値なきものの墓標   作:まねきまねき

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壁から生えた無数の指は、五人に深部への道を示しました。

 しかし、ロウの骨折と全員の疲労は限界に近づいています。疑わしい道の途中で、彼らは一夜を過ごすことになります。


大断層の夜

「指示に従うのか?」

 

 ガッドが尋ねた。

 

「道が同じなら」

 

 ロウは指の示す先へ灯りを向けた。

 

 通路は緩やかに下っている。

 

 人間の指に案内されなくても、深界四層へ近づく方向だった。

 

「同じでなくなったら?」

 

「折る」

 

 壁の指が一斉に曲がった。

 

 まるで、言葉を聞いたようだった。

 

 プクがロウの背後へ半歩隠れる。

 

「今の、怒りましたよね」

 

「指に顔はない」

 

「顔がないから余計に怖いんです」

 

 ロウは一本の前へしゃがんだ。

 

 爪の形、関節、皮膚の硬さを確かめる。短剣の先で浅く傷をつけると、赤黒い液がにじんだ。

 

「人の身体に似てる。人の指とは限らない」

 

 メノが横から見る。

 

「脈がない。体温も岩と同じ。切り落として調べるか」

 

 指が壁の中へ引っ込んだ。

 

「聞こえてますよ、絶対」

 

 プクの声が高くなる。

 

「聞こえているなら話が早い」

 

 ロウは壁へ向かって言った。

 

「先へ行く。近づくな」

 

 返事はない。

 

 ただ、少し先の壁から新しい指が生え、下り道を示した。

 

 一行は距離を取り、後を追った。

 

 通路は二時間ほど続いた。

 

 途中に分岐が七つあったが、指は迷わず同じ方向を示す。新しい血も、ケルムの標識も見つからない。

 

 代わりに、壁の内部から音がした。

 

 何百本もの爪が、五人と並んで岩をひっかいている。

 

 休まず歩こうとしたロウを、メノが止めた。

 

「座れ」

 

「まだ進める」

 

「お前の右手が紫になってる」

 

 包帯から出た指先は腫れ、確かに色が変わっていた。

 

「骨片がずれれば、墜腕どころか箸も持てなくなる。ここで六時間休む」

 

 ロウは奥を見た。

 

「血の主に離される」

 

「そいつを追って全員倒れれば、離されるどころでは済まない」

 

 メノはロウの返事を待たず、野営地を探し始めた。

 

 見つかったのは、通路から少し外れた円形の空洞だった。

 

 入口は一つ。天井に通気孔があり、床は乾いている。壁には指も生えていなかった。

 

 ガッドが入口へ鳴子と縄を張った。

 

 プクが音響棒で壁の厚さを調べる。

 

「奥に空洞はありません。小さな虫の反響が少し。たぶん食べられない方です」

 

「食べられる虫を探していたのか」

 

「食料は減ってますから」

 

「いい心がけだ。見つけたら自分で味見しろ」

 

「褒めた直後に見捨てないでください」

 

 メノが携帯炉へ鍋を置いた。

 

 乾燥肉と固い根、わずかな塩を水で煮る。豪華ではない。それでも、湯気の匂いが空洞に広がると全員の肩から力が抜けた。

 

 ロウは背負い袋から、黄色い糸巻きを出した。

 

「《痛み糸》」

 

 ティセが言う。

 

「傷の周囲へ巻くと、痛みを一割ほど弱くする」

 

「一割?」

 

 プクが目を丸くした。

 

「効くんじゃないですか」

 

「代わりに、外してから同じ痛みをまとめて感じる」

 

「最悪じゃないですか」

 

「戦ってる間だけ動ければいい」

 

「その考え方が最悪なんです」

 

 ティセが糸巻きを取り上げた。

 

「今夜は治療のために休むんです。痛みをごまかして動くためではありません」

 

「眠れない」

 

「なら、眠るために使います。朝になったら、外す前に鎮痛薬を入れます」

 

 彼女は包帯を解き、痛み糸を腕へ巻いた。

 

 指先の血流を確かめ、添え木の位置を直す。

 

 手つきに迷いはなかった。

 

「毒の鑑定士にしては慣れてる」

 

「探窟家は、鑑定台へ座っているだけでは務まりません」

 

「兄に教わったのか」

 

 ティセの指が止まった。

 

「……半分は」

 

 残りを聞かず、ロウは口を閉じた。

 

 野営の見張りは二人一組、二時間ずつ交代することになった。

 

 眠ったふりをする者や、意識を失った者を見分けるため、ロウは小さな灯りを出した。

 

 手のひらに載る、乳白色の珠だった。

 

「《眠り灯》だ。持ってる人間が眠ると光る。起きれば消える」

 

 ガッドが眉を上げる。

 

「見張り中に消えたら役に立たんだろ」

 

「眠る側に持たせる。灯りがついていれば、本当に眠ってる。消えたら起きたか、何かに起こされた」

 

「それなら使えるじゃないですか」

 

 プクが言った。

 

「一度光ると、持ち主の夢を一場面だけ外へ映す」

 

「返してください」

 

 プクが伸ばしかけた手を引いた。

 

 最初に眠るメノが、ため息とともに珠を受け取った。

 

「好きに見ろ。夢まで治療記録に書かれなければいい」

 

「俺は起きてる」

 

 ガッドが鍋をかき混ぜた。

 

「見ない方が難しいな」

 

 食事を終えると、メノは毛布へ横になった。

 

 眠り灯を胸の上に置く。

 

 やがて珠へ淡い光がともった。

 

 光の中に、小さな食卓が浮かんだ。

 

 メノより若い男が椅子へ座り、その膝に赤ん坊を抱いている。夢の中のメノは鍋を運び、男の頬へ口づけた。

 

 ガッドはすぐ視線を外した。

 

 プクも何も言わなかった。

 

 夢の食卓は、数秒で消えた。

 

 珠の光だけが残る。

 

「旦那さんですか」

 

 プクが小声で尋ねた。

 

「死んだ」

 

 ガッドが答えた。

 

「娘は地上にいる。ニアって名だ」

 

「帰りを待ってるんですね」

 

「待たせてる、だ」

 

 ガッドは空になった器を布で拭いた。

 

「俺にも息子がいる。トマ。十二だ。最近、俺の縄より口の方が達者になった」

 

「ガッドさんも、待たせてるんですか」

 

「帰ると言ってきた」

 

「それ、違うんです?」

 

「違う。帰るって決めた奴は、戻るための道を残す。待たせてると思う奴は、死んだときの言い訳を考える」

 

 ガッドは結び終えた予備縄を引いた。

 

「お前はどっちだ、プク」

 

 少年は答えなかった。

 

 膝を抱え、焚き火の代わりの携帯炉を見る。

 

「僕、今日、落ちたとき」

 

 声がかすれた。

 

「母さんのことも、街のことも思い出さなかったんです。頭にあったのは、死にたくないって、それだけで」

 

「普通だ」

 

「でも、探窟家なら、もっと……覚悟とか、見るべきものとか」

 

「死に方を格好よくするために潜ったのか」

 

 ロウが聞いた。

 

「違います」

 

「なら、生きたいでいい」

 

「黒笛でも、怖いですか」

 

「怖くない奴は、黒笛になる前に死ぬ」

 

 ロウは壊れた靴底へ革を当てていた。

 

「怖いものの数が増えて、それでも動ける奴が笛の色を変える」

 

 プクは少し考えた。

 

「ロウさんが一番怖いのは?」

 

 針を動かす手が止まる。

 

「数え間違いだ」

 

「遺物の?」

 

「人の」

 

 ロウは五人を一度ずつ見た。

 

 プクはそれ以上聞かなかった。

 

 見張りの最初は、ロウとティセだった。

 

 ガッドとプクが眠り、空洞は静かになる。

 

 入口の向こうから、壁をひっかく音だけが続いていた。

 

 ティセは鑑定帳を開いた。

 

 《右向き針》と《一滴さま》の欄は空白のままだ。

 

「書かないのか」

 

「今は」

 

「監視役が規則を曲げた」

 

「保留です。曲げてはいません」

 

「便利な言葉だな」

 

「あなたにだけは言われたくありません」

 

 帳面を閉じる。

 

「兄と最後に会ったのは、いつですか」

 

 ロウは入口を見たまま答えた。

 

「三年前。四層の端だ」

 

「何を話しました」

 

「地上に戻れと言われた」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 ティセはロウを見た。

 

「嘘ですね」

 

「なぜ」

 

「あなたは答える前に、右の奥歯をかむ。競売場で《遠見板》の危険性を尋ねたときもそうでした」

 

 ロウの顎がわずかに動いた。

 

「今も、かみました」

 

「よく見てる」

 

「監視役ですから」

 

 沈黙が落ちた。

 

 眠り灯の光が、メノの胸でゆっくり明滅する。

 

「全部話してください」

 

 ロウは折れた腕を膝へ載せた。

 

「ケルムは、地上へ戻れと言った。そのあと、伝言を頼んだ」

 

「誰に」

 

「お前に」

 

 ティセの呼吸が止まる。

 

「何と」

 

 ロウは、今度は奥歯をかまなかった。

 

「『妹には来るなと伝えろ』」

 

 乾いた音がした。

 

 ティセの拳が、ロウの頬へ当たっていた。

 

 ガッドが目を開ける。

 

 プクも毛布から顔を出した。

 

 眠っているメノの灯りだけが消えない。

 

「三年間」

 

 ティセの拳が震えた。

 

「三年間、知っていたんですか」

 

「ああ」

 

「なぜ言わなかった!」

 

「言えば、お前は来た」

 

「言わなくても来ました!」

 

「三年遅れた」

 

 ティセがもう一度殴ろうとした。

 

 ロウは避けなかった。

 

 拳は途中で止まった。

 

「最低です」

 

「そうだな」

 

「兄の命令を守ったつもりですか」

 

「違う」

 

「では、何です」

 

「俺が、お前を連れて行きたくなかった」

 

 ティセの目に涙が浮かんだ。

 

 落ちる前に、彼女は背を向けた。

 

「見張りを代わってください」

 

 ガッドが黙って起き上がった。

 

 ティセは空洞の反対側へ行き、毛布を頭までかぶった。

 

 それから一時間、誰も口をきかなかった。

 

 交代の時刻になっても、ティセは眠らなかった。

 

 ロウが横になろうとすると、彼女は毛布から出てきた。

 

「腕を出してください」

 

「寝ろ」

 

「包帯が緩んでいます」

 

「殴ったせいだ」

 

「左で殴りました。右腕には触れていません」

 

 ティセはロウの前へ座った。

 

 包帯を解き、添え木を当て直す。新しい糸で一巻きずつ、丁寧に固定した。

 

「まだ怒っています」

 

「知ってる」

 

「許してもいません」

 

「それでいい」

 

「勝手に決めないでください」

 

 最後の結び目を、必要以上に強く締める。

 

 ロウの眉が動いた。

 

「痛いですか」

 

「少し」

 

「生きている証拠です」

 

 彼女は立ち上がった。

 

「兄を見つけたら、今の話を本人にも聞きます。そのあとで、あなたをもう一度殴るか決めます」

 

「分かった」

 

「返事だけは素直なんですね」

 

 ティセが離れる。

 

 そのときだった。

 

 空洞が暗くなった。

 

 眠り灯が消えている。

 

 メノが目を覚ましたのだと、全員が思った。

 

 だが、彼女は横になったままだった。

 

 目は閉じている。

 

 呼吸も深い。

 

「メノ?」

 

 ガッドが近づく。

 

 メノの身体が、糸で引かれたように起き上がった。

 

 両目が開く。

 

 瞳は上を向き、白目しか見えない。

 

 眠り灯は消えたままだ。

 

 眠っているメノは、裸足で入口へ歩き始めた。




 第8話をお読みいただき、ありがとうございます。

 五人が帰る理由と、ロウが三年間隠してきたケルムの伝言が明かされました。ティセの怒りは当然ですが、それでも彼女は折れた腕を放っておけません。

 次回は第9話「温かいふりをしたもの」。眠ったまま歩くメノの身体と、五人が口にした食事の中に、目に見えない侵入者が見つかります。
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