比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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……本当、私って歪んでるなぁ。


Side陽乃――②

 

 

 初めて“雪”を見た日のことを、陽乃は今でも鮮明に覚えている。

 

 

 それは、確か母の実家へと帰省した日のことだ。

 

 母は自分のことを語りたがらない。

 千葉の出身ではないことは知っているが、そこは果たして何県だったのか――何しろ、母の地元へと帰省したのは、それが最初で最後のことだった。

 

 確か、まだ雪乃は生まれたばかりで、自分もまだ二才だった。

 人の記憶が鮮明に残り出すのは二才から三才頃と言われているので、むしろ、この雪の記憶こそが、雪ノ下陽乃の原初の記憶といえるのかもしれない。

 

 その息を吞む程に美しかった雪景色こそが、雪ノ下陽乃の原風景なのかもしれない。

 

 覚えている。

 父が運転する車の後部座席で眠っていた自分は、起きたらそこは一面の雪景色で、まるで世界が変わったような、見知らぬ異世界に迷い込んだかのような、そんな衝撃と感動を覚えたことを、陽乃はよく覚えている。

 

 覚えている。

 木造平屋の見たこともない家に住んでいた、綺麗な白い着物の女性が迎えてくれたこと。

 雪乃を抱いた母と父が、その女性と何やら話し始めたことを尻目に、初めて見る世界を探検すべく、何かに惹かれるように、自分は白い世界へと飛び込んでいったことを、陽乃ははっきりと覚えている。

 

 覚えている。

 

 今もはっきりと、まるで細胞に刻み込まれているかのように覚えている。

 

 初めて見た白色を。

 初めて聞いた雪踏音を。

 初めて触った、何かを奪うような冷たさを。

 

 その風景の全てを――雪ノ下陽乃は覚えている。

 

 そこは全てが白で、全てが冷たく、全てが恐ろしく。

 

 そして、この世のどんな場所よりも、その雪の世界は――何よりも、美しかった。

 

 

――どう? 綺麗でしょう? 人間達で溢れ返る“外”の世界より、ずっとずっと美しいでしょう?

 

 

 声を掛けられた気がする。

 両親から離れ、どこまでも白い世界で呆然と佇んでいた自分に、その人は声を掛けてくれた気がする。

 

 白い着物の女性だった。

 白い着物に、白い肌、黒い髪の、ぞっとする程に――美しい女性。

 

 両親と話していた人よりは幼い容姿の、見たこともない誰かは、陽乃の傍に立ちながらも、その目はどこまでも広がる雪原へと向いていた。

 

 

――ここの雪は、全てを覆い隠してくれるの。ここの白は、全てを塗り潰してくれるの。汚さも、傷も。痛みも、穢れも。全部、全部ね。

 

 

 白く、美しい女性は、脆く、儚い目をしていた。

 

 陽乃は後に、この美しい白い世界を作り出している雪とは、美しく儚い結晶なのだと知った。

 

 その時、陽乃は思った。

 

 この時、この美しい女性が浮かべていた笑みは――まるで雪のようなそれだったと。

 

 美しく、冷たく――脆く、儚い。

 

 

――この場所は好き。この雪を見ていると、私も綺麗になった気がするから。穢れた私でも、嫌われた私でも、まだ美しいと、言ってもらえるような気にさせてくれるから。

 

 

 だから、私は――大嫌い。

 

 

 幼い陽乃には、その女性の言葉の意味は何一つ分からなかった。

 

 それでも、何故か、その雪と、その世界と共に、彼女の言葉の全てを一つ一つ記憶している。まるで、刻み込まれたかのように。

 

 彼女の雪のような笑顔と、雪のような美しさと共に――覚えている。

 

 

 不思議ね――と、雪のような女性は言った。

 

 

――こんなにも白い世界なのに、ここは、外の世界と違って寒くない。凍えもしない。……だけど、ここには、何もないわ。

 

 

 ここには温かい――“黒”が、ないの。

 

 

 そう呟いた彼女は、この時、初めて、小さな陽乃に向かって目を合わせて微笑んだ。

 

 

――あなた、お名前は?

 

 

 陽乃! ――と、二人の背後から、娘の名前を呼ぶ両親の声が届いた。

 

 雪のように白い女性は、そんな陽乃の両親の方を一度向いて、再び陽乃に向かって微笑みかける。

 

 

――あたたかそうな、いい名前ね。

 

 

 そう言って、陽乃の頭を撫でる。

 その美しい手は、まるで――雪のように冷たかった。

 

 

――その名前に負けないくらい……誰にも、何にも……世界にだって負けないくらい、強くなりなさい。ハルノ。

 

 

 そうすればきっと、誰よりもあなたは、幸せになれるわ。

 

 

 雪のように、美しく、儚い――脆く、切ない笑みと共に――白い女性は、そう言って。

 

「―――!」

 

 その時、白い世界に、温かい一筋の光が差し込んだ。

 

 陽乃は眩しそうに目を瞑り――目を開けると。

 

 白い女性は、まるで雪が溶けたかのように、辺り一面の雪景色に溶け込んだかのように、雪の下へと消えていったかのように、どこにもいなくなっていた。

 

 その後、両親に勝手にいなくなったことをしこたま怒られたような気もするが、そっちの方は陽乃はよく覚えていたかった。

 

 ただ、まるで何かを探すように、より深くどこまでも刻み込むかのように、全てを覆い隠す雪景色を、全てを塗り潰す白い世界を、父親に手を引かれながらも、眺め続けていたことは覚えている。

 

 

 

 そして、気が付くと、陽乃は車の後部座席に居て、窓の外には見慣れた千葉の街が広がっていた。

 

 それ以降、現在に至るまで、雪ノ下家は母の――雪ノ下陽光(ひかり)の実家を訪れたことはない。

 何度かそれとなく陽乃は帰らないのかと打診をしてみたが、それが実現したことはなく、ならばと陽乃は単独で訪れようかとも思ったが、しかし、公式上の記録では、雪ノ下陽光は()()()()()()()で、()()()()()()()であった。

 父である雪ノ下豪雪(ごうせつ)こそが婿養子であるが、豪雪の方も千葉生まれの千葉育ちであり、雪国の出身という記録は何処にもなかった。

 

 両親も口を揃えて言うのだ。母の実家というのならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 そうはっきりと言われた時には、何せ二才の時の記憶である、雪ノ下陽乃といえど自らの記憶を疑い、小さな子供にありがちな人聞きの話をまるで自分の思い出のように刷り込んでしまっただけなのかと思おうともしたが――それでも、未だ、はっきりと覚えているのだ。

 

 あの、何もかもを覆い隠すような雪を、何もかもを塗り潰すような白を。

 

 あの、雪のように美しく、冷たく、脆く、儚い笑みを浮かべる白い女性を。

 

 だからだろうか。

 

 雪ノ下陽乃が、雪ノ下雪乃を何よりも愛するようになったのは。

 

 この美しく、冷たく、脆く、儚い――妹を。

 

 まるで雪の結晶のような、雪ノ下雪乃という存在を。

 

 

 自らの腕の中で、微笑む妹を見て――陽乃は。

 

 己の中に刻み込まれた、あの白い女性の笑顔を。

 

 雪のような笑みを、はっきりと覚えているその笑みを、今、再び、はっきりと思い出していた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 壊れた妹と再会し、そんな妹に殺意を抱いた邂逅から――数時間後。

 

 雪ノ下陽乃は雪ノ下雪乃を連れて、昨夜の戦場――東京都豊島区、池袋へと凱旋していた。

 

「……もうすぐね、姉さん」

「……ええ。着いたら起こしてあげるから。無理せずに寝ちゃいなさい」

 

 そう言って陽乃は、己にしがみ付く雪乃の髪を撫でながら、後部座席の窓から見える東京の景色に目を細める。

 

 流石に昨日の今日で、池袋駅は機能を復活させていない。

 なので、陽乃は適当にタクシーを借りて、駅周辺の戦場跡ではなく、とある病院まで車で向かっていた。

 

 目的地は――来良総合医科大学病院。

 

 この病院に――彼女は。

 

 由比ヶ浜結衣は、昨夜の地獄のような戦場から搬送されていた。

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜結衣に会いに行く。

 

 雪ノ下雪乃の惨状を見て、雪ノ下陽乃はそう決断した。

 

 これほどまでに壊れ切ってしまった妹を救えるのは――【彼】と――【彼女】しかいないと、そう分かり切っていたから。

 そして【彼】と会わせることは出来ない以上、残る選択肢は、残る救いの手は――由比ヶ浜結衣しか、有り得ない。

 

 けれど、陽乃は由比ヶ浜とそこまで深い親交はない。というよりも殆どない。

 したがって、由比ヶ浜との連絡は雪乃の携帯を使うしかなかった。

 

 が、目覚めてから何度となく掛けたであろう履歴が証明するかのように、由比ヶ浜とは連絡がつかなかった。

 そのことに陽乃は疑問を覚えることはなく、むしろ納得のようなものを覚える。

 

 続いて陽乃は、昨夜に八幡から教えてもらっていた、とあるジャイアントパンダへのメールアドレスにメールを送った。

 昨夜の池袋大虐殺――その被害者の中から、由比ヶ浜結衣という少女の行方を捜して欲しい、と。

 

 その結果は、数分後には陽乃の携帯に届いた。

 

 内容は――陽乃の想像通りだった。

 

(………本当に、神様は八幡のことが嫌いなんだね)

 

 陽乃が手の中に握るのは、画面に罅が入った雪乃の携帯電話。

 かろうじてタッチ機能が生きているディスプレイには、まるで顔面を引き裂くような構図で、とある男子生徒の写真が待ち受け画像にされていた。

 

「………………」

 

 画像のみでは記憶を蘇らせることは出来ないのか、それとも人相に罅が入っていたことが原因なのか――ただ確かなのは、この画像情報では雪乃の【彼】の記憶に対する防護(プロテクト)を破壊することは出来なかったということ。

 

 機械越しの、嫌っていた筈の姉の音声ですら防護(プロテクト)を破壊して見せる程に、支えを求めていた雪乃。

 それでも、最も欲しかった筈の支えを、取り戻すことが出来なかった――儚き、妹。

 

 陽乃は、まるで気絶するように眠る雪乃の髪を撫でながら――()()()()()()()()()

 

「……………」

 

 ずっと、思っていた。

 この子は、まるで雪の結晶のような女の子だと。

 

 あの原初の記憶の中の白い女性が、どうしても重なった。

 白く、美しく――脆く、儚い。

 

 それはまるで芸術品のように綺麗で、だけど、人肌ほどの温もりに触れただけで、それは儚く溶けてしまう。

 

 誰も寄せ付けず、何にも縋らず――それでも、たった一粒では何も出来なくて、寄り合わなければ積もることも出来ない。

 

 温かくないと、原初の風景に佇む、白い女性が言っていた。

 誰かに触れると消えてしまいそうな程に儚いのに、傷つきやすく脆いのに――それでも、縋るように遠くを見てしまう。

 

 その姿に、きっと陽乃は――。

 

 そんな美しい姿に、雪を溶かしてしまう名前を持つ自分は――だからこそ、きっと。

 

「…………………」

 

 感情が読み取れない表情のまま、陽乃は雪乃の携帯を置くと、続いて自分の携帯を取り出す。

 パンダから届いたメール——パンダの絵文字がふんだんに盛り込まれたそのメール、その内容は、予想通りだった。

 

 由比ヶ浜結衣という少女は、昨夜の池袋大虐殺に巻き込まれ、来良総合医科大学病院に入院しているというものだった。

 

 

――……由比ヶ浜。

 

 

 昨夜、黒い球体を撫でながら、全てを消去することを決断した、愛する男の漏らした呟きが蘇る。

 

 彼は――きっとこれを知っていた。だからこそ――雪乃のように、【彼女】も解放することを決めたのだ。

 

 彼の目を、彼の声を、彼の手を、彼の痛みを、彼の表情を、彼の、気持ちを——彼の、あの時の彼の、その全てを詳細に思い出して。

 

「………………ッ」

 

 陽乃は、静かに唇を噛み締める。

 

 その胸に渦巻く感情の種類は、きっと言葉に出来なくて、口にしたくもない色だった。

 

 ああ、本当に。

 

 この世界は――寒く、凍えそうに冷たい。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 千葉を出立してから数時間――陽乃と雪乃を乗せたタクシーは、来良総合医科大学病院に到着した。

 

 マンションを出たのが午前中の早い時間であった為、まだ面会時間には余裕があるだろう――そう思っていた陽乃だったが、病院の入口前を見て、その考えは少し甘かったかもしれないと思い始めていた。

 

 病院の前は、負傷した被害者や、その家族で溢れ返っている。

 あの地獄のような惨状を生み出した戦争から、まだ一日も経っていない――その傷はおろか混乱すらも収まっている筈もなく、治療どころか見舞いに、それも家族でもない者がやってきたと言っても、果たして通してくれるかどうか不明だった。

 

(……それに、厄介なのもうろついているしね)

 

 我先にと押しかけている負傷者や患者の家族の中に紛れて、別種の人間が混在していることに、陽乃は気付いていた。

 

 悲愴でもなく、恐慌でもなく――好奇に目の色を変えている人間共。

 カメラやICレコーダーなどをぶら下げている者は分かり易い。そうでなくても、手帳や帽子、ゲームをするふりをして撮影モードを起動しているであろう携帯端末を持って――取材という名の狩猟をしにきた、喉を鳴らして色を変えた目を光らせている獣共。

 

(……本当に、こういう時は異常にフットワークが軽いなぁ。人の不幸が蜜どころかマックスコーヒーよりも甘いんだろうね――マスコミって)

 

 知る権利を絶対の盾と矛として、どんな時だろうと、どんな場所にだって、記録機器と共に国家権力よりも素早くやってくる——現代の怪物。

 マスメディア――当然と言えば当然の登場に、陽乃は大きく溜息を吐く。

 

 昨日の最後の戦場――桐ケ谷和人と牛人の邪鬼との戦場であった池袋東口前にて、自分と和人を映していたテレビカメラの存在に、雪ノ下陽乃は当然として気付いていた。

 地元の有力者であり政治家でもある男の後継者最有力候補たる長女として、公の場に付き添う経験も豊富だった陽乃は、情報を食糧とする獣の気配に自然と敏感になっている。

 

 だからこそ、ここまでの移動中、陽乃はサングラスを一度たりとも外していない。

 幸いなことに陽乃はそんな自意識過剰な行動をとっていてもなんら不自然のないオーラを身に着けていたし、その格好が実に様になっていた。タクシーの運転手も、陽乃のこのような振る舞いに違和感を覚えている様子もない。むしろ、そんな陽乃にぴったりと引っ付いている、部屋着姿のままの雪乃の方に意識を向けているようだった。それはそれで陽乃にとっては不愉快なのだが。

 

 そんな感情が思わず出てしまったのか、病院正面入口から少し距離を置いた場所で、思った以上に威圧感のある声色で「ここでいいです」と、運転手へ言ってしまう。

 運転手は「は、はい」と声を上ずらせながら会計を済ませた。

 

 その間、陽乃は頭の中で考えを纏める。

 

 ここまで来る間に、陽乃は自身のスマートフォンで手に入る限りの情報を集めていた。

 テレビやネットニュースを始めとし、ツイッター等のSNS、果ては信憑性が極めて怪しい掲示板まで、時間の許す限り、電子の海を潜り廻った――結果。

 

(……桐ケ谷くんが、まさかSAO事件の英雄だったなんてねぇ。でも、そのお陰か彼の方にだいぶ注目は集まっている。……でも、ここまでばっちり顔が映っちゃうと、警察なんかはもう私を特定しているかもね)

 

 それに、テレビカメラが捉えたのは自分と和人だけだが――他の黒い球体の部屋のメンバー達の存在も、いつまでも安全とは限らないだろう。

 

 自分達が今から会いに行こうとしている少女のように、あの凄惨極まりない地獄を、『池袋大虐殺』を生き延びた一般人達は――殺された人数とどちらが多いかは定かではないが――それなりの数として存在している筈だ。生存している筈だ。

 そんな彼等のスマートフォンの中に、命懸けの野次馬根性で撮影された写真が存在している可能性は、そして、その中に他のガンツメンバーが映っている危険性は、決してゼロではない筈だ。

 

 あれほどまでにはっきりとテレビ映像として流れているのだ。ガンツが今更、個人レベルの携帯端末のメモリーにまで気を回してくれるとは思えない。

 

(……さて、そうなると、これもそろそろ処分しなきゃね)

 

 陽乃は自分の携帯端末を()()()()()()()、雪乃を連れて車外に出る。

 まだ知らない人間が大勢いるところは怖いのか、雪乃は少し怯えたような目をしていたが、陽乃はそっと微笑みながら手を差し出して――もう片方の手で排水溝に元携帯の残骸を捨てながら――彼女を優しくエスコートした。

 

 そして、再び正面入口前の報道陣を見遣る。

 何はともあれ眼前に迫った問題としては、確実に顔が割れているであろう自分が、恐らくは確実に昨夜の『池袋大虐殺』の情報を求めて群がっているであろう報道陣の中を突破し、病院の中に入らなくてはならないということだ。

 

(私一人なら簡単なんだけどね)

 

 なにせ今の自分はお手軽に透明人間になれるスーツを着ているのだ。

 その上、身体能力も大幅上昇のおまけ付きなので、いっそのこと屋上まで壁伝いにジャンプして、そこから階段を下って病室を目指すなんてことも可能――だが、それでは何の意味もない。

 

 何故なら、ここに来た目的は、雪乃を【彼女】に会わせることなのだから。

 自分の役目は、怯えてしがみ付いてくるこのか弱き少女を、【彼女】の元まで送り届けることなのだから。

 

 このか弱く、弱弱しく、弱り切っている少女を――と、そこまで考えて。

 

 雪ノ下陽乃は、軽蔑しきったかのような冷たい眼差しを――己に向けた。

 

(……本当、私って歪んでるなぁ)

 

 今更か――と、無言で吐き捨てて、陽乃はまっすぐに正面入口に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 結果として――雪ノ下姉妹は問題なく報道陣の群れを突破し、来良総合医科大学病院に足を踏み入れることに成功した。

 

 元々、診療時間中の病院なので、その入り口をあからさまに封鎖することなどメディアには出来ない。

 そして、その上で、ここは病院だった。

 

 見知らぬ他人が群がる中、【彼】を失った影響で未だかなり不安定な状態である雪乃は、顔を青くし、妙な汗も流しながら、必死に陽乃にしがみ付きながら歩く。

 そんな状態の姉妹に、もちろんかなりの注目は集まったが、それはあくまで病弱な妹を支える姉――只の美人姉妹という意味合いでだった。よって、マイクを向けられることもなく、そのまま真ん中を通り過ぎることが出来た。

 

 もしやどこかの芸能人では――といった色の注目も熱かったが、それはそれで陽乃にとっては好都合だった。

 昨夜の黒いスーツを着ていた美女――という方向性とは別方向のベクトルで注目されれば、下手にコソコソと隠れて忍び込もうとするよりも却って看破されにくいものだ。

 

 それが、陽乃が生を受けて二十年以上かけて磨き抜いてきた――大人の目を欺く技術だった。

 勿論、後々になって、もしかしたらさっきのあの美人は――と思い至る人もいるだろうということは、陽乃も確信している。

 

(…………長居は無用だね)

 

 そう考えながら、陽乃は忙しなく行き交う看護師の中でも、一際慌てふためいている新人らしき女性に目を付け――笑顔で、雪ノ下陽乃の笑顔で、こう尋ねた。

 

「すいません。昨夜の事件でこちらに運び込まれた、由比ヶ浜結衣さんの友人なのですが――」

 

 病室に案内してもらえませんか――Noと言わせるつもりなど、さらさらなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 エレベーターの、扉が開く。

 扉の前には、びっしりとしたスーツを着用した、一組の男女が立っていた。

 

 公的な職業であることを思わせる、見るからに役人といった男女だった。

 雪乃は彼等を見るとぶるりと身体を震わせて、体を硬直させていたが、そのままグイッと何かに押されるように、彼等の前を通り過ぎるようにエレベーターを出る。

 

 女の方はスウェット姿の雪乃を訝しむように、男の方は、雪乃自身というよりは、何かに押されるように進んでいく雪乃の背中を、訝しむように見ていたようだったが――確信は得られなかったのか、後についてくることも、声を掛けてくることもなく、そのままエレベーターへと乗り込んでいった。

 

 

 そして――扉が閉まった瞬間、人気の無い廊下に火花が散るような音が発生した。

 

 

(……ふう。間一髪だったね。あの女の方はともかく、男の人の方は明らかに只者じゃなかったな)

 

 エレベーターの中にいた自分達以外の人間が途中で全員降りてくれたのは本当に幸いだった。今、この廊下に人がいないのも。

 突如としてスウェットの少女――雪ノ下雪乃の背後に現れた美女は、鋭い眼差しで自身の背後を見遣る。

 

(……何となく嫌な予感がしたってだけだったけど、こういう勘みたいなのも馬鹿に出来ないね。八幡もガンツミッションを重ねる毎に、そういう第六感みたいなのが研ぎ澄まされてく感覚がしたって言ってたし)

 

 ラフな格好の美女――雪ノ下陽乃は、そのまま目線を自分の前で震えながらゆっくりと進む雪乃に戻し、彼女の身体を支えるようにして言う。

 

「雪乃ちゃん。ごめんね。もうこっち向いていいよ」

「……いいの?」

「うん、ありがとう。それじゃあ、いこっか」

 

 咄嗟のことだったので、雪乃には突然、しばらくの間だけ自分の方を向かないでいて欲しいと伝えることしか出来なかったが、この妹はそれに何の疑問も抱かず、不安と恐怖に震えながらも姉の命令を必死に実行した。

 

 そんな歪に他者に依存しきっている妹の姿に、震えるような恐怖に耐えながらもそれ以上に見捨てられることを恐れて命令に忠実に従うこの壊れた有様に、陽乃は何かを噛み締めるような表情を一瞬だけ()ぎらせながらも、柔らかく雪乃を抱き締めた。

 

 腕の中に愛しい妹の温かさを感じながら、陽乃は目的の病室まで向かう。

 

 この儚く歪に壊れた雪乃にとって、今、最も『支え』になってくれるだろう、【彼女】の元へ。

 

 実家である雪ノ下家は信用出来ない。【八幡】はもう、雪乃を手放し、解放してしまった。

 そして、姉である自分は――こんな状態の妹に、あろうことか殺意を向けてしまう始末だ。

 

 情けないことこの上ない。救われないことこの上ない。

 

 だが、雪ノ下雪乃(この子)には――もう、【あの子】しかいない。

 

「……ここだね」

 

 陽乃は、いつの間にか己の腕にしがみ付くような体勢になっていた雪乃の頭を撫でながら言う。

 

 意を決し扉をスライドさせる。すると、入口近くのベッドにいた女子中学生と目が合い、陽乃は会釈し、雪乃は隠れた。

 

 病室は大部屋で、左右二列に三台ずつのベッドの六人部屋のようだった。

 その全てが埋まっていて、全員が女性。

 下は先程の中学生くらいの少女から上は高齢の老人まで、一緒くたに詰め込まれている。おそらくは空いているベッドに手当たり次第といった様子なのだろう。怪我の様相もまちまちだが、一様に身体のどこかに痛々しい処置後があった。

 

 そして、そんな大部屋の、右側の列の、一番奥の、窓際のベッド。

 いつかのように――半年前のように、可愛らしい薄いピンクのパジャマを着て、上半身を起こしている少女がいる。

 

 おそらくは両親だろう一組の男女の背中越しに、来客に気付いた彼女は、いつかのように、そして誰かのように、儚げに、陽乃の印象には無い淑やかな声色で言葉を紡いだ。

 

「――ゆきのん……来てくれたんだ」

 

 由比ヶ浜結衣が、親友の見舞いを、美しく大人びた微笑みと共に静かに歓迎した。

 




壊れきった雪の結晶は、かつてと同じく、窓際のベッドで美しい微笑みを浮かべる親友を見舞う。

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