比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――もちろんよ。あなたが、生まれてきてくれたから。


Side東条――⑤ & Side由香――②

 

 少女曰く――まるで、刻み込まれるような青春時代だったという。

 

 どう頑張って化粧をしても、クラスの上位グループの脇役の位置にしか属せない75点の容姿。

 どう頑張って勉強をしても、B+ランク程度の大学しか受かることの出来ない頭脳。

 どう頑張って練習をしても、レギュラーにはなれてもエースにも四番にも司令塔にもキャプテンにもなれない運動神経。

 

 青春時代の少女の頭の中には、常にとある四字熟語があった。

 

 その四字熟語を、刻み込まれるかのような青春時代だった。

 

 器用貧乏。

 

 決して出来ないわけじゃない。劣っているわけではない。

 だが、どんな分野でも、どんな科目でも――頂点には立てない、トップにはなれない。

 

 五人兄妹の四番目として生まれた彼女は、最下位ではないけれど最上位にはなれない人生を送り続けた。

 

 小学校での成績は常に五位から十位の間。

 クラスでは四番目にモテる少女だった。マラソン大会では見事に八位に入賞した。

 

 中学に上がると二人の彼氏が出来た。どちらも半年から一年の間に別れた。

 部活はソフトボール部に入部し、七番セカンドでレギュラーだった。不動のスタメンだったが、特に優秀選手に選ばれるというわけでもなく、そこそこの成績を残し、県大会二回戦で敗退した。

 

 高校は地区で二番目の進学校に合格した。一番目の進学校は不合格だった。

 成績上位者として張り出される上位五十名には毎回含まれたが、三十位以上に名を連ねることはなかった。部活は入らずに帰宅部だった。

 クラスでは上位グループの三番手としての役割を与えられた。近隣高校との合コンに明け暮れ、それなりにはモテた。彼氏は在学中に三人出来た。

 三人目の彼氏とは色々な初体験を経験したが、希望の進学先が違うと分かった時点で自然消滅した。

 

『………………』

 

 そんな彼女は、青春時代の終わりを告げようとしているかのような、真っ赤な夕陽が差し込む放課後の教室で、進路調査票を眺めながら――決意した。

 

 勝ち組になる、と。

 

 生まれたこの地は、決して田舎ではない――だが、都会でもない。

 生まれたこの顔は、決して不細工ではない――だが、美少女でもない。

 生まれたこの頭は、決して馬鹿ではない――だが、天才でもない。

 生まれたこの体は、決して運動音痴ではない――だが、スポーツ万能でもない。

 

 何も持っていないわけではない――だが、何も、誇れるものが、ない。

 

 決して悪いカードを配られたわけではない。

 あるいは、彼女が何かしら胸を熱くするものに出会い、そのカードのどれか一つでも死ぬ気で磨く努力をしていたら――きっと彼女は、こんなコンプレックスに塗れなかった。

 

 どれだけ頑張ってもというが、彼女はそのどれもにおいて、頑張ることすらしなかった。頑張る前に諦めた。

 

 決して持たざるものではなかった彼女は、やればどれでもそれなりにこなせる器用さを持っていた彼女は、常に己の傍にいた、どれか一つの分野では己よりも優れる者ばかりの方を見詰めていた。

 光り輝く彼ら彼女らを、羨み、妬み続けた彼女は、やる前から諦めて――己の心をみるみる貧しくさせていく。貧乏になっていく。

 

 器用に――貧乏になっていく。

 

 それ故に、ただコンプレックスのみを肥大化させていった彼女は――東京という街に、濁った野心を抱きながら、上京する。

 

 勝ち組になる。

 誰にも見下されない人生を送る。問答無用に幸せだと公言出来るステータスを手に入れる。

 己に配られたこの中途半端なカードを駆使し、手に入れられるだけの最大の幸福を獲得する。

 

 そう決意して、生まれて初めて死力を尽くして、彼女は努力した。

 

 無我夢中で、一心不乱に。

 

 そんな彼女が、己が未来の幸福の為に全てのリソースを費やすと、何でもそこそこ優れた彼女が、己が勝利の為に、己が勝ち組になる為に全てを懸けると選択した分野は――女だった。

 

 彼女は、女を磨いた――研磨した。

 それなりの学力を持ち、それなりの運動神経を持ち、それなりに武器を揃えていた彼女は、手持ちの才能カードの中で――己が75点の容姿に目を付けた。

 

 正確には、東京という街に目を付けた。

 全国有数の名門大学が集まり、全国有数の優秀な若者が犇めく、首都東京。

 

 これからの日本という国を背負うべく、勝ち組になっていくであろう金の卵達が、未だ右も左も分からぬ卵のままで闊歩する街。

 

 確かに、十年後、二十年後は、自分のような存在とは住む世界が違うのだろう。

 だが、今ならば――大学生である今ならば、同じ時、同じ世界を生きている。

 

 同じ街で――終わりかけの青春を生きている。

 やがては選ばれし勝ち組となる彼らでも、今ならば只の男子大学生だ。

 

 遊ぶだろう。遊びたいだろう。

 これまでそのAランク大学に入学する為に、そして卒業後は日本という国を背負って働く為に――遊ぶことなど碌に許されないのだから。

 

 だからこそ、この限られた四年間であれば――器用貧乏な少女のような存在でも、手が届き得る存在である筈だ。

 

 右も左も分からない――女の良し悪しも見抜くことの出来ない、今だからこそ。

 

 将来光り輝く金の卵を――女として、雌として、誘惑し、籠絡し、誑かすのだ。

 

 これこそが、己が人生で最も輝く道に繋がる選択肢だと――彼女は判断した。

 

 真面目にB+ランク大学で勉強し、資格を取り、それなりの安定した人生を送るよりも。

 大学四年間を女磨きに費やし、あらゆる有名大学と飲み会をセッティングし、金の卵の男狩りに費やすことを選んだ。

 

 そんな彼女を、地方出身の娘が東京に出てきてモテるのに必死で滑稽だと笑う者も多かった。

 だが、あまりに本気で、モテる為に懸命に努力をする彼女に――目を奪われるものも多かった。

 

 事実――彼女は、四年間で見る見るうちに美しくなっていった。

 決して痩せすぎることもなくスタイルにメリハリを生むことを目的とした厳しいダイエットをこなし、シーズン毎に流行の最先端を追う為にバイトを幾つも掛け持ちし、肌艶を保つために生活リズムを徹底して整え、留年女というレッテルを回避する為に授業をサボるといったことは一度たりともなかった。

 

 そんな、ある意味でとても真面目な学生生活を送っているのに、その全てを合コンの成功に費やす――だが、決して不真面目に遊び惚けてもいないという奇妙な、けれどとても面白い行動をする彼女の周りには、徐々に人が増えていった。

 

 どうしてそこまでするのと聞かれて、いい男を捕まえる為だと大真面目に答える彼女は、逆に潔いと、合コンでの人気も高まっていく。

 

 そして――彼女の努力が実を結び、美しさが極まった大学四年の夏。

 彼女は、将来の夫となる、とある男子大学生と出会った。

 

 その男は、Aランク大学の医学部に通う、若き医者の卵だった。

 よほど嫌なことでもあったのか、テーブルの隅にて無言で強い酒を次々とかっ食らっていた彼は、無理矢理その合コンに引っ張ってきた彼の友人曰く――代々病院を引き継いでいる家系の、正しく生まれながらの御曹司だという。

 

 決して派手派手しくはないが、整った顔立ちに涼しげな眼差し。

 異様な雰囲気を放っているが故に誰も近づけていなかったが、女子達は一様に彼に熱い視線を送っていた。

 

 だが、器用貧乏な少女にはそんな彼のことが、涼しげな眼差しのクールな美男子とはとても思えなかった。

 涼しげなんてものじゃない。もっと冷たい――凍えるような目つき。

 

 まるで虚空を睨み付けるような――何かに憎悪を燃やすような、殺意に近い執念を抱えているのを感じた。

 

 だが――と、彼女は立ち上がり、周囲がどよめくのも構わずに、その彼の元にカクテル片手に向かって行く。

 

 その酒は決して強い度数ではないが、既にその日はいつも己に設定しているアルコール許容量を超えていた――しかし、彼女は、まるで己を鼓舞するように、そのカクテルを一気に飲み干して、そのまま誰も寄せ付けない彼の真正面の席に座る。

 

 端正な顔つき。国内でも有数のAランク医大出身。医者の卵であり御曹司。

 そして、彼の友達曰く、成績も飛び抜けて優秀らしい。

 

 正しく彼女が探し求めていた金の――いや、黄金の卵。

 既にこの四年間で、出会える限りの目ぼしい逸材とは粗方顔を合わせていた。大学生活も既に四年目の夏――迷っている暇はない。臆しているだけの猶予はない。

 

 彼女はまるで怯えるように震える心を押さえつけて、磨き抜いた笑顔を作る。

 目の前の男が好む仕草、声色で、とにかくこちらに興味を惹いて――。

 

 彼が、その凍えるような眼差しを向ける。

 

 そして――絶句、した。

 

 見えなかった。

 彼の好む仕草が、声色が、話題が、趣向が――まるで、見えなかった。

 

 四年間、あらゆるコネクションを使って、築いて、数え切れない程の男子大学生に会ってきた。

 色々な男がいた。若い雄としての欲望を隠そうとしないものもいれば、どうしていいのか分からずモジモジする男もいる、プライドが高くて欲望を隠そうとするものもいる――だが、その中で、女に対する興味関心がまるでないという男は、一人として存在しなかった。

 

 多かれ少なかれ、形はどうであれ、皆――女に認められたいという欲求は内に抱え込んでいる。彼女は、そんな男の性質を、この四年間で学んだつもりだった。その満たし方も、くすぐり方も。

 

 けど、目の前のこの男は――何なんだ。

 

 女が嫌いだという男もいる。それは理解している。

 だがそれは、こういった合コンという場に出てくる女を嫌っていたり(じゃあ何でお前は来ているんだという話だが)、過去に女に酷い目に遭わせられていたりという、そういった負の感情が見え隠れしているもので、そういったものの見極め方も、彼女は身に付けていたつもり――だった。

 

 だけど、目の前の男からは、そういった負の感情もない。

 

 まるで――いや、でも。

 

 関係ない――勝つ為には、勝ち組になる為には、手段を選ばないとあの日に決めた。

 

 この器用で貧乏な手に掴める限りの最大の幸福を得る為ならば、私は――この化物を、愛して見せる、と。

 

 彼女――将来、湯河由紀となる少女は。

 

 そのまま近くの誰かの飲みかけのアルコールを引っ手繰り、テーブル中の注目を集めながら飲み干して――そして。

 

 ダンっとテーブルにジョッキを叩き付けて、そして、今度は店中の注目を集める程に、全力で初対面のイケメンに向かって真っ赤な顔で叫んだ。

 

『私と付き合ってくださいっ!!』

 

 沈黙に包まれた店内で、その男は――僅かに微笑みながら答えた。

 

『……いいぜ』

 

 一瞬のどよめきの後に、湧き上がる店内。

 

 だが、告白を受け入れられた当人である由紀は、喜びよりも戸惑いの表情を浮かべ、思わず呆然と、何で、と問うていた。

 

 男は――現在も将来も、湯河和也(かずなり)であり続けなければならない青年は、その言葉にウィスキーを傾けながら答えた。

 

 

――お前が、空っぽだからだ。

 

 

 そして、一口、嘗めるように口を湿らせて、言う。

 

 醜いハラワタ抱えてるヤツよりはマシだ――と。

 

 焼き魚の腹を抉り、内臓を取り出す。

 それを凍える眼差しで見据える和也を――由紀は、まるで己の腹の中を覗かれているような心持ちで眺め、寒気を感じた。

 

 そして、その日から由紀と和也は交際を始めた。

 

 

 紆余曲折ありながらも、様々なドラマを経ながらも、二人はやがて結婚し――娘を授かる。

 

 

 湯河由香と名付けられた少女は、両親である彼女等が経験したそれよりも、更に数奇なドラマに巻き込まれていくことになるのだが、それはまた別の物語(ドラマ)だ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どこにでもいる中学一年生女子だった少女――湯河由香の朝は特に早くない。

 

 時間を持て余す程に早朝というわけでもなく、だが寝癖を直す時間を惜しむ程にギリギリというわけでもなく。

 

 ぼうとした頭で半身を起こしたまま十数秒頭を揺らし、ゆっくりと背筋を伸ばしながら欠伸をして、のろのろとした動きでベッドから降りて、カーテンを開けて朝日を浴びるのが、由香の朝のルーティンだった。

 

 由香にとってカーテンを開けるという作業は、ちょっとした朝占いのようなものだ。

 日光を浴びるという作業によって体内時計を目覚めさせるという意味合いもあるが、その日初めて見る空模様で、その日一日の運勢を占うのだ。

 

 まあ空などその地域一帯に住む人達全員の上に等しく広がるもので、全人口の何割もの人間が同じ運勢な訳がないだろうとツッコミが入る血液型占いや十二星座占いよりも運勢占いとしては当てにはならないだろうが、それらの占いと同じくそれを妄信して本気で行動指針にしようという類のものではない。言ってしまえば気分の問題だ。

 

 朝一番に見る景色が、晴れ渡っていれば今日は良いことがありそうだとか、雨が降っていればあんまり良いことがなさそうだなとか、ランキング一位だったらちょっと嬉しくて最下位だったらこれから始まる一日にケチをつけられたような気分になるテレビ番組の運勢占いと同じ程度の、けれど密かな楽しみだった。だから由香は余り次の日の天気予報を見ない。

 

 そして、由香は体に染みついた動きで、自室のカーテンを開ける。

 さて、今日は一体どんな一日に――。

 

 

 目に飛び込んできたのは、空の色ではなく――ガムテープで止められた新聞紙の壁だった。

 

 

「……………………」

 

 今日の天気は、新聞、時々ガムテープ。

 

 さて――今日は、一体どんな一日になるのだろうか。

 

 少なくとも――平穏であって欲しいと、膝から崩れ落ちながら、由香はそう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 夢であって欲しかったが、やはり現実は残酷だ。

 

 もう着ることはないと思っていた学生服を身に纏い、寝癖を直して髪を結んで、自室でやることもなくなった由香は、溜息を吐いてゆっくりと階段を下りた。

 

 そして、そこで目にしたのは――何故か、高確率で母親と自分しかいない湯河家では有り得ない筈の、()()()()食卓。

 

「これ美味いな。もう一杯いいか?」

「いいわよ~。流石に男の子はたくさん食べるわねぇ。あら? 由香ちゃん、やっと起きたの。おはよう、さっさと顔洗ってらっしゃい」

「もうとっくに洗ってメイクも済んでるわよってそうじゃなくってぇぇぇええええ!!」

 

 由香はずんずんとした足取りでリビングに入り、目を吊り上がらせて、父用の茶碗に盛られた山盛りのお替りを受け取ろうとしている男をビシッと指差す。

 

「――アンタ、ここで何してるのよ!!」

「んあ? あはへしふってるんらよ、わふぁふらろ(ああ? 朝飯食ってるんだよ、わかんだろ)」

「分かんないわよ! っていうか何言ってるのか分かんないわよ! 口の中のもん飲み込んでから喋りなさいよ!!」

 

 豪奢ではないが丁寧に手入れがされていて、とても清潔感のある品のいい足の短いテーブルを囲む、朝の一時。

 

 いつもなら、そこには由香用の朝食だけが並べられていて、由香が起きてくるよりも前に朝食を済ませた母が自分用の食器と朝食を作る時に使用した調理器具を洗っている時間帯――の筈だが。

 

 今日に限っては由香用の朝食はテーブルの隅に追いやられ、何故か最も大きくスペースを独占している大男に頻回にお替りをよそう為か、コードを伸ばしてテーブルの近くに配置した炊飯器の傍らに母親は――湯河由紀は待機している。

 

 それだけでも寝起きの頭に痛みが走るには十分な光景だが、問題は我が家で我が物顔で朝飯を食らい続けているこの男――東条英虎と、そして。

 

「そうだぞ、もっと落ち着いて食えよ。あ! っていうか、その鮭の皮は俺んだぞ!」

「残すんじゃねぇのか? 鮭は皮ここが一番美味ぇのによ。もったいねぇ」

「俺もそう思うから最後に取っといたんだよ! おばさん! おばさんの鮭の皮もらっていいっすか!」

「いいわよ~。なんなら、もう一つ焼きましょうか?」

「「いいわけないでしょッ!!」」

 

 高校生相手に鮭の皮で本気でキレるダメな大人が、朝から年下女子(うち一人はJC)にキレられていた。

 

(……うぅ、本気で頭痛い……)

 

 もう一回自室に戻って布団を被れば、本当にこの光景が夢になってくれないだろうか――と、涙を堪えながら由香は、目の前の現実を頑張って直視する。

 

 当たり前の日常だった朝の食卓風景は――既に遠い夢の中で。

 

 何度目を擦っても、何度涙を拭いても、二人きりだった食卓には……何度数えても、実母と、三人の大人、そして一人の(おとこ)が居て。

 

「おう。お前もさっさと座れよ。美味い朝飯が冷めちまうぜ」

 

 つい数十秒前まで山盛りだった筈の茶碗を空にし、鮭の骨をバリバリと噛み砕いている男子高校生――東条英虎が、そう言って本来の住人である由香に着座を促して。

 

「…………本当に、朝から申し訳ありません。……その上、朝ご飯までごちそうになって」

 

 恐縮そうに身を縮こませた、スーツを着た凛々しい女性――等々力志津香が、由香と由紀に申し訳そうに謝罪して。

 

「いいのよ~。むしろ、こんなに賑やかな食卓は久しぶりで楽しいくらい。由香ちゃんも最近はすっかり不愛想になっちゃってねぇ~。(あのひと)は全然帰ってこないし。あ、そちらの刑事さんもどうかしら?」

 

 何故かいつもよりも遥かに上機嫌で、気のせいか肌艶もいつもよりもいいように見えるエプロンを付けた母親――湯河由紀が、窓際に座る草臥れた男に甘ったるい声を掛けて。

 

「……いや、お気遣いなく。俺は日光と水があれば日中活動する上で問題ないので。それよりもこの馬鹿が馬鹿で申し訳ない。今、食ったもん吐かせますんで」

 

 本気で葉緑素を持っていることが疑わしくなってきた草臥れたスーツと草臥れた様相の男――笹塚衛士が、ただ飯食らいの腹に肘を食らわせて。

 

「ごふっ! 先輩、鮭出るっ! もう喉元まで来てるっ! うぷ」

 

 人気も実力もない男――石垣(じゅん)は……まぁ、どうでもよくいつも通り石垣で。

 

「…………かえりたい」

 

 不幸な少女――湯河由香は、静かにそう呟いた。

 

 残念ながら、このカオスな食卓が、彼女の帰るべき我が家の現在の姿だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――で?」

 

 結局、由香は色んな意味で厳しい現実を受け入れて大人しく食卓に腰を下ろし、朝食に手を付け始めると、涙目で真向かいの東条を睨んだ。

 

「ん? 何だ?」

「だから! なんでアンタが――ていうかアンタ達が! うちで朝ご飯を食べてるのかって聞いてるのよ!」

 

 こうした方が美味しいわよと、鮭の骨をグリルで由紀に焼いてもらったものをデザート感覚で咥えている東条に、由香はテーブルを叩きながら叫んだ。

 

「あぁ。なんかよ、昨日の会見が終わった後、(しずか)から電話があってな。マスコミが集まったら鬱陶しいから、しばらく帰ってくるなって言われてよ」

「………………ふーん」

 

 由香は東条を冷たく見据える。

 静という名前は気になったが(母親を呼ぶには気安過ぎたから、妹か姉だろうか。まぁどうでもいいが)、確かにあの会見があった後だと、それぞれの戦士の自宅にはマスコミが集まっているだろう。

 

 ……だが、肝心の質問にはまるで答えていない。

 

「で? で? それで、どうしてうちに来ることになるのよ」

 

 家に帰れないからと言って、どうして湯河家で朝飯を食べることに繋がるのかと、そう当たり前に突っ込む由香に、東条もまた、焼いた鮭の骨をかみ砕きながら、当然のように返す。

 

「――決まってんだろ。お前に会いに来たんだ」

「っ!? は――ハァッ!?」

 

 真っ直ぐに見据えられながらの直球な言葉に、由香は一瞬取り乱しかける――が。

 

 東条英虎の、ニヤリと笑いながらも、その真っ直ぐな瞳に。

 

 由香はすぐに動揺を消され、その――強い眼光に、射竦められた。

 

「――ちゃんと、見てたか?」

 

――見てろ。

 

 由香は、昨日の夕暮れの中に、そう言い残して消えた、大きな背中を思い出して。

 

「…………見てたわよ。ちゃんと」

 

 そう言って由香は――残さず食べ終えた朝食の皿の上に箸を置いて、東条を――強く見据え返して、言った。

 

「だから――私は、学校に行く」

 

 由香は、真っ直ぐに背筋を伸ばして、真っ直ぐに東条に返した。

 

 東条は、そんな由香を見て、満足げに――ニヤリと笑って。

 

「――おう」

 

 と、胡坐を掻いた膝に肘を立てながら言った。

 

 そして、にししと笑う東条に、照れ臭くなったのか頬を染めてそっぽを向きながら由香は言う。

 

「な、何よ! そんなことを聞きに来たの! それならこんな大所帯で来る必要ないじゃない!」

「……まあ彼一人で来させるわけにはいかないというのもあるんだが、警察(われわれ)には我々の理由があってお邪魔させてもらってるんだ」

 

 笹塚はびくびくと身体を痙攣させる石垣の上に腰掛けながら、由香に言った。

 

「――君は、世間的にはGANTZのメンバーとして認知されてはいない。だが、君がGANTZのメンバーであることは我々はその目で確かめた事実だ。それに、池袋であのスーツを着て戦っていたのも事実だ」

 

 由香は、反射的に――私は戦っていないと叫びそうになった。

 

 戦っていないと――戦えてすらいないと。

 

 あの戦場で、あの戦争で――あの池袋で、湯河由香は、戦うことすら出来なかったのだと。

 

 だが、それを由香はぐっと飲み込み、堪える。

 笹塚の言葉がそういった意味ではないということは、理解出来たからだ。

 

(…………)

 

 そんな由香の挙動を、笹塚が低い体温の目で見詰めながら、笹塚は更に言葉を紡ぐ。

 

「あの戦場は衆人環視の状況だった。当然、目撃者も多くいたことだろう。警察おれたちのような公的機関は、公的権力で黙らせることが出来るが、一般人の口までは簡単に塞げない。それも、今のような、一般人が気軽に全世界に情報を発信できる世の中じゃな」

 

 笹塚が一見けだるげに見える態度で言った言葉に、由香は思わずコーヒーと共に唾を呑み込む。

 

 そう、何も記者会見などする必要はない。

 誰もが持ち歩く、あの小さな端末の小さなレンズによって、たちまち顔も名前も、命だって無遠慮に晒される。

 

 当の本人は、指一本を動かすだけで、顔も名前も、勿論――命だって、晒す必要はなく。

 一方的に、安全圏から、気軽に、お手軽に――他人の命を晒すことが出来る。

 

 いつ、その銃口(カメラ)が――己に向けられることになるかも、分からないのに。

 圧倒的な強者の気分で、何の力もない一般人が――人を殺す。

 これが、今現在の、終焉間近にまで進化してしまった世界の姿だ。

 

「……あの戦争の終局時には、あの場に居た一般人の殆どが意識を失っていた。事後処理の時に生還者には、警察こちらからも不用意な情報の拡散はしないように厳命はしたが――まあ、完全な抑止力にはならないだろう。その注目は東条君に集中してはいただろうが……あの場で、あの黒服スーツを身に纏っていた君の姿が、全く記録として残っていないとは考えにくい」

 

 そうだ――例え、戦えていなくても、戦士としての責務を果たせていなくとも。

 全く無価値の戦争だったとしても――それでも。

 

 湯河由香という少女が、黒い球体の部屋の戦士として、あの地獄の池袋に派遣されていたのは事実なのだ――現実なのだ。

 

 あの池袋に、あの黒いスーツを纏って、あの戦争の渦中にいたのは、変えようのない、残酷な現実なのだ。

 

「今のところ政府は、彼ら四人以外の戦士を公にするつもりはないようだが……それもいつまで持つか分からない。故に、現時点で黒衣の戦士だと発覚している君にも、非公式な戦士である君にも、秘密裏に護衛を用意することになった。それが、我々――警察の判断だ」

 

 それが判断なのか――それとも、独断なのか。

 はっきりと口にせずに、だがはっきりと笹塚はそう言った。

 

 湯河由香は、素直に、ありがとうございますとは、言えなかった。

 

(……それってつまりは、護衛という形の――監視、だよね)

 

 昨夜の会見を、由香は母親である由紀、そして笹塚と石垣、等々力と共に、この湯河家のリビングで拝聴していたが――全く何も知らないに等しい由香から見ても、あの会見で政府が全ての真実を話していないことは明らかだった。

 

 そもそも、対星人用に訓練された特殊部隊という大前提からして、自らの認識と異なっているのだ――それを馬鹿正直に笹塚や母親に言うわけにはいかないということくらいは分かる――こうして自分の元に派遣されている笹塚や、もしかしたらこうして笹塚を湯河家に派遣した警察の上層部すらも、真実を知らされずに、ただ命令だからと、国家命令だからと動かされている可能性もある。

 

 もしくは、真実を知らされていないからこそ、真実を明らかにしようと、こうして護衛という名の監視を派遣することで、少しでも闇を暴こうとしているのかもしれない――警察(じぶんたち)にすら隠された真実を、何も知らないに等しい、湯河由香の一挙手一投足から。

 

(……本当に、頭が痛い……)

 

 どうしてこんなことに――と、改めて思う。

 自分は一昨日死んだ筈なのに、どうしてこんな目に遭っているのだろうと。

 

 どうして、生かされているのだろう。

 もしかして、死んでまで、生き返ってまで、こんな目に遭わなくてはならない理由が何かあるのだろうか――何も知らない自分が知らない真実とやらが、どこかに隠されているのだろうか。

 

 だとしたら――真実なんて、こっちが聞きたい。

 

(……でも、そういうのが只の考え過ぎで、本当に護衛として私を守ってくれるだけかもしれないし)

 

 色々考えてみても、一昨日まで只の(ぼっちな)中学生に過ぎない由香が思いつく可能性なんてたかが知れている。

 

 もしかしたら――そのどちらも本当かもしれない。

 護衛であって、監視であるかもしれない。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。

 

 それに――どちらにせよ、何にせよ、由香の取れる選択肢など一つだ。言える言葉など、たった一つだ。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 何も知らない由香は――何も出来ない。

 

 ここで警察の介入を断ることなんて出来ないし、笹塚達を全面的に信用して知っている僅かなことを洗い浚い暴露することも出来ない。

 目の前の公的権力にも、見えない所で己を支配する真っ黒な影にも、身を預けることなど出来やしない。

 

 ただ逆らわず、ただ流されるだけだ。

 中学一年生の自分に出来ることなど――学校に行くくらいのものなのだ。

 

「……学校には、行ってもいいんですよね」

 

 だから、それだけは、はっきりと言った。

 逃げずに――真っ直ぐに、大人の目を見て、思いをぶつけた。

 

(……………)

 

 笹塚は、そんな由香の目を、体温の篭らない瞳で、真っ直ぐに受け止める。

 

「安心してくれ。君の日常生活は、出来る限り尊重する。今後、気軽に朝飯を食べにくるようなことはしない。プライベートには踏み込まない。窓を修理したら、他の人間には気付かれない程度に少し離れた所から護衛させてもらう。君を見守るのは、主に彼女だ」

 

 監視ではなく、あくまで護衛だと――由香の内心を見透かしたように、そう口に出して強調する笹塚。

 当然ながら、由香はその言葉に頷きながらも、額面通りに受け取ったりはしない。笹塚も、それを見越した上での言葉だった。

 

「――改めて、等々力(とどろき)志津香です。よろしくお願いします、湯河由香さん」

 

 笹塚に紹介されたきっちりとした服装の真面目そうな女性は、中学生の由香に対してもしっかりと正座し、昨夕の初対面時と同様に綺麗な敬語と共に頭を下げた。

 

 由香も慌てて頭を下げたが、若い美人な女性が護衛とあって、監視役だと思っていても少しだけ安心してしまう。

 

「先輩先輩! こんな奴よりも俺の方を使ってくださいよ! 先輩の一番の部下は俺――」

「寝っ転がっているからって寝言を言わないでください。口元にご飯粒が付いていますよ。色んな意味で恥ずかしくないんですか? それよりもさっさとさっき頼まれた窓の修理に取り掛かったらどうです?」

 

 笹塚に腰掛けられたままの石垣が突っ伏したまま行ってきたアピールは、一応は後輩である筈の等々力に軽蔑の視線と共に切り捨てられてしまう。

 

(――くぉんのがきゃぁぁあああああああああああああ!!!)

 

 鳥獣戯画のような顔芸と共に無言でムカつく後輩を睨み上げる石垣であったが、当の等々力は石垣のような虫けらは、もとい虫けらのような石垣は文字通り眼中にない。

 

 笹塚はそんな応酬を無視するように立ち上がる――そんな笹塚の足に石垣は縋りつくが、笹塚はどーでもいいと顔面に書いてある表情で石垣を見下すと、石垣はトボトボとした足取りで二階の由香の部屋の窓の修理の仕上げへと向かった。

 

 由香はあんな男が自分の部屋に入ることに生理的嫌悪感があったが、窓の修理が終わるまでは自分が由香の護衛に付くと、笹塚が等々力を石垣の監視に送る――次いで、由紀に挨拶と礼をした後、由香に向かって言った。

 

「――それじゃあ、早速だが学校まで送ろう。表に車を用意してある。そろそろ向かわないと遅刻だろう?」

「あ! ――あ、ありがとうございます!」

 

 起床時間としてはいつもと同じだったが、いつもは手早く済ませる朝食に想定外に時間が掛かった為、既に徒歩では間に合わない時間になっていた。

 

 別に無遅刻無欠席を目指しているわけではないが(昨日は普通にサボったし)、かといって既に着席しているクラスメイト達の注目を浴びながら入室するなど耐えられないにわかぼっちである由香は、遅刻せずに済むのならばと、恐縮しながらも車で送ってもらうことにした。

 

「よし、じゃあ行くか」

「……なんでアンタも立ち上がるの?」

「ん? 俺も行くからだが」

「……何処に?」

「お前の学校にだ」

「何でよッ!!」

 

 …………いや本当に何でよッ!? ――と、反射的に突っ込んだ後、改めて一考し、再び由香は全力で突っ込んだ。

 

 意味が分からない。ていうか分かりたくない。

 

 平日のこんな時間に余所の家で朝食をお腹いっぱい(かどうかは分からないが、少なくとも一般人の胃袋の許容量以上に)召し上がっているのだから、まあ自分が本来通っている学校には登校しないのだろうが(マスコミ対策と言っていたし、地元には近づかないようにしているのだろう。東条の地元が何処かもしらないが。というか東条が学校に通っているのかすら知らないが)、だからと言って、何がどう間違って、この男が由香の学校に登校することになるのだろう。

 

 何の罰ゲームだ。というか、何の罰なのか。

 こんな罰を受けなければならない程に、湯河由香という中一は罪深いのだろうか。

 

(私が何をしたっていうのよ)

 

 確かに昔やんちゃしてた(ていうかイジメしていた)のは事実だが、今現在進行形で世界からいじめられているみたいなものなのだから、お願いだから許してくれないだろうか。

 

 とりあえず、今日登校したら、かつていじめていた張本人に心から謝罪するところからやり直そう、どうせ一回死んだんだしと、由香が本格的に自暴自棄になり始めた所で(へっ、とか笑い始めた)――。

 

「ま、いいじゃねぇか、今日だけだ」

 

 ぽんと、優しく、あやすように、由香の頭を東条は叩いた。

 

「………………」

 

 由香は東条に叩かれた頭を、ゆっくりと自分で撫でる。

 

 それは――ほんの短い付き合いでしかないけれど――東条英虎という男のイメージにはそぐわない声色で、表情で。

 けれど、まるで違和感のない、ただ単に由香が知らなかっただけであるような――そんな笑顔で、一面で。

 

「………………もうっ」

 

 由香は、やり込まれていると自覚しながら、誤魔化されていると自覚しながら――面白くないと、表情一杯で表しながら。

 

「行ってきますっっ!」

 

 鞄を引っ手繰るように肩に掛けて、笹塚と東条の後を追うように、リビングを出て玄関へと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、そんな娘の背中を――湯河由紀は見ていた。

 

 思い返すのは、既に遥か昔のことのように思える、とある懐かしい――青春の記憶。

 

 否、既に青春を終えて、卵ではいられなくなり始めていた、そんな頃の、思い出の一頁。

 

 

 

 由紀と和也が恋人になってから、数年が経過していた。

 

 あの後、由紀は大学を卒業して都内の企業にてOL(オフィスレディ)として入職し社会人となり、和也は誰もが知る大学の付属病院にて研修医となって日々知識を蓄えて腕を磨きメキメキと頭角を現し始めていた。

 

 互いに時間が合わなくなり、顔を合わせる頻度も減少していたが、恋人関係は恙なく継続していた。

 否、それは恋人関係というよりも、恋人契約という形容が相応しいように思えるほどに、システマチックな繋がりだった。

 

 由紀は正直に言えば、和也のことを少し恐れていた。

 あの怜悧な瞳が、感情の見えない表情が、彼の冷たさが恐ろしかった。

 

 だが、それでも懸命に彼のことを好きになろうとした。

 故に一般的に恋人が過ごす日とされるイベントの時は由紀の方からデートに誘ったし、和也の趣味趣向を必死にリサーチして同じものを好きになろうとした。

 

 しかし、和也は医者の卵だけあって忙しく、休みも殆ど合わなかった。

 それでも偶には時間を作って由紀と会っていたが、何度か回数を重ねていく内に、それが自分の家に対するアピールに過ぎないのだということに気付く。

 

 成績優秀。容姿端麗。それでいて、実家は代々続く医者の名家というステータス。

 そんな彼に目を付けるのがまさか由紀だけである筈もなく、彼は当然のようにモテていた。

 

 更に、彼は何度も言うように、代々続く医者の名家の御曹司である。

 当然ながら実家の方からも、然るべき立場の女性と婚約して早々に跡取りとなる子供を設けることを求められていた。

 

 そんな周囲の目を、声を、黙らせる意味での恋人契約なのだ。

 由紀という彼女がいることを、既に決めたパートナーがいることを、アピールする意味合いでの見せつけのようなデートごっこ。

 

 そう――由紀は、まだ何も分かっていなかった。

 勝ち組には、勝ち組なりに、代償としているものがあるということを。

 高嶺の花は高嶺にしか吹かない強風に耐えながら咲き誇っているのだということを。

 

 世間から羨まれるだけのステータスを、金を、地位を、名声を得ている裏側では、当然としてそれに見合うだけの苦労が、苦痛が、苦悩があるということを。

 

 和也はよく、そんな由紀を見透かすように笑った。

 

「安心しろ。結婚はする。子供も作ってやる。お前が望む世界には、俺が連れてってやるよ」

 

――と。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんなある日――和也は、照りつける夏の日差しの中、海沿いの綺麗な景色を一望することが出来るカフェのテラス席にて。

 

 パラソルの作る日陰の中で、うだるような暑さを忘れる程に、冷たい眼差しで由紀を見据えながら言った。

 

 見透かすように、笑った。

 

「…………え?」

 

 この日の為に用意した、この夏流行りのワンピースを身に纏っていた由紀は。

 必死に沈黙を消す為の話題を探していた脳内が、一瞬で真っ白になったことに、ただ戸惑う由紀は。

 

 自分達と同じように男女のカップルが、けれど自分達とは全く違う笑顔で談笑する周囲の光景を、何処か遠い世界のように感じながら――和也の、凍えるような視線と、僅かながらの微笑に、その一枚の画だけに、目を奪われ、呆然とする。

 

 そして、まるで、自分の耳に届く音をも支配されたかのように、その低い声が、波の音すら掻き消して、由香の脳に言葉を届けた。

 

「俺はお前を愛さない。お前が俺のことを愛していないように」

 

 音が消えた。暑さも消えた。

 まるで――殺されたかのような、気分だった。

 

 何かを言い返そうと思った。だけど、何も言葉にならなかった。

 

 怖かった。恐ろしかった。

 けれど――同じくらい、綺麗だとも、思ってしまった。

 

 真っ黒なコーヒーを、そのまま口に含み、遠くを見詰める――湯河和也という、目の前の男が。

 

 今にも死んでしまいそうな程に、脆く、儚く、美しく見えたから。

 

「―――――――――綺麗だな」

 

 和也は、由紀の方をまるで見向きもせずにいった。

 

 まるで見る価値もないと言われているような気分だった。

 彼は、ただ、青い空と青い海だけを見ていた。

 

 目が潰れそうな程に真っ青な海の、その地平線の向こう側に――まるで思いを馳せるように。

 

 この狭い国に、この狭い世界に、嫌気が差しているかのように――突如、表情を歪め、吐き捨てる。

 

「……だが、俺にはお前が必要だ。お前に、俺という存在が必要なように……な」

 

 和也は、まるで契約書を突き付けるように――婚姻届をテーブルの上に滑らせた。

 

 ついでとばかりに、指輪も差し出される。

 あの凍える眼差しで見据えられながら、由紀は、暑い夏の日にプロポーズを受けた。

 

 

「結婚しよう。お互い、望む幸せを手に入れる為に」

 

 

 由紀は、この時の、和也の顔を生涯忘れることはなかった。

 

 答えなど、たった一つしか有り得なかった。

 

 そして、由紀は――悪魔と契約を交わす。

 

 もう、後戻りは出来ない。

 そんな諦めを滲ませる表情で、由紀は――湯河由紀と、なったのだ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「由香ちゃん、ちょっと待って」

 

 そんな回想を終えた由紀は、玄関で腰を下ろして靴紐を結んでいる由香の元にスリッパの音を立てながら向かった。

 

 既に笹塚と東条は車へと向かっていて、由香はそれに対してなのか何に対してなのかぶつぶつと文句のようなものを呟いていたが、母親に呼び掛けられて思わず後ろを振り返った。

 

「ん? なあに、ママ?」

 

 いつもはキッチンで洗い物をしながら、気を付けていってらっしゃいと、言葉を投げ掛けて送るくらいなのに――そう違和感を覚えながらも、由香はこっそりと身構えた。

 

 昨日、一日中部屋に篭り続けた己が娘に対して、あれほど感情を乱れさせた母なのだ。

 あの後の笹塚の説得や由香の弁明によって、今はこうして落ち着いているように見えるが――実の娘が、中学一年生の娘が、唐突に戦場に送り込まれる立場となってしまったことを、完全に納得出来た筈もない。

 

 今、この場には笹塚も、東条もいない。等々力も石垣もいない。

 母と娘の、二人きりだ。

 

 何を言われるのだろうと、無意識に身構える。

 昨日とは逆に家から出るなと言われるのだろうか。それとも、二人きりになったからこそ、昨夜以上にどうしてこんなことになったのだと問い詰められるのだろうか。

 

 そんなこと言われても、そんなことこっちが聞きたいと、昨日と同じことしか言えないのに――そう、表面上は笑顔を作りながらも、内心はほんの少しうんざりした気持ちを抱えながら、由香は母の言葉を待つ。

 

 由紀は、そんな由香に目線を合わせるように膝を折りながら、口元は笑みを浮かべて言う。

 

「……由香。彼は――東条君は、逃がしちゃダメよ」

 

 真っ直ぐに、娘の瞳を見詰めながら、由紀はアドバイスを送った。

 人生の先輩として。年上の女として。

 

 未だ思春期の娘に。青春の真っ只中の少女に。

 かつての自分と、そっくりな娘に。

 

「――は? ハァ!?」

 

 由香は中途半端に紐を結んだ状態の靴のまま、思わず反射的に立ち上がる。

 

 その頬は赤く、けれど頭の中は、恥ずかしさというよりも――戸惑いが大きくて。

 どうして、由紀が――己の母が、そんなことを言うのか分からなくて。

 

 確かに少し過保護で、娘のことを愛しすぎるくらいに愛している母親だけれど――だからこそ、娘に何かアドバイスを送るなど、それがお節介の類ですら、一度たりともありはしなかったのに。

 

 ただ可愛がるだけで、ただ甘やかすだけで――ただ、押し付けるだけで。

 何もしようとは、何もしてくれようとは、してくれなかったのに。

 

「な、なんで――そんなこと言うの!?」

 

 だからこそ、由香は感情的に反発した。

 

 昨日、由香の部屋の扉に喚き散らしていた時のような――己が知らない母親に恐怖する。

 淑やかな笑顔の母親に――知らない冷たい眼差しの母親に、反抗する。

 

「だ、だから! 東条―さん、は、そういうのじゃないって言ってるじゃん! ありえないって、あんなの!」

「別にそういうのじゃなくていいわ。そういう感情を抱いてなくても、そういう関係になろうとしなくてもいい。だけど、それでも、彼の傍にいなさい。彼と――どんな形でもいい――関係を繋ぎなさい。繋ぎ留めなさい」

 

 そう言って由紀は、開けられた扉の先――それなりに広い庭を挟んだその先の、門の前に停められた車の傍で笹塚と並び立つ、逆立つ金髪の大きな男を見据えて言う。

 

「彼は――必ず、凄い人になるわ」

 

 昨日の夕方の衝撃的な初対面の時は、あれほどまでに拒絶していた男に対し。

 

 湯河由紀となり、母親となった女性は、まるで何かを懐かしむような眼差しを送り、呟く。

 

「――私、これでも男を見る目だけは……自信があるのよ」

「……………」

 

 湯河由香は、未だ只の娘である少女は、そんな母親の表情に、言葉に、思わず複雑な眼差しを向ける。

 

 この人が、この母親が――父という男と結婚して、湯河和也という男と結ばれて、どんな人生を送ることになったのか、由香は何となく知っている。

 広い庭付きの大きな家に住むことになって、医者の妻になって、名家に嫁に来て、どんな人生を手に入れたのか――由香は、何となく思い知らされていた。

 

 由紀と和也――若かった二人の結婚は、それはもう周囲の人間に猛反対されたらしい。

 

 跡取りとなる一人息子に相応しい女性をと散々お見合いの場をセッティングし続けていた和也の実家は言うに及ばず、玉の輿に乗る立場である筈の由紀の実家すら余りにも家の身分が釣り合わないと渋い顔を崩さなかった。

 

 結果として、二人は挙式すらせずに、湯河本家とは半ば勘当に近い形で強引に話を進めていった。

 

 由紀は、いずれは継ぐ家なのにそれでいいのかと和也に尋ねたが――その時、研修医としての期間を終えて本格的に医者として独り立ちを始めようしていた身分に過ぎない和也は、まるで吐き捨てるように嗤ったという。

 

『どうでもいい。その内、向こうの方から、頼むから戻ってきてくれって頭を下げに来る』

 

 そういう奴等なんだよと、凍える眼差しで言った和也の横顔を、今でも由紀は覚えている。

 

 結果として、そう時間のかからない内に和也の言う通りになった。

 数々の現場で実績を残し続けた和也に、やがては湯河家の病院を継いでくれと、本家の両親が頭を下げに来た。

 

 その光景を、由香もしっかりと覚えている。

 頭を下げる己が両親――由香にとっての祖父母――に対し、父である和也は散々に煽りつくして嗤い……けれど、その横顔は、由香にとっては何故かとても寂しそうに見えて。

 

 その横に正座していた母は――由紀は、ゾッとするような、人形のような無表情で。

 

 額を床に擦り着けんばかりに頭を下げていた祖父母は――そんな由紀を、呪い殺さんばかりに睨み付けていた。

 

「…………」

 

 由香は、そのまま母の後ろに続く――長すぎる廊下を見る。

 長すぎて、先の方は暗くて見えない。広すぎて、この家はとても寒くて空虚だ。

 

 母は――由紀は、結婚後、夫を支える専業主婦になった。

 

 父である和也は医師として独り立ちした後、瞬く間にその天賦の才を発揮し、外科医としての名声を高めていった。

 だが、医者の世界のルールを無視する傲岸不遜な言動によって各地で敵を作り、すぐに別の病院へと渡り歩くといったスタイルを繰り返すことになる。

 

 故に結婚当初は全国各地を短期間で渡り歩いたという。

 行く先々の病院でトラブルを起こし、だが一方でその腕をメキメキと磨き上げて、強引に己の居場所と必要性を確立し、彼にしか救えない患者を救うだけ救い、盗めるだけの技術を盗んでは去っていく彼は――まるで黒い医者、ブラックジャックだと揶揄された。

 

 全ての不平不満を圧倒的な実力で黙らせる和也。

 そして、その行き場を失くしたヘイトは――妻である由紀へと向かうことになった。

 

 生まれてからずっと、ごく普通の世界に生きてきた由紀。

 普通の世界に生まれたからこそ、普通の世界で育ったからこそ――庶民の世界で過ごしたからこそ、憧れた普通ではない勝ち組の世界。

 

 そんな世界で、生粋の勝ち組が犇めく医者の妻達による社交会は――由紀にとっては、正しく地獄だった。

 

 医者の奥様会というのは、由紀にとってはそれだけで、化物の巣窟のようなものだった。

 代々培ってきた人脈、暗黙の了解、階級制度――全てが、由紀にとっては未知の法律で。

 湯河本家からすら断絶状態の新妻は、そんな中で陰湿ないじめを受け続けた。

 

 和也が職場で活躍すればするほど――夫がルールを無視し、ルールを覆し、反対勢力を問答無用で叩き伏せればするほど、面目を潰された医者の奥様方から、憂さ晴らしとばかりに由紀に矛先が向けられる。

 

 夫には――和也には言えなかった。

 別に和也が何もしてくれないだろうと思ったわけではない。こんなことで弱音を吐けば、同じようにヘイトを向けられながらも己が才覚を以て捻じ伏せている彼に、パートナーとして見下げ果てられるのが怖かったのだ。

 

 でも、器用貧乏でしかない由紀には、和也のように圧倒的な逆境を覆すような圧倒的な実力はない。

 才能もない。頭脳もない。もっといえば、容姿も、運動神経もない。

 

 持っていない。だからこそ――勝ち組に憧れたのに。

 

 憧れた、勝ち組になれたのに。

 待っていたのは――碌に家に帰ってこない夫、度重なる転勤、そして奥様会での陰湿ないじめ、疎遠になった実家、失った友人……。

 

「………………ママ」

 

 由香は、それらを面と向かって聞かされたことはない。

 何となく、うっすらとだが、何度か察する機会があった程度だ。

 

 由紀が選んだ男は、男としては間違いなく優良物件だ。

 端正な容姿。明晰な頭脳。優秀な才能。莫大な給金。

 

 けれど、それらは――由紀という器用貧乏な女性に、一体何を齎したのだろうか。

 勝ち組というステータスは、生粋の庶民であった彼女に、一体何を与えたのだろうか。

 

 それは、ずっと怖くて聞けなかった問いだった。

 うすうす感づいていながらも、返ってくる答えが怖くて聞けなかった問いだった。

 

 男を見る目があるという母――そんな母が選んだ、あんなにも凄い男は、あなたに何を齎したのか。

 

 圧倒的なステータスを誇る夫は。碌に家に帰らない夫は。

 あなたが選んだ男は――湯河和也という男は。

 

「……ママは――幸せなの?」

 

 由紀は、そんな問いかけをしてきた由香に。

 

 今にも泣きそうな顔をしている娘に――目尻に僅かに皺を見せて、けれど、それにより温かみを齎している笑顔で。

 

 正しく、母親の笑顔を浮かべながら、言った。

 

 

「――もちろんよ。あなたが、生まれてきてくれたから」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その日、由紀はただ流れ出ている水道の水を、いつまでもぼんやりと眺めていた。

 

 確か一人分の朝食を作って、食べて、その食器を洗っている最中だったと思うが、よく覚えていなかった。

 

 既に、彼女の心は限界だった。

 

 欲しかったものを手に入れた筈だった。辿り着きたい場所に辿り着いた筈だった。

 勝ち組になった筈だった――勝者になった筈だった。

 

 だったら、どうして――こんなにも惨めなのだろう。

 

 そう考えて、彼女は無意識に、段々と服用量が増えていた睡眠薬に手を伸ばしていた。

 

 情けなくて涙が出た。

 だけど、余りにも、この家は暗くて、寒くて――冷たかった。

 

 夢を見ていたかった。夢を叶えた筈なのに。

 いつまでも夢の中にいたかった。思い描いた夢の中にいる筈なのに。

 

 そんな彼女を、まるで思い留まらせるように――嘔気が唐突に彼女を襲った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 由紀は、お腹を摩りながら、温かい笑顔で言う。

 

「それがあなたよ――由香」

 

 由香は、そんな母親の笑みを浮かべる由紀に、ただ戸惑いの表情しか返せない。

 

 絶望の極地の中、知らされた由紀の妊娠。

 その日、珍しく早く帰って来た和也は、その知らせを聞いて――小さく微笑んで。

 

『――よくやった』

 

 と、言ってくれた。

 

 その後、和也は淡々と由紀に告げる。

 

 これから数年、海外の病院にて研修を受けることになるということ。

 海外には単身赴任で出張するということ。そして、帰国後は、とある病院にスカウトされている為、そこに腰を落ち着けるつもりだということ。

 

 それからは、まるで何かに導かれているかのように、全てが良い方向へと転がっていった。

 

 和也は、由香が生まれてからしばらくしてアメリカへと研修に向かった。

 その間は、初孫が生まれたことで繋がりが回復した由紀の実家、つまりは由紀の両親と兄妹達の助けを受けながら子育てに奮闘した。

 

 和也は由香が小学校に上がるくらいの頃に日本に戻り、千葉県のとある救命センターへと就職した。

 

 そこでは大学病院時代のような陰湿な奥様会は存在せず、共に相談に乗ってくれるような優しい奥様達に迎えられて、頼りになるママ友が出来た。

 

 相変わらず和也は中々家に帰ってくることは出来なかったが、それでも以前よりはずっと顔を合わせる頻度が多くなった。

 

 由香は、由紀にとって、正しく幸せを運んでくれた天使だった。

 

「あなたは、私に幸せをくれた。あなたは、私の全てなのよ」

 

 手に入れた筈の勝ち組――幸福な人生。

 それに押し潰されそうになっていた中で、生まれた娘は、由紀にとって孤独を癒してくれた新しい光だった。

 

 由香が居てくれれば、何でも出来そうな気がした。

 私は幸せだと胸を張れた。この子を幸せにすることが自分の幸せなのだと理解した。

 

 だから由紀は、由香には望むものを何でも与えてきた。

 欲しいものは何でも与え、やりたいことは何でもやらせた。

 

 自分に似て何でもそつなくこなす彼女。

 自分に足りなかったのは、自分に対する――自信だけ。

 

 だからこそ、褒めて、褒めて、褒めて伸ばしたのだ。

 

「……………」

 

 由香は、母親の笑顔に、真っ直ぐ笑顔を返すことが出来なかった。

 

 余りにも温かすぎる母の愛情は、娘を厳しい寒さを知らない子供に育てた。

 

 温室育ちのエリートは、温室しか知らない彼女の愛娘は――厳しさを知らず、痛みを知らない少女となり、その純粋さ故に過ちを犯した。

 

 母が植え付けた養殖ものであった、娘の根幹となっていた根拠のない自信は――その中身は空洞で、故に容易く折れてしまって。

 

 そんな、母の期待に応えられなかった娘であることに、顔を俯かせる由香の頭に――由紀は、優しく、温かく、手を乗せる。

 

「あ――」

 

 それは、先程の東条のように力強く、ごつごつしたものではなく――小さく、柔らかい、まるで包み込むような掌で。

 

「――いいのよ。ごめんなさい。……私は間違っていた。あなたはいい子だけれど……私はいい母親ではなかったわね」

 

 由香は、その言葉に唇を噛み締める。

 違う――自分はいい子などではない。

 

 許されない行いをして、当然の報いを受けた悪い子だ――悪い人間だ。

 親の育て方が悪かった――そんな逃げは許されない過ちを犯した、受けるべき罰を受けている罪人だ。

 

 合わせる顔がなくて、親に顔向けできない由香の頬を、優しく挟んで――由紀は目を合わせる。

 

 それは、由香の知らない母親だった――見たことのない温かい眼差しだった。

 

「由香――幸せは、誰かに与えてもらうものじゃない。自分で勝ち取るものなのよ」

 

 私はそれに気付くのに、何十年も掛かったけれど――と、眉尻を下げながら、それでも己のことを棚に上げて伝える。

 

 自分の失敗を、自分の後悔を、自分の過去を、自分の無様を。

 包み隠さず伝えて、同じ轍を踏ませないようにすること――それが、親の仕事だと。

 

「その為に、彼を利用しなさい。彼に頼り、彼に縋りなさい。……あなたは――」

 

――戦わなくて、いい。

 

 由紀は、そう――由香に、言った。

 

 それはまるで、祈るように、願うようで。

 

 由香は――瞠目しながら、真っ白になった頭に、母の言葉を刻み込んでいく。

 

「世界なんて守らなくていい――自分の身を守りなさい。地球の為なんかに戦わなくていい――自分の為だけに逃げなさい」

 

 命なんて懸けなくていい。誰よりも活躍する必要なんてない。

 価値ある戦争なんてしなくていい。見ず知らずの人の為になんか――死ななくていい。

 

「あなたは戦士じゃない――女の子よ。だから、男に守られていればいいの」

 

 自分の幸せの為に――利用する。利用し合う。

 

「ママは、パパとそうやって――幸せを手に入れたわ」

 

 湯河由紀は――瞳を潤わせ、娘の肩を、強く掴みながら。

 

 震える手で、震える声で。

 

 器用に――笑って見せた。

 

「いい女は、いい男に――守ってもらうの……っ。それが、強さよ」

 

 だから――どうか。

 

「………………死なないで……ッ」

 

 遂に、堪えきれず、娘の肩に涙を染み込ませた母に。

 

 湯河由香は――不幸な、親不孝な少女は。

 

「………………ごめんなさい」

 

 誰にも聞こえないように、そう呟くことしか出来なかった。

 




不幸な少女は――親不孝な少女は、死なないでと言う母親に、ごめんなさいと、そう呟くことしか出来なかった。

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