比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ。


Side葉山――①

 

 

 

 

『ひゃっほぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!』

『うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!!』

 

 

 葉山隼人(おれ)は、比企谷八幡(あいつ)に――なれたのだろうか。

 

 

 

 

 

 戦い、戦い、戦い抜いた――その果てに。

 

 葉山隼人の戦いは、今――終わろうとしていた。

 

『はっはー。呆気なかったね。綺麗な顔が台無しじゃないか。哀れで惨めで滑稽だね』

 

 真夜中の、とある寺院。

 

 葉山隼人にとっては三度目の戦争――大切なものをたくさん失い、傷つき、壊れ、疲れ果てた戦争が、今、終わる。

 

 この生命の、終わりによって――葉山隼人の、死によって。

 

『…………』

 

 両腕を失い、血を垂れ流し、意識は薄れ、痛みすらもしばらく前から感じない。

 顔面は面影を消し失せる程に腫れ上がり、片手で掴まれている首は容赦なく呼吸を封じられている。

 

 間違いなく――葉山隼人は死亡する。

 

 目の前の醜悪極まる怪物によって、理不尽に殺され――敗北する。

 

 それでも、その心は穏やかだった。

 自分が守れなかった少女の元へ逝ける。もうこんな戦争から解放される――それに。

 

 末期にして、ようやく、妬み、憎み、嫌い――そして、憧れた、あの男のように、少し、なれた気がした。

 たったそれだけのことで、目の前に迫った逃れられない死が、こんなにも愛おしく感じられた。

 

『ふふふ。さあて。実を言うと、僕は君みたいなイケメン好青年が大嫌いなんだ。生まれ持った容姿だけで勝ち組気取りで気に食わない。だから出来るだけ無様に殺して――』

 

 その時、怪物に食われ、その体に乗り移った男――間藤の声が途切れた。

 怪物の体に悍ましくも似つかわしかった醜悪な笑みを消し去り、仏像のような無表情になって、まるで()()()()()()()()()()()()を発した。

 

 

――理解不能。正しく、理解不能だ。

 

 

 葉山の体は既に、そんな異常に対して反応することすら出来ない。

 目を見開くことも、唾を飲み込むことも、恐怖を覚えることすらも出来ない。

 

 だから、まるで空洞のように真っ暗な瞳で、同じく感情を感じさせない黒い目を覗くことしかできなかった。

 

 

――既にこの星には無数の星人が棲み着いている。人間など遥か及ばない程の範囲で。人間など立ち入ることの出来ない領域にすらも。終焉も近い。それなのに、何故、貴様ら黒衣は戦い続ける? 貴様ら人間は足掻き続ける?

 

 

 葉山の目には、最早、何も映っていない。

 葉山の耳には、この無機質な言葉の半分も届いていない。

 

 確実に死へと向かう中、何処か遠い所から、こちらの都合など知らぬとばかりに、傲岸不遜に詰問されている――ように、漠然と感じた。

 

 

――このような小さな寺の、たがだか数体を殺した所で何になる? こうして我が端末如きに全滅させられるようなお前らに、何が出来る? そこまでして何を得た? こんな所で呆気なく意味もなく無駄死にするお前は、一体何がしたいのだ?

 

 

 理解出来ぬ。理解出来ぬ。理解出来ぬ。

 

 間藤は――いや、間藤ではない誰かは。間藤ではない何かは。

 

 死にかけの葉山に。今にも死にそうな戦士に。

 

 無感情で、無機質で、無表情な、血の通わぬ仏像のような声色で。

 

 執拗に、容赦なく、ただそれだけを問い続ける。

 

 

――我等と因縁深き黒き衣を纏う男児よ。若くして無駄死にする哀れなる戦士よ。

 

 

――あの美しき女戦士よりも、あの昏き眼の狂戦士でもない。

 

 

――彼女よりも遥かに弱く、彼よりも遥かに脆い。こんな戦場に誰よりも相応しくない、貴様にこそ問いたい。

 

 

 感情を感じさせない仏像のような声は、遥か深淵の底から問い掛けるように。

 

 誰よりも戦場を嫌い、誰よりも戦場に嫌われ。

 

 戦争を恐れ、戦争に壊され、戦争に奪われた戦士に――葉山隼人に、問い掛けた。

 

 

――汝、何を望む。

 

 

――お前は、何の為に死んでいくのだ。

 

 

 その言葉は、その言葉だけは、死にゆく葉山の耳に、しっかりと届いた。

 

 何を望む――何を望んでいた?

 

 死にゆく自分は、死んでしまう自分は、一体何の為に死んでいく?

 

(………………俺は――)

 

 争いが嫌いだ。それがどんなものだとしても、平和が乱されるのは絶対に嫌だった。

 

 例えそれが欺瞞だとしても。仮面を被り合った仮初だとしても。

 一時的でも先延ばしでもぬるま湯でも、水面下で憎み合っても机の下で蹴り合っているのだとしても、今日が平和ならばそれでいいと思っていた。

 

 そういう風に、諦めながらも、どこかで諦めきれないでいた。

 

 戦争は嫌いだった。戦場が恐ろしくてたまらなかった。

 

 たくさんの人が死んだ。たくさんのものを失った。

 いいことなんて一つもなかった。得たことなんて一個もなかった。

 

 戦争は何も生まない。争いは大切なものを奪っていく。

 そんな当たり前のことを――ずっと痛感させられ続けていた。

 

 こんなことが、いつまで続くんだろう。

 

 こんなことが、どうしていつまでも終わらないのだろう。

 

 何を望む――何を望んだ?

 

 葉山隼人は、一体、何の為に死んでいくのか――。

 

『………………俺は――』

 

 声になったかは分からなかった。誰に答えたのかも分かっていなかった。

 

 真っ暗な深淵に向かって、こちらを覗き込んでいるかのような深淵に向かって――あるいは、自分自身に向かって。

 

 葉山隼人は答えた。

 死にゆく末に理解した、どうしても叶えたいたった一つの願いを。

 

 そして――深淵は答える。

 

 

――理解、不能だ。その答えは矛盾している。お前の望みは、願いは、破綻している。

 

 

 葉山は笑う。死にゆく中で、小さく笑う。

 

 理解していた。己の願いが誰にも理解されないことを。

 矛盾し、破綻し、崩壊していることも。

 

 それでも――葉山隼人は、もう揺るがない。

 

 こんな自分のまま、死んでいけることを歓喜しながら逝ける。

 

 

――やはり、終焉の前に、貴様らとは決着をつけねばならないようだ。黒衣は、人間は、いつだって我々の宿敵であるということを、改めて思い知らされた。

 

 

 怪物の体を使って葉山と今わの際の会話をしていた何かは、最期に葉山に――黒衣に、そして人間に、こう告げる。

 

 

――この端末(からだ)はくれてやる。精々同士で殺し合え。

 

 

――その悍ましい願いを抱いて死ぬがいい。そしてそのまま、二度と生き返ってこないことを祈っている。

 

 

 

――それでは、サラバだ。

 

 

 

 深淵から聞こえてくるかのような、無感情な仏像のような声は、最期の言葉だけは、どこか嘲るように、どこか哀れんでいるかのように――葉山には聞こえた。

 

『――やるよ。安心しろよ、すぐには殺さないさ。お仲間が戻ってくるまではギリギリの寸止めだ。お前の頭が柘榴(ザクロ)みたいに吹き飛ぶところを見たら、あの腐った目がどんな風になるか楽しみだとは思わないか?』

 

 そして再び、間藤の表情が醜悪に歪む。

 

 先程までの問答をまるで覚えていないかのように――だからこそ、その変化は顕著で。

 死に瀕した葉山の既に殆ど何も見えない視界の中ですらはっきりと判別出来てしまう程に分かりやすく――悍ましくて。

 

 人間味溢れるその表情が、葉山には――先程までの無表情よりも、よっぽど化物に見えた。

 

 

『葉山ぁ!!』

 

 その時、どこからかそんな声が聞こえる。

 葉山隼人が聞き間違うことのない、妬み続け、嫌い続け、憧れ続けた男の声が。

 

 瞬間、目の前の化物の表情が、更に醜くぐちゃぐちゃに歪む。

 そして丸太の如く太い腕を見せつけるように振りかぶる――葉山は一切の恐怖も感じなかった。

 

『――ッ! やめ』

 

 あの男の聞いたこともないような焦った声が聞こえる。少なくとも、自分に対してこんな声を発したことはなかった筈だ。

 葉山は化物(間藤)の醜い笑顔よりはマシだと思い、彼の方を向く。

 

 比企谷八幡――葉山隼人の人生において、あるいは最も影響を齎した男。

 最期まで妬み、最期まで嫌い、最期まで憧れ続けた男。

 

 葉山には、こんな哀れな醜い化物に、この男が負けることなど想像もつかなかった。

 

 だからこそ、きっとこの男は、また新たな戦争に身を投じることになる。

 

(…………)

 

 死にゆく自分に向かって手を伸ばす比企谷八幡を見て、葉山隼人は何を思ったのだろう。

 

 これからも戦い続けなければならないであろう八幡に対する哀れみだろうか。

 それとも、先に解放されることになる申し訳なさだろうか。それとも、自分よりも長く生き残ることに対する妬みだろうか。

 

 そのどれでもなく、またその全てでもあるのだろう。

 

 でも、きっと――この死の瞬間、葉山隼人は笑っていた。

 

 自分が願った、悍ましく、矛盾していて破綻していて崩壊している願い――どうしても叶えたかった、たった一つの、愚かな願い。

 自分は死にゆくこの時まで気付くことすら出来なくて、何も出来ずにただ縋るように抱いたまま死んでいくことしか出来なかったけれど――もしかしたら。

 

 葉山隼人に出来ないことを、ずっと成し遂げ続けてきた、比企谷八幡ならば。

 

(……最期の最期まで……君に押し付けてばかりだな、俺は)

 

 でも――だからこそ。

 

 葉山隼人には出来なかったことを、比企谷八幡には成し遂げてほしい。

 

 もう誰も、こんな風に死ななくていい世界を――

 

 

 

 

 

――グチャッと水風船が割れるような音が響いた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

「――――ッッッ!!!! うわぁぁああああああああああ!!!!」

 

 自分が殺される悪夢で目が覚めた。

 

「はぁ! はぁ! はぁ! ………ゆ、夢? 夢………?」

 

 自分の顔に手を当てる――ある。きちんと頭部は存在している。

 両手を握る――ある。右手も、左手も、きちんと肩からついている。

 

 ギュ、ギュと、黒いスーツに包まれた自分自身の体――そこで、気付いた。

 

「……夢じゃ………ない」

 

 夢だけれど、夢じゃなかった。

 

 あれは実際に体験した出来事で――死だった。

 

 葉山隼人はあそこで殺され、死んだ。そして――生き返ったのだ。

 

「……俺の、部屋」

 

 体感的には一日ぶり――実際には、半年以上ぶりとなる自室。

 物の配置はまるで変わっていないが、うっすらと埃が積もっている。

 

「帰ってきた……生き返ってきたんだ」

 

 死んで――生き返る。

 当然ながら初めての体験で、何をどうすればいいのか分からず混乱するけれど――まずは。

 

「……このスーツを着替えて………とにかく、会わないと」

 

 真っ先にやるべきことは――きっと、家族にただいまを言うことだ。

 

 半年ぶりの――ただいまを。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 無粋なことを言わせてもらえれば、ここで葉山が第一声に選ぶ言葉として、ただいまは決して相応しくはない。

 

 葉山隼人は一度死亡した。

 正確には二度なのだが、兎にも角にも彼は死んだ――ガンツミッションに失敗し、死亡し、敗退した。

 

 ミッションの落伍者に対してガンツはアフターケアという名の記憶操作を行う。

 それは全世界の人間――ガンツに関わらない一般人に対して、対象の落伍者に対する記憶に防壁(プロテクト)を張るというもの。

 

 つまりは、その対象の人物を思い出せなくなる。

 記憶は消去されているわけではなく、記録も改竄されてはいない。

 

 ただ、その人物に対して考えなくなり、考えないことが自然なこととなる――それが例え、親友でも、恋人でも、家族でも。

 

 その人物がいない場合において、最も自然な形へと思考が誘導される。

 例え、それが昨日までの日常からは有り得ない状態であったとしても、何の違和感も覚えず、それが新しい日常へと変わり、当たり前に笑顔で受け入れられるのだ。

 

 だからこそ――この息子との半年ぶりの再会も、彼にとっては久方振りの邂逅とは、ならない。

 

「…………隼人」

「…………父さん」

 

 彼――葉山鷹仁(たかひと)にとっても、葉山隼人は今まで何故か意識の外にいた息子に過ぎず、どうして忘れていたのかまでは疑問に思っても、どうして今までいなかったのかまでは疑問に思うことは出来ない。また、そのどうして忘れていたのかという疑問も深く追求することは出来ず、そういうこともあるかとすぐにその状況を受け入れてしまう。

 

 ここまでがガンツの記憶操作(アフターケア)

 故に、ここで仮に隼人がただいまと言っても、それは只の帰宅の挨拶であり、もしかしたらコイツは朝までどこかで遊んできたのではないかと思い込み怒り始めるかもしれない。

 

 だが、隼人はここでただいまという言葉を口に出来なかった。

 彼がそんな半年ぶりの万感の思いを以って伝えようとした生還の言葉は、父親の拳によって吹き飛ばされたからだ。

 

 端的に言えば――葉山鷹仁は、今まさに存在を思い出した我が息子を、全力で殴り飛ばしたのだ。

 

 ただいまという言葉を言わせるまでもなく、鷹仁は隼人に激怒していた――今の今まで、忘れていた息子に。

 

 息子を忘れていた自分を省みるよりも前に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――ッッッッ!!!!」

 

 まさか生還早々に実の父親に殴られることなど想像もしていなかった隼人は、何の心の準備もすることが出来ずに拳をまともに受け、そのままテーブルに激突する。

 

 そして口元を拭いながら立ち上がると、口端から血が流れていることに気付く。

 この威力から、父が本当の本気で殴ったのだと知り、衝撃を受ける。

 

「………………なんで」

 

 優しい父ではなかった。

 厳しく、冷たい、子供ながらに怖い父親ではあった。

 

 だが、理不尽でも、不条理でもなかった筈だ。少なくとも、何の理由もなく唐突に暴力に訴えるような、父親では決して――。

 

「隼人……貴様、一体何をしている?」

「父……さん?」

「こんな時に、こんな所で、一体何をしているのかと聞いているんだ……ッ」

 

 未だ座り込み呆然と己を見上げる息子に対して、そんな姿すらも腹立たしいと言わんばかりに、睨み付けながら低い声で隼人を問い詰める鷹仁。

 

「……最早、俺はお前が雪ノ下の娘達と懇意になることなど期待すらもしていない。だが、少なくとも抱かれている悪印象を少しでも失くす努力はするべきではないのか。お前がいくら失望されようと勝手だが、我々は雪ノ下と――彼等と仕事の付き合いをしていかなくてはならんのだ。お前らが成人した後も、ずっと、ずっとな」

 

 そう吐き捨てるようにして鷹仁は、戸惑いの表情を一向に変えようとしない隼人を、見限るように背を向けた。

 ハンガーに掛けていた弁護士バッジが付いているスーツを着ると、尻餅をついたままの息子を放置し、そのまま玄関へと向かおうとする。

 

「っ! 父さん――」

「私はともかく事務所へ向かう。先程から一向に彼等とは連絡が取れないが、このまま音信不通であるなら自宅までお邪魔させてもらうつもりだ。こんな時こそ、力にならなければ。肝心な時に手を貸さない者をこれからも重用してくれる程、あの人達は優しくも甘くもないからな」

「一体何の話を……そうだ。母さんは? 母さんは何処にいるんだ、父さん?」

 

 時刻を見ると、まだ早朝といった時間帯だ。

 仕事柄、母の勤務時間は毎日バラバラだが、日勤ならばまだ家にいる筈の時間だ。

 

 それに対し、鷹仁の答えは――。

 

「アイツはもう池袋にいる。非番だったようだからな。応援に行かせた。アイツが勤める病院の系列もあるし、医者はいくらいても足りないくらいだろう。こういう時こそ、迅速な行動が必要だ」

 

 当たり前のことを聞くな――そう突き放すような語調だったが、隼人は。

 

「……池、袋? 東京の? どうして? 池袋で何かあったのか?」

 

 生き返ったばかりの葉山隼人には、何が何だか分からない。

 

 久しぶりに会った父親からは殴られ、母親は家にすら居ない。

 まるで何も分からない――浦島太郎のようだった。

 

 ここは本当に俺の自宅なのか? この人は本当に俺の父親なのか? ここは――本当に、現実の、日常なのか?

 

 最早、そんな当たり前の事実にすら確信を持てない。

 何もかもが不安定で、不確定で――生き返った歓喜が、段々と恐怖に変わっていった。

 

 そんな葉山隼人に、確かなものが欲しくて、縋るように見つめてくる息子に――葉山鷹仁は。

 

「…………」

 

 心の底から失望したような瞳を向けて、メタルフレームの眼鏡の奥から、侮蔑するように言い放つ。

 

「……お前は、今の今まで、何処で何をしていたんだ――愚息が」

 

 バタン、と。勢いよくリビングの扉が閉まる。

 

 そのまま廊下を駆けるように歩く音と、玄関の扉が強く閉められる音を聞き――隼人は、誰もいなくなったリビングで、ポツリと呟く。

 

「……俺は、今の今まで……死んでいたんだよ……父さん」

 

 そう言って、葉山隼人は、生まれてからずっと暮らしている我が家の、けれど、見上げるのは随分と久しぶりのように思える天井を見つめながら――冷静になった。

 

(……ガンツの――黒い球体の、記憶操作。……アイツが言っていた……ミッションに失敗した、敗北者への……仕打ち、か)

 

 真夜中の戦場――ガンツミッションという名の戦争で散った戦士達の死は、何事のなかったかのように隠蔽される。

 

 誰も悲しまない――誰も涙を流さない。

 死を嘆かれず、消失に気付かれず――世界を何も動かさない。

 

 何事もなかったかのように日常は続く――まるで、お前など初めからいなくても同じだと、そう死者に突き付けるように。

 

(……それはつまり、生還も、復活も――世界に何の影響を及ぼさないってことだ。いなくても同じなら、いても同じ。……全く、一体、何を期待していたんだ、俺は)

 

 生き返ったらそこには、自分が望む素晴らしい世界が待っているとでも思っていたのだろうか。

 あれほど苦しみ、あれほど壊れて――いっそ、死の瞬間に安堵まで覚えた場所に、自分はただ、再び戻ってきただけだというのに。

 

 ここは――現実だ。

 

 厳しくて、辛くて、悲しくて、苦しい――現実だ。

 

 痛みがあれば――癒しがあって。苦しみがあったら――楽しみもあって。

 悲しくなれば――嬉しくもなって。絶望があれば――希望もある。

 

 そんな素晴らしい世界に――葉山隼人は、帰ってきた。

 

(……そうだ。生き返ったら終わりじゃない。むしろ、また始まったんだ。……今度こそ、俺は――)

 

 葉山は一度瞑目し、たっぷり数分かけて――この現実を受け入れた。

 

 自分が再び生きていかなくてはいけない現実を――自分が、再び、戦い続けなくてはならない、現実を。

 

 その出迎えは強烈だったが、あれも自分を目覚めさせてくれる一撃だったと思えば、父親の拳というのは中々相応しいように思えた。どこかの主人公のように、別に親父に殴られるのは初めてというわけでもない。

 

 だが、何の理由もなしに拳を振るうような父親ではないことは確かだ。

 あの人は息子に厳しいのは勿論だが、妻にも部下にも上司にも――そして何より、自分に一番厳しい人だ。

 

 そんな父親があんな剣幕で怒るのだから、自分は余程的外れな言動をしていたのだろう。そう思える程には、葉山隼人は葉山鷹仁という父親を尊敬していた。

 

(……雪ノ下……池袋……医者……緊急事態――愚息。一体、何が起きてるんだ?)

 

 葉山はゆっくりと立ち上がり、テレビを点ける。

 

 まずは知らなくてはいけない。

 自分が死んでいる間、世界はどう変わったのか。

 

 葉山隼人という人間の死とは、一切関係のない要素で変化したであろう、今現在の現実世界に、まずはしっかりと向き合わなければならない。

 

 これから生きていく、これから戦っていく、己が死んでから半年経過した――この、素晴らしき――。

 

 ガシャン――と。

 

 葉山はリモコンを落とし、絶句した。

 

「……なんだ、これは……」

 

 そこには、葉山の知らない世界が映し出されていた。

 

 いや、葉山は知っていた。葉山隼人は思い知っていた。

 

 自分が嫌い、自分が恐れ、自分が憎み――逃げ出した、真っ暗な世界。

 絶望と恐怖と激痛と、絶叫と落涙と死体で、真っ暗な――地獄。

 

 それが――あろうことか、テレビの画面の向こう側に、明るくなっても存在している。

 

 紛れもない――戦場跡で、戦争後だった。

 

 葉山隼人が死んだ地獄だった――それが、日の下で、日常世界に侵食している。

 自分が知っている世界が、自分の知らない世界として、確かに現実に存在している。

 

「………ここは、地獄なのか」

 

 まるで浦島太郎のようだと思った。

 

 自分が少し死んでいる間に、世界は地獄に変わっていた。

 

 地獄が――世界を、日常を、明るい世界をも侵食していた。

 

 戻ってきた日常が、帰ってきた筈の現実が、知らない世界へと変貌し――葉山隼人は、一人取り残されている。

 

 いてもいなくても変わらない――まるで死んでいても、生き返っても、どうでもいいと世界に突き放されているように感じた。

 

 そして、まるで逃げるように、葉山は自室へと駆け上がった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 既に何十回目かの呼び出し音――だが、出ない。只の一度たりとも、相手と連絡が繋がらない。

 

「――クソっ。何をしているんだ、比企谷っ!」

 

 自室に駆け込んだ葉山が真っ先に行ったことは――比企谷八幡への連絡だった。

 

 あの怪物に彩られた池袋は、間違いなくガンツに関する何かだ。

 そう確信した葉山は、ならば自分の死んでいる間も戦い続け、生き残り続けてきたあの男が知らない筈がないと考えた。

 

(……昨夜の、あの部屋。あれは、あの池袋での戦争後の採点会場だったんだ。だとすれば、あの部屋にいたメンバーは、あの池袋大虐殺の生き残り――陽乃さんも、比企谷も)

 

 だが、何度も携帯に電話を掛けても、八幡が応答することはなかった。

 ならば――と、陽乃や、昨夜に連絡先を交換した和人達に聞くということも考えたが、葉山が知りたいのは、昨夜のミッションのことだけではない。

 

 ここまで自分が知る世界から変貌することになってしまった――その過程も知りたくなった。

 そして、この世界が、自分の知る世界と同一であるという、自分の知る世界から繋がっている同一世界なのだという、その確証を得たかったのだ。

 

 当然ながら、知らなかった。

 死んで、生き返る――そんな経験が、ここまで自己をあやふやにするものだったなんて。

 

(……自分が自分だということに確信を持てない。……今更だ。思えば、あの部屋に初めて送られた時だって、こんな気持ちを抱いてもおかしくはないのに)

 

 死んで、生き返るということならば、あの時だってそうだと言えばそうだ。

 

 自分達は一度死んでいる――それが二度になっただけなのに。

 

 だが、あの時と大きく違うのは――今、自分が一人だということ。

 

(あの時は、比企谷と――相模さんが、いた。お互いがお互いの存在を認めて、無意識に慰めあっていた。けど、今は――)

 

 半年という空白の時間。そして、同じ境遇の存在の不在。

 強いて言うなら雪ノ下陽乃がそうだが、あの人と自分が同じなどとは、葉山はたとえ死んで生き返っても思うことは出来ない。

 

 世界の変貌。そして自己への不安。

 それらが相まって膨れ上がる異様な恐怖感に突き動かされるように――葉山隼人は制服を着用した。

 

 総武高校の制服。

 まるで無理矢理アイデンティティを身に着けるようにそれを身に纏った葉山は、八幡に電話を掛け続けながら、自宅を飛び出し登校を開始した。

 

(電話が繋がらないなら直接会って話す! 説明してもらうぞ比企谷!)

 

 無我夢中で走り出した葉山は、高校が休校になっているかもなどとはまるで考えていなかったが、幸いにも池袋から離れた千葉の学校はすべからず通常通りに門を開いているようだった――国の上層部すらバタバタしているにも関わらず県市町村が素早い対応を取れるわけもないという言い方も出来るが。

 

 一様に隣を歩く同級生との会話に夢中な同じ制服を身に纏っている少年少女に、真っ青な顔で通学路を走り続ける葉山の姿は全く目に入らない。

 そのまま、まるでマラソンを走っているかのように最後まで止まることなく走り続けた葉山は、そのまま下駄箱に靴を突っ込み、取り出した上履きを素早く履いて――2年F組へと向かった。

 

「っ! 比企谷はいるか!?」

 

 扉を開け、その場で、大声で葉山は叫ぶ。

 ギョッとした表情で一斉に葉山の方を振り向く、既に教室にいた十数名の()()()()()()()

 

 呆気に取られていた彼等だが、その中の一人が小さな声で「……いませんけど」というと、葉山は舌打ちを堪えるような表情をし、そのまま「ありがとう!」と言いながら再び廊下を駆け出した。

 

「……びっくりしたー」

 

 葉山が去った後の2年F組は、初めは静寂に包まれていたが、段々にぽつりぽつりと呟きが交わされるようになった。

 

「え? なに今の? 三年?」「すごいイケメンだったよねぇ」「確か……そう! 葉山先輩! サッカー部のキャプテンの!」「え? キャプテンて戸部さんじゃなかったの?」「いや、たしか葉山さんだったよ。そういえば。なんで忘れてたんだろう。てか最近、あの人見なかったよな?」「そういえばファンクラブとかあったよねぇ」「なにそれ? 休学? サボり?」「知らねぇ。てか比企谷って誰? 女子?」「そういえば一年に比企谷ってかわいい子がいるって」「えぇ。ショックぅ。わたしファンだったのにぃ」「忘れてたくせにw」「あれ? 葉山先輩って三浦先輩と噂なかったっけ?」「いや、たしかあの人彼女いたんじゃ……あれ? 誰だっけ? 名前出てこない」「てか超必死だったよね。なんかウケる」「私もイケメンに探してもらいたーい! ほら! わたしはここにいるよー!」「あんた誰よw」「てかさー、こないだ――」「そういえば昨日ね――」「てかアレだ。俺、今日の現国の課題さ――」「とりま聞いてくれよ。俺さぁ、マジで国立狙ってて――」

 

 初めは突如現れた上級生の話題で埋め尽くされていたが、気が付けば既にいつもの雑談に戻っている。

 かつて総武高で最も有名だった男の半年ぶりの登校は、()()()()クラスに数分間話題を提供したのみで、あっという間に日常にされた。

 

 学校――葉山隼人にとって、大事な日常の一部だったこの場所も、彼の知らない間に半年の時間が経過している。

 例え記憶操作されていても、そしてそれが解かれたとしても――変化は変わらず変化であり、既にそれが日常であるということを。

 

 葉山隼人の知らない総武高校になっているということを――彼自身は、まだ理解していない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、何も知らない少年は、ただ只管に校内を駆ける。

 まるで奥へ奥へと、自分の知っている景色を無意識に求めるように。

 

 だが、葉山には明確に次なる目的地があった。 

 

 決してその場所は、葉山隼人にとって縁深き場所ではない。

 訪れたのは、ほんの数度。それも決まって(たち)の悪い依頼を持ち込むだけのことで、いい思い出の詰まった場所とは口が裂けても言えない。

 

 むしろ、彼にとっては近づきたくない場所だった――恐らく、この総武高校の中で、最も。

 その場所の存在は知っていた。きっと、『彼』よりも、ずっと前から。

 

 けれど、訪れることは出来なかった。行っても拒絶されるのは目に見えていたし、どんな言葉を掛けていいかも分からず、どんな言葉を掛けられるのか分かり切っていたから。

 

 あの場所は、葉山隼人にとって、まるで自分の無力の象徴だった。

 

 自分が何も出来ないことを、『彼』に、『彼女』に、自白しにいくかのような。

 そして、自分に出来なかったことを、あの男が成し遂げる様を見せつけられにいくかのような。

 

 あの温かい紅茶の香りに満たされた光景に、葉山隼人はいつも――嫉妬と、そして。

 

 そして――。

 

 

 

 

 

 葉山は、その扉を勢いよく開けた。

 

 奉仕部――かつて、彼が、彼女が、彼女が、特別な空間を作り上げていたこの部室の扉を。

 

 

 だが、そこには、当然ながら、彼も、彼女も、彼女もいなかった。

 

 葉山隼人は知らない。

 既に、この部屋から温もりが失われて久しいことを。紅茶の香りが消えて久しいことを。

 

 奉仕部という空間は、壊れてしまったことを。

 

 

 そして、誰も知らなかった。

 

 

 早朝――始業前。

 

 放課後にはまるで機械のように、彼と彼女と彼女が未だに足を運び、冷たい部屋で冷たい物語を演じ続けていたこの部屋に――毎朝、誰も来ない時間帯を見計らって、とある人物が閉め切られた扉を開けていたことを。

 

 それを知らないふりをしていたのは、この学校でただ一人――奉仕部の鍵が無断で借り出されているのを、黙認していた平塚静だけ。

 彼女も、その犯人の正体は――想像はついていたが――はっきりとは知らなかった。知ろうとしなかった。

 

 他は誰一人として知らず、彼も、彼女も、彼女すらも知らなかった。

 

 まるで、もう二度と訪れることのない正しい物語の再開を、ずっとずっと待ち続けるかのように。

 

 冷たい部屋で、電気すら点けずに、ただ一人――依頼人の位置の椅子に座り続ける、彼女の名は。

 

 

「……いろは?」

 

 

 その言葉に、亜麻色の髪を靡かせながら少女は首だけで振り返る。

 

 一色いろは。

 

 かつて比企谷八幡によって生徒会長へと祭り上げられた、二年生にしてこの学校で最も有名な存在となった少女。

 

 彼女は、この部室のように冷たい瞳で、望んでいない闖入者に向かって言った。

 

「……なぁ~んだ。葉山先輩ですか」

 

 お久しぶりです――葉山は、そんな後輩の言葉に、何も返すことが出来ずに絶句するばかりだった。

 




蘇った落伍者は、知らない変わった日常(せかい)にて、知らない瞳をした後輩と再会する。

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