比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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どうして――お前は。


Side葉山――③

 

 

 バンッ――と、勢いよく開け放つ。

 

 見上げるのは、抜けるように青い空だった。

 

 皮肉なことに――本当に綺麗な青空だった。

 

「――――っっ!!」

 

 葉山隼人は――屋上に来ていた。

 

「――――何で――――っ」

 

 歯を食い縛り、拳を握り締める。

 

 思い返すのは、ほんの少し前に駆け込んだ――3年F組の光景。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 勢い良く扉を開けた葉山隼人を迎えたのは、昼休みが終わり、その殆どが席に着いていた3年F組の生徒達だった。

 

 着席せずにいたのは、ちょうど扉を開けた葉山の目の前――つまり教室後方にたむろしていた四人の男女のみ。

 

 その内の二人は、彼も見知った顔だった。

 

「――あれ? 隼人くん? 隼人君じゃね、マジなついわー!」

「だな」

 

 戸部(かける)。そして大和。

 共に2年F組時代のクラスメイトで、自分と同じグループに属していた二人。

 

 葉山にとっても少なくない友情を感じていた友達であり、彼らが自分に向かって再会の笑顔を向けてくれたことは嘘偽り無しに嬉しかったのだが――彼らもまた、自分が半年もの間、どうしていなかったのかという理由は尋ねてこなかった。

 

 そのことに少なくない失望のようなものも感じ――そして戸部の左手のサポーターのようなものも気になったが――葉山はそれらを振り払い、目的の人物を探すために教室を見渡す。

 

 いない。当然ながら、彼は登校してはいない。

 ぎちっ――と、ここまで来る間にもダメ元で掛け続けていた携帯を握り締める。

 

 そんな不穏な様子の彼に、戸部が「ど、どうしたん? 隼人く――」と声を掛けようとすると――。

 

 

「…………はや……と?」

 

 

 がたっ、と。

 窓際の席に座っていた一人の少女が、突如として現れた想い人を呆然と見詰めていた。

 

 その時、葉山はようやく、戸部と大和と一緒にいた女子達が、自分の見知らぬ少女達だと気付いた。

 いや、正確には知らなかったわけではない。だが、自分と近い存在であるわけでもない、名前と顔だけ知っている程度の存在だった。

 

 自分が再会を願った少女は、戸部達と遠く離れた、教室の端から、真っ直ぐに自分を見てくれていた。

 

「…………優美子」

 

 三浦優美子。

 2年F組において自分と同じグループに属していた少女で、自分達のグループの纏め役のようなポジションを担っていた少女。

 

 そして、きっと――葉山隼人に、特別な想いを、寄せていたであろう、女の子。

 

 葉山は三浦との再会に思わず優しい微笑みを浮かべる。

 想い人に名前を呼ばれたこと、優しい微笑みを見れたこと、そして何より――半年ぶりの再会なのだと、心が急速に理解を始めて。

 

「…………はやと………隼人ぉ……」

 

 三浦は――その瞳にみるみる内に涙を浮かべていった。

 

「――――っッ」

 

 その涙が――葉山隼人の心に突き刺さる。

 ガンツの記憶操作が働いているとはいえ、自分の半年ぶりの復活に、これほどまでに感情を見せてくれた人物はいなかった。

 

 やっと出会えた――葉山隼人を、待ち望んでくれていた少女。

 

 そのことに途方もない歓喜を覚えるも――途端に、脳裏に(よぎ)る地獄が鎮める。

 

 

――好きなんだから。気づいてたでしょ?

 

 

 致命傷の激痛の中、間近に迫る死の中で、葉山隼人に向かって微笑む少女が、過る。

 

 葉山は停止し、罅だらけの仮面を被って――笑顔を作った。

 

「――久しぶりだね、優美子」

「もう! 今までずっと何処行ってたの! あーしにくらい前もって言えし!」

「ごめんな、ホント。……姫菜も、久しぶり」

 

 おかえり、隼人君――三浦の前の席に座り、三浦の机に向かうようにしていた海老名は片手を挙げてそう言うに収めた。

 彼女らしいといえば彼女らしい淡泊さ。しかし、三浦の反応を見た後だからか、そこまで心は暗くならなかった。

 

 だが――と、思う。そこにもいない。三浦優美子と海老名姫菜、彼女達の傍にもいない。

 

 比企谷八幡が此処にいないのは覚悟していた。

 だが、それでも、此処には、あの二人はいる筈だった。

 

 二人とも3年F組に所属しているのは、平塚に名簿を見せられた時に確認している。

 内一人はどうしてJ組ではなくF組にいるのか不明だが、このクラスに名を連ねているのは間違いないのだ。

 

 葉山はもう一度見渡す。

 空席が思ったよりも多い。自分の目の前、廊下側の最後尾は二つ並んで空席だし、自分が置き去りにしてきた戸塚を含めても、まだ数人いないようだ。

 

 何らかの理由で欠席しているのか――それとも。

 

 葉山は、三浦と海老名の方を見ながら、ゆっくりと、笑顔を作って探るように言う。

 

「……結衣は……今日は、休みなのか? 雪ノ下さんも一緒なのか?」

 

 その言葉で、空気が凍った。

 

 え――と、葉山が不信感を覚えるも、教室の視線は一人の少女に向けられる。

 

 三浦優美子は――まるで幼い少女のように、泣き崩れた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~っっ!! ぁぁ……ぁぁ……っ!」

 

 葉山は反射的に三浦の元へと駆けつけようとする――が。

 

「来ないでっ!!」

 

 騒めき始めた教室を一喝するように、鋭い叫び声が反響する。

 

「……姫菜……?」

 

 葉山は足を止めて、呆然と見つめる。

 涙をボロボロと流す三浦を宥めるように頭を撫でながら――こちらを睨み付ける、海老名姫菜を。

 

「……どうして……どうしていつも……結衣ばっかり……っっ!」

「…………そうだね。……今日、学校終わったら、お見舞い行こ。……ちょっとごめん。そこ退いてくれる?」

 

 海老名は三浦を立たせて、教室中の注目を視線だけで威圧して、彼女を守るようにして教室から連れ出そうとする。

 

「ひ、姫菜、ちょっと待ってく――」

「こんなことを無神経に聞いてくるってことは、隼人君は何も知らないんだよね。昨日のことだけじゃなくて、きっと半年前のことも」

 

 知ってたら、結衣と雪ノ下さんのことを、そんなへらへらと聞いてこれる筈ないもんね――と、薄い笑顔で、けれど、今まで見たこともないほどに冷たく恐ろしい顔で、葉山の方を見ずに言う。

 

 そして、その笑顔すら消して、葉山の方を向いて、三浦を守るようにして――告げた。

 

「やっぱり私――貴方が、嫌い」

 

 仄暗い――敵意。

 

 葉山は初めて――海老名姫菜が、怖いと、感じた。

 

 いつの間にか道を開けていた葉山のことを、海老名はつまらなげに見つめると、そのまま振り向きもせずに、背後に向かって小さく言った。

 

「――戸部くん。よかったら、隼人君に色々と教えてあげてくれないかな。何も知らないみたいだし。だけど、何も知らずにはいられないことだと思うから」

「……分かった。了解っしょ!」

 

 戸部は何も聞かず、何も言わず、ただ笑顔を作って親指を挙げた。

 

 海老名は、一度だけ彼の方を振り向き、そしてそのまま前を向いて「……ありがとう、とべっち」と呟いた。

 

 そのまま三浦を連れて教室を出ると、真っ直ぐに女子トイレの方へと向かおうとする。

 

 葉山は、廊下に出て彼女達の背中を見遣るが――何も、言えない。

 

 そんな葉山に、海老名は一度だけ振り向き、こう言った。

 

「……あの時、隼人君がいたら――ううん」

 

 何も変わらないよね――そう言って、再び葉山に背中を向けた。

 

 そのまま前を向いたままで、葉山隼人を視界から外したままで呟いた海老名が最後に言った言葉が、葉山の中にずっしりと響いた。

 

 

「だって、アナタは何もしないもんね」

 

 

 海老名が前を向くのに呼応するように、隣の三浦が葉山の方を向いた。

 

 涙を浮かべ、震え、まるで助けを求めるような瞳で。

 

「ゆ――っ!」

 

 葉山は名前を呼び――かける。

 手を伸ばして、足を踏み出して――だけど、そこから動けなかった。

 

 何を言えばいいのか、何をすればいいのか――何も、葉山は分からなかった。

 

 葉山は俯く。

 ゆっくりと目を上げると、もう彼女達は目の届く所にはいなかった。

 

 三浦優美子が、いつまで葉山隼人を見ていたのか――待っていたのか、彼は分からなかった。

 

 その事実が、葉山隼人の心を、鋭い爪で切り裂いたかのように痛めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 だから――葉山隼人は、屋上に来ている。

 

「――――っっ!! 何で――――っっ」

 

 歯を食い縛り、拳を握り締め――壁を殴りつける。

 

 痛い――だが、血は流れず、心も晴れなかった。

 

 だから葉山隼人は、晴れ渡った空に向かって叫ぶ為に、屋上へとやってきたのだ。

 

「――何でっ! 何でだよっ!!」

 

 空は当然、何も答えない。

 

 葉山は血の代わりに涙を流しながら、戸部翔から聞かされた――己のいない空白の半年間への激情を吐き出した。

 

 

 

 半年前の――総武高校大量虐殺事件。

 

 半年間の、総武高校の、歪んだ、まちがった日常。

 

 そして、昨日の、池袋大虐殺――それに伴った、悲劇。

 

「何でだ……っっ。……どうして……何で……どうして…………ッッ」

 

 

 戸部翔は、こう語った――半年前の、総武高校大量虐殺事件を。

 

『……正直、さ。今でも偶に夢に見るんだわ。……あの日のこと』

 

 その凄惨な事件において、戸部は左手の指を砕かれた。

 サポーターを装着した左手を見つめながら、彼は力無い笑みをもって語った。

 

『俺は、大岡が何を思ってあんなことをしたのかは、今でも分かんねー。話を聞こうにも……大岡も、もう死んじまったし』

 

 加害者とされる大岡は、事件後に遺体で発見された。

 だが、J組で虐殺を働いた筈の大岡は、なぜか体育倉庫で物言わぬ死体となっていて、生徒間では一時期その矛盾について様々な憶測が飛び交ったが、やがてそれは七十五日と持たずに風化した。

 

『……正直、半年経った今でも、大岡の名前はタブー扱いなんだわ。たぶん、俺らが卒業するまでずっと。……アイツのことを今でも怖がってる奴らもいるし、J組に彼女とかいた奴はすっげぇ憎んでる。……けどさ、俺は何でか憎めないんだ。こんな手にされたのに……でも――』

 

 あの日のアイツ、おかしかったからさ――戸部は、どこかを見つめるような目で、左手を見つめながら言った。

 

『いや、それに気づいたのは、正直殴られる寸前で、それまでは俺も馬鹿みたいにはしゃいでたんだけど――今、思い返してみても……あんな目をする奴じゃなかったなーって。……まぁ、そうなるまで気づけなかったんだから……ほんと、うっすい友情だったんだけどさー』

 

 その時の戸部もまた、葉山の知らない表情をしていた。

 だけど、この表情は――きっと、葉山の知っている、知ることの出来た筈の戸部翔なのだと感じた。

 

 戸部は『……あぁ、わりぃ。で、結衣の話だっけ』と、葉山がよく知る笑顔で笑う。でも、それも見たこともない――見たくない、笑顔だった。

 

『さっきも言った通り、俺は開幕早々に退場くらったからさ。ひたすらいてーいてーつって救急車で運ばれたもんで……詳しいことは、あんま知らねー』

 

 だから、これは後から聞いた話なんだけど――と、戸部は、笑顔を消した顔で、少しの間、口を閉じて逡巡し、努めて感情の篭らない声で言った。

 

『――結衣は、そこで消えないくらいの大怪我を負ったらしい』

 

 雪ノ下さんを庇って。

 

 葉山は、再び、もう一度勢いよく壁を殴った。

 

 

「…………………何でっッ!!」

 

 浮かび上がるようだった。

 

 豹変した大岡。

 そして、その時に目撃されたという――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今では、総武高内でも世間的にも、極限状態の非日常で見た幻覚のような扱いになっているらしいが――葉山隼人には分かる。

 

 あの部屋を知っている、あの黒い球体を知っている――あの戦争を知っている、葉山隼人には。

 星人――そんな化物を知っている、葉山隼人には、分かってしまう。

 

 半年前、この高校で起こった悲劇が、どんな地獄だったのか――そして。

 

 その地獄の中で、あの男が、どんな思いで戦っていたのか。

 

 結果――大岡を、2年J組を、駆けつけた大勢の警察官を犠牲にしたことに。

 

 由比ヶ浜結衣を、雪ノ下雪乃を守れなかったことに。

 

 どれほど絶望し、どれほど絶叫したか――その光景が、浮かび上がるかのようだった。

 

 

『そっからの半年間は……なんていうか……みんな日常ってやつを取り戻そうと必死だった……ってかんじかなー』

 

 くだらねぇことで笑って、無言の間を無くして――空気を読んで、空気を作る。

 

 じゃないと、息が詰まって、苦しかったと。

 

『なんでか分かんないけど、優美子とも海老名さんとも話しづらくてさ。っていうか、気軽に話し掛けられるような感じじゃないっていうか……まぁよく分かんねぇんだけど。だから、俺は遠くから見てたんだけなんだが――』

 

 歪だった――と、戸部は言った。

 

 とにかく、そこだけ――まるで、別の世界だったようだと。

 

『雪ノ下さんは、誰が見ても分かるくらいに壊れてて。みんな近づこうとしなかった。だけど、結衣だけはいつも通り――ていうか前みたいに近づいてって……そんなとき、いつも優美子と海老名さんは……睨め付けてた』

『……睨め付けてた? 雪ノ下さんを?』

 

 戸部は違うと言った。

 

 雪ノ下雪乃ではなく、その隣にいた人物だと。

 

 何かが変わってしまった総武高の中で、殊更に変質した、異世界のような特異点。

 

 周囲に恐怖と異質を振り撒き、日常を取り戻そうとする世界を地獄のような瞳で睨眼し続けた――。

 

 

『――誰、だっけ?』

 

 

 ガンッ――葉山は再び、殴りつけた。

 

 ここにはいない誰かを。ここから逃げ出した誰かを。

 

 

「――――なん――で――っっ」

 

 

『昨日の池袋の事件さ……あれに巻き込まれたらしい……結衣が』

「なんで――」

 

 

『優美子さ……朝来た時から、泣いてたんだ。結衣から連絡もらったみたいで』

「――なんで――なんで――」

 

 

『海老名さんも言ってたよ。……なんで、って』

「なんでッ! どうしてッ!!」

 

 

『どうして――結衣ばっかりが――』

 

 どうして――彼ばかりが。

 

 どうして――お前は。

 

 

 

「どうしていつも!!! こんなやり方しか出来ないんだッッッ!!!」

 

 

 

 葉山隼人は――殴った。

 

 ただの壁を、全力で殴って、吠えた。

 

 つう――と、赤い何かが、涙のように流れる。

 

 分かっている。分かっている。葉山隼人には、分かってしまう。

 

 アイツが、由比ヶ浜結衣に、そして雪ノ下雪乃に、どのような思いを抱いていたのか。

 アイツが、由比ヶ浜結衣と、そして雪ノ下雪乃を、どのような思いで――解放したのか。

 

 そう――解放。

 アイツはきっとそんなことを思って、こんな馬鹿なことをしたのだ。

 彼女達をこれ以上傷つけない為に。彼女達をこれ以上苦しめない為に。

 

 合理的だと思って。最善策だと図って。アイツは彼女達の前から、そしてこの学校から消えたのだ。

 

 その結果、どんな光景がこの学校に広がっているのか、考えもしないで逃げ出した。

 

 

「――ッッ!!! 比企谷ぁぁぁあああああああああああ!!!!!」

 

 

 葉山隼人は、恐らくは二度と、この場所に戻らないであろう男の名を叫ぶ。

 

 澄み切った青空の、何処かにすらいるかも分からない男に向かって叫ぶ。

 

 比企谷八幡は死んでいない。だが、記憶操作はされている。

 その答えを葉山隼人は知らない。しかし、これがあの男の意図したものなのだと理解していた。

 

(アイツは、“これ”を俺に託した。いや、押し付けた。……自分がもう二度と戻るつもりはない場所を……その為に、アイツは俺を生き返らせた)

 

 葉山隼人は空を見上げる。

 

 変わってしまった世界。知らない世界。歪な世界。

 

 こんな世界で、あの男は、これまでどんな風に生きて――戦い続けていたのだろうか。

 

「俺はお前が嫌いだ」

 

 誰かに向かって呟く。

 

 そして、心の中で言う――俺は、比企谷八幡のようには、ならないと。

 

「だからお前の言う通りにはしない」

 

 アイツの思う通りには動かない――アイツの期待にだけは、絶対に応えない。

 

「俺は、お前に――負けたくない」

 

 葉山はそのまま、空に向かって背を向ける。

 

 そして彼は、誰かに挑むように、何かと戦う決意を固めたように――血を垂らす拳を握り、校舎の中へと戻っていった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、この場所にも――放課後は訪れる。

 

 総武高校。

 千葉県某所の海風が強い場所に位置するこの高校は、県内でも有数の進学校ではあるものの、それなりの部活動がそれなりに活動している。

 

 こうして夕暮れの時間になろうとも、未だグラウンドからは幾つかの運動部の掛け声が聞こえてくる。

 

 葉山隼人は、そんな光景を制服姿で複雑に見詰めていた。

 

「…………」

 

 既に新体制となり、三年生最後の大会へ向けてラストスパートを掛けている頃だろう。

 

 サッカー部も例外ではなく、一際大きく戸部翔の声が練習が始まってから今まで途絶えることなく響き続けていた。

 

 葉山の名前も、一応まだ残っているらしい――キャプテンとして。

 だが、ここ半年間、およそキャプテンらしい仕事は戸部が代わりに行っていたと、他の三年部員からは聞いていた。

 

 今から混ざりこんでも、戸部は笑って受け入れてくれるだろう。半年間のブランクがあれど、体は半年前のままなのだから鈍ってもいない。本人的にはタイムラグもないのだから、すぐにあそこに混ざっても、以前通りのエースの働きも出来るだろう。

 

 だが、葉山は――曲がりなりにも、それなりに真剣にサッカーという競技に高校生活を捧げてきたという自負のある自分は、それをよしとすることが出来なかった。

 それに――。

 

(――俺は…………またいつ、消えるかも分からない身の上だしな)

 

 文字通りの意味で。残酷なまでに、字義通りの意味合いで。

 

 消失と隣り合わせの再生。

 黒球に握られた命運。

 

 そんな状態で、まさか爽やかにスポーツで青春する資格など、ある筈もなかった。

 

(…………頑張れよ、戸部)

 

 葉山は、案の定グラウンドにいない一色を、グラウンドの奥のテニスコートで異常なまでにストイックにボールを追いかける戸塚を確認した後、そのままようやく帰宅を始める。

 

 このまま帰っていいのか。何か出来ることはないのか。やり残したことは。

 そう考える葉山だが、この状況を打開する方角すら見えない。

 

 一色、平塚。

 この辺りの面々はまだ校内にいるだろうが、彼女等から聞き出せることはもうそう多くないだろう。

 

 ならば、もっと比企谷八幡に近い人間は。

 川崎、材木座は余りにも自分と接点がない。その上、共に既に帰宅しているだろう。川崎に至っては今日登校すらしていなかった。

 

 三浦や海老名と共に由比ヶ浜の見舞いに――いや、三浦はともかく海老名には何故か自分は警戒されている。それに、十中八九、由比ヶ浜と一緒にいるであろう雪ノ下雪乃に、自分はどんな顔をすればいいのだろうか。

 

 雪ノ下陽乃――日常と戦場、両方の八幡を知っていて、今、最も八幡に近いであろう彼女と接触すれば、おのずと八幡本人にも近付けるだろう、が。

 

(……あの人が、俺をアイツに近づけるとは思えない)

 

 この状況が八幡の思惑である以上、あの人が八幡よりも葉山に利するとは、まったく思えない。

 

 あの人が――俺を許してくれているとは、思えない。

 

 なら――もう。

 

(――待つ……しか、ないのか?)

 

 葉山は己の首筋を(さす)る。

 後はもう、待つしかないのか?

 

 この状況が、比企谷八幡の消失が、黒い球体(ガンツ)による記憶操作によるものであることは明らかだ。

 陽乃も、そして八幡も、あの部屋に囚われた黒い球体(ガンツ)戦士(キャラクター)であることは揺るがない。

 

 そして黒い球体の傀儡である限り、何処に居ようとも、どれだけ逃げようとも、あの部屋に招集されることになる。

 あの男と会うには、話し、ぶつけるには――それしかない、のか?

 

 ならば――待つしかないのか? 待ち望むしかないのか?

 黒い球体(ガンツ)の招集を。黒い球体の部屋への招待を。

 

 あの戦争が、再び起こるのを――まさか……期待して、待てと。

 

「…………なんだ、それは……ッ」

 

 葉山は思わず下校の足を止めて立ち止まる。

 受験勉強でもしていたのだろうか、未だちらほらといる周りを歩く総武生に追い抜かれながらも、葉山は顔を上げることが出来なかった。

 

 そんな葉山を――突風が襲った。

 

「――っ!? な、なん――!?」

 

 だが、その風は、葉山だけが感じていた。

 

 周りを歩く少年少女は、突然に妙な挙動を見せている葉山を一瞥するものの、直に目を逸らして下校を再開させる。

 

 葉山はそんな彼等を困惑した目で見ながら――それ以上に信じられないものを見る目で、それを見る。腕で庇いながら凝視する。

 

 

 ゆっくりと着陸してくる、ロケットエンジンを装備したジャイアントパンダを。

 

 

(……パン……ダ?)

 

 パンダが空から飛来してくる。

 

 そんな超常的な光景を目の前にし、混乱の極致に陥る葉山だが、すぐに強制的に理解させられた。

 どんなに信じられない光景でも、それを目にすれば、直に現実だと思い知らされる。

 

 逃げようがない程に――パンダが着用している漆黒のスーツは、葉山にとって見覚えがありすぎるものだった。

 

(……今度は、何なんだ……ガンツ――ッ!)

 

 葉山が歯を食いしばりながら臨戦態勢を整えるのと、パンダの着陸が完了し、ロケットエンジンを消失させるのはほぼ同時だった。

 

 そして、この世界で最も派手に千葉に来訪したパンダを同校生が一切注目することなく――むしろ見えない何かを警戒する葉山を訝し気な目で見詰めているくらいだ――通り過ぎる中、ただ一人、葉山隼人はそのパンダから目を離さない。

 

「……何の用だ? 俺が死んでいる間に、パンダが迎えに来るシステムにでも変わったのか?」

 

 葉山隼人には珍しい、刺々しい皮肉めいた物言いに対し――パンダは。

 

「――葉山隼人。今夜は空いているか?」

 

 渋い声で、まるでデートの誘いのような口説き文句を告げる。

 

 

「俺と一緒に、首相官邸に行かないか?」

 

 




葉山隼人は、蒼穹に向かって絶叫しながら、この世で最も嫌いな男に対して叛逆を誓う。

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