比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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少女達は家族を想い、涙を流す。

 

 午前の授業の終わりを知らせるチャイムの音。

 それと共に――むしろ若干フライング気味で――俺の前と左斜め前の生徒が立ち上がってそそくさと遠ざかる。……もう何も言うまい。

 

 俺もゆっくりと立ち上がり、ご期待通りにこの教室を後にしようとする。

 

 そして、こちらに向かって嬉しそうに微笑む雪ノ下に、こう告げた。

 

「悪いな、雪ノ下。今日はちょっと用があってな。由比ヶ浜と二人で食べてくれるか?」

「…………え」

 

 雪ノ下はニコニコの笑顔を途端に曇らせて、不安げに俺を見つめる。

 

 担いでいる鞄を見て置いて行かれると思ったのだろうか、俺は雪ノ下のそんな心情を察して、言った。

 

「心配するな。昼休みが終わったら、ちゃんとお前のとこに戻ってくる」

「………………そう。分かったわ」

 

 そう言って、雪ノ下は儚く笑った。

 

 雪ノ下は、こういった時、俺の事情を無理矢理聞き出そうとしない。

 彼女が俺に抱いているのは、求めているのは、不安を和らげる為の安心感であって、決して独占欲ではないからだ。

 

 だから彼女は、今朝、俺が校門前で大志を待ち伏せしていたことに対しても、理由やら何やらを一切聞いてこない。

 もしかしたら、興味も関心もないのかもしれない。どちらにせよ、ありがたい。

 

「…………ヒッキー」

 

 いつの間にか近くにいた由比ヶ浜。彼女もまた、俺の事情を聞き出そうとはしない。

 

 ただ、黙って、何も言わず、何も聞かず、こちらを安心させるために、必死に、無理矢理に、頑張って笑みを作って、こう言うのだ。

 

 俺が、こう言わせるのだ。

 

「……いってらっしゃい」

 

 

『大丈夫だ。これは、俺が何とかすべき問題だ。必ず、俺は――』

 

 

奉仕部(ここ)に、戻ってくるから』

 

 

 そう言い残したのは、果たして一体いつのことだったろうか。

 

 もうはっきりと思い出せない。それくらい、はるか遠い昔の出来事のことのように思う。

 

 まだ、由比ヶ浜は、待ってくれているのだろうか。

 

 そんなボロボロの笑みで。ズタズタの心で。

 

 こんな俺を。こんな俺が、帰ってくるのを。

 

 

 俺は、とっくの昔に、諦めてしまったというのに。

 

 

「――そんな大袈裟なもんじゃねぇよ。言ったろ、昼休みの間だけだって」

「…………そう、だね」

「……ああ。だから……その間、頼む」

「…………うん。任せて」

 

 由比ヶ浜は、雪ノ下の手を引いて、先に教室を出た。

 

 俺はまた、由比ヶ浜に頼っている。いや、強いている。

 

 ボロボロの由比ヶ浜に。ズタズタの由比ヶ浜に。

 

 もう彼女の望みを叶えられないと知っているのに。叶えることを、諦めているのに。何も返せないと、返せやしないと、思い知っているのに。

 

 彼女の頑張りを、信頼を、この上なく最低な形で裏切った――裏切っているというのに。

 

 俺はまだ、この女の子を傷つけ続けている。

 

 

 ふと教室の端から、三浦と海老名が、俺に憎悪の視線を送っているのを、あの日から変わらず、送り続けているのを感じた。

 

 そうだ。お前達の、その感情は正しい。その調子でいつか、俺から由比ヶ浜を解放してやってくれ。

 

 そして由比ヶ浜。

 

 すまない。本当にすまない。

 

 俺は、お前との約束は、守れそうにない。

 

 

 ハニトーは、一緒に食べに行くことは――もう、出来そうにない。

 

 

 由比ヶ浜は、俺のそんな思いを感じたのか、一度こちらを振り向いた。

 

 

 そして、悲しげに、けれど優しく、笑った。

 

 

 俺は、そんな由比ヶ浜の微笑みを見て、目を合わせていることが出来ず、思わず俯いた。

 

 なんて無様なんだ。俺は、あんなに強く、優しい女の子とのささやかな約束すら守ることが出来なかった。

 

 なんて卑怯なんだ。ならばせめて、お前はその思いを受け止めるべきだ。それが怒りであれ、憎しみであれ、そして――優しさであれ。その全てを、俺は逃げずに受け止めるべきだ。受け止めるべきだったのだ。

 

 だが俺は、この期に及んで、また、由比ヶ浜結衣から逃げた。

 

 怯えるように、ゆっくりと、顔を上げる。

 

 当然のように、そこには由比ヶ浜も、雪ノ下の背中もなかった。二人とも昼食の為に、いつものベストプレイスへと向かったのだろう。

 

 俺は唇を噛み締め、踵を返す。

 

 向かわなければならない。もう二度と、あいつ等を巻き込まないためにも。

 

 もう俺は、由比ヶ浜に、雪ノ下に――そして小町に、合わせる顔はないけれど。

 

 それでも、もうあいつ等が傷つかないように。これ以上、あいつ等が、傷つかないで済むように。

 

 大志。川崎大志。

 

 奴の元へ、向かわなければならない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 屋上へと向かう道。

 元々、この学校で俺に近寄ってくるものはいないが――むしろ俺が近づくと遠ざかるまであるが――それでも段々屋上に向かうにつれ、さらに人はいなくなる。

 

 それでいい。その為に俺は、奴を屋上に呼び出したのだから。

 

 屋上。総武高の屋上は、基本的に立ち入り禁止である。そして、なぜか俺は、この場所に妙に思い出が多い。

 

 相模を罵倒し葉山に止められた。そしてその数か月後に、同じ場所で相模と葉山と協力して作戦会議をした。

 

 あの日、雪ノ下を拉致したチビ星人の親玉を、殺した場所でもあった。

 

 そして――

 

「――比企谷!」

 

 後ろから俺を呼ぶ声。

 

 ……ああ、そうだな。そういえば、お前と出会ったのも、たしか屋上だったな。

 

「黒のレ――じゃなかった。……川崎か」

「……あんた、やっと名前を覚えたと思ったら」

 

 じとっと、走ってきたのか妙に頬を赤く染めた川崎が俺を睨む。いやゴメンね、ちょうどばっちり思い出しちゃったからさ。

 

 思えばあの日、チビ星人が屋上にいると教えてくれたのも彼女だった。

 

 何も言わないで、送り出してくれた彼女だった。

 

「………何の用だ?」

「……っ」

 

 だが、それはもう関係ない。

 

 あの日以降、川崎は俺に話しかけてこなかった。

 

 話しかけないで、いてくれていたんだ。

 

 そんな彼女が、そんな優しい彼女が、今の俺と話しているところなどを見られても、何の得もない。絶大な不利益しかない。

 

 だから俺は、一瞬緩みかけた空気を引き締めるように、冷たい声色で彼女を問い詰めた。

 

 川崎も身を竦ませ、目に見えて怯える――だが、それでも彼女は、立ち去ろうとしなかった。

 

 ……そこまでして、全部承知の上で、それでも俺に、話したいことがあるのか?

 

 川崎は、川崎沙希は、こちらに目を合わせず、それでも振り絞るように、呟くように言った。

 

「…………大志の、ことなんだけど」

 

 ………………ああ、やっぱりか。

 

 昨日の大志の件の、まさに次の日。そして、今まさに、その大志に会いに行こうとしている、このタイミング。

 

 やはりという、その言葉以外、ない。

 

「……………大志が、どうかしたのか?」

 

 川崎は、相変わらず俺の目を見ない。

 

 だから、俺の目が細く睨み付けるようになっていることも――

 

――俺が、右手を鞄の中に入れ、Xガンをいつでも取り出せる状態になっていることにも気づかない。

 

 ……さて、どうだ? 今の状況は“ほとんど黒”だ。

 

 さぁ、川崎。

 

 お前は、“どっち”だ?

 

「……あのさ。最近、大志の様子が、変、なんだよ」

 

 …………。

 

「……変、だと?」

「う、うん。……ここ最近、というか、もっと……年が明けて、少し経ったくらいから……なんか……ちょっと、様子がおかしいんだよ」

 

 ………年が明けてから。

 

 つまり、チビ星人との戦いの後、か。

 

 それは、大志がその頃に“後天的”にああなったのか。

 

 それとも、“先天的”にそういうもので、その頃に化けの皮を剥したのか。

 

 だが、どちらにせよ――

 

「…………どうして、今、それを俺に言うんだ?」

 

 それが分からない。

 

 時期的に大分経っていることもそうだが、そもそも俺は、こいつにそういった相談をされるような人物じゃなかったはずだ。

 

 確かに川崎は、俺が全校生徒に気味悪がられるようになっても、嫌悪的な眼差しを俺に向けなかったが、それはただ単にこいつが優しいからだ。ただ、それだけだ。

 

 それなのに、なぜ、今、よりによって俺に接触するんだ?

 

 接触してまで、そんな話をするんだ?

 

「……………………ゴメン」

「いや、別に責めているわけじゃない。俺はなぜ――」

「ゴメン……本当にゴメンっ」

 

 俺は川崎が謝る意味が分からず戸惑うが、彼女はスカートの裾を握りしめ、俯きながら、涙声で言葉を漏らす。

 

「……アンタが、あの日以来……すごく苦しんでるの、分かってる。……そんなアンタに……こともあろうか、そんなアンタを頼るだなんて、本当に申し訳ないって思ってる……っ」

 

 川崎は、ついにポロポロと涙を零しながら、懇願するように言った。

 

「……それでも、もうダメなんだよ。……あたしじゃあ、大志に何も出来なかった……っ。あの子は、何も言ってくれないけど……苦しんでるのは分かる。……家族だから。…………でも、あたしは、あの子に何も出来ないんだよっ! ……家族……なのに……っ」

 

 川崎は、体を震わせて、涙を流す。

 

 それは、俺が初めて見る川崎の姿で――いや、俺は名前を何度も忘れて間違える程に、川崎のことを何も知らなかった。

 

 故に、俺は今、見せつけられている。

 

 弟を――家族を想う、姉の姿を。

 

「あの子……本当に乾いたように笑うんだ。……あたし達に、そんな張り付けた笑顔を見せて……普段は、息を呑むくらい……無表情で…………そして、たまに……すごく苦しそうに……顔を、歪めるんだ……まるで…………比企谷……みたいに」

 

 ……そうか。

 

 俺は、そんな風に壊れているのか。

 

 そして、大志も。

 

「ゴメン。……最低なことを言ってるって分かってる。そして……これから……もっと最低なこと……言う。……あたしには、大志の気持ちが分からないの。何を聞いても……答えてくれなくて……。……だから……でも……それでもっ、あたしは――っ」

「それで――」

 

 俺は、その先の言葉を言わせまいと遮り、そして言った。

 

「――同じように壊れている俺なら、大志の気持ちが分かって……そして、救えるかもしれないと。……そういうことか?」

 

 川崎は、そこでようやく顔を上げた。

 

 その表情は、悲痛に歪んでいた。

 

 涙で化粧が落ちたのか、目の周りが黒く滲み、それでもその瞳は、涙できらきらと輝いていた。

 

 その悲痛は、大志が壊れていると俺が言い切ったことに対してなのか――――それとも。

 

 だが、川崎は、そのことで俺を責めることなく――ただ。

 

「………………ゴメン」

 

 と、小さく、深く謝った後――

 

 

「――――大志を、助けて……っ」

 

 

 縋るように、懇願した。

 

 こんな俺に、懇願した。

 

 頭を下げて、涙を流して、それでも愛する家族の為に。

 

 大事な、大事な、大志(おとうと)の為に。

 

 その時、俺の脳裏に、今朝の小町の怯えた声が響く。

 

 

『お、お兄ちゃん……?』

 

 

 同じ年下の妹弟(きょうだい)を持つ身同士なのに、なんなんだろうな、この違いは。

 

「………お前は、立派な姉ちゃんだよ、川崎」

 

 俺は、その言葉だけを言い残して――川崎に背を向けて、今度こそ屋上に向かった。

 

「比企谷!」

 

 後ろから、聞いたことがないような川崎の叫び声。

 

 だが俺は、その言葉に足を止めずに、そのまま歩みを進めた。

 

 結局、俺は、川崎の言葉に、具体的には何も答えなかった。

 

 由比ヶ浜結衣だけでなく、川崎沙希からも、俺は逃げ出した。

 

 こうして逃げて。逃げて、逃げて、逃げて。

 

 やがて、いつか。

 

 逃げきれなくなるのだろう。

 

 望むところだった。

 

 望んで、やまない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 午前最後の授業が終わり、昼休みになった。

 

 教師が教室を後にすると、途端にざわざわと騒がしくなる教室。

 そんな中、川崎大志は誰にも注目されることなく、ゆっくりと立ち上がり、そしてゆっくりと教室を後にする。

 

 今朝の登校時のことは、そこまで話題には登らずに、大志は特に避けられたり、嫌がらせを受けたりなどということはなかった。

 これは一重に、入学してから今までの数か月間、大志が作り上げた教室内のポジションのお蔭だろう。

 

 大志は入学してから徹底的に、人間関係を構築しないことに腐心した。

 遊びや集まりに誘われても断り、部活などのコミュニティにも一切参加しなかった。

 

 そうして大志は、かつての八幡のように、嫌われることもなく、決して目立たず、教室にいるかいないか分からないという存在になることが出来た。

 

 ただ一人、彼女を除いては。

 

「大志君」

 

 教室を出て、一年の教室があるエリアから屋上へと向かうルート。

 

 人がほとんどいなくなる、その場所、そのタイミングで、後ろから彼女に呼び止められた。

 

 総武高へと入学して、自分が人間ではない何かの怪物に成り果てて。

 

 道行く人が、道行く人間が、みんなみんな同じに見えて。

 

 あらゆる関係を断ち切ろうとした自分が、それでも断ち切れなかった、たった二つの関係。たった二つの、川崎大志にとって、どうしても断ち切れなかった――断ち切りたくなかった繋がり。

 

 一つは、家族。

 

 そして、もう一つは――

 

 大志は階段の下から呼びかけたその声に答える為、途中まで階段を上っていたので見下ろすような恰好で、そんな立ち位置で、彼女の方に振り向いた。

 

「……どうしたんすか? 比企谷さん?」

 

 比企谷小町。

 

 川崎大志が、もう一年近く片思いをしている少女。

 

 彼女のことは、大志は、他の有象無象と同じ存在として見たくなかった。

 

 だから彼女と、家族のことは、必死に忘れまいとした。彼女達の特徴を、声を、姿形を、性格を、彼女達という人間を。決して他の人間達と同一視しないように、有象無象に紛れ込ませないように。大志はずっと、そう願ってきた。

 

 そう、己の怪物性と、異形性と、異常性と戦ってきた。

 

 彼女達を、彼女達まで、なくしてしまったら、失ってしまったら、手放してしまったら。

 

 完全に、完璧に、完膚なきまでに、川崎大志という人間は、終わってしまうから。

 

 もう、川崎大志という怪物から、逃げられなくなってしまうから。

 

 だから、まだ、クラス内で唯一、彼女のことは分かる。

 

 判別できる。彼女の顔を見て、声を聴いて、胸の中に、高鳴りを覚えることが出来る。

 

 そんなことが、そんな些細なことが、大志に途轍もない安堵感を齎してくれる。

 

 俺は人間なんだと。まだ、人間なのだと。

 

 かつて、ちゃんと、人間だったのだと。

 

 安心感と、それと同じくらいの――痛みを齎す。

 

「……うん。ちょっと、ね。聞きたいことがあって」

 

 小町は大志に向けられた笑みに、悲しそうに、だけど気丈に笑う。

 

 小町も当然、同じクラスである為、大志の異常には気付いていた。

 だが、それでも大志は、これまで通り小町に対しては優しく“笑顔”で接してくれるし、それに何より。

 

 小町には、八幡がいた。

 

 大志と同じ、いやそれ以上に壊れ、追い詰められている人間がいた。

 

 だから小町は大志の異常に気付きながらも、これまで踏み込んでこなかった。

 

 彼女にとっては、大志は友達だけれど――八幡は兄だから。たった一人の、兄だから。

 

 大志はそれでいいと思っていた。むしろ、それが何よりありがたかった。

 

 だから、こうして小町が大志に聞きたいことがあると言って、わざわざ人気のないところで話かけてくるのは、おそらく入学以来初めてだった。

 

 以前の自分なら、何かしょうもない勘違いをして、期待を抱いて、頬を赤く染め、小町の顔を直視出来ずキョロキョロと挙動不審に目線を逸らしながら、胸をバクバクと高鳴らせるのだろう。

 

 けど、今の自分には、そんな風に人間臭い行動や感情は抱けない。

 

 そんな自分が、そんな情けなくも微笑ましい行動をとれない自分が、何よりも虚しい。

 

 だから早く済ませたかった。想い人との思いがけない時間なのに、一刻も早く終わらせたかった。

 

 今は、こんなことよりも、大事なことがある。

 

「話ってなんすか? 申し訳ないけど、これから行かなきゃいけないところがあるんすよ」

 

 大志は、今の自分に出来得る限りの笑顔と、優しい声色でそう言った。困っているような苦笑混じりというアクセントも加えて。

 

 一つ一つの要素を、意識して、丁寧に作って。

 

 小町は「……そっか、ごめんね」と、相変わらずの悲しげな笑みでそう言って、本題を話した。何も触れなかった。

 

「……大志君、さ。最近、お兄ちゃんと何かあった?」

 

 そんな小細工で作った笑みは、一瞬で崩れ去った。

 

 それでも大志は、硬直が解けた後、すぐに首を振って否定した。

 

「……何にも。何にもないっすよ」

「でも……今日の朝も校門で会ってたみたいだし。それに、なんでか今朝、お兄ちゃんが急に――」

「何にもないっすよ――何にも」

 

 大志は顔に笑みを張り付けたまま、語調だけ強くして否定した。

 

 ああ、ダメだ。これじゃあ、こんなんじゃあ、すぐに容易く剥がれてしまう。

 

 大志はこんな拙い仮面しか作れない自分が情けなくて、そして、そんな仮面を剥して自分の触れられたくない場所に踏み込んで来ようとしてくる小町に――苛立った。

 

 ああ、ヤバい。不味い。一刻も早くこの場を離れないと。

 

 嫌だ。嫌だ。それだけは嫌だ。

 

 この想いだけは、消したくない。この人の、この女の子への想いだけは、なくしたくない。

 

(……比企谷さんのことだけは、“どうでもいいと思いたくない”…………っ)

 

 今の自分は、煩わしいと思ったことは、すぐに手放してしまう。

 

 手放して、関心をなくして――見下してしまう。

 

 今の自分には、怪物になった川崎大志にとっては、人間とはそういう存在だった。

 

 そして、自分は化け物で、小町は人間だった。

 

「……っ。ごめんっす。俺、本当に急いでるんすよ」

 

 大志は、小町に背を向ける。何かから目を逸らすように。

 

 何かから逃げるように。

 

「あ、待って! 大志君!」

 

 小町は焦ったように大志に言葉を投げ掛ける。だが、大志はそのまま足を止めずに階段を上って行った。

 

 そして小町は、一瞬躊躇するように息を呑み、意を決するように声を張り上げる。

 

「お兄ちゃんはっ!」

 

 その叫びに――大志は足を止めてしまい、せめてもの抵抗なのか、背を向けたまま、その言葉を無言で受け止めた。

 

「性格が捻くれてて、ぼっちで、目が腐ってて、性根も腐ってて、面倒くさくて、臆病なのに強がりで、自分のことが大好きだっていうくせに自分のことが大嫌いで、周りの人からの好意を認めようとしなくて、なのにとんでもないシスコンっていうごみいちゃんだけど……っ…………だけどっ!」

 

 小町のその叫びは、何かを堪えるように、何かに耐えるようにして、吐き出される叫びだった。

 

「……小町が寂しいときは……ずっと一緒にいてくれて……小町をずっと……守ってくれてて……小町をずっと……愛して……くれてっ………………とっても純粋で……とっても優しくて……とっても強くて…………とっても……弱い……人なの……」

 

 小町のその叫びは、段々と小さくか細くなっていった。

 

 まるで、言葉を一つ吐き出すごとに、何かを削っているかのようで。

 

 それは、小町の、ずっと溜めこんでいた何かを、吐き出しているようだった。

 

「……だから……だから…………だから…………っ」

 

 小町はもう、大志を見ていない。

 

 人気のない階段の踊り場に膝をつき、しゃがみ込み、何かに祈りを捧げるように、身を丸めた。

 

 そして、小町は、懇願するように、願い請うように。

 

 捧げるように、言った。

 

 

「……小町のお兄ちゃんを…………嫌いにならないで」

 

 

 それは、誰に向けての言葉だったのか。

 

 それは、一体、いつから溜めこまれていた願いだったのか。

 

 大志には分からない。文字通り、人の気持ちが分からなくなってしまった大志には。

 

「…………お願い、だからぁ……」

 

 大志には分からない。

 

 まるで許しを請うように、そう呟く小町の気持ちが分からない。

 

 分からないことが、とても悔しく――とても悲しかった。

 

「…………比企谷さんは、本当にいい妹さんっすね」

 

 だが、それでも、大志は小町を尊敬した。

 

 たった一人の兄の為に。大事な、大事な、家族の為に。

 

 小町は今、自分の心を曝け出したのだ。自分の願いを、剥き出しの願望を、無防備に他人(たいし)に晒したのだ。

 

 それは、とても怖いことで。それは、とても勇気のいる行動で。

 

 小町は間違いなく、比企谷八幡のことを――兄のことを愛していた。

 

 己の身を挺して、最愛の兄を守ろうとしているのだ。

 

 

『うわぁぁぁあああああああああん!! うわぁぁぁあああああああああん!!』

 

 

『…………大志』

 

 

 

『うるさいっ!!!』

 

 

 

 それに引き換え、自分は何度、家族を傷つけてきただろう。

 

 これまでずっと、姉に守ってもらってばかりで。

 

 いつか自分が、姉を、妹を、父を、母を――大事な家族を、この手で守ってみせると。

 

 そう決めていた。そう心に決めていた――そのはず、なのに。

 

 大志はじっと、自分の手を見た。

 

 家族を守ると決めたその手は、もうおそらく、家族の手を握ることすら出来ない。

 

 大志は、自嘲的に笑って、蹲って嗚咽を堪える想い人の方を、振り返りもせずに、そのまま階段を登りきる。

 

「……大志君」

 

 涙声混じりで投げ掛けたその言葉に、大志は足を止めずに、背を向けたまま、淡々と答えた。

 

「……嫌いになんて、ならないっすよ――俺は」

 

 小町がその言葉の意味を問いかけようとする時には、既に大志の姿は、そこにはなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ぎぃ、と、その重い扉を開く。

 

 梅雨時期のこの空は、どんよりと灰色に曇っていた。

 

 自分に、そしてあの人に、この会談に、相応しい空だと思った。

 

 そんな自分の感想を裏付けるように、あの人は、その空の背景に見事に溶け込んでいて。この背景の中でも、呑まれることなく、その異様な存在感を放っていて。どんよりと曇った空よりも、さらに暗く濁った瞳をこちらに向けた。

 

「……よく来たな、大志」

 

 比企谷八幡は、大志の姿を確認すると、すぐに右肩にかけていた鞄を乱雑に落とした。

 

 そして、落ちる鞄を目で追っていた大志は、バッと視線を上に挙げた。

 

 

 その右手には――無骨な黒い機械的な銃が握られていた。

 

 

 そして、それを――その銃口を、真っ直ぐに大志に向ける。

 

 八幡は左手で何かを大志の足元に放り、冷たい声色で命じた。

 

「扉を閉めて、鍵をかけろ。そして、ゆっくりとこっちに歩いてこい。……言うまでもないことだが――」

 

 大志は、心のどこかで、解放感を感じていた。

 

 ああ、この人の前では、大志(おれ)怪物(おれ)でいられる。

 

 そして、大志(おれ)は、人間(おれ)でいられる。

 

 なぜならこの人は、こんなにも当たり前に、俺を怪物のように扱ってくれて――

 

「――余計な行動をしたら……殺すぞ」

 

――あんなにも、悲しげに、俺を見つめてくれている。

 

 この人は、川崎大志を怪物であると受け入れた上で、川崎大志という人間であることも、きっと認めてくれているのだ。

 




ちょっと間延びだったかもだけれど、個人的には気に入ってるシーン。

そして次話は、一話丸々暗殺教室です。

……いや、違うんです。焦らしてるんじゃないんです。
次の次は、また丸々一話俺ガイルですので! 大志と八幡の対話シーンですので! どうかご容赦を!

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