「強い酸です」
ティセが試験紙を長い柄の先へ挟み、液体へ浸した。
紙は色を変える前に溶けた。
「少なくとも皮膚では耐えられません。靴底も数歩で抜ける」
「向こうの家へ行くには、ここを渡れということか」
メノが言う。
「渡らせる気があるならな」
ガッドが杭を打ち込めそうな場所を探す。
水辺の手前に支点はある。
だが向こう岸へ縄を渡すには、誰か一人が先に越えなければならない。
ロウは荷の横へしゃがんだ。
幾つもの袋を外し、底から片方だけの靴を取り出す。
灰色の革靴だった。
右足用はない。
表面には水染みが一つもなく、靴底だけが異様にすり減っている。
「《片濡れ靴》」
ティセが鑑定記録を思い出す。
「履いた左足だけ、液体を弾く。右足には何の効果もない」
「片方しかないんですか」
プクが聞いた。
「両方あれば《濡れない靴》だ」
ロウは自分の左靴の上から、片濡れ靴を重ねて履いた。
大きさは合っていない。
ティセがしゃがみ、革ひもを足首へきつく巻く。
「まさか、一歩ずつ跳んで渡るつもりですか」
「底に足場があるか確かめる」
「左足は酸を弾いても、転べば全身が溶けます」
「転ばない」
「そう言うと思いました」
ティセは余ったひもを切り、さらに二重に結んだ。
「右腕は使わないでください」
「使えない」
「あなたの場合、その言葉は信用できません」
彼女は立ち上がり、ロウの腰帯へ補助索をつないだ。
「もし落ちたら、すぐ引き戻します」
「水面を横に引けば、身体が酸へ沈む」
「では、落ちないでください」
「そうする」
二人のやり取りを聞き、ガッドが新しい主索を渡した。
「向こう岸へ着いたら、太い根へ二重に回せ。見た目だけで支点を選ぶな。先に三度蹴れ」
「分かった」
「返事だけはいいんだよな、こいつ」
ロウは水際へ立った。
左足を液体へ入れる。
酸が靴底へ触れる直前、見えない面へ当たったように左右へ分かれた。
灰色の革へは一滴も触れない。
周囲だけがへこみ、足の形に乾いた空間ができている。
ロウはゆっくり足を下ろした。
底は柔らかい。
白い泥の下を探る。
半歩先に、硬い突起があった。
「石がある」
「庭に普通の石があると思うか?」
ガッドが聞く。
「思わない」
ロウは左足へ体重を移した。
右足を持ち上げる。
水面へ触れさせず、硬い突起の上へ置いた。
それは水面より指一本ぶんだけ高く出ている。
右足の靴底は濡れなかった。
一歩目。
次の足場を、左足で探る。
酸へ入れ、底をなぞる。
二歩目の突起を見つける。
右足をそこへ置く。
片濡れ靴は、左足しか守らない。
だからこそ、守られた足を探り棒にし、守られない足を安全な場所だけへ載せることができた。
三歩。
四歩。
ロウは片足ずつ、透明な酸の上を進んだ。
水面の下で、小さな影が集まり始めた。
砂粒ほどの白い虫だった。
何千匹もの虫が、液体の中を泳いでくる。
酸に溶けず、ロウの左足を囲んだ。
「足元!」
プクが叫ぶ。
白い虫は片濡れ靴が作る乾いた隙間へ入り込もうとしていた。
液体は弾けても、生き物までは弾けない。
一匹が靴の縁を越える。
革へ触れた部分が消えた。
「食べてる……」
虫は酸に溶かされたものを採食していた。
金属も革も肉も、区別しない。
群れがロウの足首へ登り始める。
ロウは戻らなかった。
水辺の中央で引き返せば、足場を踏み外す危険の方が高い。
「袋の左、緑の印だ!」
後方へ声を飛ばす。
プクがロウの背負い袋を開いた。
「どれです? 布が三枚あります!」
「穴だらけの方!」
「全部、穴だらけです!」
「虫食いの穴だ!」
「見分けがつきません!」
ティセが横から手を入れ、薄い茶色の布を引き出した。
「《嫌虫布》です。指先より小さい虫を、布から一歩ほど遠ざける」
「投げろ!」
「水へ落とせば、酸で――」
ガッドが布の端へ細い補助索を結んだ。
重りをつけ、ロウの頭上へ投げる。
ロウは左手で受け取った。
嫌虫布を左の足首へ巻く。
白い虫の動きが止まった。
見えない壁に押されたように、靴から一歩ぶん離れる。
水中に白い輪ができた。
「本当に嫌がってます」
プクが目を見張る。
「虫だけならな」
ロウは次の足場を探した。
白い群れが距離を保ち、彼の移動に合わせて輪を動かす。
七歩目で、右足の下の突起が割れた。
足が沈む。
ロウは左足一本で立ち、右脚を跳ね上げた。
靴底を酸がかすめる。
薄い煙が上がった。
ガッドとティセが補助索を引く。
身体が後ろへ傾きかける。
「引くな!」
ロウが叫ぶ。
左足の下にあるものが動いた。
石ではない。
水底へ埋まった人間の背骨だった。
体重を受け、椎骨が一つずつ開く。
骨の隙間から、赤い触手がロウの靴へ伸びる。
嫌虫布は反応しない。
触手は虫ではなかった。
ロウは主索の端についた金具を左手で振る。
触手へ巻きつけ、一気に引いた。
背骨が水底から抜ける。
その下に、次の足場が見えた。
ロウは右足を伸ばし、白い根の上へ置いた。
触手が足首へ届く前に、左足も移す。
「今のも安全確認ですか」
ティセの声が固い。
「危険だと分かった」
「戻ったら説教します」
「向こう岸で聞く」
ロウは進んだ。
最後の五歩は足場がなかった。
酸の中から、白い虫がさらに集まる。
ロウは嫌虫布を主索の端へ結び直した。
布を水面へ垂らす。
虫の群れが左右へ割れた。
その中央へ、主索を落とす。
酸へ触れた縄から煙が出た。
だが、虫に食われるよりは遅い。
ロウは縄を踏み、沈みきる前に駆けた。
一歩。
二歩。
三歩目で縄が細くなる。
四歩目で切れた。
ロウは向こう岸へ跳んだ。
左肩から地面へ転がる。
右腕をかばい、白い土へ短槍を突き立てた。
地面の口が開く前に立ち上がる。
近くの太い根を三度蹴った。
動かない。
刃で表面を浅く裂く。
血は出なかった。
主索を二重に回し、金具で固定する。
「渡した!」
対岸で、ガッドが縄を張った。
酸の水面から、人一人の背丈ほど高い位置に一本の道ができる。
残る四人は腰帯の金具を主索へかけ、腕と脚でぶら下がって渡ることになった。
最初はプクだった。
嫌虫布を細い補助索で引き、常に身体の真下へ置く。
白い虫は布を避け、酸の中に円形の空白を作った。
「下を見ない方がいいですか」
プクが縄へぶら下がったまま聞く。
「見ろ」
ガッドが答える。
「怖い場所ほど見ろ。縄が切れたとき、どこへ足を置くか決めておけ」
「置ける場所、人の骨しかありませんよ」
「なら、どの骨が太いか選べ」
「助言が嫌すぎます!」
声は震えていたが、プクは手を止めなかった。
対岸へ着く。
次にメノ。
ティセ。
最後にガッドが渡った。
全員が越えた直後、酸へ触れていた主索の一部が切れた。
縄の端が水面へ落ちる。
白い虫が群がり、数秒で跡形もなく食べた。
ガッドは残った長さを測った。
「戻る縄はない」
「入口も見えません」
ティセが言う。
「進むしかない、ということですか」
「進ませるために庭が道を消してる」
ロウは片濡れ靴を脱いだ。
遺物そのものは酸に触れていない。
しかし縁を越えた一匹に食われ、革の一部が薄くなっている。
彼は乾いた布で拭き、穴を確かめてから袋へ戻した。
「まだ使うんですか」
プクが尋ねる。
「左足は残ってる」
「普通の靴なら、捨ててますよ」
「普通の靴じゃない」
嫌虫布も回収した。
酸へ浸かった端は溶け、半分近い大きさになっている。
ロウは失われた部分を指でなぞった。
「役目は果たしました」
ティセが言う。
「まだ終わってない」
「その布の役目ではありません。私たちを全員渡した。十分です」
ロウはティセを見た。
彼女は濡れた包帯を替えるため、彼の右腕へ手を伸ばしていた。
「座ってください」
「家が近い」
「だからこそです。兄が敵なら、戦える状態にしておく必要があります」
「兄を敵だと言えるようになったのか」
ティセの手が止まる。
「可能性を除外しないだけです」
「それでいい」
「褒めないでください」
「褒めてない」
「では、黙って座ってください」
ロウは白い根へ腰を下ろした。
ティセは包帯を解く。
骨片はずれていない。
酸の上を片足で渡ったため、肩と肘に腫れが増えていた。
メノが横から確認し、新しい添え木を当てる。
「次に同じことをしたら、右腕を背負い袋へ入れておけ」
「袋が重くなる」
「八十二個に一本増えるだけだ」
「数えない」
メノは一瞬だけ黙り、吹き出した。
ガッドも鼻で笑う。
プクは笑っていいのか迷った末、小さく笑った。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
ティセは笑わなかった。
ただ、包帯を結ぶ指の力がわずかに優しくなった。
休憩を終え、五人は家へ向かった。
水辺の先では、木に実る遺物の数がさらに増えた。
光を放つ板。
中で液体が逆さに流れる瓶。
持ち手のない刃。
呼吸に合わせて伸び縮みする外套。
オースなら一つで屋敷を買えるほどの品が、低い枝へ無造作に垂れている。
どれも手を伸ばせば届く。
どれも、五人が通るとわずかに揺れた。
欲しがっているのは人間の方ではない。
そう思わせる動きだった。
プクの足が遅くなった。
一本の細い木を見ている。
枝先に、笛の形をした遺物が実っていた。
長さは掌ほど。
青い硝子のような表面に銀色の線が走り、先端には七つの穴がある。
周囲の遺物と違い、肉の茎が見えない。
細い銀鎖で枝へつながれているだけだった。
「きれいだ」
プクがつぶやく。
笛の内部で、淡い光が動いた。
七つの穴を順番に通る。
音響棒を鳴らしたときと同じ順序だった。
「僕の音を返してます」
「離れろ」
ロウが言った。
プクは聞いていなかった。
笛から音が流れる。
庭へ消されたはずの反響だった。
水辺の幅。
木々の間隔。
地面の下にある空洞。
音の高低だけで、周囲の形が分かる。
プクが何年も探していた、理想の測量器だった。
「これがあれば、庭を測れます」
一歩近づく。
「僕の棒より、ずっと遠くまで」
「プク」
「出口も見つけられる。家の中に何人いるかも分かるかもしれない」
彼の右手が上がった。
ガッドが腰の縄を引く。
縄は動かなかった。
「おい」
プクの足元から白い根が伸び、腰帯の金具へ入り込んでいる。
主索ごと木へ固定されていた。
プクの指が笛へ近づく。
ロウは短槍を捨てた。
少年の背へ走り、左腕を腰へ回す。
全身を使って後ろへ投げた。
プクの指先が笛へ触れる直前、身体が地面へ倒れる。
「何するんですか!」
プクは起き上がろうとした。
ロウが胸へ膝を置いて押さえる。
「離せ!」
「見るな」
「必要なんです! 音が返らない場所で、あれがあれば――」
「お前が欲しがってるんじゃない」
「僕の気持ちを勝手に決めるな!」
プクがロウの顔を殴った。
少年の拳でも、鼻から血が出た。
ロウは動かなかった。
「笛が、お前に欲しがらせてる」
「違う!」
「なら、目を閉じろ」
プクの呼吸が止まった。
「目を閉じて、同じものが欲しいか考えろ」
少年は笛を見た。
青い光が、彼の心臓と同じ速さで明滅している。
目を閉じられない。
閉じようとすると、強い恐怖が湧いた。
二度と手に入らない。
今取らなければ、誰かに奪われる。
この庭から出られず、全員が死ぬ。
笛さえあれば助かる。
根拠のない考えが、次々に頭へ流れ込む。
「取らないと……」
プクの目から涙が出た。
「取らないと、僕が役に立たない」
「お前は今日、酸の上を渡った」
ガッドが近くへ来た。
「怖くても手を止めなかった。笛がなくても、もう役に立ってる」
「でも、僕は落ちた。いつも助けられてばかりで……」
「落ちた奴を拾うのが隊だ」
「違う。僕も、ロウさんみたいに――」
「俺みたいになるな」
ロウの声が低くなった。
プクが初めて、笛から目を離す。
「拾った物を手放せなくなる」
ロウは自分の背負い袋を見た。
「必要だから持つのと、捨てられないから持つのは違う。考えられない物を拾うな」
ティセがプクの前へしゃがんだ。
両手で頬を挟み、瞳の動きを確かめる。
「私を見てください」
プクの目が揺れる。
「名前は?」
「プク・ナナイ」
「年齢」
「十九」
「持っている笛の色は」
「蒼……蒼笛」
「今、欲しいものは?」
プクの視線が、また枝へ戻りかけた。
ティセが顔を固定する。
「答えなくていい。代わりに、目を閉じて」
「怖いです」
「私もです」
「何が」
「あの家へ行って、兄ではないものが待っていることが」
ティセは正直に言った。
「それでも、確かめる前に兄だとは決めません。あなたも、手に取る前に必要な物だと決めないで」
プクは震えながら瞼を閉じた。
笛の光が止まった。
七つの穴から、細いものが出る。
銀色の糸に見えた。
違う。
針のように細い舌だった。
七本の舌が伸び、プクの顔を探る。
先端には、小さな返しがついている。
ロウは少年を抱えたまま後ろへ下がった。
舌が届かない。
笛は枝から自分で外れ、地面へ落ちた。
銀鎖がほどける。
鎖ではなかった。
人間の腸ほどの太さへ膨らみ、白い木の内部から長く伸びてくる。
青い笛が地面を跳ねた。
七本の舌を脚のように使い、プクへ這ってくる。
ガッドが縄を投げ、笛の胴へ巻きつけた。
引く。
木の方へ戻すはずが、縄越しに脈が伝わった。
「生きてるぞ、こいつ」
ティセが《毒震え歯》を近づける。
反応はない。
「毒ではありません」
「毒じゃなければ安全か」
ロウが短槍を拾った。
刃を、笛ではなく白い木へ向ける。
幹と銀色の管がつながる部分を切った。
赤い血が噴き出す。
笛が甲高い悲鳴を上げた。
プクの声だった。
「痛い! やめて!」
目を閉じていたプクが耳を塞ぐ。
「僕じゃない。今の、僕じゃない!」
切れた管が地面をのたうつ。
笛の表面に亀裂が入り、青い殻が左右へ開いた。
内部に金属はなかった。
赤い肉の中央で、小さな心臓が動いている。
心臓へ、七本の舌がつながっていた。
拍動は速い。
プクの脈と同じだった。
メノが少年の手首を取る。
「こいつが合わせてる。プクの身体を読んでる」
「いつから?」
「見た瞬間か、音を返したときからだ」
笛の心臓が大きく膨らんだ。
七本の舌が一斉に地面へ刺さる。
逃げようとしている。
ロウは短槍の石突きで心臓を打った。
一撃で潰す。
笛の身体が動かなくなった。
プクも息を詰め、胸を押さえた。
「プク!」
メノが抱き起こす。
少年の心臓は動いている。
ただ、一拍だけ笛と同時に止まっていた。
「つながりかけていた」
メノが額の汗を拭う。
「触っていたら、どちらの心臓がどちらを動かすか分からなくなってたかもしれない」
プクは目を開けた。
砕かれた笛を見る。
先ほどまで感じていた欲しさは消えていた。
代わりに、吐き気が込み上げる。
横を向き、胃の中のものを吐いた。
白い地面がそれを吸い込む前に、ティセが布で受け止めた。
「自分で処理します」
プクが言う。
「今は座って」
「でも」
「隊の医療担当はメノです。私は鑑定士。そして今のあなたは患者です」
「僕だけ、何も担当してない」
「音を聞く役だ」
ロウが答えた。
「ここじゃ音が返らない」
「返らないと分かったのは、お前が聞いたからだ」
プクは黙った。
ガッドが短くなった縄を巻き直し、少年の肩へ手を置く。
「欲しがったことを恥じるな。手を出す前に止まれなかったことを覚えろ。次は自分で止まればいい」
「次が、ありますか」
周囲の木々には、無数の遺物が実っている。
どれも五人を見ていた。
「嫌になるほどある」
ガッドが答えた。
ティセは死んだ笛を直接触れないよう、長い器具で調べた。
外殻は遺物に近い。
刃物では傷つきにくく、光を自ら発していた。
内部は人間に近い。
血液、筋肉、心臓。
だが、どちらにも完全には当てはまらない。
「庭が遺物をまねた生物を作っているのかもしれません」
ティセが記録する。
「あるいは、遺物に生物を接ぎ木している」
「目的は採食か」
メノが聞く。
「プクを食べるだけなら、酸の浅瀬へ落とす方が簡単です」
「では、持ち主を作ろうとした?」
ティセは笛の七つの舌を見る。
先端の返しは、皮膚へ刺さったあと簡単には抜けない形をしている。
「遺物は普通、人間に拾われ、使われます。でもここでは、遺物の方が使う人間を選んでいる」
「拾う側と、拾われる側が逆になる」
プクが青ざめた顔で言った。
「僕は、あれに拾われかけたんですか」
「そう考えた方がいい」
ロウは周囲の枝を見上げる。
「ここでは、手に取っただけで持ち主にはなれない」
「取られた方が、持ち物になる」
メノが続けた。
白い木々が一斉に揺れた。
風はない。
枝に実った笛、装備、遺物、人骨が、互いへ触れ合う。
音が鳴るはずだった。
庭はその音さえ飲み込んだ。
無音のまま、すべての果実が五人の方へ向いた。
「仮説は当たりらしい」
ガッドが短剣を抜く。
「歓迎されてるな」
「さっきから、ずっとです」
プクが立ち上がった。
足はまだ震えている。
それでも、自分の音響棒を拾った。
青い笛の残骸には目を向けなかった。
「行けます」
「無理をするな」
「怖いものが一つ増えました。でも、動けます」
以前ロウから聞いた言葉だった。
ロウは一度だけうなずいた。
五人は隊列を組み直した。
今度は、枝から最も離れた道を選ぶ。
遺物へ目を向ける時間も決めた。
三秒以上見続けない。
自分に必要だと思ったら、声に出す。
ほかの四人が必要性を認めるまで触れない。
ロウ自身も例外ではない。
「あなたが、値なしの遺物を見つけた場合もです」
ティセが念を押す。
「分かってる」
「一人で拾わないと約束してください」
「見るだけだ」
「約束になっていません」
「拾う前に言う」
「必ず?」
「必ず」
ティセはようやく前を向いた。
家は近い。
白い柵と小さな庭まで見える。
窓の内側を、人影が横切った。
ティセの認識票が一度だけ揺れる。
十三回の音はしなかった。
代わりに、家の周囲にある木から声が聞こえた。
低い男の声。
泣いている女の声。
笑う子供。
どれも枝に実った遺物や装備から出ている。
「近づくほど、音が増えてます」
プクが耳を塞がずに聞いた。
「本物の声か、庭が返しているだけかは分かりません」
「自分の知ってる声があっても返事をするな」
ロウが全員へ告げる。
「返事をしたら?」
メノが尋ねた。
「相手に、誰の声が効くか教えることになる」
メノは表情を消した。
彼女はすでに、夢の中で夫と娘の声を聞いている。
白い家まで、残り百歩。
道の右側に、低い木が一本あった。
ほかの木と違い、遺物も装備も実っていない。
枝から、丸い透明な実が一つだけ垂れている。
中には、小さな赤い布が入っていた。
子供の髪を結ぶ、細いリボンだった。
メノの足が止まる。
地上へ残した娘ニアは、同じ色のリボンを毎朝つけていた。
出発の日、メノ自身が髪へ結んだ。
「見るな」
ロウが言う。
メノは動かなかった。
「違う」
自分へ言い聞かせる。
「ニアは地上にいる」
透明な実の内側で、赤いリボンがほどけた。
布の下から、小さな口が現れる。
乳歯が二本だけ生えた、幼い口だった。
唇が開く。
「お母さん」
ニアの声だった。
メノの腰へつながった縄が、強く張った。
お疲れ様でした。
第12話をお読みいただき、ありがとうございます。
第二部の舞台《値無しの庭》では、遺物や装備、人骨までもが木の実として育っています。《片濡れ靴》と《嫌虫布》は弱い性質のまま、酸の浅瀬を越えるための足場と安全圏を作りました。
プクは遺物を拾おうとしたのではなく、遺物の方に“持ち主として拾われる”ところでした。そして最後にメノを呼んだ娘の声は、庭が記憶から作った偽物なのか、それとも地上のニアと本当につながっているのか。
次回は第13話「拾ってはいけない宝」。一級遺物に見える宝の群生地で、《毒震え歯》と《遅れ鏡》だけが、その正体を拒絶します。