食事と休息で取り戻したはずの温かさが、今度は五人を内側から侵します。
メノは、鳴子の縄をまたいだ。
目は開いている。
瞳は見えない。
それでも、足は張られた縄の位置を知っていた。
「止まれ」
ガッドが肩をつかむ。
メノは止まらない。
細い身体からは考えられない力で、男の腕を引きずった。
「メノ、起きろ!」
頬を叩く。
反応はない。
口だけが動いた。
「ニア」
娘の名だった。
「ニアが、外にいる」
入口の向こうは、壁から人の指が生える暗い通路だ。
地上にいる幼い娘がいるはずはない。
ロウがメノの脚を払った。
倒れる身体をガッドが受け止める。
ティセは毛布を帯状に裂き、手首と足首を縛った。
「眠り灯を」
胸元の珠を拾う。
光はない。
「眠っていません」
「意識もない」
ロウが瞼を持ち上げた。
白目の表面で、何かが動いた。
髪の毛より細い線が、血管に逆らって這っている。
「灯りを近くへ」
ティセが指示する。
プクが携帯灯を持ってきた。
光が強くなると、線は瞼の裏へ逃げた。
一本ではない。
十本以上の透明な糸が、眼球の表面へ潜んでいた。
プクが口元を押さえる。
「虫……?」
「たぶん」
ティセは細い器具で、メノの下唇をめくった。
歯茎にも透明な線が絡みついている。
「吸血ではありません。出血がない。神経へ接続している」
「取れるか」
ガッドが聞く。
「一本ずつなら。でも、途中で切れたら体内に残ります」
メノの首が不自然な角度に曲がった。
縛られた腕が持ち上がる。
指が空中を探り、見えない誰かの手を握った。
「あなた」
メノが微笑んだ。
夢に映った、死んだ夫へ向けた顔だった。
「ニアも来たのね。三人で帰りましょう」
ガッドが目をそらす。
ロウはメノの頬へ指を当てた。
「熱い」
ティセが体温計を脇へ挟む。
「四十度近い。熱を下げます」
「待て」
ロウは水筒の冷たい水で、自分の指を濡らした。
メノの耳の裏へ触れる。
皮膚の下の細い線が、一斉にその指から離れた。
「熱を嫌ってる?」
プクが言う。
「逆だ。生きてる温度を選んでる」
ロウは荷を開いた。
小さな赤茶色の石を取り出す。
表面に一筋だけ、橙色の光が走っていた。
「《ぬる火》」
ティセが鑑定帳の記憶をたどる。
「石一つを、人肌程度に温める。煮炊きにも暖房にも不足するため、価値なし」
「こいつらには、人肌で十分だ」
ロウはぬる火を布で包み、水滴を少し染み込ませた。
メノの耳元へ置く。
ティセは意図に気づいた。
「身体を冷やして、こちらを一番温かくするんですね」
「急に冷やしすぎるな。メノまで殺す」
「医療の指示は私が出します」
彼女は冷却剤を首、脇、太腿へ当てた。
熱の逃げ方を確かめながら、一か所ずつ増やしていく。
メノの体温が下がり始めた。
三十九度八分。
三十九度二分。
三十八度七分。
ぬる火は、三十九度を保っている。
最初の一本が、メノの耳から出てきた。
透明な糸は先端を空中で振り、温めた石へ伸びる。
布へ触れた瞬間、内部へ潜り込んだ。
続いて、鼻から二本。
目頭から三本。
歯茎の隙間から、数え切れないほどの細い糸が這い出す。
プクが喉を鳴らした。
「これ、全部……中に?」
「数えろ」
ロウが言った。
「気をそらすために数えるんじゃない。出た数を知るためだ」
「はい……一、二、三……」
糸はぬる火を包み、透明な繭を作った。
それでも終わらない。
メノの爪が浮いた。
爪と肉の間から、細い束が押し出される。
束が動くたび、爪が一枚ずつ持ち上がった。
メノの喉から、眠ったまま悲鳴が漏れた。
ガッドが彼女の身体を押さえる。
「もう少しだ」
「それ、本当に本人へ言ってます?」
プクは泣きそうな顔で数え続けた。
「六十三、六十四……」
最後の一本は、舌の裏から出た。
ぬる火へ移ると、メノの身体から力が抜けた。
「百十二」
プクが言った。
ティセは全身を調べ、呼吸と脈を確かめる。
「まだ意識は戻りません。でも、熱は下がっています」
「石を燃やせ」
ロウが繭を指した。
ガッドが油をかける。
火を近づけた瞬間、透明な糸が一斉にほどけた。
繭の表面へ、百を超える小さな口が開く。
すべてが同時に、赤ん坊の声で泣いた。
炎が包む。
泣き声は夫の声に変わり、娘の声に変わり、最後にメノ自身の声になった。
「熱い」
燃え尽きるまで、同じ言葉を繰り返した。
空洞へ焦げた甘い匂いが満ちた。
ティセは布で鼻を覆う。
「全員、口も塞いで。胞子かもしれません」
一行は野営道具を点検した。
虫の侵入経路はすぐに見つかった。
鍋の底だった。
食べ残しへ透明な膜が張り、その中で細い糸が無数に揺れている。
「俺たちも食べた」
ガッドが自分の腹を押さえた。
「なぜ、メノだけ」
「最初に眠ったからかもしれません」
ティセが器を並べる。
残った乾燥肉、根、塩、水。それぞれを別の皿へ移した。
「原因を特定します。口に入れず、匂いだけ――」
プクが根の袋へ顔を近づけた。
「あれ」
「触らないで」
「これ、母さんの煮込みの匂いがします」
ガッドも眉を寄せた。
「俺には、焼いた川魚だ」
「干した豆の匂い」
ティセが言う。
同じ袋から、全員が別の食べ物を感じていた。
ロウは根を一本折った。
断面は乾いている。
菌糸らしきものは見えない。
ほんの少し舌へ触れさせる。
「何の味です」
「焦がした芋」
「好きだったもの?」
「昔は」
「味覚を通じて、記憶を刺激している?」
「違うかもしれない」
ロウは別の袋から、欠けた陶器の匙を出した。
競売場の廃棄箱で拾った、八十二個目の遺物だった。
「それは《痺れ匙》」
ティセが言う。
「触れた舌を十秒ほど麻痺させるだけ。毒性も治療効果もない」
「味が消えたあと、残るものを調べる」
ロウは匙を舌へ当てた。
数秒後、もう一度、根の断面へ触れる。
「味は?」
「まだ焦がした芋だ」
「舌が痺れているのに?」
「味じゃない。頭の中で食わされてる」
ティセも痺れ匙を使い、根を調べた。
舌は何も感じない。
それでも、幼いころケルムが作った塩辛い豆粥の味が、口の中いっぱいに広がった。
記憶の中と同じだった。
焦げた鍋の匂いまでした。
「根です」
彼女は吐き出した。
「全部、燃やしてください」
プクが袋の量を見た。
「食料の三分の一ですよ」
「食べれば、次に眠った人が歩き出す」
「残りで四層を抜けられるか?」
ガッドが問う。
ロウは計算した。
「予定通りなら足りる。予定がずれれば、現地で取る」
「食べられる虫を探しておきます」
プクが真顔で言った。
「今度は俺が先に味見する」
ガッドが答えた。
汚染された食料を、ぬる火の残骸と一緒に燃やした。
煙が通気孔へ吸い込まれる。
壁の向こうで、指が煙を追うように動く音がした。
夜明けのない大断層で、時間だけが過ぎた。
メノが目を覚ましたのは、一時間後だった。
最初に娘の名を呼び、次に夫の名を呼んだ。
ガッドが水を飲ませる。
「ここがどこか分かるか」
「大断層……横穴」
「俺は」
「顔の怖い縄屋」
「治ったな」
ガッドが息を吐いた。
メノは起き上がろうとし、指先の包帯に気づいた。
「何があった」
ティセが簡潔に説明した。
百十二本の糸。温度へ集まる性質。記憶の味を見せる根。
メノは黙って聞いた。
「夢を見た」
やがて言った。
「夫とニアがいた。地上の家だった。でも、窓の外だけが違った」
「何が見えた?」
ロウが尋ねる。
「庭」
「どんな」
「白い木が並んでいた。枝に、人の歯と指が実っていた」
空洞の外で、壁をひっかく音が止まった。
メノの顔がこわばる。
「木の下に、女がいた。顔は見えなかった。自分を《庭の母》と呼んだ」
ティセがロウを見る。
「何を話したんです」
「帰っておいで、と」
「誰に?」
メノはロウの背負い袋を指した。
「その中の子供たちに」
袋の中で、遺物が一つ鳴った。
次に別の遺物が鳴る。
金属、陶器、硝子、骨。
八十二個のガラクタが、袋の内側から一斉に震え始めた。
「あの女は、全部の名を知っていた」
メノがかすれた声で言う。
「ロウ。あなたの八十二人の子供を、庭へ返せって」
第9話をお読みいただき、ありがとうございます。
人肌までしか温められない《ぬる火》は寄生体を誘い出し、舌を痺れさせるだけの《痺れ匙》は、味ではなく記憶を直接見せる汚染を暴きました。
次回は第10話「血の雨」。食料を失った五人は深界四層へ入り、雨の中で姿の見えない捕食者と、より重い上昇負荷に襲われます。