比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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それでは――喧嘩を、しようか。


Side東条――⑥ & Side由香――③

 

 由香は、恐らくは覆面パトカーなのであろう普通車の後部座席で、シートベルトをしながら窓の外を眺めつつ、先程の母との会話を回想する。

 

(……ママは……変わった。昨日の、あの会見を一緒に観た後までは……戸惑って、困惑するばかりだったのに)

 

 過保護で、甘くて、そのくせ――願望と期待をぐいぐいと無意識に押し付けてくる母親。

 何でも我が儘を聞いてくれるけど、一緒にいて息苦しい母親――それが、由香にとっての、由紀という実母だった。

 

(……私が説明を放棄して、自分の部屋に戻った後――誰が、ママを変えたんだろう?)

 

 決まっている――母に、改めて問い直すまでもなく、そんな相手は一人しか有り得ない。

 笹塚衛士でも、等々力志津香でもない。ましてや石垣荀などでは有り得ない。

 

 湯河和也――由紀の夫であり、由香の父である、あの男に決まっている。

 

「…………」

 

 由香にとって、和也という父親は――由紀という母親とは真逆の存在だった。

 

 過保護ではない。甘くもない。

 そして、願望も期待も――寄せられたことすらない。

 

 時折家に帰ってくるけれど、和也はテレビすら点けない無音のリビングでただ強い酒を静かに飲むだけで、そして朝になった時には既に家にいない父親だった。

 そんな父親に構ってもらおうと100点のテストを見せびらかせたこともあったけれど、和也は無表情を崩さずに、そうか、としか言わなかった。

 

 いつしか、由香は偶に父が家に帰ってきていても、話し掛けずにむしろ率先して自室に逃げ込むようになってしまった――はっきり言って、苦手だった。

 

(…………でも、ママが電話を掛けたってことは……パパも、今の私の状況は……知っているってことだよね)

 

 由香は携帯の電話帳を開く。

 そこには、一応の形として登録してある父の携帯の電話番号、そして、職場のPCのメールアドレス。

 

 今まで一度も掛けたことも、掛かってきたこともない番号は――やはり、着信履歴の欄には、どこを探しても羅列していなくて。

 

「………………」

 

 由香は携帯を鞄に仕舞って、横に座る男を見る。

 

 母は――由紀は、たった一晩で、まるで見違えるように変わっていた。

 強く、なっていた。まるで、生まれ変わったかのように。

 

 それはきっと、男を見る目があると自称する母が選んだ男が、たった一つの電話で導いた結果なのだろう。

 

 だとしたら――母は。

 ならば――私は?

 

 そんな男に出会えるだろうか。そんな男に――変えてもらえるのだろうか。

 母にそっくりだという私にも――そんな出会いは、そんな男は。

 

 

――彼を、逃がしちゃダメよ。

 

 

 横に座る男は――隣に座る由香の方を見向きもせず、ただ真っ直ぐに前を見据えていて。

 

「――――ねぇ」

 

 由香は、そんな彼に向かって何かを言おうと声を掛けようとするが――それを遮るように、覆面パトカーは停車した。

 

「――着いたぞ。この学校でいいんだよな?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 千葉県の、とある公立中学校――校門前。

 

 全く縁もゆかりもない、無関係極まりないその場所で。

 

 

 何故か――東条英虎は仁王立ちしていた。

 

 

「全く知らねぇ学校だぜ」

 

 ぶっちゃけ、ここまで意図的に描写しなかったが――この男、真っ黒である。

 

 上も下も真っ黒の黒ずくめコーデである。ていうか、ガンツスーツである。

 

 昨夜、視聴率75%と空前の数値を叩き出した(無論、強制ジャックしたわけではない)『英雄会見』――その場に出席していた男が、出席した時と同じままの姿で、無関係にも程がある何の変哲もない公立中学校の校門前に、腕を組んで仁王立ちしているのだ。

 

 当然――騒めく。

 ざわざわする。ざわざわするのだ。

 まるで某賭博黙示録のように。

 

 え? マジで? ――と二度見をしながら登校していく、同じ制服に身を包んだ学生達。

 そんな注目や騒めきをものともせずに、仁王立ちし続ける男の背中を――湯河由香は。

 

 空を見上げ、涙を拭いて、あぁ、今日の空はこんな色だったんだと、今更ながらに日課を終えて、呟く。

 

「…………かえりたーい」

 

 それは最早、棒読みでしかなかった。

 

「……いや、気持ちは分かるが……早く行った方がいいんじゃないか?」

 

 笹塚はそんな少女の煤ける背中を見遣りながら、心底同情しつつも登校を促す。

 

 由香は、え? なに? こんな状況で背中を押すとか鬼オニなの? といった目で笹塚を半ば睨み付けるように見上げるが――笹塚は、そんな由香の目線を誘導するように、少し先の離れた場所に立つ東条の方を指差す。

 

 すると――笹塚が指差す方向から、すなわち東条のいる方向から、なにやら男子の歓声が響く。

 

 由香は、出来ればもう何も見たくもないし聞きたくもなかったのだが、まるで諦めろと言われているかのように、目と耳はその光景と歓声を情報として受け入れてしまう。

 

「やべー! かっけー、本物のガンツだ!」

「でけー! すげー! はんぱねぇー!」

「サインして! そんで握手! 僕と握手!」

 

 中学生男子のハートを鷲掴みだった。

 

 勇気を出して近づいた何人かの少年が握手をしてもらえたら、一気に爆発的に男子中学生が大きな黒い男の周りに集結した。

 

 もういや……――と、同年代男子のガキさに脱力感を覚えるが、これがある意味での世論を現わしている光景でもある。

 

 昨夜の会見は、正しく衝撃と言える影響をこの国に響かせた。

 星人の存在。そして、特殊部隊GANTZのお披露目。

 

 朝から新聞各紙、そして各局のコメンテーター達が、盛んに議論を交わしていて、堂々と少年少女兵を使うことを宣言した現内閣への批判も凄まじく、未だに星人の存在を疑問視する自称専門家もいるけれど。

 

 目の前の彼らのように、ある意味では大きな勢力の目論見通りに、純粋に星人を悪の存在とし、そんな彼らと戦うGANTZ戦士達を英雄視――ヒーローとするもの達も、一定数存在した。

 

 特に、中学生男子にとっては、二刀流で敵を薙ぎ払っていく桐ケ谷和人と、豪快なパワーで敵を薙ぎ倒していく東条英虎で人気が二分していた。(ある意味では、新垣あやせ(ガンツスーツver.)に人気が集中しているのだろうが)。

 

 つまりは、正に今、校門前(こうら〇えん)で僕と握手!状態なのである。

 

「すげぇ! え? 本物?」

「おう、本物のごはんくんだぞ」

「ん? ごはんくん?」

 

 本人は全然分かってなさそうだが。何かのバイトの時とごっちゃになっている。

 

「……出来れば、これ以上騒ぎになる前に撤収したい」

「分かったわよ! 登校すればいいんでしょうすればぁ!」

 

 まるで不登校児の逆キレのようなセリフを吐き捨てながら、由香は力強い一歩を踏み出す。

 

 握手会会場となりかけている集団からなるべく関わらないように、全力で他人の振りをしながら由香は早歩く。

 

 そして、その横を通り過ぎる瞬間――由香は、ちらりと東条の方を向く、と。

 

 

 東条英虎は――由香の方を見向きもせずに。

 

 ただ――獰猛に笑い、牙のような、拳を突き出していた。

 

 

「………………」

 

 由香は、早歩きだった足取りを、更に一歩、力強く踏みしめ――走り出す。

 

 そしてぐっと、その小さな手を、拳に固めて、突き出した。

 

 小さく――口元を緩ませて。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 中学生男子の集団から笹塚に引っ張り出された東条は、そのまま再び覆面パトカーの後部座席に乗り込んで、新たな目的地を目指していた(由香の護衛兼監視は等々力が学校に到着するまで別の女性警官に任せてある)。

 

「――どうして、わざわざここまでしたんだ?」

 

 しばらく無言の車内だったが、やがてすれ違う車が少なくなり、周りの風景にも自然が多くなってきた頃、笹塚はそう東条に問い掛けた。

 

 東条は、後部座席から流れる景色を眺めながら、小さく微笑みながら言う。

 

――虎兄! 俺を強くしてくれ!

――俺も虎兄ちゃんみたいになりてぇ!

――ちょっとぉ……やめなよぉ、虎お兄ちゃんに迷惑だよぉ。

 

――ありがとね。いつもうちのチビ達の面倒見てくれて。あの子もアンタに懐いてるし……偶にでいいからお兄ちゃんしてあげてよ。

 

 

――……虎。おめぇはそれなりに強え。が、今のままじゃ、それなりだ。今のオマエじゃあ、背中が軽過ぎる。

 

 

――背中は任せたぜ

 

――はいっ!!

 

 

「ハッ――ガキは守るもんだろうが。たりめーだろ」

 

 

 一度静かに瞑目し、すぐに目を開けた男は。

 

 東条英虎は、まったく気負いのない声色で、背負うと決めたその重さを言葉にする。

 

「………………そうか」

 

 笹塚は、そう呟き、胸ポケットに手を入れ。

 

「――耳が、痛いな」

 

 何も取り出すことなく、再び両手でハンドルを握った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……着いたぞ。ここでいいか?」

 

 その後、しばらく車を走らせて、太陽が頂点に昇った頃。

 

 覆面パトカーは、とある山道の前に停車していた。

 

「……あぁ。いい感じだ」

 

 後部座席の扉を開けて、車外に出た東条は、目の前に広がる山道――いや、最早、森と表現するのが相応しい程に鬱蒼とした大自然を前に、不敵に、獰猛に、笑ってみせる。

 

 そして、犬歯を剥き出しにして、牙から唾を滴らせるように宣言した。

 

「じゃあ――俺はこれから山に篭るぜ。送ってくれてサンキューな、お巡りさんよ」

 

 東条は山道に背を向けて、片手に最低限の荷物の入った小さなザックを背負いながら、笹塚に向かってその笑みを向ける。

 

 笹塚は、その笑みを見せつけられて、言うだけ無駄だと悟りながらも、まるで義務を――職務を果たすかのように、溜息を吐きながら東条に問う。

 

「……本当に、護衛は要らないのか?」

「要らねぇ。修行の邪魔だ」

 

 それは今朝、この計画を知らされた時に既に断られていたことだったが、こうして東条が篭ろうとしている山を目の前にすると、もう一度問わずにはいられなかった。大人として。刑事として。

 

 これが心配する気持ちからなのか、いざという時の責任回避の為――とは、思いたくないが。

 

(……まぁ、万が一の時は、国の方がなんとかするか?)

 

 東条英虎に対しては、湯河由香と違って正式に護衛任務が“上”から降りている。

 だが、それも本人の自由意志を推奨するという前文が付いており、その場合においては、警察ではなく国の特殊部隊から派遣される人材が、秘密裏に東条英虎を護衛、及び監視するという手筈になっている。

 

(……特殊部隊、ねぇ)

 

 今回の件において、どれだけ警察という組織が蔑ろにされているのか、よく分かる事例だ。

 

 国は、徹底して、星人及びGANTZに置いて、警察が深入りするのを防ぎたいらしい。この期に及んで。

 肝心な所は全て自分達の私兵が行い、警察は世間の混乱を抑えることに専念しろという。詳しいことは知らされないままに。

 

(……だが、全ての警察官が、そんなに物分かりがいいヤツらではないってことくらい理解しているだろうに)

 

 笹塚の同期の、彼にしかり。

 そして、そんな人材が、まさか笛吹だけである筈もない。

 

 そして、そして――そんな人材を擁するのが、まさか警察だけである筈もない。

 

 自衛隊にも、テレビ局にも、新聞局にも、そして民間企業にも。

 

 昨夜の『英雄会見』を視聴して、何かが動き始めていることに――否、ずっと自分達の知らない所で動いていた何かがあったということに気付き始めている人間が、そして、そのまま動かされていては、流されていては危険だと、そう気づき始めた人間が、少なからず、そこら中に存在している筈だ。

 

 そして、そして、そして――そんな人材を擁しているのが、まさか、この国だけである筈もない。

 

「………………」

 

 世界が――動く。

 

 間違いなく、劇的に。

 

 そして、そして、そして、そして。

 

 その中心に近い場所に、きっと、この大きな少年は――。

 

「――行くのか?」

「ああ。その為に来たからな」

 

 車を降りて、東条の隣に立つ笹塚は、相も変わらず体温の感じさせない調子の声で、静かに無感情に問い掛ける。

 

「……君は、GANTZの戦士として顔を晒している。……人里離れて一人になれば、間違いなく……星人とやらに狙われるぞ」

「そうじゃなくちゃ意味がねぇ。望む所だ。俺は、その為に来たんだからな」

 

 東条は、同じ言葉を繰り返す。

 その目は最早、笹塚の方など向いていない。見向きもしない。

 

 ただ、真っ直ぐに、一点だけを見詰めている。

 

「俺は――強くなりに来たんだからな」

 

 山に篭り、修行する。そうすればパワーアップして強くなる。

 そんな漫画のような発想で、漫画のようなことを実行する、漫画のような男。

 

 だが――笹塚は、確信している。

 この東条英虎という男は、間違いなく、漫画のように強くなるのだろう。

 

 最短期間で、最短距離を突き進むのだろう。

 

 真っ直ぐに見据えている、その先に――。

 

「――あの“オニ”に、辿り着く為にか?」

 

 笹塚は、薄く靄がかかったように、はっきりと思い出せない、あのオニ達の姿を思い浮かべる。

 

 東条は――その言葉に対し、振り向かず、力強く、一歩を前に踏み出して。

 

 舗装された道路から、独特の感触の地面の上へと踏み出して。

 

 ただ一言、刻み込むように、こう言った。

 

「もう――誰にも、負けねえ為にだ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ざわざわと、騒めきに満ちる教室の、後方のドアから音もなく由香は室内に入った。

 

 一日ぶりの登校ではあったが、既にその殆どが登校しているクラスメイト達の注目は、先程まで校門前で仁王立ちしていた窓の外の『英雄』に向けられていて、由香の登校に気を留める者は誰もいなかった。

 

 否――何も今日に限った話ではない。

 教室に、学校に、由香の出席や欠席を気に掛ける――友達はいない。

 

 一年前のあの日から、あの林間学校の日から、湯河由香にとって学校とは、ひとりぼっちで過ごす場所――誰の注目も浴びない場所になっているのだから。

 

 初めはそんな学校生活が酷く惨めで、恐ろしく感じていたものだったけれど、やがて一年が経ち、小学校から中学校へと進級し、自分の所業を知らないクラスメイトも増えて(そんな彼ら彼女らも、由香と同じ小学校から上がってきた生徒の由香への視線や空気を感じて、暗黙の了解を察したかの如く、由香に近づいて来ようとはしなかったが)、かつて一緒にいじめに加担していた子達ともクラスが分かれて――誰も何の接触もしてこないことに慣れて、最早それが楽にすら感じるようになっていた。

 

 むしろ、下手に声を掛けられたり、注目を浴びたりする瞬間が不意に訪れる(授業中に教師に当てられたりだとか)ことに、逆に恐怖を感じるくらいだ。

 始業のチャイムギリギリの登校――扉を開けた瞬間、クラス中の注目が、一瞬、ほんの一瞬であるが集まり、空気が止まるかもしれないという危惧もあったので、このことだけは東条に感謝してもいいくらいだ。

 

 そんなことを考えながら、相も変わらず、教室中の視線や注目が一切向かない、孤島のような自分の立ち位置を確認し、表情を消し、気配を殺しながら、ぽっかりと空いた自分の席に向かう。

 

 教室の真ん中の列の、最後方。

 個人的に、この上ないポジションだ。常にクラスメイト達に背中を向けられている所がたまらない。

 

 由香は――真っ黒なスーツが底に詰めてあるバッグを机に掛けると、そのまま『英雄』との握手に浮足立つ男子達と、昨夜の会見での桐ケ谷和人の雄姿を甲高い声で語り合う女子達の声を、BGMのように聞き流す。

 

 まるで、自分だけ一人、重い水の中に潜っているかのように――その声は、そのBGMは、由香の耳には届かない。

 初めの内はこれ見よがしにイヤホンを付けていたが、今ではそんなものなくとも、鬱陶しい雑音をシャットアウト出来るようになった。

 

 寝たふりをするのもいいが、クラスメイト達に自分の寝顔を見られたくない――どうせ、誰にも見られていないと分かっていても。そんな過剰な自意識に、由香はまた惨めな思いを膨れ上がらせる。

 

(…………あ~。やっぱり、ちょっとキツイな。一回、心折れちゃった後だから……特に)

 

 もう、こんな思いをすることはないと思っていたのに。

 もう、こんな場所に来ることなんて、ないと思っていたのに。

 

 だけど――と、由香は、寝たふりもせずに、溢れかけた涙も引っ込めて。

 

 顔を伏せるのを必死に堪えて、その顔をゆっくりと――窓際に向ける。

 

 そこには、この教室におけるもう一つの孤島があった。

 一つの室内にこれでもかと押し込まれた三十数名もの人混みの中で、ぽっかりと空いた、人を寄せ付けずに浮かび上がるもう一つの孤島。

 

 由香のように教室の最後方ではない。

 日当たりがよく、柔らかい風が通る人気スポットを独占する、その孤島の主である――孤高な少女は。

 

 今日も、その美しい黒髪を靡かせて、猫のブックカバーを掛けた文庫本に目を通しながら、クラスメイト達の喧騒の一切をシャットダウンしている。

 

 クラスメイト達に存在を認知されていない由香とは違う。

 黒髪の孤高の少女の美しさは、誰もが目を向けずにはいられない――だが、誰一人として、彼女に声を掛けられる者など存在しない。

 

 その姿は、孤独ではなく、正しく――孤高だった。

 由香は、自分とは違う――その強い姿に、やはり、憧憬を抱かずにはいられなくて。

 

(……あぁ。やっぱり……違う……)

 

 彼女が眩しく美しい程に、自分がいる場所が暗い影の中のように感じて、思わず目を伏せ俯きかける――が。

 

(…………違う? ……なんか、違う。……今日の、あの子は――)

 

 それは、ほんの僅かに感じた違和感だった。

 ずっと――あらゆる感情を篭めて、その横顔を見つめ続けてきた、日陰の彼女だからこそ気付けた違和感。

 

 孤高の少女は、今日も美しい。

 彼女の周囲からは中学生の姦しい雑音など消え失せて――静寂に満ち。

 そのさらさらとした絹糸のような黒髪が靡く様は、見ているだけでうだるような暑さを忘れさせる。

 

 そんな彼女を見つめる度に――由香は毎日、死にたくなった。

 毎日、毎日――殺されているようなものだった。

 

 あの孤高の少女が、怖くて、恐ろしくて――でも、同じくらい……でも、それ以上に。

 

 本当に、綺麗で――美しいと、思ってしまって。

 

 見詰めずには、いられなかった――だから、気付いた。

 この教室で、湯河由香だけが――鶴見留美の、変化に気付いた。

 

 今日の彼女は――美し、過ぎる。

 それは、今にも壊れてしまいそうな、氷像のような美しさ。

 

 まるで――罅が入ったかのように、脆く。

 まるで――今にも溶けてしまいそうな程に、儚く。

 

 そう――彼女は、微笑んでいた。

 

 いつも文庫本から時折目を離して、ここではない何処かへと、窓の方に向ける彼女の横顔。

 ここではない何処かへ、ここにはいない誰かへと向けているかのような、あの美しい無表情が――今日は、なかった。

 

 まるで、失われたかのように――忘れてしまったかのように。

 

 そんな自分を嗤うかのように――彼女は、笑っていた。

 脆く、儚く――微笑んでいた。

 

 鶴見留美は――まるで、今にも死んでしまいそうな程に、美しかった。

 

「――――っ!」

 

 由香は思わず立ち上がった。何かを言わなければと思った。

 

 そんな彼女を、周囲の幾人かのクラスメイトは少し訝しげに見詰めた。

 既に始業のチャイムが鳴り、もうすぐ担任がHRにやってくるという時間だったからだ。

 

 次々と、クラス中に島を形成していた生徒達が、散ちり散ぢりに自らの席へと着席すべく分散していく。

 そんな周囲の行動に、由香は思わずしり込みをしてしまう。注目を浴びたくない。もう、あんな目を向けられたくない。

 

 何かを言わなければと思った。だけど、何も言葉にならなかった。

 そもそも、何と言えばいい。彼女があんな表情をしている理由も分からないのに。彼女から、何が失われて、あんな美しくなったのか――皆目見当もつかないのに。

 

 そもそも、あの日から、自分は彼女と一言も会話を交わしたことなどないのに。挨拶すらもしない仲なのに。一方的に――憧れているだけなのに。

 

 湯河由香と、鶴見留美は――友達では、ないのに。

 

 元いじめっ子で――元いじめられっ子。

 元加害者で――元被害者。

 

 それだけなのに。

 

 弱者と――強者。

 憧憬と――背景。

 

 湯河由香と、鶴見留美は――ただ、それだけの。

 

「――は~い。席に着いて下さい。HRを始めま……あれ? 湯河さん?」

 

 教室中の注目が、たった一人の少女に集まる。

 

 脂汗が滲む。喉が急速に乾く。

 心拍数が、みるみる内に上昇するのを感じる。

 

 それでも由香は、がんがんと鳴り響くBGMを必死に無視して――力強く、足を進める。

 

 この教室の中でたった一人――自分に見向きもしない少女に向かって。

 

(…………怖い……でも――)

 

 こちらを見向きもしない背中。艶やかな黒髪が靡く、その小さな背中。

 かつて自分が無慈悲に踏みにじり、そして――愚かな弱者を、救ってくれた、強者の背中。

 

――『――走れる? こっち。急いで』

 

 一度、由香は目を瞑る。

 思い起こすは、由香にとっての、もう一人の――『英雄』の背中。

 

――『――ダチを守れて、初めて楽しいケンカなんだろうが』

 

 小さな足で、一歩、そしてまた、一歩。

 

 そして由香は、儚く、脆い、美しい少女の傍らに立つ。

 

 この時、ようやく初めて、留美は由香の存在に気付いたとばかりに目を向けた。

 

 真っ黒な真珠のような瞳が、由香に向けられる。

 

(―――――――――綺麗)

 

 由香は、思わず反射的にそう思った。

 けれどそれはやはり、まるで大切な何かを失ってしまったかのような、混じり気の無い――黒色で。

 

 由香は――あの日、留美がそうしてくれたように。

 真っ暗な闇の中から、真っ黒な恐怖の渦から、手を引いて走って連れ出してくれたように。

 

 震える声で、震える手を差し伸ばしながら。

 その――大きな一歩を、涙を零しながら、勇気を奮って、踏み出した。

 

「……っ! あの――鶴見……ッ、さん!」

 

 ごめんなさい。

 

 ありがとう。

 

 伝えたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。

 

 聞いて欲しいことが、聞きたいことが、溢れて――止まらない。

 

 だから、まずは――。

 

「あの! ……私とッ!」

 

 

 最初に湯河由香は――自分の道を選び取る。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「道に迷った」

 

 山籠もりの修行を初めて一時間が経過。

 

 東条英虎は遭難した。

 

「参ったぜ。どっちが右かも分からねぇ」

 

 そう言って真っ黒な右手で、どう考えても日本に生息していないであろう醜悪な野生動物を、未確認生物を、数十メートルに渡って樹木を薙ぎ倒す程に勢い良く殴り飛ばすパンチを繰り出しながら、東条は首を捻った。

 

「そういえば、日本にも野生のライオンっていたんだな。初めて見たぜ」

 

 極採色の輝く鬣を持ち、無数の眼球によって構成される視覚器官を持ち、ハンマーのような塊を先端に持つ伸縮自在の尾を備え、咆哮と共に衝撃破を放つ猛獣を、残念ながら地球ではライオンと呼ばない。

 

 当然、地球産ではない――外来種である。

 

 星人である。

 大方の予想通り、GANTZ戦士として公共の電波に乗せて顔を晒した身の上であるにも関わらず、たった一人で人里離れた山中へと足を踏み入れた東条の前には、早速、野生の星人が飛び出してきた。

 

 だが東条は、それに対してまるで危機感を抱いていない。

 むしろ、考え事をしながらとは言え、ガンツスーツを身に纏った己の拳を受けて立ち上がり、鬣どころか全身を極彩色に発光させ、見るからに戦闘意欲を膨れ上がらせている目の前の星人に対し、俄然闘志を燃やしている所だった。

 

「――ハッ。いいね……山に修行にきた甲斐があるってもんだ……」

 

 そして、東条は。

 自分が極彩色の獣を吹き飛ばしたことで薙ぎ倒した筈の木々が、まるで世界を閉ざすように、何かを隠すようにひとりでに起き上がって復元されていくことにすら一切の疑問を持たないまま、ボキボキと拳を鳴らして、野生の殺意に応える。

 

 獣と、獣が睨み合う。

 そして、虎の放つ殺意に、極彩色の獅子が雄叫びと共に破壊を放とうとして――。

 

 

 シャリーン、と。

 甲高い、厳かな音が響いた。

 

 

 静かな森の中で、嫌に静かに響く音。

 

 静謐な――轟音。

 

 少なくとも、目の前の獣にとって、その静かな音は――膨大に膨れ上がった殺意を、圧殺されるには十分な威力を誇っていて。

 

 口内を渦巻いていた破壊を飲み込み、その剣のような牙を震わせて。

 文字通り、尻尾を巻いて逃げ出した。

 

「…………なんだ?」

 

 拳の振るい所を失った戦士は、訝し気に、そして何処か拗ねるように背後を見据える。

 静謐な轟音の発生源である、己の背後を。

 

 そこには、頑なに道を譲ろうとしない木々を掻き分けるように進む、一人の男がいた。

 まるで山そのものに侵入を拒まれているかのようなその男は、周囲の薄暗さと相まって、この距離まで近づくまで存在に気付くことが出来なかった。

 

 いや、薄暗さだけが原因ではない。

 その男の恰好は、まるで闇に溶け込むかのように――黒かった。

 

 真っ黒な、法衣だった。

 黒衣の――法衣。

 

「……坊さんか?」

 

 黒い法衣自体は珍しくもない。

 編笠に錫杖に草履というその恰好は、禅僧の旅姿のイメージそのままだろう。

 

 だが、その僧は――お面をしていた。

 黒いお面――真っ黒な仮面。

 

 面妖な――漆黒の、烏カラスの、仮面。

 

「――全く。奴等に招き入れられたとはいえ、戦士として些か以上に不用心じゃないか? ここがどういう場所なのか、ここがどういう領域なのか、一時間も遭難しているのに未だ分からないのか?」

 

 烏の面を付けた黒僧は、錫杖を鳴らし――問う。

 嘘は許さぬと、正しく仏の声を聞く僧のように。

 

「此処は只人が足を踏み入れてはならぬ場所。世界から切り離された異形種の巣窟。飢えた虎が如き(おのこ)よ、お主は何を求めて彷徨い歩く?」

「力だ。俺は強くなりてぇ。だからここに来た」

 

 東条は一切恥じずにそう即答した。

 

 そして、真っ黒な僧に、烏面の男に――拳を突き付け、獰猛に笑う。

 

「――分かるぜ。アンタは強え。さっきのライオンよりも……もしかしたら――」

 

 東条は――そこで初めて、言葉を呑み込んだ。

 

 初めて会ったその黒僧の――背後に。

 ロイド眼鏡のパーカーの男と、黒山羊の頭を被った悪魔のような男の、影が見えたから。

 

「……………」

 

 東条は、握った拳を解き――再び、より強く、何かを掴むように握り込む。

 

 そして笑う――笑う――笑う――笑え。

 

 笑え。

 強者との出会いを笑え。自分よりも高みを見上げてこそ笑ってみせろ。

 

 どれだけ強いかも分からない程に強い――そんな強者との巡り合いこそ、東条英虎にとっての唯一の願望であった筈。

 

「なぁ、坊さん――」

 

 虎の飢えを、満たす滴であった筈。

 だから笑え――そして、戦え。

 

「――喧嘩、しようぜ」

 

 烏面の黒僧は、その言葉を受けて――しゃん、と、錫杖を鳴らした。

 

 つまりは――この男は。

 

 この場所の詳細よりも、この黒僧の正体よりも――何よりも。

 未知なる強者との戦闘を、正体不明の黒僧との喧嘩を優先させた。

 

 異境、異形、異常――知ったことかと。

 大事なのは――自分が強くなる為にここに来たこと、そして自分よりも強い存在が目の前にいること、ただそれだけだと。

 

 いいから黙って戦えと、いいから俺と――喧嘩をしろと。

 

「――ふっ。小町小吉(あのおとこ)が、わざわざ新人の面倒を見てくれと、(それがし)に頭を下げるなど何事かと思ったが……なるほど、中々に手が掛かりそうな悪童のようだな」

 

 黒僧は、手に持っていた錫杖を地面に突き刺すと、編笠を外し、黒い髪を露わにしながらも、烏面は外さぬままに――黒い法衣の下に身に纏った、機械的な全身スーツを発光させる。

 

「だが、悪ガキの更生も、昔から坊主の仕事ではある。上司命令には慎んで従うとしようか」

 

 黒僧は――漆黒の面の下で、自分の言葉に皮肉げに笑いながら、両手を広げて宣言する。

 

「よろしい。思う存分、付き合ってやろう若虎よ。季節が変わるその頃までに、某に拳を浴びせることが出来れば、その時は――」

 

 そして――黒僧は、その力の一端を解放する。

 

「――ッ!?」

 

 東条には、まるで薄暗い森林の闇が急速に膨れ上がったかのように見えた。

 葉がまるで恐怖するように騒めく。猛獣の悲鳴のような雄叫びが聞こえる。

 

 思わず一歩、後ずさる。

 あの時と――篤と、斧神の殺気を受けた、あの池袋での戦争の時と、同じように――いや、更に一歩、一歩、後退が止まらない。

 

 そんな己の身体に――己の心に、混乱する。

 だが、続く黒僧の、放った言葉に――。

 

「――お前が、かの“悪鬼”と“狂鬼”に、宮本篤と村田藤吉に渡り合える強者となっていることを、この第三位が保証しよう」

 

――東条の、後ずさる足が、止まった。

 

 額から汗を流しながらも、震える拳を固めて――笑う。

 

「――ほう」

 

 膝が――震えている。

 それでも、東条英虎は、獰猛に笑う。笑い続ける。

 

 拳を握り――力強く、一歩前へと、足を踏み出す。

 

 黒僧は、そんな東条に仮面の下で微笑み、言う。

 

「それでは――喧嘩を、しようか」

 

 Cosmopolitan Integration OrganizatioN(世界主義統合機構)

 

 JP支部戦士ランキング 3位

 

 第十一代目 武蔵坊弁慶

 

 武蔵青雲(たけくらせいうん)

 

「――――ッッッッ!!! ォォォオオオオオオ!!!」

 

 漆黒の虎が、殺気を迸せるように雄叫びを上げながら、漆黒の烏に向かって特攻する。

 

 黒僧は――この国の黒衣を纏う戦士の中で、三番目に強い戦士は。

 

 若き戦士の青き戦争を、真っ黒な面の下で微笑みながら――。

 

 

――たったの一撃で、頭を冷やすかのように地面に叩きつけ、捻じ伏せた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ここは、世界中の各地に存在する、常人には確認不可能な領域――神秘郷。

 

 まるで神に隠されたかのように点在するそれらは、古くから異形の者が住まう地として、数多くの物語の舞台となった秘境。

 

 星人郷とも呼ばれる外来種の巣窟――その一つである、日本のとある場所で。

 

 新たに生まれた漆黒の師弟が、喧嘩と称して殺し合う。

 

 

 

 東条英虎――山籠もり修行編、開始。

 

 彼はきっと強くなる……生きて帰ればの話だが。

 




凋落した少女は、己が過去と向き合うべく一歩を踏み出し。

敗北した男は、己が未来へと立ち向かうべく一歩を踏み出す。

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