血の主を追う五人は、目で見た景色も、自分の身体が感じる重力も当てにならない場所へ踏み込みます。
血は、天井から落ちていた。
ティセが灯りを上へ向ける。
赤い跡が岩の裂け目へ続いている。誰かが天井を這ったように、手形が幾つも残っていた。
「上にいる」
プクが声を落とす。
「そう見えるだけだ」
ロウは足元の小石を拾い、裂け目へ投げた。
石は上へ飛び込んだ。
そのまま、天井に沿って奥へ転がっていく。
プクの口が開いた。
「落ちてます?」
「あちら側ではな」
大断層の力場は均一ではない。
場所によって厚く重なり、原生生物や空気の流れに押され、目に見えない布のように歪む。その歪みが極端な場所では、光も音も曲がり、人間の平衡感覚まで狂う。
壁が床に見えるだけなら、まだいい。
自分の身体が、そちらを下だと信じ込む。
ガッドが天井の裂け目へ杭を打った。
主索を通し、荷重をかける。
「血の量は少ない。歩ける程度の傷だろう」
メノが赤い跡を見上げた。
「人間なら、だが」
「人間でなければ?」
ティセが尋ねる。
「追う理由が一つ減る」
ロウが答えた。
「兄の標識の横にあった血です」
「だから追う。兄の血とは言ってない」
「……分かっています」
ティセは先ほどと同じ言葉を、今度は静かに返した。
五人は身体を縄へ預け、裂け目へ移った。
境を越えた瞬間、足元が消えた。
ティセの身体が横へ倒れる。
いや、倒れたのは視界の方だった。
さきほどまで天井だった岩が足の裏へ吸いつき、通ってきた横穴が頭上に開く。胃が遅れて位置を変え、喉まで酸が上がった。
「吐くな」
ロウが背を支える。
「命令、しないでください」
「吐いたものが上へ流れたら、顔に戻ってくる」
ティセは口を押さえた。
「それを、先に言ってください……」
ガッドとメノも着地する。
最後にプクが境を越え、膝から崩れた。
「僕、どこに立ってます?」
「岩の上だ」
「それは見れば分かります。今までの壁ですか、天井ですか、床ですか」
「今は床だ。十分だろ」
「ぜんぜん十分じゃないです」
血の跡は、新しい床を奥へ続いていた。
一行は主索を伸ばしながら進む。
最初の曲がり角を右へ。次は二股を左へ。その先の穴を下へ。
プクが歩数と反響を記録する。
「入口から東へ四十七歩、深度差は下に六歩」
「違う」
ティセが地図を見た。
「方位磁針では北です。それに、私たちは三歩ぶん上がっています」
ガッドが主索を指す。
縄は背後へ伸びているはずなのに、途中から足元へ垂れ、岩の中へ吸い込まれるように見えた。
「俺の感覚じゃ、右へ十五歩だ」
メノも首を振る。
「地面が傾いている。ずっと下ってきた」
四人の記憶が合わない。
ロウは目を閉じた。
耳を澄まし、左足で床を二度叩く。
「戻る」
「血の跡は先です」
「もう追えてない」
灯りを向ける。
赤い点が五方向に分かれていた。
天井にも、左右の壁にも、五人が来た道にも続いている。
それぞれの先から、一滴ずつ血が落ちた。
「増えてる……」
プクが後ずさる。
「ここへ入ってから、誰も傷を負っていません」
ティセは自分の手袋を確かめた。
ロウの右腕の包帯にも、新しい出血はない。
メノが血へ細い試験紙を触れさせる。
色が青黒く変わった。
「人の血だ。だが全部同じ温度だ」
「幻ではない?」
「幻なら、この紙は騙せない」
「見る側の頭だけを騙しているとは限らない」
ロウが腰の袋を探った。
取り出したのは、真鍮色の短い針だった。片側に小さな輪がつき、針先は初めから九十度に折れている。
「《右向き針》」
ティセが鑑定記録を思い出す。
「持った人間の右側だけを指す。方角も出口も示さないため、用途なし」
「今は、右がどちらかも一致してない」
ロウは針の輪へ指を通した。
折れた先端が動き、彼の右肩を指す。
身体を回しても、床へ寝ても、先端は同じ肩を追い続ける。
「方角じゃない。持ち主の身体を基準にする」
ロウは細い糸を出し、全員の腰を一本につないだ。
「俺の右足が出たら、全員も右足を出せ。左も同じだ。自分の目を信じるな」
「行き先は分かるんですか」
プクが聞く。
「入口で、最初に右へ曲がった。その回数を一つずつ戻す」
「記憶が狂っていたら?」
「縄の結び目を数えた。結び目は記憶しない」
ガッドが主索へ手を触れる。
「途中から岩へ入ってるぞ」
「見た目だけだ。張力は後ろから来てる」
ロウが一歩踏み出した。
全員が同じ足を出す。
右。
左。
右。
天井が目の前へ迫る。
視界では、五人は切り立った壁を水平に歩いていた。
身体は落ちない。
次の一歩で、プクが悲鳴を上げた。
「待って! 前、穴です!」
彼の目の前には、底のない縦穴が開いていた。
ロウから見えるのは平らな道だった。
「足を出せ」
「無理です!」
「穴は、お前にだけ見えてる」
「見えてるものに足を出すのが無理なんです!」
ロウは左手を伸ばし、プクの目を覆った。
「なら見るな」
少年の身体を引く。
プクの足が空中へ出たように見えた。
靴底は、硬い岩へついた。
「……あります」
「進め」
五人は一つの身体のように歩いた。
曲がり角を三つ戻る。
そのたび、血の跡が別の方向へ誘った。
無視した。
やがて、主索が急に軽くなった。
ガッドが手繰る。
切れてはいない。
縄の先には、最初に打ったはずの杭がついていた。
「抜けたのか?」
「違う」
ティセが杭へ触れる。
「岩の粉がありません。最初から打ち込まれていないみたいです」
背後で、足音がした。
五人分より、一つ多い。
止まる。
足音も止まった。
進む。
六人分の音がする。
プクが振り返りかけた。
「見るな」
ロウが言う。
「でも、後ろに」
「見たものが増える場所だ」
足音が近づく。
濡れた裸足が、岩を踏む音だった。
メノが短剣を抜く。
「出口を先に探せ」
ロウは背負い袋から、濁った小瓶を出した。
中に水滴が一つだけ入っている。
どれほど傾けても、瓶の底から離れない。
「《一滴さま》」
「いつも真下へ落ちようとする水滴」
ティセが言った。
「普通の水でも同じでは?」
「普通の水は、ここの力場に騙される」
ロウは栓を抜いた。
瓶を逆さにする。
水滴は口から出ず、瓶の側面を這った。
そして、右の壁へ向かって落ちた。
岩へ触れた瞬間、壁の表面に輪が広がった。
水面へ石を落としたような波紋だった。
「あそこが本当の下だ」
ロウが右の壁を指す。
「つまり?」
プクの声が震えた。
「出口は下にある」
見かけの壁へ向かい、ロウは歩いた。
靴が岩へ触れる直前、表面が沈んだ。
薄い膜を破るように、足が中へ入る。
「岩じゃない!」
ガッドが声を上げた。
壁に見えたものは、力場へ貼りついた細かな砂だった。
ロウが身体ごと突っ込む。
砂の膜が崩れ、その先に暗い縦穴が現れた。
水滴が落ちていく。
「全員、俺の腰をつかめ。落ちたら上を見るな」
「上を見なければ、上昇負荷は来ないんですか?」
「見る向きは関係ない。身体が上がれば来る」
「安心できる説明が一つもない!」
プクが叫ぶ。
背後の足音が走り出した。
ティセが最後に振り返った。
血まみれの人影が近づいていた。
顔はケルムだった。
だが、手足の曲がる方向がすべて逆だった。
「ティセ」
兄の声がする。
ロウが彼女の顎をつかみ、顔を穴へ向けた。
「跳べ」
五人は砂の膜を破り、落下した。
一瞬、上下が何度も入れ替わる。
胃と頭蓋の中身を別々に振られるような感覚が続いた。
次に足が岩へついたとき、背後の穴はただの壁になっていた。
プクがその場へ倒れる。
メノは鼻血を拭い、全員の瞳孔を確かめた。
「上昇はしてない。力場酔いだ。少し休めば治る」
ティセは壁を見た。
ケルムの姿はない。
新しい血もない。
ロウの《一滴さま》だけが、床のくぼみで震えていた。
「返してもらいます」
ティセは水滴を小さな匙ですくい、瓶へ戻した。
「何を」
「この遺物の評価です」
鑑定帳を開く。
「力場の歪みに影響されず、実際の重力方向を示す。少なくとも四級、状況によっては三級相当。《右向き針》も、平衡感覚を乱された際の集団誘導に有効――」
ロウが帳面を閉じた。
「書くな」
「なぜです」
「価値がつけば、組合が持っていく」
「遺物は適切に鑑定され、管理されるべきです」
「倉庫に三年置かれて、競売へ出る。それで必要な時にはない」
「必要性を証明すれば、正式に貸与を――」
「屑拾いに、三級遺物を二十個も貸すと思うか」
ティセは答えられなかった。
「値なしなら、誰も数えない。誰も取り上げない」
ロウは瓶を袋へ戻した。
「役に立つことと、高く売れることは同じじゃない」
「だから、使える遺物をわざと低く申告してきたんですか」
「嘘はついてない。一滴さまは、どこでも下を指す。それだけだ」
「使い方を報告しなかった」
「聞かれなかった」
ティセは睨んだ。
ロウは平然としていた。
「あなたの監視任務が終わったら、すべて再鑑定します」
「終わってからにしろ」
「止めないんですね」
「そのころ、俺が持ってるとは限らない」
言葉の意味を問う前に、ガッドが二人を呼んだ。
「こっちを見ろ」
彼は通路の奥で灯りを掲げていた。
壁から、白いものが五本突き出している。
岩の結晶ではない。
人間の指だった。
手首から先が壁の中へ埋まり、指だけが外へ出ている。爪の間には黒い土が詰まり、皮膚にはまだ薄い赤みがあった。
メノが一本へ触れる。
指が動いた。
五本すべてが伸び、通路の奥を指す。
ティセが息を止める。
壁のさらに先で、別の手が岩を内側から叩いた。
どん。
少し離れた場所で、もう一度。
どん。
人の指が、一本ずつ壁から生えた。
すべてが、より深い方角を指していた。
第7話をお読みいただき、ありがとうございます。
出口を示せない《右向き針》と、水滴一つしか入っていない《一滴さま》。用途を限定すれば、それぞれが方向感覚の崩壊を防ぐ重要な道具になりました。
次回は第8話「大断層の夜」。負傷した一行は、壁から生えた指の近くで夜営を余儀なくされます。