比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。


Side東条――③

 

(――まぁ、あれから色んなことがあったけれど)

 

 東条が入学二日目にして当時の石矢魔最強の元へ殴り込みにいったり、神崎が集団リンチに遭ったり、それを裏から手を引いていたのが夏目だったり。

 

 城山が神崎に忠誠を誓って神崎一派の栄えある一人目になったり、ことあるごとに鬼束が東条に挑んで返り討ちに遭い続けたり、けれど肝心な東条がバイトに精を出すようになって学校に碌に来なくなったり、夏目が神崎とタイマンを張ってボコボコにしたり――神崎の仲間になったり、そして瞬く間に神崎一派が石矢魔の最大勢力となったり。

 

 石矢魔高校の歴史から見ても、そして夏目慎太郎自身にとっても、恐ろしく濃かった一年を経て――今。

 

(…………最近は割と平和だったんだけどなぁ。嫌なタイミングで掻き乱しに来るよ、本当。本人に自覚はないんだろうけどさ)

 

 夏目は冷ややかな目で、校門の前で屹立する男を見下ろす。

 

 服装は、一見あの日と同じような工事現場の作業服

 およそ高校生には見えない風格を纏いながら、石矢魔高校のボロボロな校舎を笑みと共に見上げている。

 

 彼を見つけて騒めく声は、やがて大声で彼の名前を叫び上げた。

 

「と、ととと――東条だぁぁぁぁぁあああああ!!」

「石矢魔最強の男――東条英虎が登校してきたぁぁああああ!?」

 

 その叫び声は、石矢魔高校を物理的に揺るがすかのように響き渡り、次々と教室の窓ガラスから首が飛び出してくる。

 

「東条!?」「東条だと!?」「アイツまだ退学してなかったのか!?」「俺は欠席多すぎて留年したって聞いたぞ?」「でもこの学校ってテストさえ受ければ自動的に進級だろ?」「いやそれでもヤバすぎてギリギリだったらしいぞ」「それに出席日数もギリギリだったみたいだ」「そんなに馬鹿なのか?」「ああ、えげつないほどの馬鹿だ」――と、瞬く間に石矢魔高校全ての注目が彼に集まる。

 

 夏目のクラスでもすぐに窓際の夏目の周りに人が集まり、窓から東条を見下ろしにかかる。

 それに同調しなかったのは、ソファに座り込んだままの神崎と、鼻血を出しながら立ち上がり彼の横に立つ城山のみ。

 

「……東条だと?」

「…………」

 

 神崎は露骨に不愉快そうに顔を歪め、城山は固い無表情を崩さない。

 

 夏目の顔もまた険しかった。

 

 今の二年生、そして三年生にとって彼は、ある意味――恐怖の象徴でもある。

 入学してから瞬く間に、この学校の全てを相手取り、そして文句なしに勝利した彼は、強さが全てのこの学校において、紛れもなく――この学校の頂点(トップ)だった。

 

 夏目自身も、あの屈辱の入学式の後、数回に渡ってあの男に挑んだ。

 入学式のように瞬殺されることはなかった。あの男に膝をつかせ、その後頭部を見下ろしたことすらある。

 

 だが――それでも、あの男に勝てたことは、終ぞ一度もなかった。

 

 策を弄したこともあった。搦手を使ったこともあった。数の暴力で挑んだこともあった。

 だが――それでも、あの男が倒れたことすら、終ぞ一度たりとも有り得なかった。

 

 強敵を歓び、窮地に燃え上がり、追い込まれては強くなり、何度でも拳を握る。

 そして――笑う。楽しそうに笑いながら、全てを打ち砕き、そして勝利する。

 

 まるで物語の登場人物であるかのように、逆境から生還し続ける、ドラマチックに運命が味方するあの男に――夏目は。

 

 夏目慎太郎は――いつも――今でも。

 

「…………………」

 

 そんな夏目の横で、最近になって神崎一派に加わった一年生達が、どこか浮ついたように言う。

 

「うわ、うわ! 俺、東条英虎って初めて見ましたよ! あれが今の石矢魔最強の男なんすね! うわ、デケェ! うわ、コエェ!」

「………………」

 

 夏目はそんな少年を冷ややかに見つめながら、再び東条に視線を戻す。

 

 そう。二、三年生にとっては、恐怖の象徴であり、最強の座を搔っ攫った存在であり、己に敗北を刻み込んだ男でもある東条英虎だけれど、入学して数か月の一年生にとっては、碌に登校もしてこない彼は――只の伝説だった。

 

 入学初日から目についた者を片っ端から沈めていった狂獣。教師は勿論女子供にすら容赦をしない悪魔。熊とか虎とかと戦って修行してる野人。あまり登校してこないのは山籠もりを日課にしているからだ。実は人間じゃなくてサ〇ヤ人――等々。

 

 中には当たらずとも遠からずなものもあるが、後半は明らかに面白がっている節のある噂話だ。

 だが、東条自身の現実離れした最強さや、滅多に姿を見せない神秘性も相まって、それは留まる所を知らず膨れ上がっていき、やがて校外にまで広がっていって、最早、誰にも手をつけられなくなった――皮肉にも、まるで東条英虎その人の如く。

 

 結果として、今年の春に入学してきた新入生の、東条に対する印象は様々だ。

 

 その最強伝説に憧れる者。あるいはその最強伝説を超えるべく打倒に燃える者。

 ただ純粋にその伝説を確かめたい者。彼の下につきたいと考える者。

 極悪非道と称される強者の恐怖に怯える者。興味のない者。実在を疑う者。ドラゴンボー〇が欲しい者――様々。

 

(つい昨日、池袋に本物の化物が出たっていうのに……この学校の生徒にとっては、まるで東条の方が珍しい怪物みたいな扱いだねぇ)

 

 まぁ、それに関しては、夏目は半分くらいは同意なのだが。

 そんじょそこらの宇宙人よりも、東条の方がよっぽど化物なのだから――あれ?

 

(……どうして俺は、昨日の池袋の化物を――宇宙人だと当たり前のように思ったんだ?)

 

 夏目がそんな思考に囚われかけた時――再び、校舎の騒めきが大きくなる。

 

 校庭に東条が足を踏み入れたのを制するように、校舎の中から、とある集団がぞろぞろと出てきた。

 

「………ん?」

 

 東条がきょとんと見据える先にいるのは、この石矢魔高校で異彩を放つ異色の派閥。

 数はおよそ十人程だろうか。それくらいの勢力ならばこの石矢魔では珍しくもないが(神崎一派は神崎に近くない舎弟を含めればその五倍はいる)、この集団の特色といえば――その全員が、女であるということ。

 

 女のみで構成されるにも関わらず、かつて――この石矢魔高校の頂点(トップ)に君臨した時代を持つ、伝説のレディース。

 

烈怒帝留(レッドテイル)……ッ!?」

「じゃ、じゃあ、あれが……中学卒業と同時に入学前の時点で、烈怒帝留の三代目総長になった……新たな女王(クイーン)

 

 特攻服を纏った女子のみで構成されたその集団の中から、中心の少女が更に一歩、東条に向かって前に出る。

 

 真っ白なズボンに、さらしのみの上半身。

 そして、その上から纏う――「烈怒帝留」の文字が書かれた特攻服。

 癖一つない艶やかな黒髪のロングヘアを靡かせる――その風を、断ち切るように振るう、一振りの木刀。

 

 細身の体からは想像もつかない風切り音で、校舎から届く耳障りな雑音を沈めた少女の名は――邦枝(くにえだ)葵。

 

 かつて石矢魔どころか、全国の不良少女達全ての憧れの的となり、全国の不良少年達を恐怖の底に叩き落していた、伝説のレディースの後継者にして。

 たった一年でその名声を地に落とした堕ちた伝説を、入学後僅か三か月で取り戻しつつある救世主でもある新星。

 

 新たな女王として、今、石矢魔で最も注目を集めるスーパールーキーが――伝説の石矢魔最強の男に。

 

 烈怒帝留失墜の一因となった男に、その木刀の切っ先を向ける。

 

「東条英虎――私は、あなたを許さない。あなたの暴挙は、この私が止めるわ」

 

 数瞬の沈黙の後、一気に沸き立つ石矢魔高校。

 

「……ほう」

 

 東条が――笑う。

 

「おいおい、マジかよ……」

「ああ。ルーキー女王(クイーン)が、石矢魔最強の東条英虎に――」

 

――宣戦布告した。

 

「………」

 

 夏目慎太郎は、ポケットの中に手を入れながら、その光景を、相も変わらず冷たい眼差しで見据えていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 己を、まるで親の仇のように睨み付けてくる少女。

 

 噂や伝説だけが独り歩きをし、身に覚えのない恨みを買ったり、恐怖や羨望の眼差しで見られたりすることが日常の東条にとって、また、東条自身もそんなことに対して何かを思うような繊細さとは対極にいるような人間であるが故に、本来であればこんな少女の敵意には何も頓着しない筈だった。

 

 東条にとって、そんな視線や感情に対する常のアクションは、そいつが強いか、強くないかの判別である。前者なら喧嘩しようぜ、後者ならばじゃあな――と、対応は決まっていた(後者であっても逆上して殴りかかってくる相手を殴り返すので結果としては喧嘩になるのだが)。

 

 だが、この時、東条英虎にとっては本当に珍しいことに――己の過去を、回想していた。

 

 それは、目の前の少女と同じ、真っ白な特攻服を身に纏った、黒髪の女と相対した時の記憶だった。

 

 

 

 

 

 一年と少し前――東条英虎が、石矢魔高校に入学して、二日目のこと。

 あの衝撃の入学式から僅か一日後、東条は手当たり次第に先輩方を殴り飛ばしながら――頂上を目指して突き進んでいった。

 

 石矢魔高校最強の男に――否。

 当時、石矢魔高校最強の名を欲しいままにしていた――最強の女に、会いにいったのだ。

 

 彼女は、今の目の前の少女と同じ、「烈怒帝留」と書かれた真っ白な特攻服を身に纏っていた。

 

 名を――男鹿美咲。

 

 伝説のレディース「烈怒帝留」の初代総長にして、創設者。

 女王(クイーン)と呼ばれた最初の人物であり――そして。

 

 東条英虎が、石矢魔高校で、唯一倒せなかった人物でもある。

 

 

 

「――へぇ。アンタが、昨日の入学式で大暴れしたっていう新入生かぁ」

 

 デカいねぇ――と、その女はどっかりと窓際の席で椅子に凭れ掛かりながら言った。

 

(……コイツが、石矢魔最強?)

 

 登校して一番先に喧嘩を売ってきた先輩をボコし、それからわらわらと群がってきた先輩達を天井に床にと突き刺していきながら、一番強いヤツをインタビューして回っていった東条。

 

 一番強い男は何処にいる? ――こんな問い詰めに対し、皆、一様に同じことを言った。

 屈辱を堪えるように、そして、それでも認めざるを得ないと、思い知らされているかのように。

 

 今、この学校で一番強いのは――()()()()()

 

 石矢魔最強は――とある、女だと。

 

 それが――。

 

「アンタが……石矢魔最強か?」

 

 その言葉に、教室中にいる女達が、一斉に立ち上がって東条を睨み付けた。

 

 だが、教室の一番窓際にいる女と、その横にいる長い黒髪の特攻服の女と、着物の女は動じない。

 そして、一番窓際にいた女が、椅子に掛けていた特攻服を大きく翻しながら肩に掛ける。

 

 一瞬見えた背中の文字――東条英虎の動体視力は、「烈怒帝留」の四文字をしっかりと捉えていた。

 

「名乗ったことはないけれど、そうね……少なくとも、この学校のケダモノみたいな男共よりも――アタシの方が一兆倍強いわよ」

 

 そして、まるで号令を掛けられたかのように、彼女の部下達が東条と彼女の間に道を作った。

 

 真正面から向かい合う――東条と女王。

 

 男鹿美咲は、不敵に笑いながら、東条に向かって気安く笑い掛けた。

 

「どうする? ――やる?」

 

 瞬間――ぞわっ、と。東条の中を何かが突き抜けた。

 

 今までに感じたことのない感覚。直感で思い知った――ああ、最強だ。

 

 この女は、この学校の誰よりも強い――いや。

 

 もしかしたら――――よりも――――だが。

 

「……おい、何か言ったらどうなんだ?」

「ハッ、もしかしてリーダーにビビったんじゃ――ッ!?」

 

 取り巻き達が挑発する中――少女達が、息を呑む。

 

 それほどまでに、東条が浮かべる笑みは、纏う殺気は、男鹿美咲の近くに侍る彼女達ですら、恐れを感じずにはいられないものだった。

 とてもではないが、ついこないだまで中学生だったヤツが出せる雰囲気(オーラ)とは思えない。

 

 美咲の傍にいるロングヘアの少女と着物の少女――糸井雫と春香と呼ばれる少女達も、表情から笑みを消す。

 東条を、女がトップに君臨するのが気に食わないという理由で乗り込んでくるいつもの輩とは違うと判断し、臨戦態勢を整える。

 

 そんな中、美咲はより楽しそうに――そして。

 

「どうしたの? まさか、女は殴れないとかいうタイプじゃないわよね」

「進んで殴りたいわけじゃねぇが、楽しい喧嘩が出来るなら別だ。強けりゃいい。そして、分かるぜ。アンタは強え」

「そりゃ結構。見境なく女を殴るクズでも、女ってだけで下に見るクズでも、弱いくせにフェミニスト気取って逃げるクズでもなくて、お姉さん安心。じゃあ、早速始める? それとも――」

 

 どこか――優しい瞳で、語り掛ける

 

「――()()()()()()()()をする為に、今はやめとく?」

 

 その言葉に、東条よりも彼女の周りを固める烈怒帝留のメンバー達の方が呆気に取られた。

 

 東条は、表情から笑みを消しながらも、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

 美咲は腰に手を当てながら、東条を見つめつつ続けて言った。

 

「アンタは、どうして入学二日目で、アタシ達のところに乗り込んできたの? 石矢魔のトップってのが欲しいの? この学校を支配したいの?」

 

 問い掛けに見せかけた、決め付けだった。

 美咲の言葉には、美咲の表情には――そうじゃないでしょ、と、それ以外の返答を許さない、優しさがあった。

 

「強いヤツと喧嘩したい。それだけなんでしょ。ずっと――それ以外、してこなかったんでしょ? そういう風にしか生きてこなかったんでしょ? だから、あなたは真っすぐに頂上(ココ)に来た。違う?」

 

 美咲は有無を言わせなかった。東条が何も言い返さないことを確信しているかのように。

 

 事実――東条英虎は、何も言わなかった。ただ、目の前の女性を見据えることしかしなかった。

 

 男鹿美咲は一歩を踏み出す。ゆっくりと、まるで帰宅するかのように。

 

 周囲のメンバーは緊張に固唾を呑んだが、美咲は尚も優し気に――東条の肩を、ポンと叩いた。

 

「――あげるよ。好きに使いな。アタシは別に、いらないから。頂上(こんなの)

 

 美咲は東条の横を通り過ぎながら、あっけらかんという。

 

「元々、石矢魔の女の子達を、ケダモノ男子から守る為に始めた烈怒帝留だしねぇ。もう十分、格の違いは見せつけたし。基本的にアタシ達は根城のゲーセンにいるから、学校にも碌に来ないしね。欲しけりゃあげる。でも――」

 

 美咲は一度振り返り、こちらを振り向かない東条に、いたずらっぽく言う。

 

「――あなたも、どうせすぐに飽きるよ。頂上(ココ)にはアンタの求めるもんなんてない。だって、他に誰もいないから頂上(てっぺん)なんだから。アンタもすぐに、興味を失くす」

 

 だけど、安心しな――男鹿美咲は、再び前を向きながら、東条に背中を向けながら、誰かに向かって語り掛ける。

 

「いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。頂上(ここ)にいれば、最強であれば、いつかきっと、向こうからアンタの前に現れるよ」

 

 そいつが来たら、思いっきり喧嘩してあげてよ。きっと楽しいと思うからさ。

 まるで――弟に語り掛けるように、男鹿美咲はそう言い残して、石矢魔最強を東条英虎に明け渡した。

 

 伝説の女王が、東条英虎に敗北した――そんな噂話が石矢魔を掛け廻ったのは、東条英虎が石矢魔に入学して三日目のことだった。

 

 入学してたった二日で、電光石火の如く石矢魔の頂点に登り詰めた新入生。

 そんな衝撃は石矢魔高校を大いに混迷させたが、当の東条英虎と男鹿美咲は、まるで意に介さなかった。

 

 男鹿美咲の方には、今まで無敗の女王の黒星に、今がチャンスとばかりに挑みかかる者が一時は現れたものの、それら全てを彼女は揚々と退け、関東中を舞台に好き勝手に暴れ回り、友人達とゲーセンを占拠して遊びながら卒業まで青春を謳歌した。

 

 東条英虎の方も、伝説の女王に勝利した実感などまるでなく、むしろ敗北感すら感じていた。

 清々しくも気持ちよく、リベンジなどまるで思いもつかない程に――完敗した。

 

「ったく、負けたぜ。アイツが――石矢魔最強だ」

 

 男鹿美咲が卒業するまで、東条英虎が石矢魔最強を自称することは、一度もなかった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 そして――今。

 

 彼女と同じ特攻服を着た、彼女とは違って長い黒髪の少女が、己に切っ先を向けている。

 

 瞳に籠っているのは、迸るような、強い敵意。

 

「……拳を握りなさい、東条英虎。私とあなたの、一対一の勝負よ」

 

 久しぶりに登校したら、後輩らしき女子生徒に木刀を突き付けられる東条。

 いや、喧嘩を売りつけられるのが日常とはいえ(むしろ嬉々として買うまである)、そのこと自体には何も思わないとは言え、東条は頭に?マークを浮かべながら、とりあえず再び「……ほう」と言っておくことにした。

 

(……あの女とはあれからもちょくちょく話はしたが、別に喧嘩したことはなかった筈だけどな)

 

 それは美咲の仲間――つまりは烈怒帝留のメンバーともしかりだ。

 あそこはリーダーの言うことは絶対。リーダーが敵対しない以上、彼女達に東条と喧嘩する理由はなかった。

 

 つまりは、東条は別に烈怒帝留(コイツら)に恨みを買うようなことはしていない筈だった。身に覚えがない恨みを買うのが習性みたいな東条でも、流石にこんな目で見られるようなことはない――と思ったが。

 

(まぁいいか)

 

 と、思えてしまうのも、また東条だった。

 

「――いいぜ。かかってこいよ」

 

 東条は首筋に手を当て――ゴキリ、と鳴らす。

 

 それだけで、東条を初めてまともに見た新入生、そして邦枝の後ろに控える烈怒帝留達も、息を呑む。

 

 最も間近でその覇気を受けた邦枝の表情にも強張りが生まれる――が。

 

「――っ! ハッ!」

 

 腹から息を吐き出しながら、気勢を張る。

 それにより、東条という男の空気に呑まれかけた己を一喝し、瞳に闘志を取り戻した。

 

「………ほう」

 

 今度の東条の言葉には、はっきりとした感心の色があった。

 

 それは、教室の窓から見下ろしている、夏目慎太郎も同様だった。

 

(……東条の覇気を初見で跳ね返す――噂通りのスーパールーキーだね、邦枝葵。一年に一人は、ああいう子がいるのか。……果たして来年はどんな怪物が入ってくることやら)

 

 邦枝に感心しつつも、やはり視線は東条に吸い寄せられる。

 まだまだ本気というわけではないが、それでも段々と東条の気分が乗っているのが分かる。

 

 例え規格外のスーパールーキーだとしても、邦枝葵が東条英虎に勝てるとは思えない。

 だから、夏目が注目しているのは、二人の果たしてどちらが強いのか、ということではなかった。

 

「………………」

 

 夏目は再びネットニュースを開き、何かを確かめた後――カメラモードを起動した。

 

 そして、邦枝葵が、大きく呼吸して、己の中に気を巡らせる。

 

(…………集中。全身全霊で全力を尽くさないと、この男とは勝負にならない)

 

 あの覇気で思い知った。この男は強い。

 入学してから屠り続けてきた、今まで出会ったこの学校のどんな男よりも――段違いに。

 

 覚悟はしていた。

 だが――どこかで見(くび)っていた。所詮――伝説は伝説だと。

 

 天下の石矢魔高校とはどんなものだと思いながら入学してから数か月、邦枝を苦戦させるような奴とは出会わなかったから。

 

 そんな奴等が言う最強などたかが知れていると。

 思い上がっていたのだと、邦枝は歯噛みする。

 

 あの伝説の女王を下したとされる男が、そんな偽物である筈がないのに。

 

 勿論、その伝説を鵜呑みにしているわけではない。

 東条に負けたとされる時期にも、烈怒帝留の初代総長である彼女は数々の伝説を残しているのだから。

 

 だが、あの男鹿美咲が、東条英虎に一目置いている――そんな噂話があったことも、邦枝は知っている。

 

 しかし、それを邦枝は認めるわけにはいかなかった。

 そんな噂話が、前者の伝説によって捻じ曲げられ――烈怒帝留失墜の大きな原因になったことは確かなのだから。

 

 男鹿美咲は偉大な女王だった。

 ケダモノ同然の不良男子高校生の巣窟である石矢魔高校において、烈怒帝留という女子生徒の居場所を作り、安心な高校生活を提供した。

 

 だが、それは彼女の威光が輝いてこその王国であり、そのことに彼女という女王(クイーン)は余りにも無頓着であった。

 大前提の話、自尊心が強く理性が弱い石矢魔高校のクズ共にとって、女の下につくという構図が屈辱以外の何物である筈もなかった。

 

 それでも誰も彼女達に手を出せなかったのは、偏に男鹿美咲が強すぎたというだけのことである。

 事実、彼女が東条に負けたという噂話が流れた時、彼女に挑みかかる、または彼女の手下に手を出そうとするという不届き者はそれなりに現れた。全て返り討ちにあったが。

 

 だからこそ、女王男鹿美咲の東条英虎による敗北の噂話は、それまで絶対だった烈怒帝留の地位に対する罅になったことは確かだった。

 どれだけ粋がろうと所詮は女、負ける時は負ける、俺らでも勝てるかもしれない――そんな思いを生んでしまったことは――確かだった。

 

 そして烈怒帝留は、男鹿美咲の卒業後、世代交代に決定的に失敗する。

 

 男鹿美咲が大学受験の為に烈怒帝留総長を引退し、中学卒業と同時に邦枝葵が烈怒帝留を引き継ぐまで、烈怒帝留は二代目総長――鳳城林檎によって率いられていた。

 

 留年を重ねることでメンバーの誰よりも年上だった彼女は、その野心と狡猾さによって、「じゃ、後は好きにやっていいから」という言葉だけを残して後継者を指名することすらしなった美咲の後釜の地位を力づくで手に入れた。

 

 それから、烈怒帝留は混乱の極みに陥った。

 暴君ながらもまっすぐな心によって治められていた美咲時代とは違い、鳳城は絶対的な独裁政治を強いた。

 

 喧嘩の戦法も、美咲のような真っ向勝負ではなく、搦手を重ねる卑怯な戦法。時には女の武器や、人質や囮を使うことも厭わなかった。

 

 結果、彼女についていけない者や反発するものが続出し、烈怒帝留はバラバラになった。

 自分の身を守る国を失い、学校に通えず家に引き籠るような女子生徒も生まれ始めた。

 

 そして――伝説は、地に堕ちた。

 

 邦枝が高校入学を前に春休みの時点で烈怒帝留の総長となったのは、そんな事情も多分に含まれている。

 彼女は入学前に鳳城率いる現政権メンバーを潰し、鳳城を退学へと追いやった。

 

 そして、入学後――右腕となる大塚寧々を初めとする新入生を纏め上げ。

 

 売られた喧嘩は片っ端から買い、男子生徒を次々と撃破していった。

 己の力を見せつけ――背中の烈怒帝留の文字を見せつける為に。

 

 伝説の復活を、烈怒帝留の復権を――石矢魔高校に見せつける為に。

 

 その途中で、この石矢魔高校という魔窟の凄惨さを知った。

 

 力こそ全て――なるほど聞こえはいい。

 腕に覚えがある者、確かな力を持っている者からすれば、さぞかし楽しい学校だろう。

 

 だが、力がない者にとっては、ただ搾取されるだけの地獄でしかない。

 

 正しく無法地帯だった。

 誰もが好き勝手に振る舞い、欲望のままに悪行の限りを尽くす。

 

 そんな中で、東条英虎という名前を知った。

 かつて、烈怒帝留の伝説の初代を最強の座から引きずり下ろした男。

 そして今もなお石矢魔のトップに君臨し――この無法地帯を、支配する男。

 

 教師はおろか、女子供にも容赦をしないという、悪魔のような男の存在を。

 

 烈怒帝留を復活させるには、この学校の男達が手を出せないと思い知るまでの絶対的な強さを示す必要がある。

 

 その為に――。

 

「さて――喧嘩、しようか」

「――――ッっ!!」

 

 東条のその言葉を皮切りに――邦枝が飛び出した。

 

(――私はっ! あなたに勝たなくちゃいけないのよッ!! 東条英虎ッッ!!)

 

 初代を下したというこの男を。石矢魔という地獄の頂点に君臨するこの男を。

 

 伝説を超えなくては、邦枝葵は新たな女王(でんせつ)になることが出来ない。

 

 もう二度と、怯える女子生徒を生まない為にも。彼女達に安心して学校生活を送ってもらう為にも。

 邦枝葵という看板を――盾にしなくてはならない。この学校のクズ共が手を出そうと思えないような、絶対の盾に。

 

 それを――この戦いで、証明する。

 

「――ッッ!!」

 

 高速で東条の間合いに入り込んだ邦枝が、容赦なく顔面に向かって突きを繰り出す。

 それは命中すればコンクリートすらも穿つ一撃――だが、それを、東条は笑みのままに紙一重で躱して見せた。

 

「――ッ! くっ――」

 

 だが、邦枝は動きを一瞬たりとも止めない。そのまま一歩分距離を取り――木刀を逆手でもって垂直に構える。

 

「っ! でる! 葵姐さん……っ!」

 

 後ろで寧々が察する。邦枝が決めにかかる――と。

 

 元々、短期決戦しか邦枝に勝機はない。

 東条の拳に、自分は一撃たりとも耐えられないことを彼女は自覚していた。

 

 勝負を長引かせても意味はない。故に――邦枝は躊躇なく奥義を繰り出す。

 

「――――っ!」

 

 東条の視界から、邦枝が消える。

 

 そして、次の瞬間には――眼前に木刀が迫っていた。

 

 揺れ動くような緩急をつけた動きによって、相手の認識を狂わせる歩行術。

 幻惑と共に居合抜きのように抜刀し、全てを薙ぎ払う神速の斬撃。

 

 心月流抜刀術弐式――『百花乱れ桜』。

 

 現在の彼女の持つ最高の技。それは校庭に乱れる軌跡を刻み込み――叩き折られた。

 

(――――え?)

 

 軽い――余りにも軽い。

 今まで何千何万と振りぬいてきた木刀が、余りにも軽い。

 

 手応えがない――そして、刀身が、ない。

 

 今まで数多の敵を打倒してきた邦枝の木刀が、一発の拳によって吹き飛ばされていた。

 

(嘘――でしょ)

 

 木刀が折られたのに少し遅れて、ピシッ、と、罅が入るのを感じた。

 

 これまで東条に沈められた連中と同様に、邦枝葵にも圧し掛かっていた。

 

 東条という男の、余りにも別格である――強さという重さが。最強という重圧が。

 

 彼女の心を、彼女の強さを、()し折ろうとしていた。

 

 何かが終わってしまったかのように、キュィィインという機械音が小さくなっていくのが聞こえる。

 

(……って、何? ()()()? エンジンみたいな……どこから?)

 

 余りにも異質な音に邦枝はバッと振り返る。

 

 その音は、拳を振り抜いた体勢で固まっていた――()()()()から聞こえていた。

 

「………………」

「……………あ、やべ」

 

 邦枝は固まり、絶句し、心の中で絶叫する。

 

(……え? え? えぇぇぇぇええええええ!? 何? やべって何? 聞こえちゃいけない音だったの? 東条英虎ってサイボーグとか何かだったのぉぉぉおお!?)

 

 いっそそうならば、むしろそういうことでもなければ納得出来ない強さだったが――と、冷や汗をだらだら搔きながらも、刀身がなくなった木刀を東条に向ける。

 

 対して東条は、ギュギュと拳を握りしめて――溜息を吐いた。

 

「……あぁ、悪りぃな。脱ぐのを忘れてた」

「ぬ、脱ぐ!? え、それどういうこと? 脱いだり出来るものなの? ていうか何を脱ぐの!?」

「そういうわけで、喧嘩はまた今度な。今度は脱いだ状態でやろーぜ」

「よく分からないけどその言い方はセクハラに聞こえない!? いや、そういう意味で言ったんじゃないって分かってるけど! っていうかもう何が何なの!」

 

 混乱する邦枝を他所に、東条は校舎ではなく再び校門に向かって歩いていく。

 

 邦枝はその東条の背中に向かって、表情を引き締めて強く言い放つ。

 

「ッ! 待ちなさい! 東条英虎!」

 

 焦りのままに東条を呼び止めた邦枝は、一度口を開きかけながらも、ゆっくりと言葉を探るように言う。

 

「――あなたは、一体……」

「お前、名前は?」

 

 だが、邦枝の言葉を遮り、立ち止まり、振り返った東条が逆に邦枝に問い掛ける。

 

「え、私は――」

 

 戸惑う彼女は、やがて表情を引き締め、まっすぐに東条を見据えながら言う。

 

「――邦枝葵。石矢魔高校一年。烈怒帝留三代目総長よ」

 

 白い特攻服と黒い長髪をたなびかせ、後ろに守るべき部下達を並べながら、少女は最強に言う。

 

 己が名を。背負うべき称号を。闘志迸る瞳で、堂々と。

 

 東条は、そんな彼女に向かって――獰猛に笑いながら。

 

「強かったぜ、邦枝。また、喧嘩しような」

 

 そう言って――大きな背中を向けて。

 

 ひらひらと手を振りながら、東条英虎は去っていった。

 

 しばらく沈黙に包まれていた石矢魔高校だったが――やがて、ワッと湧き起こる。

 

「新女王が、東条を追い返したぁぁああ!!!」「すげぇぇぇ!!」「え? なにこれ、女王(クイーン)の勝ちなの?」「いや東条の勝ちだろ、木刀折ったんだぞ」「でも邦枝も強くね? 校庭の土が抉れてるぜ」「そもそも東条自身が強えって言ってんだぞ、本物だろ」「ああ、アイツは喧嘩に関しては嘘を吐かねぇからな」――止まらない騒めきに呆ける邦枝の元に、寧々達がやってくる。

 

「やりましたね、葵姐さん! あの東条を相手に! 流石です!」

 

 次々に邦枝を褒め囃す寧々達だが、邦枝の表情は晴れなかった。

 

「……でも、私の完敗よ。今日はたまたま、東条――先輩が、見逃してくれただけ」

「………それでも、葵姐さんの戦いぶりは、きちんと――私達を守ってくれましたよ」

 

 そう言って、寧々達は校舎の方を仰ぎ見る。

 

 東条と邦枝の対決を見下ろしていた彼等の目には、最早、邦枝は只の一年生女子とは映っていなかった。

 

 あの伝説の最強に認められ、あまつさえ追い返した――それだけの偉業で、彼女はこの学校で確かな評価を手に入れた。

 

「やりましょう、葵姐さん。この学校の女子全員を、葵姐さんが纏め上げるんです。そうすれば、今も学校に来れない女子達も、必ず恐れずに登校出来るようになります」

「葵姐さんならなれます、新しい女王に。葵姐さんなら出来ますよ、伝説の烈怒帝留の復権も」

 

 私たちは、どこまでもあなたについていきます――そう言って、彼女達は笑いかける。

 

 誰よりも優しく、誰よりも美しく、誰よりも強い、自分達の新しい女王に。

 

 邦枝はそんな彼女達に――可愛らしい、笑顔で答えた。

 

「よろしくっ!」

 

 そして彼女は、東条が去っていった方向を見つめる。

 

(……いろいろと変な人だったけれど……悪い人じゃなかった。あの人はきっと、強い人と戦いたいだけってタイプなんだろうな。……それはそれで迷惑な話だけど)

 

 けれど、少なくとも、これから校内の勢力争いに挑まなくてはいけない烈怒帝留にとっては朗報ではあるのだろう。彼は少なくとも支配とか権力とかには興味を見せないタイプだ。

 

(三年生には目ぼしい勢力はないって話だから……そうなると二年生で最大勢力の神崎一派――次に挑まなくちゃならないのはコイツ等ね)

 

 別に烈怒帝留も石矢魔統一なんてものを狙っているわけではない。だが、校内の安全を確保するためには、少なくともどんな勢力にも狙われないようにする必要がある――そのために、この学校で一番手っ取り早いのは、自分達の強さを思い知らせることだ。

 

(……強さ。あの人は、あれほどまでに強い。……そして、その上で、更に強い人との喧嘩を求めているのだとしたら……最強になったあの人は、今、何を求めているのかしら?)

 

 邦枝は、悠々と去っていく、大きすぎる最強の背中を思い返しながらも、寧々に呼ばれて校舎に戻る。

 

 また喧嘩をしようと言われたけれど、正直、もう二度と戦いたくない。それに、自分では彼を満足させることが出来るとは思えない。

 

 彼に対抗できるのは――それこそ、悪魔や宇宙人くらいだろう、と、邦枝はそんなことを思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東条vs邦枝の一騎打ちが終わり、それぞれに勝手な感想を言い合いながら首を引っ込めていく石矢魔生徒の中で――ただ一人。

 

 夏目慎太郎は、校舎に向かっていく邦枝ではなく、校門に向かって歩いていく東条を見ていた。

 

 パシャ――と携帯のカメラで撮影した画像を、先程のバトルシーンに連写したものも含めて見る。

 

 工事現場の作業服――その中に東条が着ていた何か。あの入学式の日には来てなかった――漆黒のインナー。

 邦枝との戦いの最中、まるで東条自身の闘志を具現化したかのように光り輝いた、見たこともない近未来的なSFスーツ。

 

「……間違いなく、同じヤツだよねぇ」

 

 東条の画像を最小化し、代わりにタップして拡大するのは――昨夜の池袋大虐殺のニュース。

 

 正確には、その地獄の一夜を終結させた――特徴的な漆黒の全身スーツを身に纏う、英雄『黒の剣士』のニュースだった。

 

「……さて、どうなることやら」

 

 例え、どれだけ世界が混乱の渦に叩き落されようとも、石矢魔高校(ここ)だけは何も変わらないと思っていた――が、案外、そうでもないらしい。

 

(……まぁ、取り敢えずは、()()()が何なのかを突き止める方が先かな)

 

 夏目はポケットから、手の平サイズの無機質な黒い球体を取り出し、眺める。

 

 久しぶりに、面白くなりそうだ――夏目慎太郎は、手に持つ黒い球体のように、真っ暗に笑った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 東条英虎は、石矢魔高校の校門を一歩出た後、ふと振り返り、一年以上(期間としては)通った校舎を見上げる。

 

 

――あ、トラ。明日はちゃんと学校に行けよ。来ても帰らせるからな

 

 

(すいません、篤さん。まあ、一応学校には来たんで)

 

 そう心の中で呟いて、東条は今度こそ校舎に背中を向ける。

 

(さて、この後は何処に行こうかね)

 

 工事現場のバイトは、昨日の篤の言葉を聞いていた彼等が、真っ昼間から東条が行っても追い返してしまうだろう。今のところ他にバイトも入れていないし、陣野(かおる)は真面目に勉強中だろう。

 

(庄次でも誘って、何かすっかねぇ)

 

 とはいえ、携帯電話を持っていない東条は、適当に街をぶらついて相沢に見つけてもらうしかコンタクトを取る手段はないのだが。

 だとすると、取り敢えず一度家に帰って、このなんかすごいスーツを脱いだ方がいいかもしれない。

 

 篤と斧神を探す――という選択肢は、東条の中には存在しなかった。

 

(……そうだな。山にでも行くか。そんで熊とかをぶっ倒せば――もっと強くなれんだろ)

 

 リアル山籠もりを本気で検討しつつ――東条英虎は獰猛に笑う。

 

 昨夜の敗北は、東条に更なる飢えを与えた。

 この燃え滾るような渇望がある限り――東条英虎は、どこまでも強くなる。

 

 そういう意味では、あの邦枝葵もいい線はいっていたが――。

 

 

――いずれ、アンタも出会えるよ。本当にアンタが求める相手に。頂上(ここ)にいれば、いつかきっと、向こうからアンタの前に現れるよ

 

 

「……アイツじゃ、ねぇよな」

 

 東条はそう、真っ青な空を眺めながら呟く。

 

 どうしようもなく渇いていて、どうしようもなく飢えていた東条の日常は、ほんの少し前に劇的に変わった。

 

 あの黒い球体のある部屋に迷い込み、この真っ黒なスーツを身に着けて戦うようになって、確かにある意味――満たされた。

 

 思う存分殴り合える強敵と喧嘩したり――圧倒的な強さに、完膚なきまでに敗北もした。

 

 この上、まだ出会えるのだろうか。あの日、あの女が言っていた、自分が本当に求める相手に。

 

 自分と同じ、己の本気を思う存分にぶつけ、そして同じように全力をぶつけ返してくれる存在を求める――喧嘩好きに。

 

 

――そいつが来たら、思いっきり喧嘩してあげてよ。きっと楽しいと思うからさ。

 

 

「……はは。早く来い」

 

 俺は、どんどんどんどん強くなって――テメェを待ってるんだからよ。

 

 

――こんな奴等に、俺が負けるとでも思ってんのか?

 

 

 東条は、自分が生まれ変わったあの日、ほんの僅かに邂逅した少年の背中を思う。

 

(……早く、来い)

 

 徹底的に敗北し、生死の境を彷徨った翌日に、東条がこの上ない充実感を感じている最中――。

 

「――ああ、ちょっといいかな。俺、こういうものなんだけど」

 

 真っ昼間から高校のすぐそばで、工事現場の作業服の下に不気味な漆黒の全身スーツを身に纏い、凶悪な顔でニヤニヤしている男が、警察手帳を取り出した男に呼び止められた。

 

 なんていうか、明らかに職務質問だった。

 

「ん? なんだ、おっさん」

 

 だが、そこは東条英虎。

 一切悪びれることも動揺することもなく、むしろ警察手帳を見せつける相手を堂々のおっさん呼ばわりである。

 

 補導待ったなしの状況ではあるが、この時は少し状況が特殊だった。

 相手の顔や名前をあまり覚えない男ではあるが、流石に昨日の今日である。

 

 名前は思い出せなくても、その顔は何とか覚えていた。

 

「あんた……昨日のお巡りか?」

 

 その言葉に、警察手帳を取り出していた草臥れたスーツに無精ひげの低体温そうな男は、淡々と言う。

 

「……そう。覚えていてくれて助かったよ、東条英虎くん。俺の名前は、笹塚だ」

 

 ついてきてもらえると助かる――そう言って笹塚は、すぐ傍に停めてあった車を指さした。

 

(……しかし、まさか普段から身に着ているとは。そういうものなのか?)

 

 たぶんそうではないと思いつつも、笹塚は東条の黒いスーツを見ながら、とりあえず彼と接触することに成功したことを、まずは安堵した。

 

 そして、警察手帳を開き、次なる目的地を確認する。

 

「…………」

 

 そこには、対象の写真と住所――そして、湯河由香という名前が記されていた。

 




石矢魔最強は、新たなる女王(でんせつ)の到来に笑みを浮かべ、未だ来ぬ待ち人への渇望に牙を磨く。

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