値なきものの墓標   作:まねきまねき

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第4話です。

遠征を翌日に控えた五人が、地上で最後の夜を過ごします。それぞれが帰る理由を胸に、いよいよアビスへ出発します。


八十二個目の荷物

「四十六個、置いていってください」

 

「嫌だ」

 

「まだ、どれをとは言っていません」

 

「何を選んでも嫌だ」

 

 出発前日の朝。

 

 組合の装備室で、ティセとロウは八十二個の遺物を挟んで向かい合っていた。

 

 二日間の鑑定は、夜を越えてようやく終わった。

 

 結果は、一級相当または等級不明が四個。特定の状況で役立つ可能性がある物が八個。残る七十個は、実用性がほとんどない低級遺物だった。

 

 昨日競売場で見つかった赤黒い球体は、寄生生物の検査が終わっていないため組合へ残される。それを除いても、ロウの荷物は十分すぎるほど重い。

 

 机の上には、携行を許可する遺物と、地上へ残すべき遺物を分けた一覧がある。

 

 ティセが夜通し作ったものだ。

 

「すべてを持ち込めば、遺物だけで八十六キロ。水、食料、野営具を加えれば百キロを超えます」

 

「持てる」

 

「今は持てても、怪我をしたらどうするんです」

 

「怪我しない」

 

「あなたは強いだけで、不死身ではありません」

 

「不死身だったら、もっと持てる」

 

「そういう話ではありません」

 

 ティセは一覧の上半分を指で叩いた。

 

「《空閉じ蓋》。空の容器を二度と開かなくするだけ。《右向き針》。持ち主の右側を示すだけ。《眠り灯》。持ち主が寝ている間しか点灯しない。《片濡れ靴》。左足だけ液体を弾く。どれも今回の調査には不要です」

 

「使い道はある」

 

「具体的に言ってください」

 

「まだ分からない」

 

「それを不要と言うんです」

 

 ロウは返事をせず、黄色い布の上の遺物を包み始めた。

 

 包む順番まで決まっている。

 

 柔らかい物を内側へ入れ、硬い物の角が触れないよう布を重ねる。使用頻度の高い物は袋の外側へ、互いに作用を弱める物は左右へ分ける。

 

 適当に詰め込んでいるように見えた大荷物は、内部だけなら鑑定所の棚より整っていた。

 

「聞いていますか」

 

「聞いてる」

 

「では、手を止めてください」

 

「時間がない」

 

「今夜までに選別しなければ、出発許可へ署名しません」

 

 ロウの手が止まった。

 

「監視役は、そこまでできるのか」

 

「できます」

 

「嫌な役だな」

 

「あなたのせいです」

 

 装備室の隅で縄を点検していたガッドが、二人の間へ歩いてきた。

 

 彼はロウの背負い袋を持ち上げようとし、少しだけ床から浮かせて戻す。

 

「重さより、幅が問題だ」

 

「幅?」

 

 ティセが尋ねる。

 

「狭い岩の間を通れない。枝や突起にも引っ掛かる。崩れた道では、振られた荷物に身体を持っていかれる」

 

「ほら、専門家もそう言っています」

 

「外の袋を二つ減らす」

 

「中身も置いてください」

 

「内側へ入れる」

 

「そういう意味ではありません」

 

 ガッドは袋の外側へ結ばれた細い筒を外し、別の位置へ付け直した。

 

 結び目の端を、指二本分だけ余らせる。

 

「その余りは必要ですか」

 

 ティセが尋ねると、ガッドは結び目を引いて強さを確かめた。

 

「解く場所を残している」

 

「余らせない方が緩みにくいのでは?」

 

「帰りに解けなくなる」

 

「ナイフで切ればいい」

 

「帰りにナイフがあるとは限らない」

 

 ガッドはそれ以上説明しなかった。

 

 ロウが、最後まで机へ残していた黒い縄を取る。

 

「ちょうどいい。これを付けろ」

 

 長さは肘から指先までほど。古く見えるが、繊維に傷や毛羽立ちはない。

 

「遺物か」

 

 ガッドが受け取る。

 

「《余り縄》」

 

「作用は」

 

「結んでおくと、一日に指一本分くらい伸びる」

 

 ティセは一覧の最下段を確認した。

 

 八十二番。《余り縄》。一日当たりの伸長は平均一・七センチ。切断すれば両方の断片が伸びなくなる。

 

「普通の縄を必要な長さだけ持つ方が軽いですね」

 

「その通りだ」

 

 ガッドは即答した。

 

「返す」

 

「見ろ」

 

 ロウは縄の端を指した。

 

 小さく潰れた文字が刺繍されている。

 

 SAGI。

 

「サギ・ロウネ。青笛の索具師だ」

 

「知っている」

 

 ガッドの太い指が刺繍をなぞった。

 

「俺が赤笛だったころ、結び方を教えた人だ」

 

「七年前に地上で病死した。その後、家族が道具を処分した」

 

「それを拾ったのか」

 

「買った。銅貨二枚で」

 

 ロウは《余り縄》を受け取り、元の位置へ戻した。

 

「こいつは八十二番目だ」

 

「入手した順番ですか」

 

 ティセが聞く。

 

「今持ってる中では」

 

「使い道がなくても?」

 

「使い道がないから、捨てていいとは限らない」

 

 ガッドは何も言わず、余らせた結び目をもう一度強く引いた。

 

 ティセは一覧を見る。

 

 八十二個のうち、元の所有者が判明している物は四十九個。ロウの記録には、それぞれの名、笛の色、入手場所が書かれていた。

 

 所有者不明の物にも、拾った場所と日付がある。

 

 ただ物を集めているのではない。

 

 その遺物が、どこから来たのかを失わないようにしている。

 

 理解はできた。

 

 納得はしていない。

 

「あなたが倒れれば、結局は私たちがこの荷物を運びます」

 

 ティセは言った。

 

「倒れない」

 

「それは計画ではなく願望です」

 

「俺が持つ」

 

「仲間に持たせないことが責任だと思っているんですか」

 

 ロウの目が僅かに細くなった。

 

「俺の荷物だ」

 

「遠征中は、あなた自身も隊の荷物です。勝手に壊れられると困ります」

 

「人を荷物扱いするな」

 

「八十二個を人のように扱う人から言われたくありません」

 

 ガッドが二人の間へ手を出した。

 

「袋を細くする。食料の一部は俺が持つ。遺物はロウが全部持つ。それで通せる」

 

「しかし――」

 

「今から一個ずつ取り上げたら、明日の朝まで喧嘩が続く」

 

 ガッドの判断は正しかった。

 

 ティセは不本意ながら、一覧の下へ条件を書き加えた。

 

 《全点の携行を仮許可。隊の移動または安全を妨げた場合、監視役の判断で一部を放棄する》。

 

 ロウが横から読む。

 

「放棄はしない」

 

「署名しませんよ」

 

「……勝手に捨てるな」

 

「必要になったら話し合います」

 

「先に俺へ言え」

 

「分かりました」

 

 初めて一つ、合意ができた。

 

     ◇

 

 地上で最後の夕食は、アビス南側の大衆食堂で取ることになった。

 

 五人だけのつもりだったが、長いテーブルには八人が座っている。

 

 メノが夫と六歳の娘ニアを連れてきた。ガッドの隣には十歳の息子トマがいる。

 

 出されたのは、根菜と燻製肉を煮込んだ濃いスープ、硬い平焼きパン、塩漬けの魚、山盛りの焼き芋だった。

 

 遠征前の食事としては、少し多い。

 

「明日から、味のしない保存食ばかりだからね」

 

 メノはそう言いながら、ロウの器へ二杯目のスープを注いだ。

 

「まだ残ってる」

 

「もう飲み終わる顔をしてる」

 

「どんな顔だ」

 

「黙って早食いする顔」

 

「いつもと同じじゃないですか」

 

 プクが言う。

 

「だから分かるの」

 

 メノが笑う。

 

 その袖を、娘のニアが引いた。

 

「お母さん、本当に大きな盃のところまで行くの?」

 

「行くよ」

 

「お水、全部飲める?」

 

「あれは大きすぎるから、全部飲んだらお腹が破裂しちゃう」

 

 ニアは真剣な顔で母親の腹を見た。

 

「じゃあ、飲まないで」

 

「分かった。少しだけにする」

 

「少しも駄目」

 

「それは困るなあ」

 

 メノは娘の頭を撫でた。

 

 笑っているが、指は髪から離れない。

 

「お土産は?」

 

「ニアが持てるくらいの、きれいな石を探してくる」

 

「青いやつ」

 

「青いのね。約束」

 

 ニアは満足して焼き芋へ戻った。

 

 向かいでは、ガッドの息子トマが細い縄を結んでいる。

 

 まだ不揃いな指で作った輪を、父親へ差し出した。

 

「これ、付けて」

 

 ガッドは受け取り、自分の左手首へ通した。

 

「何の結びだ」

 

「帰ってくる結び」

 

「習ってないぞ」

 

「今作った」

 

 ガッドは縄の端を見る。

 

 余りがなく、きれいに切りそろえられていた。

 

「少し短い」

 

「ほどけないようにした」

 

「ほどく場所も必要だ」

 

 彼は結び目を一度解き、端を指一本分だけ余らせて結び直した。

 

「これで帰れる?」

 

「帰れる」

 

 短い答えだった。

 

 トマは安心したようにうなずいた。

 

 ティセは視線を自分の器へ落とした。

 

 兄が失踪する前の食事を思い出そうとする。

 

 何を食べたのか、どこへ座ったのか、誰と話したのか。三年の間に細部が薄くなっていた。

 

 覚えているのは、兄が出発の前夜まで調査図を広げていたこと。そしてティセが「どうせ止めても行くんでしょう」と言って、自分の部屋へ戻ったことだけだ。

 

 見送りには行かなかった。

 

 あれが最後になるとは思わなかった。

 

「ティセさんは、お土産に何が欲しいですか」

 

 プクの声で我に返る。

 

「私も潜るのに、誰からもらうんです」

 

「僕からです。何か発見したら、最初の欠片をあげます」

 

「発見物は先に組合へ提出してください」

 

「夢がないなあ」

 

「規則です」

 

「じゃあ、新しい道を見つけます。道なら欠片を提出しなくていい」

 

「地図を提出します」

 

「その地図へ僕の名前を書きます。《プクの大街道》って」

 

「狭い穴だったら?」

 

 メノが尋ねる。

 

「《プクの大穴》」

 

「小さな穴なら」

 

「《プクの――》」

 

「そこから先はやめておけ」

 

 ガッドが止めた。

 

 大人たちが笑い、意味の分からないニアとトマもつられて笑う。

 

 プクは耳まで赤くし、パンをスープへ沈めた。

 

「笑わなくてもいいじゃないですか。僕は本気なんです。まだ誰も知らない場所を見つけて、自分の名前を付ける。地図にずっと残るんですよ」

 

「いい夢だと思うよ」

 

 メノが言った。

 

「名前は考え直した方がいいけど」

 

「そこが一番大事なのに」

 

 プクは不満そうにパンをかじった。

 

 ロウだけは笑っていなかった。

 

 スープを飲み終え、空になった器を見ている。

 

「ロウさんには、見送りに来る人はいないんですか」

 

 プクが悪気なく尋ねた。

 

 食卓が少し静かになる。

 

「いない」

 

 ロウは答えた。

 

「家族は」

 

「いない」

 

「じゃあ、僕たちが見送ります。僕たちも一緒に行くから、変ですけど」

 

「自分を見送るのか」

 

「五人でお互いを」

 

「全員行ったら、誰も残らない」

 

「細かいですね」

 

 ロウは空の器をメノへ差し出した。

 

「もう一杯」

 

「ほら、飲み終わる顔だった」

 

 メノは嬉しそうに鍋を引き寄せた。

 

 食事が終わるころ、ニアは母親の膝で眠っていた。トマも舟をこぎ、ガッドの肩へ頭を預けている。

 

 プクは新しい道の名前をまだ考えていた。

 

 ティセは兄の認識票へ触れる。

 

「私は、兄を連れて帰ります」

 

 誰へ向けたわけでもなく言った。

 

「うん。連れて帰ろう」

 

 メノが答える。

 

「そのための隊です」

 

 プクもうなずく。

 

 ガッドは眠った息子を支えながら、短く「ああ」と言った。

 

 ロウだけが答えなかった。

 

     ◇

 

 食堂を出ると、夜の風が熱くなった頬へ当たった。

 

 家族のいる三人は、それぞれ別の道へ帰っていく。プクも養成所の宿舎へ戻った。

 

 残ったティセとロウは、アビス沿いの道を並んで歩いた。

 

 穴の縁には等間隔で灯りが並び、向こう側の街を細い輪のように照らしている。その内側に広がる暗闇は、夜空より黒かった。

 

「なぜ、答えなかったんです」

 

 ティセが尋ねる。

 

「何に」

 

「兄を連れて帰るという話です」

 

「約束できない」

 

「約束を求めたわけではありません」

 

「同じだ」

 

「違います。皆は、そうしようと言ってくれただけです」

 

「できるか分からないことを、できるみたいに言いたくない」

 

 ロウは歩みを止めない。

 

「遺体でも連れて帰るつもりか」

 

 ティセも足を止めなかった。

 

「兄は生きています」

 

「可能性があるだけだ」

 

「あなたが言ったんでしょう。まだ生きているかもしれないと」

 

「死んでるかもしれない」

 

 胸の奥へ、冷たい物が落ちた。

 

 分かっていたはずの言葉だった。

 

 ロウが言うと、ひどく現実に近く聞こえる。

 

「それでも行くんだろ」

 

「行きます」

 

「なら、どっちも考えておけ」

 

「あなたは、いつも最悪のことしか考えないんですね」

 

「最悪のときに、考えてなかったじゃ済まない」

 

 ロウの返事は変わらなかった。

 

 腹立たしい。

 

 しかし、間違ってはいない。

 

「あなたは、出発前に誰かへ別れを言わないんですか」

 

「言わない」

 

「帰れない可能性を考えているのに?」

 

「だから言わない」

 

「なぜです」

 

 ロウはアビスの方を見た。

 

「別れを言うと、帰らないことまで許された気になる」

 

 ティセは少しだけ黙った。

 

「では、私も言いません」

 

「誰に」

 

「あなたにです」

 

「明日も会う」

 

「そういう意味ではありません」

 

「分かりにくい」

 

「もういいです」

 

 二人はまた歩き始めた。

 

 並んでいるが、肩が触れるほど近くはない。

 

 それでも、同じ暗い穴の方へ向かっていた。

 

     ◇

 

 夜明け前、五人はアビス西側の降下場へ集まった。

 

 街はまだ眠っている。

 

 降下場だけが灯りに照らされ、作業員たちが滑車、縄、昇降籠を確認していた。

 

 アビスへ入る最初の区間には、地上の設備で下りられる場所がある。そこから先は、岩壁へ打たれた杭や自然の足場を使い、探窟家自身の手で降りていかなければならない。

 

 ロウは背負い袋を背負っていた。

 

 ガッドの調整によって幅は少し細くなったが、重さはほとんど変わっていない。

 

 ティセが一覧と照らし合わせる。

 

「八十二個」

 

「ある」

 

「私が数えます」

 

「さっき数えた」

 

「監視役として確認します」

 

「もう袋に入れた」

 

「なぜ私が来る前に入れるんです」

 

「遅いからだ」

 

「集合時刻の十五分前です!」

 

「俺は三十分前に来た」

 

「あんたたち、元気だねえ」

 

 メノが欠伸をしながら近づいた。

 

 家族と別れた直後なのだろう。目元が少し赤い。それでも声は普段と変わらない。

 

 ガッドの左手首には、息子が作った縄の輪がある。

 

 プクは緊張を隠すように、六つの音叉を順番に鳴らしていた。

 

「全員いるな」

 

 監察官ハルムが現れた。

 

 封をした任務書と、五枚の通行票を持っている。

 

「これより第四層西部地割れ調査隊の出発を許可します。隊長は黒笛ロウ・エルガ。隊員は月笛ティセ・カルナ、メノ・ハルカ、ガッド・ボル、プク・ネア」

 

 一人ずつ名を呼び、通行票を渡していく。

 

「第一目的は地割れ内部の調査。第二目的は、ケルム・カルナを含む先行調査隊の捜索。未知の遺物または原生生物を確認した場合、記録を優先し、回収は隊長と鑑定士が安全と判断した物に限ります」

 

 ハルムは最後の通行票をロウへ渡した。

 

「帰還予定は三十日後。二十日を過ぎても第四層へ到達できない場合は、調査を中止してください」

 

「分かった」

 

「あなたの『分かった』は、信用できません」

 

「なら聞くな」

 

「命令だから伝えているんです」

 

 ハルムはため息をつき、ティセを見る。

 

「監視を頼みます」

 

「任せてください」

 

「そっちも信用できない」

 

「なぜです」

 

「兄を見つけたとき、命令より先に走り出す顔をしています」

 

 否定できなかった。

 

 昇降籠の扉が開く。

 

 五人は順番に乗り込んだ。

 

 見送りの柵には、メノの夫とニア、ガッドの息子トマがいる。ニアは眠そうな顔で両腕を振り、トマは父親の真似をして拳を胸へ当てた。

 

 少し離れた場所では、訓練場にいた赤笛たちがロウの大荷物を指さしている。

 

「屑拾い、全部持ってきたぞ」

 

「本当に八十個あるのかな」

 

「帰りは百個になってるんじゃないか」

 

 声が聞こえたのか、ロウが眉を寄せた。

 

「人気者ですね」

 

 ティセが言う。

 

「あの呼び方は嫌いだ」

 

「知っています」

 

 作業員が合図を出した。

 

 鎖が鳴り、籠がゆっくり下降を始める。

 

 地面が上へ遠ざかる。

 

 アビスの内壁が、五人を囲むようにせり上がっていく。

 

 朝日を受けたオースの建物は、最初は一軒ずつ見分けられた。それが次第に小さくなり、屋根の色だけになり、やがて穴を囲む細い輪へ変わる。

 

 ニアとトマの姿も見えなくなった。

 

 上から差す光はまだ明るい。

 

 下には、白い霧と緑の森が広がっている。

 

 深界一層《アビスの淵》。地上に最も近い層であり、比較的弱い原生生物と、長い年月で崩れた人工物が存在する。赤笛の見習いが訓練を行うのも、この層の浅い範囲までだった。

 

「ここから、どれくらいで第四層へ着くんですか」

 

 プクが下を覗き込みながら尋ねる。

 

「順調なら十二日」

 

 ガッドが答える。

 

「順調じゃなかったら?」

 

「着かない」

 

「日数を聞いたんですけど」

 

「着かない」

 

 プクは黙って籠の中央へ戻った。

 

「今さら怖くなった?」

 

 メノが笑う。

 

「怖くないですよ。危険性を正確に把握してるだけです」

 

「それを怖いって言うの」

 

 ロウは籠の床へ座り、荷物の外紐を確認している。

 

 ティセは胸元の月笛と認識票を握った。

 

 地上の風が弱くなる。

 

 代わりに、アビスの底から湿った空気が上がってきた。

 

 兄が消えた場所へ、今度は自分が向かっている。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 それでも、地上で待っていた三年間よりは、ずっと呼吸がしやすかった。

 

 昇降籠が最初の停留台へ着く。

 

 ここからは自分たちの足で下る。

 

 ガッドが縄を固定し、ロウが先に岩壁へ降りた。続いてプク、ティセ、メノ。ガッドが最後に降り、縄の結び目へ指二本分の余りを残す。

 

 五人が細い岩棚へそろった。

 

 上の昇降籠が引き上げられていく。

 

 鎖の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 

 誰も動いていない。

 

 風もない。

 

 その静けさの中で、硬い物がぶつかる音がした。

 

 こつ。

 

 ティセの胸元だった。

 

 兄の認識票が、月笛へ当たっている。

 

 こつ、こつ、こつ。

 

「動くな」

 

 ロウが言った。

 

 ティセは両手を身体から離した。

 

 認識票は風もないのに揺れ続ける。

 

 一定の間隔で、月笛を叩く。

 

 プクが指を折りながら数えた。

 

「十一、十二、十三」

 

 そこで短い音が止まった。

 

 一拍置いて、認識票の端が月笛を長く擦る。

 

 ぎい、と細い音が岩棚へ響いた。

 

 ティセは息を止めた。

 

 十三回の打音。その後に、長く一回。

 

 第四層の地割れから届いたものと同じだった。

 

 認識票は役目を終えたように静かになる。

 

 ロウがアビスの底を見た。

 

「呼ばれてる」

 

 白い霧の下から、返事はなかった。




第4話をお読みいただき、ありがとうございます。

八十二個目の遺物《余り縄》と、隊員たちが地上へ帰る理由を描きました。五人はついにオースを離れ、アビスへ降下します。

次回は第5話「声を借りるもの」。深界一層から二層へ向かう道中で、最初の異変が彼らを待ち受けます。
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