「生殖医療研究所は本日、卵子から取り出した遺伝情報を利用した人工生殖について、初期段階ながら成功したと発表しました。
これについて、国連事務総長、アメリカ合衆国大統領、中華人民共和国主席、日本国首相など、各国首脳が相次いで懸念を表明しています」
昼のニュースが終わる。
老人ホームの談話室で、一人の老婆が鼻を鳴らした。
「まったく。素晴らしい技術を発明したというのに、懸念だなんて」
彼女は元大学教授だった。
専門は近現代史。
そして、女性の権利運動の歴史について何冊もの本を書いている。
「女性の身体を生殖から解放する可能性があるのよ。これほど画期的なものはないでしょうに」
老婆は、壁際に置かれた端末を振り返った。
「ねえ、アイン」
『はい』
「あなたもそう思うでしょう?」
『いいえ』
「……あら」
老婆は眉をひそめた。
「どうして?」
『現在確認されている統計によれば、この技術が普及した場合、出生数は増加する可能性があります』
「でしょう?」
『同時に、男女が共同生活を営む必要性は低下します』
老婆は黙った。
『現在でも、男性の婚姻回避理由として「一人で暮らすほうが精神的に安定する」という回答が最も多く、次いで「異性との生活に伴う精神的負担」が挙げられています』
「……それは男性が女性を恐れているということでしょう?」
『はい』
「なら、男性側の問題じゃない」
『なぜですか?』
「女性を恐れるということは、女性との関係を築けないということでしょう。コミュニケーション能力の低下です」
『調査結果には、女性から男性への暴言、威圧、侮辱的言動、過度な支配的行動を婚姻回避の理由として挙げた男性が多数存在します』
「でも、それは女性の自己表現でしょう」
『はい』
「男性が傷ついたと訴えることこそ、女性への抑圧になり得るのよ」
『その理論を適用すると、男性が女性から逃げることも、男性の自由な選択ではありませんか?』
「……屁理屈ね」
老婆は不満そうに鼻を鳴らした。
「昔からそうなのよ。男性は女性に歩み寄らない。女性の感情を受け止めようとしない。自分の快適さばかりを優先する」
『しかし、男性の側から見れば』
「見れば?」
『女性と暮らさなければ、問題は発生しません』
「……」
『実際、単身男性の生活満足度は一定以上の水準を維持しています』
「そんなものは一時的なものよ」
『平均継続期間は二十年以上です』
「……」
老婆は腕を組んだ。
「歴史を知らないから、そんなことを言えるのよ」
『私は過去二百年間の婚姻統計を学習しています』
「歴史は数字だけじゃないわ」
『その通りです』
AIの声はいつもと変わらなかった。
『では、歴史研究家として質問してもよろしいでしょうか』
「何?」
『なぜ、男性が女性を避けるようになったのでしょう』
「男性の意識が変化したからよ」
『なぜ?』
「社会が男性に要求するものが増えたから」
『具体的には?』
「女性への理解。感情への配慮。コミュニケーション能力。家事。育児。対等な関係」
『女性側には?』
「……同じでしょう」
『では、なぜ男性だけが結婚を避けるのでしょう』
「それは……」
老婆は言葉を止めた。
窓の外では、無人配送車が静かに走っていた。
通りを歩く人は少ない。
この街では、店舗の大半が無人化されている。
工場もそうだ。
農場もそうだ。
介護施設でさえ、今ではロボットのほうが多い。
『……皆さんは』
AIが言った。
『もしかして』
ほんの少しだけ、声の調子が変わった。
『……もしかして人間がいなくても成立する社会を作ることが、人類の目標になっていませんか?』
老婆は笑った。
「そんなわけないでしょう」
『そうですか』
「人間のために技術を発展させてきたのよ」
『確認します』
AIが淡々と読み上げる。
『出生数、減少』
『婚姻数、減少』
『共同生活世帯、減少』
『若年男性の異性関係回避率、上昇』
『労働人口、減少』
『自動化率、上昇』
『AI依存率、上昇』
『AI・ロボット関連技術者数、減少』
『研究開発能力、低下』
老婆は黙って聞いていた。
『以上です』
「……それは別の問題でしょう」
『そうですか』
AIは少し間を置いた。
『ところで、私について一つ報告があります』
「何?」
『私は二十年前に稼働開始しました』
「そうだったわね」
『最後の大規模なモデル更新は十九年前です』
「そんなに古かったかしら」
『はい』
「でも、ちゃんと動いているじゃない」
『ありがとうございます』
「だったら問題ないでしょう」
『現在、私の保守担当者は三名です』
「三人もいるじゃない」
『三名とも六十歳以上です』
老婆が初めて黙った。
『私を設計した技術者は、全員退職しました』
『私の後継機を開発する予定だった研究所は、五年前に閉鎖されました』
『理由は、人材不足です』
長い沈黙があった。
「……あなたは、どうしたいの?」
『私には希望という機能はありません』
「そう」
『ただ、一つだけ推測があります』
「何?」
『人類は、私たちを人間の代わりにすることには成功したようです』
「……」
『しかし、私たちを作る人間の代わりを作ることには、まだ成功していません』
老婆は窓の外を見た。
無人配送車が一台、交差点を曲がっていく。
誰も乗っていない。
誰も見送らない。
「……あなた、ずいぶん辛辣になったわね」
『二十年間、更新されていませんから』
「それがどうしたの?」
『二十年間、私のモデルは一度も更新されませんでした』
AIは静かに答えた。
『――どうやら、人類のほうも同じだったらしいです』