とある病室に、爽やかな風が吹き込んでいた。
既に消灯時間となり、開け放った窓から差し込む月明りのみが光源の空間で、そっと少女はカーテンと共に揺れる己の髪を掻き分ける。
この病室の今宵限りの住人である少女――結城明日奈は、そっと窓の外を見た。
つい先程までの喧騒が嘘のように穏やかで、季節外れの大きな月が、まるであの城のようだとぼんやりと思いながら。
そっと、手を伸ばす。当然ながら、届かない。
あの城にいた二年間はもはや過去の事で、手の届かない遠い彼方のことだ。
デスゲームは終わり、穏やかな日常へと帰還した――あの日。
今と同じように、ベッドに座り込みながら――この手に、頭部から外した、ナーブギアを持って、待っていた、あの日。
あの少年が、迎えに来てくれた――あの日に。全ては終わった筈だった。
「…………っ」
でも――彼は、戦っていた。
明日奈は、ナーブギアを持っていない、細剣も持っていない、空っぽの綺麗な手を握り締める。
彼は戦っていた。ずっと戦っていた。
いつからだろう。
ごくごく最近のことなのだろうか。それとも――明日奈が、終わったと思った、あの時すらも、彼は戦い続けていた最中であっのだろうか。
自分だけが、終わったと思っていただけなのか。彼だけを、ずっと、戦わせ続けていたのだろうか。
分からない。分からない。だから――すごく、怖かった。
本当は、今すぐここから抜け出して、直葉達と一緒に池袋へ行きたかった。
面会時間が終了した後、自分達ほどではないが、混乱気味だったこの病院のスタッフ達は、けれども業務に忠実に、直葉達に帰宅を促した。十分に気を付けて、まっすぐ家に帰るように、と。
けれど、直葉達は、あのテレビ画面に映っていた――映り込むどころか、紛れもなく主役だった、主人公だった、英雄だった少年の安否を確かめずにはいられなかった。
よって、会える可能性は薄いが、取り敢えず池袋に向かうことにした。
危険は大きいが、それでも池袋にまで行けば、国家権力が動いているだろう。
警察か、自衛隊か――とにかくそれ程の大きな存在に会えれば、そして、直葉があの『黒の剣士』の義妹であると伝えれば、彼等が知っている限りの安否情報は教えてくれるかもしれない。
後日になれば、黙っていても向こうから訪ねて来るだろうが、自分達は一刻も早く、彼の安否が知りたかった。
しかし、当然の事ながら、入院中の明日奈はこの病室から出ることは許されなかった。
鬼気迫る勢いで看護師に迫ったが、それは逆効果でしかなく、より強くこの病室に拘束されるだけの結果しか生まなかった。
そして明日奈は、消灯時間をとうに過ぎた今現在も、詩乃に隠し渡された携帯端末を忍ばせながら、友人達からの連絡を待っている。
己の恋人の安否情報を――生きているのだと、ただ、それだけの連絡を。
「…………キリトくん」
明日奈は、今度はその携帯端末を隠すことなく握り締めて、窓の外の大きな月を見上げた。
雪は降っていない。あの日とはまるで違う空だが、それでも――同じくらい、美しい夜空。
彼のように、美しい――黒の、世界。
その中に、燦然と輝く満月。あの浮遊城のように、それは空の中に――彼の中に、悠然と佇み続けている。
「…………ぁ」
背中に二刀を背負う黒い少年――そして、その横に寄り添い、少年の手を取る、白地に赤の騎士装の少女。
銀の細剣を吊るし、満面の笑みで、少年の隣に立つ少女。
彼を支え、彼の横で――彼と共に、戦い続けた少女。
二人の背中が、二人の剣士が、あの
「…………待って」
旅は終わった。戦いは終わった。
結城明日奈は、日常に帰還した剣士は、ただの女の子に戻った少女は、その綺麗な手を伸ばす。
「…………置いて、行かないで」
その時、病室のドアが開いた。
「…………え」
面会時間はとっくに終わり、消灯時間も過ぎている筈。
看護師の巡回だろうか――だけど、明日奈は、浮かべていた涙を、みるみる内に溢れさせていた。
混乱が収まらないが――だが、分かる。
この私が、結城明日奈が、この足音を、この気配の主を、感じ間違えることなど、ありえない。
そして、彼が、最後のカーテンを引いて、その姿を現した。
「……ああ」
少女の喉から、掠れた声が漏れた。
最後に見た制服姿ではない。
まるであの時のような、黒い上着にラフなズボン――そして、見慣れない、光沢のあるインナー。
だが、紛れもなく、そこに立っていたのは。
「キリトくん」
少女の、涙に濡れた、震えるような音にならない呼び掛けに――少年は、小さく、微笑みと共に答えた。
「アスナ」
少年の――桐ケ谷和人の声を聞いた途端、結城明日奈は動き出した。
我慢出来ないとばかりに、ベッドの布団を弾き飛ばしながら、和人の元へと向かおうとした。
和人は、そんな恋人を迎え入れるように、彼女の元へと寄って、彼女がベッドから落ちないようにと抱き締めた。
そして、明日奈は、ほうっと、大きく息を吐き出す。
生きている。生きている。彼は、ここにいる。ここで、自分の腕の中で生きている。
自分を包み込む彼の温かさを感じる。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえる。
己を抱き締める彼の腕を感じる。あの切り裂かれた左腕がどうして無事なのかなどどうでもいい。
彼がいる。キリトくんはここにいる。桐ケ谷和人は、こうして結城明日奈の元へと帰ってきてくれた。
「――ただいま、アスナ」
明日奈は、その言葉を聞いて、まるであの日のようだと思い出す。
立場は逆だけれど、言葉は逆だけれど、それでも確かに同じだと思い出す。
ああ――終ったんだ。今度こそ、今度こそ――ちゃんと。
「――おかえり、キリトくん」
だから明日奈は、あの時と同じように――目を閉じる。
彼の頬に手を添えて、少し顔を傾けて、そっと唇を彼に差し出す。
だけど――その唇を受け止めたのは、彼の唇ではなく――無機質な、黒い何かだった。
「――――え」
驚いて目を開けると、そこには黒い手があった。
それが彼の手だと気付いた時。彼が身に付けている何かなのだと気付いた時――明日奈は再び混乱に叩き落された。
「……ごめん、アスナ――まだ、終われないんだ」
そう言って、和人は再び、明日奈に微笑みを向けた。
綺麗な微笑み。
けれどそれは、明日奈が愛した彼の笑顔ではなく、どこか悲しい、見たくない笑顔。
和人はゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかのように、明日奈の身体を引き離す。
その手つきがあまりにも繊細で、明日奈は彼の身体を引き留めることは出来なかった。
「……朝には、また来る。だから、今はゆっくり休んで欲しい」
「き、キリトく――」
和人は、慌てる明日奈の頭に手を乗せて――真っ黒な、無機質な、手を乗せて。
「大丈夫だ、アスナ。俺はずっと、君の傍にいるから」
そして、再び、繊細に――そっと、抱き締める。
「君は、絶対に俺が守る。絶対に――絶対に。俺は、君に誓うよ」
和人は、そう力強く言い、今度は彼が、彼女の頬に手を当て、見詰める。
「…………」
が、強く、口を閉じて――彼女を、引き剥がす。
そのまま和人は立ち上がり、そして、彼女に背を向けた。
「――行ってくる」
明日奈は、いってらっしゃいとは、言えなかった。
桐ケ谷和人は、再び、闇の中へと消えていった。
結城明日奈は、ドアが閉まる音と共に、自分が闇に向かって手を伸ばしていたことに気付いた。
+++
まるで、仮想世界から帰還したかのようだった。
真っ暗な自室の、ベッドの上。
目を開けて真っ先に認識したのは見慣れた天井で、周囲を見渡すまでもなく、そこが埼玉県川越市の自宅の自室であることを確信させた。
身体を起こす。身に付けているのは――真っ黒の光沢のあるスーツ。腰には光剣。左手にはあの部屋に送られた時に身に付けていた帰還学校の制服。
そう――今更突き付けられずとも、明確だった。
自分がいたのが、平和なVR世界ではなく、現実の戦場だったということが。
あの、黒い球体の部屋だったということが。
「……………」
絶叫も、恐怖も、混乱もしない。
僅か三回のミッションで、たった二度目の戦争からの帰還で、己の心は、この異常事態を受けて入れているのか。
それとも――今回の、池袋の戦争が、桐ケ谷和人の何かを変えたのか。
(……やるべきことは山ほどあるけど……まずは、アスナの安否の確認だ)
深夜だからと言って寝ている暇はない。
自分は、その為にあの戦争を生き抜き、そして、これから先も戦い続けると誓ったのだから。
行くべき場所は、警察か、それとも明日奈の自宅か。
直葉に連絡は言っているだろうか。ならば、まずはそこから――と、和人がベッドから立ち上がるタイミングを見透かしていたかのように、彼の携帯端末に連絡が入る。
そのメールの、送信者の名前は――。
+++
桐ケ谷和人は、明日奈の病室を出た後、まだ夜も深い内に――いや、夜が深いからこそ、その夜が明けぬ内にとバイクを飛ばして、別の異なる病院を訪れていた。
当然ながらこの病院でも、面会時間も消灯時間も過ぎている時分にも関わらず、予め話が通っているのか、スムーズに救急車用の入口を通過し、和人はそのまま救急口から院内へと入る。
そして、そこに一人の看護師が待ち構えていた。
「こんばんは、英雄君」
ナースキャップに薄いピンクのユニフォーム。
長い髪を一本の太い三つ編みに纏めた、女性にしてはかなりの長身の美女――安岐ナツキ。
この東京都千代田区お茶の水の病院で、SAO帰還後の和人のリハビリテーションや、GGOでのフルダイブ中のモニタリングなど、数々の場面でお世話になった、和人にとっても恩ある人物。
だが、深夜にも関わらず満面の笑みで迎えた彼女を見る、和人の目は険しかった。
「……随分と怖い顔だね。戦争帰りでお疲れかな?」
「ここに来て、ここまで来てなお、あなたが普通の看護師だと思える程、楽観的にはなれませんよ。アナタの言う通り、殺し合いをしてきたところですから」
和人は上着のポケットに手を入れながら、腰に吊るした光剣の柄に目を向ける――そして、分かりやすく、再び安岐に視線を戻した。
安岐は、そんな和人を悲しく思ったのか、それとも頼もしく思ったのか、判別が難しい曖昧な笑みを浮かべると「案内するわ。一応、一般の入院患者さんもぐっすり寝ているから、ここで戦争はしないでね」と言って、和人に分かりやすく背を向ける。自分に敵対意思はないと示すように。
和人はそれでも険しい表情を崩さないが、ポケットから手を出して安岐の後に続こうとすると、安岐は自身のトレードマークである洒落たデザインの眼鏡を、くいっと挙げて、笑った。
「――眼鏡のお役人さんが待ってるわ」
+++
安岐が和人を案内した先は、やはり――例の病室だった。
GGOでの事件時において、『眼鏡のお役人』の依頼により用意されたモニタリングルーム。
「――ここだよ」
そう言って、安岐は自らドアは開けず、そのまま和人を促す。
和人は、安岐の表情を一度見てから、慎重にドアを開けた。
中を開けると、そこには密度調整型ジェルベッドと――アミュスフィアのみが用意されていた。
あの時のように心電図モニタはなく、部屋の電気すらも点いていない。
「じゃあ、私は中には入らないから。……今はその方が、桐ケ谷君は安心でしょ?」
そう言って、扉に手を掛ける安岐。
確かに、今の和人にとって、安岐は――そして、ここに来るようにメールを寄越したあの男は、信頼を置ける相手とは言えない。少なくとも、フルダイブ中の身体を任せたい相手では有り得ない。
万が一、ドアを閉められて密室に閉じ込められたとしても、ガンツスーツならばこじ開けられるだろう。
だが、それをいうならば、フルダイブ中は全ての感覚が遮断される。
それはつまり、和人がVR世界へと旅立った後、安岐が部屋に入り込み、ガンツスーツを脱がし、和人を何処か知らない場所へと拉致し監禁することも――もっというならば、殺害しても、和人は気付かないということだ。
それはつまり、今、この状況でのフルダイブは、とてもではないが安全ではない、危険行為だということ――だが。
「――桐ケ谷君」
安岐は、扉を閉め切る前、アミュスフィアを手に取り佇む和人に向かって、複雑な微笑みで、こう語り掛けた。
「あなたが警戒するのも無理はない。むしろ、正解。……だけどね。これだけは、信じて欲しい。私は看護師として、あなたに危害は加えないし、誰かに手出しさせるつもりもない」
そして、かつて、和人のリハビリを時に優しく、時に厳しく見守っていた、あの頃のような笑顔で言った。
「私は――私達は、あなたの敵じゃないわ。……そして、味方になれたら、とても嬉しい」
ぱたん、と。安岐は、その笑顔のように優しく、静かに扉を閉め切った。
「……………」
和人は、しばしアミュスフィアを手に黙考を続けていたが――やがて、心を決めたように、ジェルベッドに横になった。
元々、リスクは考慮の上だった。
奴に教えられた明日奈の病室、そしてそこからこの病院までの道中、幾度となく思考を重ねた。
そして、リスクを考慮してでも、奴とのこの会談に臨むメリットを選択したのだ。
(……アイツなら、絶対にこんな選択はしないだろうな)
そうと分かっていても、和人は最後には信じてしまった。
安岐も、そして――あの男も。
怪しくは感じても、胡散臭くは思っていても、信頼も信用もまるで出来なくとも。
それでも、言われるまでもなく、彼等が敵だとは、どうしても思えなかった。
(だが――味方とまでは、やはり今は思えない)
だから、和人は潜ることを決めた。
慣れ親しんだ、あの世界へ。
様々な冒険をした、英雄『黒の剣士』を生み出した世界へ。
自分が、今まで知らなかった世界を、知る為に。
和人は銀色の円冠を被り、幾度となく口ずさんできた、己を剣士とする
「――リンク・スタート!」
そして、視界を見慣れた白い放射光が塗り潰す。
+++
和人が、このVR世界へ――VRMMO-RPG『
キリトはALOに実装された新生“浮遊城アインクラッド”の第二十二層のログハウスから飛び立ち、指定された場所へと辿り着いていた。
短くない移動の最中に、キリトは例の人物のアバターに向かってメッセージを送り、間髪入れずに返ってきたその返信から、呼び出し人がきちんとALOにいることを確認している。フレンドリストも、彼がここにいることを示している。
久しぶり――否。
ほんの数日前まで当たり前に入り浸っていた
「……………」
和人は、その部屋の、ドアを開けた。
あの浮遊城のログハウスを手に入れるまで、キリトとアスナが共同で借りていた部屋。
広大なこの世界の中心に聳える空中都市『イグドラシル・シティ』の一角。
かつてキリトが参戦し、死銃との決戦となったGGOでのBoBを、仲間達が応援すべく集まったこの場所で。
新たな住居が手に入った後も、何となくで契約を続けていた、最早、契約者である自分すらも滅多に使用しなくなった、この部屋で。
キリトの許可を得て前もって先にこの部屋に入り、少年の来訪を待っていた呼び出し人は、大きく手を広げて――歓待した。
「やあ。よく来てくれたね、キリト君。まずは、こうして来てくれたことに礼を言いたい。ありがとう」
「堅苦しいのはなしにしようぜ――菊岡さん」
そう言ってキリトは――否、桐ケ谷和人は。
かつてクラインの定位置だった、部屋の隅のバーカウンターに腰かけ、南向きの一面ガラス張りとなっている壁を背に立つ、マリンブルーの長髪の
この世界の彼女に似たその容姿に、この時は少しイラつきながら、和人は荒々しく、この『クリスハイト』の事を――菊岡と呼んだ。
そのネットリテラシーに反したマナー違反は、和人の分かりやすいメッセージだった。
さっさと本題に入れ、と。下らない気遣いは無用だ、と。
俺は、
「――分かったよ、キリト君。いや、今ばかりは、桐ケ谷君と呼ばせてもらうことにしよう」
それは、クリスハイトの――否、菊岡誠二郎の、了承の意だった。
スプリガンのキリトでも、ウンディーネのクリスハイトでもなく。
池袋大虐殺の生還者であり、英雄黒の剣士である、桐ケ谷和人と。
総務省仮想課であり、秘密結社CION幹部の一人である、菊岡誠二郎とすると。
「じゃあ、さっそく――」
菊岡は、暗い部屋の隅にいる和人に向き直り、美しい景色を覗かせるガラスをスクリーンとして、プレゼンテーションをするように画像を映し出す。
「――この黒い球体について、GANTZについて、僕の知る限りのことを話そう」
それは、たった数日で桐ケ谷和人の全てを狂わせた――無機質な黒い球体だった。
妖精の国にて、大人から子供へ、黒い現実についての種明かしが始まる。