値なきものの墓標   作:まねきまねき

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第13話です。

今回は、《値無しの庭》に現れた高級遺物の群生地を進みます。目の前の宝は本物なのか、それとも庭が見せる罠なのか。《毒震え歯》と《遅れ鏡》が、その正体を暴きます。


拾ってはいけない宝

「お母さん」

 

 透明な実の中で幼い口が動くたび、メノの腰につながれた縄がきしんだ。誰かが引いているのではない。メノ自身が、声の方へ進もうとしていた。

 

 ガッドは主索を腰へ巻き、白い地面へ踵を押し込んだ。彼の後ろではプクも縄を握り、酸の浅瀬を越えた直後の手で懸命に踏ん張っている。

 

「メノ、止まれ」

 

「止まってる」

 

「足が三歩進んでるぞ」

 

「……止まってるつもりだった」

 

 メノは自分の靴を見下ろした。白い土には、彼女が引きずるように進んだ跡が残っている。あと二歩も近づけば、透明な実へ手が届く距離だった。

 

 実の内側では、赤いリボンが水中の藻のように揺れている。あれは出発の日、娘のニアへ結んだものと同じだった。色だけではない。端を斜めに切った形も、メノが縫い直した不格好な折り目も、そのままだった。

 

「お母さん、暗いよ」

 

 娘の声が震えた。

 

「早く出して。いい子にしてたよ」

 

 メノの右手が持ち上がる。ロウは彼女と実の間へ身体を入れ、左手で手首をつかんだ。

 

「見るな」

 

「分かってる」

 

「分かってない顔だ」

 

「私の顔の何が分かる」

 

「今、俺を刺してでも進もうとしてる」

 

 言われて初めて、メノは左手の短刀に気づいた。いつ抜いたのか覚えていない。刃先はロウの腹へ向いており、あと少し押せば外套を裂く位置にあった。

 

 指から力が抜け、短刀が地面へ落ちた。白い土がすぐに飲み込もうとするのを、ティセが靴先で押さえて拾い上げる。

 

「声を聞いた直後からです」

 

 ティセはメノの瞳へ灯りを当てた。「瞳孔の反応が遅れています。プクが笛に誘われたときと同じ。あの実が、声と一緒に何かを出している可能性があります」

 

「毒か」

 

 ロウが腰の袋へ手を入れ、《毒震え歯》を取り出した。小動物の牙に似た遺物は、強い毒の近くで震える。それだけの性質しかないため、毒の種類も方向も分からない。

 

 牙は動かなかった。

 

「少なくとも、こいつが知ってる毒じゃない」

 

「安心していい言い方ではありませんね」

 

 ティセがメノの鼻と口を布で覆う。視界を遮ろうと外套の頭巾もかぶせたが、実の声は布越しでも鮮明だった。

 

「お母さん。帰るまで泣かないって言ったよ」

 

 メノの肩が跳ねた。

 

 その言葉は、オースを発つ朝にニアが言ったものだった。玄関で泣き出した娘を抱き上げ、メノが「泣いたら帰らない」と意地悪を言った。するとニアは鼻をすすりながら、帰るまで泣かないと約束した。

 

 ほかの四人には話していない。

 

「どうして知ってる」

 

 メノの声が低くなる。

 

「ニアに触ったのか」

 

「返事をするな」

 

 ロウが止める。

 

「これが記憶を読んでいるだけなら、反応するほど材料を渡す」

 

「もし、本当にニアだったら?」

 

「地上にいる娘が、四層の下に生えてる実の中へ入る方法を先に考えろ」

 

「アビスの遺物には、距離を越えるものもある」

 

「ある。だから偽物は、本物より都合がいい」

 

 メノは唇をかんだ。医療担当としてなら、ロウの言葉が正しいと判断できる。母親としては、正しいかどうかなどどうでもよかった。

 

 実の中の口が泣き始めた。声はニアそのものだったが、涙は流れない。口しかないのだから当然だった。

 

「お母さん、痛い。木がお腹に入ってくる」

 

 透明な実の表面に、内側から小さな手形が浮かんだ。五本の指が滑り、爪の跡が増えていく。助けを求めるように何度もたたくのに、音だけは庭へ吸われて聞こえなかった。

 

 メノの身体が再び前へ傾く。

 

 ガッドが縄を引き、ロウが肩を押さえた。それでも彼女の目は実から離れない。

 

「メノ」

 

 ティセが横へ立った。「ニアは何歳ですか」

 

「六歳」

 

「乳歯は?」

 

「上が一本抜けた。もう片方も揺れてる」

 

 ティセは透明な実の中を指した。幼い口には、下の前歯が二本しか生えていない。それは六歳の子供ではなく、歯が生え始めた赤ん坊の口だった。

 

「声とリボンは正しくても、身体を知らない」

 

「ニアじゃない」

 

「はい」

 

「でも、あの言葉は知ってる」

 

「メノの中にある言葉だからです」

 

 ティセは断定した。証拠はない。断定しなければ、メノを引き戻せないと思った。

 

 メノは長く息を吐き、目を閉じた。ガッドが一歩ずつ縄を手繰ると、今度は抵抗せず後ろへ下がった。

 

 透明な実の声が変わる。

 

「お母さん」

 

 幼い声が、死んだ夫の声へ混ざった。

 

「置いていくのか」

 

 次に、メノ自身の声になった。

 

「また家族を置いていくのか」

 

 メノは足を止めなかった。実へ背を向けたまま、拾い上げた短刀をティセから受け取る。

 

「今度、私の声で話したら切る」

 

「今のは返事に入りますか」

 

 プクがおそるおそる尋ねた。

 

「入らないことにしてくれ」

 

「僕が決めるんです?」

 

「音の担当だろ」

 

 メノの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 五人が離れ始めると、透明な実は枝から伸びた。丸い表面が脈打ち、内側の手形が大人の大きさへ変わる。さらに進むと夫の手になり、最後にはメノ自身の指が内側をひっかいた。

 

 誰も振り返らなかった。

 

 声が聞こえなくなるまで歩いてから、ガッドが全員を止めた。家まではまだ七十歩ほどある。見た目の距離は近づいているはずなのに、白い柵の幅も窓の大きさも先ほどと変わっていなかった。

 

「あの家、逃げてないか」

 

「家が歩くわけないでしょう」

 

 プクが言い、すぐに周囲の木を見た。「……ここでは、言い切れませんけど」

 

「俺たちが同じ場所を回っている可能性は?」

 

 ガッドは短くなった縄の端を確かめる。酸の浅瀬で戻る分を失ったため、今ある長さでは大きな周回を測れない。

 

 プクが地面へ音響棒を当てた。反響は戻らないが、歩いた振動なら棒へ直接伝わる。目を閉じて集中したあと、首を振った。

 

「分かりません。地面が柔らかすぎて、足音を全部吸っています。ただ、家の方から同じ間隔で振動があります」

 

「足音か?」

 

「たぶん。十秒に一回。軽いのが二つ、重いのが一つ」

 

「三人いる」

 

 ティセが白い家を見る。

 

「あるいは、脚が三本です」

 

 プクの答えに、ティセは嫌そうな顔をした。

 

「そういう補足はいりません」

 

「可能性を除外しないんでしょう?」

 

「あなた、立ち直るのが早いですね」

 

「落ち込んでると、もっと怖いものが来るので」

 

 プクは強がって笑った。笑い方は不自然だったが、誰も指摘しなかった。

 

 メノが一人ずつ手を差し出させ、指先を針で浅く刺した。痛覚が正常か、血の色に異常がないかを調べるためだ。最後に自分の指も刺し、全員と同じ赤い血が出ることを確かめた。

 

「私だけ、二回刺してないか」

 

「患者は検査回数が増えます」

 

 ティセが答える。

 

「医療担当は私だ」

 

「さっきは患者でした」

 

「もう治った」

 

「私に言ったら、絶対に許さない言葉ですね」

 

 右腕を固定されたロウがつぶやく。

 

「お前は黙ってろ」

 

 メノとティセの声が重なった。

 

 ガッドが吹き出し、プクも今度は少し自然に笑った。庭はその笑い声まで飲み込んだが、互いの顔が見える距離には残った。

 

 メノの聴覚と判断力に大きな異常はなかった。ただし、娘の声を聞いた直後から脈が速く、手の震えも続いている。十分な休息を取るべき状態だったが、声の実の近くで休む方が危険だった。

 

 ロウは《嫌虫布》の残りを細長く折り、メノの首元へ結んだ。

 

「虫はいない」

 

「何か寄ってきたら、布が先に動く」

 

「そんな性質はないだろ」

 

「気休めだ」

 

「それを本人の前で言うのか」

 

「効いたか」

 

 メノは茶色い布を指でつまんだ。酸で半分近く溶け、端はぼろぼろになっている。

 

「少しだけ」

 

「なら持ってろ」

 

 五人は声への対策を決めた。プク以外は耳へ薄い綿を詰め、その上から布を巻く。完全に音を遮断すると仲間の警告まで聞こえなくなるため、会話がかろうじて分かる厚さに留めた。音の異常を見分ける役はプク一人に絞り、彼が二度肩をたたけば全員が耳を塞ぐ。誰かの知る声が聞こえても、名前を呼ばない。返事をしない。近づかない。

 

「僕だけ全部聞くんですか」

 

 綿を配り終えたプクが言った。

 

「音の担当だ」

 

 四人が口をそろえる。

 

「便利な言葉になってません?」

 

「役に立ってる証拠だ」

 

 ガッドに背をたたかれ、プクは少しだけ胸を張った。

 

 白い家へ向かう道は、途中で二つに分かれていた。右は人骨の柵が続き、左は乳白色の花に覆われている。中央には低い木々が密集し、その奥から淡い光が漏れていた。

 

 ロウは右の道へ短槍を入れた。人骨の柵が一斉に曲がり、槍をつかもうとする。左へ小石を投げると、乳白色の花が開き、内部から細い歯が何重にも現れた。

 

「中央ですね」

 

 ティセが言う。

 

「選ばせてる」

 

 ロウは光の漏れる木々を見た。「一番入りたくなる道へ」

 

「右と左よりは、入りたくなります」

 

 プクが骨と歯の花を見比べる。

 

「では、後ろへ戻るか?」

 

 ガッドが聞く。

 

「酸の池をもう一度渡れるなら」

 

「中央に一票です」

 

「決まるのが早いな」

 

「民主的でしょう」

 

「死に方を多数決で決めるな」

 

 ガッドはそう言いながら、主索を全員の腰へつなぎ直した。

 

 中央の木々へ入る前に、ロウが袋から小さな遺物を出した。茶色く変色した歯と、掌ほどの四角い鏡だった。

 

「《毒震え歯》と《遅れ鏡》」

 

 ティセが確認する。

 

「遅れ鏡は、映した場所の五秒前を薄く映すだけでしたね」

 

「走ってるときに見ると、だいたい壁へぶつかる」

 

「使い方の問題です」

 

「鑑定した奴も三回ぶつかった」

 

「記録にありません」

 

「恥ずかしかったんだろ」

 

 プクが笑いかけたが、光が急に強くなり、全員の視線が木々の奥へ向いた。

 

 そこには広い空地があった。

 

 白い土の上に、十二個の遺物が並んでいる。木の枝から実っているのではなく、誰かが展示したように等間隔で置かれていた。

 

 最初に目へ入ったのは、水晶で作られた小さな泉だった。器の中央から澄んだ水が絶えず湧き、縁を越える前に光となって戻っていく。その隣には、縫い針ほどの銀色の棒が浮かび、折れた草の茎へ近づくと断面を元どおりにつないだ。

 

 ほかにも、内部へ夜空を閉じ込めた箱、持ち手の周囲だけ空間が歪む刃、白い羽根が回り続ける輪、文字を持たない黒い本がある。どれも保存状態がよく、肉の茎も血管も見えなかった。

 

「全部、遺物です」

 

 ティセの声が変わった。

 

 恐怖ではない。鑑定士が、未知の価値を前にした声だった。

 

「泉状のものは、液体の生成と循環を同時に行っています。供給が止まらないなら一級相当。銀の棒は、生体ではなく植物ですが、完全に断面を修復した。人間にも使えるなら特級に届く可能性があります」

 

「一つずつ、三秒までです」

 

 プクが注意する。

 

「見ています。だから話しかけないで」

 

「もう六秒です」

 

 ティセは慌てて目をそらした。

 

「鑑定は数えなくていいでしょう」

 

「数えます。僕、音の担当なので」

 

「今は時間の担当になっています」

 

「役に立ってますね」

 

 少し得意そうに言われ、ティセは反論を飲み込んだ。

 

 ガッドは白い羽根の輪を見ていた。彼には輪の内側に、オースの空が映っている。家の屋根で息子のトマが手を振り、その足元まで一本の縄が続いていた。

 

「あれがあれば、地上へ帰れる」

 

「何が見える?」

 

 ロウが尋ねる。

 

「帰路を固定する環だ。縄を通せば、距離に関係なく反対側へ出られる」

 

 ティセが白い輪を見る。

 

「私には、力場を固定する遺物に見えます。周囲の上昇負荷を抑える性質かもしれない」

 

「同じものを見てない?」

 

 プクが二人の顔を見比べた。

 

 メノは銀の棒から目を離せずにいた。

 

「私には針だ。死んだ細胞を生きた状態へ戻している」

 

「それは私にも同じように見えます」

 

 ティセが答えると、メノは首を振った。

 

「違う。お前には草をつないでるように見えるんだろ。私には人の胸へ刺さってる」

 

「誰の?」

 

 メノは答えなかった。銀の針の下には、彼女にだけ夫の身体が横たわっていた。

 

 プクが見ているのは黒い本だった。開かれていないのにページの内容が頭へ入り、庭全体の地図が立体的に浮かぶ。白い家の間取り、消えた入口、還り杭の位置まで一本の線でつながっていた。

 

「僕には地図が見えます」

 

「本じゃないのか」

 

 ガッドが聞く。

 

「本です。でも、読むと地図が分かる。出口もあります」

 

「どこだ」

 

「あの本のところまで行けば」

 

 プクが一歩出る。

 

 腰の縄が張る前に、自分で止まった。

 

「……危なかった」

 

「今のは自分で止まったな」

 

 ガッドが言う。

 

「はい」

 

「なら一つ進歩だ」

 

 プクはうなずき、黒い本から視線を外した。それでも、地図の残像は頭の中から消えなかった。

 

 十二個の遺物は、どれも一級以上の力を示している。探窟家が一生をかけても一つ見つけられるかどうかという宝が、手を伸ばせる場所へ並んでいた。

 

 高価だから危険なのではない。価値を理解できてしまうことが危険だった。

 

「ロウ」

 

 ティセが声を落とす。「あなたには、何が見えていますか」

 

 ロウは空地を見たまま、すぐには答えなかった。

 

「白い土」

 

「遺物は?」

 

「ない」

 

「一つも?」

 

「お前たちが何を見てるのかも分からない」

 

 四人は同時にロウを見た。

 

「嘘でしょう」

 

 プクが言う。

 

「あんなに光ってるのに」

 

「光もない」

 

 ロウから見える空地には、十二個の浅いくぼみがあるだけだった。くぼみの中央から透明な細い毛が生え、霧の中へ揺れている。毛の先端は四人の方へ向き、呼吸に合わせて伸び縮みしていた。

 

「代わりに、何かいる」

 

 ロウが《毒震え歯》を空地へ向けた。

 

 牙が激しく震え始めた。

 

 指で押さえても止まらない。硬い歯が爪へ当たり、細かな音を立てる。

 

「これほど強い反応は初めてです」

 

 ティセは口元を布で覆った。「全員、呼吸を浅く。空地から風下へ出ます」

 

「待て」

 

 メノが銀の針を見たまま言う。「毒震え歯は、何に反応してる。遺物そのものとは限らないだろ」

 

「確かめるまで近づきません」

 

「あれは死者を戻せるかもしれない」

 

「だから、近づきません」

 

「お前の兄を見つけても同じことが言えるか?」

 

 ティセの表情が固まった。

 

 メノはすぐに後悔したが、謝る前に白い空地から風が吹いた。

 

 甘い匂いがした。

 

 十二個の遺物が一斉に光を強める。透明な毛の先から、肉眼では見えないほど細かな粉が噴き出していた。

 

 《毒震え歯》が、ロウの指の中で割れそうなほど震えた。

 

「下がれ!」

 

 ロウが主索を左手でつかみ、四人をまとめて引いた。ティセとプクはすぐに動いたが、ガッドは白い輪へ、メノは銀の針へ身体を向けたまま踏ん張っている。

 

 空地から流れてくる甘い匂いが濃くなるにつれ、二人に見えている景色も鮮明になっていた。

 

 ガッドの目には、輪の向こう側から息子が伸ばした手まで見えている。成長して少し大きくなったはずのトマではなく、三年前、初めて縄の結び方を教えた日の小さな手だった。

 

 メノの前では、銀の針が夫の胸へ沈んだ。青白かった頬へ血の色が戻り、閉じていた瞼が開く。夢の中でさえ聞けなかった声で、夫が彼女の名を呼んだ。

 

「目を閉じろ!」

 

 プクが二人の肩を続けてたたく。決めていた合図だった。

 

 ガッドは歯を食いしばって目を閉じた。メノは動かない。夫の姿を消すことができず、銀の針へ一歩踏み出した。

 

 ティセが横から頬を打った。

 

 乾いた音だけは庭に吸われず、近くに残った。

 

「先ほどの仕返しか」

 

 メノがようやくティセを見る。

 

「治療です」

 

「医療担当は私だ」

 

「今のあなたは患者です」

 

 同じやり取りを返され、メノは一瞬だけ呆れた。その隙にロウとガッドが縄を引き、五人は空地から二十歩ほど離れた木の陰へ退いた。

 

 白い木の幹は安全とは限らないため、触れずにしゃがむ。ティセは水で濡らした布と細かな炭を重ね、簡単な濾過布を全員へ配った。甘い匂いが完全に消えるわけではないが、直接吸い込む量は減らせる。

 

「体調を順番に言ってください。私は軽い頭痛、口の中に甘味。視界の端へ青い光が残っています」

 

「俺は異常なし」

 

 ロウが答える。

 

「本当に?」

 

「甘い匂いもしない」

 

「鼻が悪いのでは」

 

「お前の薬の匂いはする」

 

「では、私の薬が臭いと言いたいんですか」

 

「今はその話をする時です?」

 

 プクが割って入った。彼は頭痛と喉の乾き、黒い本の内容がまだ頭の中に残っていることを申告した。

 

 ガッドは息子の姿が目を閉じても消えず、右手の感覚が鈍い。メノは脈が速く、指先が冷え、死んだ夫の声が耳の奥で続いていた。

 

 ティセが二人へ解毒薬を使おうとすると、ロウが止めた。

 

「毒の種類が分からない」

 

「だから広域用を使います」

 

「効かなければ、必要な薬まで減る」

 

「症状が進んでからでは遅い」

 

「五分待つ。空地を離れて弱くなるなら、吸わなければ抜ける」

 

 メノが自分の脈を測り、ロウの判断にうなずいた。「今は呼吸も意識も保ててる。痙攣が出たら使え」

 

「分かりました。ただし五分です」

 

 ティセは砂時計を返した。

 

 細い砂が落ちる間、ロウは《遅れ鏡》を布で磨いた。鏡面は曇っており、正面に置いても現在の顔は映らない。五秒が経つと、先ほどそこにあった顔が薄く浮かぶ。

 

 プクが鏡の前で右手を上げた。鏡の中の彼は両手を下ろしたまま立っている。五秒後、鏡像だけが遅れて右手を上げた。

 

「何度見ても、気持ち悪いですね」

 

「お前の顔のことか」

 

 ガッドが言う。

 

「そこは遺物のことだと分かるでしょう!」

 

 言い返す声に少し力が戻っていた。

 

 ロウは鏡を木の陰から出し、空地へ向けた。鏡面へ映るのは五秒前の白い土と、そこに並ぶ十二個の浅いくぼみだけだった。

 

 水晶の泉も、銀の針も、白い輪も黒い本もない。

 

 代わりに、くぼみの内部から透明な毛が束になって生えている。一本一本の先に小さな穴が開き、そこから霧のような粉を吐き出していた。くぼみの縁には肉色の返しが並び、底の暗闇で大きな舌が動いている。

 

「何が映っています」

 

 ティセが尋ねた。

 

「お前たちが見ている宝はない。穴と毛だけだ」

 

 ロウは鏡を渡した。

 

 ティセが空地を直接見ると、十二個の遺物が変わらず光っている。鏡へ目を落とすと、五秒前にも存在したはずの遺物だけが消え、捕食器官らしき形が現れる。

 

「遅れ鏡が故障している可能性は?」

 

「さっきプクの手を映した」

 

「特定の光だけを記録できない可能性もあります」

 

「なら試す」

 

 ロウは食料袋から、雨裂きの肉片を一つ取り出した。酸の池を渡るために失った分を補った、貴重な食料だった。

 

「ちょっと待ってください。それ、僕の夕食では?」

 

「まだ誰の分とも決めてない」

 

「一番小さい人へ多く配ると言ってました」

 

「お前は五人の中で二番目に大きい」

 

 プクはメノを見る。メノは背が低いが、目をそらした。

 

「医療担当は消耗が激しい」

 

「ずるいですよ!」

 

「生きて帰ったら、好きなだけ食わせてやる」

 

 ガッドが慰める。

 

「ガッドさん、料理できるんですか」

 

「干し肉を切るくらいならな」

 

「それは料理じゃありません」

 

 ロウは話している間に肉片を投げた。空地の手前へ落ちるはずだった肉が、見えない何かへ当たり、宙で止まる。

 

 四人の目には、水晶の泉から伸びた水が肉片を包んだように見えた。汚れを洗い、色つやを戻し、より美味しそうな肉へ変えていく。

 

 五秒後、遅れ鏡には別のものが映った。

 

 透明な毛が肉へ絡みつき、穴の中へ引きずり込んでいる。縁の返しが何度も閉じ、肉を細かく裂く。白い土の下へ赤いものが流れ、くぼみの内側が満足そうに収縮した。

 

 現在の空地では、水晶の泉が何事もなかったように光っている。

 

「食われましたね。僕の夕食」

 

 プクが言った。

 

「まだ言うのか」

 

「危険性と悲しみは両立します」

 

 ティセは返事をせず、自分の鑑定帳を開いた。先ほど書いた数値を確認しようとして、指が止まる。

 

 泉の水量、一分あたりの光量、銀の針が草を修復した時間。記録したつもりだった項目は、すべて空白だった。

 

 ページには乱れた線が重なり、人の口のような形を描いている。紙へ押しつけた筆圧が強すぎて、次の二枚まで傷がついていた。

 

「私は、何を見ていたんでしょう」

 

「欲しいものだろ」

 

 ロウが答える。

 

「鑑定器も反応していました」

 

 ティセは器具を確かめる。熱を測る針は動いた形跡がなく、光の強さを記録する感光紙も白いままだった。彼女は数値を測ったのではない。測ったと信じ込まされていた。

 

「粉が頭へ入って、見えるものと考えることを合わせている」

 

 メノが空地から流れる風を読む。「だから私たちには別のものが見えた。欲しがらせるだけじゃない。手を伸ばす理由まで作る」

 

「一級相当だという鑑定も、あれが私へ考えさせた?」

 

「鑑定士ほど、値段のない餌には食いつかないからな」

 

「……ずいぶん賢いですね」

 

「今まで何人も食ったんだろ」

 

 ガッドが人骨の柵を振り返る。それらが元は探窟家だったなら、庭は長い時間をかけて、探窟家が何を欲しがるかを学んできたことになる。

 

 砂時計の最後の粒が落ちた。空地から距離を取ったことで、ガッドの手のしびれとメノの頻脈は少しずつ弱まっていた。解毒薬は使わずに済んだが、目を閉じると欲しかったものがまだ浮かぶ。

 

「粉を吸わなくても、見続ければ影響を受けます」

 

 ティセは鑑定帳の空白を破り捨てず、そのまま残した。「濾過布を外さない。空地は鏡越しに確認する。直接見た場合は三秒ではなく一秒で目をそらす。異常を感じたら、内容を隠さず全員へ話してください」

 

「欲しいものまで言うのか」

 

 ガッドが少し嫌そうに聞く。

 

「隠すほど、庭だけが知ることになります」

 

「息子のところへ帰れる輪だ」

 

 ガッドは先に言った。恥じるような内容ではない。それでも、自分の一番弱いところを道具として並べられた感覚が残っている。

 

「私は夫を生き返らせる針」

 

 メノが続ける。

 

「僕は庭と出口が全部分かる本です」

 

 プクは言い終えてからティセを見る。

 

「私は――」

 

 ティセの視線が空地へ戻りかけた。「行方の分からない人間を映す泉でした。名前を入れれば、生きている場所を示す」

 

「兄さんを探すため?」

 

「ほかに誰がいるんです」

 

「でも、ティセさんは泉が水を出すと言ってました」

 

「最初はそう見えました。途中から性質が変わったことにも気づかなかった」

 

 餌は最初から完成していたのではない。視線、呼吸、心拍、反応を読みながら、相手がより欲しがる形へ変わっている。

 

 四人の告白が終わると、自然にロウへ視線が集まった。

 

「何だ」

 

「あなたの欲しいものです」

 

 ティセが言う。

 

「何も見えなかった」

 

「見えなくても、欲しいものくらいあるでしょう」

 

「ある」

 

「では、何です」

 

 ロウは首元へ触れた。そこには、歯の扉へ渡した最初の遺物をつないでいた、切れたひもが残っている。

 

「取り返せないものだ」

 

「あのボタン?」

 

 プクが聞く。

 

「それだけじゃない」

 

「庭が、それを見せなかった理由は何でしょう」

 

 ティセの問いに、ロウは空地の十二個のくぼみを見た。

 

「あれは、価値があるように見えるものしか作れない」

 

「価値のある物を欲しがらない人間なんていません」

 

「俺が拾いたいのは、誰かが捨てたあとだ」

 

「だから一級遺物を見せても効かない?」

 

「一級なら、俺が拾わなくても誰かが持っていく」

 

 プクが真剣な顔で考えた。

 

「ロウさん、探窟家としてかなり壊れてません?」

 

「知ってる」

 

「自覚はあるんですね」

 

「直す気がないだけだ」

 

「それは自覚がない人より困ります」

 

 ティセがため息をついた。空地の餌が効かなかったことは幸運だが、その理由を健全だとは思えない。

 

「でも、今回は役に立ちました」

 

「褒めてるのか」

 

「事実を記録しただけです」

 

「監視役だから?」

 

「そうです」

 

 耳を塞ぐ布越しでも、二人のやり取りは全員へ聞こえた。ガッドが何か言おうとしたが、ティセに睨まれて口を閉じる。

 

 白い家へ進むには、宝の空地を越える必要があった。右と左の道は庭の捕食器官へ塞がれ、背後では酸の浅瀬が退路を断っている。

 

 ロウは遅れ鏡を地面へ向け、くぼみの位置を一つずつ確認した。五秒前の景色しか見えないため、現在の動きとずれる危険がある。プクが一定の間隔で石を投げ、鏡の中で石が消える位置から、捕食器官が動いた距離を測った。

 

「穴そのものが移動してます」

 

 プクが記録を見比べる。「一度に指一本ぶん。僕たちが右へ動くと、向こうも右へ寄る」

 

「通り道を塞ぐつもりだ」

 

 ガッドは残った縄へ、一歩ごとに結び目を作った。「俺が先頭へ行く。足場を探る」

 

「餌が見えるなら俺が先だ」

 

 ロウが止める。

 

「片腕でか?」

 

「両腕があっても、息子が見える奴よりは安全だ」

 

 ガッドは不満そうだったが、否定はできなかった。

 

 隊列はロウ、プク、ティセ、メノ、ガッドの順に変えた。ロウだけが空地の餌を見ない。プクは遅れ鏡を持ち、五秒前の捕食器官を伝える。ガッドは最後尾で縄を管理し、誰かが餌へ向かえば全員を止める。

 

「遅れ鏡は僕が持つんですね」

 

「音の担当だからな」

 

「関係あります?」

 

「今日から鏡も担当だ」

 

「仕事が増えてますよ」

 

「役に立ってる証拠だ」

 

 ガッドに同じ言葉を返され、プクは諦めて鏡を抱えた。

 

 ロウが空地へ入る。

 

 四人の目には、一級遺物が一斉に輝いて見えた。濾過布を通しても、完全には防げない。ガッドの輪には息子が近づき、メノの針の下では夫が起き上がり、プクの本は出口の頁を開いた。ティセの泉には、暗い場所で横たわるケルムが映っている。

 

 ロウに見えるのは、白い地面と透明な毛だけだった。

 

「右に二つ、五秒前です」

 

 プクが鏡を見ながら伝える。

 

「今は」

 

「分かりません。石を投げます」

 

「投げるな。音で位置を読む」

 

「反響は消えます」

 

「穴へ落ちる音だけ分かればいい」

 

 プクは音響棒の先で、小さな金属球を転がした。球が白い土の上を進む音はすぐに薄くなる。途中で一度だけ、柔らかいものへ落ちる音がした。

 

「右前、二歩」

 

 ロウは左へ避けた。

 

 五秒後、鏡の中で穴が閉じる。遅れた情報と現在の音を重ね、少しずつ安全な場所を選んでいく。

 

 捕食器官は、自分たちが見破られたことへ気づき始めた。

 

 水晶の泉が消え、ティセの目にはケルムの認識票が現れた。血に濡れ、白い土の上へ落ちている。

 

 黒い本はプクの笛へ変わった。今使っている蒼笛ではなく、経験を積んだ探窟家だけが持てる黒笛だった。表面にはプク自身の名が刻まれている。

 

 ガッドの輪の向こうで、息子が笑顔を消した。

 

「父さん、帰るって言っただろ」

 

 綿を詰めた耳にも、声がはっきり届く。

 

「俺はそんな言い方を教えてない」

 

 ガッドは自分へ言い聞かせ、縄を強く握った。

 

 メノの夫は、娘のニアを腕へ抱いている。

 

「二人とも偽物だ」

 

 彼女は声に出した。「夫は死んだ。娘は地上。ここにはいない」

 

 偽物のニアが泣き始める。

 

 メノは目を閉じず、泣く姿を見たまま進んだ。

 

「左前、穴が寄ってきます!」

 

 プクが叫ぶ。

 

 ロウは透明な毛の動きを見て、短槍の柄を土へ突き立てた。穴の縁が閉じ、槍を飲み込もうとする。

 

 彼はすぐに手を離した。短槍が白い地面へ半分まで沈み、返しに挟まれる。

 

「槍が!」

 

「そのままでいい」

 

 ロウは腰の《大食らいの鞘》だけを外した。鞘へ収めた武器の長さを縮めて携行する一級遺物だが、槍を飲まれた状態では役に立たない。

 

「武器を置いていくんですか」

 

 ティセが聞く。

 

「今は人を数える方が先だ」

 

 ロウは左手で縄を取り、後ろの四人を引いた。空地の中央まで、残り十歩だった。

 

 地面の穴は移動を速めている。五秒前しか映さない鏡では、現在位置との差が大きくなり始めた。

 

「前に三つ……いえ、五つ。左右から寄っています!」

 

「後ろも来た」

 

 ガッドが縄を引く。退路側の白い土が盛り上がり、十二個のくぼみが五人を囲む輪を作ろうとしていた。

 

「走りますか」

 

 ティセが問う。

 

「走ったら粉を吸う」

 

 メノが答える。

 

「囲まれても吸います」

 

 プクの言葉どおり、透明な毛が一斉に膨らみ始めた。次に粉を放たれれば、濾過布では防ぎきれない。

 

 ロウは周囲を見た。十二の穴。四人に見えている十二の宝。すべてが別々のものへ姿を変えながら、ゆっくり近づいている。

 

 彼の目にだけ、宝はない。

 

 だから、穴同士の間に残った一番狭い隙間が見えた。

 

「全員、目を閉じろ。縄だけ持て」

 

「鏡もですか」

 

「もう遅すぎる」

 

 プクは遅れ鏡を胸へ抱き、目を閉じた。

 

 ティセ、メノ、ガッドも続く。欲しいものが消える瞬間、身体の一部を引きはがされるような痛みがあった。

 

「走るぞ」

 

 ロウは左手へ縄を巻き、四人を引いて踏み出した。

 

 一つ目の穴を右へ避ける。透明な毛が頬をかすめた。

 

 二つ目と三つ目の間へ身体を入れる。右腕が縁へ触れそうになり、固定した添え木を肉色の返しが削った。

 

 ガッドは目を閉じたまま、前のメノの背負い袋を押した。メノはティセの肩を、ティセはプクの腰帯をつかむ。五人は一本の縄と一つの身体になって、ロウが選ぶ道を走った。

 

「左へ!」

 

 ロウの声に合わせて全員が跳ぶ。

 

 白い地面が口を開き、ガッドの踵をかすめた。靴底の革が一枚はがれ、暗い穴へ消える。

 

 透明な毛が粉を噴いた。

 

 甘い匂いが濾過布を越えて入る。

 

 閉じた瞼の裏に、それぞれの宝が浮かぶ。手を伸ばせば届く。今なら間に合う。そんな考えが、自分の意思のように湧いてくる。

 

「名前を言え!」

 

 ガッドが後ろから叫んだ。

 

「プク・ナナイ!」

 

「ティセ・カルナ!」

 

「メノ・アサル!」

 

「ガッド・ボルグ!」

 

 最後にロウが名乗る。

 

「ロウ・エルガ。五人いる」

 

 数を聞き、全員が縄を握り直した。

 

 前方の穴が閉じるより早く、ロウが白い土を蹴る。続く四人が同じ場所を踏み、輪の外へ飛び出した。

 

 背後で十二個の穴が一斉に閉じた。

 

 大きな顎が空をかむ音がした。今度は庭にも飲み込めないほど重い音だった。

 

 五人は白い地面を転がり、木の根元まで逃げた。ロウはすぐに人数を数え、負傷を確認する。

 

 ガッドの靴底が削れ、ティセの外套に透明な粉が付着していた。メノが水で洗い流し、汚染した布を《空閉じ蓋》を使って空瓶へ封じる。蓋は中身のない容器しか閉じられないはずだったが、粉が物質として認識されないのか、瓶の口は完全に密閉された。

 

「また変な使い方を」

 

 ティセが瓶を見る。

 

「閉じたなら、空ってことだ」

 

「中に粉が見えます」

 

「遺物の判断へ文句を言うな」

 

「あなたが言いますか」

 

 ロウは答えず、遅れ鏡を確認した。プクが胸へ抱えていたため、割れてはいない。鏡面には五秒前、全員が地面を転がる姿が薄く映っていた。

 

「格好悪いですね」

 

 プクが自分の転び方を見る。

 

「生き残った姿だ」

 

 ガッドは削れた靴底へ布を当てた。「帰ったら額へ入れて飾れ」

 

「嫌ですよ。もっと格好いい記念がほしいです」

 

「黒笛とか?」

 

 メノに言われ、プクは顔をしかめた。

 

「今は笛の色の話をしないでください」

 

 欲望を口にして笑える程度には、全員の意識が戻っていた。

 

 しかし、空地の捕食器官は諦めていなかった。

 

 十二個のくぼみが白い土の下でつながり、脈打っている。離れた場所からでも振動が伝わり、周囲の木々の枝へ広がっていく。

 

 果実として実っていた遺物が次々に目を開いた。人骨の指が曲がり、装備の金具が歯のように鳴る。庭のあらゆるものが、空地で逃した獲物の位置を確かめていた。

 

「先へ行く」

 

 ロウは短槍を失った《大食らいの鞘》を腰へ戻した。

 

「武器を取り返さなくていいんですか」

 

 プクが聞く。

 

「庭が捨てたら拾う」

 

「そこは徹底してるんですね」

 

「戻れば、今度は俺たちが捨てられる」

 

 五人は家へ向き直った。

 

 白い柵まで、今度こそ距離が縮んでいた。空地を越えたことで庭に認められたのか、それとも、より大きな口へ近づいただけなのかは分からない。

 

 柵の内側には小さな畑があり、白い葉をつけた野菜が整然と並んでいる。井戸から湯気が上がり、軒下には五人分の濡れた外套が干されていた。

 

 家は、彼らが到着することを知っていた。

 

「窓に誰かいます」

 

 プクが指す。

 

 橙色の灯りの向こうで、人影が一つ動いた。

 

 ティセの胸元で、ケルムの認識票が揺れる。

 

 一回。

 

 二回。

 

 十三回の打音と、長く擦る音。

 

 第四層へ残された標識のそばで聞いたものと同じだった。

 

「兄さん」

 

 ティセが名前を口にする。

 

「返事をするな」

 

 ロウが腕を伸ばした。

 

 家の扉が開く。

 

 中から現れたのは、探窟家の外套をまとった男だった。左肩を少し下げて立ち、長い前髪を指で払う。頬は三年前より痩せていたが、ティセが毎日思い出してきた兄の顔だった。

 

「ティセ」

 

 ケルムが妹の名を呼んだ。

 

 コエカリがまねた声とは違う。息を吸う癖も、語尾をわずかに下げる話し方も、記憶のままだった。

 

 ティセの目に涙が浮かぶ。

 

「本物か、確かめます」

 

 そう言いながら、一歩進んだ。

 

「止まれ」

 

「遅れ鏡を使います。毒震え歯も。近づくとは言っていません」

 

 彼女はプクから鏡を受け取り、ケルムへ向けた。

 

 五秒前の白い柵と、開きかけた家の扉が映る。

 

 そこに男の姿はなかった。

 

「映ってない」

 

 プクが息をのむ。

 

 現在の庭では、ケルムが優しく笑っている。

 

「ティセ。鏡なんか信じるな」

 

 兄は右手を差し出した。

 

「遅かったな、豆鑑定士」

 

 幼いころ、薬草の名を一つ間違えるたびに呼ばれたあだ名だった。ティセとケルムしか知らない。

 

 遅れ鏡には、誰もいない。

 

 《毒震え歯》は、再び震え始めた。

 

 それでもティセには、兄が見えた。

 

 差し出された手へ向かって、彼女だけがもう一歩踏み出した。




第13話をお読みいただき、ありがとうございます。

《毒震え歯》と《遅れ鏡》により、宝の正体が探窟家の欲望を利用する捕食器官だと判明しました。高級遺物を求めないロウだけには何も見えませんでしたが、ティセの前にはケルムの姿が現れます。

次回は第14話「大食らいの鞘」。ティセを狙う擬態獣を相手に、ロウが一級遺物と二つの弱い遺物を組み合わせて戦います。
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