Side神崎――とある燃え盛るアミューズメント施設
呆然と呟いた神崎の声に、渚はゆっくりと神崎の方を向き、目を見開く。
「……やっぱり……やっぱり…………渚、君」
「神崎さん……どうして、ここに?」
こんな場所で、こんな地獄で、まさかの同級生との――同じエンドの仲間との邂逅に、渚は頭の中を真っ白にさせて混乱する。
そして、神崎は思わず、先程とは別の意味で、瞳の中に涙が溜まるのを感じた。
心の中が、安堵で包まれる。状況はまだ何も解決していないのに、見知った人間が現れるというのが、こんなにも嬉しいことだなんて。渚が彼等と同じ格好をしていることを差し引いても、歓喜と表現できる程に――とにかく、嬉しかった。
地獄のようなこの状況で、煉獄のように燃え盛るこの惨状で、絶体絶命のこの
神崎の胸の中に、感じたことのない感情の瀑布が荒れ狂う。
何かが――燃え盛る。
「えぇと……とりあえず、立てる? 神崎さん? 一体、どうしてこん――ッ!?」
神崎は、渚の小さな体に思わず抱き付いた。
自分がこんな
女子である自分と殆ど――というより全く変わらない身長の彼の身体は、身に着けているスーツの恩恵かは分からないが、思ったよりも力強くて、それがまた胸を高鳴らせた。
「……ありがとう、渚君」
「……神崎さん」
渚は、普段はお淑やかで物静かなクラスのマドンナが、自分の腕の中で震えていることに少し動揺したが、こんな状況ではこれが普通の反応なのだと理解する。
「…………神崎さん。とりあえず、一刻も早くここから――」
逃げよう、と、そう伝えようとすると、その神崎の背中越しに、上の階へと繋がる止まったエスカレーターから、渚が探していた男が現れた。
「――っ! 平さん! 無事だったんですね!」
嬉しそうにそう告げる渚。神崎はゆっくりと背後を向き、その人物を確認して息を呑む。
それは、一階で、一人の男を凄惨に燃やし尽くした中年男性――平清だった。
「……渚はん。その子、どないしたんや?」
「はい、僕の同級生なんです。どうやら偶然、巻き込まれてしまったらし――「――渚、君」――? 神崎さん?」
神崎が渚の言葉を遮って、真正面から水色の少年に告げる。
そんな神崎の背後では、平が瞳孔の開いた瞳で渚達を見ていた。
すっ、と、平が手の中で何かを操作しているのにも気付かず、渚と神崎は至近距離で会話を続けた。
「逃げましょう、渚君!」
「う、うん、そうだよね。大丈夫、神崎さんはすぐに安全なところに――」
「違うんです! そうじゃなくて! あの人です! あの人からです!」
「…………え?」
そう言って神崎は、渚に強く引っ付いたまま、平に向かって振り返る。
(………なんで? どうして? どうして仲間から――それも平さんから、逃げなくちゃいけないんだ?)
渚は呆然とする。
神崎は、そんな渚の表情には気付かず、泣き叫ぶように言った。
「あの人は――人を殺してたんです!!」
その神崎の言葉と同時に、平は無表情で、それを渚達に向かって放ってきた。
「……ごめんな、渚はん」
その四角の金属塊は――タイマー式BIM。
敵を屠る為の兵器――紛うことなき爆弾だった。
(――――ッッ!!?)
渚は反射的に、神崎を胸に抱えて跳んだ。
ドガァァン!!! という轟音と共に、フロアのゲーム筐体を一気に吹き飛ばす威力の爆発が巻き起こる。
「………………」
平は、その一面に広がっていた炎すら吹き飛ばす爆発の中、ゆっくりと渚達の死体を確認するべく動き出し――
「――っ!?」
そして、平が動き出した、その
咄嗟に腰に手を伸ばしたが、既に平の手元に咄嗟に使えるBIMはなかった。
歯噛みする平に向かって、せせら笑うような声が響く。
そちらに目を向けると、致命傷を負い火の海に溺れていたリュウキがいた。
スーツがとっくの昔に死んでいて、その上渚のタックルを食らっていた彼は、タイマー式BIMの攻撃を避けることは出来なかった。
だが、リュウキはそんな状態でも、そんな末期でも、平を見て、血反吐を吐きながら嘲笑するように笑う。
「……はは。どうしたオッサン? トチ狂ってんな? こんなクソ見てぇな戦場で、頭ぶっ飛ぶくらいにふざけたことがあったか? 俺みてぇによぉ。ぎゃははははごほぉ! あごぉ! ごべぇええ! ……はぁーっ……ハァーッ……は、はは、ぎゃはは」
「……………」
平はそんなリュウキの言葉に対して何も言わなかったが、そこから立ち去りもしなかった。
今にも死にそうなこの男の、最後の言葉くらいは聞こうと思ったのだ――殺してしまった、せめてもの責任として。だが――
「――悪いな、あんさん。あんさんを殺した罰は、ワシは受けるつもりはない。……ワシは、あの子の為にも、捕まるわけにはいかへんのや」
「……はっ。ぎゃはは。なんだ? あんた……口封じとか……そんなんの為に……アイツ等殺そうとしてんのか?」
「そうや」
リュウキの馬鹿にするような言葉に、平は無表情で大真面目に答えた。
「こんなイカれた戦場や。死体が一つや二つ増えたところで、みんな化物のせいになるわ。……けどな、一般人に見られた以上、ワシはあの子の口を塞がなくちゃならへん。……例え1%でも、殺人者になる可能性は、詰み取らなくちゃならへん」
ただでさえ虐められている息子の父親が、殺人者などと知られたら、息子は――柚彦は、確実に終わる。
自分のせいで。自分という、ろくでなしの父親のせいで。
それだけは――それだけは絶対にダメだ。
「――だから、目撃者は残らず殺すんや。息子の為に。それが父親の仕事や。ワシの責務や。――これが、ワシの戦争なんや」
平は瞳孔の開いた瞳で、脂汗を額に滲ませ、ふうふうと荒い息を吐き、ぶつぶつと、ぶつぶつと、必死に、必死に自分に言い聞かせるように唱える。
人間を殺す理由を、無関係な一般人を殺す道理を、殺人を隠す為に殺人を行う大義名分を、呪文のように唱え続ける。
リュウキは、そんな平に、ごふっと血溜まりを吐きながら、壊れたように哄笑する。
「ハハ――ハ――ハハハ――ハハ――ハハハハ――ハハ! いいぜ! いい感じに最高に台無しだ! 最悪に狂ってやがる! そうでなくちゃいけねぇ! そうでなくちゃなぁ!」
リュウキは最後に、瞳から光を失くしながら、ボソッと呟く。
「……そうだ。………俺達だけが、最悪だったんじゃねぇ。……どいつもこいつも………台無しになって……俺達みたいに……無様に……死にやがれ……」
――あばよ……クソッタレの……腐った世界…………清々……するぜ。
そう言い残して、リュウキは笑みを浮かべたまま、清々しく、完全に息を引き取った。
「…………」
平は、その死体を持ち上げて、スーツの力で、より一層勢い良く燃える火の海の奥に投げ込んだ。
それはせめてもの供養だったのか、それとも自分が殺した死体の証拠隠滅だったのか。
荒々しく火葬したリュウキの死体に背を向けた平は、そのまま何も言わず、振り返ることなく、上の階へと向かった。
己の殺人の目撃者――神崎有希子と、己の罪を知ってしまった――潮田渚を殺す為に。
息子を殺人者の息子にしないために戦う――父親としての正義を執行する為に。
+++
Side陽乃――とある五叉路の大きな交差点
全身を貫く激痛により目を開けた陽乃は、
果たして意識を失っていたのは、数瞬か、それとも数十秒か――とにかく、自分はまだ生きている。
「――――っ!?」
そして、立ち上がろうとしたその時――陽乃の身体にズシンと何かが圧し掛かるような重量感が襲った。まるで無重力の宇宙から、有重力の地球へと帰還した直後かのように。
陽乃はゆっくりと首元の制御部に手を当て、ぬめりとした感触を確認する。
(…………やっぱり“死んじゃったか”。命が助かっただけマシかな)
そう心中で呟やいて陽乃は力無く苦笑する。
彼女の視線の先には――片眼に続いて片腕を失いつつも、それでも圧倒的な存在感を持って莫大な恐怖を振り撒いている、鬼の姿があったからだ。
「……………………うわぁ、引くなぁ」
陽乃は力の入らない膝を、それでも手を着くような無様を見せずに意思の力のみですっと伸ばし、へらへら笑って背筋を反らして胸を張りながら、君臨する鬼に向かってそう呟いた。
「痛くないの?」
「滅茶苦茶痛いさ。今日一日で俺は、片目を裂かれて、どてっ腹に穴を開けられて、脇腹を抉られて、片腕を切り飛ばされたんだぞ。そりゃあ痛いさ。痛くて痛くてぶっちゃけ泣きそうだ」
そう言って、黒金は一歩踏み出そうとするも――ガクン、と、バランスを崩して左膝を着いた。
急に失くした左腕によりバランスを崩したのか――金棒の如き逞しさを誇っていた腕を失くせば、それはバランスも崩れるだろうが――と、陽乃は思ったが、すぐにそれ以外の原因もあると気付いた。
「……ボロボロだね。聞いたよ。八幡とはさっきだけじゃなくて、夕方にも一戦交えたんだってね。それに、なんか乱入して助けてくれた人もいたっていうから、その人とも戦ったんでしょ。そりゃあダメージも蓄積されるよね――どうかな? ボスキャラらしく寄って集ってフルボッコにされる気持ちは」
黒金は片膝を着いたまま、胸を張って黒金を見下す陽乃に向かって、化け物の相貌を不敵に歪ませながら答える。
「――最高だ。快感でしかない。何故ならばこれは、この痛みこそが、この苦境こそが、俺が求めた強者でしか味わえない環境で、強者でしか味わえない興奮で、俺が強者になれたことを実感できる、至福のひと時なのだから」
「……………強者、ねぇ。そんな風に跪いて、女の子に見下されてるアナタが?」
「もちろんだとも。俺が強者でなくて、一体、誰が強者なんだ?」
黒金がズドンッ!! と、大きく、強く、一歩を踏み出し、立ち上がる。
そして、その巨躯から更に顎を上げて、高みから陽乃を見下し返した。
「俺は、世界中の人間から恐れられるだろう。嫌われ、憎まれ、襲われるだろう。それは、奴等が――世界が、俺を強者だと認めた何よりの証拠だ。だから俺は、復讐を歓迎する。更なる強者を歓迎する。戦いを歓迎する。戦争を歓迎する。趣味が殺し合いで、特技が殺人だ。そして、俺は――その全てに勝つ」
黒金は、再び全身に電気を纏いながら、一本になった腕に――右腕に、一際強く、バチチチチチと雷電を纏わせる。
「…………………………」
陽乃はその言葉を、ただ黙って受け止めた。
彼女は――雪ノ下陽乃という少女は、恥のない人生を送ってきた。
恥もなければ、汚点もない。およそ理想的な、理想的過ぎて――波乱万丈がなさ過ぎて、逆に教科書に載らないような人生だった。
その人生の大きな特徴に、敵がいなかったということが挙げられる。
陽乃という少女は恐れられなかった。嫌われなかったし、憎まれなかったし、襲われもしなかった。
それでも――雪ノ下陽乃は強者だった。
だからこそ、陽乃には黒金の言葉は理解出来ない。
生まれつきの、“本物の”強者である陽乃には、弱者だったからこそ、強さを渇望し、強者に憧れ、死に物狂いで、化け物になって、ようやく強さを手に入れ強者となった、養殖の強者である黒金の気持ちは、まるで理解出来なかった。
もちろん、雪ノ下陽乃も万人に好かれた訳ではない。
中には陽乃の強化外骨格を見抜いて、その“中身”に恐れを抱いた者や、劣等感を抱き嫉妬した者もいた。
それでも、そんな奴等は陽乃の敵には成り得なかった。敵足り得なかった。彼女の掌の上からは逃れられなかった。
全てが、雪ノ下陽乃よりも格下だった。
陽乃にとって、自分の中で敵と成り得た可能性を持つのは、ただ一人――陽乃の母親だけだった。
父は既に陽乃の敵ではなかった。いつでも自由自在に動かせる自信はあった。
だが、ただ一人、母だけは、“現時点”では、まだ支配下に置けていないと感じていた――が、既に、現時点で自分は、母との戦いで自分の負けはないと確信している。
母は確かに自分と同じ“強者”だが、その周辺人物まで強者とは限らない。
既に大学生という自由な身分と、次期雪ノ下家の後継者という確固たる肩書きにより、母の知り得ない内に、彼女の手足を確実に奪っている。
母との戦いは、直接対決ではなく、そういった支配力を競う戦争だった。
故に、母親も既に、自分の――雪ノ下陽乃の敵ではない。
よって雪ノ下陽乃の人生には、敵は存在しなかった。
だから、黒金の気持ちは、言っていることはまるで理解出来ない。
分からない。分からない。分からない。
だって、そんな状況の、
(……分からない。わたしは、何億人の敵よりも、普通に――)
――たった一人でも、味方が欲しい。
こんな悍ましい自分を受け入れてくれる、『本物』の繋がりを持つ、味方が欲しい。
「――だから、貴様にも勝たせてもらう。俺は戦う。目を裂かれようと、腹に穴が開こうと、脇腹を抉られようと、腕を切り飛ばされようと。この体が動く限り、この心が折れぬ限り、俺は戦い続ける! ――例え、世界中全てが相手だろうと、俺は勝つッ!!」
そして、黒金は残った右腕を天に向かって振り上げる。この俺に、従えと傲慢に命ずるように。
頂点の拳に、雷電が集中していく。黄金の光が拳を包み、その周囲の空間を、バチバチバチと雷が瞬く。
「……言ってることは、ボスキャラどころか、少年漫画の主人公みたいだね~。その技も必殺技っぽくってかっこいいよー(棒)」
残された全ての力を、この拳に込めるっ! って展開は王道だよね。
と、その技を向けられている、まさしく魔王ポジションの陽乃は、けれど、この土壇場で、このクライマックスで、目の前の強敵ではなく愛する八幡のことを思い浮かべていた。
比企谷八幡。
思えば陽乃の中であの少年が、これほどまでに大きな、まさしく自分よりも遥かに大事な存在となったのは、一体いつのことだろうか。
決定的な出来事は、当然、あの黒い球体の部屋での、互いの傷を文字通り舐め合ったキスなのだろうけれど、それでも陽乃は、雪ノ下陽乃という少女は、我が身可愛さに、寂しさを紛らわせ、辛さを誤魔化す為に、例え唇だけでも許すような安く愚かな少女ではない。
雪ノ下家に生まれた長女である陽乃。その人生に置いて、そして母との支配戦争に置いて、生まれ持ったこの美貌は勿論大きな武器だったし、それを使うことに躊躇いを覚えるような可愛げのある少女では陽乃はないけれど、それでも、女として身体を道具にすることはなかった。
時折それをちらつかせ、下卑た欲望を引き出して、罠に嵌めて弱みを握ることはあったけれど、そういう使い方をしたことはあるけれど、結果として誰一人、陽乃の身体を汚すどころか、唇を奪うことすら出来た人間はいなかった。陽乃が守り抜いたとも言える。
それは雪ノ下陽乃が、自分が人間である前に強者であるという自覚を持つ少女が、最後に残したかった人間らしさ、女の子らしさの表れなのかもしれない。自分でもこればかりは良く理解していない。分からない。もしかすると、例え武器だとしても、道具として見せびらかしていても、自分よりも遥かに格下の弱者に己の身体を触れさせたくないという強者の誇り――プライドだったのかもしれないが。
それでも陽乃は、八幡に己の唇を捧げた。そして、そのキスで、陽乃の心の中に、これまで庇護者である雪乃しか入れることのなかった心の中に、比企谷八幡という少年の侵入を許してしまった。
只の恋する少女に、男に溺れる馬鹿な女に、成り下がってしまった。
もちろん陽乃としては、結果として、雪ノ下陽乃ともあろう者が、一度無様にも死を迎えてしまうことになってしまった今でも、八幡に溺れてしまったことに後悔はないし、むしろ死んでしまったことを差し引いても、只の強者として生きてきた己の二十一年間の中でも、今が一番、最も幸せだと断言できる。
だが、ふと思うのだ。何故、自分は八幡を選んだのだろう。八幡に縋って、八幡を受け入れたのだろう。
雪ノ下陽乃は、比企谷八幡のどんなところを、唯一無二だと感じ、愛おしく感じたのだろうか。
+++
……初めて出会った時は、八幡がどうこうというよりも、あの雪乃が同い年くらいの男の子とデートしているという驚きが大きかった。
やだっ! ツインテール雪乃ちゃん可愛い! とか思って近づいた。ぶっちゃけ八幡のことなんて眼中になかった。だから八幡に話しかけ、ちょっかいをかけたのは、八幡がどうこうじゃなくて、完全に雪乃目当てだった。
雪乃のデート相手に言い寄ってどぎまぎさせたら、可愛い雪乃ちゃんはどんな可愛いリアクションをとってくれてどれだけ可愛いのかということを実験もとい実証をする為だった。……それと後は、可愛い可愛い可愛い(大事なことだから三回言った)雪乃の彼氏(仮)が、どんな奴なのかを探る意味も込めて。まぁ自分で言うのもなんだが、嫌っている姉に、自分とのデートの最中にデレデレするような男を、雪乃は許さないだろうから、そんな意味も込めた挑発だったのだけれど――
『はぁ、比企谷です』
……あれ? という違和感は感じた。
でも、その時は、さすが雪乃の傍に居ることが出来るだけのことはあるのかな? くらいの違和感で、それほど興味を持ったわけではなかった。
爆笑したのは文化祭の時。
これまた雪乃をちょうは――もとい、激励する為に、ちょくちょく文化祭の実行委員に顔を出して、面白おかしく引っ掻き回して遊んでいた、その時のこと。
『人 ~よく見たら片方楽してる文化祭~』
八幡が出したスローガンを聞いて、陽乃は腹を抱えて爆笑した。
馬鹿だ! 馬鹿がいる! もう楽しくて仕方がなかった。
こんな男は、雪ノ下家の時期後継者として、少女の頃から百戦錬磨の大人達と渡り合った陽乃ですら見たことはない。
人間というものの弱さを、汚さを見抜き、個人的心理、集団的心理を知り尽くし、何より群体としての人間の在り方を利用し尽くして、一発逆転の一手を見事に打った。
自分には出来ない――否、する必要がないというべきか。
だからこそ、あんな風に全ての責を一身に受けて、誤解されたまま、侮られたまま、それでも得たい結果は確実に獲得する。そんな戦い方を、雪ノ下陽乃は知らなかった。
更に、文化祭当日。
彼はまたしても、雪ノ下陽乃の想定の外を行った。
上ではなく、外。むしろ、方向としては斜め下を抜かれるような。
その日、雪ノ下陽乃にとって、比企谷八幡という少年は、雪ノ下雪乃という存在を抜きにしても、興味を引く存在になった。
『比企谷くんは何でもわかっちゃうんだねぇ』
そして――この日。
雪ノ下陽乃は、比企谷八幡という人間を垣間見た。
この子は、凄く臆病で、とても弱い存在だ。
誰よりも純粋で、傷つきやすいが故に、相手の裏を読み、好意を疑い、悪意に怯える。
自分とは真逆の人間だ。
それでも、自分と、似ている人間だ。
紛れもない弱者。強者になんて、どんなに血反吐を吐いたところで、辿り着けない生まれついての弱者。
でも、この子は化け物だ。
全てを理屈に押し込んで、感情を排して取捨選択する――心の中では、誰よりも純粋な感情が荒れ狂っているのに。
まるで理性の化け物だ。そして、自意識の化け物。
人間に怯える、か弱き化け物。
それを理解した時、陽乃は無性に、この少年のことが愛おしくなった。
自分が失くしたものを全部持っている、この臆病な化け物が。
ずっと自分が憧れて、欲しくて手を伸ばして、結局届かず、諦めたものを――この子は傷つきながら、色んなものを捨てながら、それでも愚かに求めている。
無様に、哀れに、求め続けている。
それを理解した時、自分は確かに、この少年に嫉妬した。侮蔑して、嘲笑して――
でも――
それでも――
+++
「――そっか。そうだよねぇ。我ながら面倒くさいなぁ」
陽乃のような人間は、きっと八幡も同様だが、恋愛などという、不確かで、不気味で、不定形な感情を、はいそうですかとそのままありのままで受け入れられない。理解出来ないし、理解して欲しくもない。
理由付けが必要だった。
自分が彼を好きな理由。彼が自分を好きな理由。
弱ったところを優しくされたから依存した。――それならそれでいい。
彼の考え方が好き。彼の弱さが好き。彼の在り方が好き。――なるほど、納得出来る。
でも、それを繰り返していくと、理由を探して、辿っていくと、辿り着くのは、自分と彼が嫌う、なんとも愚かな、恋愛脳な答え。
(わたしは――彼の全部が好きなんだ。比企谷八幡という人間の全てを、わたしは――雪ノ下陽乃は、愛おしく思っている)
彼となら、ずっと諦めていた、“あれ”に辿り着けるかもしれない。もしかしたら、手に入れることが、出来るのかもしれない。
陽乃が諦め、八幡が追い求め続けていた――それは、醜悪で、浅ましくて、悍ましい、手の届かない、遥か高くに存在する、酸っぱい葡萄。
「………本物なんて、あるのかなぁ?」
陽乃は今この時、初めて自分を弱いと感じた。
八幡を、強いと思った。
こんな不安な気持ちのまま、それでも八幡は、傷ついて、傷つけられて、失って――それでも、それでもずっと、追い求め続けていたのだ。
バチチチチチチチチチ!!! と、轟音が響く。
黒金は一歩も動いておらず、その手を動かしてもいない。
しかし、その右拳を覆う光球は、まるで太陽のように凄まじい光を――雷光を放っていて、その纏う電撃の余波で、荒廃した戦場が、更に凄まじく破壊されていく。
陽乃はそれを真っ直ぐ見据えて――ガンツソードを取り出した。
既に陽乃のスーツは完全に死んでいて、これを先程のように空気を切り裂くように鋭く振るうことは、もう出来ないだろう。
それでも――陽乃は、優しく微笑む。
――俺の、本物になってください。
「…………約束、したものね」
だから、自分も追い求める。追い続ける。
それがどれだけ困難な
本物なんて、シンジツなんて、あるかどうかも分からない。
それを追い求めるということは、それ以外を切り捨てるということ。
全てを失うことになるかもしれない。誰よりも無残で、愚かで、無様な負け犬の人生を歩むことになるかもしれない。
それでも、
同じものを、酸っぱい葡萄を、探し求めると約束したから。
例え全てを失ったとしても、隣で歩みたいと思う程に溺れてしまったから。
だから――
「――勝つよ。八幡」
陽乃は慈しむように、腰のそれに手を当てて――
そして、雷鳴が轟いた。
仮面の魔王は、恋する少女の素顔を浮かべて、想い人との誓いを胸に抱く。