特別棟の一階。保健室横。購買の斜め後ろ。
テニスコートを眺めるには特等席であるこの場所は、二年前からとある男子生徒が『ベストプレイス』などと呼称し愛用していた隠れスポットだった。
風向きが変わる。
朝方より海から吹き付けるようにして向かってきていた風が、まるで元いた場所に帰るようにして吹き抜けていく。
その風を肌で感じながら、呆然と空を眺めるのは、在校三年目にしてこの場所を初めて訪れた少年だった。
あの男のお気に入りスポットだとは露知らず、学校内で一人になれる場所などというものを生まれて初めて探し求めた結果、辿り着いたのがこの場所だったのだ。
葉山隼人は、その金髪を風に揺らしながら、簡素な菓子パンを片手に黄昏れていた。
「………………………」
昼休み。
校内が授業中の静寂から打って変わって、ざわざわとした喧騒で満ちる中。
みんなの中心であった筈の男は、目の前のテニスコートで、一人の少年が何かを振り払うように一心不乱に、玉のような汗を吹き飛ばしながら、壁に向かってボールを叩きつける音のみを耳に入れながら。
ひとりぼっちで。
今朝から今までの――生まれ変わってから初めての登校日を振り返っていた。
(…………始まりは………
登校直後――奉仕部の部室にて。
葉山隼人は、知らない一色いろはと邂逅した。
+++
柔らかいものが潰れる音と、固いもの同士がぶつかる音が響いていた。
目を疑った。耳を疑った。
喉を初めて感じる味の唾が通過して、思わず一歩、後ずさった。
一色いろはは、目の前の光景が、この世のものとはとても認識できなかった。
「……せん……ぱい?」
総武高校を震撼させ、戦慄させ、豹変させ、絶望させた――あの日から。
一クラスのほぼ全員が、駆け付けた警察官を含めて、同校生徒によって大量に虐殺された――あの事件から。
学校内の空気は明らかに一変した。未だほとぼりどころか混乱も衝撃も収まったとはいえないけれど、それでも、まるで自らを守るように、誰もが出来る限りの日常に意識的に回帰しようとしている空間の中で――誰よりも。
あの日から変わった少年がいる。あの日から終わった少年がいる。
あの日のことを忘れようとしている総武高校の中で――誰とも繋がらず、誰もが繋がりを求めず、特異点のように孤立する異常存在となった男子生徒がいる。
比企谷八幡――彼は、一色いろはの目の前で、その身を自ら痛め続けていた。
まるで世界で最も許せないものに怒りをぶつけるように。
あるいは、世界で最も悍ましい悪に、当然の罰を与え続けるように。
殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴る。
自分の横を名も知らぬ女子生徒が悲鳴を上げながら通り過ぎるのを、一色は横目で見つけながら、思わず自分も彼女の後に続こうと本能的に判断し――
「――――ッ」
――出来なかった。
怖かった。恐ろしかった。
無表情で自らの右手を痛め続けている、あの顔が。
一切の容赦なく全力で電柱に向かって放たれ続ける、あの拳が。
そして――あの日から、総武高校中を恐怖で包み込み続ける、あの瞳が。
この世の闇を全て凝縮したかのような、あの瞳が。
絶望と憤怒と怨嗟と失意と恐怖と自罰と悪夢と喚叫で出来ているような、あの瞳が。
「……………………」
比企谷八幡が、あのまま壊れてしまうのが怖かった。
比企谷八幡が、あのまま完成してしまうのが、恐ろしかった。
だから――だから――だから、だから、だから。
「何やってるんですか!!!」
一色は、勇気を振り絞って、その腕に飛びかかった。
比企谷八幡を壊し続ける、その右手を。
まるで泣いているように、血を流し続ける、その右手を。
「――――ッ!」
それを拒むかのように、黒闇そのものが如き瞳が、一色に向けられる。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
生物として根源的な恐怖を引き出す瞳に、一色の身体が震えだす。
やめて。お願い。そんな目をしないで。
だって、そのままじゃあ、あなたはきっと壊れてしまう。
取り返しがつかない。後戻りが出来ない。
誰もいない闇の中に、手の届かない暗闇の中に、あなたはきっと行ってしまう。
(……先……輩……っ)
本来なら、こんなことをする理由はないのかもしれない。
一色いろはにとっては、比企谷八幡は自分を生徒会長にした人、口車に乗ってあげた人、お互いのメリットの為に利用し合った人、ただそれだけだ。
猫を被らなくていい人、本性を見破る人、素を見せられる人――ただ、それだけだ。
自分と喋るのを面倒くさがる人、可愛い仕草をしてもあざといと言って一蹴する失礼な人――ほら、大したことはない。むしろ不愉快と言っていい。
ありのままの一色いろはを見てくれる人。なんだかんだいいながら自分を手伝ってくれる人。支えてくれる人――…………本当に、それだけの。
辛い時に傍にいてくれる人――扱いやすい人。
コンビニの袋を持ってくれる人――あざといって言う方があざとい人。
一緒に隣を歩いてくれる人――……お人好しで……優しい人。
『……なぁ、一色』
『何ですか? っていうか、何やってるんですか? ……先輩、なんか変ですよ。まぁいつも変ですけど……最近は、本当に。……こんな時間に……こんな場所で何を――』
『…………』
『……先輩?』
『………………。一色、お前さ――』
あの日――から。
一色いろはにとって――比企谷八幡は。
「――ッ! 先輩!」
八幡は、一色の腕を振り払い、右手から血をポタポタと垂らしながら、その背中を遠ざけていく。
一色は、その背中を、呆然と立ち尽くしながら見つめていた。
左手の爪を食い込ませて、
「…………どうして。………先輩。どうして――あの日から」
血を流すように、涙を流しながら、吐き出すように、呻く。
「――――笑って、くれないんですかぁ……っ」
+++
依頼人の席から立ち上がり、こちらを冷たい――この部室の空気のように冷たい眼差しで見据えてくる一色に、葉山は言いようのない感覚を覚えながら、探るようにして声を掛ける。
「……いろは? こんな所で、何を――」
「――別にいいじゃないですか。葉山先輩には関係のないことです」
そう言って一色は、そのまま立ち上がって葉山の方へと歩いてくる。
だが、それは葉山ではなく葉山が立ち尽くす扉目当てなのだということは明らかで、葉山は何故か焦りを覚えて、一色に向かって何かを話そうとする。
何か――何を?
(俺は何をこんなに焦ってるんだ? 俺は――何を、恐れてるんだ?)
あの目――あの瞳か?
葉山隼人が、一色いろはに、あんな瞳を向けることに、違和感を覚えているのか。
何かを恐れている。何かを忘れている。
その何かを知らなくてはならない。思い出さなくてはならない。
目の前の、自分が知らない目をする一色いろはの、謎を解かなくてはならない。
自分が生き返ったこの世界の、自分が知らないこの世界の、正体に少しでも近づく為に。
「――いろは」
近づく一色の進行方向を塞ぐように、葉山が足を広げた。
露骨に嫌そうな顔をする一色だったが、葉山の表情を見て溜息を吐きながらも足を止める。
「……はぁ。さっきも言いましたけど、わたしが朝からこの部屋に居ようと、葉山先輩には関係ないでしょう。っていうか、葉山先輩にはもっと行かなくちゃいけない所があるんじゃないんですか? 最近見ないから休学してたんじゃないかって専らの噂ですよ」
最早、猫を被るどころか刺々しくすらある一色の対応に、葉山は眉根を寄せるものの真剣な表情を崩さず、少し息を吸って、一色に問うた。
「――待ってるのか?」
その言葉に、一色はピタリと動きを止めた。
何の具体性もない、対象も明らかにしていない、葉山の言葉。
だが、葉山はそう見えたのだ。
この奉仕部の部室を開けて、真っ先に目に飛び込んできたその姿が。
電気すら点けず、物寒しい広々とした空間に――たった一人。
誰もいない部屋の、それでも律儀に
ずっと、誰かを、何かを――待ち続けているような、そんな小さな女の子の姿に。
一色は小さく俯き、小さく息を吐いて、葉山ではなく、背後のテーブルに目を向けながら、言った。
「………そう、かもしれませんね」
葉山は、一色の言葉に問い返す。
「……かもしれない?」
「覚えてないんですよ。今朝、起きたらそう感じて。どうしてもそうしなくちゃいけないように思えて。日課だったんです。だけど、今朝、目が覚めたら――」
――どうしてそうしなくちゃいけないのか、全く思い出せないんですよ。
一色は、寒々しい声色で言った。
葉山は絶句し、彼女を見詰める。
だが、彼女は葉山ではなく、ずっと、冷たく、そのテーブルだけを――その席だけを見詰めていた。
「関係ないんですよ――そんなの」
一色は葉山ではなく、葉山ではない誰かに向かって言う。
「そうしなくちゃいけないんです。こうしなくちゃいけない気がするんです。……馬鹿みたいでしょ。でもいいんです。わたしがそうしたいんですから。わたしが見たいだけなんんですから」
だから、わたしは――
そう言って、一色は葉山の前に立つ。
冷たい表情で、冷たい眼差しで――彼ではない、何かを真っ直ぐに見据えながら。
葉山は、慄くようにして後ずさり、道を空ける。
その横を何の感慨もなく通り過ぎると、葉山隼人に一瞥もせずに一色いろはは立ち去っていく。
口を開けたが、声が出なかった。
それでも振り絞って小さな背中に向かって放った問いは、葉山にとって意図せず飛び出した疑問だった。
「……いろは。お前は、何が見たいんだ?」
一色は、その問いにピタリと足を止める。
そして思い起こすのは、真っ黒に塗り潰された――誰かの言葉。
――『……一■、■前さ――』
「…………」
思い出せない誰かを。思い出せない何かを。
思い出せない何処かを。思い出せない何時かを。
思い起こして、一色いろはは、くるりと振り返って――あざとく、告げる。
「大切な人の、あったかい笑顔です♪」
それは――葉山隼人が、知らない一色いろはの笑顔だった。
+++
バンッ! ――と、荒々しく壁にテニスボールが叩きつけられる。
その力に応じた勢いで跳ね返ってくるボールを、華奢な美少女と見紛う美少年は、懸命に走ることで何とか追いつき、きつい体勢ながらも再び全力でラケットを振り抜いた。
「…………」
遠くからその光景を眺めながら、葉山は美味くもないパサパサの菓子パンを齧る。
(……あの後……いろはの背中を見送った後、俺は……始業のチャイムで、我に返って――)
パンを半分以上残し、袋に入れ直したまま放置して、葉山は再び空を見上げた。
その綺麗な青色を見上げながら、葉山は再び黒色のような、灰色のような、違和感だらけの一日を振り返る。
(……そうだ。俺は、いろはの言う通り、職員室に向かった。……自分が行くべき
足元が突然、ずぶずぶの底なし沼に変わったかのような錯覚をした。
誰もいない特別棟の、朝なのに薄暗い廊下が、急激に広がったような錯覚をした。
葉山隼人は、そこでようやく気付いたのだ。
自分の行くべき教室が――既に2年F組ではないことを。
この学校に、既に自分の席は――居場所は、もう何処にもないことを。
+++
「葉山。お前は3年F組だ」
そう、平塚静は、葉山に数学のテストを突き付けながら言った。
「…………は?」
既に始業のチャイムが鳴り、生徒達は自分達が所属する教室で一時限目の授業を受けているであろう時間帯。
そして、一時限目の担当となった教師陣が後にし、人口密度がだいぶ減少した職員室の一角で、昨年と同じく生活指導を担当する国語教師――平塚静は、額に手を当てながら溜息を吐いている。
「――全く。まさか君にここまで面倒を掛けられる日が来るとは思わなかったよ。突発的な暴走は確かに君達くらいの年齢でしかできない青春かもしれないが、あんまり大人を困らせない範囲にしてくれ。これでも教師は忙しいんだ」
だが、葉山は、そんな平塚がひらひらと見せびらかすようにして揺らす数学のテストの意味が分からない。いや、この先生の言っていることの全てが分からない。
3年F組? 面倒? 暴走? ――青春?
なんだ? この教師は――この大人は、何を言っている?
「……な、なにを言っているんですか? ……先生?」
引き攣った笑顔を浮かべている自覚があった――いや、笑顔であったならば、まだマシだ。
不気味。違和感。——恐怖。
ざわざわとした冷たさが、額を伝う汗として具現化されているような気がした。
そんな葉山に気付いているのかいないのか――あるいは、気付いていても、
平塚は面倒くさいという感情を隠そうともせずに大きな溜息を吐いて、早々に葉山にネタばらしをする。
「――決まっているだろ。昨年度の三学期分の埋め合わせのテストだ。貴様が休校届も出さず、丸々纏めて無断欠席した分のな」
平塚は数学のテストを机の上に置いた後、それに重ねる様に次々と問題用紙と答案用紙を積み上げていく。
「今日一日で主要五科目は受けてもらう。全て昨年度三学期の期末テスト問題だ。基本的に点数のボーダーは設けないが、白紙で出すのだけは却下だ。色々と
分かったらさっさとこれを埋めて来い――と言って、平塚は立ち上がりながらテストを葉山の胸に押し付ける。
そして、そのまま白衣を翻して自らの席を後にし、パーテンションで区切られた一角に向かって足を進め始める。
葉山は慌てて平塚を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! な、これは……いや、どうして!?」
頭の中が混乱で満ちて上手く言語化できなかった。
葉山とて留年したいわけではない。
だが、今のこの状況が、己に都合が良すぎる展開が――不気味で、違和感で、恐怖でしかなかった。
記憶操作――
「――――ッ!?」
その言葉が、改めて葉山の全身を貫く。
昨夜――生き返ったあの夜。
葉山隼人が、比企谷八幡に聞かされた、黒い球体による衝撃の犯行隠蔽方法。
(……ガンツミッションで散った戦士達に対する記憶は、世界中の人間から消える。誰もその人物に対して考えなくなり、それが自然になる。いないことが当然になり……そうやって、世界から消される)
正確には、
そして、八幡が把握していなかったのは――その記憶操作の、復活後の
比企谷八幡は、これまで数多くの同胞を失ってきた。
葉山隼人に対して、相模南に対して、そして、雪ノ下陽乃に対して――黒い球体が行った歪んだ処理を見せつけられて、ガンツミッションの落伍者に対する、末路を思い知らされた。
だが、一方で彼は、この半年間――誰一人として、
その悲願を初めて達成したのは、ほんの昨夜のこと――雪ノ下陽乃が初の復活者である。
脱落からの復活。消去からの復元。
一度、世界からいなくなった者の――いなかったことにされた者の、帰還。
故に――知らなかった。あの比企谷八幡も把握していなかった。
だからこそ、葉山隼人も誰からも教えられず――無知だった。
黒い球体が、どれほど乱雑に、復活した人間を歪んだ世界へ放り出すのかを。
「……いい、んですか? 問題じゃないんですか? 単位が足りていない自分が……ルールを破った生徒が……こんな簡単に……許されて――」
簡単に受け入れられて。いてもいいことになって。
自分がいなかったことが――なかったことになって。
平塚は、俯く葉山に、適当に言った。
「ん? いいんじゃないか、別に」
本当にどうでもよさそうだった。
「…………」
それよりもニコチンの摂取の方がよほど大事だと言わんばかりに、平塚は葉山の方をもう向くことはなかった。
白衣をはためかせ、パーティションの向こう側へと消え、そこにはぽつんと佇む葉山隼人だけが残った。
いくら授業中とはいえ、職員室には他にも幾人かの教師がいる。今の平塚との会話を聞いていた、もしくは聞こえていた者達が殆どの筈だ。
だが、誰も何も言わない。
期末テストの使い回しとはいえ、こうして主要五科目のテストが出揃っている以上、ことは平塚の独断ではない。
この職員室が、この学校の教師全てが、このとんでもない待遇処置を認めている。
しかも、元々態度、成績共に優秀だった生徒を何とか進級させてあげようといった温情ですらなく――温かみなど欠片もない、本当に無味乾燥な手続きと共に。
葉山隼人という生徒の復学に、そしてこれまでの半年間の失踪に、何の興味関心もないかのように。
(――いや、本当に、何の興味も関心もないんだ。どうしていなくなったのか、どうして急に現れたのか……疑問すらも、抱かれない)
正しく、その為の記憶操作。
該当戦士の消失も、そして唐突なる復活も、世界に何の影響を及ぼさない為の処置――処理。
世界は、葉山隼人という存在によって、何の影響も受けない。
いなくても同じ――いても同じ。
何の波風も立たず、何も動かず、何も起きない。
異分子でも、特異点でもない――無理矢理NPCにされてしまうかのような、強引で、適当な処理。
(………これが……ガンツの……やり方か………ッッ)
葉山隼人という存在が、何の不気味さも、違和感も、恐怖も与えない世界。
それはつまり、葉山隼人にとっては、不気味で、違和感で、恐怖しか覚えない――歪んだ世界。
葉山隼人の、知らない世界。
「……………………」
そして葉山は、何も言わずに職員室を後にし、使われていない誰もいない空き教室を偶然見つけて、そこで数学のテストを解いた。
チャイムが鳴る度に少し時間を置いて、次の授業が始まったであろうタイミングを見計らって職員室に行き、解いたテストを平塚に渡し、再び次のテストを適当に空き教室で解いた――それを繰り返した。
あのテストが本当に採点されるのかは分からない。
だが、もし点数をつけられるのであれば、きっと葉山が知らない点数になっていることだけは分かった。
+++
バンッ!! と、これまでで最も強い音が響いたのとほぼ同時に、昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。
葉山は結局半分近く残した菓子パンを乱雑に掴みながら腰を上げようとする。まるで鉛のように重たい腰を。
(……残る教科は、国語……か)
現国と古典を国語として纏めて渡されたテストは、今日一日根城にしていた空き教室にある。
奉仕部の部室ではない。あそこならば日中は恐らく誰も来ないだろうが、あの場所を己が使ってはいけないような気がしたのだ。
(……間違いなく、雪乃ちゃ――雪ノ下さんに怒られるだろうからな。そういえば結衣は、昼休みはあの場所で二人で昼食を食べている筈だし。選ばなくてせいか)
そこまで――考えて。考えてしまって――逃げられなくなった。
浮きかけた腰が、再びズシンと落下する。
「……………」
考えなかった訳ではない。考えなかった筈がない。
死んで――生き返って、思わなかった筈がない。
まだ――生きれる。帰れる――会える。
もう一度、彼らに、彼女らに。そう感激しなかったといえば、嘘になる。
だが――。
(……あのいろはを見て、あの平塚先生と向き合って……それでも希望を持つには……俺はガンツに……絶望を見せつけられ過ぎたよな)
この期に及んで、それでも、生前に自分と親しかった人間ならば、少しは――と思える程、葉山は鈍くも、そして強くもなかった。
故に、葉山は未だ、3年F組を訪れていない。
遠くない未来にどうせ放り込まれるにもかかわらず――平塚の机の上にあった名簿に、葉山が会いたいと思っていた人物達がまるでご都合主義のように一ヶ所に、そして何故か『彼女』も、そして当然のように『彼』の名前もあったというのに。
(……どうして彼女がF組にいるのかは分からない。そして、ここまでずっと電話に出ないアイツが登校しているのかも……だが、それでも、戸部や大和、優美子に姫菜、そして結衣がいるのは間違いない)
ここで葉山はもう一人の友がいないことには当然気づいていた。
だが、学年が上がってクラスが変わったにも関わらずグループ全員が同じクラスになれる方が珍しいことだと思い、別クラスに配属になったのだろうと考えた。だから、ここで彼はこのことに対して疑問を持たなかった。
今の彼の心にあるのは、圧し掛かっているのは――ただ、漠然とした恐怖。
2年F組の一年間を、決して順風満帆とはいえなかったけれど、空気という世界を大前提とした上のロールプレイだった一面もあったけれど、それでも。
確かに共に築き上げた、何かを犠牲にしてでも守り抜く価値があると信じた、葉山グループという繋がりで成り立っていた――友達に。
憧れの目線を向けていた後輩のように。優等生として己を認めていた教師のように。
彼女達のように、興味も、関心も、好意も敵意もなく、ただ――まるで空気を見るような目で。
そんな目を、あろうことか彼らに――向けられるのではという、恐怖。
葉山はそっと、今朝、出会うや否や実の父親に殴り飛ばされた頬を撫でる。
(……今思えば、種類はどうあれ、俺に関心らしい関心を持って相対してくれたのは――父さんだけだったな)
そうして自らを嘲る笑いを思わず漏らすと、そんな立ち上がれない葉山の頭上から、天使のような声が聞こえた。
「――あれ? もしかして、葉山くん?」
顔を上げる。そこに居たのは――ただのクラスメイトの天使だった。
+++
考えなかったと言えば嘘になる。
ここまで至ってしまうと、楽観的やら悲観的やらという前に、いっそ卑屈ですらあるけれど――まるであの男のようだけれど。
けれど、あの男に対してだけは、葉山隼人はそう考えてしまう――これは死んでも治らなかった。
(……………俺だから、なのか?)
そう、考えてしまった。
黒い球体による、余りにも杜撰な記憶操作に対して、思考誘導に対して、世界歪曲に対して。
これは、どんな復活者に対しても平等に行われる処理なのだろうか――と。
例えば、相模南なら。折本かおりなら。達海達也なら、どうだろうか。
昨夜、同じように蘇ったあの中学生は――霧ケ峰霧緒は。そして、雪ノ下陽乃は。
今、現在、自分と同じような目に遭い、同じような思いを抱いているのだろうか。
そして、もし、死んだのが。
そして、もし、生き返ったのが。
自分ではなく――葉山隼人ではなく。
あの男――ならば。
(…………俺ではなく、アイツならば)
世界は――この世界は。
この学校は、そして、この学校の人達は。
一体、どのように――変わったのだろうか。
それは、きっと――葉山隼人の知らない顔なのだろうと思った。
その天使は、滝のように流れ落ちる汗を拭いながら言った。
「久しぶりだね。ここのところ見かけなかったけど、今日から学校?」
葉山は呆然とその天使のような――少年を見上げる。
戸塚彩加。
少女と見紛う、というよりは、おそらく殆どの人が第一印象として男子だとは看破することは難しいであろう程に整った中性的な顔立ち。仕草。雰囲気を持つ少年。
葉山とは2年の時に同じクラスで、彼はテニス部の部長であるため、サッカー部の部長だった自分とはそのような縁もあったが、決して親交が深い存在でもなかった。
戸塚はその雰囲気からか、男子とも女子とも特別仲のいいグループに属してはおらず、だからといって蔑ろにされているわけでもない独特の立ち位置を確保していて――そう、だが、唯一。
(――彼とだけは……仲が良さそうにしていたな)
自他ともに認めるぼっちでありながら、この少年だけは、彼にとっても特別であったようだった。
そして、それは――恐らくはこの少年にとっても、彼は。
「葉山くん、大丈夫? もう予鈴もなったけど……具合悪いなら、すぐそこに保健室あるし、先生呼んでこようか?」
「…………いや、平気だよ。悪いな」
こちらを心配そうに覗き込んでくる戸塚を制して、少なからず高鳴った胸の鼓動にいろんな意味で危機感を覚えつつ、葉山は膝を立てて立ち上がる。
そのとき、ポタポタとコンクリートに垂れている汗の跡に気付いた。
「……あ、ごめんね。さっきまで練習してたから……」
「い、いや。すごいな、そんなになるまで」
葉山は頬を紅潮させながら胸元を扇ぐ戸塚の扇情的な姿に一瞬自らの頬も赤く染めかけるが、すぐに違和感を覚える。
戸塚の汗の量が尋常ではない。まるで炎天下の中、ハードな走り込みを行った直後のようだった。
息も荒く乱れ、持っているタオルで拭っても拭っても汗が噴き出してくる。
春が終わり夏を迎えようという季節とはいえ、まだ気温も上がっていない。むしろ涼しい風が吹いているくらいだ。
確かに、彼は昼休みも練習に打ち込む勤勉な生徒だった。いつだったか、決して褒められない理由で三浦優美子がコートに乗り込んだ時も、彼はあの雪ノ下雪乃の特訓を受けていて、しかも根を上げなかったという。
だが、それでも、同じ運動部から見ても、今の戸塚の姿は、昼休みの自主練習後とは思えないほどに疲弊しているように見えた。
「戸塚は、いつもそんなになるまで練習しているのか? 昼休みだろう?」
「…………僕も、いつもは昼休みはこんなに打ち込まないんだけどね」
なんか、今日は無性に体を動かしたくて堪らなくて、さ――と、美少女と見紛う美少年は、そのルックスに似合い過ぎる、儚げな憂いある表情を浮かべる。
それが余りにも絵になっていた為、葉山は見蕩れかけるが、葉山の記憶にある戸塚彩加という少年と結びつかない表情であった為に、葉山は問い掛けた。
「………何か、あったのか?」
戸塚は葉山の方を向かず、汗を拭いながら、どこか遠くを見つめていた。
それは、空なのか。海なのか。それよりも遠い――誰かなのか。
既に予鈴が鳴っているというのに、戸塚は動かず、なかなか口も開かなかった。
葉山も、そんな戸塚の言葉を、急かさずにじっと待っていた。
やがて、戸塚は、小さく呟く。
「――怖かったんだ。無性に」
涼しい風が吹いた。だけど、葉山は、ぶるりと背筋を震わせた。
寒く感じた。風か、それとも――ゾッとする程に整った、戸塚の横顔かは、分からなかったけれど。
「……僕は、何も出来なかった。あの時も、これまでも。……そんな焦燥感というか、無力感というか……そういうものが、渦巻いてて。……だけど、今朝――目が覚めたら、何かがぽっかりなくなってた」
だけど、焦燥感と無力感は、消えずに僕を蝕んでた――戸塚は、胸の当たりを掻き毟るように呟く。
あれほど美しかった横顔が――歪んでいく。
抱えきれない、全く似合わない――激情で、歪まされる。
「……本当に、よく分からないんだ。どうしてそんな感情を抱くのか、理由も原因も思い出せないのに。何かを失ったのに……いや、失ったからこそ、かな」
戸塚は、儚く、綺麗な、憂いに染まった表情で呟く。
「きっと、もう手遅れなんだよ。何も出来なかった。だから、僕は、それを失ったんだ。……それがわかっているから、僕は何かをせずにはいられなかった。体を動かさずにはいられなかった。……テニスにぶつけるなんて、部長失格だね、僕は」
葉山隼人は、こんな戸塚彩加は見たことがなかった。
彼はいつも優しく、穏やかで、人を傷つけず、独特の立ち位置にいて、誰からも嫌われず、人を差別せず、真摯で、ひた向きで。
勿論、戸塚彩加も人間だ。純粋無垢で清廉潔白な天使ではない。
感情があり、欲望もあっただろう。許せないことも、怒りを覚えることも、きっとあっただろう。
醜さも持ち合わせて、人並みに好き嫌いもあって、ストレスも悩みも抱えていただろう。
葉山隼人にとって、戸塚彩加は知っていることの方が少ない、友達とも言えない距離感の――他人だ。
だが、間違いなく、紛れもなく――目の前の憂いある戸塚彩加は、葉山隼人の知らない戸塚彩加だった。
――………そう、かもしれませんね
その時、葉山は、自分の知らない表情を見せた、とある少女を思い出した。
――覚えてないんですよ。今朝、起きたらそう感じて。どうしてもそうしなくちゃいけないように思えて。日課だったんです。
これは、葉山隼人が原因で生み出された歪みではない。
きっと自分の復活によって生み出された歪みも何処かにはあるのだろう。
けれど、この少年と、あの少女の歪みの原因は、少なくとも自分ではない筈だ。
葉山隼人では、ここまで世界は変わらない。
いても、いなくても――自分は同じなのだから。
――だけど、今朝、目が覚めたら
それならば、誰だ?
一色いろはに、あんな顔をさせたのは。
戸塚彩加に、こんな顔をさせているのは。
復活ではなく――消失。
彼女から、彼から、何かを奪い、失わせたのは。
――どうしてそうしなくちゃいけないのか、全く思い出せないんですよ。
――どうしてそんな感情を抱くのか、理由も原因も思い出せないのに
みんなの、記憶から――消えたのは。
葉山隼人の復活よりも、遥かに世界に影響を与える――消失をしたのは。
「…………戸塚」
掠れた声が、ほんの小さく、絞り出された。
水分を摂らず菓子パンを食べていたからだろうか。喉がカラカラで、口の中がパサパサで、上手く言葉が――声にならない。
けれど、自分が呼び掛けられたことは理解出来たようで、戸塚はゆっくりと葉山の方を向いた。
葉山隼人は、戸塚彩加ではなく、ここではない誰かを――睨めつけながら問うた。
「――比企谷八幡……という男を、覚えているか?」
戸塚の表情を見ることは出来なかった。
「…………ごめん――」
――思い出せない。
葉山隼人は、一目散に駆け出した。
葉山隼人は、己が復活よりも世界を歪める、その男の消失を知る。