比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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俺って、こんな目……してたんだな。


Side戦争(ミッション)――③

 

 比企谷晴空(はると)というクズは、酒癖と女癖の悪いクズの父親と、依存癖と妄想癖のあるクズの母親から生まれた。

 

 どこかの暴力団の下端構成員であったロクデナシのクズだったとある男は、ある日、所属していた暴力団が運営していた風俗店で働かされていたとある一人の風俗嬢を身籠ませた。

 

 精神的に脆く不安定だったが、容姿は優れていたその風俗嬢は、男の所属していた組織の幹部員の贔屓嬢であり尚且つ店の売上としても重要な嬢だったらしく、男は散々に痛めつけられた。

 

 このままだと殺されると思った男は、単身で夜逃げし、そのまま千葉の地へと身一つで逃げ出してきた。

 

 男にとって誤算だったのは、そこに身籠った風俗嬢もついてきたことだった。

 

 最初は怒鳴り散らし、暴力も振るいながら東京へ帰るように迫った。

 彼女目当てに暴力団の追手がやってくるかもと考えたからだ。

 

 だが、結果として、追手は差し向けられなかった。

 構成員として下っ端の下っ端である男が大した情報も持っていなかったこと、身籠った時点で女に商品としての価値がなくなったことなどが理由だったかもしれないが、男にとってはどうでもよかった。生きていればそれでよかった。

 

 結果として、男と女は千葉の地で新たな人生をスタートさせる。

 

 だが、それは、底辺だった人生から、最底辺の人生へと転落しただけだった。

 

 男は学歴がなかった。

 小、中と教科書通りにロクデナシの生徒だった男は、中学卒業と同時に義務は果たしたとばかりに親にも国にも見捨てられ、転がり落ちるように裏世界に堕ちた。

 そして、暴力団に入ったことを、威張りながら好き勝手に生きることの出来る肩書を手に入れた程度にしか考えられなかった生粋のクズだった。

 

 学歴や資格どころか、まともな職業を全うする根性すらない。

 表社会に彼を雇う所がある筈もなく、裏社会においても、東京に本拠を置くそれなりに全国に名が通っている暴力団を逃げ出した身の上である男を入れる組織など千葉にある筈もない。それどころか、余計な火種だといわんばかりに男が近づく度に殺されかかる始末だった。

 

 故に、男は女を使った。

 身籠っていた赤子を生んだ直後に、女は男によって適当な風俗店に再び放り入れられた。

 

 そして、女の稼ぎを着服することによって、男は生き長らえることとなる。

 

 女は店のスタッフが顔を顰める程のハードスケジュールで文字通り体を張って金を稼ぎ、男は汗も水も垂らすことなく手に入れるその金をパチンコ台に拳を叩きつけながら溝に捨てるが如く浪費した。

 

 毎朝、女の髪を掴み上げながら金が少ないと怒鳴り散らす男の声で目を覚まし、女がへらへら笑いながらごめんなさいと男に縋りつき愛していると告げる横でパサパサの何も付けていない食パンを水道水で流し込む。

 

 それが、比企谷晴空の幼少期の記憶――原初の記憶。

 

 家族という言葉で引き出される――己の根源となる光景だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 殆ど家にいない父親らしき男に代わって、晴空を育てたのはいつも笑顔の母親だった。

 

 夜は滅多に家にいない母親は、外が明るくなるくらいの時間帯に家に帰宅しているようだった。

 そして、いつ寝ているか不明な母親が用意した味のしない食パンを食べ終えた後、父に金を奪われて、頬に殴られた跡をつけたままの母親に、抱き締められこう囁かれるのが晴空の日課だった。

 

 おはよう。今日も愛してるわ――と。

 

 その言葉の歪さに気付いたのはいつだろうか。

 少なくとも、思い出せる最も古い原初の記憶の中の己でさえも、その言葉を耳元で囁かれて、晴空は――途轍もない嫌悪感を覚えていた。

 

 今でも、自分を風呂に入れるその頃の母親の裸身を覚えている。

 それは己が母親を性的対象として見ていたというわけではなく、その身体が余りに痛々しかったからだ。

 

 客前で服を脱ぐ職業である母親の身体は、分かり易く痣だらけというわけではない。

 毎朝、母親を殴りつける父親も、顔などの見えやすい部分はすぐに消える程度の力加減で殴るが、見えにくい箇所には痛々しい痕が残っていた。そういった小賢しい計算だけは働く父親らしき男に、晴空は日々怒りを募らせていた。

 

 しかし、幼い晴空の目に留まったのは――母親の手首の傷。

 普段は腕時計で隠しているだろうその傷は、母の弱さの証だった。

 

 

 

 これは、晴空が大人になってから知った真実だ。

 晴空の母親は、まだ十代の頃に、見知らぬ男に犯されていた。

 

 当時、普通の女学生だった母親は、不審者に不審車両の中に連れ込まれ、そこで複数人の男に強姦された。

 これは、何の変哲もないごく普通の人生を歩んできた思春期の少女の心を砕いて余りある悲劇だった。

 

 この時、逃げ出せというのは過酷にしても、男らに対する復讐心や恐怖心を持てる程度に強くあれば、親や警察なりにこのことを打ち明けられる程の強さがあれば、彼女の未来にはまだ希望というものが残っていたのかもしれない。

 だが、彼女は普通の少女で、己の身に突如として降りかかった凄惨な悲劇を――まともに受け止められることは出来なかった。

 

 少女を弱者だと、そう切り捨てることは余りに傲慢なのかもしれない。

 しかし、この時の彼女の逃避行動が、その後の彼女の人生を――終わった人生を決定づけた。

 

 端的に言ってしまえば、彼女はこの時、自分を強姦した男達の一人と交際を始めた。

 犯されている最中も悲鳴を上げずにただ呆然とする彼女を、都合のいい女だと判断したその男は、その後も事ある毎に彼女を呼びつけ、欲望のままに行為に耽った。

 

 そんな己が状況を、少女は自分に彼氏が出来たと判断した――そう思い込んだ。

 自分は年頃の少女らしく、年上の彼に愛されて、彼氏と彼女として付き合っているのだと。

 

 そんな風に逃げて、逃げて逃げて逃げて――気が、付いたら。

 

 自分は腕に注射器を打ち込まれ、何処かの風俗店で働かされていた。

 

 朦朧とした記憶の中で覚えているのは、自分の彼氏だった筈の男が、どうやら何処かのヤバい組が若者に流していたクスリを不正な手段で入手し、それを自分にも使ったらしいということ。

 その代金が払えずにボコボコに殴られる彼氏の横で、クスリが抜けるまでの監視と代金の回収を兼ねて、自分がこの風俗店で働かされることになったということだった。

 

 彼女は、それを夢の微睡の中でぼんやりと聞いていた。

 それがクスリの影響なのか――それとも、ずっと前からなのか。

 

 よく分からないまま、彼女は次々とやってくる見知らぬ男の前で服を脱ぎ、張り付けた笑顔を相手に向け続けた。

 

 

 

 そして――その数年後。

 

 彼女は、同じ笑顔を浮かべたまま、己が息子を抱き締めている。

 

 晴空は、そんな母親の弱さを、この時には既に見抜いていた。

 大人になってから知る母の過去を、母の人生を、母の逃避を知るまでもなく、己の母親が、どんな気持ちでこの笑顔を浮かべているか。どんな気持ちで自分を抱き締めているか。

 

 母は今も逃げている。

 現実から、自分を孕ませたあの男から――そして、自分が生んだ、息子から。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は幸せな結婚をしたと――実際には、夜逃げ同然で千葉に来た為、籍どころか住民票すら持たない身分の癖に。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は夫を妻として支えていると――実際には、文字通り道具扱いされ、稼いだ金の大半を強奪され、ギャンブルに負けた腹いせに犯される身分の癖に。

 

 母は思い込んでいる。

 自分は息子を愛していると――実際は――実際は――実際は。

 

 晴空は、己を抱き締める母親の耳元で囁く。

 母親が望んでいるであろう言葉を――母親には見せられない、無表情で。

 

 僕も、愛しているよ――と。

 

 母はその言葉を聞いて声を震わし、嗚咽を漏らす。

 息子を抱き締める力をギュッと強めて、言うのだ。

 

 ありがとう、ありがとう、ありがとう――と。

 

 この母親は――クズなのだろう。

 逃避だと分かっているのに、その間違った道から出られない。

 

 でも間違っているという自覚がどこかであるから、常に何かに怯えている。

 怖いから、恐ろしいから、必要とされていると思い込むことで、その恐怖を紛らわせている。

 

 夫を、そして息子を――自分がいなければ何も出来ないと内心で見下すことで。

 共依存――必要とされることを己の存在意義と見出すことで、この母は何とか今日も形を保てている。

 

 この人にとって息子とは、自分の自己犠牲的献身を振る舞う道具として絶好な存在なのだろう――そして、あのクズの父親も。

 

 お似合いのクズ夫婦だと、息子に見下されていると知らずに――母は、また、ありがとうと言った。

 

 その言葉を聞く度に、毎朝、晴空は強く、固め、高めるのだ。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと――その、殺意を。

 

 それを誤魔化すように、晴空は今日も母の耳元で、空虚に、愛していると呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その殺意が明確な形を得たのは、それからおよそ数年後。

 

 毎朝、父親らしき男が暴力を振るう対象が、母親を庇う息子へと変わって久しい頃。

 

 その日もいつもの日課を終え、息子を抱き締めていた力を母親が緩め、息子の肩に手を乗せて、泣き腫らした笑顔を息子に向けて言った――この言葉を、聞いた瞬間だった。

 

 

――あなたに、弟か妹が出来るのよ。

 

 

 晴空は、その言葉を聞いた瞬間に決意した。

 

 ああ、殺そう――と。

 父親が未だ母親を犯し傷つけ続けていた事を知ったからなのか、それとも、新しい生命を宿した母親をこれ以上傷つけさせない為だったのか。

 

 それとも――こんな地獄の中で生き続けなければならない、新たに生まれる自分のような存在を、守りたかったのか。

 

 決定的な感情(よういん)は何だったのかは思い出せない。

 だが、その時の殺意(かんじょう)は、今でもはっきりと思い出せる。

 

 そして、晴空は、その計画を綿密に立て始めた。

 己が父親への――殺人計画を。

 

 ただ殺すだけじゃダメだ。

 例え、首尾よく父親を排除出来たとしても、自分が逮捕されたら意味がない。

 

 二人の依存対象を同時に失えば、母親は今度こそ逃げきれずに壊れてしまう。

 万が一、耐えられたとしても、その対象は生まれてくる――弟か妹に一身に注がれてしまう。

 

 だからこそ、父親を排除し、自分が逃げ延びる――最低限、自分が大人になり、母親を立ち直らせることが出来るようになる、その時まで。自首するのはその後でいい。自殺するのはその後でいい。

 

 そして、生まれてくるのが妹でほぼ確定する程に母親のお腹が大きくなった頃。

 働けなくなった母親に代わり、息子が母の店のスタッフに頼み込んで雑用をして最低限の給料を稼がざるを得なくなってしまった頃――計画を実行に移すことになった。

 

 計画を詰め切れたとは言えなかった。

 だが、これ以上の計画の遅延は厳しい。家計的にも、そして父母的にも。

 

 母親としては、自分が金を稼ぐことが出来なくなるということが、自分は必要とされていると逃避することが出来なくなる大きな要因となっていたので、何も出来ずに息子に養われているということが、恐怖にも似たストレスになっていたようだった。

 

 共依存が、壊れてしまう。

 それは母にとって、己の破壊に等しかった。

 

 それに加え、日中母親を家に置いたまま、自分が何も出来ないという状況にあったのも大きい。その間にあの父親が母親に何かしているかもしれないという危険性が把握しきれず、また何でも出来るという状況が不味かった。赤子を生んだばかりの女性を、平気で風俗店に放り込ませ働かせるようなクズだ。第二子が生まれそうという母体を慮るとは思えない。

 

 最早、一刻の猶予もない。

 そう判断し、晴空は実父殺害計画を実行に移した。

 

 晴空が選んだのは、車に細工をしての事故に見せかけた殺人だった。

 

 あのロクデナシのクズが少し前から、何をトチ狂ったのか車が欲しいと言い出し、母を恫喝していたのは知っていた。

 当然ながらこの住民票もないクズ野郎に免許を取れる金も資格も、そして根性もある筈もない。もっと言うのなら、毎日体を張って働いている母にさえ、車のような高い買い物が出来る信用性など皆無だろう。

 

 だが、男が言うには、同じロクデナシ仲間のとある伝手から、使わなくなった中古車を譲り受けることが出来るらしいのだ――金さえ払えば。

 当然ながら犯罪だし、毎朝のトーストにジャムを塗ることすら出来ない比企谷家にそんな金がある筈もなかった。何より、そんな家計状況の中、もうすぐ赤ん坊が生まれるのだ。無免許運転の為の車などを買っている余裕などあるわけもないが、このクズにそんなまともな論理が通じるわけもなく、またこのクズにそんな子供染みた我が儘など我慢しろと言っても、出来るわけもなかった。

 

 結果として、金は母があちこちに頭を下げて体を売って掻き集め、男は念願の違法マイカーを手に入れた。

 晴空は、それを奴の棺桶にしてやろうと画策した。

 

 そもそも違法な手順で手に入れた違法車両。そして何より、肝心の運転手が無免許のクズである。

 事故死したところで、只の馬鹿なクズの事故死という先入観で見られるだろうし、早々に事故としてさっさと処理したくなるだろう。いい大学のご出身であろう国家権力と言えど、毎日同じ仕事をしている大人である。一々、一つ一つの事故に対して、これは殺人事件かもなどと疑っていたら、仕事にならない。ましてや、息子による父親殺しの可能性など考えもしないだろう。ドラマじゃあるまいし、と。

 

 だが、晴空は念には念を入れて、万が一にも車両に施した細工が見つからないよう、車ごと海に沈めることにした。

 アイツはクズの癖にミーハーで他人がやっている楽しそうなことは何でもやってみたがるふざけた習性がある。幸か不幸か、奴はこの時期は海でサーフィンを楽しんでいる。当然、サーフボードから水着に至るまで、妻の身体で作った金で購入したものだ。

 

 あのクズのことだ。当然、海岸線の急なカーブ時なども、面白がってドリフトごっこをしながら限界を攻めているのだろう――その時にブレーキが利かなくなるように細工をする。そして、そのまま海へと突き落とす。

 

 細工が面倒だったが、生まれてからずっと念願だった殺人の為だ。労力は厭わない。

 

 問題は細工を発動させるタイミング。こればかりは事前練習が出来るわけではない。

 それに、これまで父親のことなど興味もなかったので、行動パターンを観察するようになったのは殺害計画を整備する段階に入ってからだった為に、サーフィンに出かける正確な日時が分からない。あの自由人を気取るクズ野郎は、その日の気分で行動を変えるのだ。事前に細工を施して、町中をドライブ中に作動して足を折るくらいで済みましたでは、何も済まされない。ただ罰が当たっただけだ。

 

 それに、こっちにはあのクズと違って仕事がある。最悪サボればいいが、働いているのが母の職場なので、下手なことをすれば母に迷惑が掛かる。色々と仄暗い背景を持っている比企谷家は、再就職など容易ではないのだ。あのクズの為に路頭に迷うなど冗談ではない。

 

 欲を言えば、その辺りも完全にコントロールし、こちらが指定した日時と場所でしっかりと殺害したかったが――そこは仕方ないと考える。

 奴がサーフボードを持ち出したタイミングで、先回りして車に細工を仕込み、問題のカーブに先回りして、あの違法中古車の通りがかったタイミングで細工を発動させる――これしかないと、晴空は考えた。

 

 そして――ある日。

 

 本当に珍しく、父親が前日にちゃんと家に帰ってきて、明日は海に出かけると宣言してきた。

 これまで家族に外出の予定を事前に語ったことなどない父親が。恐らくは、晴空の記憶にある限り初めてのことだった。

 

 クズは、前の日からサーフボードを磨いて楽しそうに準備をしていた――テレビを見て、げらげらとビールを飲んで笑いながら。そして、そのまま寝た。

 

 家の中で――我が家の中で。

 

 いつも自分と母が暮らす家の中に、母と自分だけで過ごしてきた家の中に――父親がいる。

 それが違和感で気持ち悪くて、逆に晴空が家を出た。

 店に呼ばれたからと、母親にそう嘘を吐いて。

 

 奴と母を二人きりにするのは気が引けたが、あのクズは良くも悪くもガキなので、機嫌がいい時は気持ち悪いくらいに機嫌がいい。あれだけビールを飲めば朝まで起きないだろうし、何があったかは知らないが、あれだけご機嫌にサーフボードを磨いていたのだから、少なくとも明日海に行くまでは機嫌がいいままだろう。

 

 心配なのは天気だけで、これで朝に土砂降りだったりしたら(それはそれでいい気味だが)一気に機嫌が悪くなるかもだが、少し癪なことに明日の降水確率は0%だった。神はちっぽけな人間一人の日頃の行いなど見向きもしていないらしい。

 

 だが、それはそれで好都合だ。

 どうせなら最悪な気分の中で死んで欲しかったが、この際、贅沢は言うまい。

 

 気持ち悪いくらいのご機嫌な中で殺してやる――と、真っ暗な夜の中、晴空は奴の違法愛車に仕掛けを施し、夜が明けぬ暗い内に目的地へ向かった。

 本当は知り合いに頼んで送ってもらうつもりだったが、殺人の片棒を担がせるような真似は心苦しかった。今から向かえば、必要最低限の交通費で辿り着けるだろう、と。

 

 そして、次の日の早朝。

 晴空は件のカーブを見下ろせる絶好のポイントに身を潜めることが出来た。

 

 後の問題は――奴が来るか、どうか。

 あの違法中古車はクズが分かり易く改造していた為(よく警察に職質されなかったものだ。こういった部分は国家公務員にしっかりと仕事をしてもらいたい。今回はある意味助かったわけだが)、同じ車種を見間違えるということもないだろう。

 

 だが、あのクズは前述の通り、気分屋で、自由人気取りのガキだ。

 どれだけ前日はウキウキ気分でも、二日酔いで頭が痛いからやっぱ行くのやめたとか、普通に考えられる。可能性は低くない。

 

 よく酔っぱらって帰ってくることはあるが(そして妻や息子に暴力を振るうが)、次の日に二日酔いになったといったところは見たことがない。しかし、酔って散々暴れた挙句に再び飲みに出かけるといったことも多かったので、その後どこかで二日酔いに苦しんでいたのかもしれない。そんな様を想像すると少し溜飲が下がるが、今ばかりはそれが不安要素だ。

 

 どくどくと心臓が鳴り響く。

 握り締めたスイッチが手汗で滑りそうだ。

 これは――宿願が叶う緊張か。それとも――生まれて初めての殺人への恐怖か。

 

 昨夜の楽しそうな父親の様子を思い出して――晴空が歯噛みした瞬間、その趣味の悪い車を見つけた。

 

 中古軽自動車では有り得ないスピードで、真っ直ぐにカーブに突っ込んでくる。

 予想通りの頭の悪い運転だ。晴空がスイッチを入れなくてもそのまま曲がり切れずにガードレールに突っ込みそうな勢いだ。

 

 それを見て――晴空は。

 

「――――――――――――」

 

 自分の表情が消えるのを感じた。自分の感情が――死んでいくのを自覚した。

 

 そして、ただ機械的に、ただ作業的に、その凶器(狂気)のスイッチを入れた。

 

 カチ、と。乾いた音。

 ひょっとすれば何も起こらずに、失敗したかと錯覚するような、気の抜けた音。

 

 だが――何故か。

 晴空の心には、焦燥感もなく、恐怖心も消え失せていた。

 

 そして、趣味の悪い違法中古軽自動車は、ガードレールをまるでゴールテープか何かのように突き破り、千葉の海へと飛んだ。

 

 ボンと。やはり、乾いた音が聞こえた。

 小さな爆発の衝撃が腹に届き、黙々と遺灰のような黒煙が天に伸びる。

 

 真っ直ぐに落下し、固い岩にワンバウンドした小さな車は、そのまま天井から逆さまに海に落ちた。

 

 辺りに人はいない――自分以外には。

 だが、あれだけの事故だ。狼煙(のろし)のように煙も上がった。

 朝も早い時間帯だが、いずれ誰かが気付くだろう。何よりガードレールに穴が開いているのだ。通りがかった安全運転のドライバーが通報してくれるに違いない。

 

 当然、自分はしない。

 携帯電話など生まれてこの方触ったこともないし、何より発見が遅いに越したことはない。

 出来る限り、あの男には冷たく苦しい思いをしてもらいたい。どうか即死ではありませんように――と、息子は父親を思った。

 

 晴空はしばし、天に昇る黒煙を見詰めると、そのまま背を向けて帰宅を開始する。警察が来る前までに家に戻らねば。

 

 晴空は終ぞ、父親に別れの言葉を言うことはなかった。

 

 人を殺してしまったという焦燥感も、人を殺してしまったという恐怖心もなかった。

 人を殺してやったという達成感も、人を殺してやったという優越感もなかった。

 

 ただ――帰り道。

 海沿いの道を駅まで歩く道中で、誰もいないのを確認して海に向かって証拠品(スイッチ)を違法投棄して。

 

 駅のトイレで普通に小便をした後に、手を洗う際に鏡を見て、小さく呟いただけだった。

 

 そこには、殺した男とそっくりな顔をした息子が。

 生まれて初めて、直視した自分の顔に対して――微笑みかける姿があった。

 

「俺って、こんな目……してたんだな」

 

 他の全てのパーツはそっくりなのに、その目だけは、あのクズとは違っていた。

 

 きらきらとガキのように輝く父親(クズ)の目ではなく。

 

 鏡に映った息子(クズ)の目は、どんよりと濁り――腐っていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日の夕刻。

 晴空は、冬場には隙間風に悩まされる安アパートへと帰宅した。

 

 家の前に、当然ながら違法駐車の違法中古車はない。永遠に帰ってこない。

 それを横目で濁眼により確認しつつ、一切歩調を変えぬままに一段一段軋んだ音を立てて階段を上る。

 一日休みをもらった分、明日はフルタイムでシフトに入らなくてはならない。学校は休まなければと、義務教育中の男子学生は、早朝に父親を殺した息子は雑考する。

 

 別に自分が犯した罪から目を背けているわけではない。母親のように、逃げているわけでもない。

 かといって、己が罪状を誇るわけでもない。家にいるだろう母親に、己が手柄を誇ることもしない。

 

 何も言わない。何も知らない振りをする。

 警察が来たら一緒に戸惑い、悲報を伝えられたら一緒に驚くつもりだ。流石に一緒に泣くことは出来ないかもしれないが、慰めることくらいは何食わぬ顔でするつもりだ。

 

 全てを受け入れて、日常を送る。

 これからも、クズな母親を守ろう。生まれてくる妹だけは、クズにならないように大切に育てよう。

 

 父親(クズ)を殺した息子(クズ)は、未来に向かって希望を伸ばす。

 その為に、晴空は父親を殺したのだから。

 

 ハッ――と。

 晴空は、笑って――嗤って、扉を開けて、ただいまを言った。

 

 真っ暗だった。

 

 母親はいなかった――帰ってこなかった。

 

 その日の夜、真っ暗な部屋で佇んでいた少年の元を、警察が訪れた。

 事故死した被害者の家族に、その訃報を伝えるという仕事をしに来たらしい。

 

 

 死んだのは、彼の父親と――彼の母親。

 

 

 そして、母親のお腹の中にいた、名もなき彼の妹だった――妹となる筈の生命だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 住所不定の両親をいっぺんに失って、一日にして天涯孤独となった晴空少年は、警察官の父親を持つ幼馴染の少女の家に引き取られた。

 

 父親も母親も実家からは勘当されており、葬式すら開かれなかった。

 幼馴染の少女の父によって形として作られた墓の前に佇む晴空は、ドロドロと瞳を腐らせて思考する。

 

 結果として、あの暴走違法中古車には、あのクズの父親だけでなく、クズの母親も乗っていたということだったらしい。

 

 らしいということを、警官をやっている幼馴染の少女の父親から聞いた。

 本当はあの夜に訪れた警察も同じようなことを説明したのだろうけれど、晴空は覚えていなかった。

 

 晴空の記憶はそこでブツリと途切れていて、次に覚えている映像では、もう幼馴染の少女の家に用意された自分の部屋の中にいた。

 

 何でも、急に空き部屋が出来たらしい。

 まるで引っ越しでもしたかのように、その部屋だけ全ての家具が撤去されていた。

 

 何もないその空っぽな部屋で、晴れ渡った空をよく眺めていた。

 隙間風など一切感じない、あのボロアパートとは比べ物にならない良質な作りの一軒家。

 

 流石は国家権力だと、警察官の家に住まうことになった殺人者は笑う。

 

 殺人者――そう、結果として父親殺しは、実は母親殺しでもあり、そして妹殺しでもあったというわけだ。

 

 ハッ――と、晴空は笑う。清々しい程に晴れ渡った空に向かって。

 

 どうしてあの日、母親は父親と一緒にいたのか。

 どうしてあの前の日、父親はまるで父親のように振舞っていたのか。

 

 脅していたのか。拐していたのか。

 

 それとも――ずっと。

 

 もしかしたら――ずっと。

 

「――ハッ」

 

 晴空は、晴れ渡った空に向かって、笑う。

 

 どうでもいい。

 全ては終わったことだった。全ては殺したことだった。

 

 全てを受け入れると決めた。

 何食わぬ顔で日常を送ると決めた。

 

 やっと、クズから解放されたのだ。

 クズな父親に暴力を振るわれることも、クズな母親に依存されることもない。

 

 いかがわしい店の雑用をやらなくてもいい。

 少ない金でやりくりしなくていい。残飯を漁らなくていい。道行く大人に物乞わなくていい。ホームレスの老人に土下座して食パンの耳を分けてもらわなくてもいいのだ。

 

 やっと人並みの人生を送れる。

 クズから、やっと、人になれる――いや。

 

「………………違う」

 

 晴空は乾いた声で呟く。

 

 そうだ。

 父親はクズだった。母親もクズだったかもしれない。

 

 それでも――妹は。

 生まれなかった妹は。生まれる前に殺された妹は。

 

 決してクズじゃない――無垢だった。

 穢れる前に、兄に殺された生命。

 

 そんな生命を殺しておいて、クズでない筈がない。

 

 クズの父親と、クズの母親の間に生まれたのは、それ以上のクズだった。

 

 ただ、それだけの話だった。

 

 ハッ――と。

 

 夏の日の晴れ渡った空に向かって、笑う。

 

 地面に、一粒の雨が染み込んだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 念願の日常を、晴空は濁り切った瞳で無機質に見詰めていた。

 

 義務教育中の夏休み。

 ずっとクズの両親によって虐げられていた横目で見ていた筈の、憧れの当たり前の中にいる筈なのに、何故か一つも楽しくなかった。

 

 友達がいない為、毎日、色々な場所を一人で歩き回った。

 時折、お節介な正義の味方が絡んできたが、晴空の乾ききった笑顔を見ると、苦笑しながら一人にしてくれた。

 

 ゲームセンター。動物園。デパート。遊園地。

 今まで行けなかったたくさんの場所に行った。これから生まれる筈だった妹の為の金が少しは遺されていた為、好きな場所に好き勝手に行けた。

 

 本当ならば、妹を連れてくる筈だった場所。

 妹には、自分のようになって欲しくなかった。だから、ゲームセンターにも、動物園にも、デパートにも、遊園地にも、何処にだって連れて行ってあげる筈だった。

 

 当然――海にも。

 

 晴空は、父親と母親と、そして妹が死んだ場所――自分がこの手で殺した場所へと、あれから初めて訪れていた。

 

 あの日と違って、夏の日としては珍しく、今にも降り出しそうに曇っていた。

 決してサーフィン日和ではないこの空模様に、あれからすっかり癖になった、ハッと吐き捨てるような笑いを漏らす。

 

 だが、しかし――心は目の前の海と違い、凪いでいた。

 

 少しは後悔の念が湧き起こるかと思った。

 殺してしまったという焦燥感や恐怖心が、襲ってくれるものだと期待した。

 

 両親を殺してまで、妹を殺してまで、手に入れた普通の日常の――無味乾燥さを知った今ならば、と。

 

 だが、目の前の荒れ狂う海は、対して無風状態の凪いだ心は、否応なしに晴空に突き付けてくる。

 

 比企谷晴空という存在が、どれだけクズなのかということを。

 

 あれだけのことをしておいて、この補修されたガードレールのように、何もかもをなかったことにしようとしている。

 

 ハッ。

 

「ふざけるな……馬鹿野郎」

 

 ぽつ、と。

 地面に小さな染みが出来る。

 

 雨が、降り出した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雨の中を、傘も差さずに帰路を歩く。

 

 あの日と違い、隙間風が吹き込むボロアパートにではない。

 だが、国家権力たる警察官が待ち構える、居心地のいい新居にでもない。

 

 俯きながら、ぽたぽたと雨を垂らしながら辿り着いた場所は――墓地だった。

 

 ……ハッ、と、嘲笑う。

 ここには確かに、晴空のクズの父とクズの母、そして生まれることすら出来なかった妹の墓がある。

 

 しかし――死体はない。灰すらない。

 灰というのなら、今朝方に足を運んだ、あの千葉の海の方がきっと流れていただろう。

 

 魂すら眠っていない形だけの墓地に、一体、何を求めているのか。

 そう思って、再び俯きかけたその時――墓地に、誰か人がいることに気付く。

 

 御覧の通りの土砂降りである。

 しかも降り始めてからかなりの時間が経過している為か、傘を差した通行人すら殆どいない。だが、その墓地の中で佇む人影は、奇特なことに、誰かさんと同じく傘を差していないようだった。

 

 それは女の子だった。

 年若い――まだ子供のようだった。

 

 肩口程の長さの黒髪。自分と同じ一房のアホ毛が雨に濡れてしな垂れている。

 トレードマークの眼鏡も濡れて、その表情はここからでは伺えない。

 

 晴空は、そんな見知った幼馴染の、見たことのない姿を見つけ――用の無い筈の墓地の中に足を踏み入れた。

 

 やはり、人は誰もいない。

 お盆には少し早いし、何よりもこの雨だ。

 

 こんな空の下で、傘も差さずに墓参りに来るような奴は、自分とコイツだけだろうと思った。

 

「……何をしに来たの」

 

 と、少女は言った。

 

「……あなたの会いたい人は、この下にはいないでしょ」

 

 と、少女は続けた。

 

 晴空は、そんな少女の座り込んだ小さな背中を、びしょびしょに濡れて下着が透けている背中を、濁った眼で見詰めながら返す。

 

「……お前は。……その下に眠る人に、何て言って欲しいんだ?」

 

 女の子は、ゆっくりと振り返った。

 今まで何度も見てきた少女だった。近頃は毎日会っている筈の少女だった。

 

「……あなたには、分かるでしょ?」

 

 だけど、振り返って見せたその表情は、見たこともない笑顔だった。

 

「……分からないわよ。……分かるでしょ?」

 

 びしょ濡れの美少女は、雨に打たれながら、そう言った。

 

 そう言われて、晴空は、コイツは雨が似合うと、そんなことを思っていた。

 己と違い、本当に自分にピッタリな名前を貰ったヤツだと。

 

 少女は、今にも壊れそうな笑みで、濁った眼の無表情の少年を見上げる。まるで、助けを求めるように。

 

 彼女のその声は、この土砂降りの雨の音のようだった。

 静かに、零すように呟かれた言葉だった筈なのに、何故か晴空にはそんな風に思えた。

 

 

 この幼馴染の少女、新しい家族となった少女――雨宮(あまみや)雨音(あお)は。

 

 

 きっと、こんな風に泣く少女だと、比企谷晴空はやっとそんなことに気付いたのだ。

 




父親を殺し、母親を殺し――妹を殺した少年は、土砂降りの中で濡れている幼馴染に出会う。

少女は、雨の中――まるで泣いているように、幼馴染に笑いかけた。

分からないと、何も分からないと――まるで助けを求めるように。

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