比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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 お久しぶりです。三月中と明言したのに、守れずにすいません。

 この第二部から多重クロスとなります。他作品のキャラが新メンバーとして加わります。

 彼らの詳しい設定は活動報告にて紹介しています。更新頻度におけるお知らせもあるのでよかったらご覧ください。


かっぺ星人編 ――続――
未だに比企谷八幡は、黒い球体の部屋で孤独に戦い続ける。


『はちまん』12点

 

 Total 73点

 あと27点でおわり

 

 光沢のある真っ黒な球体の表面に浮かび上がった文字列を一瞥し、俺はすぐに背を向けながら、身に付けていた漆黒の全身スーツを脱ぐ。

 

 ここは別に俺の自室というわけではないが、俺の他にはこの黒い球体の中に裸の男が一人いるだけなので、あっさりと全裸になる。一々恥ずかしがるのも馬鹿らしい。

 

 最近はガンツ――その裸体の男込みでこの黒い球体を俺はそう呼んでいる――も気を遣っているのかのように、俺が着替え終えてるのを待ってこちらの準備が整ったら自宅に転送してくれるので、慌てることなく帰り支度を行える。

 

 この部屋に転送されてきたときの寝間着の黒いスウェットに着替え、ガンツスーツとXガンを持ち、準備完了。

 そのタイミングを狙い澄ましたかのように、ガンツによる転送が始まる。

 俺の体が頭の天辺から徐々に消失していく。

 そんな慣れ親しんだ異次元現象を、俺は目を瞑って気負うことなく受け入れる。

 

 

 そして、次に目を開けると、そこは真っ暗な自室だった。

 時刻は午前二時。まだ後五時間は寝れるな。

 

 俺はそんなことを思いながら、ガンツスーツとXガンを通学鞄の中に突っ込んで、ベッドの上に倒れ込んだ。

 そして手探りで布団を被り、眠る。

 

 

 

 

 

 あのチビ星人との戦いから、約半年が過ぎようとしていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 鮮やかな桃色の花を咲き誇らせていた桜の木がすっかり緑に彩られているのを見て、明日奈はあれから時間が進んでいるのだと改めて感じる。

 

 一緒にいた時間は短かったけれど、それでも胸を張って親友といえる、大好きで、心の底から憧れ、尊敬していた、あの最強の剣士の死から。

 

 誰よりも眩しく、奇跡のように煌めき、数多くの人の心に深く、深くその生き様を刻み付けた、あの少女との別れから。

 

 彼女の桜の花のように儚く、息を呑むほど美しい生涯を思い返していると、明日奈の手を優しく取りながら一人の少年が彼女の隣に立ち、明日奈と同じく新緑の木々を細めた目で眺めながら、少なからずの寂寥が篭った声で呟いた。

 

「すっかり散っちゃったな……」

「…………うん。みんなでお花見してから、まだそんなに経ってないのにね」

『でも、この緑もすっごく綺麗です! ねっ! ママ! パパ!』

 

 自身の右肩に乗る通信プローブからの愛娘の嬉しそうな声に、ママと呼ばれた少女――結城明日奈と、パパと呼ばれた少年――桐ケ谷和人は目を合わせて優しく微笑み合った。

 

 

 

 

 

 いつしか二人にとって定番のデートコースとなった皇居――《東御苑》。

 

 その綺麗な遊歩道を和人と明日奈、そしてユイの親子三人で和やかに談笑しながら散策し、そして少し前――まだ桜の花が完全に散り切っていなかった頃、和人と明日奈、ユイと直葉(リーファ)里香(リズベット)珪子(シリカ)詩乃(シノン)、エギル、クラインといったメンバーで花見を行った芝生で腰を下ろしていた。

 

「……平和、だね」

「……ああ」

 

 あの悲劇のデスゲーム――『ソードアート・オンライン』通称SAOに囚われた二年間の奮闘。

 そしてSAOをクリアした二ヶ月後、依然として囚われの身だったアスナを救出すべく単身で乗り込んだ――『アルヴヘイム・オンライン』通称ALOでの激闘。

 さらにSAOクリアからおよそ一年後、つい半年程前の事、総務省《仮想課》菊岡誠二郎の依頼で飛び込んだ――『ガンゲイル・オンライン』通称GGOでの死銃(デスガン)との死闘。

 

 その間にも様々な出来事があったが、二人は今、間違いなく穏やかな、幸せというべき日常を過ごしている。

 

 和人は柔らかい風を感じながら、ふと空を見上げる。

 ここ皇居は、ある種、現実世界とは隔離された空間だ。

 下はどんな地下鉄も通らず、クローズドネットの構築によって情報的にも遮断されている。

 そして当然、どんな航空機も通過しない上空は、今は雲一つない青空だ。

 

 だが、そんな綺麗な空を眺めていても、和人が思い起こすのは、あの仮想空間の人工的な晴天だった。

 

「……今日は、現実世界でも、最高の気象設定だな」

 

 和人はゴロンと芝生の上に寝転びながら、ポツリとそう呟いた。

 

 明日奈はそんな和人の呟きに一瞬ポカンとしながら、すぐに口元に手をやってクスリと笑う。

 

「そうね。思わずお昼寝したくなっちゃう」

「あの時は驚いたよ。まさかあそこまで熟睡するなんてな」

「もう! あの時は本当に恥ずかしかったんだからね!」

 

 頬を軽く染める明日奈に、肩のユイは『むぅ! 二人だけ分かる話をしてずるいです!』と可愛く文句を言い、そんなユイを明日奈は宥める。

 

 和人はそんな二人を優しげな瞳で眺め、ふと思い返す。

 アインクラッドであのやり取りを行ったのは、およそ今から二年前。

 あの後、圏内事件などがあって大変だったなぁと思いながら、和人は思考の海に潜っていく。

 

 あの時、自分は完全に熟睡してしまったアスナを一日中その傍で見守った。いや、見張っていた。

 なぜなら、圏内といえども睡眠中の指を動かして『睡眠PK』を行えることから、確実に安全な空間とは言えなかったからだ。だから、自身はおよそ三十分のうたた寝ですまし、尚且つ熟睡はせず、索敵スキルの警戒アラームをセットまでしていた。

 

 あの時は、それぐらいの用心は半ば無意識のレベルで行っていた。気を張っているなどという感覚すら麻痺していたし、それが生きる為に当たり前の行動だった。

 

 全ての行動の第一原則は『死なないこと』だった。死なない為の確率を上げ、危険性(リスク)を避け、常に考えながら行動した。

 

(……平和、か)

 

 そう。平和だった。

 今はもう、そんな野生の獣のような習性を身に付けている必要はない。

 普通に人間らしい生活を謳歌すればいい。この幸せを享受すればいい。

 

 もう、戦場の最前線で剣を振るわなくてもいい。

 

 もう、桐ケ谷和人は、『黒の剣士(キリト)』である必要はないのだ。

 

 だが、なぜだろう。

 それは、絶対にいい事のはずなのに。

 

 まさしくそれを求めて戦っていたはずなのに。

 

『黒の剣士』から解放される為に、これまで必死に戦ってきた、はずなのに。

 

 

 前述のGGOでの戦いにおいて、キリトはパートナーとなった狙撃手(スナイパー)――シノンとこんな会話を交わした。

 

 

『……奴は、きっとそこまでしても《レッドプレイヤー》でいたかったんだと思う』

 

『俺の中にもまだ、自分は《剣士》なんだって意識があるから』

 

 

 和人は感触を確かめるように、ギュッと手を握り、その掌を見つめる。

 

(……俺は、まだ――)

 

「――リトくん! キリトくん!」

「!」

 

 和人が思考の海から強制的に引っ張り上げられると、頬を膨らませた明日奈と、その右肩の通信プローブから『……む~』というユイの不満げな声が漏れていた。

 

 和人はその後、恋人と娘の機嫌を直す為、奮闘することとなった。

 

 

 胸の奥の、しこりの様なものに、気づかないふりをしながら。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 目が覚める。時刻は午前七時過ぎ。

 少し体が重い。昨日の夜は久々のガンツミッションだったな。敵自体はねぎ星人と田中星人の間くらいの強さの敵が数体と大したことはなかったが、やはりストレスには変わりない。それでも、体が少し重いくらいで済んでいるのは、順応してきた証拠なのだろう。

 

 あの夜が、ガンツミッションという戦争が、俺の生活の一部になってきたという(あかし)なのだろう。

 

「……起きるか」

 

 そう言葉に出して呟いて、俺は体を起こし、制服に着替える。

 今の俺には登校前に寄る所がある。これもすでに、俺の生活の一部になっている。

 

 制服に着替え、ガンツスーツとXガンが底に入った鞄を持ち、リビングへと向かう。

 

 そこではすでに小町が朝食を作っていた。俺とは違い、まだ寝間着だが。

 

「あ、お兄ちゃん、おはよ~」

「おう」

 

 俺はトースターに食パンを突っ込みながら、小町が淹れてくれたコーヒーを啜る。

 朝は目を覚ます為に少し苦めだ。もちろん砂糖と牛乳と練乳が入っているからブラックではないが。うるせえ、それでも俺にとっては苦めなんだよ。

 

「はい、お兄ちゃん」

「ああ。いつもありがとな」

 

 小町がハムエッグの乗った皿を持ってきてくれる。こんな可愛い妹の手料理で一日のエネルギーを摂取できるなんて、俺は日本一の幸せ者だな。

 

「いいんだよ。今はお兄ちゃんが受験生なんだから。去年やってもらった分、これくらいしないとね。あ、これ小町的にポイント高い♪」

 

 小町は無事合格し、この春から総武高の一年生になった。

 正直、あんな事件があったばかりなので、小町にそれとなく志望校を変えたらどうかと話したのだが、小町は何故か断固として変えようとしなかった。まぁ、あの事件があって総武高の倍率は大きく下がったので、逆に狙い目だったのかは分からんが。

 

 それに俺に小町の進路に五月蠅く口を出す権利などない。小町はああ言ってくれるが、去年は俺にも色々あって、正直受験生だった小町のサポートを言う程出来たとは言い難い。むしろ、小町には色々助けてもらった覚えしかない。ならば、せめて小町本人の意見はなるべく尊重してやるべきだろう。だから俺は、小町の合格を心から祝福した。

 

 惜しむべきは、あの害虫改め川崎大師いや違った川崎大志も合格してしまった所か。しかも小町の中学から総武高に進学したのは小町だけで、知り合いが大志しか居らず、さらに二人は同じクラスだと言う。なんだ、そのうらやまシチュエーションは。あの憎き小僧の舞い上がる姿が目に浮かぶようだ。

 だが、小町本人が満面の笑顔で「お友達だよ!」と死刑宣告をしているのと、あのブラコンサキサキが目を光らせているので、今のところは絶対に許さないリスト略してぜつゆる! の星を増やすだけで勘弁してやろう。☆三つです!

 

 そんな風に大志に対する黒い感情を飲み干すように俺的微糖コーヒーでトーストを流し込んで、ハムエッグを完食。席を立つ。

 

「じゃあ小町。先に行くぞ」

「え? ……あ、そっか。雪乃さんの所か」

 

 小町が少し落ちたトーンでそう言うのを背中で聞きながら、俺は食器を流しに置く。

 

「ああ。悪いが戸締りを頼む」

「あ、お兄ちゃん! たまには小町も――」

「小町」

 

 俺は小町の言葉を遮るように少し強めに声を出す。

 小町がビクッと体を震わせるのを背後に感じ、少し心が痛むが、俺は突き放すように、なるべく優しく言った。

 

「――行ってくる」

 

 小町が何かを言う前に、俺はリビングの扉を後ろ手に閉め、家を出た。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「あ、あやせちゃん! さ、さささ、サインください!」

「……え?」

 

 高校へと向かう朝の通学路。

 その道すがら、新垣あやせは、おそらくは中学生と思われる他校の制服を着た女子学生に突然、生徒手帳を突きつけられた。

 

 まさしく登校時間帯な為、周りを行く学生たちの好奇の視線を集めながら、あやせは、ぷるぷると震えながら真っ赤な顔と涙目で腰を折りながら両手で手帳を突きだす彼女に、思わずため息を吐きそうになってしまう。

 

 だが、そこは必死にプロ意識を自身の内から引っ張り上げ、完璧な営業スマイルでそれを受け取る。

 

「わ、わたしのサインでよければ……」

 

 ぱぁぁと、その少女の顔が光り輝く。

 本来、オフではこういった事務所の許可を得ないファンサービスは控えてくれとマネージャーに言われていたが、ズケズケと失礼な態度をとってくるならまだしも、年下の女の子にあんな顔をされて断ることはさすがに出来なかった。

 

 しかし、それでもなるべく早く済ませようと急いでサインを書いて少女に渡す。

 こういった場面を他のファンに見られてしまうと、次から次へと押し寄せてしまうかもしれない。

 今のあやせにとってそれは、決して自意識過剰の杞憂とは言い切れないものだった。

 

 真っ赤な顔と潤んだ瞳で嬉しそうに生徒手帳を抱きかかえながら何度も何度もぺこぺこと頭を下げる少女と笑顔で別れながら、あやせは伊達メガネだけじゃ足りないのかなぁ……と、今度こそ溜息を吐きながら、気持ち速足でこの春から通う高校へと急いだ。

 

 

 

 

 

 あやせが教室に向かう途中、向かい側から桐乃が歩いてきた。

 

「…………ぁ」

「…………」

 

 あやせを見つけた桐乃は小さく息を漏らすも、あやせはキュッと口を引き締めた。

 

 そして、お互いの距離が近づくと、あやせは口元を緩ませ、優しく声を掛ける。

 

「おはよう、桐乃」

「お、おはよう、あやせ」

 

 ぎこちないながらも、桐乃もあやせに挨拶を返す。

 そして――

 

「それじゃあね」

「っ!?」

 

 そのまま立ち止まることなくすれ違う。

 あやせと桐乃は別クラスの為、あやせは自身のクラスに入ろうとすると――

 

「あ、あのさ、あやせ!」

 

 桐乃は振り返り、再びあやせに声を掛ける。

 あやせも首だけ桐乃に向け「なに?」と問う。

 

 桐乃は目を泳がせながら、探るように言葉を紡ぐ。

 

「……あ、あのさぁ……今日、部活が早く終わるらしいんだ。……そ、それでさ。う、ウチに遊びに来ない? 久しぶりに、あやせと遊びたいし」

「ごめん桐乃」

 

 あやせは眉を下げ苦笑しながら――それでも、有無を言わせない断定の口調で言った。

 

「今日、わたし仕事なんだ」

「……そ、そっか。……最近、頑張ってるね、あやせ」

「……うん。だから、ゴメンね」

 

 そう告げると、あやせは自身の教室に入っていった。

 

「…………ぁ」

 

 桐乃の寂しそうな呟きに、気づかないふりをしながら。

 

 

 

 

 

 窓際の列の前から四番目の自席に座ると、今日は珍しく自分よりも早く登校していた加奈子がすでに自分の席に着いていた。彼女はあやせと同じクラスで前の席なのである。

 グルリと体全体を後ろに向け、椅子の背もたれにグテと凭れながら、加奈子はあやせに言った。

 

「……まぁだ、桐乃と仲直りしてねぇの?」

「……別に、喧嘩してるわけじゃないよ」

「…………なら、まだ許してねぇわけ?」

「…………」

 

 

 中学校の卒業式の日。

 あやせと加奈子は桐乃に校舎裏に呼び出され、事の顛末を聞かされた。

 

 桐乃と京介、二人の、兄妹でありながら恋人という関係は、卒業までの期間限定であったこと。

 

 そして、その期間を終えた今、二人は普通の兄妹に戻ったこと。

 

 桐乃は勢いよく頭を下げて謝った。

 

 だが、あやせは激しく混乱し、胸中に様々な感情が渦巻いた。

 少なからず安堵もした。自分が大好きなこの兄妹が、本格的に道を踏み外すことはなかったということに。

 

 だが、それでも。いや、それ以上に。

 

 

『……何、それ』

 

 

 あやせが俯いたまま発した低い声の呟きに、頭を下げたままだった桐乃も、隣にいて喚いていた加奈子も、目を見開いた。

 

 けれど、あやせは納得できなかった。

 

 必死に、必死に考えた。

 桐乃を止めたかった。彼女の気持ちを受け入れて、それでも受け入れられなくて。

 

 大好きな二人を、誤った道に進ませないために。

 

 それでも、そんなことを抜きにしても、ただ大好きな人の恋人になりたくて。

 

 初めてだった。あんなに、一人の男の人を好きになったのは。

 

 その人は大好きな親友のお兄さんで、とってもシスコンで変態で、でもすっごくお人好しでお節介で優しくて。

 

 

――そんなあなたのことが好きです

 

 

 声が震えそうになった。ドキドキして心臓が張り裂けそうだった。

 

 …………心のどこかでは、断られると分かっていた。

 

 それでも、言わずにはいられなくて。心のどこかでは期待して、縋っていて。

 

 勇気を振り絞った告白だった。

 

 ……それなのに。それなのに。

 

 わたしの、そんな一世一代の告白は。

 

 もしかしたら、この人と一生歩んでいけて、桐乃とも本当の家族になれるかもなんて、夢みたいな夢を描いていた、わたしの初恋は。

 

 

 桐乃との――妹との、期間限定の“恋人ごっこ”に負けたんだ。

 

 

『――――っ!!』

 

 あやせはその日、何も言わずに、桐乃たちに背を向けて逃げ出した。

 

 二人が大声で呼び止めるのが聞こえていたけれど、それでも桐乃と顔を合わせているのが辛かった。

 

 分かっている。

 二人の期間限定の恋人計画は、いろんなことを考えて、苦渋の思いで妥協して、必死に頑張って、色々なものを犠牲にした結果の落としどころなんだってことは。

 

 桐乃が、そして京介が、どれだけ重い覚悟を背負った上で選んだ結末かなんてことは、二人をよく知るあやせには痛いほど理解できる。

 

 それでも。それでも。それでもっ!

 

 納得なんて出来なかった。理解だって本当はしたくもなかった。

 

 

 だって、その決断で、切り捨てられたのは、自分の想いだったんだから。

 

 新垣あやせは、高坂京介に、切り捨てられたんだから。

 

 新垣あやせは、“期間限定”の高坂桐乃に負けたんだから。

 

 

 そして、加奈子の言う通りだった。

 あれから数か月経った今でも、あやせは心のしこりを消せずにいる。

 

「いい加減ふっきれよぉ~。ウチらがフラれた男が、別の女にフラれたってだけのこったろ~」

 

 そう言って加奈子は呆れ顔で言う。

 あやせはそんな加奈子を見て、尋ねた。

 

「……加奈子は、もう何とも思ってないの?」

「別に桐乃がどうこうとか、京介がどうこうとかはどうでもいいね」

 

 そして加奈子は体を起こしながら、不敵に笑う。

 

「あたしは決めたからな――すっげぇアイドルになって、ぜってぇ後悔させてやるって! だから、もし京介(あいつ)が加奈子を振ったことを後悔して、土下座してやっぱり付き合ってくれ~って言って来ても、あたしは思いっきり踏んづけてやる!」

 

 そう快活に言う加奈子は、本当にすでに吹っ切っているようだった。

 彼女の言葉通り、加奈子のここ最近の活躍は目覚ましい。あやせ以上に忙しく、あやせ以上に学校に来ることも稀だ。

 

 そして、その気持ちは少なからずあやせにも分かる。

 あやせが高校に入った後、読者モデルという立場から脱却して、プロのモデルとして事務所と契約し、これまで以上に仕事に熱中しているのも、桐乃と顔を合わせづらく、誘いを断る口実が欲しいからというのが一番の理由だが、それでもまるでないとは言い切ることは出来ない。

 

 もっと、もっと、自分の魅力を磨いて。

 

 自分を振ったことを――切り捨てたことを、後悔させてやろう。見返してやろうという、そんな気持ちが。

 

 だけど、あやせは自身のそれが、加奈子ほど吹っ切れたものだとは思えなかった。

 

 むしろ、それは、まるで――

 

「――っていうか、あやせはさぁ」

 

 そんな胸中を鋭く見抜いたかのように、加奈子はあやせの目を覗き込む様な体勢で問う。

 

 

 

「まだ、京介のこと好きなわけ?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 俺は見るからに高級なタワーマンションに足を踏み入れる。

 初めて来たのは、去年の文化祭の時だったか。この習慣を始めた当初は同級生の女子の一人暮らしの部屋ということも相まって、このエントランスに入る度に緊張してキョドりそうになったものだが、さすがに毎日通っていれば慣れてくる。すれ違う人たちも固定化されて、訝しげな目も向けられなくなってきたしな。この視線に慣れるまではキツかった。心臓がいつもドキドキだったよ。主に通報的な意味で。

 

 そんなことを思いながらベルを押し、待ち人が来るのを待つ。

 

 だが、幸いにしてほとんど待ち時間はない。その人物はいつも待ち侘びたといった感じですぐさま現れるからだ。

 

「お待たせ、比企谷くん」

 

 だから、俺はこの言葉をまさしく、意味通りの言葉としてそのまま言える。

 

「俺も、今来たところだ」

 

 

 

 

 

 そして、二人で並んで登校する。

 手こそ繋がないが、その寄り添うような距離感は周りに誤解しか与えないだろう。

 

 念のために言っておくが、俺と彼女――雪ノ下雪乃は、恋人関係などでは決してない。

 

 彼女は本当に楽しそうに、見る者を虜にする可愛らしい笑顔で俺に擦り寄ってくるが、それと反比例するかのように俺の心は冷え切っていく。

 だが俺はそれを必死に封じ込めて、かつて俺が――俺と彼女が忌み嫌った、欺瞞そのものの作られた笑顔を張り付け応対する。

 

 まるで、彼女が憧れ、俺が愛したあの人の様な、作られた仮面(ペルソナ)を。

 

 あの人の完成された強化外骨格とは似ても似つかないお粗末な代物だが、それでも今の雪ノ下は楽しそうに笑う。それが何よりも痛々しい。

 

 俺が憧れた、あの凛々しくも強く、美しかった少女は、もうどこにもいないのだ。

 

 隣を歩く彼女の、暗く腐った双眸が、その事実を俺に常に突きつける。

 

 その彼女の瞳に映る俺の目も、彼女以上に酷い有様となっているのだろう。

 

 

 

 総武高に近づくにつれて、向けられる視線は好奇によるそれから、畏怖や嫌悪に変わる。

 

 すでに総武高では、俺と雪ノ下の歪んだ関係は知れ渡っているようだ。

 俺は文化祭直後のあの時よりもはるかに全校生徒から嫌われるようになった。いや、嫌われるというより、気味悪がられる、怖がられるといった意味合いが強い。だから誰も俺たちには嫌がらせなどはしてこない。近づきたくもないといった感じらしい。

 

 こうして昇降口へと向かう間も、前を行く生徒がまるで恐れるように道を開ける。モーゼもこんな気分だったのかな。ついに大海原にまで嫌われちまったよ……的な。何それ凹む。

 

 まぁ、どれだけ恐れられようと、どれだけ歪んでいる間違った関係だと言われようが、俺に雪ノ下から離れるという選択肢はない。これは俺が背負うべき業だ。雪ノ下のことを思うのならば、俺は雪ノ下の前から姿を消した方がいいのかもしれないが、それでも俺は決めたんだ。

 

 彼女が俺を望む限り、俺はコイツの傍にいると。

 それが、例えどれだけ歪んだ依存でも。例えどれだけ間違った在り方だとしても。

 

「……ふふ」

「ん? どうした、雪ノ下?」

 

 昇降口で靴を履き変えていると、突然雪ノ下が微笑んだ。

 俺が目を向けると、雪ノ下は優しい笑みを俺に返す。

 

「今更だけれど、同じクラスに向かえるというのが嬉しいの。……こんな未来が来るなんて、思いもしなかったから」

 

 それは、あの事件が起こらなかったら、という仮定(イフ)

 

 その時は――その本来迎えるはずだった未来(いま)では、彼女は3年J組へと進学し、俺とも由比ヶ浜とも別のクラスに進級しただろう。それは文理選択などではどうにもならない壁だ。

 確かにその壁はあの惨劇によって破壊され、今では俺と雪ノ下と由比ヶ浜は同じクラスで一日を過ごしている。

 

 彼女はそれを喜んでいる。

 あの惨劇がもたらしたこの状況を。嬉しそうに微笑みながら。

 

 その結果、犠牲になった多くのものを、見ないふりをして。

 いや、無意識に意識から排除して。

 

「…………」

 

 俺の未熟な仮面に罅が入るのを感じる。

 だが、俺はそれを必死に繋ぎ止める。

 

 あの人に理性の化け物だと評された、ありったけの精神力で堪えきる。

 

 雪ノ下に怒りを覚えるのは筋違いだ。

 彼女をこんな風に壊したのは俺なんだから。

 

 そんな彼女の傍にいると決めたのは俺なんだから。

 

 例え、この先、あのような悲劇が何度でも襲い掛かろうとも。

 

 例え、その結果、ありとあらゆるものを犠牲にしたとしても。

 

 

――八幡。……雪乃ちゃんのこと、お願いね

 

 

「――ああ。そうだな」

 

 そう言って、俺は雪ノ下の頭をポンと撫でる。

 雪ノ下は嬉しそうに目を細める。

 そして俺たちは、同じ教室へと並んで歩きながら向かった。

 

 

 例え、何者であろうと、世界中を敵に回そうと。

 

 俺は、雪ノ下雪乃を守り抜かなければならない。

 

 その結果、守るべき雪ノ下を、粉々に破壊してしまうことになったとしても。

 

 俺はコイツの傍にいて――

 

 

 一人ぼっちで、いなければならない。

 

 

 

 あの人に断罪される、その日まで。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 彼は今日も山を登る。

 そこに彼が毎日通うべき“教室”があるからだ。

 

 偏差値66を誇る進学校――私立椚ヶ岡中学校。

 

 3年E組――椚ヶ岡特別強化クラス。

 

 通称“エンドのE組”。

 

 進学校の勉強(レベル)についていけなかった成績不良者たちが送られる、落ちこぼれたちの隔離施設。

 

 ここに配属が決まった生徒(もの)たちは、すなわちエンド――脱落を意味する。

 

 本校舎から距離にして1km。

 学食もなく、トイレも汚い、山の上に建つ木造の古びた旧校舎。

 

 それが、2年度の3月から、潮田渚の通うべき教室だった。

 

 

 

 教室に入ると、そこにはごく普通の光景が広がっている。

 

「あ、おはよう、渚!」

「おはよう、茅野」

 

 普通のクラスメイト。

 普通の友達。

 

「……さぁて。お前ら席に着け。授業始めるぞぉ」

 

 そして、一人の老人先生(・・・・)が教室に入ってきて、号令を促す。

 

「……起立」

 

 日直の渚が小さく号令をかける。

 バラバラに気だるさを隠そうとしない様子で立ち上がる生徒(クラスメイト)達。

 その覇気を失った瞳はほとんどが教師になど向いていない。そんな普通の光景。

 

 当然、誰も武器を構えたりなどしない。ごく普通の、ありふれた光景。

 

「気をつけ……礼」

 

 そしてこれまらバラバラに発せられる、おはようございますの挨拶。

 

 当然、発砲音などしない。かったるげに、バラバラに席に着く。

 

 教師の方もそれを気にした様子もなく、淡々と機械的に出欠をとっていく。

 

 渚は、そんなクラスを冷めた目で見つめる。

 

 これが、今の渚の――“エンドのE組”の日常。

 

 全員、目の中が、どこか諦めで満ちている。

 

 中学三年生にして、未来に希望というものを失った、落ちこぼれ達の惨めな末路だった。

 

 渚は、そんなクラスから目線を逸らすように教室の外に移して、空を眺める。

 そこには昼間ながら、綺麗な“満月”が覗いていた。

 

 いっそのこと、地球を破壊する超生物でも現れて。

 

 何もかも、破壊してくれればいいのに。

 

 

 

 

 

 キーンコーンカーンコーン。

 終業を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室の扉側の列の一番後ろの席に座っていた男子生徒が勢いよく立ち上がった。

 

「……けっ。面倒くせぇ。おい、テメーら。ゲーセン行くぞ」

 

 そう言って荒々しい足取りでお供を連れて寺坂は帰宅する。

 このE組は成績不良者の集まりという名目上、当然ながら部活動は禁止だ。

 

 教室の中では、まだお喋りを楽しむ生徒たちがいるが、渚はそこに混ざるような気分ではなかった。

 

 渚は、そっとその場を後にする。

 

 今日も、代わり映えの無いエンドのE組の一日が終わった。

 

 そして、明日も続く。

 

 変わることなく、終わり続ける。

 

 

 

 昨年度末、渚に一枚の紙が突きつけられた。

 

 それは転級通知という名の、赤紙だった。

 

 そして渚がE組行きだと知れ渡るにつれて、潮が引くかのように、クラスメイトや友達だと思っていた人たちは渚から離れて行った。

 

『渚のやつE組行きだってよ』

『うわ……終わったな、アイツ』

『俺あいつのアドレス消すわぁー』

『同じレベルだと思われたくねーし』

 

 そして、それは教師も同じだった。

 

『お前のお陰で担任(オレ)の評価まで落とされたよ。唯一良いことは――』

 

 

『――もう、お前を見ずに済むことだ』

 

 

 ドンッ。

 俯きながら歩いていた渚は、前を行く通行人にぶつかった。

 

「あ、すいませ――」

 

 謝ろうとした渚だったが、その通行人はまるで気にせず歩き去ってしまう。

 

 まるで、渚など見えていないかのように。

 

「………………」

 

 渚がE組に落ちてから、誰も渚を見なくなった。

 

 期待もされない。警戒もされない。認識さえも、されなくなった。

 

 あの生気の抜けたエンドのE組クラスメイト達も、どこかでは思っている。

 

 どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 

 親を。友達を。教師たちを。

 

 

 でも、どうやって?

 

 

 落ちこぼれだと断じられた僕たちに。

 

 エンドのE組の僕たちに。

 

 

 この底辺の立場から這い上がれるような、才能(なにか)があるのか?

 

 

 それは勉強? 運動? それともそれ以外の何か?

 

 それはどうやって見つければいいのだろう?

 

 先生たちにすら見放された僕たちに、どうやって?

 

 こんな僕たちを正面から見てくれる、そんな異常な先生が、都合よく現れてくれるわけでもあるまいし。

 

 渚は、再び歩き出しながら、天を仰ぐ。

 

 頭上の月は、まるで欠けることなく満月(けんざい)だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 午前の授業が終わり昼休みとなった途端、俺の前と左斜め前の席の生徒が勢いよく立ち上がり、席の離れた友人の元へと向かう。

 ……まぁ、俺から一刻も早く遠ざかりたいのだろうが、そこまでか。一応、毎日風呂に入っているので、別に悪臭がするというわけではないと思うのだが。それとも俺の腐った目を背中に向けられるのが怖気が走るという話か。思い上るな。俺は基本的に真面目に授業を聞いているので視線はちゃんと黒板を向いている。理系の授業は爆睡だ。よってお前の背中を見る余裕などない。……ま、まぁ。夏服になって、たまに派手なブラ紐が透けているときなどは、ちょっと目線を向けてしまう時もあるが、それはお前が悪い。透けると分かっているのに、そんなのを着けてくるお前が悪い。いえ、俺が悪いですね。ごめんなさい。

 

 俺の席は教室の一番通路側の列の一番後ろだ。なので、基本的に教室の出入りは前方の扉から行われるという不思議な状況を作り出してしまっている。ちなみに、左隣は相変わらず雪ノ下だ。

 

 休み時間の度に某テニス部部長のファントム状態のように俺の周りは人気がなくなる。これは人気(ひとけ)と読む。まぁ、別に人気(にんき)でも意味は変わらないんだけどね。どっちも絶望的にないのは変わらないし。

 いつもは突っ伏して過ごすのだが、さすがに俺も腹は減るので、昼休みは飯を食わなくちゃいかん。

 よって俺も立ち上がり、後ろの扉からマイベストプレイスへと向かう。あの女子達も俺がすぐいなくなるのが分かってんだから、ゆっくりと逃げればいいのに。結局逃げられちゃうのかよ。

 

 そして、俺に続いて雪ノ下も立ち上がる。その手にはしっかりと弁当箱がある。コイツは昼飯時も俺から離れようとしないので、今じゃコイツもマイベストプレイスでぼっち飯である。

 

 ……いや、ぼっち飯じゃなかったな。

 

「それじゃあ、行こっか。ヒッキー。ゆきのん」

 

 その手に弁当箱を持ちながら、鉄壁のファントムの中にやってくる少女。

 

 由比ヶ浜結衣。彼女は、あの事件以前のような、輝く笑顔を俺たちに向けた。

 

「ええ。行きましょうか、由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下も微笑みと共に由比ヶ浜を迎える。

 あの事件以降、全校生徒から忌避されるようになった俺達にも、由比ヶ浜だけは変わらずに、あの事件以前のように接してきた。

 

 普段は俺に気を遣っているのか、それとも三浦たちに気を遣っているのか、あまり積極的に関わってこないが、昼食はこれまで通り雪ノ下と一緒に食べることに拘っている。雪ノ下は俺の傍から離れないので、必然的に三人で食べることになるわけだ。

 

「……じゃあ俺、購買でパン買ってくるから。先に行っててくれ」

 

 そうなると別に奉仕部の部室で食ってもいいんだが、俺としてはあそこにいる時間は最小限にしたい。

 そんな気持ちは口に出さずとも伝わったのか、由比ヶ浜からそのことを提案することはなく、三人でベストプレイスで昼休みを過ごすのが常になっていた。

 

「うん、分かった。行こっか、ゆきのん」

「……ええ。あ、あの、比企谷くん。その――」

「分かってる。すぐに行くさ」

 

 そう言って、ポンと雪ノ下の頭を撫でて、由比ヶ浜と目を合わせる。

 由比ヶ浜は少し悲しげな表情を見せたが、すぐに力強く頷いた。

 

 俺は二人よりも先に教室を出る。

 

 ふとその時。教室の窓際にいる三浦と海老名の姿が見えた。

 二人は禍々しく、俺を睨みつけていた。

 

「…………」

 

 俺はその眼差しから黙って目を逸らし、何も言わずに購買へ向かった。

 

 

 

 雪ノ下の俺への依存は、あの惨劇による圧倒的ストレスにより不安定になった精神の安定が目的だ。

 事件直後は、雪ノ下が寝るまで俺が手を繋いで、雪ノ下が寝付いたら帰宅し、また雪ノ下が起きる前に迎えに行くなんて生活をしていたものだが、前述の通り、今では寝起きくらいは一人で出来るようになった。今でもたまに夜中に電話がかかって呼び出されたりするが、大分マシになったと言っていいだろう。

 

 何が言いたいのかと言えば、精神が安定することが出来れば、傍にいるのは別に俺じゃなくてもいいということだ。まぁ、幸か不幸か(おそらくは圧倒的に不幸なのだろうが)、雪ノ下は俺に対して一番心を開いているようで、俺の傍が最も安心できるようだが、俺の次に由比ヶ浜にもかなり心を開いている。

 

 だから昼飯を調達してくる間くらいは安心して任せられるのだが、今の雪ノ下の相手は、生徒会選挙後の仮面を被っていた雪ノ下の相手をするよりもかなり酷だろう。由比ヶ浜には、償っても償いきれないくらいに、甘え、傷つけ、逃げて、負担をかけてきたのだ。返しても返しきれない程の恩がある。もうなるべく、由比ヶ浜の重荷は減らしてやりたい。

 

 なるべく早く戻ろうと、パンを無事調達した俺は、自販機の前に立ち、マッ缶を購入すべくコインを投入した。

 そこでふと思いつく。

 ……別にこんなもので何かを返せたことになるとは微塵も思わないが、それでもジュースを奢るくらいのことはしても罰は当たらないだろう。

 アイツは何が好きなのだろうか? とりあえず女子力高そうなやつでいいかな? 女子力高い飲み物ってなんだよ。まぁ、オレンジジュースなら嫌いってやつはいないだろう。

 

 ボタンを押そうとすると、横合いから突然手が伸びてきて、俺よりも先に飲み物を購入する。おい、俺の金なんだけど。

 

 ジトっとした目を下手人に向けると、ソイツはビクッと体を震わせながらも、必死に、あざとい笑みを作って、小悪魔っぽく告げた。

 

「先輩は、これですよね?」

 

 そう言った一色が押したボタンはマッ缶だった。……まぁ、確かに俺はこれだな。

 更にコインを投入した俺を見て、一色は顎に人差し指をつけながら首を傾げる。うわぁ、あざとい。リアルでやってるやつ初めてみた。……いや、陽乃さんもよくやってたか。つくづく劣化陽乃さんな奴だ。

 

「あれ? 違いました?」

「……いや。これはアイツ等の分だ」

 

 そう言うと一色は少し表情を曇らせたが、すぐにまた小悪魔っぽい表情に戻る。

 

「あ~。パシられたんですか」

「ちげぇよ……」

「わたしミルクティーがいいです」

「なんでお前のも買わなくちゃいけないんだよ……」

 

 ほら、500円玉入れてたから勢いで押しちまったじゃねぇか。

 がしゃがしゃと4つの缶を取り出すと、ニコニコ顔の一色の頬につめた~いミルクティを押し付ける。「ひゃあ!」というあざとい悲鳴を上げる一色から逃げるように俺はその場を後にしようと歩き出す。

 

 だが、一色は「な、何するんですか!」と少し頬を紅潮させながら俺の横につく。

 あ~。今のは素の悲鳴で恥ずかしかったんだな、と思ったが今はそんな場合じゃない。幸い、ここは人通りの少ない場所だからよかったが、これ以上はダメだ。

 俺は立ち止まり、ジッと一色を見下ろす。

 

「な、なんですか?」

「……一色。分かるだろ。さっさと教室に戻れ」

「……なんですか、それ。……分かりませんよ」

 

 そう言う一色だが、顔は俯いて、露骨に目を逸らす。

 

 今のこの学校に俺と雪ノ下に積極的に話しかけてくるのは、由比ヶ浜だけだ。

 だけど、時折コイツや戸塚や小町、それに材木座なんかも話しかけてくる。川崎も、話しかけてはこないが、表情からして俺たちのことを心配してくれていることは分かる。

 それは本当にありがたい話だ。でも、だからこそ、コイツ等を巻き込むわけにはいかない。

 一色は今じゃあすっかり生徒会長として認められている。そんなコイツが、俺なんかとの関係を邪推されたら、悪影響しか及ぼさない。

 

 それに――

 

「せ、先輩! またあの場所でお昼食べてるんですよね! なら、わたしも――」

「一色」

 

 

「ありがとな。でも無理すんな」

 

 

 ビクッと体が震え、一色は硬直する。

 ……無理もないさ。今の俺の目の不気味さは、あの小町ですら時折怯えるくらいなんだ。

 一色も、そして戸塚も材木座も川崎も、みんな怖いのを我慢して、それでも俺なんかに話かけようと無理して頑張る優しい奴等だ。

 

 でも、こんな俺なんかに、無理して“欺瞞”をする必要なんかない。

 

「…………先輩の、馬鹿」

 

 一色は俯いたまま、小さくそう零して走り去って行った。

 

 俺は、そんな背中が見えなくなるまで見送って、あの二人が待つマイベストプレイスへと向かった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「……あ~。まだ海に来んのはちょっと早かったかな~」

 

 海岸沿いの縁石の上。

 一人の男が横になりながら団扇を扇いでいた。

 

 割りのいいバイトでも探そうとこんなところまでやってきたが、よく考えたらまだ初夏だったので海の家も営業しておらず、どうしようかと思っていたら、ポカポカと天気はよかったので昼寝でもしようとこうしてのんびりと黄昏ているというわけだ。

 

 男はガタイがいい男だった。

 逆立った茶髪に、ポロシャツ、ハーフパンツというラフな格好の上からでも分かる鍛えられた肉体。

 鋭い目つきと右目の上の傷から放たれる迫力は、まさしく肉食獣の虎を彷彿とさせた。

 

 だが、本人はまるで縁側で寛ぐ猫のように、大きく欠伸をしながら穏やかな陽気に身を任せている。

 

 そんな男の元に、二人の男が近づいてきた。

 

 一人は丸いサングラスが特徴のニタニタとした表情の男。

 もう一人は真っ黒のボサボサの長髪を後ろで結んだ表情が乏しい男。

 二人とも寝ている男に負けず劣らずの体格の男たちで、三人ともおそらくは180cmを越えているだろう。

 

 サングラスの男は寝ている男の周囲に転がる“もの”たちを見ながら、呆れたように、面白がるように言う。

 

「いやぁ。またずいぶん派手にやらかしましたね。100メートルくらいこんな有り様が続いているんじゃないんでスか?」

 

 ククっと笑う男が眺める先にいるのは、ここから100メートル程の道路――その道中にまるで敷き詰められているかのように転がる、ボロボロの不良の少年達だった。

 

 その風体はバラバラで、いくつものグループが一挙に押し寄せてきたことを意味している。

 彼らはバイクはもちろん、木刀や鎖、金属バットや釘バットなど、不良が持っている得物は残さず持参して丸腰の男に挑みかかったが、男に傷どころか返り血一つ浴びせることは叶わなかった。

 

「あ~あ。ここらへん一体の目ぼしい族どもは片っ端からのしちまったんじゃないんでスか?去年ここでバイトしてた時はしゃぎ過ぎたからっスよ。こういう奴等は何度やられても懲りねぇんすから」

「……バイト、まだ募集してなかった」

「ククッ! そりゃ、まだ夏じゃねぇっスもん!」

 

 サングラスの男が笑いを噛みしめているのを背中で聞きながら、横になっている虎のような男は大きく溜息を吐く。

 すると、ポツリとボサボサの黒髪の男が残念そうに呟いた。

 

「……焼きそば。奢ってもらおうと思ったのに」

「悪いな、かおる。夏になったら食わせてやるよ」

「雇ってもらえますかねぇ。こんなに大暴れして」

 

 虎のような男は体を起こしながら、海を見てつまらなそうに呟いた。

 

「……なぁ、庄次――どっかに、俺とタメ張れるような奴はいねぇのかな」

 

 その自分達が全幅の信頼を寄せる頼れる大きな、けれど少し寂しそうな背中に、サングラスの男――相沢庄次は、そして黒髪の男――陣野かおるも、何も声をかけることは出来なかった。

 

 目の前の男――東条英虎は、二年生にしてすでに、『天下の不良高校』として悪名高い石矢魔高校の頂点に君臨する男――『石矢魔最強の男』である。

 その自由気儘な性格から石矢魔統一などには興味がなく、バイト三昧で碌に登校すらしていないが、この人間的に“デカい”東条という男に、彼らは惚れた。

 

 だが、自分達ではこの男に“楽しさ”を感じさせることすら出来ない。それぐらい、東条という男はあまりにも“強過ぎる”。

 

 それは、強者と“喧嘩”をすることを何よりの生きがいとするこの男には、耐えがたい“退屈”を齎している。

 

「……帰るか」

 

 そう言って、東条は自分達の横を通り過ぎ、去っていく。

 

 東条にとっては、足元に転がる男たちなど有象無象に過ぎない。

 彼は悪人ではない。

 東条は、誰彼構わず喧嘩を売ったりしないし、その圧倒的な力を振りかざして弱者を甚振ったりしない。

 

 そんなことをするほど、他者に興味も関心もないのだ。

 

 東条が求めるのは、ただ自身に匹敵する強者。そして、その強者との胸が熱くなるような“喧嘩(たたかい)”のみ。

 

 そんな男の生き様に魅せられた二人の男は、その寂しげな大きな背中が去ってくのを、ただ眺めていた。

 

 いつか東条に、彼を熱くさせるような強者との出会いが、訪れるのを願って。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その空間には、優しい紅茶の匂いが満ちている。

 

 俺は薄らとしか頭に入ってこない文字列を眺めながら、背後に聞こえる二人の少女の話声に耳を傾ける。

 

 構成している要素だけを考えれば、今の状態はすっかり元通りの奉仕部といえる。

 

 雪ノ下雪乃。

 由比ヶ浜結衣。

 そして、俺――比企谷八幡。

 

 雪ノ下が淹れてくれた紅茶の香りが、この部室内を優しく満たして。

 

 放課後の静かな時間を、ほとんど来ない依頼者を待つという名目で、三人で穏やかな時間を過ごす。

 

 だが、これはあの『本物』への可能性を秘めていたかけがけのない空間ではない。

 

 かけがえのないものは、失ったらもう手に入らない。

 

 だから、これは違う別物なのだ。

 

 長机の一番端の定位置で読書をする俺、のすぐ隣。

 かつて俺の真向かいに陣取っていた、この奉仕部の(あるじ)は、俺に身を寄せばんとする距離感で、かつての定位置にいる由比ヶ浜と楽しくお喋りをしている。

 

 俺に怒涛の勢いで毒を吐いていた彼女の姿はそこになく、時折少女のような笑顔で俺に話を振ってきて、由比ヶ浜と一緒にそれに対処する。

 

 パッと見は完璧な、綺麗に整いすぎているこの時間。

 かつて、俺が目を背け、逃げ出した、あの生徒会選挙後の奉仕部よりも、はるかに優しく、はるかに歪な奉仕部が、ここにあった。

 

 小町は、自分も奉仕部に入りたいと言ってきたが、俺はそれをかなり激しく拒絶した。

 俺たち三人以外が、この歪さに耐えられるとは思わなかったし。

 

 それに何より――こういっては小町に悪いが――この空間に、この奉仕部に、異物を混ぜたくなかったのだ。

 

 もしかしたら、心のどこかで期待しているのかもしれない。

 

 俺と、雪ノ下と、由比ヶ浜。

 この三人で成立する空間を維持していれば、もしかしたら、いつかまた――

 

 もしそうだとするならば、怒りを通り越して呆れる。

 

 そんなことがありえないのは、誰よりも、その可能性を破壊した俺自身が思い知っているというのに。

 

 俺は本を片手で閉じながら、二人に宣言した。

 

「……今日は、これくらいにするか」

「あ、そうだね。もうこんな時間か」

「そうね。そろそろ帰りましょうか」

 

 いつの間にか、部活を終了させるのは俺の役割になっていた。

 

 こうして色々なことが、少しずつ変わっていくのだろう。

 

 どれだけ今のままを望んでも、同じままではいられない。

 

 

 由比ヶ浜は、いつか俺に愛想を尽かせて去っていくのだろう。

 

 雪ノ下は、いつか俺の呪縛から抜け出し一人で歩んでいくのだろう。

 

 

 そうして俺は、この間違っている穏やかな時間すら失くし、本当の意味で独りぼっちになる時が来る。

 

 

 望むところだ。

 

「じゃあ俺は鍵を平塚先生のとこに返してくるわ」

「それじゃあ、由比ヶ浜さん。また明日」

「うん。じゃあね、ゆきのん、ヒッキー。また明日」

 

 そう言って、俺と雪ノ下は由比ヶ浜と別れる。

 

「……行きましょうか。比企谷くん」

「……ああ」

 

 すでに暗くなり始めている校舎の中で、雪ノ下が俺の手を握る。

 

 俺はそれを振り払わず、そのまま職員室へと歩き出した。

 

 いつか、この手を雪ノ下が必要としない日も来るのだろう。来ることを願う。

 

 雪ノ下も、由比ヶ浜も、俺の元から離れ、自由になるときが、きっと来るはずだ。

 

 その時こそ、このどうしようもない物語(バッドエンド)が、少しはましな結末になれた時なのだろう。

 

 

 ならば、いつか訪れるその日まで、俺は戦い続けなければならない。

 

 

 彼女たちに見捨てられるその日を、俺はいつまでも待っている。

 

 




 第一部を気に入ってくれた方は、この展開に不満を覚える方もいるかもしれません。

 なるべく原作を知らない方も楽しめるように頑張りますので、許していただければ嬉しいです。


 原作を読み返していて、大志が小町と同じ中学ではなく、あくまで塾のお友達であることに気付きました。
 本当に申し訳ございません。今更ですが、修正いたしました。
 読み込みが浅いなぁ……俺。

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