比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――次は、あなたが、死んでしまうかもしれませんよ?


Sideあやせ――③

 

 赤い雨が、降っていた。

 

 ざあざあと、緋色の雨が――涙のように、降り注ぐ。

 

 くるくると、()()ると、踊る少女を彩るように。

 

 

 彼女は真っ赤だった。彼女は真っ黒だった。

 

 赤い雨を黒い衣に溶かして、砂漠に降る雫を歓ぶが如く――血の雨を浴びる。

 

 

 その綺麗な顔に血化粧を施しながら、ぐちゃぐちゃの惨死体を踏み躙りながら、踊る少女は。

 

 

 背筋が凍る程に――美しかった。

 

 

 天使? 堕天使? ――いいや、違う。

 

 

 あれは、あの子は――ただの、きっと。

 

 

 みんなが思った。

 

 あれは――ダレダ?

 

 

 彼女は――思った。

 

 あれは――末路だ。

 

 

 彼女は――思った。

 

 

 あたしは――馬鹿だ。

 

 

 

「…………ごめんね……あやせ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 切れた息を整えようと、膝に手を着きながら荒い息を吐く少女――高坂桐乃は、朝ながらも塀に囲まれている為に薄暗い路地に佇む少女――新垣あやせを、じっと見詰めていた。

 

 昨夜のように、真っ赤ではない。昨夜のように、真っ黒ではない。

 見慣れた、自分と同じ高校の制服――だが、まるでカモフラージュのように身に着けている黒い手袋が、襟元を隠すような季節に合わぬ黒いインナーが、桐乃の表情を弱弱しく歪める。

 

 何よりも――その笑顔が。

 完璧に作られた仮面のような、美しいその笑顔が――桐乃の脳裏に、昨夜の光景を否が応でも思い起こさせる。

 

――『ん? 桐乃? どうかしたの?』

 

「あれ? 桐乃? どうしたの? お腹でも痛い?」

「っ!」

 

 昨夜と同じように――昨夜とは違い緋色に塗れてはいないが――純粋な疑問顔で首を傾げながら、桐乃へと問い掛けてくるあやせ。

 桐乃は反射的に顔を仰け反らせ、一歩下がりかけてしまう――が、歯を食い縛り、この少女から一歩でも遠くへと逃げたい己を堪えた。

 

 今、ここには割って入って盾になってくれる兄はいない。何があっても自分を守ってくれる――兄は、いない。

 

 自分と、彼女。

 高坂桐乃と、新垣あやせ――親友同士の、二人しかいない。

 

 逃げちゃダメだ。避けちゃダメだ。逸らしては、ダメだ。

 

(……何の為に、来たの? ちゃんと――ちゃんとするためでしょっ!)

 

 桐乃は己を叱咤する。

 何の為に、夜が明けて真っ先に、たった一人で、彼女の元へと来たのかと。

 

 ちゃんとする為だ。

 ずっと逃げていたことから。ずっと避けてきたことから。ずっと逸らしてきたことから。

 

 ちゃんと――向き合って、戦う為だ。

 

「――大丈夫。ちょっと、気合入れてただけだから」

 

 桐乃は、ごくりと唾を呑み込んで、膝から手を離して、背筋を伸ばして、両拳を握って――まっすぐに、あやせを見詰める。

 

「あやせ――話したいことがあるの」

 

 新垣あやせは、心拍一つ乱さず、美しい笑顔で――その宣戦布告を、歓待した。

 

「何でも話して! わたしたち、親友じゃない!」

 

 桐乃の表情は弱弱しく歪んだ。

 

 あやせの表情は、変わらず美しい笑顔で――瞳だけが、冷たく真っ直ぐに細められていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 あぁ、可愛いなぁ――新垣あやせは、見るからに怯えながらも、瞳に涙を浮かべながらも、それでも懸命に勇気を奮い、意地を張り、新垣あやせと向き合おうとしている()親友を、高坂桐乃を細めた瞳で見詰めていた。

 

 髪型も真似した。職業も後を追った。

 いつだって背中を見てきた親友を、あやせは改めて、真正面から見つめて――高坂桐乃は、こんなにも()()()少女なのだと、改めて気付いたのだ。

 

 

――『……わたしは、本当にあなたのことが好きだったんでしょうか?』

 

――『……本当のあなたを、わたしは見ていたんでしょうか? 見ることが出来ていたんでしょうか?』

 

 

 あやせは一度だけ、その細めた瞳を瞑り、昨夜、自分が彼女達へと放った言葉を思い返す。

 

――『……わたしは、本当のあなたを……好きになれていたのかな?』

 

(……何も分かっていなかったのは、何も見えていなかったのは――わたしの方でも、あったのかもしれませんね)

 

 少なくとも、新垣あやせは知らなかった。

 思い込みがなくなっていなかった。勝手に、分かった気になっていた。

 

 一番の理解者だと胸を張っていたかつての自分を、掘った穴に突き落としたい程に恥ずかしい。

 

 高坂桐乃という少女が、こんなにも可愛く――情けなく震える少女だということに、全く気付かなかった分際で。

 

 理想の、憧憬の、完璧な少女などでは――決してない。

 エロゲーをするし、メルルに愛を囁くし、妹となれば見境はないし――血の繋がった兄にも、恋をする。

 

 そして、新垣あやせという、昨夜、緋色の血に塗れ、死体の上で踊り、自分と兄の姿をした化物を容赦なく虐殺した存在に――恐怖する。

 

 高坂桐乃とは、そんな当たり前に可愛く、当たり前に情けない、当たり前に少女な少女だった。

 

 そんな当たり前のことに、きっと新垣あやせは、気付いているようで気付いていなかった。

 

(……本当に、情けない)

 

 新垣あやせは、そんな自分に失望するように、小さく冷たい溜息を洩らした。

 

「っ!」

 

 あやせの嘆息に、桐乃の肩が分かり易く跳ね上がったが、あやせはそれを指摘することなく、微笑みを作って桐乃を促す。

 

「それで? 話とは何ですか、桐乃。学校では出来ないような話なんですか?」

 

 桐乃は、震えそうになる唇を一度噛み締めて、喉から意識して声を出す。

 無意識に、握り込んだ拳に力が強く入っていた。

 

「――あやせ。昨日のは、何なの? ……あやせは、何かに巻き込まれているの?」

「それは桐乃には関係のないことです」

 

 探るように、恐る恐るとか細い声で、辛うじて絞り出したという桐乃の問い掛けを、あやせは間髪入れずに両断する。

 

 思わず、桐乃は呆然とあやせを見る。

 あやせは、そんな桐乃を微笑みながら見返した。

 

「で、でも、あやせ――」

「桐乃は運が悪かったんです。昨日、あんな場所にいなければ、桐乃は何も知らずにいられた。でもね、桐乃。あなたは運が良かったんです。今日、こうして()()()()()()()()()()

 

 わたしと違って、死んでいないんですから――そう言ってあやせは、自分の胸に手を置いて、桐乃を優しい瞳で見詰める。

 

「あ、あやせ。昨日も言ってたけど、その死んでるって何なの? あやせは、一体どうなっちゃったの!?」

「ごめんなさい。これでもかなりグレーゾーンなんです。これ以上は話せません。わたしは、無関係な桐乃を、これ以上巻き込みたくないんです」

 

 それに――と、あやせは両手を広げながら、真っ黒に美しい笑顔で言う。

 

「わたしはどうもなっていませんよ。死んだだけです。生き返っただけです――生まれ変わっただけの、ただの、新垣あやせです」

 

 あやせは――美しく、微笑む。

 

 桐乃は、思わず、一歩、後ずさった。

 

「偽物でも、本物でも、桐乃の好きに呼んでください。わたしにはもう関係のないことです」

 

 あやせは――優しく、微笑む。

 

 桐乃は、がちがちと歯を鳴らしながら、涙を浮かべて――あやせを見た。

 

 更に、一歩、後ずさる。

 だけど、手は、震えながらも、ゆっくりと、あやせの方へと伸ばされていた。

 

「……あやせ……あやせ――」

 

 桐乃は、真っ黒に微笑む親友に、真っ赤な殺意を自覚なく放つ親友に。

 

 真っ白な天使のようだった親友に、真っ直ぐな親愛を向けてくれていた親友に。

 

 震える声で、俯きながら、手を伸ばしながら――言った。

 

 

「あたしの――せい、なの?」

 

 

 桐乃は、遂に嗚咽を漏らしながら、昨夜の、戦場になる前の池袋での、黒猫の言葉を思い出す。

 

――『――受け入れてくれる、とでも思った?』

 

 それは、目の前の少女と同じく、高坂兄妹が傷つけてしまった少女の言葉。

 

 高坂桐乃が、完膚なきまでに勝利した、彼女に――妹に負けた、少女の言葉。

 

――『私達を踏み潰して、叩き潰して、全てを得ておきながら、それを放棄したの。――だから許して、が、そんな簡単に通るはずないじゃない』

 

 そんなつもりはなかった。

 

 新垣あやせも、五更瑠璃も、高坂桐乃にとっては、かけがえのない親友で。失うことなんて考えられない存在で。

 

 でも――知っていた。

 

 二人の思いも。二人の想いも。

 

 二人の親友が、どんな思いで、どんな想いで、自分に――自分達兄妹に、向き合おうとしてくれていたのかも。

 

 結果――それを最悪の形で踏み躙ってしまったことも、桐乃は、ちゃんと、知っていた。 

 

――『あなたは私達に、恨まれるべきなのよ。憎まれるべきなの。嫉妬されてしかるべきなの』

 

 でも、それから向き合うことは、避けていた。

 

 逃げていた。目を逸らしていた。

 

 黒猫はそれでもずっと自分達の傍に居てくれたし、沙織もいつもと変わらない三人の時間を作ってくれていた。

 

 それが――彼女達の優しさだと分かっていても、それに甘え続けて、向き合うことから避けていたのは――自分だ。

 

 今回ばかりは、いつもは何とかしてくれる兄も、(じぶん)と同じ――加害者だから。

 

 だからこそ、自分で何とかしなくちゃいけなかった。

 

 高坂桐乃が高坂桐乃として、新垣あやせと向き合わなくちゃ――いけなかったのに。

 

 逃げて、避けて、逸らした――結果。

 逃げ続けて、避け続けて、逸らし続けた――その結果。

 

――『それが、敗者に対する、勝者の負うべき、責務よ』

 

 

 その――せいで。

 

 

――『……どうして……こうなっちゃたのかな?』

 

 

 こんなことに――なって、しまったのだとしたら。

 

 

「――――ッッ!!」

 

 桐乃は俯いたままだった顔を上げて、そのまま、あやせに向かって、涙交じりに叫ぼうとする。

 

「あやせ……ごめ――」

「関係ないですよ」

 

 だが、それをあやせは――両断した。

 

 美しい笑顔で。真っ黒な笑顔で。

 

 真っ赤な殺意で――封殺した。

 

「桐乃。あなたは無関係です。わたしの死に。わたしの生き返りに。わたしの生まれ変わりに。分かりますか、桐乃?」

「あ……あ…………あ……」

 

 あやせが、一歩を踏み出した。

 桐乃は、一歩、後退した。

 

 二人の距離は縮まらない。

 桐乃の伸ばした手はゆっくりと下ろされ、あやせの冷たい微笑みが――拒絶する。

 

「……桐乃。あなたは運悪く巻き込まれましたが、運良く生き残ることが出来ました。だから、もう、いいんです」

 

 あやせは、ゆっくりと手を上げる。

 そして襟元のインナーを少しだけずらし、機械的なスーツの制御部を露出させ、言った。

 

「わたしはもう、こうなりました。だからもう、わたしのことは忘れてください」

 

 混乱と恐怖で占められる、桐乃の頭の中に。

 

 ただ、一言――黒猫のあの言葉が過ぎる。

 

 

――『あなたはあやせを――切り捨てるの?』

 

 

 桐乃は「イヤ……イヤ……」とうわ言のように呟くが――あやせは。

 

 まるで、止めを刺すように「さもなくば――」と、冷たく美しい声色で言う。

 

 

「――次は、あなたが、死んでしまうかもしれませんよ?」

 

 

 薄暗い路地で、天使のように微笑む少女は。

 

 美しく、恐ろしく――堕天使のように。

 

 親友だった少女に、優しい、優しい――殺意を、贈った。

 

「――――ッッッ!!!」

 

 高坂桐乃は、走り出す。

 

 新垣あやせから背を向けて、来た道を引き返すように、一歩でも遠くへと逃げ出すように。

 

「……さようなら、桐乃」

 

 真っ黒な少女は。真っ赤な少女は。

 

「……あなたのことなんか――」

 

 小さく、微笑みながら呟く。

 

「――大好きでしたよ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 朝――いつも通りに起床した高坂京介は、ジャムもマーガリンも付けていない、ただ焼いただけのトーストを齧り、砂糖もミルクも入れていないブラックコーヒーで流し込みながら、テレビに映る天使を見詰めていた。

 

――『あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?』

 

 昨日までの自分なら、画面の向こうの少女に向かって、複雑な感情を押さえつつ、それでも笑みを浮かべていたのかもしれない。

 

 だが、今は、喉を通過する苦みに、顔を歪めてしまう。

 

 そんな京介の近くに、いつも通りの朝には似つかわしくない、小さな来客の少女達が近寄ってきた。

 

「高坂くん。そんなに苦いなら、無理してブラックで飲まなくてもいいんじゃない? そりゃあ、大学生にもなってブラックコーヒーも飲めないのはどうかと思うけどさぁ」

「おにぃちゃん。こっちの方が、甘くておいしいですよ?」

 

 テーブルからひょこっと顔を出して京介の顔を見上げてくる美少女姉妹の頭を、京介は苦笑しながら撫でつつ言う。

 

「ありがとうな、珠希ちゃん。でも、今はココアよりもこっちの方が飲みたい気分なんだ。それと日向ちゃん、俺は別にブラックが飲めないわけじゃないから。こう見えて毎朝ブラック派だから」

 

 ブラックコーヒーなど課題やら試験やらで徹夜確定コースの時の眠気覚ましにしか飲まない京介だが、愛くるしい姉妹に見栄も込めてそんなことを言いつつ、話を逸らす意味も兼ねて「そういえば、二人とも学校はいいのか?」と言うと、彼女達の後ろから、ゴスロリ服姿の彼女達の姉が近寄ってきた。

 

「まだ寝ぼけているのかしら? 妹達は、今日は創立記念日と言ったでしょう」

 

 呆れたような表情を浮かべながらこちらを見る黒猫に――そして、彼女の綺麗な頬に貼られたガーゼに目を奪われ、京介は一瞬目を見開いて、目を逸らして、ポツリと「……そうだったな」と呟いた。

 

 俯いて目線を落とすと、そこには――この時期に寝間着にしている短パンから剥き出しになっている己の素足に痛々しく処置された包帯やガーゼが幾つも目に入る。

 

 そして、CMが終わり、画面が早朝からずっと全局が流し続けている緊急特番へと変わった。

 

『――引き続き、『池袋大虐殺』が発生した現場であります、豊島区池袋からお送りしています。……ご覧ください、こちら、東武東上線改札前である池袋駅南口です。まるで巨大な何かが落下したかのように、瓦礫群が積み上がっていて至る場所に血痕が――』

 

 まるで大地震が発生したかのような、凄惨な災害現場――否、虐殺現場。

 

 夜が明け、太陽の日に照らされようとも――怪物が消えた跡地を、画面越しに眺めようとも。

 

 京介は、黒猫は、険しく、悲しく、冷たい眼差しを――その戦場跡の光景に向けざるを得なかった。

 

 そんな二人を痛ましげに見詰める日向と珠希の目線にも気付かず、京介と黒猫はただ一言ずつを交わし合う。

 

「……目は覚めた?」

「……あぁ」

 

 

――さよなら、お兄さん。

 

 

 黒猫の言葉に、京介は画面から目を逸らし、冷め切ったブラックコーヒーを一気に煽る。

 

 

――あなたのことなんか、大嫌いです

 

 

 ゴクリと嚥下して、そのままテーブルにマグカップを置き――噛み締める様に、吐き出す。

 

 

「――苦ぇ……っ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

――ちくしょうぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!

 

 

 とある何も出来なかった男の、負け惜しみのような咆哮が轟いた後の戦場において。

 

 高坂京介は――特に、何もしなかった。

 

 彼は何も出来なかった。彼に出来ることなど、何もなかった。

 

 ただ――ただ。

 

 化物や化物や化物や化物や人間や化物や化物の――死骸やら肉塊やら鮮血やらで満ち満ちていた地獄にて、ただ、呆然と突っ立っていただけだった。

 

 京介が拳を握って歯噛みして、桐乃が嗚咽を漏らして啜り泣いて、瀬菜が自身の肩にしがみ付くようにして震えて、黒猫が――降り注いだ一筋の光の残滓を焼き付ける様に、どこか遠くを見上げる様にして見詰めて。

 

 いた――だけ、だった。

 

 ただ――何も、出来なかった。

 

 誰も何も発さず、まるで死んだように突っ立っている所を、しばらくしてやってきた救助隊に保護された。

 

 少女達三人は、掠り傷はそれなりに負っていたものの大きな傷はなかったが――救助隊はすぐさま救急車を手配し、病院に送り届けようとした。

 全身の服が赤く染まる程の傷を負い、見るからにボロボロだった京介を、一刻も早く入院させる為に。

 

 だが、それを京介は拒んだ。

 このまま千葉の家に帰らせて欲しいと、そう要求した。

 

 救急隊の人達は当然のように彼の説得を試みたが――京介は妹を一刻も早く家に帰してやりたい、傍にいてやりたいと言って譲らなかった。

 

 普段ならばこんなことを言われたら顔を真っ赤にして足蹴にする桐乃だが、この時の桐乃はそんなリアクションを取れるような状態では全くなく、京介の服をギュッと握り締めて離さなかった。

 

 救助隊の人達も、そんな兄妹の様子を見て、京介の意見を呑むことにした。

 

 今回の池袋大虐殺において、身体に大きな怪我を負った者も多いが、それと同等以上に、心に大きな傷を残した者も、やはり多い。

 そんな人達にとっては、この池袋を少しでも離れたいと願う者も少なくなかった――それに、彼等には言えないが、池袋周辺の病院にはこの時既に負傷者が溢れ返っていたのも、また事実である。

 

 京介の怪我は恐らく完治までは数か月かかる程の大怪我だが、歩けない、身動きが取れないといったレベルではない。通院治療も可能ではあるだろう。ならば、池袋周囲の病院ではなく、彼等の地元という千葉で治療を受けてもらえれば、こちらとしても助かるのは確かだ。

 

 そのような打算もあり、救助隊の人達は京介達の、その日の内の千葉への帰郷を許可した。

 京介の怪我に最優先の応急処置をしてもらった後に、全員纏めて千葉の病院へと送り届けられた。

 

 その後、病院内で救助隊の人達と担当医師の双方から絶対に定期的に来院することを固く誓わされた後、瀬菜を赤城家に送り届け、高坂家へと宿泊する予定だった黒猫も伴って、京介と桐乃は自宅へと帰還を果たした。

 

 両親は涙ながらに子供達を迎えた。

 母は桐乃を、日向と珠希は黒猫を――そして父は、京介を力強く抱擁した。

 

 娘煩悩な父――大介は、真っ先に桐乃の安否を心配すると思っていたので京介は面を食らったが、抱き締められた際、小さな声で「……よくやったな」と、息子にそう言ってくれた。

 

 そんな父の言葉に、京介は――何も言えなかった。

 

 

――あなたのことなんか、大嫌いです

 

 

 何も出来なかった。何もしてあげられなかった少女の。

 

 あまりにも綺麗な笑顔が、こびりついて離れなかったから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ごくり、と。相変わらず痛いくらいに苦いブラックコーヒーを喉に流すと、京介は黒猫に話し掛けた。

 

「そういえば、お前んとこの両親には、連絡はしたのか?」

「ええ。私があの池袋にいたと知った時は大層慌てふためいていたものだったけれど、この身は何の掠り傷も負っていないと言って、納得させたわ。仕事を終わらせ次第、こちらに迎えに来ると言って聞かなかったから、それはしょうがなく許可してあげたけれどね」

 

 仕事を放り出して今すぐ向かうと言い出しかねない勢いだったもの――そう言ってテーブルから離れ、ぼすりとソファに腰降ろす黒猫。

 京介は、そんな彼女の横顔の頬、そして綺麗な太腿に貼られた痛々しいガーゼを見て、眉を顰める。

 

「……どこが掠り傷一つねぇ、だ。明らかに怪我してんじゃねぇか。親に嘘ついてんじゃねぇよ」

「……嘘じゃないわ。こんなもの、怪我の内に入らないもの。……あなたの全身に刻まれたそれや――」

 

――あの子の、傷に比べたらね。

 

 そう、細めた目で、憂いの瞳で。

 テレビから流れる凄惨な戦場跡を見詰めながら、呟いた言葉は。

 

 果たして、()()()()()()に、向けられたものなのか。

 

(…………いいや、どっちにも、か)

 

 京介はそんな黒猫から、窓の外へと目を移す。

 

 綺麗な青空。見事な快晴。

 絶好の登校日和な今日――今朝。

 

 目が覚めたら、桐乃は既にいなかった。

 

(親父は俺らが帰ってきたら入れ違いで署に向かって――お袋は、ようやく眠ったらしいしな)

 

 京介よりも、黒猫よりも、明らかに精神的に深い傷を負っていた桐乃。

 愛娘の痛々しい姿に、母――佳乃は、付きっきりで寄り添った。

 

 一晩かけて桐乃のメンタルケアに努めた佳乃は、娘が何とか寝息を立てたことに安堵し、自らも倒れるようにして眠りについた。

 

 昨夜、自室に戻ったのと同時に気絶するようにして眠ってしまった京介は(何故、寝間着を着ていたのかは記憶に無いが深く考えないことにした)、今朝――目が覚めて真っ先に妹の部屋を覗き込んだ時、娘のベッドに突っ伏すようにして眠る母と、空っぽのベッドを見た時に、後ろから現れた黒猫にそんなようなことがあったのだと聞いた。

 

(……てことは、コイツも碌に寝てないんだろうな)

 

 一瞬だけ黒猫の方を見た京介は、小さく溜息を吐いて、再び真っ青に晴れた空を見た。

 

 大学生である自分の、本日の授業予定は午後からだ。

 だがしかし、怪我がある程度治るまでは休めと両親から言われている。それ故、休講だろうと通常営業だろうと向かうつもりはないが――。

 

「……なぁ、黒猫」

「……何かしら」

「…………いや」

 

 ちゃんと寝ろよ――と、初めに言おうとした言葉を飲み込んで、そんなことを顔も見ずに言った。

 黒猫は、そんな京介を一瞬流し見た後、ポツリと「言われなくても、眠くなれば寝るわよ」とぶっきらぼうに返す。

 

 京介は、そんなやり取りの裏で、自分自身に――憤怒していた。

 

 この期に及んで、黒猫に向かって、『……大丈夫だと思うか?』などと、愚問にも程があることを尋ねようとした自分に。

 

 分かり切っている。

 桐乃が何故、昨日の今日で誰よりも早く登校しようとしたか、など。

 誰に会いに行って、何をしに行ったから、など。

 

 そして、その結果――どうなるか、など。

 

 大丈夫でないことなど――分かり切っているというのに。

 

「…………ッ」

 

 ブラックコーヒーを飲み干し、京介はそのまま立ち上がる。

 リビングを出て、扉を閉め、そのまま二階へと上がっていく音が聞こえた。

 

 そして、そんな京介を一瞥もせず、只管にテレビを見続けている黒猫に、ずっと二人のやり取りを、珠希の相手をしながら見守っていた日向が、姉に言った。

 

「…………ルリ姉」

 

 日向の瞳に、黒猫はゆっくりと目を合わせ――小さく、苦い、微笑みを向ける。

 

 そんな姉の表情に何かを言いかけた日向の口は――バンッ! と、勢いよく開かれた扉の音で閉じられた。

 

 開いたのはリビングの扉ではない。

 その奥――玄関からの音だ。

 

 誰よりも早く反応したのは――やはり黒猫だった。

 

 一瞬の瞑目――そして、立ち上がり、リビングの扉を開ける。日向もその後に続いて、廊下を覗き込んだ。

 

 

 そこには――抱き合う千葉の兄妹の姿があった。

 

 

 高校の制服姿の妹が、いつの間にか寝間着から普段着へと着替えていた兄の腕の中で――震えている。

 

「…………っ……京……介……京……介ぇ……っ!」

 

 兄の胸に顔を押し付け、兄の着替えたばかりの私服に――涙を、そして何かを、染み込ませていく妹。

 

「……あた、し…………ごめ………あやせ……あやせぇ……っ」

 

 京介は、そんな妹の頭を押さえて、更に強く――己の胸に押し付ける。

 

 全てを受け止めるように。全てを受け入れるように。そして、何かを、貰うように。

 

「――頑張った。頑張ったな、桐乃」

 

 兄は、まるで兄のように告げる。

 

 妹を守るように。妹を助けるように。妹から――貰うように。

 

 力強く抱き締めて、小さく妹の耳元で――覚悟を持って、呟く。

 

「後は――任せろ」

 

 高坂京介は、前を向く。

 

 傷だらけの身体に活力を漲らせ、目に光を取り戻していく。

 

 妹に頼られたシスコンは、どんなことだって、してみせる。

 

「あやせのことは、俺に任せろ」

 

 

 そんな兄妹を、誰よりも近くで、ずっと――黒猫は見ていた。

 




兄は、妹の涙を胸に染み込ませ――黒猫は、それを見ていた。誰よりも近くで。

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