何の力も持たず、その身一つで立ち向かう。
大切な人との約束を果たす為に。
大好きな親友を守る為に。
あの場所を、もう一度、取り戻す為に。
その化け物は青い服の戦士たちを軒並み虐殺した。
彼らの胸の黒い機械の塊からは必死に仲間の応答を求める叫びが響いていたが、すでに彼の興味を引くものではなかった。
彼は思考する。その真っ白な体躯に、真っ赤な返り血を映えさせながら。
すでに逃げ去った八幡は目で追える距離にはいなかった。だが、再び走って闇雲に追いかけるとなると、それはさすがに難しい。いつまた、この青い服の連中に見つかるか分からない。一々殺すのも面倒だ。
そうなると気配で追うしかない。自分はそういった術に長けていないことはすでに思い知っていたが、何の手がかりもないよりはマシだ。
そんなことを考えながら、彼は何気なく窓から下界を見下ろす。
その時、感じた。感じ取った。
校舎から逃げ出す、人、人、人。
その中に、感じ取った。
奴ではない。
だが、これは確か――
そう思った時には、彼はすでに窓ガラスを叩き割っていた。
あちこちから湧く悲鳴の一切を無視し、彼は窓枠に飛び乗る。
そして、自身が目を付けた集団に向けて、跳んだ。飛ぶように跳んだ。
そして、先程まで擬態で使用した翼を一切使うことなく、軽やかに着地する。
《見つけたぞ》
こうして、雪ノ下雪乃に悪夢が再来した。
+++
「え?」
「な、何?」
「ど、どうなってんだし!?」
突然、自分達の目の前に落下してきたそれと、突如、自分達の頭の中に響いてきた何かに混乱する三浦達。
だが、由比ヶ浜はいきなり自分の腕の中で気絶した雪ノ下の方に取り乱した。
「え? え!? ゆきのん! ゆきのん! しっかりして、ゆきのん!」
錯乱気味に叫び散らす由比ヶ浜。だが、雪ノ下はぐったりとしたまま動かない。
それでも、由比ヶ浜は呼びかけ続ける。
「ゆきの「危ない! 結衣!」え」
だから、その存在が肉薄するのに気付けなかった。
三浦の悲鳴が由比ヶ浜の耳に届いた時には、その存在はすでに雪ノ下の腰に手を回していた。
「ッ! きゃァ!!」
そして、そのまま信じられない力で雪ノ下を振り回した。
雪ノ下をガッチリと抱き締めていた由比ヶ浜の体が宙に浮く。由比ヶ浜はその凄まじい遠心力に、ついにその手を離してしまった。
ズザザザ! と由比ヶ浜が地面に引きずられる。
「結衣!」
「結衣!!」
「由比ヶ浜さん!!」
チビ星人は、そのまま雪ノ下を抱えて去ろうとする。
が――
「――待って!!!」
その、由比ヶ浜の雄叫びに。
これまで、八幡以外の人間の、どんな言葉にも関心を示さなかったチビ星人の足が、確かに止まった。
「ゆきのんを返して!!」
そしてチビ星人が、由比ヶ浜の方を向いた。
その、文字通り虫けらを見るかのような、無機質で、冷酷な視線に。
三浦も、海老名も、戸塚も。一様に息を呑み、体を硬直させた。
殺される。少しでも反感を買ったら、少しでも関心を持たれたら、確実に殺される。
この視線を向けられる。それが、それだけでも、一種の凶器だと、そう思い知らされた。
だが由比ヶ浜は一瞬も怯まず、燃えるように爛々とした瞳で叫ぶ。
真っ直ぐに怪物を見据え、魂をそのままぶつけるが如く叫び散らす。
「ゆきのんを返して! 返してッ!! ヒッキーに託されたの! ヒッキーに頼まれたの!! ヒッキーは帰ってくるって言った!! 必ず戻るって言った!! だから私がゆきのんを守るの!! また三人で奉仕部やるんだからッッ!!!」
由比ヶ浜は、立ち上がる。
ゴツゴツの地面に叩きつけられた体は、全身が擦り傷と打撲だらけで、力を入れるだけで激痛が走る。
それでも、由比ヶ浜は立ち上がった。
チビ星人を睨みつける。燃え盛るような敵意を向ける。
目の前の埒外の化け物に、一切臆することなく立ち向かう。
三浦達は、それに目を見開いた。
だが、動けない。チビ星人のあの瞳を向けられるだけで、恐怖で体が動かない。
あんな、自分達を路傍の石程度にしか見ていない、圧倒的に生物として格上だという自負のある目。食物連鎖の上から見下ろされる目。そんな目を向けられて、尚且つ敵意を煽るような真似をする由比ヶ浜に戦慄を覚えた。
チビ星人は、動じない。ピクリとも、微動だにしない。
しかし、由比ヶ浜は止まらない。
そして、チビ星人に向かって駆け出した。
傷だらけの体で。それでも、大切なものを取り戻すために。
必死に手を伸ばし、無我夢中で駆け寄る。
「ゆきのんを……返してよぉぉおお!!!!」
その、親友の叫びに。
大事で、大切な、彼女の声に。
チビ星人に抱えられていた雪ノ下の、目が開いた。
(……ゆいがはま、さん)
ぼんやりと靄がかかる視界の中、涙を瞳いっぱいに浮かべて自分に向かってくる由比ヶ浜がいる。
雪ノ下は口角を緩め、彼女に向かって手を伸ば――
――だが、雪ノ下の手よりも早く、横手から由比ヶ浜の手を掴んだ手があった。
その手は真っ白だった。
筋肉で不気味に膨れ上がった、あの腕。
自分のクラスメイトたちの人体を破壊し尽くし、真っ赤に染まっていた、真っ白なそれが。
今。
彼女を。
雪ノ下の、雪ノ下雪乃の。
唯一無二の親友の。大事な、大切な、友達の。
由比ヶ浜結衣の、腕を掴んだ。
掴んだ。
(……い、いや――)
雪ノ下の脳裏に過ぎる、先程のJ組の惨劇。
由比ヶ浜の表情が、ついに恐怖に歪んだ。
それでも、雪ノ下に向かって、必死に手を開く。だが、何も掴めない。
由比ヶ浜は、必死に、不器用に――――笑った。
(……い、いや……いや――)
「――ゆき
彼女が、何と言いたかったのかは分からない。
由比ヶ浜は、チビ星人によって投げ飛ばされた。投げ捨てられた。
それは、あまりに呆気なく。
雪ノ下には、由比ヶ浜が突然目の前から消失したように見えた。
「いやぁぁぁああああああぁぁあぁぁああああぁぁあああああ!!!!!」
雪ノ下は断末魔ような悲鳴を轟かせ、再び意識を失った。
+++
「今のって……雪ノ下?」
二階の教室前の廊下を駆けていた川崎は、その悲鳴に足を思わず足を止めた。
あれは外から聞こえた。どこかの教室の外側の窓から確認しようかと思ったその時、昂ぶっていた川崎は冷静になり、前方が赤いことに気づいた。
赤い。緋い。
血だ。血まみれだ。
これだけ距離があっても鉄の匂いが漂ってくる。その匂いだけで、あの赤が、緋が、紛うことなき人体からの本物の出血だと告げていた。
あれが、血なら。
なら、そこらじゅうに散らばっている――ほのかに垣間見える青は警官の制服だろうか――“物体”は、ぐちゃぐちゃの、物体は……人の、人間の――
「――ッ!!」
川崎はそこまで考えて、考えてしまって、とにかく無我夢中に手近の教室に駆け込んだ。逃げ込んだ。
そして、そのまま窓に駆け寄り、こじ開け、顔を出す。少しでも、血の匂いを感じないように。鉄の匂いを吐き出すように。
けほっけほっと涙目で咳き込み、ふと横を見る。
校舎を垂直に登っている白い生物がいた。
川崎は己の目を疑った。間抜けな顔でぼおと眺めてしまった。
ネット上の悪ふざけによる合成画像としか思えなかった。己の両目で得た、なんのフィルターも通していない現実の映像だとは、百も承知にも関わらず。
その物体は、その生物は、何かを無造作に抱えていた。幸い、それを川崎がいる側の腕――左腕で抱えていたので、それが人間で、黒髪の女生徒だということが分かった。
雪ノ下雪乃だった。決してそこまで距離が離れているわけではないにも関わらず、それが雪ノ下だと認識するのに少し時間がかかった。
絶句する。川崎は、顔見知りが未確認生物に拉致されているという状況に、完全についていけなかった。
これも幸いなのだろう。雪ノ下を抱えている側から顔を出し、そしてすでに彼は自分よりも高い位置にいた。その為、川崎には気づかずに、彼は登る。
するすると。右腕と両足のみで、まるで飛んでいるかのように、壁を這うゴキブリのようによじ登っていく。
「雪ノ下!!どこだぁ!!」
川崎の硬直を解いたのは、廊下から響くそんな叫びだった。
+++
「雪ノ下!!どこだぁ!!」
俺は階段に向かって走っていた。
今の雪ノ下の悲鳴は外から聞こえた。ということは、アイツはすでにあの教室にはいない。
警官の足止めは終わったのか。……おそらく全員殺されたのだろう。
……だが、なぜ俺ではなく雪ノ下を襲う!?……俺が一度、雪ノ下を助けに駆け付けたことで、奴が雪ノ下に利用価値を見出したのか?
「――――くっ!!」
だとしたら、奴は雪ノ下をまだ殺さない。アイツは俺の目の前で雪ノ下を殺すことに拘るだろう。そういう奴だ。
だが、雪ノ下はあそこまで恐怖を刻み込まれていた。アイツが雪ノ下の目の前に現れたら、雪ノ下はどれほど追い詰められる?
それに、由比ヶ浜だ。アイツは俺と由比ヶ浜の関係を知らない。ならアイツにとって由比ヶ浜は、アイツが虐殺したJ組の連中、そして警官たちと同類――その他大勢。
殺すことに、何の躊躇もないだろう。手心を加えてくれるとは考えにくい。
そして、同じくらい、いや、それ以上に。
由比ヶ浜が雪ノ下を見捨てるとは考えにくい。考えられない。
「――――くそッ!!」
俺は更にスピードを上げようとして――
「比企谷!!」
突然、目の前の教室から川上が飛び出してきた。
俺は急ブレーキを掛ける。こんなところで野生の川越とバトルしている暇はない。ゲット一択だ。
モンスターボールは持っていないので、俺は川内の膝と背中に手を伸ばし抱えた。スーツを着ている今なら、川相の一人や二人、ノーモーションで流れるように持ち上げられる。
「ひゃっ」
「何してんだ、お前!早く逃げるぞ!雪ノ下たちはどこだ!?」
「ちょ、ちょっとアンタ――あ、そうだ、雪ノ下!」
川端は何やら赤い顔で慌てていたが雪ノ下の名前を聞くと、お姫様抱っこの体勢で抱えられたまま真剣な表情を作って、言った。
「さっき、白い小さな変な生き物が、雪ノ下を抱えて校舎をよじ登って、屋上に行った」
「!!」
俺は、彼女をゆっくり下ろした。
彼女は、俯き気味で呟く。
「……信じられないかも、しれないけど――――!?」
俺は、彼女の頭にポンと手を乗せながら、言った。
「ありがとう。愛してるぜ、川崎」
彼女――川崎沙希は、大きく目を見開いて――――悲しげに、表情を歪ませた。
俺は、そのまま川崎の隣を横切る。
彼女は、何も言わなかった。
言わないでくれた。
+++
川崎は、彼が去っても、しばらくそのまま棒立ちしたままだった。
そして、ザワザワと警官の増援が増えてきた頃、その中の一人に声を掛けられて、ようやく後ろを振り向く。
当然、そこに彼はいなかった。
川崎は、右手をゆっくりと左胸の位置に持って行く。
痛かった。彼の、あの言葉によるもの――だけではない。
あの言葉を、放った時の、彼のあの表情。
悲愴な決意を秘めた、確固たる決意を抱えた、あの表情が、川崎の胸を締め付ける。
彼は、何も言わなかった。
けれど、分かった。伝わった。伝わってしまった。
止められなかった。止めるべきだったのに。
だけど、きっと、彼は――
「――それで、君、早くここから――ってどうしたんだい!? なんで泣いているんだ!?どこか怪我をしているのか!?」
「~~~っっ~~ッ!」
自分に声を掛けてきた警官が慌てているのが分かる。
だが、川崎は溢れる嗚咽を止められなかった。
(……ああ。由比ヶ浜の気持ちが、少しだけ分かった)
ついに川崎は、その場にしゃがみ込んでしまう。それでも、一向に涙は止まってくれない。
胸の痛みは衰えてくれなかった。
その痛みは、川崎の心を、容赦なく、締め付け続けた。
次回、チビ星人編、クライマックスです。
書き溜めの底が見えてきました。