第1話「実力至上主義の教室に舞い降りた天才」
煙草の匂いがしない。
目を覚ましてまず気づいたのは、それだった。
いつもなら、意識が浮かび上がってくる過程のどこかに、煙草と、安酒と、雀卓に染み付いた人間の脂の匂いが混じっているはずだった。だが今はどこにもそれがない。代わりにあるのは、消毒液のような、やけに清潔な匂いだ。
最後に覚えているのは――
市川との最後の局。あの男が仕込んだドラが、そっくりそのまま俺の手の中で開いた瞬間の、掌の感触。周りの誰かが息を呑む音。点棒が動く、乾いた音。
勝った直後、俺は「このまま死ぬまでやろう」と言った。有り金も、この先の何もかも、何一つ残らないところまで付き合え、と。
だが、頷いた者は誰もいなかった。市川の側も、俺を連れてきた側も、同じ顔で首を振った。守られた。片付けられた。
差し出された金を、何も言わずに受け取った。数えもしなかった。数える意味などなかった。
つまらなそうな顔をしていたと思う。自分でもそう思うくらいには。
踵を返して、闇の中を歩き出した――そこで、記憶が途切れている。
だが今、目の前にあるのは、あの夜の暗がりではない。
俺は、白い天井を見上げていた。
継ぎ目がどこにもない。染みも、雨漏りの跡もない。ただ均一に白く、均一に明るい。見ているだけで、妙な居心地の悪さを覚える白さだった。
体はどこも痛まない。骨の軋みも、殴られた頬の熱も、指先の痺れすらない。ゆうべの激闘の名残が、綺麗さっぱり消えている。それが逆に、薄気味悪かった。
起き上がり、部屋を見回す。
畳はない。木の匂いもしない。壁は継ぎ目一つ見当たらないほど滑らかで、触れてみても冷たいだけで、木でも土でも漆喰でもない何かだった。窓は小さく、外の音は一切届かない。天井の隅から、白い光が均一に降ってきているが、裸電球も蛍光灯の管も見当たらない。紐もスイッチもない。それでいて、部屋のどこにも影らしい影ができていなかった。
寝ていたものに触れてみる。綿でも藁でもない、妙に弾みのある詰め物だ。布団特有の重みもない。
部屋の隅には、扉のついた収納があった。開けてみると、中は空だった。着替えも、私物も、何一つ入っていない。まっさらな箱に、まっさらな人間を放り込んだ――そんな造りだった。
水の流れる音がどこかからしたが、確かめる気にはならなかった。腹は減っていない。喉も渇いていない。今は、それだけで十分だった。
――こういうものだと、思うことにした。
着ている物も違う。見慣れない詰襟の制服が、枕元に畳んで置かれている。
部屋の隅、壁の一面が鏡のように滑らかだった。近づいて覗き込む。映っているのは、いつもの白い頭と、痩けた頬だ。老けても、若返ってもいない。あの夜のままの顔が、そこにあった。
妙な話だ。体は無傷、顔も変わらない。それでいて、何もかもが違う。
……考えたところで、答えは出ない。
机の上には、紙が一枚だけ置かれていた。
『高度育成高等学校 1年Dクラス 赤木しげる』
俺の字ではない、几帳面な字で書かれていた。
几帳面な字のわりに、名前の下に並んだ細かい欄は、一つだけ埋まっていなかった。
どこの誰が用意したのかは知らない。訊く相手もいない。
……まあいい。
わからないことを、わからないままにしておくのは嫌いじゃない。むしろ、最初から手の内が全部見えている勝負ほどつまらないものはないと、そう思って生きてきた。
台が変わっただけだ。
俺は制服の襟を軽く直すと、名前の書かれた紙だけを懐にしまい、部屋を出た。
外に出た瞬間、一拍、足が止まった。
瓦屋根も、電信柱も、土埃の匂いもない。舗装された道はどこまでも継ぎ目なく続き、走っているのは音もなく滑るように動く箱型の乗り物ばかりだった。空気は生ぬるくも冷たくもなく、風の匂いさえしない。行き交う人間の着ている物、話す速さ、目の動かし方――何もかもが、俺の知っている街の姿と噛み合わない。
……まあいい。
どこの時代だろうと、どこの街だろうと、卓に着けば同じことだ。ここが盆かどうかだけが問題だった。
似たような詰襟を着た連中が、みな同じ方向へ歩いていく。誰かに訊く気もなかったので、俺もその流れに乗った。訊かなくても、行けばわかる。行かなくても構わないが、他にやることもない。
歩きながら、連中の顔を眺める。緊張と期待の入り混じった、どこにでもある新入生の顔だ。誰一人として、これから何が始まるのか、本当のところは知らない。それは俺も同じだった。ただ、知らないことを不安に思うか、面白がるかの違いだけがある。
俺の側には、面白がる方しか残っていない。
流れ着いた先は、広い講堂だった。
詰め込まれた新入生たちは、誰もが似たような顔をしていた。期待と不安が半分ずつ、あとの半分は「早く終わってくれ」という、正直な退屈。制服の匂いはまだ真新しく、糊の効いた布の匂いと、消毒液に似た匂いが薄暗い館内に混じっていた。俺には、そのどれもが遠い雑音にしか聞こえなかった。
席に着くと、係の人間が列ごとに何かを配って回っていた。回ってきたのは、薄い板だった。
隣の生徒は、慣れた手つきで表面を撫でている。指の動きに合わせて、光る面の中身が次々と変わっていくのが見えた。生まれた時からそうしてきたような、迷いのない指の運びだった。
誰も彼も、同じように当たり前の顔でその板を扱っている。この講堂の中で、こんなものを初めて見ているのは、俺一人だけらしい。
妙だとも思わなかった。戸惑い方は、随分前に忘れちまった。
……それも、悪くない。
俺も、同じように指を這わせてみる。
一度だけ、板の中ほどが淡く光った。何か文字らしきものが浮かんだ気がしたが、瞬きの間に消えた。もう一度、同じ場所を同じ強さで押す。何も起きない。場所を変えても、力を変えても、二度とあの光は戻らなかった。
……つまらん道具だ。
深追いする理由もない。俺は板を懐にしまい込んだ。牌なら、掌に馴染むまで千回でも万回でも触れる。だが、こんな薄い板に人生を賭ける気にはならない。
「――ねえ、キミも新入生?」
声をかけてきたのは、隣の席の男だった。愛想笑いを浮かべ、何か話の接ぎ穂を探している目をしている。
俺は、答えなかった。相手は少し気まずそうな顔をして、すぐに別の誰かへと話しかけに行った。見極めもつかねえ相手と、交わす言葉を持っていない。今はまだ、その段階じゃない。
壇上に立った教師が、この学校の建前を語り始めるまでは、退屈な時間が続くはずだった。
「――この学校において、諸君らを評価するのは学力や身体能力だけではありません。日々の生活態度、協調性、規律。それらすべてが数値化され、クラスポイントとして各クラスに支給されます」
どこにでもある話だ、と思った。
だが、続く一言で、空気が変わった。
「クラスポイントの高低は、そのままクラスの序列となります。上がることもあれば、下がることもある。そして――諸君ら個人には、別途『プライベートポイント』が毎月支給されます。学内のあらゆる物品、あらゆる便宜と交換可能です。金銭に等しいものだと考えてください」
ふうん。
「なお、本校に転校はありません。一度この学校を去った生徒が、戻ってくることもありません。そして――」
教師の声は淡々としていた。感情を込めるでもなく、原稿を読み上げているだけのようにも聞こえる。だからこそ、余計に始末が悪かった。これはただの脅し文句じゃない、実際にそういう仕組みになっている――そう聞こえるからだ。
教師は、そこで一拍置いた。
わざとらしい間だ、と思った。だが、悪くない間だとも思った。
「――然るべき条件を満たせなかった生徒は、退学となります」
講堂の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。
だが、それも一瞬のことだった。新入生たちの大半は、すぐにまた気の抜けた顔に戻っていく。まさか自分がそんな目に遭うはずがない。誰もがそう高を括っている顔だった。
(――こいつら、わかってねえな)
俺は、その温度差に気づいた。
この場にいる人間のほとんどは、今語られたことを「学校の規則」として聞いている。少し厳しい校則。真面目にやっていれば関係のない話。そういう顔をしている。
だが、違う。
これは――賭場の話だ。
点を配り、その増減で席を決める。最後まで座っていられる者と、立たされる者を分ける。
しかも、その卓に座らされている本人たちは、まだそれに気づいていない。
隣の席の男子が、小声で話しかけてきた。
「なあ、今の聞いた? 退学だって」
「ああ」
「でもさ、普通やんないだろ。入学したばっかの生徒を退学とか、学校側だって困るじゃん」
「そうかもな」
「だよな。脅しだよ脅し。最初にビビらせとくやつ」
男子は自分で言って自分で安心した顔をした。
「お前、名前は」
「赤木」
「俺、池。よろしくな」
それだけ言って、前に向き直った。
脅しだと思えるうちは、まだ何も賭けていないということだ。
膝の上で、指先が微かに動いた。癖のようなものだ。牌を弾く時の感覚が、掌の記憶に残っている。今、この手には何もないのに。
それでも指は、まだ何かを弾こうとしている。忘れるってのは、案外難しいもんらしい。
負けを恐れる人間ほど、肝心な一打で手が止まる。
恐れが先に立つから、人は踏み込めない。捨てちまえば、あとは通るか通らないか、それだけの話だ。
この学校の連中は、退学という言葉の重さを、頭では理解していても、腹の底では信じていない。
(面白い)
久しぶりに、そう思った。
俺はゆっくりと視線を巡らせた。
講堂を埋め尽くす新入生たちは、まだ何も気づいていない。
その中に、一人だけ、気の抜け方が揃っていない生徒がいた。
通路を挟んだ数列先。さっき壇上で退学という言葉が出た時、周りの肩が一斉に強張り、そしてまた緩んだ。そいつの肩だけが、最初から最後まで動かなかった。表情もない。ただ、動かないという一点だけが、周りと揃っていなかった。
(……あいつも、聞こえてる口か)
誰なのかは知らない。訊くつもりもない。
この学校に、卓を囲むに値する人間が何人いるのか。それを確かめるのは、これから先の話だ。
式が終わり、新入生たちがぞろぞろと講堂を出ていく。
人波の底に、床を突く固い音が一つだけ紛れていた。歩調に合わない音だった。
俺はその流れの中に、ゆっくりと混じった。
どうやって、この体にこの制服を着せられたのか。
どうして、赤木しげるという名前の紙が、あの机に置かれていたのか。
わからない。
だが――卓に着く理由なら、今、はっきりと見えた。
この学校そのものが、盆だ。
そして俺は、盆から目を逸らしたことなど、一度もない。
退学。
この学校が用意した、もう一つの去り際だ。
あの夜は、つまらなそうな顔一つで済ませた。有り金も、この先も、何一つ残さずに済むところまで付き合えと言って、誰にも頷いてもらえなかった。守られ、片付けられ、それで終わった。
今度は、同じ顔じゃ終わらせねえ。
この盆に、頷かせてやる相手が何人いるのか――それを確かめるところから始めればいい。
講堂を出た廊下の先で、さっきの男が別の連中に囲まれていた。
「なあなあ、聞いた? 退学あるってよ」
「えー、こわ。でも厳しそうだけど、ちゃんとやればいいんでしょ?」
「そうそう。真面目にやってりゃ関係ねえって」
笑い声が上がった。
ちゃんとやれば。
その言葉の軽さが、かえって心地よかった。
どの卓にも、いつかは終わりが来る。台が変わっただけの、この盆もきっと例外じゃねえ。
だが、退場の仕方くらいは、自分で選びてえもんだと思った。
この物語に恋愛要素をいれるべきか
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必要
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一切不用
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少しみたい