値なきものの墓標   作:まねきまねき

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 大断層の横穴で見つかったのは、三年前に残されたケルムの標識と、まだ乾いていない血でした。

 血の主を追う五人は、目で見た景色も、自分の身体が感じる重力も当てにならない場所へ踏み込みます。


右しか指さない針

 血は、天井から落ちていた。

 

 ティセが灯りを上へ向ける。

 

 赤い跡が岩の裂け目へ続いている。誰かが天井を這ったように、手形が幾つも残っていた。

 

「上にいる」

 

 プクが声を落とす。

 

「そう見えるだけだ」

 

 ロウは足元の小石を拾い、裂け目へ投げた。

 

 石は上へ飛び込んだ。

 

 そのまま、天井に沿って奥へ転がっていく。

 

 プクの口が開いた。

 

「落ちてます?」

 

「あちら側ではな」

 

 大断層の力場は均一ではない。

 

 場所によって厚く重なり、原生生物や空気の流れに押され、目に見えない布のように歪む。その歪みが極端な場所では、光も音も曲がり、人間の平衡感覚まで狂う。

 

 壁が床に見えるだけなら、まだいい。

 

 自分の身体が、そちらを下だと信じ込む。

 

 ガッドが天井の裂け目へ杭を打った。

 

 主索を通し、荷重をかける。

 

「血の量は少ない。歩ける程度の傷だろう」

 

 メノが赤い跡を見上げた。

 

「人間なら、だが」

 

「人間でなければ?」

 

 ティセが尋ねる。

 

「追う理由が一つ減る」

 

 ロウが答えた。

 

「兄の標識の横にあった血です」

 

「だから追う。兄の血とは言ってない」

 

「……分かっています」

 

 ティセは先ほどと同じ言葉を、今度は静かに返した。

 

 五人は身体を縄へ預け、裂け目へ移った。

 

 境を越えた瞬間、足元が消えた。

 

 ティセの身体が横へ倒れる。

 

 いや、倒れたのは視界の方だった。

 

 さきほどまで天井だった岩が足の裏へ吸いつき、通ってきた横穴が頭上に開く。胃が遅れて位置を変え、喉まで酸が上がった。

 

「吐くな」

 

 ロウが背を支える。

 

「命令、しないでください」

 

「吐いたものが上へ流れたら、顔に戻ってくる」

 

 ティセは口を押さえた。

 

「それを、先に言ってください……」

 

 ガッドとメノも着地する。

 

 最後にプクが境を越え、膝から崩れた。

 

「僕、どこに立ってます?」

 

「岩の上だ」

 

「それは見れば分かります。今までの壁ですか、天井ですか、床ですか」

 

「今は床だ。十分だろ」

 

「ぜんぜん十分じゃないです」

 

 血の跡は、新しい床を奥へ続いていた。

 

 一行は主索を伸ばしながら進む。

 

 最初の曲がり角を右へ。次は二股を左へ。その先の穴を下へ。

 

 プクが歩数と反響を記録する。

 

「入口から東へ四十七歩、深度差は下に六歩」

 

「違う」

 

 ティセが地図を見た。

 

「方位磁針では北です。それに、私たちは三歩ぶん上がっています」

 

 ガッドが主索を指す。

 

 縄は背後へ伸びているはずなのに、途中から足元へ垂れ、岩の中へ吸い込まれるように見えた。

 

「俺の感覚じゃ、右へ十五歩だ」

 

 メノも首を振る。

 

「地面が傾いている。ずっと下ってきた」

 

 四人の記憶が合わない。

 

 ロウは目を閉じた。

 

 耳を澄まし、左足で床を二度叩く。

 

「戻る」

 

「血の跡は先です」

 

「もう追えてない」

 

 灯りを向ける。

 

 赤い点が五方向に分かれていた。

 

 天井にも、左右の壁にも、五人が来た道にも続いている。

 

 それぞれの先から、一滴ずつ血が落ちた。

 

「増えてる……」

 

 プクが後ずさる。

 

「ここへ入ってから、誰も傷を負っていません」

 

 ティセは自分の手袋を確かめた。

 

 ロウの右腕の包帯にも、新しい出血はない。

 

 メノが血へ細い試験紙を触れさせる。

 

 色が青黒く変わった。

 

「人の血だ。だが全部同じ温度だ」

 

「幻ではない?」

 

「幻なら、この紙は騙せない」

 

「見る側の頭だけを騙しているとは限らない」

 

 ロウが腰の袋を探った。

 

 取り出したのは、真鍮色の短い針だった。片側に小さな輪がつき、針先は初めから九十度に折れている。

 

「《右向き針》」

 

 ティセが鑑定記録を思い出す。

 

「持った人間の右側だけを指す。方角も出口も示さないため、用途なし」

 

「今は、右がどちらかも一致してない」

 

 ロウは針の輪へ指を通した。

 

 折れた先端が動き、彼の右肩を指す。

 

 身体を回しても、床へ寝ても、先端は同じ肩を追い続ける。

 

「方角じゃない。持ち主の身体を基準にする」

 

 ロウは細い糸を出し、全員の腰を一本につないだ。

 

「俺の右足が出たら、全員も右足を出せ。左も同じだ。自分の目を信じるな」

 

「行き先は分かるんですか」

 

 プクが聞く。

 

「入口で、最初に右へ曲がった。その回数を一つずつ戻す」

 

「記憶が狂っていたら?」

 

「縄の結び目を数えた。結び目は記憶しない」

 

 ガッドが主索へ手を触れる。

 

「途中から岩へ入ってるぞ」

 

「見た目だけだ。張力は後ろから来てる」

 

 ロウが一歩踏み出した。

 

 全員が同じ足を出す。

 

 右。

 

 左。

 

 右。

 

 天井が目の前へ迫る。

 

 視界では、五人は切り立った壁を水平に歩いていた。

 

 身体は落ちない。

 

 次の一歩で、プクが悲鳴を上げた。

 

「待って! 前、穴です!」

 

 彼の目の前には、底のない縦穴が開いていた。

 

 ロウから見えるのは平らな道だった。

 

「足を出せ」

 

「無理です!」

 

「穴は、お前にだけ見えてる」

 

「見えてるものに足を出すのが無理なんです!」

 

 ロウは左手を伸ばし、プクの目を覆った。

 

「なら見るな」

 

 少年の身体を引く。

 

 プクの足が空中へ出たように見えた。

 

 靴底は、硬い岩へついた。

 

「……あります」

 

「進め」

 

 五人は一つの身体のように歩いた。

 

 曲がり角を三つ戻る。

 

 そのたび、血の跡が別の方向へ誘った。

 

 無視した。

 

 やがて、主索が急に軽くなった。

 

 ガッドが手繰る。

 

 切れてはいない。

 

 縄の先には、最初に打ったはずの杭がついていた。

 

「抜けたのか?」

 

「違う」

 

 ティセが杭へ触れる。

 

「岩の粉がありません。最初から打ち込まれていないみたいです」

 

 背後で、足音がした。

 

 五人分より、一つ多い。

 

 止まる。

 

 足音も止まった。

 

 進む。

 

 六人分の音がする。

 

 プクが振り返りかけた。

 

「見るな」

 

 ロウが言う。

 

「でも、後ろに」

 

「見たものが増える場所だ」

 

 足音が近づく。

 

 濡れた裸足が、岩を踏む音だった。

 

 メノが短剣を抜く。

 

「出口を先に探せ」

 

 ロウは背負い袋から、濁った小瓶を出した。

 

 中に水滴が一つだけ入っている。

 

 どれほど傾けても、瓶の底から離れない。

 

「《一滴さま》」

 

「いつも真下へ落ちようとする水滴」

 

 ティセが言った。

 

「普通の水でも同じでは?」

 

「普通の水は、ここの力場に騙される」

 

 ロウは栓を抜いた。

 

 瓶を逆さにする。

 

 水滴は口から出ず、瓶の側面を這った。

 

 そして、右の壁へ向かって落ちた。

 

 岩へ触れた瞬間、壁の表面に輪が広がった。

 

 水面へ石を落としたような波紋だった。

 

「あそこが本当の下だ」

 

 ロウが右の壁を指す。

 

「つまり?」

 

 プクの声が震えた。

 

「出口は下にある」

 

 見かけの壁へ向かい、ロウは歩いた。

 

 靴が岩へ触れる直前、表面が沈んだ。

 

 薄い膜を破るように、足が中へ入る。

 

「岩じゃない!」

 

 ガッドが声を上げた。

 

 壁に見えたものは、力場へ貼りついた細かな砂だった。

 

 ロウが身体ごと突っ込む。

 

 砂の膜が崩れ、その先に暗い縦穴が現れた。

 

 水滴が落ちていく。

 

「全員、俺の腰をつかめ。落ちたら上を見るな」

 

「上を見なければ、上昇負荷は来ないんですか?」

 

「見る向きは関係ない。身体が上がれば来る」

 

「安心できる説明が一つもない!」

 

 プクが叫ぶ。

 

 背後の足音が走り出した。

 

 ティセが最後に振り返った。

 

 血まみれの人影が近づいていた。

 

 顔はケルムだった。

 

 だが、手足の曲がる方向がすべて逆だった。

 

「ティセ」

 

 兄の声がする。

 

 ロウが彼女の顎をつかみ、顔を穴へ向けた。

 

「跳べ」

 

 五人は砂の膜を破り、落下した。

 

 一瞬、上下が何度も入れ替わる。

 

 胃と頭蓋の中身を別々に振られるような感覚が続いた。

 

 次に足が岩へついたとき、背後の穴はただの壁になっていた。

 

 プクがその場へ倒れる。

 

 メノは鼻血を拭い、全員の瞳孔を確かめた。

 

「上昇はしてない。力場酔いだ。少し休めば治る」

 

 ティセは壁を見た。

 

 ケルムの姿はない。

 

 新しい血もない。

 

 ロウの《一滴さま》だけが、床のくぼみで震えていた。

 

「返してもらいます」

 

 ティセは水滴を小さな匙ですくい、瓶へ戻した。

 

「何を」

 

「この遺物の評価です」

 

 鑑定帳を開く。

 

「力場の歪みに影響されず、実際の重力方向を示す。少なくとも四級、状況によっては三級相当。《右向き針》も、平衡感覚を乱された際の集団誘導に有効――」

 

 ロウが帳面を閉じた。

 

「書くな」

 

「なぜです」

 

「価値がつけば、組合が持っていく」

 

「遺物は適切に鑑定され、管理されるべきです」

 

「倉庫に三年置かれて、競売へ出る。それで必要な時にはない」

 

「必要性を証明すれば、正式に貸与を――」

 

「屑拾いに、三級遺物を二十個も貸すと思うか」

 

 ティセは答えられなかった。

 

「値なしなら、誰も数えない。誰も取り上げない」

 

 ロウは瓶を袋へ戻した。

 

「役に立つことと、高く売れることは同じじゃない」

 

「だから、使える遺物をわざと低く申告してきたんですか」

 

「嘘はついてない。一滴さまは、どこでも下を指す。それだけだ」

 

「使い方を報告しなかった」

 

「聞かれなかった」

 

 ティセは睨んだ。

 

 ロウは平然としていた。

 

「あなたの監視任務が終わったら、すべて再鑑定します」

 

「終わってからにしろ」

 

「止めないんですね」

 

「そのころ、俺が持ってるとは限らない」

 

 言葉の意味を問う前に、ガッドが二人を呼んだ。

 

「こっちを見ろ」

 

 彼は通路の奥で灯りを掲げていた。

 

 壁から、白いものが五本突き出している。

 

 岩の結晶ではない。

 

 人間の指だった。

 

 手首から先が壁の中へ埋まり、指だけが外へ出ている。爪の間には黒い土が詰まり、皮膚にはまだ薄い赤みがあった。

 

 メノが一本へ触れる。

 

 指が動いた。

 

 五本すべてが伸び、通路の奥を指す。

 

 ティセが息を止める。

 

 壁のさらに先で、別の手が岩を内側から叩いた。

 

 どん。

 

 少し離れた場所で、もう一度。

 

 どん。

 

 人の指が、一本ずつ壁から生えた。

 

 すべてが、より深い方角を指していた。




 第7話をお読みいただき、ありがとうございます。

 出口を示せない《右向き針》と、水滴一つしか入っていない《一滴さま》。用途を限定すれば、それぞれが方向感覚の崩壊を防ぐ重要な道具になりました。

 次回は第8話「大断層の夜」。負傷した一行は、壁から生えた指の近くで夜営を余儀なくされます。
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