値なきものの墓標   作:まねきまねき

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兄の声を使った原生生物を追わず、五人は深界二層へ進みます。

 今回の舞台は、巨大な縦穴が口を開ける深界三層《大断層》。ロウの持つ数少ない一級遺物、その力と代償が明らかになります。


落ちるほど強く

「放してください」

 

 深界二層へ下りてから三度目に、ティセは言った。

 

 ロウは彼女の手首を見た。

 

「もう放してる」

 

「……分かっています」

 

 ティセは自分の手首を外套の袖へ隠した。

 

 一行は、幅の広い蔓を一本ずつ渡っていた。蔓の下には白い霞がたまり、その向こうで巨大な木々が逆さに生えている。幹は天井の岩へ根を張り、枝葉を地上へ向けて垂らしていた。

 

 深界二層《誘いの森》。上と下の感覚を狂わせる、湿った森である。

 

 地上から千三百メートルを越えたこの深さでは、少し登っただけでも強い吐き気と頭痛が起きる。大きく上昇すれば、意識を失うことさえある。

 

 来た道を気軽に引き返せない。

 

 だから、さきほどの声を追うこともできなかった。

 

 コエカリが逃げた暗がりは、見かけでは下り道だった。しかし、二層の木々と力場――アビス全体を満たす、目に見えない膜のようなもの――は、人の距離感を簡単に欺く。

 

 あの穴が本当に下へ続いていた保証はない。

 

 ティセはそれを理解している。

 

 理解した上で、納得していなかった。

 

「兄の声を、あの生物がどこで覚えたと思いますか」

 

 前を行くロウへ問いかける。

 

「三つある」

 

「聞きましょう」

 

「一つ。ケルムが三年前、同じ種類に会った。二つ。ここまで来た誰かが声を覚えていた。三つ――」

 

 ロウは蔓の結び目を踏み越えた。

 

「あれは声を借りてない。聞いた側の頭から、声を引き出した」

 

 ティセの足が止まった。

 

「そんな原生生物は、記録にありません」

 

「記録にないものは、いないことになるのか」

 

「少なくとも、最初の二つより根拠が薄いです」

 

「なら忘れろ」

 

「忘れられるわけがないでしょう!」

 

 声が森へ広がった。

 

 ガッドが後ろから口元へ指を当てる。

 

 プクは青ざめ、音響棒を両手で抱えた。

 

 ティセは唇を結んだ。

 

「悪かった」

 

 小さく謝る。

 

「声を抑えろとは言った。謝れとは言ってない」

 

「あなたには言っていません」

 

「俺にも聞こえた」

 

 ロウは振り向かなかった。

 

 二日をかけ、五人は誘いの森を抜けた。

 

 道中、プクは一度だけ毒虫に刺された。メノが傷を切り開いて吸引器を当て、ティセが毒の型を判別した。ガッドは橋になる蔓を選び、ロウは眠っている原生生物の縄張りを避けた。

 

 誰か一人が欠ければ、半日も進めなかった。

 

 夜営のたび、ティセはケルムの認識票を布から出した。

 

 だが、十三回の打音は戻らなかった。

 

 そして三日目の朝。

 

 森が突然、途切れた。

 

 五人の前には、向こう岸の見えない穴があった。

 

 穴の内壁には洞窟や細い足場が無数に開き、遠い下方から冷たい風が吹き上げている。落とした小石は途中で壁へ当たり、音を何度も反響させながら聞こえなくなった。

 

 深界三層《大断層》。

 

 巨大な縦穴そのものが、一つの層になっている。

 

 底までの深さは千メートルを超える。壁の穴をつないで下りる道もあるが、狭い空洞には獲物を待つ原生生物が巣を作っている。

 

 安全な道はない。

 

「ここから本番だ」

 

 ガッドが背負い袋を下ろした。

 

 袋から太い主索を二本、細い補助索を三本取り出し、一本ずつ指で曲げて確かめる。

 

「俺が支点を取る。メノは中央、プクはその下。ティセはロウの上だ。間隔は十歩。壁へ入れる穴を見つけたら、プクが知らせろ」

 

「任せてください」

 

 プクの返事は少し裏返った。

 

 ガッドが少年を見る。

 

「怖いか」

 

「まさか。ちょっと、胃が昨日の干し肉を返したがってるだけです」

 

「吐くなら今にしろ。ぶら下がってからだと、下の俺が迷惑する」

 

「順番では、僕が一番下では?」

 

「落ちたら俺が拾いに行く」

 

 冗談なのか分からない顔で言い、ガッドは岩壁へ杭を打った。

 

 主索を二重に通す。

 

 ロウは荷から、薄い銀貨のような遺物を三枚取り出した。中央に小さな穴がある。

 

「《軽み銭》ですか」

 

 ティセが言う。

 

「ひも一本分だけ、結んだ物を軽くする。人間へ使っても違いは分からない」

 

「組合評価は四級未満。効果量が小さすぎるため、運搬用にも不適格」

 

「覚えてるじゃないか」

 

「監視対象の荷ですから」

 

 ロウは銀貨を補助索の先へ通した。

 

 次に、灰色の羽根を結ぶ。羽根は風を受けてもほとんど揺れない。

 

「《落ち渋り羽》。落下を一分につき指一本ぶん遅らせる」

 

「それも、人には効果がありません」

 

「人に使わなければいい」

 

 最後に、縫い針ほどの小さな遺物を補助索へ刺した。

 

 先端が曲がり、自分で糸を抱え込む。

 

「《戻り針》。離した場所へ、五指ぶんだけ戻ろうとする」

 

 プクがのぞき込む。

 

「五指ぶんって、これくらいですか」

 

 親指と小指を開く。

 

「それくらいだ」

 

「何に使うんです?」

 

「切れたあとに分かる」

 

「切れる前提で言わないでくださいよ」

 

 支度を終え、五人は壁の外へ出た。

 

 足元には何もない。

 

 身体を支えるのは腰帯と一本の縄だけだった。

 

 ガッドが先に下りる。岩の割れ目へ杭を打ち、荷重を確かめ、合図を送る。次にメノ、プク、ティセ、最後にロウが続いた。

 

 降下はゆっくり進んだ。

 

 上から差す光は、すぐに細い線となった。

 

 風が唸るたび、五人の身体が壁から離れる。壁へ戻るたび、膝と肘を使って衝撃を逃がした。

 

 三百メートルほど下ったところで、プクが音響棒を岩へ当てた。

 

「右下、二十歩。奥行きのある横穴です」

 

「生き物は」

 

「小さい反響が六……いえ、七。奥へ動いています」

 

「別を探す」

 

 ロウが言った。

 

 その直後、上方で硬いものがこすれた。

 

 ティセが顔を上げる。

 

 岩壁へ張りついていた影が、翼を開いた。

 

 翼の端から端まで、人の身長の二倍はある。胴は薄く、肋骨のような骨が外側へ並び、頭には目の代わりに縦長の裂け目が三つ開いている。

 

「《裂羽》!」

 

 ガッドが叫んだ。

 

 影は一匹ではなかった。

 

 壁の色へ紛れていた十数匹が、一斉に身体を離す。

 

 風へ乗り、音もなく滑空してきた。

 

「壁へ寄れ!」

 

 ロウが腰の筒を引き抜く。

 

 中から黒い棒が伸び、短槍になった。

 

 一匹目の裂羽が、プクへ突っ込む。

 

 ロウは補助索を蹴った。

 

 反動で身体を横へ振り、槍を投げる。

 

 刃は裂羽の翼を貫いた。原生生物が回転し、壁へ激突する。

 

 二匹目はメノを狙った。

 

 ガッドが主索を強く引く。メノの身体が半歩ぶん沈み、爪が頭上を通り過ぎた。

 

 ティセは小瓶を投げた。

 

 空中で割れ、黄色い粉が広がる。

 

 粉を吸った裂羽の翼がけいれんした。

 

「長くは効きません!」

 

 群れが円を描く。

 

 裂け目から、細い鳴き声が重なった。

 

 主索が震える。

 

 上の支点へ、三匹が同時に取りついていた。

 

「縄を切る気だ!」

 

 ガッドが登ろうとする。

 

 別の一匹が腹へ突っ込んだ。ガッドは腕で牙を受け止め、岩壁へ背を打つ。

 

 主索の表面が裂けた。

 

「補助索へ移れ!」

 

 全員が金具を付け替える。

 

 だが、プクの手が滑った。

 

 腰の金具が半分だけ外れる。

 

「プク!」

 

 ティセが手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 一匹の裂羽が補助索へ噛みついた。

 

 張り詰めた縄が切れる。

 

 プクの身体が落ちた。

 

 少年の口が開いた。

 

 叫び声は、風に消えた。

 

 ガッドが残った縄を放し、飛び込もうとする。

 

「待て!」

 

 ロウが止めた。

 

 切れた補助索。その上端には、《戻り針》が刺さっている。

 

 針が震えた。

 

 本来なら、縄の重さに負けて動かないほど弱い力だった。

 

 だが《軽み銭》が、細い縄の重さをわずかに減らしている。

 

 《落ち渋り羽》が、落下をほんのわずか遅らせている。

 

 針は、切れる直前にあった場所へ戻ろうとした。

 

 五指ぶん。

 

 それだけで十分だった。

 

 切れ端が、ガッドの指先へ触れた。

 

 ガッドはつかみ、両手へ巻きつける。

 

 縄が張った。

 

 はるか下で、プクの身体が大きく揺れた。

 

「捕まえた!」

 

 ガッドの掌から血が噴いた。

 

 裂羽の群れが、動きを止めた。

 

 縦穴の奥から、低い振動が上がってくる。

 

 風ではない。

 

 壁の穴が暗くなった。

 

 そこから、群れの三倍はある裂羽が這い出した。

 

 翼の内側に、捕食した獲物の骨が何本も埋まっている。三つの裂け目が開き、中で赤い歯が回った。

 

「母裂羽だ」

 

 ロウがつぶやく。

 

 小型の裂羽が道を空けた。

 

 母裂羽は壁を蹴った。

 

 狙いは、切れた縄の先にいるプクだった。

 

「引き上げるには時間が要る!」

 

 ガッドが叫ぶ。

 

「要らない」

 

 ロウは自分の腰帯を外した。

 

 ティセが息をのむ。

 

「何を――」

 

「俺が下へ運ぶ」

 

「死にます!」

 

 ロウは落ちた。

 

 灰黒の外套が、瞬く間に小さくなる。

 

 母裂羽も翼を畳み、追う。

 

 落ちながら、ロウは右腕の覆いを外した。

 

 肘から手首まで巻かれていた黒布の下に、鈍い金色の腕輪が現れる。表面には、人の歯形に似たくぼみが幾重にも並んでいた。

 

 一級遺物《墜腕》。

 

 受けた衝撃を蓄え、一度だけ別の方向へ放つ。

 

 高所から落ちた者を守るための遺物ではない。

 

 衝撃を受けるのは、装着者の肉体も同じだからだ。

 

 ロウは落下の途中で、岩壁へ右拳を突き出した。

 

 拳が岩を削る。

 

 肩が跳ね、骨の奥で嫌な音がした。

 

 墜腕のくぼみに赤い光が一つ灯る。

 

 さらに落ちる。

 

 張り出した岩へ足を当てる。

 

 膝が沈み、靴底が裂けた。

 

 二つ目の光。

 

 母裂羽が追いついた。

 

 巨大な口がロウの背後で開く。

 

 ロウは空中で身体を返した。

 

 右手を、口の中へ差し入れる。

 

「食え」

 

 墜腕が、蓄えた落下の力を解放した。

 

 音が消えた。

 

 次いで、母裂羽の背中が内側から爆ぜた。

 

 骨と肉が雨のように散る。衝撃は翼の根元まで走り、巨体を真っ二つに折った。

 

 ロウの右腕からも血が飛んだ。

 

 反動で身体が壁へ向かう。

 

 彼は左手で岩の突起をつかんだ。

 

 肩が抜けそうになり、指の皮が裂ける。

 

 それでも離さない。

 

 下を見る。

 

 プクは切れた縄へぶら下がり、気を失っていた。

 

 その縄を、ガッドが上から支えている。

 

「プク!」

 

 ロウは壁を蹴り、少年の腰帯を左腕で抱えた。

 

 同時に、ガッドが縄を引く。

 

 ティセとメノも加わる。

 

 二人分の重さが、少しずつ上へ動いた。

 

 群れを率いる個体を失った裂羽たちは、壁の穴へ逃げていった。

 

 五人が横穴へ転がり込んだのは、それから二十分後だった。

 

 プクは床へ伏せ、胃の中身をすべて吐いた。

 

「生きてるな」

 

 ガッドが背を叩く。

 

「し、死ぬかと思いました……」

 

「思っただけで済んだ」

 

「もう少し優しい言葉、ありません?」

 

「縄を切られた奴にかける言葉は、あとで考える」

 

 ガッドは笑い、血まみれの掌を隠した。

 

 メノがすぐに見つけ、両手を引き寄せる。

 

「隠すな。縫う」

 

「かすり傷だ」

 

「次に縄を握れなくなる。座れ」

 

 反論を許さない声だった。

 

 少し離れた場所で、ティセはロウの右腕を調べていた。

 

「動かしてください」

 

 ロウが肘を曲げる。

 

 途中で動きが止まった。

 

「もう一度」

 

「同じだ」

 

「命令しているのは私です」

 

 触診する指が前腕へ進む。

 

 ある一点で、ロウの呼吸がわずかに乱れた。

 

「ひびが入っています」

 

「動く」

 

「骨が折れていても動く人はいます。動くことと、使ってよいことは別です」

 

 ティセは添え木を当て、包帯を強く巻いた。

 

「《墜腕》の使用上限は、一日に一度でしたね」

 

「普通はな」

 

「あなたは普通ではないから二度使える、と?」

 

「三度までは壊れなかった」

 

「遺物が、ですか」

 

「俺が」

 

 包帯がさらにきつく締まった。

 

「痛い」

 

「生きている証拠です」

 

 ティセは結び目を作った。

 

「次に同じことをしたら、左腕も縛ります」

 

「それは困る」

 

「なら、自分だけ落ちる前に相談してください」

 

「相談してたら間に合わなかった」

 

「分かっています」

 

 彼女の声が小さくなった。

 

「分かっているから、腹が立つんです」

 

 ロウは答えなかった。

 

 しばらく休み、一行は横穴の奥へ進んだ。

 

 プクが音響棒で道を探り、ガッドが細い裂け目を広げる。穴は緩やかに下っていた。

 

 やがて、人工的に削られた壁へ出た。

 

 岩肌に、金属製の小さな札が打ち込まれている。

 

 ティセが駆け寄った。

 

 札には探窟組合の印と、日付が刻まれていた。

 

「三年前……」

 

 ケルムの隊が、この大断層を通過した日だった。

 

 端には、彼が好んで使っていた三本線の記号がある。

 

「兄の標識です」

 

 ティセが指でなぞる。

 

 標識の下に、黒ずんだ跡があった。

 

 メノがしゃがみ、匂いを確かめる。

 

「血だ」

 

 ティセの顔から色が消えた。

 

「三年前の?」

 

「違う」

 

 メノは濡れた指を見せた。

 

 赤い。

 

「まだ乾ききってない。長くて半日だ」

 

 五人は穴の奥を見た。

 

 誰もいないはずの暗闇から、一滴だけ何かが落ちた。

 

 岩へ当たり、赤く弾けた。




 第6話をお読みいただき、ありがとうございます。

 ごく弱い《軽み銭》《落ち渋り羽》《戻り針》が、ほんの一瞬だけ落下を遅らせ、命をつなぎました。一方、一級遺物《墜腕》の威力は絶大ですが、ロウ自身の骨も無事では済みません。

 次回は第7話「右しか指さない針」。三年前の標識のそばに残された新しい血を追い、五人は方角も重力も信用できない道へ入ります。
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