アカギ〜実力至上主義の教室に舞い降りた天才〜   作:GC

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実力至上主義の教室に舞い降りた天才

 煙草の匂いがしない。

 

 目を覚ましてまず気づいたのは、それだった。

 いつもなら、意識が浮かび上がってくる過程のどこかに、煙草と、安酒と、雀卓に染み付いた人間の脂の匂いが混じっているはずだった。だが今はどこにもそれがない。代わりにあるのは、消毒液のような、やけに清潔な匂いだ。

 

 最後に覚えているのは――

 

 市川との最後の局。嶺上から引いた一枚で、あの男の細工がそのまま自分の手に転がり込んできた瞬間の、掌の感触。周りの誰かが息を呑む音。点棒が動く、乾いた音。

 

 勝った直後、俺は「このまま死ぬまでやろう」と言った。持ち点も、命も、何一つ残らないところまで付き合え、と。

 だが、頷いた者は誰もいなかった。市川の側も、俺を連れてきた側も、同じ顔で首を振った。守られた。片付けられた。

 

 差し出された金を、何も言わずに受け取った。数えもしなかった。数える意味などなかった。

 

 つまらなそうな顔をしていたと思う。自分でもそう思うくらいには。

 

 踵を返して、闇の中を歩き出した――そこで、記憶が途切れている。

 

 だが今、目の前にあるのは、あの夜の暗がりではない。

 

 俺は、白い天井を見上げていた。

 

 継ぎ目がどこにもない。染みも、雨漏りの跡もない。ただ均一に白く、均一に明るい。見ているだけで、妙な居心地の悪さを覚える白さだった。

 

 体はどこも痛まない。骨の軋みも、殴られた頬の熱も、指先の痺れすらない。ゆうべの激闘の名残が、綺麗さっぱり消えている。それが逆に、得体の知れなさを連れてきた。

 

 起き上がり、部屋を見回す。

 畳はない。木の匂いもしない。壁は継ぎ目一つ見当たらないほど滑らかで、触れてみても冷たいだけで、木でも土でも漆喰でもない何かだった。窓は小さく、外の音は一切届かない。天井の隅から、白い光が均一に降ってきているが、裸電球も蛍光灯の管も見当たらない。紐もスイッチもない。それでいて、部屋のどこにも影らしい影ができていなかった。

 

 寝ていたものに触れてみる。綿でも藁でもない、妙に弾みのある詰め物だ。布団特有の重みもない。

 

 部屋の隅には、扉のついた収納があった。開けてみると、中は空だった。着替えも、私物も、何一つ入っていない。まっさらな箱に、まっさらな人間を放り込んだ――そんな造りだった。

 

 水の流れる音がどこかからしたが、確かめる気にはならなかった。腹は減っていない。喉も渇いていない。今は、それだけで十分だった。

 

 ――こういうものだと、思うことにした。

 

 着ている物も違う。見慣れない詰襟の制服が、枕元に畳んで置かれている。

 部屋の隅、壁の一面が鏡のように滑らかだった。近づいて覗き込む。映っているのは、いつもの白い頭と、痩けた頬だ。老けても、若返ってもいない。あの夜のままの顔が、そこにあった。

 

 妙な話だ。体は無傷、顔も変わらない。それでいて、何もかもが違う。

 

 ……考えたところで、答えは出ない。

 

 机の上には、紙が一枚だけ置かれていた。

 

 『高度育成高等学校 1年Dクラス 赤木しげる』

 

 俺の字ではない、几帳面な字で書かれていた。

 どこの誰が用意したのかは知らない。訊く相手もいない。

 

 ……まあいい。

 

 わからないことを、わからないままにしておくのは嫌いじゃない。むしろ、最初から手の内が全部見えている勝負ほどつまらないものはないと、そう思って生きてきた。

 台が変わっただけだ。

 

 俺は制服の襟を軽く直すと、名前の書かれた紙だけを懐にしまい、部屋を出た。

 

 外に出た瞬間、一拍、足が止まった。

 

 瓦屋根も、電信柱も、土埃の匂いもない。舗装された道はどこまでも継ぎ目なく続き、走っているのは音もなく滑るように動く箱型の乗り物ばかりだった。空気は生ぬるくも冷たくもなく、風の匂いさえしない。行き交う人間の着ている物、話す速さ、目の動かし方――何もかもが、俺の知っている街の姿と噛み合わない。

 

 ……まあいい。

 

 どこの時代だろうと、どこの街だろうと、卓に着けば同じことだ。ここが盆かどうかだけが問題だった。

 

 似たような詰襟を着た連中が、みな同じ方向へ歩いていく。誰かに訊く気もなかったので、俺もその流れに乗った。訊かなくても、行けばわかる。行かなくても構わないが、他にやることもない。

 

 歩きながら、連中の顔を眺める。緊張と期待の入り混じった、どこにでもある新入生の顔だ。誰一人として、これから何が始まるのか、本当のところは知らない。それは俺も同じだった。ただ、知らないことを不安に思うか、面白がるかの違いだけがある。

 

 俺の側には、後者しかない。

 

 

 

 

 流れ着いた先は、広い講堂だった。

 詰め込まれた新入生たちは、誰もが似たような顔をしていた。期待と不安が半分ずつ、あとの半分は「早く終わってくれ」という、正直な退屈。制服の匂いはまだ真新しく、糊の効いた布の匂いと、消毒液に似た匂いが薄暗い館内に混じっていた。俺には、そのどれもが遠い雑音にしか聞こえなかった。

 

 席に着くと、係の人間が列ごとに何かを配って回っていた。回ってきたのは、朝方あの部屋で見た薄い板と同じものだった。

 

 隣の生徒は、慣れた手つきで表面を撫でている。指の動きに合わせて、光る面の中身が次々と変わっていくのが見えた。生まれた時からそうしてきたような、迷いのない指の運びだった。

 

 誰も彼も、同じように当たり前の顔でその板を扱っている。この講堂の中で、こんなものを初めて見ているのは、俺一人だけらしい。

 

 ……それも、悪くない。

 

 俺も、同じように指を這わせてみる。

 一度だけ、板の中ほどが淡く光った。何か文字らしきものが浮かんだ気がしたが、瞬きの間に消えた。もう一度、同じ場所を同じ強さで押す。何も起きない。場所を変えても、力を変えても、二度とあの光は戻らなかった。

 

 ……つまらん道具だ。

 

 深追いする理由もない。俺は板を懐にしまい込んだ。牌なら、掌に馴染むまで千回でも万回でも触れる。だが、こんな薄い板に人生を賭ける気にはならない。

 

「――ねえ、キミも新入生?」

 

 声をかけてきたのは、隣の席の男だった。愛想笑いを浮かべ、何か話の接ぎ穂を探している目をしている。

 俺は、答えなかった。相手は少し気まずそうな顔をして、すぐに別の誰かへと話しかけに行った。会話とは、勝負をするに値する相手かどうかを見極めた後にするものだ。今はまだ、その段階じゃない。

 

 壇上に立った教師が、この学校の建前を語り始めるまでは、退屈な時間が続くはずだった。

 

「――この学校において、諸君らを評価するのは学力や身体能力だけではありません。日々の生活態度、協調性、規律。それらすべてが数値化され、クラスポイントとして各クラスに支給されます」

 

 どこにでもある話だ、と思った。

 だが、続く一言で、空気が変わった。

 

「クラスポイントの低いクラスは、学年末に降格します。逆もまた然り。そして――このポイントは、生徒個人にも紐づく『プライベートポイント』として支給され、学内のあらゆる物品、あらゆる便宜と交換可能です。金銭に等しいものだと考えてください」

 

 ふうん。

 

「なお、本校には転校も、退学の撤回もありません。一度Dクラスに落ちれば、這い上がるのは容易ではない。そして――」

 

 教師の声は淡々としていた。感情を込めるでもなく、原稿を読み上げているだけのようにも聞こえる。だからこそ、余計に始末が悪かった。これはただの脅し文句じゃない、実際にそういう仕組みになっている――そう聞こえるからだ。

 

 教師は、そこで一拍置いた。

 わざとらしい間だ、と思った。だが、悪くない間だとも思った。緊張を煽るための、計算された沈黙。

 

「――然るべき条件を満たせなかった生徒は、退学となります」

 

 講堂の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。

 だが、それも一瞬のことだった。新入生たちの大半は、すぐにまた気の抜けた顔に戻っていく。まさか自分がそんな目に遭うはずがない。誰もがそう高を括っている顔だった。

 

(――こいつら、わかってねえな)

 

 俺は、その温度差に気づいた。

 

 この場にいる人間のほとんどは、今語られたことを「学校の規則」として聞いている。少し厳しい校則。真面目にやっていれば関係のない話。そういう顔をしている。

 

 だが、違う。

 

 今、壇上の男が語ったのは、規則の話じゃない。

 これは――賭場の話だ。

 

 持ち点を配られ、それを使って卓に着く。負けが込めば持ち点は減り、ゼロになれば席を立たされる。そして、ここでの「席を立つ」は、そのまま人生の先行きを決める。大学、就職、その後の何十年。

 

 高校生活という顔をした、命懸けの代打ちだ。しかも、面白いことに、その卓に座らされている本人たちはまだそれに気づいていない。負けが込んでも次がある、そう思っている顔で、今まさに人生を賭けた勝負が始まっていることを知らない。

 

 膝の上で、指先が微かに動いた。癖のようなものだ。牌を弾く時の感覚が、掌の記憶に残っている。今、この手には何もないのに。

 

 思えば、どんな勝負も同じだった。負けを恐れる人間ほど、肝心な一打で手が止まる。今しがた壇上の言葉に一瞬だけ張り詰め、すぐにまた緩んでいったこの講堂の連中も、いずれ同じように手を止める側の人間なんだろう。

 

 死ねば助かる。何度も、そう思ってきた。恐れが先に立つから、人は踏み込めない。恐れさえ捨てちまえば、あとは通るか通らないか、それだけの話だ。この学校の連中は、まだそれを知らない。退学という言葉の重さを、頭では理解していても、腹の底では信じていない。

 

(面白い)

 

 久しぶりに、そう思った。

 

 俺はゆっくりと視線を巡らせた。

 講堂を埋め尽くす新入生たちは、まだ何も気づいていない。今聞いたばかりの言葉が、自分たちの首にかかった見えない縄だということに。

 

 その中で、ただ一人だけ様子が違う生徒がいた。

 遠く離れた席で、他の誰とも違う目をした男が、壇上を静かに見つめていた。表情はない。だが、その無表情の質が、周りの生徒たちの「気の抜けた無表情」とは、明らかに種類が違った。周りに溶け込むことに全力を注いでいる――そんな無表情だった。何かを隠している人間の顔だ。

 

(……あいつも、聞こえてる口か)

 

 誰なのかは知らない。訊くつもりもない。

 この学校に、卓を囲むに値する人間が何人いるのか。それを確かめるのは、これから先の話だ。

 

 式が終わり、新入生たちがぞろぞろと講堂を出ていく。

 俺はその流れの中に、ゆっくりと混じった。

 

 どうやって、この体にこの制服を着せられたのか。

 どうして、赤木しげるという名前で学生証まで用意されていたのか。

 

 わからない。

 

 だが――卓に着く理由なら、今、はっきりと見えた。

 

 この学校そのものが、盆だ。

 そして俺は、盆から目を逸らしたことなど、一度もない。

 

 退学。

 この学校が用意した、もう一つの去り際だ。

 

 あの夜は、つまらなそうな顔一つで済ませた。持ち点も、命も残さずに済むところまで付き合えと言って、誰にも頷いてもらえなかった。守られ、片付けられ、それで終わった。

 

 今度は、同じ顔じゃ終わらせねえ。

 この盆に、頷かせてやる相手が何人いるのか――それを確かめるところから始めればいい。

 

 講堂を出た廊下の先で、誰かが弾んだ声で今しがたの式について喋っていた。「厳しそうだけど、ちゃんとやればいいんでしょ」――そんな声だった。

 

 ちゃんとやれば。

 

 その言葉の軽さが、かえって心地よかった。まだ何もわかっていない連中が、これからどんな顔に変わっていくのか。それを見届けるだけでも、この学校に居座る理由にはなる。

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