比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?


Side八幡――①

 何度も――何度も、振り返った。

 

 何度も何度も。何度も何度も何度も――戦争をした。

 

 どうしてこうなったのか。どうしてこうなってしまったのか。

 

 その理由を知りたくて、その原因を知りたくて、その元凶を――知りたくて。

 

 何度も何度も何度も何度も――昨夜の戦争を、振り返っていた。

 

 地獄の池袋を。

 何度も何度も何度も何度も何度も――壊れたように、繰り返す。

 

 眠れないベッドの上で。俺の他には誰もいない我が家で。

 

 俺からまたしても大事なものを奪った――かけがえのない本物を殺した、夜が明けて。

 

 何もかもが変わったくせに、何も変わらないかのように、再び朝が来るまでの間――何度も。

 

 壊れたように――繰り返して。

 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し――突き刺すように、突き付ける。

 

 理由は明確だ。原因は明解だ。元凶は明瞭だ。

 こうなったのは、こうなってしまったのは――全部、全部、全部。

 

 まちがってしまったのは――明確に、明解に、明瞭に。

 

「――――俺は……」

 

 朝が来た。

 新しい朝が来た――ひとりぼっちの、朝が来た。

 希望を奪った夜が明けて、絶望しか残っていない朝が来た。

 

 この家には、もう、俺を起こしてくれる天使はいない。

 

 

 天使がいない世界で――妹を殺した世界で。

 

 比企谷八幡という大罪人は、何食わぬ顔でいつも通りの朝を迎える。

 

 

 きっと――俺は地獄に堕ちるのだろう。

 

 だけど、まだ、死ぬわけにはいかない――幸せになるまで、俺は死ねなくなってしまった。

 

 

 間違えて、間違えて、間違え続けてきた。

 

 何度も何度も何度も。どれだけ振り返ろうとも、どれだけ繰り返そうとも。

 昨夜の戦争は、地獄の池袋の回想は、それを俺に突き付けるばかりで。

 

 殺すべき対象は、憎むべき対象は、何度探しても、何処を探しても、たった一人しか見つからない。

 

 

 今度こそ、間違えたくない。過ちを、まちがいを、赦したくない。

 

 だからこそ――俺は。願わくば――どうか。

 

 

 正しく、幸せに、無様に――死にたい。

 

 

 それがどうしようもなく、矛盾に満ちた、醜悪なる願望なのだと理解しながら――俺は。

 

「……いい加減、起きるか」

 

 逃避していた現実へと戻る覚悟を固め、この世で最も居心地のいい空間だった自室を後にする。

 

 今日もきっと俺は――まちがえたまま、不幸に、無様に生きるのだろう。

 

 それでもいつか、正しく、幸せに、無様に死ぬ為に。

 

 けして正解ではないと分かっているのに、これが今の俺が出せる最適解だと――そう、ふてぶてしく、俺は今日も、呼吸をする。

 

 

 そして俺は――振り返るのを止めた。

 

 

 

+++

 

 

 

『――ご覧ください。……とてもではありませんが、信じられません。……こうして目に捉えている光景が、本当に現実なのか……心からの確信が、持てません』

 

 アナウンサーとしてあるまじき、具体性に欠け、主体性に満ちたコメントを、そしてこちらもアナウンサーとしてあるまじき、カメラに背を向けたままの体勢で、呆然と呟く女性。

 

 彼女は、呆然とした口調で、ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら語った。

 

『……未だ、一般人の立ち入りは解禁されてはいない、封鎖中の池袋から、特別な許可を得て放送しています。……こちら、池袋駅の、東口前……昨夜、何者かに電波ジャックされたことにより、日本の全てのテレビ画面に強制的に映し出され、放送された……目を覆いたくなるような……目を覆わずにはいられないような……虐殺映像――その舞台と、なった場所です。……犠牲者の方々や、怪物の死体などは……警察や自衛隊の方々により、夜明け前までに処理されました。そして、ようやく一般放送局の立ち入りが許されましたが……ご覧ください。未だ拭いきれていない、夥しい量の血痕……破壊された建物、アスファルト……昨夜の凄惨な映像が、合成や捏造ではない、紛れもなく現実に起こった惨劇だということを……はっきりと……突き付けてきます』

 

 女性は、時折言葉を詰まらせながら、瞳に大量の涙を溜めながら、そして、こみ上げてくるのだろう、吐気を堪えながら、逃げずに――この国の一般人達に、ただ事実を伝える為に、あそこに立っている。

 

 ……アナウンサーにあるまじき、とか偉そうなことを思ったが、それは失言だったな。彼女は、紛れもない、正真正銘、プロフェッショナルのアナウンサーだ。

 

 逃げない――それだけでも、尊敬に値する、強い人間だ。

 

 広々としたリビング。

 寒々としたリビング。

 

 いつもならば、温かいコーヒーとパンの香りが立ち込めて、口元をジャムらせたアイツが恥ずかしげもなく兄に下着姿を披露して、俺が溜め息を吐きながらマックスコーヒーもどきを作成して一日の活力を得た後、玄関を出れば憎たらしい笑顔でアイツがチャリの後部座席に乗って――。

 

「――ハッ」

 

 スチール缶を握り潰す音が響く。

 黄色と黒の警戒色の缶が原形を失くす中、俺は誰もいない、俺だけの我が家で失笑する。

 

 ほら、言ってるそばから、また逃げた。

 

 見ろ――見ろよ。

 

 あのアナウンサーを見習って――現実から逃げるな。この期に及んで、目を逸らすな。嫌になるほど振り返って――刻み込んだろう。

 

 まるで自然災害が局所的に起こったかのような、現実離れした破壊痕を映す画面の――右上。

 強調された文字色でテロップされた――『池袋大虐殺』の文字。

 

 それは、昨夜――たった一体の黒い鬼によって引き起こされた、革命の名称。

 

 俺は、そのど真ん中にいた。

 真っ黒なスーツを着て、真っ黒な武器を振るい、真っ黒な殺意を以て戦い――妹を殺した。

 

 妹を――殺したんだ。

 

 ああ、そこだ。まさしくそこだ。

 アナウンサーがテレビカメラに向かって何かを話しながら徘徊し、ちょうど入り込んだ、その路地裏。

 

 俺は、そこで――小町を殺した。

 

 一夜明けても。目が醒めても。世界は変わらず、現実は変わらない。

 

「……………………」

 

 この家には小町はいない。この家には、もう何もない。

 

 帰る場所じゃない。守るべきものもない。

 

 俺は全てを失った。それが、只の逃げようもない現実だ。

 

「………さて、逃げるか」

 

 そう言って俺は立ち上がった。

 

 いつものように、登校するように。

 ゴミを片付け、テレビを消して、戸締りをして、家を出る。

 

 誰もいなくなった家を出る。もう二度と帰らない我が家を出る。

 それは、間違いなく逃亡だった。それは、間違いなく逃避だった。

 

 小町を殺したことからか。両親に合わせる顔がないからか。

 そのどちらでもあるし、そのどちらでもないのだろう。

 

 ただ、一つ確かなのは。

 

 生まれてからずっと我が家だった場所を、最後に見渡した時の、この時の心は、まるで――死んでいるかのように、静かだったということ。

 

「…………じゃあな」

 

 それは、誰に言った言葉なのだろうか。

 

 殺してしまった小町だろうか。忘れられてしまった両親だろうか。

 それとも、二度と帰らないだろう、この家に、だろうか。

 

 いずれにせよ、言葉が足りない。だけど、何故かもう口を開くことが出来ず。

 

 背を向けて、扉を閉めて、心の中で――告げた。

 

 

――ありがとう。

 

 

――ごめんな。

 

 

 そして、俺は、そっと――鍵を掛けた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

『池袋大虐殺』――各種メディアは、昨日の凄惨な池袋でのオニ星人との戦争を、黒金という鬼による革命を、そう名付けて盛大に報じた。

 

 これまでのガンツミッションを、俺達の頭の中に爆弾を埋め込んでまで秘そうとしていたのが嘘のように、朝から全チャンネル、各社新聞が大々的に報じている。

 

 そして、本日の午後六時――かの“組織”とやらが、全世界同時配信で、何やら大々的な会見をやるらしい。

 

「たぶん、そこで星人の存在をお知らせするんだろうね。そして僕達――ガンツの傀儡(おもちゃ)達のことも。カタストロフィのことは、この期に及んで隠そうとするかもだけど。いやぁ、大人っていうのは汚いねぇ」

「政治なんてもんは、いかに巧妙に隠し事をするかみてぇなもんだからな。しかしなんだかなぁ。これまで散々情報の隠蔽に付き合わされていた身としては、なんだかなぁって感じが拭えないな」

 

 今は、ミッション翌日の午前九時。ちなみにばりばりの平日だ。

 

 昨日はなんだかんだで家に転送されたのは夜明け前。そこから散々に現実逃避を試みて――何度も、何度も、刻み込み。

 俺は、最低限の荷物を纏め、携帯を机の中に仕舞い――比企谷家を後にした。

 

 そんなわけで俺は、鞄を片手にラフな私服で、平日の昼間を霧ヶ峰と隣あって歩いている。

 

 霧ヶ峰のファッションは、ラフなチノパンにスニーカー。そしてファスナーを全開にしている――白いパーカー。その中には十字で青いラインが入っている黒地のTシャツ。

 ……そのファッションを見て、正確にはパーカーを見て、“奴”のことが頭を過ったけれど、それは今考えてもしょうがないことだ。いずれ、きっと避けられない問題として直面するのだろうけれどな。

 

 霧ヶ峰がいる理由は、俺が今朝、公衆電話でコイツを呼び出したからだ。

 携帯電話は置いてきたが、最低限、必要な番号と連絡先はメモ帳にメモしてきた。新しい携帯電話――誰も番号を知らない電話を手に入れたら、改めて登録してこのメモは燃やさなくちゃな。公的記録には俺のことが残っている可能性がある以上、携帯のメモリにも番号と名前が残っているかもしれない。……いや、いっそこれを機に携帯を持つことは止めるか。どうせ友達なんていないんだし、何より足がつかない。これから俺等が行く所は、なんか秘密組織っぽいしな。秘密じゃなくなりつつあるけど。

 

 そして、なぜ霧ヶ峰を呼び出したかというと、今朝、会見の連絡と同時にパンダが連絡してきてくれたメール(執拗にパンダの絵文字を使ってきてウザいメールだった)によると、今日の夜に組織から迎えの者が来るというのだが――俺にはそれまでに寄る所が出来たからだ。

 

 今から行く所――たった今から、乗り込む場所。

 その魔境に挑むに当たって、少しでも戦力が欲しかった。今の俺に集められる戦力はコイツだけだからな。

 

 昨日の別れ際、陽乃さんから聞かされた情報――それを、俺はどうしても、一刻も早く、確かめなければならない。

 

「――で? アンタの彼女の家はまだなの?」

「……うっせぇ。俺も初めて行くんだよ」

 

 携帯を置いてきた為、昨日教えてもらった住所をサラサラとメモってきたのだが、よく分からない。……これが今やアプリで何でもできる時代に慣れ切った現代っ子のアナログへの弱さか……。どうせ豪邸だろうから楽勝楽勝、近くまで行けば分かるっしょと高を括っていたのが間違いだった。

 

「……ん? もしかしてアレじゃない?」

「ばっかお前、俺ですら分かんねぇのに、住所すら知らないお前が先に見つけられるわけ――」

 

 ほんまや。あった。見つけた。いや、見つけられた。ちくせう。

 

 中坊が指差したのは、豪邸というよりは、いや豪邸ではあるのだが、どちらかというと洋館という言葉が似合う、それでもやはり周囲の家と比べて一際大きな家だった。いや、大きすぎて、周囲の家と逆に比べられないのだが。

 

 庭が広い。流石はリムジンを持っているような家だ。ダンスパーティとか夜な夜な開いていそうだ。殺人事件とか起こらないよな。

 

――いや、殺人事件は起こったんだ。半年前、ここで、陽乃さんは、一度殺された。

 

 自分の母親に殺された。いや――正確には、母親の姿形をした、謎の星人に殺された。

 

 そして、そんな広大な庭の、洋館の傍に。

 真っ白な傘の下にテーブルが置かれていた。そこには絵画のように、正しく絵になる貴婦人がいる。

 

「――お待ちしておりました、比企谷様」

 

 遠目ながらもそんな彼女を門越しに眺め、目を奪われていると、いつの間にか門の前で立ち尽くしていた俺等の前に執事が現われる。

 

「うお! 執事だ、執事! 初めて見た! テンション上がる~! ふぅ~!」

 

 はしゃいでいる霧ヶ峰を余所に、俺は恭しく頭を下げ続ける彼を見遣る。

 

「……どうも。都築さん」

 

 その男――都築さんは、俺が以前から知る、数少ない雪ノ下家の関係者だった。

 高一の入学式の日に俺を轢いたリムジンの運転手だった人も彼だし、雪ノ下が通院していた時は何度となく車のミラー越しに言葉を交わした。

 

 だが、そんな知った顔の彼であっても、俺は警戒心を解くことは出来ない。

 一応私服は着ているが、その下にはばっちりガンツスーツも着用しているし、手を突っ込んだ鞄の中ではXガンをいつでも取り出せる状態にしてある。

 

 はしゃいでいるように見える(いや、実際にはしゃいでいるが)霧ヶ峰も、俺から離れ、いつでも挟撃出来る位置取りに移動している。勿論、スーツも着用している。

 

 雪ノ下家の人間は、もう誰が、どこまで、化物なのか分からない。

 

 都築さんは、そんな俺の警戒に対し何の反応も示さず――。

 

「奥様と旦那様がお待ちです」

「……みたいですね」

「どうぞ、中へ」

 

 と言って、都築さんはきぃと鉄格子のようなその門をゆっくりと開く。

 

 そして、俺と中坊は、先導する都築さんについていく形で――雪ノ下家へと乗り込んだ。

 

 背後から、檻を閉めるように、扉が閉まる音が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 俺と霧ヶ峰は、都築さんの後を歩く形で、洋館の入り口――ではなく、その横の、建物前に用意された席へと導かれる。

 白い傘の下に白いテーブル、そしてその周りに三つの椅子が用意されている。まるで貴族のお茶会かお洒落な喫茶店のテラス席のような場所だ。

 

 その三つの椅子の内、一つには既に貴婦人が座っていた。

 この洋館の主にも関わらず、身に付けているのは上品な和服。

 だが微塵も違和感がなく、むしろこの洋館も、そしてこのお茶会セットも、全て彼女の為に用意された映画か何かのセットのようだった。

 

 いや、少なくとも、このお茶会の場は、彼女が自分の意思で用意させたものだろう。俺達を――自分の“空気感”で迎え撃つ為に。

 俺達が近づくと、彼女はにこっと上品に微笑んだ――その微笑みは、まさしく人間のそれで。事前に陽乃さんから聞かされているのに、揺らいでしまった。

 

 この人が、この女性が本当に――化けの皮を被った、化物だというのか?

 

 そこまで考えて、それほどまでに慄いて――香ってきた、紅茶の香りに意識を戻される。

 いつかの、あの場所のような、温かい――紅茶の香り。

 

 あいつが淹れたかのような、あいつの好みそうな――“雪ノ下”の、紅茶の香り。

 

「……………………」

 

 俺は、その温かい香りを嗅いで、みるみるうちに頭が冷え切っていくのを感じる。

 

 こいつは……一体、どこまで知っている? 都築さんがいるということは、少なくとも、雪ノ下と俺の関係は――雪ノ下と俺の末路は、知っている筈だ。

 その上で、あえてこの演出を選んだのだとしたら――いい度胸をしている。

 

 望む所だ。

 

「初めまして、()()()()()()()へ。雪ノ下家は貴方を歓迎しますよ、比企谷八幡さん」

 

 正体不明の女傑は、再び強かに微笑みを向ける。

 その姿は、その笑みは――その冷たい、氷のような仮面は、まさしく、雪ノ下陽乃と、雪ノ下雪乃の、母親の面影を感じさせた。

 

「娘達が、大変お世話になったようで」

 

 俺は咄嗟に殴り飛ばさなかった自分を絶賛したい衝動に駆られた。

 

「――いえ。俺は…………何も」

 

 こいつ…………しらじらと。

 

「…………笑顔が引き攣ってるよ、八幡」

 

 ギチッ、と。握り締めた拳が異音を立てる。

 そりゃあ引き攣りもするだろう。むしろ笑顔を作ろうとしているだけ誉めてもらいたいものだ。

 

 …………落ち着け。ここまでは完璧に相手のペースだ。

 これは、いつものように相手を殺せばそれでいい戦争じゃない。ただ殺すだけじゃあ、俺が望む答えは得られない。

 

 けれど――これも紛れもなく戦争だ。やられっぱなしじゃあ、勝つことは出来ない。

 

 冷静に――殺意を、押し殺せ。

 

「ふふっ。いつまでもお客様に立たせたままじゃあ、雪ノ下の面子に関わるわね。比企谷さん、それから霧ヶ峰さんも。どうぞ、お座りになってください。都築、お二人にお茶を」

「かしこまりました、奥様」

 

 雪ノ下夫人に促され、俺と霧ヶ峰は用意された残り二つの席に、夫人と合い向かいになるように座る。これで文字通り、同じテーブルについたわけだ。

 

 これで、戦場は整った。後は、言葉で、嘘とはったりと虚言と隠し事で戦う、政治的なやり取りだ。

 

 政治という――戦争だ。

 

 人間と化物の、真っ黒な腹の探り合いだ。

 

「…………」

 

 相手の目的は分からない――だが、こうして交渉のテーブルに着いたことから、奴等にも何か目的があるのだろう。

 俺達にさせたい何か、俺達から欲しい何かが。それを、この交渉で引き出そうとしている。

 

 そして、俺達が奴等に求めるのは――何よりも情報。幾つもの情報だ。

 奴等の正体。星人組織の全容。本物の雪ノ下夫妻の所在……生死の確認。そして――雪ノ下雪乃の安否。

 

 ……こいつ等だけなら、もしかしたら今日の午後には向かうことになっているパンダ達の、地球を守っているらしい対星人の組織に密告すれば、カタが付くのかもしれない。

 

 だが、“組織”は星人を駆逐することは出来ても――たった一人、組織にとっては無関係の一般人は。

 雪ノ下雪乃については――歯牙にも留めてくれないだろう。

 

 例え万が一、こいつ等の手によって、雪ノ下もその毒牙に掛けられていて……それを治す手段を、戻す手段を、こいつ等しか保有していないとしても。

 あの“組織”とやらは、雪ノ下も纏めて駆逐するだろう。……俺達が、そして俺が、今までそうしてきたように。

 

「……ッ!」

 

 俺はテーブルの下で、自分の両腕を握り締める。

 それは――それだけはダメだ。そんなことになっては、俺が雪ノ下の記憶を消した意味がない。アイツ等の元を去った意味がない。解放した――意味がない。

 

 俺は――もう、アイツを……傷つけたくない。

 

 その為にも、これは負けられない戦争だ。

 いつものように、ただ相手を殺せばいい戦いではない――だが、それでも俺は勝たなくてはならない。

 

 例え、政治が大人の舞台でも、相手があの雪ノ下陽乃の母親であろうと、大魔王であろうと。

 

 勝たなくてはならない――雪ノ下の為に。

 

「――ふふ、比企谷さん。そんなに怖い顔をしなくても大丈夫ですよ。私達に、あなた方との敵対の意思はありませんから」

 

 雪ノ下夫人は口にあてがっていたティーカップを、そっとテーブルに下した。

 その微笑みは、こちらをまるで対等の相手だと思っていない――子供を見る、大人の目だった。

 

 ……嘗められている。いや、これが、紛れもない俺と彼女の実力差なんだろう。力の差に相応しい、余裕の振る舞いなんだろう。

 中身が化物だろうと関係ない。コイツは、あの雪ノ下家の社長夫人という“役”を、あの陽乃さんですらいつ入れ替わったのか分からないと評する程に完璧に演じきっていた――演じることが出来る程に、彼女は“人間”だ。

 

 人間の――それも超ド級の大魔王クラスの、()()()()()()()()()()()()()だ。

 戦闘力がどれほどのものかは分からない。だが、こと人間的な戦争――政治的な戦争においての戦闘力は、場数は、経験値は、俺みたいなガキよりも、遥かに上だ。

 

 正しく、大人と子供のように、歴然だ。

 

「…………」

 

 俺は、そっと紅茶を含む。こんな所で毒などを入れたりしないだろう。

 ここは敵地だ。万が一、俺達を問答無用で排除するというのなら、もっとやりようはいくらでもある。

 

 紅茶に含まれた毒は見抜けなくても、これまでのガンツミッションの経験からか、人の、そして化物の敵意、殺意のようなものはなんとなく分かるようになった。長年のぼっち生活で磨き抜かれた悪意センサーがパワーアップしたんだろうな。便利だが悲しい才能だぜ。

 

 少なくとも、俺達の傍には、隠れている伏兵のようなものはいない。目の前の夫人と、その横に控える都築さんだけだ。

 …………後、()()()()()()()()()()()。黒金程ではないが、もしこれがミッションだったら、おそらくはボスはソイツだろうという個体が。

 

 十中八九、現雪ノ下家当主。陽乃さんと、雪ノ下の父親。

 

 雪ノ下豪雪(ごうせつ)

 目の前の貴婦人、雪ノ下陽光(ひかり)の夫にして、恐らくはコイツ等、何とか星人のトップだろう。

 

 ……ごくり、と。

 あの空間で飲んだ味を思い起こさせる、けれど明確にどこか違う温かい紅茶を嚥下し、脳を冷やす。

 

 そして、思考を纏める。

 ……そういえば、どうして雪ノ下父は出てこない。陽乃さんが言っていたように、外交は雪ノ下母の役割なのだろうが……それでも、これも陽乃さんの話によれば、豪雪はその場にいるだけで空気を掌握できるような威圧感の持ち主らしい。交渉事において、何も喋らなくてもそんな存在が傍らに立っているだけで、十分にカードになると思うが……。少なくとも俺はビビるかもしれない。

 

 それをしないのは――逆に、威圧感を与えないためか? こちらを警戒させないため? あれだけ煽っておいて?

 

 ……考えているだけでは埒が明かない。

 切り出してみるか。

 

「……そうですか。でしたら、ご主人はどちらに? そういうことは、やはりトップの人間から――失礼。トップの“化物”の口から、直接聞かせてもらえないと、信用出来ませんね」

 

 俺の言葉に、ピクリと都築さんが反応する。霧ヶ峰は「うわぁ……」と呻いているが、声色から楽しんでるのがバレバレだぞ。

 

 この言葉は――まぁ今更だが、俺達はお前等の()()を知っていると、暗黙の了解だったその前提を明確に言葉にし、その上で、俺はお前達に――化物に対し、歩み寄るつもりはないと敵意を滲ませることを目的とした嫌味だ。

 此度の会談における、俺のスタンスを明確に示した形だ。

 

 先程、雪ノ下母は、俺達に対し――ガンツ側に対し、敵対する意思はないと明言した。

 つまり、これでこの会談の流れは、奴等が俺達に対しどう歩み寄るか、いかに自分達の目指す青写真に近づけるかというものになる。

 

 決定権を、主導権をこちらで握れる――筈だ。

 

「…………」

 

 雪ノ下母は――貴婦人は、淑やかに微笑み、紅茶のカップを口に付ける。

 まるで、一生懸命足掻く俺を、拙く戦う俺を、微笑ましく思うような笑みを――微笑みを浮かべる。

 

 ……そうだろうな。百戦錬磨の、本物の政治(せんそう)を知るお前からすれば、俺のやってることなど文字通りの児戯に過ぎないのだろう。

 

 まず第一に、奴は――奴等は、俺の、比企谷八幡の弱点を把握し、掌握している。

 

 雪ノ下雪乃――そして、雪ノ下陽乃。

 

 コイツは初めに、娘達がお世話になっていると、そう言った。

 目の前の貴婦人は、昨日の池袋の戦争の時、陽乃さんと接触している。その時の口振りから、奴は俺と雪ノ下の関係だけでなく、俺と陽乃さんの関係も――関係の深さも、深く把握しているということだ。

 

 昨日、奴は陽乃さんと会談の約束をしていたらしい――その上で、今朝になってこいつ等の包囲網から陽乃さんが逃げ出し、代わりに俺達がアポなしで現れたことに対して何も言わないのが、その証拠だ。

 それ程までに俺が大事に思っているということが筒抜けな“家族”を――自分達が保有しているカードを、この会談という戦争の場で、脅しとして彼女達の身柄を使うことは、十分に考えられる。

 

 陽乃さんはまだしも、雪ノ下に対してそれは、たしかに有効だ。一人暮らしをしているとはいえ、未だ雪ノ下は、コイツ等の庇護下にあるのだろうから。

 ……その可能性も考えて、陽乃さんには雪ノ下の元に行ってもらったが、俺程度で思いつくこんなことを、目の前の化物が見逃しているとは思えない。

 

 直接的にせよ、間接的にせよ……何らかの手が回っている可能性も、十二分に考えられる。

 

――だが、その時が、お前等の最後だ。

 

 俺はそっと、この椅子に座る前に乱雑に放った鞄を見遣り、続いて横に座る霧ヶ峰を見る。

 奴は、にやりと、気味悪く笑い――俺も口元を緩ませる。

 

 そうだ。そんときは、もうこんな会談はどうでもいい。いつまでも奴等の得意分野に付き合う必要はない。

 

 俺の大切に対して明確な敵意を向けるなら、俺の大切に対する明確な敵となる意を示すなら――その時、俺はきっと、どこまでも残酷になれる。

 

 大嫌いな殺しも、きっと喜々として実行することが出来るだろう。

 

 ここが敵の巣穴だろうと関係ない。

 力ずくで、暴力的に制圧し、雪ノ下のことを吐かせ、情報を貪る。

 大事になっても、あのパンダがどうにかしてくれるだろう。あまり借りは作りたくはないが、しょうがない。雪ノ下の為だ。

 

 その時は……最終的には、最終手段としては、きっと雪ノ下を……一緒に連れて行かなければならないのだろう。星人側にも、組織側にも、処分される前に保護する為に。

 

 本当に、それは最終手段にしたい。やっと俺から解放してやれた雪ノ下を、これ以上巻き込まない為に……出来れば仮初でも、欺瞞でも、こいつ等には雪ノ下の家族で、表面上は親子で居てもらいたい。その為に、こんな面倒くさい政治ごっこをしているのだから。

 

 それに――殺しは嫌だ。本当に嫌だ。出来れば、死んでも、殺したくない。

 

 でも、しょうがない。幸せになる為には、時には嫌なこともやらなくちゃな。

 

 俺は――幸せにならなくちゃいけないんだから。

 

「…………」

 

 スッと、俺は一度瞑目し、再びその腐った双眸を開く。

 

 目が合った雪ノ下陽光は、カップをソーサーに戻し、微笑みはそのままに、すらりと背筋を伸ばしている。

 俺の瞳に剣呑な色が混じったのを察したのだろう。本来ならこんな殺意を滲ませてしまった時点で政治的には俺の負けなのだろうが、そんなのはいつものことだ。

 

 勝とうが、負けようがどうでもいい――どうせ、殺せばいいんだから。

 散々勝たなくちゃとか思っていたくせに、いざとなるとそんな風に開き直れてしまう、俺のようなキチガイに対し、話し合いほど無意味なものはない。言葉が通じないヤバい奴には、何を言っても無駄なのだから。

 

 ……まったく、とても野蛮で原始的なやり方だ。

 俺は、いつだって、こんな斜め下の解決方法しかとれない。

 

「――勿論です。主人には、あなた達の警戒心を煽るのもと思い控えさせてしまいましたが、どうやら全てお見通しのようで。あなた達程の“戦士(キャラクター)”に対し、これは侮辱でしたね。無礼をどうかお許しくださいまし」

 

 そう言って、雪ノ下夫人は頭を上品に下げる――が、こいつ、わざとやってるな……。流石は陽乃さんの母ということか。初めの無駄な煽りも、只のコイツの趣味だな。自分達の、一応は修羅場である筈なのに、いい性格をしている。

 それだけ、自分の能力に自信を持っているということだろうが――まさしく女傑だな。

 

 もしかしたら、この結局は無駄となったこの時間も、こちらを見定める意味があったのかもしれない。……全く、相手をしていて疲れる連中だ。

 

 どこまで見透かされたのか――まぁ、いい。全てはこっからだ。

 この会談で今後の扱い方を見定めようとしているのは、こっちだって同じだ。試されているのは、お前達も同様だ。

 

 場合によっては――今日がお前達の命日だぜ、()()

 

 雪ノ下夫人が、都築さんが差し出したベルを鳴らす。

 そして、がちゃりと、洋館の大きな正面の扉が直ぐに開かれた。

 

 

「――――な――に」

 

 

 そこから現れた“二人”の人影に、俺は思わず椅子から勢いよく立ち上がった。

 

 からんからん、と椅子が倒れる音をどこか遠くに聞きながら、俺は呆然と“そいつ”を見つめる。

 

 雪ノ下父と思われるその男――雪ノ下豪雪は、彫りの深い端正な顔の美丈夫だった。

 東条程の巨漢というわけではないが、それでも一般的な成人男性よりは大柄な鍛えられた身体。漆黒の短髪に鋭い眼光は、一目で只者ではないと分かる。

 

 だが――俺が見ていたのは、これほどまでに敵陣で無様に醜態をさらしているのは、その後ろ、雪ノ下豪雪の背後から飄々と登場した、その少年だった。

 

 

 ()()()()()()()()()だった。

 

 

「…………へぇ」

 

 隣で、何の感情も伺わせない、簡素な呟きを漏らす――霧ヶ峰霧緒と、中坊と瓜二つの、同一の顔を持つ少年。

 

 俺を二度も窮地から救ってくれた、ゆらゆらと片手の袖がひらめく、隻腕のその少年は――。

 

「…………中…………坊?」

 

 俺の間抜けな、掠れた音量のその呟きに、白い少年は、偽中坊は、中坊とは違う、けれど中坊と見紛うような、無邪気な、邪気のない笑みで言う。

 

「昨日振り、だね。……約束、守ってくれたんだね。“彼”を、生き返らせてくれてありがとう」

 

 その言葉に呆然とする俺は、昨日、日常で“オニ”に襲われた時、こいつが俺と黒金の間に降り立った時のことを思い出す。

 

――『カタストロフィは近い。それまでに“彼”を生き返らせて。必ず、彼はあの終焉(カタストロフィ)に必要になる――――』

 

「でも陽乃の方が先でしたけれどね。賭けは私の勝ちでしたけどね」

「うるさいよ。賭けはしないってあの時も言ったじゃんか」

 

 そんなやり取りも呆然と聞き流す程、俺は偽中坊の衝撃から未だ立ち直れなくて、混乱していて――そして、偽中坊は、俺の横を通り過ぎ、俺の隣の、霧ヶ峰と相対する。

 

 偽物と、本物が、相対する。

 

 二人とも不敵な笑みを、穏やかな笑みを浮かべている。

 こうして隣り合っていても、向かい合っていても、何もかも、瓜二つだった。

 

 顔も、身長も、声も、笑みも――身に纏う、白いパーカーも、全く同じ。

 パーカーの中のシャツや履いているズボンの色だけは違うが――それによって辛うじて判別がつくが――それでも、双子でもここまで似ないだろうという程に、この二人は似ている。

 

 まったくの、同一だ。

 

 けれど、片方は人間で、片方は化物だ。

 

 片方は“鬼”で、そして、もう片方は――。

 

「……久しぶりだね、“僕”。無事に生き返れたようで何よりだ。ずいぶんと、遅刻ギリギリだったけどね」

「…………なるほど、ね。そっかそっか、そう言うことか。…………何はともあれ――」

 

 偽中坊は、中坊に――霧ヶ峰に語り掛ける。

 

 対して霧ヶ峰は、そんな偽中坊の言葉に、こう、不敵な笑みと共に返す。

 

「――似合ってるじゃないか、そのパーカー。中々に決まってるぜ」

 

 その言葉に、偽中坊は――

 

「……………っ。………うん。気に入って………るんだ。………あの日……君が、ああ言ってくれたから………僕は、“僕”に――君に、なれた。……だから、これは僕の宝物だ」

「ふふ、そこまで言われちゃうと、それは僕のアイデンティティだから今すぐ脱げとか言えないなぁ。僕はファンには優しい男の子なんだ。今なら特別サービスでサインまでなら許しちゃうぜ」

「っ!? 本当に!? な、なら、このパーカーの背中に――」

「待て待て待てお前等自重しろ! 盛り上がる前に説明義務を果たせ!」

 

 なんなのこの偽中坊!? 唐突にキャラ崩壊してんじゃねぇよ! あのミステリアスキャラはどこに行ったんだ!?

 

 俺が霧ヶ峰と偽中坊の間に割って入ると、雪ノ下母がなんかしゅんと落ち込んでいる雪ノ下父を慰めながら、微笑みと共にこう切り出した。

 ……あ。そういえば父のん放置してましたね。本当は彼こそがボスキャラ登場として注目される筈だったのに総スルーだったからなぁ。なんかゴメンね。っていうか180センチ以上の男がしゅんとしているという絵面なのに絵になるのは美男美女だからか。イケメン滅びればいいのに。

 

「“彼”についても、きちんと順序立てて話をさせていただきますよ。それなりの物語になりますので、まずは皆でお茶にしましょうか。都築、椅子を持って来て。それからあなたも座りなさいな」

「承知しました、奥様」

「さて――とりあえず、遅まきながら自己紹介と参りましょうか。ほら、あなたしっかりしなさい。それでも雪ノ下家の当主ですか。“役割”はきちんと全うしなさいな。ほら、あなたもこっちにきなさい」

 

 そう言って、雪ノ下陽光は父のんと偽中坊を自分側に呼び、座る彼女を中心に、右側に雪ノ下豪雪、左側に偽中坊を立たせ、俺と霧ヶ峰に向かって――ガンツからの使者に向かって、自らの正体を、星人として正体を告げた。

 

「改めまして、私の名前は雪ノ下陽光(ひかり)――“彼女の身体”を譲り受け、“彼女の役割”を代行させていただいております。そして、隣にいる夫――雪ノ下豪雪と共に、黒い球体には『寄生(パラサイト)星人』と名付けられた、同族達の(おさ)のようなものをさせていただいております」

 

 寄生(パラサイト)星人――そう、自らの化物としての正体を告げた時の微笑みは、それでも人間のような笑みで。

 

 美しい貴婦人の微笑みを、美しき化物は、いたずらっぽく俺達に向ける。

 

「私達は、弱くて、弱くて、弱弱しいので――あんまり、イジメないでくださいね?」

 




比企谷八幡は、化物の巣窟たる雪ノ下家へと、新たなる戦争へと乗り込む。

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