比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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果たして、少年は救われたのか。

それとも――


潮田渚は、唐突に支配から解放された。

 山道を下る。

 茅野は少し前を歩く渚の背中を、渚が時折ふと思いついたかのように振ってくる何気ない話に生返事を返しながら見つめていた。

 

 そして、ザッと気合を入れるように音を立てて立ち止まり「――渚っ!」と強めに呼び止める。

 渚は「……茅野?」と、やはり訝しげというよりは不思議そうに振り向いた。

 

 山道を下っているので――どちらも男子と女子でそれぞれクラスで一番小さいが――普段は少し渚を見上げている茅野だが、今は渚が茅野を見上げる形となっている。

 

 見上げてくる渚の視線が、まるでこちらを覗きこんでいるかのように冷たく感じて――それでも、表情や、声の調子はいつもの温和な渚で。

 ただ、目の色だけが――目の奥だけが、冷たい何かを放っているようで、異様な違和感を覚えてしまう。

 

 どうしようもなく、怖い、違和感を。

 

「――っ」

 

 それでも茅野は、グッとお腹に力を入れて、意を決して問い掛けた。

 

「――渚。……昨日、何かあったの?」

 

 その言葉で、その問い掛けで――渚の温和な笑顔が、まるで罅が入ったかのように、ピシッっと固まった。

 

「渚……変、だよ?」

 

 初夏に似つかわしくない肌寒い風が、二人の間を吹き抜けたような気がした。

 

 茅野は、胸の前で右手をギュッと握り、渚の言葉を待つ。

 

 渚は、そっと茅野から目を逸らし、そして――

 

 

「――ねぇ、茅野。茅野にはさ、将来の夢とかってある?」

 

 

 渚のそんな、投げ捨てるように無造作に、そしてどこかすごく寂しそうに呟き掛けられた言葉に、茅野は「……え?」っと、呆気にとられた。

 

 山道から見下ろす町並みを、渚は寂しそうな眼差しで見つめ――眺めながら、尚も続ける。

 

「夢じゃなくても、進みたい進路とか、憧れとか――――そうだね、なりたいもの、とか。茅野にはある?」

「え、えっと、そうだね……。まだ、未定、かな? ……いくら椚ヶ丘(うち)が進学校でも、この時期じゃあ、まだ決まってない人って多いんじゃない?」

 

 渚が少し様子がおかしくなってたのは、進路に悩んでたからなのかな? と茅野はそんな風に、宥めるように言う。

 

 確かに椚ヶ丘のような進学校――そして、そんな中でもE組に落とされたばかりの今のような時期では、そんな悩みを抱えダウナーになってしまう程に落ち込んでしまう者も、決して少なくはないだろう。

 

 だが茅野は、渚はそんなタイプでは――少なくとも表に出すようなタイプではないのではと思っていたので、この答えはおそらくは違うのだろうと感じている。

 

 もちろん、茅野は渚とはまだ数か月の付き合いだし、渚の変化も表に出ているという程に顕著ではない。親友の杉野も気づいていないようだったし、おそらく感じているのは自分とカルマ、神崎くらいのものだろう。

 

 しかし、それでも、渚の変化は――渚の変貌は、そういった類のものではなく、もっと深く、もっと危うい――

 

「――僕はさ、茅野。……ずっと、()()()()()()()()()ものがあったんだ」

 

 渚は、どこか遠くを見据えながら、淡々と語る。

 

「僕は、ずっとそうなることを願われてて、そうなることを強いられてて、そうなることを決められてた」

 

 まるで、遠くに行ってしまった何かに、失ってしまった何かに、思いを馳せるように、遥か彼方を見据えながら、滔々と語る。

 

「…………渚?」

「だから僕は、言われるがままに、されるがままに、動かされるがままに操作(うごか)されてきた。僕の人生はあの人のもので。あの人が主役の物語だった」

「渚っ!」

 

 きっと、今、渚が語っているのは、潮田渚という人間の根幹に関わる伏線(エピソード)で。

 

 これを最後までじっくりと聞いて、“それ”に渚と一緒に立ち向かえば、渚と一緒に乗り越えることが出来たら、きっと自分は、渚に対して特別な人間になれるのだろう。

 

 渚にとってのかけがえのない友達になれて、親友になれて、もっと深い存在になれるかもしれない。

 

 そして、潮田渚という人間を、救うことが出来るのかもしれない。

 

 でも、茅野はそれを止めようとした。話半分で止めようとした。

 

 だって、それほどの伏線(エピソード)を、己の根幹に関わる(トラウマ)を。

 

 

 こんなにも淡々と、易々と、冷たい瞳で、穏やかな笑顔で、流れるように語っている今の状態が、正常であるはずがない。

 

 

 危うい。今の渚は、見ていて痛々しくなるくらい危うかった。

 

「――でもね、今日、母さんに言われたんだ」

 

 それでも尚、渚は語る。

 

 己の基盤の歯車(なにか)を失ってしまったかのように、壊れてしまった機械のように、冷たく語る。

 

 

「“ごめんなさい。許してください”って。……ずっと、何度も、そう言うんだよ、茅野」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 昨夜。

 渚がガンツミッションを終え、自室に帰還した時、家の中は恐ろしく静かだった。

 

 当然のように真っ暗で、渚はとりあえずリビングへと降りた。

 

 人気がない。人の気配が、まるでなかった。

 

『……母さん?』

 

 何やら不気味に思い、家中を探索しても、どこにも母――広海はいなかった。

 

 

 結局、渚はミッションの疲れから、直ぐに泥のように眠ってしまい、起きたらいつもの起床時間よりも少し遅いくらいの時刻となっていた。

 

 そのまま体に染み込んだ動きにされるがままの状態で、制服に着替え、登校の準備をする。

 

 リビングに降りても、やはり広海の姿はなかった。

 

(……どうしたのかな、母さん)

 

 昨日、あんな戦争(こと)があったばかりだからか、妙に胸騒ぎがする。

 

 広海は仕事柄、急な出張や夜勤も珍しくない。だから、いつものことと言えばいつものことなのだが――

 

 とりあえず渚は、自分で朝食の準備をすることにした。

 前述の通り、広海は家を空けることが多いので、渚も自分の食事の準備をすることには慣れている。渚自身は料理が得意――というより好きというわけではないので、コンビニやスーパーの惣菜などで済ますことも多いのだが。

 

 今日も時間に余裕もないので、お手軽にシリアルで済まそうかとも思ったが、もしかしたら何か用事があってどこかに出掛けているだけで、朝食だけでも食べに帰ってくるかもしれない。と渚は考えた。

 

『………………』

 

 渚は、昨日は怒らせてしまったし、とフライパンでベーコンエッグを作り始めた。さすがにこれくらいは出来る。時間がないので味噌汁はインスタントでいいかなと考え、帰ってこなかったら今日の夕食にしようと思いながら手を動かしていると――――ぎぃ、と玄関の扉が開いたような気配を感じた。

 

 渚はピタッと手を止める。じゅぅぅっというベーコンエッグの焼ける音がリビングを満たす中、渚は背後に意識を集中させた。

 

 こんな朝から泥棒? でも、玄関には鍵がかかっていたはず……と思考しながらも、いつでも動けるように集中する渚。

 そして、リビングの扉が、ゆっくりと、恐る恐る開き、渚はバッと、咄嗟に持っていたフライ返しを向け――

 

『きゃぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!』

 

 え? と渚は呆気にとられた。

 

 泥棒のように身を縮ませながら、ゆっくりとリビングに入ってきたのは――渚の母、潮田広海その人だった。

 

『……母、さん?』

 

 渚は緊張させていた全身から力を抜く。

 そして、そのままエプロンで手を拭きながら、広海に近づいた。

 

『……えぇと、母さん。昨日は――』

『ごめんなさいっ!!』

 

 気まずげに広海に話し掛けた渚の言葉は、広海の絶叫のような謝罪の言葉に掻き消された。

 

 渚の頭が真っ白になる。広海が、自分(むすこ)に謝罪するなど――それも一方的に謝罪するなど、初めてのことだった。

 

 意味が分からず、茫然とする渚を余所に、広海は頭を下げながら――土下座しながら、何度も何度も床に額を叩きつけながら、狂ったように謝り続ける。

 

『ごめんなさい許してくださいごめんなさい許してくださいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!! 何でもします!! 何でもします何でもします!! どうか、どうかどうかどうかどうかっ!!』

 

 ギュッと身を縮ませ、ぶるぶると震えたように許しを請う。

 

 何が何だか分からなかった渚だが、ここで、ようやく、思い至った。

 

 

 そうだ。僕は、この人に――

 

 

 

――殺されたんだった。

 

 

 

 おそらく家にいなかったのは、自分が犯した罪に恐ろしくなったから。

 

 今、自分に謝っているのは、自分が手に掛けたくせに何もせずに逃げ出したことに対してなのか、それとも目の前にいる渚を自分に恨みを晴らしにきた幽霊だとでも思っているのか。

 

 どちらにせよ、渚の心は音を立てて軋んでいった。

 

 

 なんだ、これ?

 

 

『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 許してください!! 許してください許してください!! 許して許してお願いします!!』

 

 渚にとって母親とは、絶対者であり、創造主であり――物語(じんせい)主役(プレイヤー)だった。

 

『もうしません何もしません! 何もしません何もしません! だから……どうかっ……ごめんなさい……許してください……どうか……どうか……どうかっ』

 

 なのに、その主役(プレイヤー)が、二周目(アバター)に必死に許しを請うている。

 

 もう、何もしないと、教育(コントローラー)を手放している。

 

 これは、解放なのか? 僕は――潮田渚は、潮田広海(はは)二周目(じゅばく)から、解放されたのか?

 

 理解が追いつかない。現実に対応できない。

 

 渚は、土下座したまま一向に頭を挙げず、ただ許しを請い続ける広海の横を、鞄を肩に背負って、何も言わずに通り抜けた。

 

 玄関で靴を履く。背後からは、壊れたレコードのように広海の謝罪の声が響き続けていた。

 

 渚は無表情のまま、それを聞き流す。

 

 分からない。

 

 広海に殺されたことは、悲しいことのはずだ。

 

 二周目(はは)から解放されたことは、嬉しいことのはずだ。

 

 なのに、自分の心の、色が分からない。

 

 他人の顔を見れば、それが明るいか暗いか、危険かそれとも安全か、なんとなく分かるのに。

 

 自分の表情が――顔色が、心の色が、分からない。

 

 靴紐を結び終え、立ち上がる。

 

 ぐらりと、地面が歪んだ気がした。

 

(………え?)

 

 歪んでいない。沈んでいない。ちゃんと、固い、しっかりとした地面だ。

 

 今の感覚は、何だったのだろう。

 

『……………』

 

 渚は、しっかりと踏みしめるように、玄関を開け――エンドのE組へと登校した。

 

 残されたその部屋では、自身へのお経のように、広海の謝罪の呟きがいつまでも響き続けていた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――茅野。僕は、解放されたのかな?」

 

 

――僕は、幸せになったのかな?

 

 

 渚は、茅野の方を向かず、ただ遠い目で町並みを眺めながら、そう語り終えた。

 

 茅野は、何も言えなかった。

 渚の、自分が知らなかった事情(やみ)に対しても、そして、その今朝の一幕についても、言いたいことや、言葉に出来ない気持ちはあるけれど――それよりも、何よりも。

 

 語っている時の、語り終えた今の、渚の顔が、表情が、ずっと笑顔だったから。

 

 悲しそうな、寂しそうな、それでも嬉しそうな、そんな笑顔だったから。

 

「………………渚」

 

 茅野は、自身の表情を辛そうに歪めながら、自分の胸を右手で掻き抱く。

 

 もどかしい。渚に何の言葉も掛けてあげられないことが、もどかしい。

 そして、渚の表情から、渚自身が突然の解放(こと)で、色々な感情を持て余していることが伝わって、辛かった。

 

 なにか言わなければ。

 

 渚の、こんな表情を、引き出したのは自分だ。

 渚に、こんな事情(エピソード)を、語らせたのは自分だ。

 

 ただ教室の席が隣同士で、たまに一緒に帰って、ときたま教室でお喋りする。

 

 友達ではあるけれど、親友ではなく、ましてや恋人でもない。

 

 そんな身分で、そんな分際で、渚の闇に――抱えているものに、踏み込んだのは自分だ。

 

 だから、何か――

 

 茅野がそんな葛藤をしているのを余所に、しばらく口を閉ざしていた渚が、再び語り始める。

 

 

「…………茅野。僕は、これから……どんな風に、生きていけばいいんだろう?」

 

 

 茅野は、開きかけた口を――――噛み締めるように閉じた。

 

 渚は渚らしく生きればいいんだよ、とか。

 そのうちやりたいこととか、なりたい職業とか、きっと見つかるよ、とか。

 

 そんなことを言えばいいのだろうか。そんなことを言って、何になるというのだろうか。

 

 ここで、自分が今まで演じてきた人物(キャラクター)達ならば、あんな風に悲しそうな顔をする主役(しゅじんこう)の闇を、一発で吹き飛ばして、笑顔に変えるような、そんな心に響く一言(セリフ)を言えるのだろう。

 

 そして、こんな場面で、こんなふうに踏み込むならば、自分はきっと、そんな登場人物(ヒロイン)であるべきだった。そうでなくては、いけなかった。

 

 でも、出てこなかった。何の言葉も、セリフも、出てこなかった。

 

 だって、ここには台本なんてなくて。これは決められた筋道(シナリオ)がある物語(ドラマ)なんかじゃなくて。

 

 ただの、普通の、ありふれた、友達との学校帰りの一幕で。

 

 とても重要な、青春の一幕で。

 

 絶対に、間違ってはいけない分岐点(シーン)だった。

 

 

「………帰ろうか、茅野」

 

 答えを待つことを諦めたのか、それとも初めから答えは求めていなかったのか。

 

 渚は再び前を向き、俯きながら下を向き、山道を下り――下校を再開する。

 

「………ぁ」

 

 茅野はそんなか細い声を漏らしながら、その小さな背中に向かって手を伸ばす。

 

 でも、相変わらず喉から言葉は出てこない。誰かの言葉ではなく、自分の言葉として届けるのが、こんなに怖いことだとは思わなかった。

 

 それでも、何か言わなくちゃ。だって、渚は、あんなにも辛そうで――――あんなにも、危うい。

 

 きっと、ここで何かを言わないと、何かを届けないと、何かを伝えないと。

 

 何か、取り返しのつかないことになってしまう。渚が、取り返しのつかない方向へ――――変わってしまう。

 

 進んではいけない路へ、足を踏み入れてしまう。

 

「……………………っ」

 

 茅野は、一歩を――――踏み出せなかった。

 

 渚の背中が、完全に視界から消えた。

 

 茅野は、瞳から涙を溢れさせ、その場にしゃがみ込んでしまう。

 

「…………なぎさぁ」

 

 ……ごめん、なさい。

 

 その少女の、演じることに全てを捧げた少女の、偽りなき台詞(ざんげ)は、掠れた呟きは、水色の少年には、届かなかった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 気が付いたら下山していて、人が混み合う駅前だった。

 

「…………あれ?」

 

 ふと俯いていた顔を上げると、周りは忙しなく帰宅ラッシュする大人達で、一緒に帰っていたはずの緑髪の少女はいなかった。

 

(…………歩くの早すぎたかな。…………悪いことしちゃったな)

 

 携帯で連絡を取り合えば合流できるかもしれないけれど、既に椚ヶ丘駅はすぐそこだし、いつも茅野とは駅前で別れるので、わざわざ合流することもないだろう。

 

 はぐれてしまった謝罪と先に帰る旨をメッセージアプリで送信する。

 そして、一時的に前を見ずに携帯画面に注視していた渚は、対向者とぶつかってしまった。

 

「あっ、ごめんなさ――」

 

 その瞬間、渚は昨日、同じようなことがあり――その時にぶつかった人は、まるで渚を認識し(みえ)ていないかのように無反応で去っていったことを思い出し、表情を消した。

 

 だが、今回ぶつかった人は、そのように去っていくこともなく、むしろ立ち止まって、よろけた渚を支えてくれた。

 

「いえいえ、こちらこそ注意が足りずに申し訳ありません」

 

 声は大分上の方から聞こえた。

 渚が男としては小柄なことを差し引いても、背が高い男のようだった。身体もがっしりしているが、決して鍛え過ぎてはおらず、他者に威圧感や警戒心を与えない体つきだった。

 

 そして、優しい声の持ち主だった。聞くだけで荒んだ心を癒してくれるような声色。

 

 渚はその男を見上げる。

 黒い髪に、整った顔立ち。だが、日本人ではないような印象を受けた。

 

 その男は、渚と目が合うとピクリと動きを止め――――そして、慈しむように微笑んで、こう言った。

 

 

「――すばらしい才能をお持ちですね」

 

 

 

 そして、渚は――――『死神』と出会った。




というわけで渚回でした。

次回は、ちょっとした幕間的なお話し。

そして、その後には再び八幡の登場です。

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