比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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お迷いですか? わたしが導いて差し上げます。


Side総武――①

 

 胸にぽっかりと穴が開いたようだ、とはよく言ったものだ。

 一色いろはは、冷めきった空気が充満する空き教室で、ふとそんなことを思った。

 

 時刻は昼休み。

 夏が近づいている中、頂点にまで太陽は昇っているこの時間帯、窓を閉め切った室内の気温は汗ばむ程に達している筈だが、不思議とこの部屋の体感温度は、未だ上昇する気配を見せなかった。

 

 温かみも、暖かい香りも、取り戻す兆しは見えなかった。

 

「………………」

 

 一色は、今日も依頼人(お客さん)席で、持参してきた弁当の包みを開けることもなく、ただぼんやりとこの空間を眺め続ける。

 

 普段は早朝の誰もいない時間帯のみこの部屋を訪れていた一色だったが、今日は自分以外で唯一と言っていい、ここを訪れる可能性がある由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃が登校していないという噂を聞きつけ、導かれるように昼休みも奉仕部室へと訪れていた。

 

 どうせ教室で昼食を共にするような友達(クラスメイト)は一色にはいない。

 精々が生徒会室で書記の藤沢と時偶に共にするくらいだ。しかし、藤沢もこの頃は副会長の本牧とそれらしい雰囲気を醸し出しているし――何より、今は一色が一人になりたい気分だった。

 

 一刻も長く、この部屋で待ちたかった。

 

 誰を――何を?

 自分は、一体、この場所で何を待っているのだろう? 誰を、ずっと、待っているのだろう?

 

(――葉山先輩ではないことは、確かなんですけどね)

 

 そういえば、昨日、久方ぶりに登校したあの先輩も、今日は登校していないらしい。

 昨朝は唐突にあの扉を開かれて、盛大にぬか喜びさせられたことは不快だったが、あの先輩の、あの言葉は、一色を静かに、けれど大きく揺さぶっていた。

 

――『……いろは。お前は、何が見たいんだ?』

 

 わたしは何を見たいのか。わたしは、ここに――何を、求めているのか。

 

「…………寒い」

 

 外はあんなにも晴れ渡っていて、暑い季節が近づいているのに、この部屋はまるで――時間が止まっているかのようだった。

 

 一色は、胸の辺りの制服をギュッと握る。まるでぽっかりと、穴が空いてしまったかのように、寒くて堪らないその場所を。

 

 寒くて――寂しい。

 きっと、ずっと、この場所はじくじくと痛んでいたんだ。

 

――『……な■、一■』

 

 一昨日からずっと、頭の中に、柔らかいものが潰れる音と、固いもの同士がぶつかる音が響いている。

 

 どれだけ耳を塞いでも、痛くて、怖くて、辛くて、悲しい音が響いている。

 自分はそれをただ眺めていることしか出来なくて――なのに、何故か、手ではなくて胸が狂おしい程に苦しくて。

 

 手――手?

 

 自分は何で、胸ではなくて手をギュッと握っているのだろう。

 左手の爪を食い込ませて——痛くもない右手を、握っているのだろう。

 

 

――『何です■? って■■か、何や■■るん■すか? ……先■、な■か変です■。ま■いつ■■です■ど……■近は、■当に。……こ■な時間■……■ん■■所で何■――』

 

――『…………』

 

――『……■輩?』

 

 

 誰? あなたは誰?

 

 ぽつんと、真っ暗な夜に――ひとりぼっちで、佇むあなたは。

 頼りない一本の街灯に照らされて、無表情で――けれど、今にも泣いてしまいそうな程に寂しそうな。

 

 孤独な――あなたは、誰?

 

 怖くて――あざとくて。

 寂しくて――頼りになって。

 

 あたたかくて――優しい。

 

 あなたは——。

 

 

 

—―『………………。一■、お前■――』

 

 

 

「――会いたいです。………せんぱ——」

 

 

 

「――驚いた。あなたは、()()()()()()()()()()。何も知らないのに。独力で。すごいね」

 

 

 

 その時、つうと流れていた一筋の涙を弾かせて、一色は声の方向をバッと振り返った。

 

 昨日と同じように、そこには一色が望まない闖入者がいた。

 けれど、昨日と違うのは——それは、一色が知らない人物であったこと。

 

 否、一色には、それが人物なのかすら、一見では疑ってしまう程に――それは、精巧に美しい何かだった。

 

 まるで突如、吹雪の雪山に紛れ込んでしまったかのように、寒風を真正面から受けたような錯覚を覚えた。

 

 寒い。冷たい。

 そう感じた後で、一色は改めて、いつの間にか扉を開けていた謎の何かを、つぶさに観察する余裕を持てた。

 

 瞳は作り物めいたアイスブルー。

 髪も透き通った水晶のような薄い青めいた色だった。

 けれど、まるで外国人の血を感じさせないのは、彼女の顔の作りが余りにも人形のように整っていたからだろうか。

 

 いや、人形というより、氷像――違う。

 

「…………雪女?」

 

 一色はぽつりとそう呟いた。

 

 すると、まるで人形に着せたかのように似合っていない、総武高校の制服姿の謎の少女のような何かは。

 くすりともせず「いい勘をしています。やはり只者ではありませんね、あなた」と無感情で返し。

 

 扉を開けたまま、一歩たりとも室内に足を踏み入れないままに。

 

「明日より、あなたのクラスメイトとなる者です。名前は――()()

 

 アイスブルーの瞳を、真っ直ぐに一色に向けながら言った。

 

白縫(しらぬい)氷花(ひょうか)という只者です。世界が滅ぶまでどうぞよろしく」

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 午前九時。

 休日でも祝日でもなく平日であるこの日は、真面目な学生ならば割り当てられた場所に着席し、表面上だけでも殊勝なふりをして、教師が業務として垂れ流す授業を聞き流さなければならない筈の時間帯。

 

 染められても巻かれてもいない肩までの黒髪に、着崩されていない制服姿の眼鏡の少女は。

 堂々と学校をサボタージュし、他人の家の階段をゆっくりと上っていた。

 

 目的の部屋の前まで辿り着くと、コンコンと形式的にノックし、部屋の主の応答を待たずに扉を開ける。

 

「――入るね。おはよう、優美子」

 

 赤い眼鏡の少女は、そう言ってにこやかに笑って、ごちゃごちゃと服やら化粧品やらファッション雑誌やらで散らかった部屋の中の数少ない足の踏み場を器用に渡りながら、部屋の一番奥にあるベッドへと向かう。

 

 そして彼女が目的の場所に辿り着くと、ピンク色の布団によって作り上げられたアルマジロのようなそれの中から、ひょっこりとボサボサの金髪頭が姿を現す。

 

「……ノックくらいしろし」

「したよ?」

「……返事待たずに入ってきたら意味ないじゃん」

 

 金髪の少女は溜め息を吐きながら、諦めたように布団を己から剥がし、そのままベッドの上で体育座りのような恰好で自室への侵入者である眼鏡の少女を見上げた。

 

「おはよう、優美子」

「……おはよう、海老名」

 

 眼鏡の少女——海老名姫菜は、改めてそう金髪少女に笑い掛け。

 金髪の少女——三浦優美子は、己の膝に顔を埋めながらも、そう友人の言葉に返した。

 

 海老名はそのまま三浦のベッドに座り込むと、「――で? どうしてサボっちゃったわけ? 学校」といたずらっぽく笑いながら言う。

 三浦は体育座りをしたまま、海老名と顔を合わせようとせず「……あんただってサボってんじゃん」と小さく返す。

 

 すると、海老名はスマホのメッセージアプリの画面を開きながら、「そりゃ、こんなのをもらったらね」と、三浦に見せた。

 そこには、普段はスタンプなどを多用する三浦には珍しく、端的に『今日、休む』とだけ送られてきたメッセージ。

 

 染められ巻かれた金髪が表すように、決して優等生という生活態度ではない三浦だが、進学校に通う生徒らしく理由もなく学校をサボるような性格ではない。

 遅刻や無断欠席など殆どしたことのない三浦が、唐突にこんなことをするに至った理由を——海老名は一つしか思いつかなかった。

 

 海老名は、いつも通りの声色で問う。

 

「――昨日の、結衣たちが怖い?」

 

 その言葉に、未だパジャマ姿の三浦の身体が、分かり易く震えた。

 海老名は、そこまで浮かべていた笑みを消しながら、三浦の方を向かず、淡々と呟く。

 

「……大丈夫だよ。結衣はまだしばらく入院してるだろうし。雪ノ下さんも、結衣が入院してるならずっと傍にいるだろうし。間違っても登校してるとかないと思うよ」

「……分かってる。てか、そういう問題じゃないし」

 

 体育座りしてる三浦が、更に強く己の膝を握り締める。

 海老名は、一度ちらりと彼女を見て、そのまま視線を外して更に言った。

 

「なら、行ってみようよ、学校。……ああ、それにほら、あれだよ。昨日来てたし、今日も来てるかもよ——隼人君」

 

 半年以上の休学期間を終えて、昨日、突然登校してきた同級生。

 その名前に、露骨に身体を強張らせた三浦に——海老名は。

 

「彼に相談してみるってのもありなんじゃない? 他の人の意見を聞くだけでも、少しは——」

「――じゃん」

 

 え——と、海老名が問い返そうとした途端、三浦は、引き裂くような叫びを自室内に響かせた。

 

「――()()()()()()()! 学校行きたくないんじゃん!!」

 

 きぃん、と、張り詰めるような音を幻聴して。

 海老名は、三浦の母が外出していて良かったと、そんなことを無表情で思った。

 

「……何て言えばいいの? 隼人に。……大怪我を負った親友に……また……酷い目に遭った結衣に……対して――()()って、思ったって? ……気味悪いって——()()()()()って、思ったって? そう言えっての? 隼人に? ――なにそれ」

 

 最低じゃん——三浦は、自嘲するように、そう言って膝に顔を埋める。

 海老名は、それを、無表情で、何も言わずに聞いていた。

 

「……確かに、引いたよ。ドン引きだった。……でも、それは、()()()()()()。あんな目に遭った親友に、あんな怪我を負った親友に——明らかに、()()()()()()()()()、結衣に。……こんなことを思った、自分が……なにより、気持ち悪い」

 

 海老名は、その言葉を。

 

「………………」

 

 ただ、黙って、聞いていた。

 

「……こんなの、隼人にだけは……見られたくない」

 

 知られたくない。こんな醜い姿を、心を。

 ただ——好きな人にだけは、暴かれたくないと。

 

 そう、引き裂くように叫ぶ、三浦に。

 

 海老名は——何も言わず、ただ無表情で、天井を見詰めて。

 

「――そっか。分かったよ」

 

 ゆっくりと、その手をボサボサの金髪に伸ばして。

 海老名は親友の頭を撫でた。

 

 そのまま、啜り泣く少女が泣き止むまで、その手を止めることなく。

 

 何もない天井を見上げながら——少女は。

 

 どこもまるで痛くない少女は——昨日の、あの病室での一幕を、無感情に思い返していた。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 昨夜、三浦優美子と海老名姫菜が来良総合医科大学病院に到着したのは、残念ながら面会時間が終了した午後六時近くのことだった。

 

 よくよく考えてみれば、放課後の千葉から池袋へと向かうとなると、夕方を過ぎて夜に近い時間帯となる。

 そうなると多くの病院の面会時間は終了しており、入院患者と会うことも難しいだろう。

 

 と、三浦はともかく、海老名はずっと前に気付いていたそんな事態に案の定直面し、病院のエントランスで戸惑っていた時、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃は一階まで降りてきて二人のクラスメイトと顔を合わせることになった。

 

 何でも、雪乃と一緒に見舞いに来た姉と連絡がつかなくなり、それを探すついでに病院内でのいいポイントを探していたようだ。

 更にそのついでと言っては何だが、わざわざ千葉から池袋まで見舞いに来てくれた二人と顔を合わせることにしたらしいと、メッセージだけを飛ばして帰ろうとしていた三浦と海老名に由比ヶ浜はそう笑顔で答えた。

 

 だが、三浦はそんな笑顔に目を奪われる余裕はなかった。

 彼女の視線は、元気に一階に降りてくることを可能にしていた由比ヶ浜の健脚ではなく、彼女の入院の主要因であるとされる、その痛々しく巻かれた両手に固定されていたからだ。

 

 そして、海老名の視線は、そんな両手の彼女の両手代わりと言わんばかりに、彼女のプライバシーの宝庫であるスマホを開いている、恐らくは自分達が由比ヶ浜に送ったメッセージの返信を代打(だいうち)したのであろう、由比ヶ浜の横に立っている雪ノ下雪乃に向けられていた。

 

 海老名は、そんな雪ノ下から目線を外し、ただ痛々しい由比ヶ浜の傷に狼狽えている三浦の代わりに、彼女達が探していたといういいポイントとは何かを問うた。

 

 由比ヶ浜に問い掛けたそれに、そんなものは決まっているじゃないとばかりに雪ノ下が答えた。

 

 そして、彼女達は、一緒に視聴することになった。

 後に『英雄会見』と呼ばれることになる、物語の転換点となる会見を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「小町ちゃんを探そうと思うの」

 

 会見が終了した後、入院患者の面会時間に続いて外来診療時間も終わりに近づいているにも関わらず、未だ慌ただしく人が行き交うエントランス近くにて、由比ヶ浜結衣は対面の海老名と三浦に向かって朗らかに言った。

 

「……え? 小町、ちゃん?」

 

 ……って、誰? ――と、いう言葉を、三浦は言わずに飲み込んだ。

 分からない。いや、その小町という、おそらくは人名であろう単語もそうだったが、三浦はそれ以上に、今、この状況で、そんなことを唐突に言い出した由比ヶ浜の心境が分からなかった。

 

 あんな、衝撃的な会見の視聴直後で。

 帰宅する友人達の見送りのついでとばかりに、いつも通りの笑顔と声色で、次の休日の予定を雑談の肴に挙げるかのような気軽さで、こんなことを言う彼女の心が分からなかった。

 

 三浦はちらりと、外来診療受付前の混乱の様子を見遣る。

 自分達がこの病院を訪れた時も、夜に近い時間帯だったにも関わらず凄まじい数の人が順番待ちをしていたが、今はそれ以上の、もはやパニックと称するに等しい有様だった。

 

 ここにいるのは、その殆どが池袋大虐殺の被害者か、その家族の人達だ。

 先程の会見は、ある意味では当事者でもある彼等にとっては、三浦が受けたそれよりも遙かに衝撃的であったに違いない。

 

 自分達を襲った、あの醜悪な怪物達は――宇宙人だった。

 そんなことをこの国で最も偉い大人達が、真面目にご丁寧に根拠まで添えて、全国生中継の会見で発表したのだ。

 

 この傷は、この怪我は、宇宙人の爪で、牙でつけられたものだった。

 自分が浴びたあの血も、この身に浴びせられた唾液も、宇宙からやってきた、未知のそれだった。

 

 外国の蚊に刺されるだけでとんでもない感染症を引き起こす可能性があるくらいなのだ。

 それが国どころか星すら違うという――そんなものが、自分の、家族の、身体の中に侵入(はい)り込んでいるかもしれない。

 

 そう考えるだけで、三浦はぶるりと震え、形容しがたい恐怖で吐き気を催す。

 ならば、現実にその心覚えのある彼等にとっては、堪ったものではないだろう。

 

 あのようなパニックになるのも容易に想像出来る。

 一刻も早く帰らなければ、自分達も巻き込まれてしまうのではないかと思うほどに、その勢いはどんどん膨れ上がっている。

 

 だが、それでも三浦が一目散に病院の外に飛び出さないのかといえば――今、正に、その恐怖の中にいるであろう当事者が、あの恐慌の中にいなくてはおかしい被害者が、目の前にいるからだ。

 

 目の前の――いつも通りに微笑む、親友だからだ。

 

「…………結衣」

 

 三浦は、あの会見が終わってから、否、あの会見の最中から、ずっとこの親友のことを思っていた。

 

 あの池袋大虐殺の紛れもない被害者であり、あの地獄の中で消えない傷を負った親友のことを。

 あの会見の内容に、誰よりも怒るべきであり、誰よりも恐怖するであろう立場の、この親友のことを。

 

 会見が終わってから、このエントランスまで見送りに来てもらって、別れ際、どんな言葉を、自分は掛けてあげるべきなのか。

 本来、見舞いにきた自分が掛けてあげるべき心配の言葉も、まだ言えてはいないのに。

 

 ずっと、可哀想だった親友。

 あんなに辛い目にあって、また酷い目にあって、そして、その上、また――。

 

 そう考えるだけで、思わず涙が浮かんでしまうが、それでは駄目だ。辛いにも、痛いのも、苦しいのも怖いのも、自分ではなく彼女なのだ。

 

 だから自分は、親友として、そんな彼女にせめて寄り添える言葉を――と、そう、思っていたのに。

 

「結衣――小町ちゃんって、誰?」

 

 呆然と、思わず一歩後ずさりしていた三浦に代わって、そんな彼女を隠すように一歩前に出た海老名の言葉に、三浦はハッと現実に意識を取り戻した。

 

 三浦は思わずそんな海老名の背中をギュッと掴んだ。

 海老名はそれに対し、再び纏い直すように笑顔を作る。

 

「小町ちゃんは――」

 

 海老名の言葉に答えようとして由比ヶ浜が口を開く、が、不自然なところでその言葉が止まる。

 

 その一瞬、由比ヶ浜の笑顔が崩れ、無表情になった。

 三浦はそれに思わず悲鳴が漏れそうになるが、海老名の背中に隠れることで何とか堪える。

 

 変化は一瞬で、由比ヶ浜自身に自覚はあるか不明だったが、再びいつも通りの笑顔を浮かべて「……後輩の、一年生だよ」と言った。

 

「あたしと一緒に……池袋に……居たんだけど……はぐれちゃって。まだ……見つかって……ない、みたい……なんだ」

 

 そう由比ヶ浜は答える。

 だが、その言葉は、所々で不自然に間が開いて、声もノイズが紛れ込むように震えていた。

 しかし、表情はいつも通りの笑顔で――それが何よりも不自然で。

 

 そして、何よりも怖かったのは――おそらくは、そんな状態に、彼女自身は無自覚であるということだった。

 

 三浦は、思わず海老名の背中に両手でしがみつき、床を見詰めるようにして顔を伏せた。見ていられなかった。

 

 そして、海老名は――。

 

「………………」

 

 目を静かに細めて、一瞬だけ、唇を噛み締めて。

 

「……でも、結衣。それは警察に任せようよ。これだけの大きな事件だから、きっと警察も全力で動いてる。結衣が責任を感じることなんてないよ」

「それはダメだよ」

 

 海老名の言葉に、由比ヶ浜は間髪入れずに言った。

 

 冷たく、冷たく――冷たく、言った。

 

 容赦なく、簡潔に。

 無感情に――拒絶を込めて、言った。

 

 三浦が顔を上げて、海老名が目を見開いた。

 

「…………結衣?」

 

 それは、どちらが漏らした声なのかは分からない。

 

 だが、それはまるで――縋るような、それだった。

 

 ああ、どうか。

 まだ――お願いだから、と。

 

 由比ヶ浜は、笑顔で――笑顔で。

 

 彼女達の、知らない笑顔で、言う。

 

「それはダメだよ。それはダメ。それだけはダメ。だって頼まれたんだから。だって託されたんだから。だってお願いされたんだから。頼むって。頼むって。あたしに頼むって。約束したんだから。約束、約束、約束。そう、約束だよ。約束は守らなきゃ。あたしが守らなきゃ。守らなきゃいけないんだよ。だって大事な大事な約束なんだから。大事な、大事な、大事な――」

 

 由比ヶ浜結衣は、笑顔で壊れていた。

 

 ただただ辛そうに、ただただ苦しそうに、ただただ痛そうに。

 

 笑顔で――言った。

 

「…………大事…………なんだよっ」

 

 つう、と。

 血のような涙が――雪ノ下雪乃から、流れていた。

 

 あんなにも辛そうな、あんなにも苦しそうな、あんなにも痛そうな由比ヶ浜の瞳からは、何も流れていないのに。

 

 誰よりも傷ついている笑顔の由比ヶ浜の隣で、何も感じていないかのような無表情の雪ノ下は涙していた。

 

 まるで泣けない彼女の代わりに泣いているかのような。

 まるで感じない彼女の代わりに傷ついているかのような。

 

 不安定で、不確定で、歪に、歪んで――彼女達は、壊れていた。

 

 その様に――三浦は、心の底から恐怖して。

 

「か、帰ろう、海老名!」

 

 その様に――海老名姫菜は。

 

(………………あぁ。結局、こうなっちゃうんだね)

 

 小さく目を細めて。小さく唇を噛み締めて。

 

「………………だから、私は――■が、嫌い」

 

 小さく、ぽつりと、呟いて。

 

「海老名っ!!」

 

 三浦は海老名の手を引くようにして、その場から一目散に逃げた。

 

 由比ヶ浜も、雪ノ下も、去りゆく二人を追うことも、声を掛けることもしなかった。

 

 海老名は、帰り道、タクシーの中で泣きじゃくる三浦の横で、東京の夜景を眺めながら、ひたすらに。

 

 胸の真ん中が、寒かったのを覚えている。

 

 ぽっかりと、穴が開いてしまったかのように。

 

 

  

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そんな昨夜の出来事の回想を終えた頃、時刻は既にお昼を回っていた。

 

 海老名は三浦のベッドを背凭れに、いつの間にか少し眠っていたことに気付く。

 そして、後ろを見ると、三浦の方も眠っているようだった。

 

 きっと昨日はよく眠れなかったんだろうなと親友を眺めていると、その手にはスマホが握られていた。

 

 メッセージの送り主は、恐らくは葉山か、それとも――。

 

(……起きてからでいいかな。……でも、この様子じゃ――)

 

 海老名は、もう少し寝かせてあげようと、再びベッドに背を預けて、ぼおと天井を眺め始めた。

 

 思い返すは――昨夜の由比ヶ浜。そして、雪ノ下。

 

 池袋大虐殺。半年ぶりに帰ってきた葉山。

 

 なぜか距離が遠くなっていた戸部。

 

 総武高校虐殺事件。

 

 そして――教室後方の、()()()

 

「……………なんで」

 

 呟いた海老名の手には、スカートのポケットから取り出した――手の平サイズの黒い球体が握られていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 もう既に何度目の帰宅になるだろうか。

 

 例によって、総武高校への登校をサボタージュしている生徒がここにも存在していた。

 

 制服に着替えることすらせずに、昨日のように寝起き姿そのままというわけではないが、外出着としては見栄えよりも機能性を重視した格好の彼女は、動き易いように一本に簡易的に束ねていた青みがかった黒髪を解くと、自宅の扉の前で、乱れた息を整えるリズムを崩して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 そして、ゆっくりと、どうかという願いと、どうせという諦めのようなものが混在する心で、横開きの扉をがらがらと開けた。

 

 そこには――やはり、誰の靴もなくて。

 

「――ただいま」

 

 川崎沙希は、誰もいない我が家に、疲れ切った声色でそう呟いた。

 

 自分が誰よりも、聞きたくて堪らないその帰宅の言葉を。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 沙希は、我ながら未練がましいとは思いながらも、そのまま家の中を隅々まで捜索したが――これも既に今日だけでも数度目の捜索だったが――やはり、探し人である弟、川崎大志は我が家に帰宅してはいないようだった。

 

 既に沙希は、妹の京華を保育園に送り届けてから、自分は学校に向かうことなく、街中のあらゆる場所を探し続けていた。

 一昨日、喧嘩のようなものをしてから、一度も帰宅していない弟を。

 

 一昨日の夜から続けているにも関わらず、昨日は殆ど一日中、徹夜に近い捜索だったにも関わらず、一向に成果が上がらない捜索に、沙希は既に疲労困憊の状態だった。

 

 だからだろうか、今日の捜索は少しでも行き詰まると、不意に、もう大志は自分で家に帰ってきてくれているんじゃないか、家に帰ったら、そこには大志の靴があって、リビングで気まずそうな顔をしながら、小さくごめんと謝ってくるのではないか。

 

 そう思うと、そんな大志を今にも抱き締めてあげたくて、心配したんだからと、こちらこそごめんと、そう言ってあげたくて――今すぐにでも、大志に会いたくて。

 

 何度も、何度も家に帰ってしまって――でも、そこには大志はいなくて。いつまでも、帰ってこなくて。

 もしかしたら、このまま――そんな思いを振り払うように、再び外に大志を探しに出かける。そんなことを繰り返す内に、既に太陽は頂点を過ぎていた。

 

「……うん。まだ、帰ってこない。……ごめんなさい、お母さん。……あたしが、大志にあんなことを言ったから」

 

 沙希は、リビングと呼ぶには少し手狭な、家族が揃って夕食を食べる為に集まるとそれだけでぎゅうぎゅう詰めになってしまいそうな広さの、けれど、自分しかいない今は、酷く広く感じられる川崎家の居間で、窓に背を預けながら、未だ職場にいる母に電話を掛けていた。

 

 仕事に忙殺される川崎家の父と母は、長男が行方不明となっている今も、職場から帰宅出来ずにいた。

 無論、学校から大志が帰ってこなかった一昨日の夜には、沙希からその旨が両親共に連絡があったのだが、よりによってちょうど仕事が忙しいピーク時に重なってしまい、抜け出すことすら叶わず、今に至ってしまっていた。

 

『お母さんこそ、ごめんね、沙希。……いつもいつも、お姉ちゃんにばっかり負担を掛けて。今、やっと仕事が一段落ついたから、これからすぐに家に戻るわ。だから――』

「……うん。分かってる。これから――警察に電話する。お母さん達はすぐに電話しなって言ってたのに……あたしの我が儘で、引き延ばして、ごめん」

 

 でも、あたしの力じゃあ、大志を見つけてあげられそうにないから――と、沙希は、青みがかった己の髪で、誰もいない居間でひとりぼっちにも関わらず、まるで誰かから己の泣き顔を隠すように俯いた。

 

『……沙希は立派なお姉ちゃんよ。少なくとも、私達よりは、あなたは間違いなく――立派な家族よ』

 

――『……お前は、立派な姉ちゃんだよ、川崎』

 

 沙希は、母の――そして、彼の言葉に、小さく瞠目して。

 

 そのまま母親との通話を切った後、すぐさま警察に電話するという行為に移ることなく、床に携帯を投げ出して、そのまま己の膝に顔を埋める。

 

 己の声に振り向くことなく、屋上へと向かう彼の背中。

 

 あの日の彼の表情が、瞳が、言葉が、()()()()()()()()()

 

 だからこそ少女は、縋るように、震える声で、その名前を呼んだ。

 

「……比企谷」

 

 あたし、どうしたらいいの――その名前を未だに呼べるということが、一体、どういった意味を持つのか。

 

 何も気付いていない少女は、さらに深く、逃げるように青みがかった髪の中で、深く俯き、そして呟く。

 

 

「………………頭………………痛い」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 

 かつて総武高校一年生ながら生徒会長となった一色いろはの初陣となる筈だった、海浜総合高校との合同クリスマスイベントとの打ち合わせにしようされていた、市内のコミュニティセンター。

 イベント自体は総武高校で発生した痛ましい虐殺事件によって流れてしまい、一色いろはの生徒会長としての初陣は不戦敗のような形となってしまったのだが――それはさておき。

 

 このコミュニティセンターには、ほぼ隣接するような形で、市立の保育園が設立されている。

 平日の昼間ということで、園児達は教室の外に出て、思い思いの形で全力疾走したりして、走り回っている園児以上に見守る保育士の心拍数を上昇させている。子供は宝だが、そんな宝を扱っているからこそ、傷でもついたら何を言われるか分からない世の中だ。

 

 だからこそ、保育士にとっては休み時間こそ最も神経を尖らせなければならない時間帯なのだが、しかし、昨今のこの国では少子化以上に保育士不足が深刻であり、どう考えても園児の数に対して職員の数が足りていない。

 

 故に、全ての子供を視野に入れ続けるというのは難しく、どうしても、日頃の生活態度から鑑みて、特別にやんちゃで何をしでかすか分からない問題児を重点的に監視せざるを得なくなってしまう。

 

 そして、そんな中で、川崎京華は素直で優しい、比較的に手のかからない優等生として職員からは認識されていた。

 当然、この日はいつもよりも元気がないということにはプロである彼等は認識してはいたが、体調チェックは朝の内に問題なく済ませていたし、いつもは父母のどちらかが車で送ってきているが、ここ最近は姉が登校前に送り届けていることを鑑みて、家庭が忙しくて寂しい思いをしているのではないかと当たりをつけて――職員は深く関わらないことにした。

 

 プロとしてそれはどうなのかという意見もあるかもしれないが、先述の通り、ただでさえ、園児の数に対して職員の数がまったく足りていないのだ。

 それに加えて、園児一人一人の、園外の家庭の事情にまで首を突っ込むことの愚かさを、彼等は理解している。プロだからこそ、家庭の事情に他人が首を突っ込み過ぎるわけにはいかないということを理解しているのだ。

 

 無論、家庭内暴力など看過できない事態の痕跡などを見つけたら彼等もプロとして子供を守るべく動くつもりではあるが、両親が共働きで寂しい思いをしている程度ならば、昨今では珍しい事情ではない。むしろ、そんな子供達の集まる場所こそ保育園といえる。

 

 前置きが長くなってしまったが、つまりはそんな背景があって、今――川崎京華は、保育士達の目の届かない所で、園からの脱走を試みているというわけだ。

 

 普段は友達と仲良く遊んでいる京華ではあったが、この日は外に出ず、一人で室内で絵を描いていた。

 保育士は外で遊ばないのと声を掛けたが、京華は頑なで、保育士は他にも室内でブロック遊びに精を出している子もいるし、その子は他人のブロックを奪って泣かせたりする常習犯だったので、常に一人の保育士が監視している体制となっていたので、大丈夫かとそのまま京華を一人にした。

 

 そして、その十分後、京華は脱園を決行した。

 

 京華は誰よりも、沙希が大志を探し続ける様子を近くで見続けていた。

 沙希と大志が喧嘩のようなものをした時も、沙希が、大志が、どんどん辛そうな顔になっていくのも、誰よりも近くで見ていた。

 

 だからこそ、一刻も早く、二人には仲直りして欲しかった。

 沙希と、大志と、自分と――お父さんとお母さんと、一緒に家族に戻りたかった。

 

 ただ、それだけの思いで、京華は園の正面出口ではなく(その前の庭には、今、人がいっぱいいる)、その裏、人が誰もいない、けれどエアコンの室外機や箱などを利用すれば、園児でも塀を乗り越えられるようなスポットに、こっそりと向かった。子供はこういったポイントを見つけるのが異常に上手い。この保育園に通う京華の友達はみんな知っていた。

 

 京華にも、これが大人に怒られることだという自覚はあった。

 罪悪感も覚えていたが、それ以上に、自分がなんとかしなくてはという使命感もあった。

 

 だからこそ、こそこそと後ろを何度も振り向きながらも、意を決して、塀を乗り越えようとした――その瞬間。

 

「――こらッ!」

「ひうッ!」

 

 唐突に後ろから叱責されて、京華はその小さな体をビクッと震わせた。

 

 怒られる――と思ってゆっくりと恐る恐る振り向いたが、京華はそこでふと疑問に思った。

 定期的に姉に叱られている京華は、今の声色が自分を叱ろうとしたものではなく、びっくりさせようとしたような声色であることを感じた。

 その上、声の感じが、大人のそれではなく、かといって貴重な昼休みに誰とも遊ばずに面白そうなことを一人でしようとしている自分を驚かせようとする友達のそれでもなかった。

 

 けれど、この保育園には、大人と自分と同じくらいの子供しかいない筈だ。

 しかし、案の定、振り向いた先にいたのは、大人でもなく、かといって自分と同じ年頃の保育園児でもなく――小学生くらいの女の子だった。

 

 その少女は、学帽の代わりに駅員帽を、ランドセルの代わりにナップザックを背負っていた。

 夏らしくばっさりと短く切ったかのような髪に相応しい、明るい笑顔を向けて少女は「危ないですよ、そんなことをしては――」と言って。

 

「迷子になってしまいますよ?」

 

 京華に向かって手を差し出した。

 おずおずと、その手を取って地面に降りると、京華はじわっと涙を浮かべて。

 

「……でも…………………さーちゃんが………たーちゃんがぁ………」

 

 もう、どうしたらいいか分からないと。

 奇しくも同じ時刻、姉が同じように頭を抱えている時、京華もまた、同じように家族を思い、苦しんでいた。

 

 駅員帽の少女は「……うーむ、これは可愛いですね。詩希ちゃんが手助けしたくなったのも分かります」と言いながら頭を撫でると。

 

「あなたのお名前は?」

「……かわさき……けーか」

「そっか、けーちゃんですね。それでは、けーちゃんさん」

 

 迷い人を誘う迷子の駅員は、その迷いの先を指し示すように、幼女の手を取り、少女の笑みを見せる。

 

「わたしが導いて差し上げます。あなたのお兄ちゃんの元に」

 

 

 

 かつて、とあるインターネット上の掲示板に、一つの怪奇現象への遭遇譚が寄せられた。

 

 それは人生の道に迷っていた一人の女性が、とある不思議な路線に乗り込んだところから始まる。

 いつもと同じ電車に乗り、疲れ切っていて思わず眠り込んでしまった女性は、目を覚ますと、その車両に乗っている乗客は自分だけになっていて、電車は終点の駅に停車していたという。

 

 だが、降りてみると、その駅は本来の終点の駅ではなく、誰もいない無人駅で、そこには木造のふるびた駅舎と、ただその駅名を表示する案内板しか置いていない。

 

 前の駅名も、次の駅名も空欄で、前の線路も、後ろの線路も霧がかって何も見えない。

 

 途方に暮れていると、無人の駅舎から、一人の駅員が歩み寄ってくる。

 

 その駅員は、まるでどこかで見たような少女の見た目をしていて。

 

 人懐っこい笑顔を浮かべながら、丁寧な口調でこう語り掛けてくる。

 

「お迷いですか? わたしが導いて差し上げます」

 

 その駅名は――『きさらぎ駅』。

 

 迷えるものが迷い込む場所。

 

 これは――そんな都市伝説。

 




何も知らない少女達は、知らず知らずの内に、物語に巻き込まれていく。

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