今回は、八十二個の遺物を巡ってティセとロウが正面からぶつかります。二人の最初の対決をお楽しみください。
探窟家組合から届いた命令書には、拒否された場合の対応まで記されていた。
対象者へ一度目の提出を要求。
応じない場合は組合本部へ同行させ、所持品を確認。
逃走、抵抗、遺物の使用が認められた場合は、執行員の判断による拘束を許可する。
ただし対象者は黒笛であり、深界での功績も大きい。身体または所持品へ回復不能な損傷を与えてはならない。
簡単に書いてある。
最後の一文まで読んだティセは、紙を四つ折りにして胸元の革入れへ戻した。
「無茶を言う」
思わず口から出た。
朝のオースは晴れていた。
海から吹く風が、建物の間に張られた洗濯物を揺らしている。街の中央へ近づくほど地面は緩やかに下り、その先には巨大なアビスの縁がある。青い空の下、穴の内部だけは朝日を吸い込んだように暗かった。
ティセが向かっているのは、アビス西側に設けられた探窟家組合の訓練場だった。
後ろには三人の執行員がいる。
先頭を歩くバズは、四十歳を過ぎた大柄な男だ。左頬から顎へ古い傷が走っている。深界三層までの探窟経験を持ち、今は組合で問題を起こした探窟家の取り締まりを担当していた。
残る二人も、街の警備兵とは違う。
長い捕縛棍を背負うニド。投網と拘束縄を扱うソナ。二人とも元は月笛で、アビスの内部で生き残ってきた者だ。
「本当に三人で足りるのか」
バズが尋ねた。
「提出させるだけです。戦う必要はありません」
「必要があるかどうかを決めるのは、向こうだろ」
「ロウ・エルガは昨日、競売場で人命を救っています。命令には不満を示しても、理由なく人を傷つけるとは思えません」
「会ったのは一度だと聞いたが」
「一度見れば、無用な攻撃を避ける人間かどうかは分かります」
バズは鼻を鳴らした。
「鑑定士は人間にも等級を付けるらしい」
「少なくとも、あなたより慎重です」
「そりゃ結構」
言い合っている間に訓練場へ着いた。
石壁で囲まれた広場には、朝早くから二十人ほどの探窟家が集まっていた。
多くは首から赤い笛を下げた子供たちだ。見習いである赤笛は、原則としてアビスの浅い場所までしか潜ることを許されていない。ここで縄の結び方、壁の下り方、原生生物から身を守る方法を学び、経験を積んでいく。
訓練場の中央には三階建てほどの人工壁があり、赤笛たちが命綱を頼りに昇降を繰り返していた。
「足で壁を押せ! 腕だけで体重を支えるな!」
指導役の青笛が怒鳴る。
注意された少年は慌てて足を伸ばし、今度は身体を壁へ強くぶつけた。
「痛っ」
「壁は殴っても謝らんぞ。もう一度!」
その横で、訓練へ参加せず壁を見上げている男がいた。
ロウだ。
昨日と同じ大きな背負い袋を背負い、壁から垂れた縄の一本を手に取っている。指で表面をなぞり、ほつれた箇所へ小さな印を付けていた。
「何をしているんです」
ティセが声を掛けると、ロウは振り返った。
「傷んでる」
「それは見れば分かります。なぜあなたが確認しているんです」
「昨日、ここで縄が切れた」
ロウは壁の上を指した。
最上部の滑車に、短い縄の切れ端が残っている。
「交換しろと言ったのに、そのままだ」
「訓練場の管理者へ伝えるべき問題です」
「三回伝えた」
ティセが指導役の青笛を見る。
男は気まずそうに顔をそらした。
「予備が届いていないんだ。浅い壁で使う分には問題ない」
「問題があったから切れたんだろ」
ロウは縄を引いた。
それほど力を入れたようには見えなかった。
乾いた音とともに、印を付けた箇所から縄がちぎれた。
周囲の赤笛たちが静かになる。
指導役はちぎれた縄とロウを見比べ、何も言わず予備倉庫の方へ走っていった。
「それを捨て箱へ入れるな」
ロウが背中へ呼び掛ける。
「修繕すれば短い命綱には使える」
「あなたは何でも拾うんですね」
「使える物を捨てすぎる」
「昨日拾っていた物の大半は使えません」
「まだ使い方が分かってないだけだ」
「ちょうど、その件で来ました」
ティセは命令書を取り出した。
組合の印がロウから見えるよう広げる。
「黒笛探窟家ロウ・エルガ。あなたが所持している未申告遺物について、組合から確認命令が出ています」
周囲が再び静かになった。
赤笛たちは訓練を続けるふりをしながら、明らかにこちらを見ている。
ロウは命令書へ一度だけ目を落とした。
「何個だ」
「八十二個です」
「昨日ので八十三になった」
「増やさないでください」
「もう増えた」
「では八十三個、すべて提出してください」
「嫌だ」
返答は早かった。
「これはお願いではありません」
「分かってる」
「分かっていて拒否するんですか」
「ああ」
ロウはちぎれた縄を巻き始めた。
ティセは命令書を持つ指へ力を入れた。
遺物をアビスから持ち帰った探窟家は、まず組合へ届け出なければならない。鑑定を受け、危険性と価値を確認し、一定以上の等級なら街の管理下へ置かれる。
価値の低い遺物は、手数料を納めれば発見者の所有物となることが多い。しかし、申告そのものを省くことは許されない。無害に見える遺物が、一夜で街区を消した記録さえあるからだ。
「確認が終われば、危険のない物は返却されます」
「全部、確認は済んでる」
「正式な記録がありません」
「組合が価値なしと捨てた物だ」
「あなたが拾ってから性質が変わった可能性があります。昨日の球体のように」
ロウの手が止まった。
「あれは寄生されてただけだ」
「それを見抜けなかった鑑定記録に従って、残りも安全だと判断しろと?」
「俺が見てる」
「あなたの判断は公的な鑑定ではありません」
「公的な鑑定が見落とした虫を、俺が見つけた」
言い返せなかった。
昨日の一件では、ティセを含む鑑定官が寄生を見抜けなかった。それは事実だ。
しかし、正しさと規則は別だった。
「ここで中身を見せるだけでも構いません。私が危険性なしと判断できれば、持ち去る必要はありません」
「駄目だ」
「なぜです」
「全部を一度に出すと、戻すのに半日かかる」
「そんな理由で?」
「順番がある」
ロウは背負い袋の側面を軽く叩いた。
「同じ場所に入れると壊れる物。近づけると互いに動かなくなる物。夜だけ重くなる物。蓋を閉めると中身を吐き出す物。分けてある」
「初めて聞きました」
「今言った」
「だから記録が必要なんです!」
赤笛の一人が小さく笑った。
ティセが見ると、全員が慌てて壁へ向き直る。
バズが前へ出た。
「話は終わりでいいか、鑑定士殿」
「まだです」
「向こうはその気らしいぞ」
ロウはちぎれた縄を指導役へ渡していた。逃げる様子も、構える様子もない。
それでもバズは腰の捕縛具へ手を置いた。
「ロウ・エルガ。組合の命令だ。荷物を下ろし、俺たちと本部へ来い」
「行かない」
「なら拘束する」
「やめた方がいい」
「それは脅しか」
「忠告だ」
バズの右手が動いた。
同時に、ニドが捕縛棍を突き出す。
先端が二つに割れ、ロウの首と右腕を挟もうとした。
ロウは半歩だけ横へ移動した。
棍が空を切る。
ニドはすぐに柄を返し、今度はロウの膝を払った。深層の原生生物にも使う、重く速い一撃だった。
ロウは避けなかった。
右足を上げ、棍の上へ乗せる。
踏みつけた。
ニドの両手から柄が外れ、石床へぶつかる。
「一本目」
ロウが言った。
「数えるな!」
横からバズが組み付く。
ロウの両腕ごと背後から抱え込み、腰を落とした。大柄なバズはロウより頭一つ高く、体重も重い。
そのまま持ち上げようとした。
動かない。
「なんだ、この重さは……!」
「荷物がある」
「見れば分かる!」
ロウは身体を沈めた。
背負い袋の下へバズの腕を挟み、腰をひねる。巨大な荷物そのものを支点にして、背後の男を前へ投げた。
バズの身体が宙を越える。
ロウは襟をつかみ、頭から落ちる寸前で引いた。背中を下にして訓練用の砂地へ落とす。
「二本目」
ソナの投網が開いた。
縁へ金属の重りを付けた網が、ロウと背負い袋をまとめて包む。
「捕らえた!」
ソナが縄を引く。
ロウは網の中で姿勢を低くした。
次の瞬間、ソナの身体が前へ引かれた。
彼女は両足を踏ん張り、腰の輪へ縄を固定する。反対側では立ち直ったニドも縄をつかんだ。
二人がかりで引いても、ロウは一歩も動かない。
「本当に人間か、こいつ!」
「人間だ」
「答える余裕があるなら倒れろ!」
ロウが網の端を握る。
二人の身体が同時に浮いた。
そのまま振り回すようなことはしなかった。勢いを途中で止め、互いの肩が触れる位置へ引き寄せる。ニドとソナの足がもつれ、二人そろって倒れた。
ロウは網を脱ぎ、丁寧に畳んでソナの腹の上へ置いた。
「三本」
訓練場の端で、赤笛たちが歓声を上げた。
「静かにしろ!」
指導役の青笛が怒鳴るが、自分もロウから目を離せていない。
ティセは倒れた三人を確認した。
骨折も出血もない。
バズは投げられる直前に落下地点を選ばれ、ニドとソナも頭を打たない方向へ倒されている。
昨日と同じだった。
ロウはただ勝ったのではない。相手の身体、周囲の地形、次に起きることをすべて見たうえで、傷つけない方法を選んでいる。
「遺物を使いましたか」
ティセが尋ねた。
「使ってない」
「荷物の中で何かが光りました」
「ぶつかって怒っただけだ」
「怒る遺物を一緒に持ち歩かないでください」
「離すともっと怒る」
ロウが訓練場の出口へ向かう。
ティセは進路へ立った。
「まだ終わっていません」
「終わった。三人倒した」
「私が残っています」
ロウの視線が、ティセの首元へ下りた。
そこには紫色がかった月形の笛がある。
月笛は、見習いたちを指導し、中層での探窟を認められた者の階級だ。ティセは鑑定と毒物の専門家であり、戦闘を本職にはしていない。それでも、自分の身を守れなければアビスでは生きられない。
「戦うのか」
「戦いません」
「じゃあ、どけ」
「あなたと殴り合って勝てるとは思っていません」
ティセは一歩退いた。
道を開ける。
ロウは少し警戒しながら、その横を通った。
ティセは彼の足元を見ていた。
一歩。
二歩。
三歩目で、細い金属音が鳴った。
ロウの右足首へ、床に伏せていた細線が絡み付く。
競売場でハリワタリを採取するときに使った、鑑定士用の捕獲線だ。
ティセが柄を引く。
線は足を拘束するためのものではない。
ロウが避ける方向を決めるために置いた。
彼は線を踏み切らず、左側へ跳んだ。
そこへ、起き上がったソナが二枚目の投網を放つ。
ロウは空中で身体をひねった。
網は外れた。
しかし縁の重りが、背負い袋の肩紐へ巻き付く。
「今です!」
ニドとバズが縄を引いた。
ロウの身体が後ろへ傾く。
背負い袋の留め具が軋んだ。
ロウは縄を切らなかった。引かれる力へ逆らわず、訓練壁へ走る。
「そっちは壁だぞ!」
バズが叫ぶ。
ロウは速度を落とさない。
壁の手前で踏み切った。
一歩目が石壁へ着く。
二歩目は、人の背丈より高い位置。
三歩目で身体が地面と平行になった。
重い背負い袋を背負ったまま、壁を走っている。
投網の縄が張り、下から引く三人の力が、かえってロウの身体を壁へ押し付けていた。
ロウは四歩目で壁を蹴った。
執行員三人の頭上を越える。
空中で肩紐から網を外し、着地した。
石床が小さく割れる。
外套の右袖が肘までめくれていた。
下から現れたのは、人の腕へ巻き付く黒い金属だった。
継ぎ目のない表面に、赤い光が一本だけ走る。
ティセが目を見開いたときには、ロウが袖を戻していた。
「今のは遺物でしょう」
「使ってない」
「光りました」
「勝手に溜めただけだ」
「何をです」
「衝撃」
未申告遺物一覧の一行が、ティセの頭へ浮かぶ。
番号七。右腕に装着された黒色遺物。取り外しの可否、等級、能力、すべて不明。
「それだけでも確認させてください」
「断る」
ロウが今度こそ出口へ歩き出す。
三人の執行員は立ち上がったが、追おうとはしなかった。もう一度同じことをしても結果は変わらないと分かっている。
ティセは呼吸を整えた。
腕力では止められない。
正面から命令しても従わない。
それでも、彼には一つだけ、明確に動きを止めるものがあった。
ガラクタだ。
ティセは足元へ落ちていた捕縛棍を拾った。
二つに割れた先端を、背負い袋の側面へ垂れた古い留め紐へ向ける。
ロウの背中へ投げた。
「危ない!」
赤笛の一人が叫んだ。
棍はロウではなく、狙った留め紐を先端に引っ掛けた。
古い結び目がほどける。
小さな布包みが幾つも落ちた。
ロウが振り返る。
彼自身へ攻撃されたときより、はっきりと表情が変わった。
「お前――」
ティセは走った。
落ちた包みへ手を伸ばす。
ロウも同時に動く。
速さでは勝てない。
ティセは最も近い包みを取らず、捕獲線を横へ振った。線が二つの包みへ絡み、反対方向へ転がす。
ロウが片方を足で止める。
もう片方へティセが飛び付いた。
地面へ膝を打ちながら、両腕で抱える。
「返せ」
すぐ頭上から声がした。
ロウが立っている。
ティセは包みを胸へ押し当てた。
「中身を確認したら返します」
「それは遺物じゃない」
「なら、見られても困らないでしょう」
「返せ」
ロウの声が低くなる。
初めて、怒りが見えた。
周囲の空気が張り詰める。
ティセは怖くないふりをした。
「あなたは人を傷つけない」
「決めつけるな」
「昨日は大勢を救い、今日は三人を無傷で倒しました」
「数え方がおかしい」
「私を殴って奪えばいい」
「……そんな安い挑発に乗ると思うか」
「思いません。だから確認します」
ティセは布の結び目へ指を掛けた。
ロウの手が伸びる。
ティセは反射的に身を固くした。
その手は彼女へ触れず、途中で止まった。
「乱暴に開けるな。中で擦れる」
ロウは膝をついた。
布の端を指す。
「そこを引け」
ティセは言われた場所をつまんだ。
複雑に見えた結び目が、音もなくほどける。
中には、小さな品が十数個収められていた。
片側だけ曇った眼鏡。
振っても鳴らない鈴。
先端の丸い釘。
親指ほどの空瓶。
どれも柔らかい布で分けられ、横には小さな札が付いている。能力らしき記述と、拾った場所、日付。元の所有者が分かる物には、その名前まで記されていた。
ティセは一つずつ目を走らせる。
「これを全部、あなたが?」
「忘れると困る」
「作用の記録だけではありませんね」
「誰の物だったかも、その遺物の一部だ」
ティセの指が止まった。
布包みの底に、遺物ではない金属片があった。
楕円形の認識票。
探窟家が首から下げる笛とは別に、荷物や遺体の身元を確認するため携帯する物だ。表には所有者の名、裏には組合の登録番号が刻まれている。
深層で遺体を持ち帰れない場合、認識票だけが家族の元へ戻ることもある。
ティセはそれを拾い上げた。
表面は腐食し、端が少し欠けている。
刻まれた文字だけは読めた。
KELM KARNA。
ケルム・カルナ。
「どうして」
自分の声が、遠くから聞こえた。
同じ姓だからではない。
同じ名前だからでもない。
認識票の左端に、小さな星形の傷がある。
ティセが十二歳のとき、兄の道具を勝手に触り、鑑定針を滑らせて付けた傷だった。
間違えるはずがない。
三年前、深界四層で消息を絶った兄の物だ。
捜索は半年で打ち切られた。
組合の記録では行方不明のまま。しかし家族も仲間も、ケルムが生きて帰ることを諦めていた。
認識票さえ、今まで戻ってこなかった。
「どこで手に入れたんです」
ティセは立ち上がった。
ロウの胸元をつかむ。
「答えてください。兄の認識票を、どうしてあなたが持っているんです」
ロウはティセの手を振り払わなかった。
灰色の目が、認識票へ落ちる。
「返すつもりだった」
「いつです」
「まだ返せない」
「兄を知っているんですね」
ロウは答えない。
「兄は死んだんですか」
訓練場から音が消えていた。
赤笛たちも、執行員も、誰も口を挟まない。
ティセはロウの服をつかむ指へ力を込めた。
「どこで拾ったんです。遺体は。兄に何があったんですか」
「拾ってない」
「では、なぜ持っているんです!」
ロウはようやくティセを見た。
「本人から預かった」
ティセの指から力が抜けた。
「……本人?」
「ケルム・カルナからだ」
ロウは、はっきりと兄の名を口にした。
「三年前、深界四層で会った」
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回はロウの戦闘能力と、彼がガラクタを手放さない理由の一端を描きました。最後に見つかったケルムの認識票が、ロウとティセを同じ深層へ向かわせるきっかけになります。
次回は第3話「監視役ティセ」。ロウへの聴取と、新たな探窟任務が始まります。