比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

173 / 192
――きっと、初めから間違ってたのよ。


Side戦争(ミッション)――④

 

 雨宮(あまみや)雨音(あお)というモンスターは、正しいことを()さとするモンスターの父親と、正しくないことを悪とするモンスターの母親から生まれた。

 

 千葉県警のエリート刑事であるカタブツのモンスターだった父親は、ある日、とある事件を切っ掛けに知り合った勝利主義者の弁護士と男女交際をすることになった。

 

 精神的にヒステリックな面もあったが容姿は優れていた彼女は、勝率九割というその裁判成績も相まってマスコミの注目度も高く、こちらも抜群の事件解決成績を残していた男との関係はすぐに話題となり、その後、当然のように二人は結婚した。

 

 女の方は、集まったその注目を利用してあらゆる分野、方面へのコネクションを築き上げ、己の仕事へと結びつけて、出世街道を突き進んで首都東京への進出を視野に入れる所まで上り詰めた。

 

 だが、男の方は周囲の注目も発言にもまるで取り合わず、数々の栄転の話を全て断り、地元千葉の地の平和を守り続けるべく、一刑事として現場へと残り続けた。

 

 女にとって誤算だったのは、そこに結婚した男がついてこなかったことだった。

 

 最初はヒステリックに喚き散らし、泣き落としながらも東京へ上京するように迫った。

 彼のような気心の知れた優秀な刑事が居れば、警視庁方面へのツテも獲得できると考えたからだ。

 

 だが、結果として、彼は千葉の地を離れることはなかった。

 彼にとっての正しさとは、他人の意見に左右されることなく、ただ己が内に芯のように存在する柱のようなものだった。

 

 愛する地元に住む、愛する人々の穏やかな日常と笑顔。

 それこそが彼にとって守るべき大切な宝物であり、それを見捨ててまで見知らぬ東京の地へ栄転することが正しいことだと、彼にはやはり思えなかった。

 

 彼女にとっても、彼のそういった部分は自分には持ち得ない眩しい資質であり、そんな彼に心惹かれたことも間違いではなかったので、遂には彼女の方が折れた。

 その時、女が男の子供を身籠っていることが発覚したこともあり、女も男も千葉の地に残ることとなった。

 

 だが、女はやはり、己の正義を捨てることは出来ず――少しでも高みに上り詰め、少しでも勝利を積み重ね、悪を裁くことこそが正しさだと、正しくないことはすなわち悪だという己が信念を捨てることが出来ず、生まれた娘が一才となったその年、彼女は仕事の本拠地を東京へと移すことになる。

 千葉に戻るのは仕事のない時だけ――東京にマンションを借り、千葉と東京を往復するビジネススタイルを選択することとなった。

 

 男の方も普段はいつも通りだが、娘の為に残業を減らし、家事もするようになった。

 これまで妻と結婚するまでは付き合いなどで朝まで飲むことも少なくなく、コンビニ飯が主食であった父が、真新しいエプロンを付けて料理本片手に台所へ向かうこととなったのだ。

 

 だが、それも夫婦で話し合って決めたことだ。

 互いの正しさを尊重し、貫く為。この二人にとっては何よりも大切な盟約の為に、一緒に頑張ろうと誓い合った。

 

 結果として、父と母は千葉の地と東京の地で、それぞれ新たな人生をスタートさせることとなる。

 

 だが、それは、順調だった二人の人生に、暗雲を齎す結果となった。

 

 男は家事歴がなかった。

 学生時代は柔道、剣道、学道に勤しみ、大学時代から一人暮らしを始めた男だったが、妻と結婚するまでは同棲はおろか男女交際経験すら皆無だった男は、ずっとまともな家事経験がなかった。

 

 いうならば、自分がよければそれでいい程度の家事力しかなかった。

 学生時代の貧乏飯といえばもやしやら細切れ肉やらを炒める程度だったし、洗濯も汚れが落ちればそれでいい、掃除も埃がたまったら掃除機をかけるぐらいだった。一人暮らしならそれでよかったのかもしれないが、子供を育てるとなったらそうはいかない。

 

 栄養バランスの優れた食事、子供服の洗い方、畳み方、汚れが溜まる前に定期的な清掃、保育園への送り迎え――妻が千葉に帰ってきている時は妻がやってくれたが、東京で着実に実績を積み重ねていく彼女は、どんどん東京での滞在期間が長くなっていった。

 

 だが、だからといってその全てを男が肩代わりするわけにもいかない。

 いくら現場主義者だからといって、毎日定時で帰れるわけでもない。むしろ、足で捜査を重ねる兵隊な分、どうしても残業時間は生じてしまった。

 

 しかし、未だ保育園児の娘をずっと一人で留守番させておくわけにもいかない。それくらいの良識を持った両親ではあった。

 

 故に、男は女に頼った――別の女を頼った。

 

 彼女は雨音の父の子供時代からの友人であり、いわゆる幼馴染だった。

 優秀な父に負けず劣らずの聡明な女性で、小・中だけでなく、高・大と同じ学び舎で過ごした、父にとって最も長い腐れ縁である。

 

 だからこそ、父は真っ先に彼女に相談した。己の両親よりも妻の両親よりも――つまりは雨音の祖父母よりも先に相談した。

 その不可思議な事実には後になって父も気付いた。だが、彼の父親もかつては刑事だったものの事件の捜査中に大怪我を負ってしまっていて、今では己の実家である群馬で夫婦揃って暮らしているといった事情がある為に容易には頼れない。妻の実家とは父は居り合いが悪かった為、やはり頼れるのは地元の友人しかいないと思い直した。

 

 幼馴染の女はまだ独身だった。

 彼女は、雨音の父と同じく警察官を志したが、元来の彼女の優し過ぎる性格は警察官には向いていないと、刑事の父を持つ彼女の幼馴染――雨音の父には分かっていたので、男はしっかりと彼女を説得し、幼馴染は保育士へと道を変えた。

 

 誰よりも信頼でき、子供の扱い方も文字通りのプロ級である幼馴染。

 娘の育て方を相談するのに最適な人材だと、男は彼女に頼ることを躊躇わなかった。

 

 結果として、幼馴染は男が忙しい時は、家事を代行してくれることとなった。

 一から男に家事をレクチャーし、共に買い物に行ったりした。雨音が通う保育園に勤めている彼女には雨音も懐いている為、父が迎えに行けない時は一緒に家まで送ってくれて、雨音の面倒をみながら、家で夕食を作ってくれたりもした。

 

 そんな光景が、端から見ればどういう風に見えるかと言えば――自明の理で。

 

 温かい食事。暖かい愛情。

 保育園の帰り道を一緒に手を繋いで帰り、途中で一緒にスーパーに寄って、何が食べたいなんて聞かれながら献立を考えて。

 

 一緒に家の扉を開けて、一緒にただいまを言って。

 エプロンを付けた女性が台所で腕を振るっている背中に、お手伝いしたいと子供が我が儘を言って。

 

 夕食が出来上がった頃、疲れて帰ってきたお父さんが、ネクタイを緩めながら言うただいまに。

 一緒に声を揃えて、おかえりを言う。

 

 ()()()()()()()()()()が、お父さんの背広を微笑みながら受け取る。

 

 それが、雨宮雨音の幼少期の記憶――原初の記憶。

 

 家族という言葉で引き出される――己の根源となる光景だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 殆ど家にいない母親らしき女に代わって、雨音を育てたのはいつも笑顔の先生だった。

 

 初めは保育園終わりに一緒に帰り夕食を食べ終わると自分の家へと帰っていた先生は、いつしか合鍵を手渡され雨音と父の為に朝食を作るようになっていた。

 美味しそうな味噌汁の匂いで目が覚めて、二階の子供部屋から目を擦りながら階段を下り、一階のリビングの扉を開けると、エプロン姿の先生が笑顔でこう言うのだ。

 

 おはよう。今日も早起きね――と。

 

 その光景の歪さに気付いたのはいつだろうか。

 少なくとも、思い出せる最も古い原初の記憶の中の己でさえも、その言葉を笑顔で伝えられて――途轍もない焦燥感を覚えていた。

 

 今でも、その頃の――時折千葉へと帰ってきていて、自分に続いてリビングに降りてきて、その笑顔を向けられた時の、母親の表情を覚えている。

 それは苦々しい言葉で罵り合っていたからというわけではなく、その一瞬が余りに痛々しかったからだ。

 

 母も、先生も、お互いに一瞬――表情が無くなるのだ。

 そして、お互い笑顔を取り繕い、分厚い壁を感じさせる丁寧過ぎる敬語でのやり取りが始まる。

 

 母は、先に食べ始めていた雨音が朝食を食べ終わるよりも早く家を出る。先生が作った朝食には手を付けず、これ見よがしに冷蔵庫にストックしてあるゼリー飲料を手に取りながら。

 

 こんな光景の中に本当に稀に父親も混ざる時もあるが、父は一切気まずさを感じることもなく、新聞や事件資料を熟読し続けて、何も言わない。

 そういった暴力的なまでに鈍感な父親の姿を見る度に、雨音は恐怖にも似た感情を募らせていた。

 

 リビングの扉を開けて、仕事に向かう母が一度振り向いた時に見せる表情。

 普段は鉄仮面で隠しているだろうその表情は――母の弱さの証だった。

 

 

 

 これは、雨音が子供のころから知っていた事実。

 雨音の母親と、雨音の先生は、こんな状況に至る前に幾つもの談合を重ねていた。

 

 雨音の父親とて、いくら幼馴染とはいえ妻とは別の女性に合鍵を渡し、こうして家事を代行させるのは褒められたことではないとは分かっていた――否、分かっていたかは分からない。

 

 父にとって幼馴染はあくまで幼馴染であった。

 いや、彼が大学生となってから群馬へと帰った両親以上に、一緒にいる期間は長いこの幼馴染は、父にとっては腐れ縁を通り越して正しく家族に近かった。

 

 だから、彼にとっては困った時に彼女に助けを求めるのは当然といえた――だが、幼馴染の方は、こんな光景が端から見れば、そして彼の妻から見れば、どういった意味で捉えられるかを正しく理解していた。

 

 刑事として事件に関する時は女の心情も正しく読み解けるのに、自分に関する感情だと途端に暴力的なまでに鈍感になる幼馴染に嘆息しながら、彼女は彼の妻にしっかり話すべきだと強硬に主張した。

 

 結果、事後承諾ではあるが、父と母と先生は、こういった状況に至る正当性について――正しさについて、幾重にも会議を重ねたらしい。

 

 当然ながら、母はこの措置に対し、当初は大層な不快感を示した。

 自分が愛する夫と、自分がお腹を痛めて生んだ娘が、自分ではない別の女と家族のような光景を作り出すというのだから。

 

 だが、夫と娘を置いて、いうならば自分の個人的価値観に基づき、東京という地で仕事に時間と労力を捧げると決断したのは母だ。それにより生じた不利益に関する解決案を、これまた自分の個人的嫌悪感を理由に一刀両断することも、母には出来なかった。

 

 それはプライドの問題でもあっただろう。ここで代わりに家事代行を頼む友人も母にはいなかったし、己の両親に頭を下げることも出来なかった。単純に家事代行を専門とするサービスを頼むということも考えたが、刑事と弁護士の家に素性の知れない他人を入れることに対する危険性を考えると、それも出来なかった。

 

 結果として、先生は母に対して二つの誓約をした。

 

 一つは、なるべく早く雨音に家事を覚えさせて、自分が雨宮家に来る期間は最低限にするように努めること。

 そして、父のいない場所にて二人きりで会い、母に対して真摯に頭を下げながら誓ったもう一つは。

 

 決して、貴女の家庭を壊すような不貞は働かないということ。

 もし他人に邪推されても誤魔化さずに真実を伝え、必要以上に醜聞が広まらないよう努力すると。ただ自分は、大切な幼馴染の家族の力になりたいだけなのだと、そうはっきりと伝えたらしい。

 そこまでされて、尚もまだ駄々を捏ねることは――内心はどうであれ、母のプライドが許さなかった。

 

 故に、雨音に対しても、先生が母親面をすることは全くなかった。

 間違ってお母さんと呼んでしまったことも一度や二度ではなかったが、その度に先生は、一度表情を消した後、微笑みながら違うよと、雨音ちゃんのお母さんは私じゃないよと、そう言って笑顔を向けた。

 

 先生は、いつだって笑顔だった。

 そんな先生に、雨宮雨音は育てられたのだ。

 

 やがて、先生は誓約通り、雨音が小学生となると、雨宮家へと訪れる頻度を減らした。

 雨音にとっても先生は先生ではなくなった。偶にケーキなどのお土産を持って、雨音の様子を見に来ることはあったけれど。

 

 食卓は雨音と父親で囲むことが多くなり、父親が仕事で帰れない時は、先生がファミレスなどに誘ってくれた。先生と二人で家にて料理をすることもあったが、彼女はあまり自分と二人で食卓を囲まないようにしているようだった。

 

 雨音はそれを寂しくも感じたが、きっとそれが正しいことなのだろうと思った。

 代わりに、雨音が小学生となる頃には、母が家に帰ってくることも少しだけ多くなった。

 

 そして――徹底的に、徹底的に徹底的に徹底的に、雨音に“正しさ”を植え付け始めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 正しく生きなさい――それが母親の口癖だった。

 

 絵本の代わりに道徳の教科書を暗記させられ、漢字が読めるようになると六法全書を手渡された。

 学校で社会の授業を受け始めるよりも早く母親が立つ法廷を見学させられた覚えもある。

 

 正しさこそが全て。

 正しくないことは悪であり、正しくない人は悪人であると、そう言い聞かされて雨音は育った。

 

 雨音の母自身が、まさしく己にそう言い聞かしながら育った弁護士だった。

 他人に厳しく、己に厳しく、何よりも悪人に厳しい正義の使徒だった。

 

 悪の敵――彼女を知る者達は、彼女をそう称して慄いたという。

 

 雨音はそんな母親を尊敬していた。

 彼女の教えを正しいと思ったし、彼女の生き様が正しいと信じた。

 

 それと同時に、雨音はそんな母親の危うさのようなものも、この時、既に感じ取っていた。

 

 きっと、母にとって正しさとは、()()()()()()()()なのだ。

 

 人は正しくあるべきだ。私は正しくあるべきだ。

 正しさとは正義であり、正しくないものは悪である。

 

 彼女はそう言い聞かせている――何よりも己に。誰よりも自分に。

 だからこそ、彼女はそれを他人に、世界に押し付ける。

 

 正しくしろ。正しく生きろ。正しくあれ。正しく、正しく、正しく。

 間違いを許すな。過ちを許容するな。歪さを放置するな。清く、正しく、真っ直ぐに矯正しろと。

 

 まるで追い立てられるように。何かに強迫され、脅迫されているかのように。

 正しくあれないことに恐怖するように。間違っているかもしれないことに怯臆であるかのように。

 

 彼女にとっての正義とは、羨望だ。

 確固たる目標であり、目指すべき理想形。

 

 だからこそ、母は、正義を追い立てられるように追いかける。

 

 悪の敵。

 間違っているものを正すことこそが、正義を貫くことだと信じている。

 

 

 故に――母は、きっと父に惹かれたのだと、娘である雨音はそう思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 好きなように生きなさい――それが父の口癖だった。

 

 娘を徹底的に管理し、与える本や玩具にまで口を出す母と違い、父は娘に放任だった。

 

 知りたいと娘が問うたことは何でも教え、やりたいと思ったことを何でもやらせた。

 母が娘に対して行う教育には口を挟まなかったが、雨音が母に反論したら絶対に娘の味方をした。

 

 お前が正しいと思うこと、娘に語るのはいい。

 だが、娘が正しいと思うことを、何の根拠もなくただ否定することはするな、と。

 

 母が理想的な正義を追い求める人であるならば、父は己が正義を貫く人だった。

 父にとって正義とは誰かの為のものであり、誰かを守る為のものだった。

 

 悪とはすなわち誰かを、何かを害するものであり、正義とはそれらから誰かを、何かを守るものであると。

 他人に優しく、家族に優しく――そして正義に優しい、正義の使徒だった。

 

 雨音は、そんな父を尊敬していた。

 彼の考えを正しいと思ったし、彼の有り様が正しいと信じた。

 

 それと同時に、雨音はそんな父親の危うさのようなものも、この時、既に感じ取っていた。

 

 きっと、父にとって正しさとは、()()()()()()()()()()なのだ。

 

 正しさとは人の通常の状態であり、間違っていることこそがイレギュラーなのだと。

 誰かの笑顔を守ることこそが正義を貫くということだと、当たり前のようにそう信じている。

 

 彼はそう思い込んでいる――言い聞かせるまでもなく、自覚なくそう呼吸している。

 だからこそ、彼はそれを他人に、世界にまったく押し付けない。

 

 正しくしなくていい。正しく生きなくていい。正しくあらなくていい。

 好きに生きろ。好きに歩め。好きに目指せ。

 たくさん間違えろ。過ちを恐れるな。歪で何が悪い。

 

 最後に笑えれば、それが正義だ。

 誰かの笑顔を奪わなければ、お前はまったく悪じゃない。

 

 まるで追い立てられることもなく、何かに強要されるまでもなくそう許容している。

 

 正しさの意味など深く考えたこともない。

 己の価値観が正しいと自覚なく確信していて――そして、それが周囲に、世界に認められている。

 

 彼にとっての正義とは、習性だ。

 当たり前にある光景であり、世界の前提条件でもある。

 

 身に付く人間を間違えたら余りに危うい素質。

 自分の価値観を疑わず、自分の思想を省みず、ただそれに当たり前に従って生きる。

 

 当たり前のように正しくあり、当たり前のようにそれを執行する。

 

 正義の味方――彼を知る者達は、彼をそう称し憧れ付き従ったという。

 己が信じる感情に従うことこそが、正義を貫くことだと信じている。

 

 

 故に――父は、きっと母に惹かれたのだと、娘である雨音はそう思った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 父にとって正義というものは確固たる形がない。

 目指すべき理想形はなく、ただ目の前の善悪を己が価値観に従って判別することしか出来ない。

 

 だからこそ、彼は彼女について行けなかった。

 彼には大局的な正義を見ることが出来ないから。彼にとって正義とは当たり前に湧き起こるものでしかないから。

 

 だから、父は母に惹かれた。

 己の中に大局的な理想的正義を持ち、その実現を目指して邁進する彼女に惹かれ、愛した。

 

 対して母は、当たり前のように正義を、呼吸のように執行できる父に憧れた。

 自分が恐怖的なまでに追い求める絶対的な正義を、ただそこにあるだけで体現する存在に、どうしようもなく憧れた。

 

 だから、母は父に惹かれた。

 自分が暗闇の中で手をなぞるようにして把握しようとしている正義というものが、当たり前のようにくっきりと見えている父という存在に惹かれ、愛した。

 

 きっと本人達も完全には自覚していないであろうそんな感情を、娘として見透かしながら、雨音は思った。

 

 ああ、私はこの人達が大好きだと。

 

 このモンスターペアレンツの間に生まれて、本当に幸せだと。

 

 狂気的な正しさの授業を受けながら、雨宮雨音はそう微笑した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして――その数年後。

 

 雨音は、同じ微笑を浮かべたまま、己の母の職場を訪れていた。

 

 あの日と変わらぬ幸福を、あの日から変わらぬ両親への、正義への尊敬の念を抱き続けながら、今日までを生きてきた雨音という少女は。

 

 母が家に忘れた資料を、自主的に東京の母の事務所へと、正しいことだと信じて届けに訪れた。

 

 

 これが、雨宮雨音という少女の、歪だと自覚のなかった人生の。

 

 誰よりも正しさを植え付けられていた少女の、間違っていた人生の、決定的な分岐点。

 

 取り返しのつかない程に、間違ってしまった選択肢だった。

 

 

 雨音は、そんな母親の弱さを、あの時には既に見抜いていた筈だった。

 

 母の危うさを、母の逃避を――母の、間違いを。

 

 分かっていたのに、分からなかった。

 だけど、この時、雨音は思い知らされた。

 

 正しさという言葉の――重さを。

 

 

 母が、見知らぬ男と抱き合い口付けを交わしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その光景を目撃して、まず真っ先に雨音が思ったことは。

 

 ああ、母は逃げたんだなぁ――という失望だった。

 

 その口付けは、とても深く、母は見知らぬその男に身も心も委ねているのが如実に伝わってきて。

 首に手を回し、まるで夢を見るように目を瞑っているその姿は、何かから解放されているかのようでもあって。

 

 端的に言って、とても幸せそうな姿だった。

 

 何をしてるの――と、扉を開けて、静かに問うた娘の言葉に。

 急激に現実に引き戻され、己が間違いを突き付けられ、絶望した母の顔を。

 

 雨宮雨音は、比企谷雨音となった今でも、たぶん一生――忘れることが出来ない。

 

 

 

 この男は何度か母と仕事のしたことのある若手有望検察官で、関係は既に数年に及ぶらしい。

 

 その浮気相手の男曰く、互いに割り切った遊びの関係らしい。この男にも、この時、既に結婚を誓っていた婚約者がいたそうだ。

 互いに己が一生の愛を誓った相手を裏切りながらも、平気な顔で法廷にて正義を語っていたであろうその姿を想像して、雨音は深く深く軽蔑した。

 

 この浮気相手の軽薄な男も、そして、そんな相手に身も心も委ねていた、己が母も。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は幸せな結婚をしたと――実際には、己が持たない才能に、己が持てない正義に、まるで篝火に引き寄せられる虫のように惹き付けられた身分の癖に。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は夫を妻として支えていると――実際には、週の殆どを別々に暮らし、碌に手料理も作れず、夫のスーツの皺を伸ばしたことすら数える程だ。

 

 母は思い込んでいた。

 自分は夫を、そして娘を愛していると――実際は――実際は――実際は。

 

 雨音は、地を這いながら号泣して自分を見上げる母親を見下ろして囁く。

 母親が恐れているであろう言葉を――母親には見せてはいけない、無表情で。

 

 私も、愛して()()わよ――と。

 

 母はその言葉を聞いて声を震わし、嗚咽を漏らす。

 カーペットを握り締める力をギュッと強めて、言うのだ。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――と。

 

 この母親は――モンスターなのだろう。

 羨望だと分かっていたのに、その間違った道から出られなかった。

 

 でも間違っているという自覚があるから、常に何かに怯えていた。

 怖いから、恐ろしいから、正しいことをしていると思い込むことで、その恐怖を紛らわせていた。

 

 夫を、そして娘を――自分がいない場所に遠ざけて、何も見えない場所に逃げ出すことで。

 

 正しくあろうとした。正しくあろうとした。正しくあろうとした。

 だけど、身も、心も、まるでその重圧に押し潰されそうに軋みを上げていて。

 

 そして――母は、お手軽な、過ちに逃げた。

 

 間違っているというのは気持ちよかった。

 インスタントに手に入る快感に溺れた。

 

 目が焼けるような正義の体現者たる夫からも、こんな自分を正しさの求道者だと信じる娘からも、目を逸らすように別人になろうとした。

 

 この人にとって娘とは、自分は正しいと思い込む為の捌け口だったのだろう。

 何度も正しい、正しいと、正しくあれ、正しくあれと、言い聞かせ続けた対象は、娘ではなく――己だったのか。

 

 偽物の正義に縋り続けた挙句、本物の正義の眩しさに目を潰された女だと、娘に見下されていると知らずに――母は、また、ごめんなさいと言った。

 

 その言葉を聞く度に、雨音は強く、固め、高めるのだ。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと――その、殺意を。

 

 それを突き付けるように、雨音は座り込んで、その突っ伏せる頭頂部に向けて、空虚に愛していたと呟いた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その殺意が明確な形を得たのは、それからおよそ数日後。

 

 あれから一度も家に帰ってこなくなった母親に呼び出され、再び雨音が単独で東京へと赴いた時だった。

 

 オシャレなカフェのテラス席で向かい合う美人親子にそれなりの注目は集まっていたが、そこはやはり東京という街か、さして珍しくもないようで聞き耳を立てているような外野はいなかった。

 

 忙しい仕事の合間を縫ってきたという母に、雨音は冷たい無表情で鋭く要件を問うた。

 母は怯えを見せながらも、ぽつりぽつりと娘に先日の件の釈明をした。

 

 あの男とは別れたと。

 浮気相手の男が言う通り、いわゆる遊びの関係だったようで、男の方もあっさりと母の連絡先を消したらしい。

 母は、男に未練がないことを示す為か、娘の目の前で浮気相手の男のものであろう連絡先を、携帯画面を見せながら消去した。

 

 雨音は、母の潔さを感じると同時に、そんな軽い思いで父と自分を裏切っていたのかという憤慨も感じていたが、何も言わずに母の次の言葉を促した。

 

 母は、淡々と、淡々と――懇願した。

 それは、そうならないだろうという諦念に満ちているかのような、か細く、力無い懇願だったが。

 

 娘は、その言葉一つ一つに、まるで狙っているのかという面白さすら感じながら――殺意が形作られていくのを感じた。

 

 母は言った。

 

――あの人には、言わないで欲しい、と。

 

 母は言った。

 

――私は、あの人だけを、愛していた、と。

 

 母は――言った。

 

――あの人に見捨てられるのだけは……耐えられない、と。

 

 この期に及んで、あんな風に――逃げておいて。

 

 目の前の母は、未だ父に――正義に、焦がれているのだ。

 あの輝かしい正義に。あの目が潰れるような眩い正義に。

 

 父という男を、未だに女として愛していた。

 

 哀れだと、そうはっきり思った。

 

 あんなにも正しさに縋り切った女が、己が過ちで全てを台無しにして。

 己が直々に正義を植え付けた娘に失望され、見下げ果てられ、軽蔑されて。

 

 それでもなお、この女は――父という正義に、見捨てられることを恐れている。

 

 母は、遂には公共の場で、メイクが落ちて禍々しい隈が露わになるのも構わずに――娘に対し、懇願した。

 

――お願い……助けて、と。

 

 それはまるで、命乞いのような、見苦しさで。

 

 雨音は、その言葉を聞いた瞬間に決意した。

 

 ああ、殺そう――と。

 

 母の釈明に一つも自分に対しての言葉がなかったからなのか、それとも、父という自分に残された最後の正義(正しきもの)にこんな存在が縋りつくのが我慢できなかったからなのか。

 

 それとも――こんなにも哀れで見苦しい、自分の憧れだった母親に失望することで、傷つく自分のような存在を、守りたかったのか。

 

 決定的な感情(よういん)は何だったのかは思い出せない。

 だが、その時の殺意(かんじょう)は、今でもはっきりと思い出せる。

 

 そして、雨音は、何も言わず、ただ頭を下げ続ける母親を置き去りに店を出て、千葉へと帰り。

 珍しく家にいて、書斎で誰かに電話をしていた父に真っ先に密告した。

 

 洗い浚い、全てをバラした。

 母の不貞を。母の裏切りを。母の過ちを。

 

 母が――正義ではなくなったことを。

 

 父は、娘が無表情で淡々と告げるその言葉を、最後まで黙って聞いて。

 

 そうか――とだけ、呟いた。

 

 

 次の日、父と一緒に東京の母の事務所に行くと、母が死んでいた。

 

 首を吊って死んでいた。

 

 

 自殺という、この世で最も正しくない逃避だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雨音は、その死体を目撃した時、まるで目が覚めたかのように――ハッとした。

 

 豪雨に打たれたかのように、全身から汗が噴き出した。

 

 人を殺してしまったという焦燥感を感じた。人を殺してしまったという恐怖心も感じた。

 人を殺してやったという達成感はなかった。人を殺してやったという優越感はなかった。

 

 ただ――焦り、ただ――怖かった。

 

 殺意はあった。殺してやりたいとは思った。死ねばいいのにとも、確かに思った。

 

 だけど、だけど、だけど、まさか、まさか、まさか。

 

 本当に――死ぬなんて――。

 

 そう呆然と立ち尽くす雨音を押し退けて、父はすぐに母を下しにかかった。

 娘に携帯電話を放り投げて、警察と救急を呼びように命じた。

 

 雨音は、己に命じられたその役目を全うしたのかどうか記憶がない。

 ただ焦り、ただ恐れ、ただただただただ混乱した。

 

 やがて警察が駆け付け――雨音は反射的に父親の背中に隠れた。自分の父親も警察官だということも忘れて。

 やがて救急が駆け付け――雨音は反射的に母親の遺体に縋りついた。自分が殺意を持って追い込んだということも忘れて。

 

 そのまま父と一緒に病院へ行き、大した時間も待たないうちに、医者に残念ですがと言われた。

 

 父が医師に詳しい説明を聞いている間、雨音はこっそり化粧室へと向かい、吐いた。

 一通り胃の中のものを全て吐いて、口と手をゆすいでいると、鏡に映る己の顔を見た。

 

 そこには、殺した女とそっくりな娘が。

 天井からぶら下がっていた母親にそっくりな顔の少女がいた。

 

 ゆっくりと手が首へと伸びる。もう一度個室に駆け込んで吐いた。

 

 胃液の味がすっぱいということを学んで、ふらふらの足取りで父の元へ戻る。

 そこで雨音は、死んだ母親のお腹の中に生命が宿っていたことを知った――女の子のまま死んだ生命。

 

 雨音は再びトイレに駆け込んで吐いた。母だけではなく妹も殺していた。

 妹の父親があの浮気相手であること。そして父の浮気相手が先生であることは、後に知った。

 

 雨音が、正義というものに絶望し、幼馴染が新しい家族となったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 土砂降りの墓地で、己が母親と、そして生まれることのなかった妹が眠る墓を見詰めながら、雨宮雨音が語った過去に。

 

 同じく土砂降りの墓地で、隣り合う、同じく己が母親と、そして生まれることのなかった妹が眠るということになっている墓を見詰めながら、黙って聞いていた比企谷晴空は。

 

 何も言わなかった――何も言えなかった。

 

 雨音は、そんな何も言わない幼馴染に。あるいは、何も言えなくなった生命が眠る墓に。

 

 自供するように、言う。

 

「――きっと、初めから間違ってたのよ」

 

 初めから間違えていた。初めから正しくなどなかった。

 

 父から見捨てられることを恐れた母は、遠く離れた東京で浮気を始めた。

 その恐怖が限界値を超えたのは、きっと先生が家に出入りするようになったからだ。

 

 先生は今から思い出せば、明らかに父のことを女として諦めきれていなかった。

 それに幼い雨音と鈍感な父は気付いていなかった。

 

 父に他意などなかったのだろう。

 先生が母に誓った、あなたの家庭は壊さないという宣言は、きっと心からの決意で語った言葉だ――恐らく、己への戒めも兼ねていた。

 

 だが、明らかに父を女として愛していて、父も心から信頼していて、自分よりも長い年月で培った絆があって、そして、端から見ても、明らかに己よりも相応しいパートナーに見える二人の姿を見て、母はきっと耐えきれなかった。

 

 ある意味で、母は正しかった。

 事実、先生は結果として、己の気持ちを抑えきれなかったのだから。

 先生が堪え切れず父に迫ったのか、それとも足繁く家に通い自分達に尽くしてくれる幼馴染に父が絆されたのか。

 

 母の死後、己が不貞を先生と共に土下座しながら娘に自供すべく自首してきた父の姿を思い出し――どうでもいいことだと、雨音は切り捨てた。

 

 父もまた、正義の体現者などではなく、普通に間違える、只の人だった。それだけの話だった。

 

 でも、先生はあくまできっかけに過ぎない。

 母が父の正義(ひかり)に耐えきれず、東京へと逃げた時点で、遅かれ早かれ雨宮家は崩壊していた。

 

 正義というものに壊されていた。

 

 正義という、分不相応な概念で繋がっていた二体のモンスターは、初めから間違っていたというだけの話だった。

 

「……ねぇ。私、間違っていたのかな?」

 

 雨音は晴空に問い掛けた。

 

 それは土砂降りの雨に掻き消されそうな程の小さな呟きだったが、晴空はしっかりと聞き届けてしまった。

 答える言葉など、返せる言葉など、何も持ち合わせていないのに。

 

 比企谷晴空というクズに、雨宮雨音というモンスターを救えるような言葉など、届けることなど出来ないというのに。

 

 だから、晴空は、隣に座り込み、二つの墓の前で――びしょ濡れの美少女の肩を、荒々しく抱き締めて、言った。

 慰めの言葉でもなく、救いの言葉でもなく、ただ当たり前の事実を告げた。

 

「……あぁ。俺らは、間違えた」

 

 親を殺し、妹を殺した。

 救いなど求める資格もない大罪。本来なら死んで詫びて当然の大罪。

 

「――でも、俺はクズの血しか流れてない、生粋のクズだ。だから自首も自殺もしねぇ」

 

 俺は逃げないと。俺は死なないと。

 自殺に逃げた母親と、自首に逃げた父親を持つ雨音は、己を抱き締めるクズの幼馴染を見遣る。

 

「……でも、お前が死にたい時は、一緒に死んでやる」

 

 逃げるのが怖いなら、死ぬのが怖いなら――間違えるのが、怖いなら。

 

 俺が共犯になってやると――クズは言う。

 

 お前の大罪を一緒に担ってやる。

 過ちを、後悔を、罪悪感を、選択の結果を、俺だけは一緒に背負ってやると。

 

「俺が一緒に裁かれてやる。俺が一緒に地獄に堕ちてやる」

 

 だから、泣くな――と、親と妹を殺したクズは、親と妹を殺したモンスターを救った。

 

 土砂降りの雨に濡れた二人の顔は、もはや拭いきれない雫に塗れていた。

 

 きっといつか――報いを受ける。

 それを心待ちにするように、二人は笑って、雨の音の中で初めてのキスをした。

 

 長い長いキスを終えた頃、雨が止んで、光が差した。

 晴れ渡った空の中、二人は揃って同じ家に向かって帰る。

 

 比企谷晴空はクズのまま。雨宮雨音はモンスターのまま。

 

 二人の大罪人は罪を償うことなく生き続け、自殺も自首もせずに成長し、やがて結ばれ夫婦となった。

 

 もう一人の幼馴染に祝福されつつ幸せな日々を過ごす中、それでも埋まらない心の穴に――時々、言いようのない、隙間風を感じつつ。

 

 やがてクズとモンスターは、比企谷夫婦は、呆気なく相応しくない死を迎える。

 

 

 そこで――黒い球体と出会い、真っ黒な衣を纏いながら、化物達と戦争する新生活の中で。

 

 

 二人の間に子供が出来た。

 

 

 親を殺し、妹を殺して結ばれた、クズとモンスターの間に――新しい、生命が宿ったのだ。

 

 




親殺しであり妹殺しであるクズは父となり、親殺しであり妹殺しであるモンスターは母となる。

そして、クズの父親とモンスターの母親の間に――彼は、生まれる。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。