本日最後の授業のチャイムが鳴り、下校の時間が訪れる。
山奥の隔離学級でも、遠く離れた千葉のとある高校でも、等しく放課後は訪れる。
人によっては今日という日はこれからだという者もいるだろう。
来栖加奈子にとっては、正しく今日という日はこれからだった。
「今日はこれから新曲のレコーディングなんだぜぇ~。いやぁ~、人気者は辛い! どう? うらやましい? 人生絶好調すぎる加奈子がうらやましい?」
小学生といっても素直に納得できてしまいそうなほどに小柄なツインテールの少女が、同じ制服を身に纏って隣を歩く少女に向かってムカつく顔で言う。
隣を歩く少女は加奈子とは打って変わり、すらりとした体躯に艶やかな黒髪、まるで女子大生と言われても素直に納得できてしまいそうな淑やかな雰囲気を放つ少女だった。
どちらも思わず目を奪われてしまう程の美少女だが、加奈子がアイドルめいた美少女なのに対し、こちらは現役のモデルだった。
見蕩れてしまい、見惚れてしまう。何の変哲もないごく普通の下校風景なのに、同じように周りを歩く同校生達も、揃って彼女を見つめてしまっていた。
当の少女はそんな周りの目も慣れているのか意に介さず、微笑みを浮かべながら隣を歩く親友に対して言う。
「……そうだねぇ。確かに、ちょっと羨ましいなぁ。少し憧れるよ、加奈子に」
加奈子の方を見ずにそう言った少女は、何処か遠くを見つめていた。
何の変哲もない下校風景。
だが、確かに何かが、少しずつ変わり始めていた。
今日もいつも通りの時間割で授業は行われていたが、授業をする教師も、授業を受ける生徒達も、皆どこか何かを不安がっている。
肌で感じている。本能で察しているのだ。
この何の変哲もない日常に、世界に――罅が入り始めていることに。
当然、少女も感じていた。
何かが変わってしまったことを。何かが終わってしまったことを。
そして、何かが――始まろうとしていることを。
(……本当の意味でいつも通りだったのは、加奈子だけだったわけですし)
ふと少女は、今度は目を向けて自分の親友を見つめる。
この子は、なんだかんだでいつも色んな意味で凄かった。
頭が弱くて、性格は最悪。
だけど、その小さな体にはふんだんに才能が詰まっていて、生き方が何より豪快だ。
(わたし達の中で、実は加奈子が一番の大物なのかもしれませんね)
そんな意味で、確かに自分はこの親友を羨ましがっているのかもしれない――と、ふとそんな思いで加奈子の方を見たら。
「…………なんでそんなに離れてるんです?」
「…………お前、さては偽物だな?」
かちんブチンッ、と。
出来立てほやほやの禁句にして禁忌なワードを端的に踏み抜いた憧れ(笑)の親友の言葉が、少女の勘に触るのとほぼ同時に堪忍袋の緒も豪快にぶち切った。
少女はとても素敵な笑顔でこれまた端的に自らの心を言い表した。
「――はぁ?」
大物な加奈子様は親友から噴き出した真っ黒なオーラに怯えながらも地雷原でタップダンスすることを止めない。
「い、いやだって、間違っても本物なら加奈子に憧れてるなんて言わねーし! ていうかあたしに対して素直なんて気持ちわりぃていうか不気味っつーか! 実はあやせのフリしたニセモンなんじゃねぇかってイタタタタタタタタタ! なにこれ!? 新技ッ!?」
ガシっ、と。あるいは、ワシっ、と。
すらりとした文字通りのモデル体型の少女は、その小さな手で加奈子の顔面を掴み、そのまま片手で吊り上げた。
加奈子からすればいつもは威圧的な笑顔でハイキックを匂わせる親友の新たなる攻撃方法に戦慄するばかりだったが、小学生体型とはいえ片手で同い年の少女を持ち上げていることに周囲からのツッコミはない。理由はこの光景と少女が怖すぎるからだ。
少女は、親友の情けを請う訴えを聞き流しながら、親友の顔面を覆う己の黒い手を見る。
昨日、少女はとある少年から、己の認識の甘さを問い質された。
黒い球体による秘密保持、機密漏洩に対する徹底さと、己の現実認識の甘さを。
そして、それと同時に、日常というもの脆さ、世界というものの容赦の無さのようなものも思い知っていた。
昨日の下校中、少女はオニに襲われた。
幸いにも、その時は守ってくれる人が傍にいてくれたが、いつでもそうとは限らない。下校途中に遭遇したのだからあの人は案外近所に住んでいるのかもしれないが、それはオニに対しても同様だし、何よりあの少年はオフの日に連絡をしても会ってくれるような人とはとてもではないが思えなかった。
だから、自分の身は自分で守らなくてはならない。
その折衷案としてあやせが考えたのが、あの近未来的なコスプレスーツを上からカモフラージュすることだった。
スカートから露出する部分はストッキングで、手はこうして黒い手袋で隠した。
所詮は付け焼刃だが、周囲の友達に聞かれたならモデルの仕事で頼まれた新商品のモニターとでも言って誤魔化すつもりだった。
日常は安全ではない。世界は何が起こるか分からない。
そう痛感したからこその、これは少女なりの現実との向き合い方だった。
(……これも、変わったことの一つなのでしょうか?)
日常が変わり始め、世界が変わり始めた。
そして、何より、最も変わったのは自分――なのだろうか。
(それとも、変わってないのかな。元からわたしはこうで、こんなのがわたしで……何なのかな。よく分かりません)
思考に耽り、そろそろ少女の手の中から助けを求める声が聞こえなくなってきた頃――校門の方から、聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。
「――あやせぇぇぇぇえええええええええええええ!」
その声に、右手がパッと開き、一人の少女の命が救われる。
己の頭部を両手で持って「あれ? 大丈夫? 加奈子のカワイイ顔歪んでない?」と何かを確かめる親友の方に見向きもせずに、あやせと呼ばれた少女は、ゆっくりと声の主の方に目を向けた。
そこには、校門の前で女子高生を待ち伏せるシスコンと、制服高校生の集団の中で浮きまくっているゴスロリ美少女がいた。
なるほど確かに今や日常の下校中ですら、何が起こるか分からない。
分かっているのは、目の前の厄介な事態には、この制服の中に着込んでいるスーパースーツは役に立ちそうもないということだった。
「…………はぁ」
溜息しか、出なかった。
+++
女子高生の、男子高校生の、異様なものを見る目が一組の少年少女に注がれる。
そんな視線の圧力を物ともせずに、ゴスロリ美少女は、放課後の高校の前で現役モデルの女子高生の名前を絶叫したシスコンに向かって囁いた。
「……またもやまぁ盛大にやらかしたわね。貴方、事あるごとに絶叫しなくては気が済まないの?」
「……生憎、馬鹿なもんでな。これしかやり方知らねぇんだよ」
二人の目線の先には、お目当ての現役モデルが――昨夜の池袋で、異様な再会を果たした旧知の少女が、こちらを見て露骨に溜息を吐いていた。
「……で、どうするの? あの子やあなたの妹が通っている高校だけあって、対応が早いわよ。もう何人かが職員室に向かって走っているけれど、何かプランはあるの?」
「分かってて聞いてるだろ――いつも通りだ」
その場の勢いのノープラン。
行き当たりばったりで、後は流れで。
こちらの気持ちを、思いを、考えを――全力で、押し付けるだけだ。
「全く。酷い負け戦に同行してしまったわ」
「何言ってんだ。それを承知で付いてきてくれたんだろ。わざわざ“戦装束”にまで着替えてくれてよ」
シスコンは、隣に立つ少女と目を合わせて、へっと笑う。
ゴスロリも、隣に立つ少年と目を合わせて、ふっと笑った。
現役モデルの美少女――新垣あやせは、その肩書に恥じない美しい歩調で、こちらに向かって悠々とやってくる。
シスコンは――高坂京介は、ゴスロリは――五更瑠璃は、そんな世界一恐ろしいモデルを前に、お互いに向かって手を伸ばした。
「……それによ、俺達は別に戦争をしに来たわけじゃねぇ」
「あら? それなら私達は何をしに来たのかしら?」
決まってんだろ――そう言わんばかりに、京介は黒猫の手を握る。
決まっているわね――そう答えんばかりに、黒猫は京介の手を握り返した。
「友達と、仲直りしに来たんだ」
それは高坂京介にとって、避けては通れない――あの日に背負った宿命だった。
「………………そう」
黒猫は、そんな京介の横顔をちらりと見上げて。
こちらを無表情で見詰める、新垣あやせの表情を見遣った。
「なら……負けられないわね」
黒猫は、ぎちぎちと感じる痛みに何も言わず、ただそこに立っていた。
+++
新垣あやせは、そんな二人の不審者を――嘲るような瞳で見ていた。
正確には、そんな一人を――そんな男を、侮蔑するように。
(……あなたは、この期に及んで、そんな真似が出来るんですね)
寄り添うように立つ二人に。妹ではない――別の女の子の手を握り、別の女の子を前に戦おうとしている姿に。
新垣あやせは、いっそ哀れむような瞳を向ける。
(……あなたは、分からないでしょうね。ここまで行くと、鈍感という言葉を使うことすら生温いような鈍さで、愚かさです)
かつて好きだった、初恋の人に見せつけられる愚鈍さに、目が眩まされたかのように、あやせは目を細める。
(……あなたには、分からないでしょうね。……あなたの隣に立つ女の子が、どんな気持ちでその手を握っているのか)
高坂京介には分からない。高坂桐乃には分からない。あの兄妹は、きっと分からない。
そして、新垣あやせには、この少女の気持ちも――分からない。
(……黒猫さん。……どうしてあなたは――)
あやせは黒猫に向かって――哀れむような、問うような目線を向ける。
黒猫はあやせに対して――ふっと、微笑みを返した。眉尻を下げた、複雑な笑みを。
そんな少女達の一瞬のやり取りを余所に、一人の少女があやせを追い越し、京介に向かってズビシッと指を突き付けた。
「あぁー! どっかで見た地味顔だと思ったら京介じゃん! どのツラ下げて加奈子に会いに来てんのぉ?」
過去の因縁だとか
そういうことを一切感じさせない様子のフラれた女が、フッた男に向かってムカつく笑顔ですり寄ってくる。
器が大きいのか単にアレなのか反応に困る加奈子の様に、京介は一瞬頬を引き攣らせながらも言葉を返す。
「お、おお。……久しぶりだな、加奈子」
「おう! あたしがフラれて以来だな、京介!」
「…………」
触れにくい
思わず停止する京介を、下からのアングルでこれ以上ないくらいにムカつく笑顔で加奈子は煽る。
「あれあれ~? なぁ~に固まっちゃってんのぉ? あんだけ威勢よく振っておいて、もう加奈子が恋しくなったわけぇ? ざぁんねぇん! もう加奈子の隣にお前の席ねぇから! 加奈子に会いたかったら必死こいてチケット買うか、あたしらのマネになってこき使われるか、嫌な方を選びな!」
「うるせえよクソガキ! お前、俺にフラれてからウザ度増してね!?」
JKになってからクソガキっぷりに磨きがかかった加奈子に、色々あって大学生になってから更に牙の抜けた感のある京介は押されっぱなしだった。
少しの間、それを黙って見ていたあやせと黒猫だったが、段々と周囲の高校生達の目が無視できないものになっていき、そろそろ職員室から教師がやってくる頃合いだと判断して、ある種の兄妹喧嘩のようなそれを止めるべく口を挟んだ。
「そこまでにしなさい、メルルもどき」
「あぁ? なんだ、頭いっちゃってる京介の愛人じゃん」
「黙りなさいスイーツ3号」
「あぁぁ?」
「――ふっ」
京介と楽しそうにじゃれ合っていたのを邪魔されたからなのかそれとも単に致命的に相性が悪いのか(恐らくは圧倒的に後者だが)、僅か二ターンの会話で険悪な雰囲気になる黒猫と加奈子。
加奈子は京介に向かって黒猫を指さしながら言う。
「え? 何? 桐乃と別れたってのは聞いていたけど、今度はこのヤミネコと付き合ったわけ? ……お前、そんな奴だったの? 流石にセッソーなくね?」
「違う! っていうか、何でお前、黒猫が闇猫になったの知って――」
「――あら? 来栖加奈子。あなた、先輩のことなんてもうどうでもいいんでしょう? なら先輩が誰と付き合おうと関係ないのではなくて?」
「はぁ? お前、何言っちゃってんの? 確かにあたしはもう京介なんてどうでもいいけどよぉ。仮にも加奈子が告った男が、フッた女にさっさと乗り換えるようなクズになるなんて、ムカついて当たり前じゃね?」
加奈子が軽蔑の視線を京介に向けて放った言葉に、京介はこれまでのような口調で反論することが出来ず、気圧される。
だが、その横から、冷たく怒る少女の言霊が加奈子に向かって放たれた。
「……撤回しなさい。あなた如きに、先輩の何が分かるの?」
黒猫の久しく聞いていない本気の怒りに――否。
恐らくは京介が初めて見る黒猫の表情に、京介は先程の加奈子以上に気圧される。己に向けられたものではないにも関わらず。
だが、正しくそれを向けられている加奈子は、そんな黒猫に向かって細めた目で、とてもつまらなさそうに端的に言った。
「……そういうアンタは分かんのかよ?」
瞬間、その言葉に沸騰したように、黒猫の右手が加奈子の頬に向かって振るわれる。
が――黒い小さな手が、それを優しく掴んで止めた。
「――ダメですよ。黒猫さん」
黒猫はあやせを睨み付けるが、あやせは無表情でそれを受け止める。
しばし一方的に黒猫が睨み付ける形になるが――やがて黒猫が俯き、呟く。
「……ごめんなさい」
「……いいえ」
そして、あやせが黒猫の手を放すと、あやせは京介を見て言った。
「あなた達は、わたしに話があるんですよね」
「……あぁ」
京介はそのまま加奈子に目線を移すと、加奈子に向かって言った。
「悪い、加奈子。俺達はあやせに会いに来たんだ。席、外してくれねぇか?」
「はー? ヤミネコに続いてあやせともヨリを戻そうってわけ? っていうか、どのツラ下げて加奈子さまに命れ――」
「――加奈子」
京介は、真っ直ぐに頭を下げた。
周りを見ず知らずの高校生に囲まれた中、隣で自分がフッた女の子達が見遣る中、真っ直ぐに、深々と。
「……いつか、お前にも謝りに行く。……謝って済むようなもんでもねぇし、そもそも謝るようなもんでもないが……それでも――俺は、必ずお前らと向き合いに行く」
でも、それは今ではない。
今、京介が向き合わなくてはならない少女は、来栖加奈子ではなく。
「……だから、悪い、加奈子。……俺は――」
「あぁ。あぁー。もういいよ、めんどくせー。好きにすれば? 加奈子さまには関係ねぇし~」
じゃあな、あやせ。またね、加奈子。
親友同士が自分達だけに再会前提の別れの挨拶を交わし、加奈子は京介達に背を向ける。
そして加奈子は黒猫を一瞥し睨み合うと、京介に向かって捨て台詞を残した。
「……京介さー」
その言葉に、京介は何も答えない。
加奈子もまた、どうせ京介は何も答えないと分かっていたかのように、返事を待たずにそのまま帰っていった。
京介が、黒猫が、あやせが、そんな彼女の小さな背中を見送っていると、あやせが空気を変えるように提案した。
「場所を変えましょうか」
+++
そしてやってきたのは――やはり、いつもの公園だった。
「好きですねぇ、ホント」
幾度となく、新垣あやせが高坂京介を呼び出した公園。
人生相談と称した無茶ブリを、無茶苦茶な理論で並べ立てて付き合わせた――思い出の公園。
「……そういえば、わたし達は昨日も来ましたよね、この公園」
「……そうね」
あやせのくるりと振り向きながらの言葉に、黒猫は微笑を返す。
慟哭と、号泣。
曇天の空の下で行われた初恋の卒業式。
それは、たった一日前のことだった。
黒猫はとてもではないが信じられない。
自分と違って
「不思議ですね。あの日から半年近く会ってなかったのに、二日続けてこうして会うなんて」
天敵であった筈の自分に天使のような微笑みを向け。
初恋の相手だった筈の男を一切見ずに、存在すら無視するように一瞥もしない。
「…………そうね」
黒猫は、目の前の少女を見て、今再び現実を呪う。
どうして――この子が、こんな目に遭うのだろう。
自分と違って戻れた筈の少女は――誰よりも幸せにならなくては、ダメなのに。
「――あやせ。話をしようぜ」
そして、ここまでの道中も、今日も誰もいないこの公園の中に入った後も、一切目も向けられず声も掛けられなった京介が、無理矢理に自分を認知させるべく話を切り出す。
あやせは、そこで初めて京介に目を向けて――何の憎まれ口を叩くこともなく、淡々とベンチに座った。
「そうですね。手早く済ませましょう。あ、黒猫さん達も座りますか?」
「…………いいえ、大丈夫。貴女の言うように、手早く済ませるから」
黒猫は、あやせの言葉に答えた後、隣に立つ京介に目を向けた。
京介は黒猫と目を合わせ、頷く――理解しているからだ。思い知っているからだ。
ここまでの道中、黒猫が京介に同行したのは、あくまで黒猫もあやせとしたい話があったからに過ぎない。京介は黒猫が共にこうして立ってくれていることに力強さを覚え、感謝しているけれど、それでも、これだけでも本来は固辞すべき増援なのだ。
今からすべきことは、高坂京介が、高坂京介自身で行わなければならない――贖罪だ。
目の前のベンチに座る少女に対しての、向き合わなくてはならない京介の罪科だ。
天使のような微笑みで――堕天使のように昏い瞳で、少年を見上げる少女が、京介の罪だ。
真っ暗な瞳に、まるで鏡のように自分が映る――己の罪を突き付けるように。
「……あやせ」
京介は喉から言葉を搾り出す。その時、初めて自分の声が震えていることに気が付いた。
「はい、何ですか?」
あやせは微笑む。まるで、緊張しなくてもいいんだよと、初対面のファンにするように。
「―――ッ!」
京介は、その微笑みに歯を食い縛った。
そして――勢いよく、頭を下げて、謝罪する。
己が罪を――謝った。
「あやせ――俺が、悪かった」
その姿を見た、二人の少女の表情を。
高坂京介は、見ることが出来なかった。
+++
すっかり日が暮れた路地を、新垣あやせは一人で歩いていた。
「…………」
既に、高坂京介とも、五更瑠璃とも別れた彼女は、真っ直ぐに家に帰ることもせず、かといって明確に目的地を決めるわけでもなく――宛てもなく、彷徨い歩く。
まるで、何かを待っているかのように。まるで、誰かを待っているかのように。
または――何かに、迷い込んでいるかのように。
(……何をしているんでしょうか。わたしは)
もしかして――待っているのだろうか。もしかして――迷っているのだろうか。
だとしたら――どちらにせよ、正気ではない。
「……いえ、それは、今更ですね」
あやせは歩きながら己の手を見つめる――黒い手を。
緋く染まった手を。真っ赤に
天を仰ぐ。よく晴れた日に相応しい――美しい茜色に染まった空を。
徐々にこの美しい茜を、真っ黒な夜が塗り潰していくのだろう。
それでも空は空だ。変わっていない。不変だ。
なら――新垣あやせは?
白い新垣あやせも。黒い新垣あやせも。赤い新垣あやせも。
どれも
偽物ではない――本物なのだろうか。
例え――どれだけ変わり果てようとも。
変わっていない――只の、一面なのだろうか。
「……会いたいな」
無性に会いたかった。無性に戦いたかった。無性に浴びたかった。
手を伸ばす――黒い手を、
だが、新垣あやせを地獄へと誘う電子線は、一向に降り注がない。
例え――壊れた天使が、どれだけ堕天を望もうとも。
「…………ふう」
あやせが息を吐き、手を下すのと同時に目線も落とす。
すると、いつの間にか普段自分が殆どうろつかないエリアへと迷い込んでいることに気付いた。
(……といっても、徒歩で来れる範囲ですし。最悪、駅に辿り着くことが出来れば、数駅分の電車で問題なく帰れるでしょう)
日がだいぶ暮れてきていることだし、そろそろ帰宅に向かおうかと、あやせがスマートフォンのナビ機能を使おうと再び目線を周囲の風景から外した所で――ふと通りすがった定食屋から怒号と共に人間が飛び出してきた。
「テメェいつまで居座ってやがる!! もうとっくにチャレンジはクリアしてんだよッ!! そんなに食べたきゃどっかのバイキングにでも行きやがれ!!」
「い、いや、あの、この辺りのバイキングはもう滞在三日目にして行き尽くしてて……今朝も寄ったらもう既に出禁になってて……」
「文字通りの
「そ、そんな! もう大食いチャレンジをやってる店はこの辺に他にないのに! あ、だったら生で! 生でいいから! たぶん私ならパック詰めのカキでも問題なく消化出来る――」
「二度と来るなバケモノがぁッ!!」
恐らくは店主と思われる壮年の男性が塩代わりとばかりに加熱用と書かれたパック詰めのカキを店から投げ出された謎の少女に向かって投げつけた。
「…………」
あやせはそんな一部始終を見ながら、その視線を店外の壁に貼り付けていた『巨大カキフライチャレンジ! 一個食べ切る毎に賞金一万円! けれど食べ切れなかった場合、チャレンジ代金五千円をいただきます!』と書かれたポスターを涙ながらに引き裂くように剥がす店主の背中に向けた。
やがて剥がしたポスターで涙を拭った店主は、そのまま荒々しく店内へと戻り――そして札束を持って再び現れ、加熱処理用生ガキを地面に頭をつけながら犬のように食らっていた少女に投げつけ、そのまま泣きながら店内へと戻っていた。
暖簾をひったくり営業中の看板を裏返しガチャと鍵を閉めるまでの一連の動作を流れるように行った店主を呆然と見つめながら、その視線を、札束には目もくれずに生ガキを野犬のようにかっ食らう少女へと向ける。
(……あの札束……ポスターに書かれてたラグビーボールみたいなカキフライを……この人いくつ食べたんだろ)
しかも、ポスターには制限時間は一時間と書いてあった。
あの店主の態度はどうかと思うが、断片的に得られる情報だけでも、この人の胃袋は化物呼ばわりされてもおかしくないのかもしれない。
「あぁ……やっぱりカキって最高……カキフライの弾丸になら撃たれてもいいって思ってたけど、生ガキに溺れるのも悪くないかも……ちょっとジャリジャリしてるけど」
「…………」
訂正。胃袋とか抜きにしてこの人は化物かもしれない。
しかし、人通りは少ないというか今のところ周囲にいるのはあやせだけとはいえ、この姿は同じ女性として余りにも見るに堪えない。
そう。この化物染みた色々とヤバい人は――女性なのだ。
しかも、年は見るからに若く、女子高生の自分と比べてもそう離れていない。下手をすれば十代。
怪物染みた胃袋を持つとは到底思えないようなスリムな人で、髪は少しクセのある金髪ショート、動きやすさ重視なのかラフだけれどそれがかえって活発な印象を抱かせるコーデ。
少なくとも先程の店主との一部始終を聞いていなければ、このようなあんまりな有様を見せてはいけないような人に思える。下手をすれば何かの事件があったかのように見えてしまう。
「……あ、あの、大丈夫ですか?」
あやせは勇気を出して声を掛けた。少なくとも、地面に落ちた生ガキを舌で掬い取ろうとする年上女性に声を掛けるのは、あやせをしても勇気のいる所業だった。
ごくんと最後の生ガキを丸呑み(!?)してから、謎の女性はあやせに向かって微笑みながら答えた。
「ありがとう。大丈夫。ちゃんと全部食べたから」
あやせが大丈夫と聞いたのはそこではない。少なくとも地面に落ちた加熱用生ガキを食い尽くすのは大丈夫ではない。
そんなことをあやせは思っていたが、必死に顔には出さず、社交辞令だけを言ってその場を後にしようとする。
数々の変態に巡り合ってきたあやせだったが、そんなあやせを以てしても、目の前の女性は関わり合いになりたい人種ではなかった。第一印象がアレ過ぎた。
「そ、そうですか。それはよかったです(何もよくはないけれど)。えっと……それじゃあ、わたしはこれで」
あやせはそのまま女性に背中を向けて早々に立ち去ろうとする。
が――女性はゆっくりと立ち上がり、あやせに向かって、こう言った。
「――そんなに焦って帰らなくても、今日は
あやせは足を止め、バッと振り返る。
そこには布に包まれた何段もの重箱を持って、こちらに向かって笑顔を向ける赤い髪飾りが特徴の女性がいた。
「……あなたは――」
「心配しなくても星人じゃないよ。警察でもなければ、マスコミでもない。だから安心して。敵じゃないから」
本当は
「まぁ色々と
「……話が見えないのですが。改めて聞きますけど――」
あなたは――何者ですか?
片足を引き、腰を落として、睨み付けながらあやせは問うた。
誰一人として通行人はおらず、幾つもある店からも誰も顔も見せない、そんな通りで、一人の少女と一人の女性が向かい合う。
女性は、少女の殺気を笑顔で受け止めながら――ポケットからバッジを取り出した。
それを襟元へと装着しながら、謎の美女は言う。
「桂木弥子――探偵だよ」
謎の探偵の襟元に光る――地球の上に『CION』という文字が浮かぶバッジに、あやせの目が一瞬奪われる。
「話をしよう。アナタの抱える全部の『謎』を預かるよ。だからと言ってはなんだけどさ」
あなたに私から『依頼』があるの。
そう――目の前の『探偵』は言った。
シスコンは黒猫と共に堕天使との聖戦に挑む――そして、探偵は、堕天使を更なる深淵へと誘う。