比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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ついに40話! 40日間連続更新達成!
……いやぁ、俺こんなに書いたんですね。自分でもびっくり。


非日常の夜の戦場から飛び出し、昼の日常の学び舎に、奴は現れる。

「やっはろ~」

「おはよう、結衣」

「おはよ。ってか、結衣おせーし」

「はは、ごめんごめん」

 

 由比ヶ浜は今日は少し寝坊してしまい、学校に着いたのは始業時間ギリギリだった。

 

 三浦が少しむすっと不満を漏らし、海老名が苦笑しながら宥める。由比ヶ浜は両手を顔の前で合わせて謝った。

 特に朝に何か特別な約束をしていたわけではないのだが、もう三浦と一年近くの付き合いになる由比ヶ浜は、この三浦の不機嫌の原因の多くが寂しさによるものだと分かっているので、嫌な気分にはならず、むしろちょっと可愛いと思ってしまうのだった。

 三浦は、気分屋で傲岸不遜で傍若無人、と思われがちだ。もちろんそう言った面も(多々)あるが、しかしその実、友達思いで寂しがり屋、好きな人相手には奥手だったりと、女の子らしい面も多い女子だ。

 

 好きな人。そのワードで由比ヶ浜はある男の子の席に目を向ける。

 その席には、こういった騒がしい朝の時間や休み時間にはイヤホンを耳に入れて身を隠すように机に突っ伏している、アホ毛が特徴の目が腐った男がいるはずだ。

 

 だがその席は、もうすぐ登校時間を締めくくるチャイムが鳴ろうかという時間にも関わらず空席だった。彼とこのクラスで一番仲の良い――自分も彼の狭い交友関係の中ではかなり親しい方だという自負があるが、それでも好意の相互関係という意味では“彼”相手では白旗を上げざるを得ない。それこそ同性だとは分かっていても嫉妬せざるを得ないくらいに。……同性、だよね?――戸塚彩加と目が合うも、彼も寂しげに首を振るだけだった。

 確かに彼は遅刻が少ないとは言えなくて、そういった意味では特別大騒ぎをすることではないのかもしれない。

 

 だが、彼はつい一昨日も学校を休んでいた。その詳しい理由は、彼に深い好意を抱いている自分ですらドン引きしてしまうほど彼が溺愛している彼の妹の小町ですら分からないそうなのだ。

 話そうと、しないらしい。

 敵ばかりの痛々しい人生を送ってきた彼にとって、唯一の不変の味方であった、あの小町にさえも。

 

 彼に、一体何が起きているのだろう。

 

 これまで彼には――自分たちには、幾つもの困難が襲った。

 

 そして今も、その困難の真っ最中だ。

 

 だが、それでも、彼ならきっと――

 

 そう思い、彼の言葉を信じて、ずっと待っていた。ずっと待っている。

 

 でも、だけど。

 彼を疑うとか、信じないとかでは決してないけれど。

 

 なぜかすごく、嫌な予感がした。

 

 あの空席が。一人ぼっちの背中がいないことが。

 

 由比ヶ浜の心を、どうしようもなく、ざわめかせた。

 

(……ヒッキー)

 

「――い! 結衣!!」

「ふぁっ! な、なに!?」

「何って……チャイム鳴ったよ。席つこ?」

「あ、うん。そうだね、姫菜」

「大丈夫、結衣?なんかぼーとしてっけど」

「は、はは。今日寝坊しちゃったから、まだ寝ぼけてるのかな?」

 

 そんなわけない。そんなはずがない。

 

 ヒッキーは、絶対に取り戻すって言ってくれた。帰ってくるって、言ってくれた。

 

 他の誰でもない、比企谷八幡の言葉だ。

 他の誰でもない、由比ヶ浜結衣がそれを疑うわけにはいかない。

 

 由比ヶ浜は自身の席に着いて、不安な思いを吹き飛ばそうと両頬を両手でパァンと叩く。

 思ったよりも音が響いて注目を集めしまった為、顔を赤くしながら苦笑いで集まった視線をやり過ごした。

 

 そんな中でも、何度も、何度も。

 

 あの空席に、視線が引き付けられて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 総武高校を怪しい人影が見上げていた。

 

 いや、それを人影と評するのは不適切だろう。それは人ではないのだから。

 人型ではあるけれど、それは地球人ではなく、宇宙人なのだから。

 

《……奴の信号はこの街から出ている。……近くまで来ているはずだが》

 

 その影は何かを探すように、しきりに首を動かしている。

 

 そして、その目は、ある人物を捉えた。

 その人物は、不幸にも、その目に捉えられてしまった。

 

「うわ~、やっちまった!完全に遅刻だっての!」

 

 その人物を――“比企谷八幡ではない”、無関係の男子学生の、その服装――制服を見て、その影はあることに気づく。

 

《あの服装……そうか。ここが、奴のコミュニティ――奴の同胞たちが集まる場所、か》

 

 次の瞬間。

 

 その影は唐突に姿を消し。

 

 

 

 ある一人の男子生徒が、悲鳴を上げることすら許されず、その儚い命を散らした。

 

 

 

 そしてその物陰から――鮮血で染められたその物陰から、命を散らしたはずのその男子生徒が、所々を血痕で彩った姿で、何事もなかったかのように現れる。

 

 だが、その表情は、まるで人間ではないかのように無表情で不気味だった。

 

 さらに、その瞳は、まるで人間ではないかのように無感情で薄気味悪かった。

 

 それも当然。

 

 彼はすでに、彼ではないのだから。

 

 人間では、ないのだから。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ん~!終わったね!」

「結衣、まだ一限だよ」

「いやでもあーしもマジ疲れた。一限から数学とか配分考えろってぇの」

「はは、だよねぇ~」

 

 由比ヶ浜は朝と同じように三浦の席に集まりながら海老名も一緒にいつもの三人でガールズトークに花を咲かせていた。

 

 だが、そんな楽しいお喋りに興じている間も由比ヶ浜の頭には、もしかして大嫌いな――彼曰く捨てている――理系科目の数学が一限目だからわざと遅刻しているのかな、などと考えてしまう。

 

 彼に結び付けて考えてしまう。

 

 我ながら何をやっているのだろうと思うが、それでも考えてしまうのを止められない。

 今も「でも、数学は午前中にやった方が効率がいいらしいよ、漫画で読んだ」「え~それマジ?あーし信じられないわ」などと海老名と三浦が会話をしているのを、まるでBGMのように聞き流してしまっている。

 

 だから、だろうか。

 ついつい扉の方に目をやってしまい、そこに(たむろ)している戸部たちの会話が聞こえた。

 

「お!大岡やっときたんか~!ってかお前、野球部の癖に遅刻とかマジないわ~!朝練バッチリあったべ!」

 

 と、クラス一とも名高い戸部の耳障りもとい元気のいい声が響く。ああ、そういえば“大岡くん”もいなかったな、なんて結構酷いことを思いながら、由比ヶ浜は特別耳を傾けるでもなく、なんとなくその光景を眺めていた。

 もしかしたら彼ももうすぐ来るかも――なんて、性懲りもなく彼のことを考えながら。

 

「…………」

「ちょちょ、お前どこまで行くわけ!?お前のクラスココっしょ!いつからJ組のエリートになったわけ!?遅刻しておいていきなり一発ネタかますとかマジパないわ~!」

「だな」

 

 戸部の大げさなリアクションと大和の淡泊過ぎる相槌。そのやり取りにキャハハと盛り上がる女子たち。

 

 いつも通りの、平和な光景。

 

 由比ヶ浜は何の感慨もなくそれを眺めていて――

 

 ボキッ と酷く耳障りな異音が響いた。

 

「え」

 

 その呟きはいったい誰から漏れたものなのか。

 傍観者だった由比ヶ浜?

 それともすぐ近くに見ていた大和?

 笑い声をあげていた女子たちの誰か?

 それとも全く無関係のクラスメイトの誰か?

 

 それとも大岡の肩に置いた手を軽く振り払われて――――その手の指が在り得ない方向に折れ曲がっている、戸部本人だろうか?

 

「――――ぁ、ぁぁ、あああああああああああああ!!!!!!」

 

 激痛が、痛覚神経を通って戸部の脳に襲いかかった直後――突如狂ったように喚き散らし、尻餅をついて倒れ込みながら、戸部は後ずさる。

 

 その悲鳴に連鎖するように、取り巻きの女子たち、クラスメイト、そして近隣のクラスへと、パニックは連鎖する。

 

 そんな中、由比ヶ浜は見た。

 なんてことのない雑念の海から強制的に覚醒させられた由比ヶ浜は、そのパニックの下手人の大岡を見た。

 

 彼は。大岡は。

 自身が大怪我を負わせた友人の戸部に見向きもせず、まるで視界に入れず、叫び声にすら取り合わず。

 一定の速度で、黙々と、粛々と歩行を続けていた。まるで機械のように。

 

 人間では、ないかのように。

 

「!!」

 

 そして、由比ヶ浜は気づいた。

 

 彼のYシャツ。ブレザーに隠れていないYシャツの襟元。

 

 そこには、少なくとも戸部のものではない誰かの――生々しい血痕が、べっとりと付着していた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

《……いない。どこだ奴は?……徐々に近づいているのは感じる。……こういったことが得意な同胞なら方角や距離まで掴むのだろうが、俺では精々感覚的に存在を感じるのが精一杯だ》

 

 彼は。大岡は。

 

 大岡の姿をした、彼は。

 

 周りの悲鳴を完全に意識からシャットアウトし――そもそも彼にとってはただの雑音でしかなかったが――悠々と校内を徘徊する。

 

 だが、一向に目当ての人物は見つからない。姿を見せない。

 

《……どこだ?どこにいる?》

 

 そして彼は、ある教室に入る。

 

 ……だが、そこにも彼はいなかった。

 

《……ここにもいない》

 

 そこで初めて、彼の動きが止まった。

 そして完全に思考に集中したのか、ドアを開けた体勢のまま硬直したかのように微動だにしなくなる。

 

 それにより教室の中の人達は、ざわざわとざわめきだした。

 

『……何?誰、あの人?』

『……なんでここに来たの?っていうか、いきなり固まっちゃったんだけど?』

 

 

『……普通科の生徒が、“J組”に一体何の用なんだろう?』

 

 

 そう。ここは、国際教養科――2年J組。

 

 別に立ち入り禁止というわけでもないし、侵入を躊躇うような明らかな差別意識などはないのだが、何の用もなく、とりわけ昼休みというわけでもなく、あと数分で二限の授業が始まるというこのタイミングで、普通科F組の生徒である“大岡”が訪れるには、明らかに不自然な場所だった。

 

 だが、そんなことは彼には関係なかった。

 

 普通科の生徒でも、ましてや大岡でもない――宇宙人の彼には、まったくもってそんなことは一切合財どうでもよかった。

 

《……ならば。いっそのことこっちから誘き寄せるか?》

 

 だが、J組の生徒たちにとっては、今の大岡は――こんな不自然なタイミングで現れ、ドアを開けた状態で口を開くどころか何のアクションも起こさない今の大岡は、ただの不審人物でしかなかった。

 

 J組は進学校である総武高の中でもエリートが集まるクラスだ。比較的おとなしい人物が多く女子の割合も大きいので、そんな不気味な男子生徒を、半ば怖がるように遠巻きに見ていたが――

 

――そこに、凛と立ち向かう、一人の女生徒がいた。

 

「あなた。確か、2年F組の大岡君よね。一体何の用があって、こんな迷惑なタイミングにこのクラスに現れたのかしら?いつまでも銅像のように無様に固まってないで、さっさと要件を済ましたらどう?」

 

 彼女――雪ノ下雪乃の、一切物怖じしないその態度に、J組の淑女達から感嘆の声が漏れる。

 

 雪ノ下はそんな彼女たちのリアクションを気にも留めず、背筋を伸ばし、髪をファサと靡かせ、鋭い目つきで大岡を射すくめる。

 

 だが大岡もそんな雪ノ下に一切取り合わず、あくまで自身の中で結論が出たが故に、そのフリーズを解いて――動き出す。

 

 

『ならば、ここにいる奴の同胞を皆殺しにし、奴を誘き出す餌とすることにしよう』

 

 

「――え」

 

 脳内にいきなり響いた何かに、さすがの雪ノ下雪乃も呆気にとられる。

 今度は逆に、雪ノ下がフリーズする番だった。

 

 そのテレパシーは雪ノ下だけでなく、他のクラスメイト達の脳内にも響いたようだった。

 教室内の至る所で戸惑いの声が上がる。

 

 だが彼は、やはりそんな彼らに構うことなく、淡々と行動に移る。

 

 真っ先にターゲットにされたのは、一番近くにいた雪ノ下だった。

 

「!!」

 

 雪ノ下がそれに気づいた時には、すでに大岡は――チビ星人は、雪ノ下に向かって拳を放っていた。

 

 

 平和だった筈の教室に、何の罪もない女生徒の致死量の鮮血が、噴出した。

 

 エリートであるJ組の生徒達ですら、いやそんな彼らだからこそ、一生縁がないはずだった、人間の体が圧倒的な暴力で破壊される音が、響いた。

 

 次の瞬間、か弱き少年少女の魂の絶叫が、絶望の嘆きが、恐怖の悲鳴が、次々と連鎖した。

 

 

 

 そして、2年J組は、地獄絵図となった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ……あ~。完全に寝過ごした。

 今からじゃあちょうど二限が始まるときに潜り込めるか?確か二限は現国……じゃ、ないはずだ。勝つる。でも、あの人担任でもないのに俺の出席情報をなぜか把握しているからな……。何?俺の事好きすぎでしょ。ヤバい。貰われちゃう。早く!早く誰か貰ってあげて!じゃないと俺が貰われちゃう!

 

 ……はぁ。体が重い。そして、それ以上に気が重い。くそ。こんなくだらないことで精神が肉体を凌駕してんじゃねぇよ。

 

 起きた時には、すでに始業のチャイムが鳴った時間だった。リビングのテーブルには小町の怒りの書置きとともに朝食があった。たぶん何回も起こしてくれようとしたんだろうな。悪いことをした。

 

 休んじまおうかとも思ったが、ここで休んだら由比ヶ浜や戸塚にまた心配をかけちまうし一色にも迷惑がかかる。ガンツミッションの度に学校を休んでいたら、確実に怪しまれちまうからな。

 

 ……それまで、俺が生き残れていたら、だが。

 

 あの部屋から持ってきちまったガンツスーツとXガンとYガンを入れた鞄に一瞬目をやり、自転車のペダルを漕ぐ足に力を入れる。

 

 学校まで、もうすぐだ。

 

 

 

 

 

 ……?なぜか校門前が騒がしい。今日は避難訓練でもあったんだろうか。HRはいつも爆睡だからそういった情報には疎いんだよな。情報社会で生き抜く力が足りな過ぎる。

 

 俺はこっそりとその集団の後ろをステルスヒッキーを発動しながら通り過ぎる。チャリを押しながらも気づかれないとか、マジ俺ステルス。エスパニア鉱石みたい。キセキの世代の幻のシックスマンって俺なんじゃねぇの?

 

「……おい聞いたか?なんか、2年J組にテロリストが立て籠もってるらしいぜ」

 

 ピタッ、と、俺の足が止まる。

 

 ……テロリスト?いや、まて。それよりも――

 

 

――2年……J組って、言ったか。今?

 

 

「いや、テロリストじゃなくて、あの野球部の大岡がナイフ持って暴れてるらしいぜ。2年F組の。サッカー部の戸部と喧嘩して右手圧し折って、そのままJ組に乗り込んだらしい」

「はぁ、それおかしくね?さっき先生たちが慌ててたけど。大岡の死体が見つかったって」

「なんだよそれ!?初耳なんだけど!?何それ殺されたの!?」

「らしい。学校の用具入れの倉庫の傍で殺されてたって」

「はぁ!?学校の中!?嘘だろ、まだ犯人が近くにいるかもってこと!?やめろよ!それに大岡が死んでんなら、今J組で暴れてんのは誰なんだよ!?」

「いや、知らねぇけど。……でも、噂話によると――」

 

――今朝、遅刻してきた大岡の後をつけるように、“小さな白い化け物”がこの学校に侵入したって

 

ガシャン

 

 顔を寄せ合って噂話をしていた男子生徒達の、いや、その場にいたほとんどの生徒の目が、俺に集まった。

 

 だが俺はそんな奴等の目も、倒した愛チャリのことにも目を向けず、一直線に走る。

 

「あ、ちょっと君!今は校舎に入ってはいかん!」

 

 見覚えはあるが名前が一切浮かばない教師が叫ぶが知ったことか。

 

 

 アイツだ。アイツが来たんだ。

 

 

 俺を殺しに、アイツが来た。

 

 

 そして、雪ノ下が、危ない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ぎゃぁぁぁぁあぁああああああ!!!」

 

 その少女は、腹に荒々しく空洞をこじ開けられ鮮血を振り撒き、その端正な顔をグチャグチャに歪めながら、倒れ込んだ。

 

 また、死んだ。

 

 それを雪ノ下雪乃は、ただ呆然と見上げていた。その雪のような白い肌に浴びた返り血を拭うことも出来ず、何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 そんな彼女の目の前で、一人、また一人とクラスメイト達が虐殺されていく。

 

 逃げ惑い、泣き叫び、お願いだから殺さないでくれと、命だけは助けてくれと、目の前の殺人鬼に涙で顔をぐちゃぐちゃに歪めながら懇願する。

 

 それでも大岡は――チビ星人は、一切の表情を変えることなく、システム的に教室から逃げ出そうとする輩を優先的に殺しながら、教室内のJ組の生徒達を一人残さず虐殺していく。殺戮していく。

 

 彼女は、何も出来なかった。雪ノ下雪乃は、ただ見ていることしか出来なかった。

 

 床に座り込む雪ノ下を、抱き締めるように眠る、一人の女生徒。

 その彼女を――背中の肉をごっそりと抉り取られ死亡している彼女を退けることも、雪ノ下は出来なかった。

 

 あの時。

 突如乱心し凶行に走った大岡の、第一のターゲットとして定められた雪ノ下。

 想定外の事態に完全にフリーズし、身動きが取れなかった雪ノ下を救ったのは、大して会話もしたことのない、隣の席という以外は何の接点もない、この勇気ある女生徒だった。

 

 自分は、この子に、命を救われた。

 

 だが、何も出来ない。雪ノ下は、何も出来やしなかった。

 この子の仇を討つべく、下手人に立ち向かうことも。

 この子のような犠牲者を出さないように、今まさに殺され続けているクラスメイト達を救うべく奔走することも。

 

 何も出来ない。何も出来ず、自分を救ってくれた女生徒を隠れ蓑に、ただ自分に番が回ってこないことを――死刑執行の順番が回ってこないことを、ひたすらに祈っている。自分だけは助かるようにと、醜くも心から祈っている。

 

 こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。

 

 なんだ。なんなんだ、この様は。

 

 あれだけ大言壮語を宣っておきながら、世界を変えるなどと吠えておきながら、何も出来ない。

 

 彼を、比企谷八幡を、いつも上から目線で見下しておきながら、いざとなったら何も出来ない。

 

 自分は、何も出来ない。何も分かっちゃいなかった。

 

 彼のことを知っていると言っておきながら、何も知らなかった。何も分からなかった。

 

 私は、何も出来ない。

 

 それなのに、勝手に彼を切り捨てた。自分勝手な幻想を押し付け、勝手に裏切られた気になって、勝手にがっかりした。

 

 勝手に、彼を、見限った。

 

 なんて傲慢。

 

 私は、無力だ。

 

 私は、雪ノ下雪乃は、全然大した存在じゃなかった。

 

 今までの依頼だって、彼が一人で何とかしてきた。私は、理想を語るだけで、結局何も出来ちゃいない。それじゃあ、――と同じじゃないか。……あれ?――とは誰のことだろう。よく思い出せない。

 

 ダメだ。頭が良く働かない。上手く思考が出来ない。

 こんな事態に陥って、思考が混濁しているのだろうか。

 

 ……ああ、ダメだ。こんなんじゃ、私は――のようにはなれない。――なら、きっとこんな状況でも、完璧に乗り切ってしまうのだろう。いつだって、あの人は、私に出来ないことをやってのける。

 

 ………………。どうやら、相当混乱しているらしい。そろそろ、精神的に限界なのかもしれない。

 

 気が付けば、生き残ったのは、どうやら自分だけのようだった。

 

 教室内は、まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 そこら中に死体が散らばっている。つい先程まではクラスメイトとして同じ教室内で授業を受けていたのに、すでに元は誰であったのかすら曖昧な肉塊へと変わり果てている。

 

 あっちもこっちも血だらけで、室内は鉄の匂いが充満している。

 

「……ぁ……ぁぁ……」

 

 その光景に、あまりの惨状に。

 

 その凄惨過ぎる現実を突き付けられた雪ノ下は、思わず呻き声を漏らした。

 その双眸からは涙が溢れだし、体はガタガタと震えだす。

 

 あまりに欠けていたリアリティを、その生々しい死の存在感が埋め、ついに受け止めざるを得なくなった。

 

 それと同時に押し寄せる、圧倒的な恐怖心。

 

 雪ノ下雪乃は、決壊した。

 

「ああ!!ああああああああああ!!!いやぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 あるいは、ここで悲鳴を上げなければ、最後まで気づかれずに、このままやり過ごせたのかもしれない。

 

 だが、この状況で。こんな惨状で。

 泣くな、などと。喚くな、などと。

 ましてや怖がるな、などと。言える者がいるだろうか。

 

 16才の女の子に、そんなことを強いることなど、出来るはずがない。

 

 彼女は、か弱い、女の子なのだ。

 

 雪ノ下雪乃は、か弱い、女の子だったのだ。

 

《……まだ生き残りがいたか》

 

 そう言って、大岡は――チビ星人は、雪ノ下に覆いかぶさっていた女生徒を乱雑に掴み、乱暴に投げ飛ばす。

 

 教室の後ろの黒板に叩きつけられた彼女は、そのまま一直線の赤い太線を描きながら、ずるずると倒れ込んだ。

 

 だが、今の雪ノ下に、それを気にする余裕はなかった。命の恩人に対する扱い方に噛みつくことは出来なかった。

 

 今、まさに。一度彼女に救ってもらった命を、奪われようとしているのだから。

 

「いやぁぁあぁぁああああ!!こないで!!こないでぇぇえぇえぇえ!!やめてぇぇぇえええぇぇ!!」

 

 必死に身を捩る雪ノ下。だが、ブルブルと震えた足では逃げ出すことも出来ない。

 ダラダラと垂れ流す涙で、その美しい顔を汚しながら、彼女は泣き叫ぶ。

 あの、雪ノ下雪乃が。惨めに。無様に。ただ、殺さないでくれと、必死に懇願する。

 

 だがチビ星人は、そんな彼女の有り様にも一切の感情を動かさず、これまで通り――彼女のクラスメイト達に施したのと同じ手順を――殺害を、実行しようとする。

 

 雪ノ下は、叫んだ。

 

 一切何も考えず、本能の赴くままに。心が求めるままに。

 

 震える喉で、戦慄く声で。

 

 頭を両手で抱え、必死に目を瞑って。

 

 無意識に、その口から、その言葉を。

 

 

 その人の、その男の名を。

 

 

「助けてぇえええええ!!!比企谷くん!!!」

 

 

 ダンッ!

 

 J組の扉が、勢いよく開かれた。

 

 

「――雪ノ下ぁ!!」

 

 

 その男は――比企谷八幡は。

 

 正義の味方のごとく、事件が発生してから、遅れて参上した。

 




 ちょっと雪ノ下ヘイトみたいになってごめんなさい。
 でも、この作品で追い込まれないメインキャラなんていないです。決して雪ノ下が嫌いというわけではないことをご容赦いただければ。

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