比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――僕達の、英雄になって欲しい。



Side和人――④

 

 桐ケ谷家の敷地面積は、一般的なそれと比べてかなり大きい。

 敷地内に池や剣道場をも備える一軒家は、門から家屋までそれなりの距離を稼ぐ。

 

 故に、門扉の前に群がる――無数の記録媒体を持ってこちらを狙う記者達を、安全圏から遠目で眺めることが出来た。

 

 しかし、そんな思い上がりが伝わったのか、安全圏かと思えた二階の一室の窓から、ほんの少しカーテンを開けただけなのに、彼等は瞬時に、それなりの距離を開けている筈の門扉の前で、それぞれ己の得物である、銃口のように大きなレンズのカメラを向ける。

 

「――――っ!?」

 

 GGOの歴戦のプレイヤーが如きその挙動に―――結城明日奈は、思わず反射的にカーテンを強く閉めた。

 

 そして、再び――この一室は薄暗い闇に包まれる。

 明日奈は、ただ一人、桐ケ谷和人の自室にて呆然と佇んでいた。

 

 和人捜索の手掛かりは途絶え、唯一の望みとなりそうな菊岡誠二郎の行方は杳としてしれない。

 しばし単発的にアイデアを各自持ち寄ったが、いずれも現実味がなく、結果――午後六時からの政府からの会見を待つ他ないという結論に落ち着いた。

 

 少女達の会議の落着を見計らっていたかのようなタイミングで、リビングへと姿を現した、直葉の母にして和人の叔母にして義母――桐ケ谷翠は、そんな少女達に今日は泊っていくといいと促した。

 家の前へと陣取っているマスコミ達が退く気配を見せない為、翠は警察への連絡をも視野に入れた対応に追われていて、その決着が中々着きそうにないからと、疲れた顔に苦笑を浮かべながらの提案だった。

 

 翠も、内心では平静で入られる筈がない。

 甥――義息が不可思議なスーツを纏い、ファンタジー世界のような牛頭の怪物と殺し合っていた映像を、己が左腕を切断したシーンも、目撃していない筈がないのだ。

 

 だが、それでも、直葉の前では、少女達の前では気丈であろうとしている大人の姿に、母の姿に、少女達は何も言えず、ただ好意に甘えることにした。

 

 各自家族に連絡を入れようと三々五々に少女達がリビングから散っていく中で――明日奈は。

 

 直葉と翠に許可を取って、こうして和人の自室へとやってきた。

 

 

 

 カーテンを閉めた明日奈は、薄暗い闇に満たされた部屋の中で、しばらく何も発さずに佇んでいると―――やがて、ボスっと、力無く和人のベッドへと腰を掛けた。

 

 直葉の言った通り、ベッドは乱れてはいなかったが、誰かが横になっていた痕跡があって、そこから見えるクローゼットは無造作に開け放たれて、つい先程まで――彼がここに居たであろうことが伺える。

 

 あの戦場の後、この部屋に寄って、自分の病室へとやって来てくれたのだろうか。

 そして、その後は――彼は、何処で、何をしているのだろう。

 

 まだ一日も経っていない筈なのに、もう何年も、彼に会っていないような気がする。

 

 もう――ずっと、彼に、会えないかのような気すら――。

 

「………………ッ」

 

 明日奈は、その先の思考を拒否するように、勢いよくベッドに背中から身を投げ出した。

 ブラウンの艶やかな長い髪が広がり、ほんの僅かに埃が舞う。

 

 けれど、明日奈の鼻腔を満たしたのは、紛れもない――桐ケ谷和人の香りだった。

 

「………………キリトくん」

 

 仮想世界よりも、ずっと濃密な、彼の匂い。

 それは一瞬、明日奈の心の寂寞を埋めてくれたが――ぶり返すように、膨れ上がるように大きな、締め付けるような切なさに襲われる。

 

「…………………会いたいよぉ」

 

 明日奈は、彼のベッドの上で小さく己の身体を丸まらせる。

 ぶるぶると震えながら嗚咽を漏らす様は、まるで母猫を求める子猫のようで。

 

 潤んだ瞳でベッドの上を見詰める。

 王冠のようなそれは、例え遠く離れていても、会いたくなかったらいつでも彼と出会わせてくれた、魔法のようなアイテムで。

 

 明日奈は自嘲気味に笑いながら、ヘッドホンのような形状のデバイスを左耳に装着し、薄暗い天井を見上げながら――独り言のように呟いた。

 

「…………ねぇ、ユイちゃん。このまま、22階層のログハウスに行ったら――キリトくんは待っててくれるかな?」

 

 すると、ARデバイス――オーグマーによって、現実世界に仮想情報として投影された――妖精姿の朝露の少女が、母を見下ろしながら叱咤する。

 

「元気を出してください、ママ。アルヴヘイムでママを探していた時のパパは、只の一度も諦めたりしませんでしたよ!」

「………………でも――」

 

 自分だって――もし、和人の居場所が分かるのならば。

 

 そこが世界樹の頂上でも、鋼鉄の浮遊城の第100層でも、万難を排して辿り着いてみせる――でも、と。

 

 握り締めた手が、再び力無く広げられ、柔らかいベッドの上に沈む。

 妖精は、手を触れられないと分かっていても、そんな母の手に己の手を添えて、AIとは思えぬ笑みを持って言う。

 

「今度はママが、パパを探す番です。今度はママが、パパを――助ける番です」

 

 そこにいる筈のない娘の、仮想でしかない筈の温かさを――明日奈は、確かに感じた。

 

 愛する少年との、愛すべき娘。

 明日奈は、涙が溢れて潤んだ瞳で、その妖精の言葉を受け止める。

 

「パパへと繋がる糸は、絶対に残っています。パパとママの絆は、誰にも――何にも、断ち切ることなんて出来ません」

 

 例え、どんな怪物が相手でも。例え、どれほど巨大な敵が相手でも。

 例え、どれだけ過酷な地獄からでも。例え、どれだけ遠く離れていようとも。

 

 妖精は、かつて囚われの妖精だった少女に――鳥籠から抜け出した少女に向かって。

 

 地獄から救い出された少女に向かって、微笑みと共に、断言する。

 

「パパは、ママの元に、きっと帰ってきます」

 

 だから――迎えに行きましょう。

 

 明日奈は、ここが仮想世界だったらいいのにと、思った。

 この身が仮想のアバターならば、この愛しくてたまらない娘を、思い切り抱き締めて上げることが出来るのに、と。

 

 そう思って明日奈は――アミュスフィアを、そっとベッドの上に置いた。

 

「……うん、ありがとう、ユイちゃん。大丈夫、諦めたりはしないから」

 

 そうだ――例え、どんな怪物が相手でも、どれほど巨大な敵が相手でも。

 例え、どんな地獄でも、どれだけ遠く離れていても――そんなものは、彼を諦める理由にはならない。

 

「絶対に……迎えに行くから。例え――」

 

 死んでも。

 

 桐ケ谷和人(わたしの英雄)を、取り戻す。

 

 明日奈は、そう決意を固めて、涙を拭って、瞳に炎を燃やして――薄暗い部屋を後にした。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ふざけるなッ! 何なんだよ、それはッ!」

 

 和人は目の前の大人の胸倉を掴み上げる。菊岡は、それに対して一切の抵抗を見せず、ただ静かに和人を見据えるだけだった。

 

「――お前達は! CIONは! 地球を守る組織なんじゃなかったのかッ!」

「地球を守る為だ。その為に――まずは世界を征服する必要があったんだ」

 

 菊岡は、和人の手を振り払うのではなく、そっと手を添えた。

 それに対し、和人は少しの冷静さを取り戻して、ゆっくりと菊岡の身体を下す。

 

「……同じ人間を殺すことが、必要だったっていうのか」

「そこは、僕がちょっと強い言葉を使い過ぎたね。すまない。確かに、僕はCIONが星人狩りを滅ぼしたとはいったが、それは彼等を殺したというわけじゃない。正確には、吸収したんだ」

「……吸収?」

 

 菊岡は、乱れた服を直しながら「まぁ、僕は当時まだ組織に属していなかったから、これはそもそも人伝(ひとづて)に聞いた話なんだけど」と言いながら、再び居住まいを直して和人に言う。

 

「CIONは、元々、二人の天才が、カタストロフィに対抗する為に作り上げた組織だという説明は既にしたね。つまり、設立時点で、CIONの目的は世界ではなく――宇宙だったのさ」

 

 その為には、世界を仮初であろうと一つにする必要があった。

 

 例え、それが暴力的な恐怖政治であろうと。

 例え、それが戦争の為の戦争になろうとも。

 

「当時の星人狩りは、既に自衛の為の専守装置となっていた。自ら討って出ることはなく、来た敵を叩く。暴走した標的だけを討ち取り、時には殺さず帰すことすらあった。それはある意味では完成されたシステムで、一つの戦争の終わり方としては、一つの平和の守り方としては、一つの世界の運営の仕方といえば、決して悪くない形だったのかもしれない」

 

 だが、それはCIONの目的とは決定的にそぐわなかった。

 

 CIONは、来るべきカタストロフィの日に向けて――迫り来る、明確なタイムリミットの日に備えて、後顧の憂いを断つ必要があった。

 

 宇宙から襲来する、最強最悪の星人の侵攻に備えて、最低でも、背中の不安を排除する必要があった。

 一つでも多くの種族を、一つでも多くの外来種を――地球に住まう星人を、滅ぼす必要があったのだ。

 

 かの《天子》の予言は、地球を滅ぼし得る程の強大な敵が侵攻するということと、そのXデーの日付しか示していない。

 

 もしかすると、その終焉を齎す星人が、今、地球にいる星人と協力関係にあるかもしれない。

 もしかすると、その終末を運ぶ星人と、今、地球にいる星人が協力関係となるかもしれない。

 

 だとすると、その可能性を、その危険性を、少しでも多く排除する為に――CIONは、駆逐しなければならなかった。

 

 自衛でもなく、専守でもなく、討伐しなくてはならなかった。

 

 人間側から、星人側へ――侵攻する必要があったのだ。

 

「――だから、まずCIONは、人間側の星人狩りを征服することにした」

 

 平和に浸かりきった、かつての英雄の末裔達を。

 伝説を引き継ぎ、伝統を受け継いできた、歴史ある先達者達を。

 

 吸収し、支配下に置く為に――人間達の戦力を、一つの色に集結させる為に。

 

 真っ黒に、塗り潰す為に。

 

 数百年先のオーバーテクノロジーで武装した黒衣の戦士達を引き連れて、黒い球体を――GANTZを世界中に送り込み、黒い球体の部屋を世界中に配置した。

 

「……だけど、伝統を長く受け継ぐということは、誇りと使命を受け継いでいくということでもある。当然ながら、殆どの星人狩りが、首を縦に振らなかったらしい」

 

 門前払いした者もあれば、屈辱の表情で襲い掛かって来た者達もいた。

 

 だが、その全てを――GANTZは力で支配した。

 

「…………結局、殺したんだろう」

 

 和人は拳を握り締める。菊岡は、和人からそっと目を逸らす。

 

「……確かに、少なくない数の、生命は奪われた――」

「ッッ!!」

 

 和人の手が、激情と共に反射的に剣に向かった――が。

 

「――その瞬間、はね」

 

 菊岡のその言葉に、和人の手が止まり、絶句する。

 

「…………その、瞬間……?」

 

 頭の中で、和人の思考は駆け巡る――そして、その終着点に、辿り着いた時。

 

「…………っっ!?」

 

 再び、絶句する。仮想世界の身体が、感じもしない口渇を覚えた気がした。

 

「……まさか……アンタ等は――」

 

 和人の目に、菊岡を見る目に、微かに、だが確かに――()()が、走った。

 

 菊岡は、いつもと同じ、笑みで言う。

 

「そう――殺した星人狩り達は、皆、GANTZの戦士(キャラクター)として蒐集した。言っただろう? 殺したんじゃない、吸収したんだって。世界征服と、戦力整備の、二つ課題を同時に進行する合理的な作せ」

「黙れッッ!!」

 

 和人は一歩後ずさりながら、部屋中に響き渡る絶叫を上げた。

 

「…………狂ってる……ッ」

 

 そう言って唇をこれでもかと噛み締める和人に、菊岡は、子供を見る大人の目で言った。

 

「……世界を征服する。そんなことを、至極真面目に実行に移す大人なんて、狂っているに決まっているだろう」

「…………」

 

 何も言い返すことの出来ない和人に「……だけど、慣れない環境と圧し折れた誇りが災いしたのか、その吸収された元英雄の殆どが、今日に至るまでにガンツミッションで脱落しているけどね」と、続け、本題に戻す。

 

「さて、どうして本職の星人狩りに任せないのかという疑問にはこれで答えたね。次に、どうして軍隊を始めとする表舞台での戦闘のプロを使わないのか、そして、どうしてCIONが独自に固有の兵隊を育てないのか、何故一般人の死人を使うのか――その順に、それぞれの疑問に答えて行こう」

 

 最早、菊岡は和人の混乱が治まるのを待とうとしない。

 一々回復を待つよりも、一気に説明して後にメンタル回復作業に移ると決めたらしい。

 

 和人は相槌を打つことすらせず、崩れ込むようにソファに戻り、菊岡の声に耳を傾けた。

 

 どれほど悍ましく、恐ろしい真実なのだとしても、ここで耳を——心を閉じてはいけないと、必死に奮い立たせる。

 自分は、これからこの醜い黒色の闇の中に、飛び込んでいかなくてはならないのだから。

 

 光の当たらない夜の世界で、戦い続けなくてはならないのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「まず、何故CIONが、世界を征服しているCIONが、表舞台の軍隊を動かさないのか――その疑問に答えよう。その答えは単純、星人の存在を、表舞台に晒したくなかったからだ。

 

「君の言う通り、星人を――怪物を、化物を、お伽話の存在と貶める以前ならば、常識の天敵のままだったならば、こんなことは考えなくてもよかったのだけれどね。

 

「それでも、世界は星人を忘れている――忘却の彼方に、恐怖の記憶を押しやっている。ならば、今更それを思い出させても、人類が思い出しても、生まれるのは圧倒的な混乱だけだ。

 

「世界を裏から支配するのと、表だって支配するのでは、意味合いがまるで違う。

 

「裏から支配するのであれば、世界を動かしている、世界を牛耳っている数百人を支配すればそれで済むが、表立って世界を支配するには、数十億の人間を相手取る必要がある。

 

「CIONが設立してから、カタストロフィまでに、残されていた時間はたった数十年――とてもではないが、時間が足りなかった。

 

「勿論、力づくで支配するならば――星人狩りを相手にしたように、力でもって支配するならば、やって出来ないことはなかっただろうけれど、それをやると、今度は人間側の戦力を大きく浪費することになる。人口を目減りさせることになる。人間同士で力を喰い潰す結果となってしまう。

 

「下手をすれば、人間への復讐の時を虎視眈々と狙っている星人に、漁夫の利をとられかねない。

 

「カタストロフィを乗り切るならば、人間側の、地球人側の戦力を出来る限り万全の状態で残して、終焉を迎え撃たなければならなかった。

 

「その為に、表世界への星人の存在の露見は、ギリギリまで避けようということになったらしい。出来ることなら、カタストロフィのその日までね。

 

「だからこそ、CIONは表世界の軍事力の増強を、ミスディレクションにすることにした。

 

「和人君もニュースなんかで見たことはあるんじゃないかな。近年、世界各国の首脳達が、続々と交代しているのを。そして、決まって好戦的な、挑戦的な人物が当選しているのを。

 

「これにはCIONの手が少なからず回っている。軍事力を強化し、革命的な政策を掲げて、マスメディアの注目を必要以上に集めるようにね。

 

「そんな彼等に世界の目線を逸らして、僕達は漆黒の武器を量産しているのさ。

 

「いくら転送機能があるとは言え、何もGANTZは天から授かっているものじゃない。《天子》という人外の理論を元に、きちんと工場で生産、製造しているものだ。あのオーバーテクノロジーの武具もね。

 

「あれだけのものなんだ。製造に、簡単には揉み消せない程度の金も物も人も動く。

 

「製造場所は周波数調整によってガンツミッションエリアのように見えなくしているとはいえ、ミッション経験者の君なら分かるだろうが、何も本当に世界から消えているわけじゃない。だからこそ、隠蔽工作が必要なのさ。

 

「つまり、世界中の政府公認の軍事組織達を、マスメディアに対する目(くら)ましに使っているわけだ。そちらの旧時代の――現時代の兵器開発に注目が集まるように。目線を釘付けにしているんだ。

 

「次に、CIONが固有の軍隊勢力を持たないのかという疑問についてだが、これは勿論持っているというのが正解だ。

 

「プロの傭兵も雇っているし、表社会では知られていない戦争のプロのような人間も、可能な限りスカウトを進めている。

 

「が――それでも圧倒的に、戦力が不足しているんだよ。

 

「なにせ世界規模の戦争だ。宇宙規模の大戦だ。極論を言えば、世界中の人間が武器を持っても、足りるかどうか分からない。本音を言うとね、地球上の全人類を、戦士(キャラクター)にしたいくらいなんだよ、CION(ぼくたち)は。

 

「勿論、そんなことは不可能だということも分かっている。そんなことをすれば間違いなく人間同士の世界大戦が繰り返される。

 

「だからこそ、僕らは死人を使うんだ。

 

「まぁ、これにはGANTZがそもそもそういう仕様だからということもあるんだけどね。

 

「いついなくなってもおかしくない存在。本来、いることがおかしな存在。そんな彼等を、僕等は戦士とするんだ。

 

「世界から脱落した人間を、黄泉へと送られる前に、こっそりと横取りしているというわけだ。

 

「出来る限り、穏やかな日常を守りつつ、秘密裏に戦力を確保していく為にね。

 

戦士(キャラクター)――僕達は、黒い球体によって選別された、蒐集された死人達を、そう呼んでいる。

 

「どうしてそんな名前で呼ばれているのか――君ならば、分かるんじゃないかな、キリト君。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ブツン――と、モニタに表示されていた映像が消え、室内は真っ暗になる。

 

 真っ黒な――闇に包まれる。

 

 それが和人には酷く不快だったが――だからと言って、目の前の水妖精族(ウンディーネ)の男の姿を、顔を、明るい中ではっきりと見たい心境でもなかった。

 もし、しっかりとその存在を認識してしまえば、和人は背中の剣を振るわないでいる自信がない。

 

 余りにも黒く、余りにも怖い――闇の世界の、裏話。

 知りたくて、聞きたくて堪らなかった筈の答えを――自分が、自分達が、あの黒い球体の部屋から戦争(デスゲーム)に駆り出される理由を、遂に知ることが出来たというのに。

 

 心の中に生まれる感情は、恐怖、憤怒、嫌悪――真っ暗な、真っ黒な感情ばかりだった。

 

 戦士(キャラクター)――自分達は、キャラクター。

 

 つまり、和人の想像は正しかった。

 紛れもなく――何の救いもなく。

 

 自分達は、只の戦争(ゲーム)(キャラクター)だったわけだ。

 

 選択されて、武器を持たされて、装備させられて――戦わさせられて。

 成長(レベルアップ)させて、強化(ランクアップ)させて、死んだらまた再生(コンティニュー)させる。

 

 ハッ——廃人ゲーマーだった自分が、まさかキャラクターになる日が来るとは、と、吐き捨てる。

 だが、そう考えて(……あの世界でも、キャラクターといえばキャラクターだったのかもな)と回顧した。

 

 一人の男が、一人の天才が、己が理想とする世界として作り上げた――あの鋼鉄の浮遊城。

 その世界の住人として生きていたあの二年間に置いて、自分は正しく、あの男にとってはキャラクターだったのかもしれない。

 

 だとすれば、自分は何も変わっていない。

 支配者が、天才から、人外へと変わっただけ。

 

 絶対的な存在の掌の上で、ただ剣を振っているだけ。

 

「…………ッッ」

 

 和人は拳を握りながら、喉からゆっくりと重い息と共に言葉を発する。

 

「……死人を使うのは、表の世界への影響を最小限にする為。いなくなっても、世界が変わらない……いてもいなくても変わらない存在を、駒にする為か」

「……確かに、そういう理由もある。だが、一番の理由は、さっきも言った通り、GANTZのシステム的な理由なんだ」

 

 菊岡は、和人の隣に腰を下ろしながら、俯く和人とは対照的にどこか虚空を見上げるようにして、呟くように言う。

 

「GANTZは、一人の人外――《天子》が作り上げた、現代技術など及びもつかないオーバーテクノロジーで作られた未来装置だ。けれど、桐ケ谷君は感じなかったかい? 超常的なスペックの割には、余りにも不合理な点が多いと」

 

 和人はその言葉に何も答えなかった――だが、事実だった。

 GANTZは、奇跡としか表することが出来ないような超常現象をいとも容易く実現させるけれど、その力の使い方は余りにも非合理的だ。

 

 これまでの話を総合すると、GANTZはカタストロフィに向けて戦士を集め、育てる為の装置らしい。

 だとすれば、あの力の使い方は、余りにも――勿体無い。

 

 例えば、GANTZはミッションをクリアすると、どれだけ死に瀕した状態であろうと、戦士を五体満足の状態で回収することが出来る。

 それはつまり、GANTZがその気になれば、戦士が死亡する直前に回収し、回復させた所でもう一度送り込むということも可能だ。

 GANTZの役割が戦士の育成にあるのならば、CIONの目的が一人でも多くの優秀な戦士の獲得にあるのならば、戦士をむざむざ死なせるというのは、どちらにとっても不利益でしかない筈なのに。

 

 100点メニューに関してもそうだ。

 記憶を失っての解放はともかく、メモリーからの戦士の再生、そしてより強力の武器の獲得などは、それこそGANTZ側にとってはメリットでしかない。にもかかわらず、何故、百点を取ってからなどと出し惜しみをするのか。

 

 制限時間(タイムリミット)に関してもそうだ。

 何故、一時間などと区切りを設ける必要があるのか。GANTZの目的の一つは、在来星人の一体でも多くの駆除である筈なのに。

 あの男――比企谷八幡は、かつて制限時間内に星人を殺しきることが出来ず、日常世界に踏み込まれたと言っていた。それこそGANTZが最も回避したい事態ではなかったのか。

 

 上げていけばキリがない程、GANTZの運用の仕方には粗が目立つ。

 まるで、合理性よりもゲーム性を優先しているかのような――。

 

「――ゲーム………?」

 

 その言葉を呟いて、不意に思いついた言葉を口に出してみて――和人は絶句する。

 

 いや、まさか、違う、そんな筈はない――脳裏に反射抵抗のように否定語が飛び交う、が、和人の首は、まるで現実を見せつけるように、隣に座る菊岡へと顔を向けさせる。

 

 それでも、和人は願っていた――否定して欲しいと。

 自分がこれまでゲームの世界で、ゲーム性がルールだった世界で戦い続けてきたが故に考えてしまった戯言だと。遊びではなかったがゲームだった世界で、生き続けてきたが故のゲーム脳な思考なのだと。

 

 だって――それだけは、ダメだろ。

 

 どれだけ理不尽で、どれだけ不条理なのだとしても。

 実感できない程のスケールだけれど、納得できないような大義名分だけれど。

 

 それでも――曲がりなりにも、狂っていても、歪んでいても。

 

 これは――正義の、戦いである筈だ。

 世界を救う、地球を守る――そんな子供じみた、だけれど――だからこそ、命を懸けて戦わなくちゃいけない類の戦いである筈だ。

 

 だから――言わないでくれ。どうか否定してくれ。違うと、そんなことは有り得ないと。

 

 激昂してもいい。馬鹿にしないでくれと罵ってくれても構わない。

 

 どうか――これ以上、世界に、大人に。

 

「………………ッ」

 

 絶望させるのは――やめてくれ。

 

 そんな和人の願いは、きっと届いていたのだろう。

 

 だからこそ菊岡は、水妖精族(ウンディーネ)の人間離れした美貌を――歪ませ。

 和人の視線から逃れるように――顔を、逸らした。

 

 それが――子供に顔向けできない、大人からの答えだった。

 

「…………君の、想像通りだよ、和人君。GANTZの不合理なまでのゲーム性――勿論、その大部分は、システム上の不具合によるものだ。………けれど、我々が、それを――利用しているという、事実は隠せない」

 

 菊岡は、真っ暗な虚空に逸らした顔を、子供に見せないように噛み締めるように歪ませ、そして、ゆっくりと、迸るような黒い殺気を放つ和人と――逃げずに、向き合った。

 

「GANTZは、戦士育成施設であると同時に、現代版のコロッセオでもある。君達が送り込まれるガンツミッション――あの様子は、世界の大富豪が集まる、とあるVIPルームに生中継されているんだ」

 

 娯楽の為にね――という言葉は、幸か不幸か口に出されることはなかった。どちらにとっての幸で、どちらにとっての不幸かは、分からないが。

 

 瞬間――黒い拳が、水妖精族(ウンディーネ)の顔面を捉えたからだ。

 

 剣も使わず、魔法も唱えず、ただ激情のままに振るわれた、人間の――子供の拳。

 汚いものが嫌いで、卑怯な奴が許せなくて、間違っているのが看過できない――そんな、大人が忘れてしまったことが、ふんだんに込められているかのような幼き激情。

 

 大人は、ただ黙ってそれを受けた。

 

「……………………」

 

 眼鏡を直しながら、菊岡はゆっくりと立ち上がる。

 未だに目を見開いて、息を荒々しく乱れさせたまま、拳を強く強く握り締めて立ち尽くす和人に向かって、菊岡は言い訳のような言葉を、何の感情も込めずに淡々と言う。

 

「……確かに、CIONは世界を征服している。主だった有力な権力者達は、大抵が支配下か、もしくは協力関係を築いている。……でもね、桐ケ谷君。世界にはいるんだよ。カタストロフィという間近に迫った絶望からは目を逸らしながらも、立場を死守する術だけは一流で、暗殺しようにも持っている影響力はバカに出来ないという権力者が」

 

 圧倒的な力で押さえつけようとしても、殺すなら殺せと開き直れる程度には胆力があり、また、自分が死んだ際の世界に与える影響力は理解できる程度には頭が回り――けれど、自分に都合の悪い絶望からは目を逸らす程度には愚鈍な、中途半端な権力者。

 

 世界を回すそれなりの大きな歯車であるが故に無視も出来ず、かといってそれを無理矢理に外そうとすると世界に隠し切れない程度の影響を与えてしまう。

 

 挿げ替えようにもそれなりに時間が掛かり、労力も掛かる。

 そんな典型的な有害権力者に対して――CIONは、鞭ではなく、飴を与えてコントロールすることにした。

 

「それがコロッセオなんだ。普段の日常生活では決して見ることの出来ない、怪物との戦争。それを安全圏から眺めて、興奮を得る――貴族の遊び。ガンツミッションにおいて、誰が生き残るのか、最もスコアを稼ぐ戦士は誰か、ボスを倒すのは誰か、そもそもクリア出来るのか。そんなことを、国が動くような頭の悪い金額を賭けて、遊ぶんだ」

 

 正しく楽しいゲームなんだよ、彼等にとってはね――そう吐き捨てるように言った途端、大人は再び子供に殴られた。

 

 仮想の激痛が走ったが、菊岡は何も言わずに、再びモニタに映像を映し出す。

 

「……覚えているかい、桐ケ谷君。といっても、君はあの時も、見られる側だったよね」

 

 殴られたまま、床に倒れたまま語る菊岡の言葉に、和人は何も答えない。

 けれど、菊岡は何も答えないのは聞いてくれている証とばかりに、自分が映し出したモニタではなく、真っ暗な天井を見上げて言う。

 

「ここで僕は、アスナさんやクラインくんらと一緒に、君がGGOでBoBを戦っているのを観戦していたんだ。あの戦いは、あらゆるVRMMOで、文字通り世界を超えて観戦することが出来た。……誰も、君が本当の生命を懸けて、戦っているとは思いもせずにね」

 

 それと同じことだ――と、菊岡は言う。

 

 ガンツミッションの観戦ルームは、とあるVRMMOの中にある。

 それこそ彼等は、BoBを観戦するような感覚で、星人と戦士の戦争に興奮するのだ。

 

 ただ一つ違うのは――圧倒的に異なるのは。

 

 彼等は、星人と戦士が実際に殺し合っているという事実を承知の上で――その事実に興奮を覚えているということ。

 星人の迫力に、戦士の奮闘に――流血に、絶叫に、死に、興奮しているということ。

 

「勿論、非合法だ。こちらのことも明るみには出せないが、それでも奴等の弱みであることは違いない。お互いの弱みを握り合うことで協力関係を築き、あちらが落としてくれる莫大な資金は、世界を守る為に使われる」

「世界を救う? おいおい、菊岡さん、それまだ本気で言ってるのか?」

 

 和人はまるで泣いているように笑いながら、無様に倒れこむ大人を嘲笑するように言う。

 

「人が死んでるんだぞ! 何人も何人も殺されてるんだぞ! そんな様を笑って眺めて、あろうことがギャンブルとして楽しんで! そんな奴らの金を使って――アンタは今、世界を守るって言ったのか!?」

「ああ、言った。そして、最初に言っただろ、桐ケ谷君。そして、何度でも言おうか、桐ケ谷君」

 

 僕達は綺麗じゃない――むしろ、真っ黒に汚れている。

 僕達は正義じゃない――むしろ、この世界で最も邪悪だ。

 生命を戦士(キャラクター)にし、戦争を遊戯(デスゲーム)にし、世界を黒色(シンボルカラー)に染め上げようとしている。

 

 それでも、立ち上がり、胸を張って、菊岡誠二郎という大人は、未来ある若者に向かって言った。

 

「我々は――世界を救う為に戦っている」

 

 例え、真っ黒に汚れようとも、邪悪に身を落とそうとも。

 綺麗じゃなくても、正義じゃなくても――それでも、大人は、胸を張れる。

 

 世界の為に戦っていると、地球を救う崇高な仕事だと、誇りを持つことが出来るのだ。

 

「…………なんだよ……それ……ッ」

 

 桐ケ谷和人には理解出来ない。

 

 目の前の大人が、彼と同じ大人達が、どうしてそこまで恥ずかしげもなく胸を張れるのか――さっぱり理解出来ない。

 

 子供にとって、大人というのは――それだけで、化物のようなものだった。

 

「GANTZは、システム上に数々の欠点を抱えている。死人しか戦士に出来ないのも、解放や再生に100点分の点数が必要なのも、一度エリアに送り込んだらミッションがクリアするまで回収は不可能なことも、逆にミッションを設定したら一時間以上は次の戦士達を送り続けることが出来ないことも、GANTZの初期設定としてそうなっているからなんだ。これは、例え生体コンピューターでも、現場レベルではどうすることも出来ないらしい」

 

 怯える子供をあやすように、菊岡は再びモニタの前に立った。

 和人は反射的に菊岡から距離を取った。それに菊岡は気付かない振りをして、そのまま授業を再開した。

 

「CIONはその不具合の幾つかを『遊戯(デスゲーム)』として()()()()した。勿論、VIPの方々には、君達と同じ口封じ用の脳内爆弾を埋め込ませてもらったけれど――そこまでしてスリルを欲するというのだから、権力というのも立派な病気だよね」

 

 菊岡はジョークのように言った。和人はピクリとも笑わなかった。

 

「あとは……さっき言った『部屋』の戦士(キャラクター)から、CION側の固有戦力の『部隊』の戦士になる為には『まんてんメニュー』って言って、100点クリアを十回行えば、選択肢の④として出てきて、それを選べば可能となる。いや、点数的には万点じゃなくて千点なんだけど、CIONも戦士(キャラクター)には可能な限り救済措置を――いや、流石に、もう無理かな」

 

 黒板に板書をしていて振り返ったら、誰も授業を聞いていなかったかのような苦笑いで、菊岡はモニタを閉じた。

 

 そこには、胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返す、桐ケ谷和人が俯いてた。

 

「……はぁ…………はぁ……………はぁ…………はぁ」

 

 和人は最早、授業を受けられるような精神状態ではなかった。

 

 夕方に氷川に襲われ、明日奈を身を挺して庇い。

 六本木、池袋と連続でミッションに送り出され、元人間だった吸血鬼を殺し、元人間だった吸血鬼に敗北し。

 民衆に囲まれた駅前で、牛人の怪物と決闘し。

 そのまま一睡もしないままで、明日奈の病室を見舞い、こうしてALOに飛び込んできた。

 

 身体は今、病院のベッドで寝ているとは言え、心の方はとっくの昔に限界だった。

 

 黒い球体の背後に広がる、真っ黒な闇の真実。

 それは少年の身と心で、一度に受け入れられる程に薄い闇ではなかった。

 

 和人はふらふらと後ろに下がり、そのまま椅子に倒れるように腰を掛ける。

 

 動いてもいないのに息が上がって、心拍数が上昇する。このままでは強制切断されかねない状態だった。

 

「――今日は、ここまでにしようか。僕が君に教えたいことは粗方教えた。また聞きたいことがあったら、いつでも連絡してほしい」

 

 菊岡は、最後にいつものように笑顔を見せた。

 

 どんな時でも、いつも同じに笑えるのが大人なのだと、和人は知った。

 

 けれど、そんな大人の笑みを、菊岡は瞬時に消して、再び和人の隣に腰かけた。

 

「……それじゃあ、桐ケ谷君。いや、ここからは、再びキリト君と呼ばせて欲しい。ここまでは君に教えたいことだったが、ここからは――君に頼みたいことだ」

 

 リラックスして聞いて欲しい――と、菊岡は、先ほどまでよりも余程緊張しているような、固い口調で言った。

 

 和人は、そんな菊岡の方を目線だけで見詰めながら、このALO会談の始まりを、ぼんやりと思い返す。

 

――アンタは、俺に……何をさせたい

 

「さっき言った通り、CIONは、星人の存在を終焉(カタストロフィ)のその日まで隠し通したかった。……けれど、池袋の一件は、日常世界と――表の世界と裏の世界の境界を破壊し、一般人は化物の、星人の存在を知ってしまった」

 

 案の定、世間は――世界は、徐々に混乱し始めている、と菊岡は静かに語る。

 

「今はまだ日本の一都市のみで発生した事件としてだが、直にあっという間に世界中に知れ渡る――正直、オニ星人のことだけに関して言えば、誤魔化すことは可能だろう。彼等が人間の姿から怪物へと変身したシーンも、映像として記録していたからね」

 

 未知のウイルス、人体実験の果ての生物兵器――宇宙人と同じくらいフィクションで使い古された設定だけれど、だからこそ、信じる人も一定数はいるだろう。

 宇宙人説とどっこいどっこいの胡散臭さ――だからこそ、宇宙人説とすり替えて発表しても、民衆の反応はどっこいどっこいだと予想出来る。

 

「でも、他に大きな問題が二つある。一つは、オニ星人ではない別の星人だ」

 

 オニ星人が今回、こうして表の世界と裏の世界に亀裂を入れたことで、これまで小競り合い程度だった星人と人間の戦争の――均衡が崩れた。

 今回の一件は必死に誤魔化せば何とか凌げるかもしれないが、この池袋大虐殺を皮切りに、第二、第三のオニ星人のような好戦派の星人達が――表の世界で、日常を壊す戦争を仕掛けてくるかもしれない。

 

「カタストロフィまで一年を切っているとはいえ、世界が混乱し、無視できない程の恐慌が起きるには十分過ぎる程の時間が残されている。今、ここで対応をしくじれば、カタストロフィに対して致命的なダメージになりかねないんだ」

 

 だからこそ、ここで我々は、スケジュールを早めることにした――と、菊岡は立ち上がりながら言う。

 和人はゆっくりと顔を上げながら、菊岡の言葉に耳を傾ける。

 

「今日の午後六時、日本政府からという形をとって、我々CIONは会見を行うと発表した」

「っ!?」

 

 この言葉に、和人は瞠目する――それはつまり、秘密結社だったCIONが、表舞台に立つということか。

 

(……いや、日本政府からという形なら、それは違うのか? だが、これで日本政府がCIONの支配下にあるというのが……明確になった)

 

 世界を征服しているのだから日本を征服しているのは当たり前のことのように思えるが、改めて、漠然とこの国のトップとして理解していた内閣政府を簡単に操る彼等を見て、CIONという組織の巨大さを痛感する。

 

 和人のそんな心情をさておいて、菊岡は更に言葉を続けた。

 

「政府から何らかの説明がなされるというニュースを朝一番に放送したお蔭か、今は少し混乱を抑えられている。けれど、会見でこちらが何らかの説明を――真実を話すかどうかは抜きにして――何らかの納得と安心を提供できなければ、間違いなく我々が恐れる事態となるだろう」

 

 原因を追究していきたい――目下調査中――誠に遺憾――厳重に抗議を――我々は決してテロには屈さない――等と言った聞き慣れた無回答だった場合、確かに、間違いなく国民は納得しない。

 それに、あれほどまでにはっきりと凄惨な地獄を見せられた以上、安心も出来ないだろう。そして、その焦燥の矛先は――国家に向く。

 

 混乱と、恐慌――人間同士の内輪揉めの始まりだ。

 

「更にここで、もう一つの問題――それは、君だ、キリト君。桐ケ谷和人君」

 

 君だ――と、菊岡は、モニタの映像を、あの池袋駅東口での最終決戦の映像に変えた。

 

「な――ッ!?」

 

 和人は突然に自分に矛先が向いたことに驚愕するが、その開いた口は映像を見るなりに閉ざされた。

 

 それは、あまりにも鮮明に映し出された、自分の修羅の表情だった。

 血に塗れた黒衣を纏い、紫光の剣を振り回し、牛頭人体の怪物に向かって咆哮と共に斬り掛かる――自分の姿が、この上なく、はっきりと。

 

「……これが……全国中継されていたのか」

「全チャンネル、強制ジャックというおまけ付きでね。恐らくは日本国民の大多数が、君のこの姿を視聴している。つまり――君の正体を、全国民が知りたがっているってことだ」

 

 ズシン、と、真っ黒な何かが圧し掛かる。

 これまで余りにスケールが大きく、現実感が乏しかった物語が、急激に我が身に降りかかってきた。

 

「俺の……正体……? そんなの――」

「ああ。一部ではとっくにバレている。君がSAO事件の英雄で、黒の剣士キリトであることも。そして、だからこそ、みんなが君を求めている。君の言葉を聞きたがっているんだ」

 

 そこまで言われて、皆まで言われなくても、和人は菊岡が頼みたいことというのを理解させられた。

 

――言っただろう、桐ケ谷君――否、キリト君

 

「……菊岡さん。アンタ――」

「こんなこと君に頼める筋合いではないことは分かっている。けれど、本当に残念なことに、僕はこんなことを君に命じることが出来る、立場ではあるんだよ」

 

 大人の事情で大変申し訳ないんだが――そう前置きし、菊岡はモニタに映し出される、和人が牛人を打倒した映像を背負って、和人に向かってこう言った。

 

「桐ケ谷和人君――キリト君。君には、今日の午後六時に開かれる、我々CIONの記者会見に出席して欲しい。そして――」

 

 

――僕達の、英雄になって欲しい。

 

 

 水妖精族(ウンディーネ)の背後のモニタ映像から、歓喜に爆発する民衆の声が、呆然とする一人の影妖精族(スプリガン)の少年の耳に届いた。

 

 モニタの中の片腕を切り落とした少年は、這いつくばるように地面に倒れ伏せていた。

 




大人に弄ばれる子供は、真っ黒な英雄として、世界の裏側へと誘われる。

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