今回は、《値無しの庭》に現れた高級遺物の群生地を進みます。目の前の宝は本物なのか、それとも庭が見せる罠なのか。《毒震え歯》と《遅れ鏡》が、その正体を暴きます。
「お母さん」
透明な実の中で幼い口が動くたび、メノの腰につながれた縄がきしんだ。誰かが引いているのではない。メノ自身が、声の方へ進もうとしていた。
ガッドは主索を腰へ巻き、白い地面へ踵を押し込んだ。彼の後ろではプクも縄を握り、酸の浅瀬を越えた直後の手で懸命に踏ん張っている。
「メノ、止まれ」
「止まってる」
「足が三歩進んでるぞ」
「……止まってるつもりだった」
メノは自分の靴を見下ろした。白い土には、彼女が引きずるように進んだ跡が残っている。あと二歩も近づけば、透明な実へ手が届く距離だった。
実の内側では、赤いリボンが水中の藻のように揺れている。あれは出発の日、娘のニアへ結んだものと同じだった。色だけではない。端を斜めに切った形も、メノが縫い直した不格好な折り目も、そのままだった。
「お母さん、暗いよ」
娘の声が震えた。
「早く出して。いい子にしてたよ」
メノの右手が持ち上がる。ロウは彼女と実の間へ身体を入れ、左手で手首をつかんだ。
「見るな」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「私の顔の何が分かる」
「今、俺を刺してでも進もうとしてる」
言われて初めて、メノは左手の短刀に気づいた。いつ抜いたのか覚えていない。刃先はロウの腹へ向いており、あと少し押せば外套を裂く位置にあった。
指から力が抜け、短刀が地面へ落ちた。白い土がすぐに飲み込もうとするのを、ティセが靴先で押さえて拾い上げる。
「声を聞いた直後からです」
ティセはメノの瞳へ灯りを当てた。「瞳孔の反応が遅れています。プクが笛に誘われたときと同じ。あの実が、声と一緒に何かを出している可能性があります」
「毒か」
ロウが腰の袋へ手を入れ、《毒震え歯》を取り出した。小動物の牙に似た遺物は、強い毒の近くで震える。それだけの性質しかないため、毒の種類も方向も分からない。
牙は動かなかった。
「少なくとも、こいつが知ってる毒じゃない」
「安心していい言い方ではありませんね」
ティセがメノの鼻と口を布で覆う。視界を遮ろうと外套の頭巾もかぶせたが、実の声は布越しでも鮮明だった。
「お母さん。帰るまで泣かないって言ったよ」
メノの肩が跳ねた。
その言葉は、オースを発つ朝にニアが言ったものだった。玄関で泣き出した娘を抱き上げ、メノが「泣いたら帰らない」と意地悪を言った。するとニアは鼻をすすりながら、帰るまで泣かないと約束した。
ほかの四人には話していない。
「どうして知ってる」
メノの声が低くなる。
「ニアに触ったのか」
「返事をするな」
ロウが止める。
「これが記憶を読んでいるだけなら、反応するほど材料を渡す」
「もし、本当にニアだったら?」
「地上にいる娘が、四層の下に生えてる実の中へ入る方法を先に考えろ」
「アビスの遺物には、距離を越えるものもある」
「ある。だから偽物は、本物より都合がいい」
メノは唇をかんだ。医療担当としてなら、ロウの言葉が正しいと判断できる。母親としては、正しいかどうかなどどうでもよかった。
実の中の口が泣き始めた。声はニアそのものだったが、涙は流れない。口しかないのだから当然だった。
「お母さん、痛い。木がお腹に入ってくる」
透明な実の表面に、内側から小さな手形が浮かんだ。五本の指が滑り、爪の跡が増えていく。助けを求めるように何度もたたくのに、音だけは庭へ吸われて聞こえなかった。
メノの身体が再び前へ傾く。
ガッドが縄を引き、ロウが肩を押さえた。それでも彼女の目は実から離れない。
「メノ」
ティセが横へ立った。「ニアは何歳ですか」
「六歳」
「乳歯は?」
「上が一本抜けた。もう片方も揺れてる」
ティセは透明な実の中を指した。幼い口には、下の前歯が二本しか生えていない。それは六歳の子供ではなく、歯が生え始めた赤ん坊の口だった。
「声とリボンは正しくても、身体を知らない」
「ニアじゃない」
「はい」
「でも、あの言葉は知ってる」
「メノの中にある言葉だからです」
ティセは断定した。証拠はない。断定しなければ、メノを引き戻せないと思った。
メノは長く息を吐き、目を閉じた。ガッドが一歩ずつ縄を手繰ると、今度は抵抗せず後ろへ下がった。
透明な実の声が変わる。
「お母さん」
幼い声が、死んだ夫の声へ混ざった。
「置いていくのか」
次に、メノ自身の声になった。
「また家族を置いていくのか」
メノは足を止めなかった。実へ背を向けたまま、拾い上げた短刀をティセから受け取る。
「今度、私の声で話したら切る」
「今のは返事に入りますか」
プクがおそるおそる尋ねた。
「入らないことにしてくれ」
「僕が決めるんです?」
「音の担当だろ」
メノの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
五人が離れ始めると、透明な実は枝から伸びた。丸い表面が脈打ち、内側の手形が大人の大きさへ変わる。さらに進むと夫の手になり、最後にはメノ自身の指が内側をひっかいた。
誰も振り返らなかった。
声が聞こえなくなるまで歩いてから、ガッドが全員を止めた。家まではまだ七十歩ほどある。見た目の距離は近づいているはずなのに、白い柵の幅も窓の大きさも先ほどと変わっていなかった。
「あの家、逃げてないか」
「家が歩くわけないでしょう」
プクが言い、すぐに周囲の木を見た。「……ここでは、言い切れませんけど」
「俺たちが同じ場所を回っている可能性は?」
ガッドは短くなった縄の端を確かめる。酸の浅瀬で戻る分を失ったため、今ある長さでは大きな周回を測れない。
プクが地面へ音響棒を当てた。反響は戻らないが、歩いた振動なら棒へ直接伝わる。目を閉じて集中したあと、首を振った。
「分かりません。地面が柔らかすぎて、足音を全部吸っています。ただ、家の方から同じ間隔で振動があります」
「足音か?」
「たぶん。十秒に一回。軽いのが二つ、重いのが一つ」
「三人いる」
ティセが白い家を見る。
「あるいは、脚が三本です」
プクの答えに、ティセは嫌そうな顔をした。
「そういう補足はいりません」
「可能性を除外しないんでしょう?」
「あなた、立ち直るのが早いですね」
「落ち込んでると、もっと怖いものが来るので」
プクは強がって笑った。笑い方は不自然だったが、誰も指摘しなかった。
メノが一人ずつ手を差し出させ、指先を針で浅く刺した。痛覚が正常か、血の色に異常がないかを調べるためだ。最後に自分の指も刺し、全員と同じ赤い血が出ることを確かめた。
「私だけ、二回刺してないか」
「患者は検査回数が増えます」
ティセが答える。
「医療担当は私だ」
「さっきは患者でした」
「もう治った」
「私に言ったら、絶対に許さない言葉ですね」
右腕を固定されたロウがつぶやく。
「お前は黙ってろ」
メノとティセの声が重なった。
ガッドが吹き出し、プクも今度は少し自然に笑った。庭はその笑い声まで飲み込んだが、互いの顔が見える距離には残った。
メノの聴覚と判断力に大きな異常はなかった。ただし、娘の声を聞いた直後から脈が速く、手の震えも続いている。十分な休息を取るべき状態だったが、声の実の近くで休む方が危険だった。
ロウは《嫌虫布》の残りを細長く折り、メノの首元へ結んだ。
「虫はいない」
「何か寄ってきたら、布が先に動く」
「そんな性質はないだろ」
「気休めだ」
「それを本人の前で言うのか」
「効いたか」
メノは茶色い布を指でつまんだ。酸で半分近く溶け、端はぼろぼろになっている。
「少しだけ」
「なら持ってろ」
五人は声への対策を決めた。プク以外は耳へ薄い綿を詰め、その上から布を巻く。完全に音を遮断すると仲間の警告まで聞こえなくなるため、会話がかろうじて分かる厚さに留めた。音の異常を見分ける役はプク一人に絞り、彼が二度肩をたたけば全員が耳を塞ぐ。誰かの知る声が聞こえても、名前を呼ばない。返事をしない。近づかない。
「僕だけ全部聞くんですか」
綿を配り終えたプクが言った。
「音の担当だ」
四人が口をそろえる。
「便利な言葉になってません?」
「役に立ってる証拠だ」
ガッドに背をたたかれ、プクは少しだけ胸を張った。
白い家へ向かう道は、途中で二つに分かれていた。右は人骨の柵が続き、左は乳白色の花に覆われている。中央には低い木々が密集し、その奥から淡い光が漏れていた。
ロウは右の道へ短槍を入れた。人骨の柵が一斉に曲がり、槍をつかもうとする。左へ小石を投げると、乳白色の花が開き、内部から細い歯が何重にも現れた。
「中央ですね」
ティセが言う。
「選ばせてる」
ロウは光の漏れる木々を見た。「一番入りたくなる道へ」
「右と左よりは、入りたくなります」
プクが骨と歯の花を見比べる。
「では、後ろへ戻るか?」
ガッドが聞く。
「酸の池をもう一度渡れるなら」
「中央に一票です」
「決まるのが早いな」
「民主的でしょう」
「死に方を多数決で決めるな」
ガッドはそう言いながら、主索を全員の腰へつなぎ直した。
中央の木々へ入る前に、ロウが袋から小さな遺物を出した。茶色く変色した歯と、掌ほどの四角い鏡だった。
「《毒震え歯》と《遅れ鏡》」
ティセが確認する。
「遅れ鏡は、映した場所の五秒前を薄く映すだけでしたね」
「走ってるときに見ると、だいたい壁へぶつかる」
「使い方の問題です」
「鑑定した奴も三回ぶつかった」
「記録にありません」
「恥ずかしかったんだろ」
プクが笑いかけたが、光が急に強くなり、全員の視線が木々の奥へ向いた。
そこには広い空地があった。
白い土の上に、十二個の遺物が並んでいる。木の枝から実っているのではなく、誰かが展示したように等間隔で置かれていた。
最初に目へ入ったのは、水晶で作られた小さな泉だった。器の中央から澄んだ水が絶えず湧き、縁を越える前に光となって戻っていく。その隣には、縫い針ほどの銀色の棒が浮かび、折れた草の茎へ近づくと断面を元どおりにつないだ。
ほかにも、内部へ夜空を閉じ込めた箱、持ち手の周囲だけ空間が歪む刃、白い羽根が回り続ける輪、文字を持たない黒い本がある。どれも保存状態がよく、肉の茎も血管も見えなかった。
「全部、遺物です」
ティセの声が変わった。
恐怖ではない。鑑定士が、未知の価値を前にした声だった。
「泉状のものは、液体の生成と循環を同時に行っています。供給が止まらないなら一級相当。銀の棒は、生体ではなく植物ですが、完全に断面を修復した。人間にも使えるなら特級に届く可能性があります」
「一つずつ、三秒までです」
プクが注意する。
「見ています。だから話しかけないで」
「もう六秒です」
ティセは慌てて目をそらした。
「鑑定は数えなくていいでしょう」
「数えます。僕、音の担当なので」
「今は時間の担当になっています」
「役に立ってますね」
少し得意そうに言われ、ティセは反論を飲み込んだ。
ガッドは白い羽根の輪を見ていた。彼には輪の内側に、オースの空が映っている。家の屋根で息子のトマが手を振り、その足元まで一本の縄が続いていた。
「あれがあれば、地上へ帰れる」
「何が見える?」
ロウが尋ねる。
「帰路を固定する環だ。縄を通せば、距離に関係なく反対側へ出られる」
ティセが白い輪を見る。
「私には、力場を固定する遺物に見えます。周囲の上昇負荷を抑える性質かもしれない」
「同じものを見てない?」
プクが二人の顔を見比べた。
メノは銀の棒から目を離せずにいた。
「私には針だ。死んだ細胞を生きた状態へ戻している」
「それは私にも同じように見えます」
ティセが答えると、メノは首を振った。
「違う。お前には草をつないでるように見えるんだろ。私には人の胸へ刺さってる」
「誰の?」
メノは答えなかった。銀の針の下には、彼女にだけ夫の身体が横たわっていた。
プクが見ているのは黒い本だった。開かれていないのにページの内容が頭へ入り、庭全体の地図が立体的に浮かぶ。白い家の間取り、消えた入口、還り杭の位置まで一本の線でつながっていた。
「僕には地図が見えます」
「本じゃないのか」
ガッドが聞く。
「本です。でも、読むと地図が分かる。出口もあります」
「どこだ」
「あの本のところまで行けば」
プクが一歩出る。
腰の縄が張る前に、自分で止まった。
「……危なかった」
「今のは自分で止まったな」
ガッドが言う。
「はい」
「なら一つ進歩だ」
プクはうなずき、黒い本から視線を外した。それでも、地図の残像は頭の中から消えなかった。
十二個の遺物は、どれも一級以上の力を示している。探窟家が一生をかけても一つ見つけられるかどうかという宝が、手を伸ばせる場所へ並んでいた。
高価だから危険なのではない。価値を理解できてしまうことが危険だった。
「ロウ」
ティセが声を落とす。「あなたには、何が見えていますか」
ロウは空地を見たまま、すぐには答えなかった。
「白い土」
「遺物は?」
「ない」
「一つも?」
「お前たちが何を見てるのかも分からない」
四人は同時にロウを見た。
「嘘でしょう」
プクが言う。
「あんなに光ってるのに」
「光もない」
ロウから見える空地には、十二個の浅いくぼみがあるだけだった。くぼみの中央から透明な細い毛が生え、霧の中へ揺れている。毛の先端は四人の方へ向き、呼吸に合わせて伸び縮みしていた。
「代わりに、何かいる」
ロウが《毒震え歯》を空地へ向けた。
牙が激しく震え始めた。
指で押さえても止まらない。硬い歯が爪へ当たり、細かな音を立てる。
「これほど強い反応は初めてです」
ティセは口元を布で覆った。「全員、呼吸を浅く。空地から風下へ出ます」
「待て」
メノが銀の針を見たまま言う。「毒震え歯は、何に反応してる。遺物そのものとは限らないだろ」
「確かめるまで近づきません」
「あれは死者を戻せるかもしれない」
「だから、近づきません」
「お前の兄を見つけても同じことが言えるか?」
ティセの表情が固まった。
メノはすぐに後悔したが、謝る前に白い空地から風が吹いた。
甘い匂いがした。
十二個の遺物が一斉に光を強める。透明な毛の先から、肉眼では見えないほど細かな粉が噴き出していた。
《毒震え歯》が、ロウの指の中で割れそうなほど震えた。
「下がれ!」
ロウが主索を左手でつかみ、四人をまとめて引いた。ティセとプクはすぐに動いたが、ガッドは白い輪へ、メノは銀の針へ身体を向けたまま踏ん張っている。
空地から流れてくる甘い匂いが濃くなるにつれ、二人に見えている景色も鮮明になっていた。
ガッドの目には、輪の向こう側から息子が伸ばした手まで見えている。成長して少し大きくなったはずのトマではなく、三年前、初めて縄の結び方を教えた日の小さな手だった。
メノの前では、銀の針が夫の胸へ沈んだ。青白かった頬へ血の色が戻り、閉じていた瞼が開く。夢の中でさえ聞けなかった声で、夫が彼女の名を呼んだ。
「目を閉じろ!」
プクが二人の肩を続けてたたく。決めていた合図だった。
ガッドは歯を食いしばって目を閉じた。メノは動かない。夫の姿を消すことができず、銀の針へ一歩踏み出した。
ティセが横から頬を打った。
乾いた音だけは庭に吸われず、近くに残った。
「先ほどの仕返しか」
メノがようやくティセを見る。
「治療です」
「医療担当は私だ」
「今のあなたは患者です」
同じやり取りを返され、メノは一瞬だけ呆れた。その隙にロウとガッドが縄を引き、五人は空地から二十歩ほど離れた木の陰へ退いた。
白い木の幹は安全とは限らないため、触れずにしゃがむ。ティセは水で濡らした布と細かな炭を重ね、簡単な濾過布を全員へ配った。甘い匂いが完全に消えるわけではないが、直接吸い込む量は減らせる。
「体調を順番に言ってください。私は軽い頭痛、口の中に甘味。視界の端へ青い光が残っています」
「俺は異常なし」
ロウが答える。
「本当に?」
「甘い匂いもしない」
「鼻が悪いのでは」
「お前の薬の匂いはする」
「では、私の薬が臭いと言いたいんですか」
「今はその話をする時です?」
プクが割って入った。彼は頭痛と喉の乾き、黒い本の内容がまだ頭の中に残っていることを申告した。
ガッドは息子の姿が目を閉じても消えず、右手の感覚が鈍い。メノは脈が速く、指先が冷え、死んだ夫の声が耳の奥で続いていた。
ティセが二人へ解毒薬を使おうとすると、ロウが止めた。
「毒の種類が分からない」
「だから広域用を使います」
「効かなければ、必要な薬まで減る」
「症状が進んでからでは遅い」
「五分待つ。空地を離れて弱くなるなら、吸わなければ抜ける」
メノが自分の脈を測り、ロウの判断にうなずいた。「今は呼吸も意識も保ててる。痙攣が出たら使え」
「分かりました。ただし五分です」
ティセは砂時計を返した。
細い砂が落ちる間、ロウは《遅れ鏡》を布で磨いた。鏡面は曇っており、正面に置いても現在の顔は映らない。五秒が経つと、先ほどそこにあった顔が薄く浮かぶ。
プクが鏡の前で右手を上げた。鏡の中の彼は両手を下ろしたまま立っている。五秒後、鏡像だけが遅れて右手を上げた。
「何度見ても、気持ち悪いですね」
「お前の顔のことか」
ガッドが言う。
「そこは遺物のことだと分かるでしょう!」
言い返す声に少し力が戻っていた。
ロウは鏡を木の陰から出し、空地へ向けた。鏡面へ映るのは五秒前の白い土と、そこに並ぶ十二個の浅いくぼみだけだった。
水晶の泉も、銀の針も、白い輪も黒い本もない。
代わりに、くぼみの内部から透明な毛が束になって生えている。一本一本の先に小さな穴が開き、そこから霧のような粉を吐き出していた。くぼみの縁には肉色の返しが並び、底の暗闇で大きな舌が動いている。
「何が映っています」
ティセが尋ねた。
「お前たちが見ている宝はない。穴と毛だけだ」
ロウは鏡を渡した。
ティセが空地を直接見ると、十二個の遺物が変わらず光っている。鏡へ目を落とすと、五秒前にも存在したはずの遺物だけが消え、捕食器官らしき形が現れる。
「遅れ鏡が故障している可能性は?」
「さっきプクの手を映した」
「特定の光だけを記録できない可能性もあります」
「なら試す」
ロウは食料袋から、雨裂きの肉片を一つ取り出した。酸の池を渡るために失った分を補った、貴重な食料だった。
「ちょっと待ってください。それ、僕の夕食では?」
「まだ誰の分とも決めてない」
「一番小さい人へ多く配ると言ってました」
「お前は五人の中で二番目に大きい」
プクはメノを見る。メノは背が低いが、目をそらした。
「医療担当は消耗が激しい」
「ずるいですよ!」
「生きて帰ったら、好きなだけ食わせてやる」
ガッドが慰める。
「ガッドさん、料理できるんですか」
「干し肉を切るくらいならな」
「それは料理じゃありません」
ロウは話している間に肉片を投げた。空地の手前へ落ちるはずだった肉が、見えない何かへ当たり、宙で止まる。
四人の目には、水晶の泉から伸びた水が肉片を包んだように見えた。汚れを洗い、色つやを戻し、より美味しそうな肉へ変えていく。
五秒後、遅れ鏡には別のものが映った。
透明な毛が肉へ絡みつき、穴の中へ引きずり込んでいる。縁の返しが何度も閉じ、肉を細かく裂く。白い土の下へ赤いものが流れ、くぼみの内側が満足そうに収縮した。
現在の空地では、水晶の泉が何事もなかったように光っている。
「食われましたね。僕の夕食」
プクが言った。
「まだ言うのか」
「危険性と悲しみは両立します」
ティセは返事をせず、自分の鑑定帳を開いた。先ほど書いた数値を確認しようとして、指が止まる。
泉の水量、一分あたりの光量、銀の針が草を修復した時間。記録したつもりだった項目は、すべて空白だった。
ページには乱れた線が重なり、人の口のような形を描いている。紙へ押しつけた筆圧が強すぎて、次の二枚まで傷がついていた。
「私は、何を見ていたんでしょう」
「欲しいものだろ」
ロウが答える。
「鑑定器も反応していました」
ティセは器具を確かめる。熱を測る針は動いた形跡がなく、光の強さを記録する感光紙も白いままだった。彼女は数値を測ったのではない。測ったと信じ込まされていた。
「粉が頭へ入って、見えるものと考えることを合わせている」
メノが空地から流れる風を読む。「だから私たちには別のものが見えた。欲しがらせるだけじゃない。手を伸ばす理由まで作る」
「一級相当だという鑑定も、あれが私へ考えさせた?」
「鑑定士ほど、値段のない餌には食いつかないからな」
「……ずいぶん賢いですね」
「今まで何人も食ったんだろ」
ガッドが人骨の柵を振り返る。それらが元は探窟家だったなら、庭は長い時間をかけて、探窟家が何を欲しがるかを学んできたことになる。
砂時計の最後の粒が落ちた。空地から距離を取ったことで、ガッドの手のしびれとメノの頻脈は少しずつ弱まっていた。解毒薬は使わずに済んだが、目を閉じると欲しかったものがまだ浮かぶ。
「粉を吸わなくても、見続ければ影響を受けます」
ティセは鑑定帳の空白を破り捨てず、そのまま残した。「濾過布を外さない。空地は鏡越しに確認する。直接見た場合は三秒ではなく一秒で目をそらす。異常を感じたら、内容を隠さず全員へ話してください」
「欲しいものまで言うのか」
ガッドが少し嫌そうに聞く。
「隠すほど、庭だけが知ることになります」
「息子のところへ帰れる輪だ」
ガッドは先に言った。恥じるような内容ではない。それでも、自分の一番弱いところを道具として並べられた感覚が残っている。
「私は夫を生き返らせる針」
メノが続ける。
「僕は庭と出口が全部分かる本です」
プクは言い終えてからティセを見る。
「私は――」
ティセの視線が空地へ戻りかけた。「行方の分からない人間を映す泉でした。名前を入れれば、生きている場所を示す」
「兄さんを探すため?」
「ほかに誰がいるんです」
「でも、ティセさんは泉が水を出すと言ってました」
「最初はそう見えました。途中から性質が変わったことにも気づかなかった」
餌は最初から完成していたのではない。視線、呼吸、心拍、反応を読みながら、相手がより欲しがる形へ変わっている。
四人の告白が終わると、自然にロウへ視線が集まった。
「何だ」
「あなたの欲しいものです」
ティセが言う。
「何も見えなかった」
「見えなくても、欲しいものくらいあるでしょう」
「ある」
「では、何です」
ロウは首元へ触れた。そこには、歯の扉へ渡した最初の遺物をつないでいた、切れたひもが残っている。
「取り返せないものだ」
「あのボタン?」
プクが聞く。
「それだけじゃない」
「庭が、それを見せなかった理由は何でしょう」
ティセの問いに、ロウは空地の十二個のくぼみを見た。
「あれは、価値があるように見えるものしか作れない」
「価値のある物を欲しがらない人間なんていません」
「俺が拾いたいのは、誰かが捨てたあとだ」
「だから一級遺物を見せても効かない?」
「一級なら、俺が拾わなくても誰かが持っていく」
プクが真剣な顔で考えた。
「ロウさん、探窟家としてかなり壊れてません?」
「知ってる」
「自覚はあるんですね」
「直す気がないだけだ」
「それは自覚がない人より困ります」
ティセがため息をついた。空地の餌が効かなかったことは幸運だが、その理由を健全だとは思えない。
「でも、今回は役に立ちました」
「褒めてるのか」
「事実を記録しただけです」
「監視役だから?」
「そうです」
耳を塞ぐ布越しでも、二人のやり取りは全員へ聞こえた。ガッドが何か言おうとしたが、ティセに睨まれて口を閉じる。
白い家へ進むには、宝の空地を越える必要があった。右と左の道は庭の捕食器官へ塞がれ、背後では酸の浅瀬が退路を断っている。
ロウは遅れ鏡を地面へ向け、くぼみの位置を一つずつ確認した。五秒前の景色しか見えないため、現在の動きとずれる危険がある。プクが一定の間隔で石を投げ、鏡の中で石が消える位置から、捕食器官が動いた距離を測った。
「穴そのものが移動してます」
プクが記録を見比べる。「一度に指一本ぶん。僕たちが右へ動くと、向こうも右へ寄る」
「通り道を塞ぐつもりだ」
ガッドは残った縄へ、一歩ごとに結び目を作った。「俺が先頭へ行く。足場を探る」
「餌が見えるなら俺が先だ」
ロウが止める。
「片腕でか?」
「両腕があっても、息子が見える奴よりは安全だ」
ガッドは不満そうだったが、否定はできなかった。
隊列はロウ、プク、ティセ、メノ、ガッドの順に変えた。ロウだけが空地の餌を見ない。プクは遅れ鏡を持ち、五秒前の捕食器官を伝える。ガッドは最後尾で縄を管理し、誰かが餌へ向かえば全員を止める。
「遅れ鏡は僕が持つんですね」
「音の担当だからな」
「関係あります?」
「今日から鏡も担当だ」
「仕事が増えてますよ」
「役に立ってる証拠だ」
ガッドに同じ言葉を返され、プクは諦めて鏡を抱えた。
ロウが空地へ入る。
四人の目には、一級遺物が一斉に輝いて見えた。濾過布を通しても、完全には防げない。ガッドの輪には息子が近づき、メノの針の下では夫が起き上がり、プクの本は出口の頁を開いた。ティセの泉には、暗い場所で横たわるケルムが映っている。
ロウに見えるのは、白い地面と透明な毛だけだった。
「右に二つ、五秒前です」
プクが鏡を見ながら伝える。
「今は」
「分かりません。石を投げます」
「投げるな。音で位置を読む」
「反響は消えます」
「穴へ落ちる音だけ分かればいい」
プクは音響棒の先で、小さな金属球を転がした。球が白い土の上を進む音はすぐに薄くなる。途中で一度だけ、柔らかいものへ落ちる音がした。
「右前、二歩」
ロウは左へ避けた。
五秒後、鏡の中で穴が閉じる。遅れた情報と現在の音を重ね、少しずつ安全な場所を選んでいく。
捕食器官は、自分たちが見破られたことへ気づき始めた。
水晶の泉が消え、ティセの目にはケルムの認識票が現れた。血に濡れ、白い土の上へ落ちている。
黒い本はプクの笛へ変わった。今使っている蒼笛ではなく、経験を積んだ探窟家だけが持てる黒笛だった。表面にはプク自身の名が刻まれている。
ガッドの輪の向こうで、息子が笑顔を消した。
「父さん、帰るって言っただろ」
綿を詰めた耳にも、声がはっきり届く。
「俺はそんな言い方を教えてない」
ガッドは自分へ言い聞かせ、縄を強く握った。
メノの夫は、娘のニアを腕へ抱いている。
「二人とも偽物だ」
彼女は声に出した。「夫は死んだ。娘は地上。ここにはいない」
偽物のニアが泣き始める。
メノは目を閉じず、泣く姿を見たまま進んだ。
「左前、穴が寄ってきます!」
プクが叫ぶ。
ロウは透明な毛の動きを見て、短槍の柄を土へ突き立てた。穴の縁が閉じ、槍を飲み込もうとする。
彼はすぐに手を離した。短槍が白い地面へ半分まで沈み、返しに挟まれる。
「槍が!」
「そのままでいい」
ロウは腰の《大食らいの鞘》だけを外した。鞘へ収めた武器の長さを縮めて携行する一級遺物だが、槍を飲まれた状態では役に立たない。
「武器を置いていくんですか」
ティセが聞く。
「今は人を数える方が先だ」
ロウは左手で縄を取り、後ろの四人を引いた。空地の中央まで、残り十歩だった。
地面の穴は移動を速めている。五秒前しか映さない鏡では、現在位置との差が大きくなり始めた。
「前に三つ……いえ、五つ。左右から寄っています!」
「後ろも来た」
ガッドが縄を引く。退路側の白い土が盛り上がり、十二個のくぼみが五人を囲む輪を作ろうとしていた。
「走りますか」
ティセが問う。
「走ったら粉を吸う」
メノが答える。
「囲まれても吸います」
プクの言葉どおり、透明な毛が一斉に膨らみ始めた。次に粉を放たれれば、濾過布では防ぎきれない。
ロウは周囲を見た。十二の穴。四人に見えている十二の宝。すべてが別々のものへ姿を変えながら、ゆっくり近づいている。
彼の目にだけ、宝はない。
だから、穴同士の間に残った一番狭い隙間が見えた。
「全員、目を閉じろ。縄だけ持て」
「鏡もですか」
「もう遅すぎる」
プクは遅れ鏡を胸へ抱き、目を閉じた。
ティセ、メノ、ガッドも続く。欲しいものが消える瞬間、身体の一部を引きはがされるような痛みがあった。
「走るぞ」
ロウは左手へ縄を巻き、四人を引いて踏み出した。
一つ目の穴を右へ避ける。透明な毛が頬をかすめた。
二つ目と三つ目の間へ身体を入れる。右腕が縁へ触れそうになり、固定した添え木を肉色の返しが削った。
ガッドは目を閉じたまま、前のメノの背負い袋を押した。メノはティセの肩を、ティセはプクの腰帯をつかむ。五人は一本の縄と一つの身体になって、ロウが選ぶ道を走った。
「左へ!」
ロウの声に合わせて全員が跳ぶ。
白い地面が口を開き、ガッドの踵をかすめた。靴底の革が一枚はがれ、暗い穴へ消える。
透明な毛が粉を噴いた。
甘い匂いが濾過布を越えて入る。
閉じた瞼の裏に、それぞれの宝が浮かぶ。手を伸ばせば届く。今なら間に合う。そんな考えが、自分の意思のように湧いてくる。
「名前を言え!」
ガッドが後ろから叫んだ。
「プク・ナナイ!」
「ティセ・カルナ!」
「メノ・アサル!」
「ガッド・ボルグ!」
最後にロウが名乗る。
「ロウ・エルガ。五人いる」
数を聞き、全員が縄を握り直した。
前方の穴が閉じるより早く、ロウが白い土を蹴る。続く四人が同じ場所を踏み、輪の外へ飛び出した。
背後で十二個の穴が一斉に閉じた。
大きな顎が空をかむ音がした。今度は庭にも飲み込めないほど重い音だった。
五人は白い地面を転がり、木の根元まで逃げた。ロウはすぐに人数を数え、負傷を確認する。
ガッドの靴底が削れ、ティセの外套に透明な粉が付着していた。メノが水で洗い流し、汚染した布を《空閉じ蓋》を使って空瓶へ封じる。蓋は中身のない容器しか閉じられないはずだったが、粉が物質として認識されないのか、瓶の口は完全に密閉された。
「また変な使い方を」
ティセが瓶を見る。
「閉じたなら、空ってことだ」
「中に粉が見えます」
「遺物の判断へ文句を言うな」
「あなたが言いますか」
ロウは答えず、遅れ鏡を確認した。プクが胸へ抱えていたため、割れてはいない。鏡面には五秒前、全員が地面を転がる姿が薄く映っていた。
「格好悪いですね」
プクが自分の転び方を見る。
「生き残った姿だ」
ガッドは削れた靴底へ布を当てた。「帰ったら額へ入れて飾れ」
「嫌ですよ。もっと格好いい記念がほしいです」
「黒笛とか?」
メノに言われ、プクは顔をしかめた。
「今は笛の色の話をしないでください」
欲望を口にして笑える程度には、全員の意識が戻っていた。
しかし、空地の捕食器官は諦めていなかった。
十二個のくぼみが白い土の下でつながり、脈打っている。離れた場所からでも振動が伝わり、周囲の木々の枝へ広がっていく。
果実として実っていた遺物が次々に目を開いた。人骨の指が曲がり、装備の金具が歯のように鳴る。庭のあらゆるものが、空地で逃した獲物の位置を確かめていた。
「先へ行く」
ロウは短槍を失った《大食らいの鞘》を腰へ戻した。
「武器を取り返さなくていいんですか」
プクが聞く。
「庭が捨てたら拾う」
「そこは徹底してるんですね」
「戻れば、今度は俺たちが捨てられる」
五人は家へ向き直った。
白い柵まで、今度こそ距離が縮んでいた。空地を越えたことで庭に認められたのか、それとも、より大きな口へ近づいただけなのかは分からない。
柵の内側には小さな畑があり、白い葉をつけた野菜が整然と並んでいる。井戸から湯気が上がり、軒下には五人分の濡れた外套が干されていた。
家は、彼らが到着することを知っていた。
「窓に誰かいます」
プクが指す。
橙色の灯りの向こうで、人影が一つ動いた。
ティセの胸元で、ケルムの認識票が揺れる。
一回。
二回。
十三回の打音と、長く擦る音。
第四層へ残された標識のそばで聞いたものと同じだった。
「兄さん」
ティセが名前を口にする。
「返事をするな」
ロウが腕を伸ばした。
家の扉が開く。
中から現れたのは、探窟家の外套をまとった男だった。左肩を少し下げて立ち、長い前髪を指で払う。頬は三年前より痩せていたが、ティセが毎日思い出してきた兄の顔だった。
「ティセ」
ケルムが妹の名を呼んだ。
コエカリがまねた声とは違う。息を吸う癖も、語尾をわずかに下げる話し方も、記憶のままだった。
ティセの目に涙が浮かぶ。
「本物か、確かめます」
そう言いながら、一歩進んだ。
「止まれ」
「遅れ鏡を使います。毒震え歯も。近づくとは言っていません」
彼女はプクから鏡を受け取り、ケルムへ向けた。
五秒前の白い柵と、開きかけた家の扉が映る。
そこに男の姿はなかった。
「映ってない」
プクが息をのむ。
現在の庭では、ケルムが優しく笑っている。
「ティセ。鏡なんか信じるな」
兄は右手を差し出した。
「遅かったな、豆鑑定士」
幼いころ、薬草の名を一つ間違えるたびに呼ばれたあだ名だった。ティセとケルムしか知らない。
遅れ鏡には、誰もいない。
《毒震え歯》は、再び震え始めた。
それでもティセには、兄が見えた。
差し出された手へ向かって、彼女だけがもう一歩踏み出した。
第13話をお読みいただき、ありがとうございます。
《毒震え歯》と《遅れ鏡》により、宝の正体が探窟家の欲望を利用する捕食器官だと判明しました。高級遺物を求めないロウだけには何も見えませんでしたが、ティセの前にはケルムの姿が現れます。
次回は第14話「大食らいの鞘」。ティセを狙う擬態獣を相手に、ロウが一級遺物と二つの弱い遺物を組み合わせて戦います。